2015/11/17 - 2015/11/18
815位(同エリア2470件中)
旅人のくまさんさん
- 旅人のくまさんさんTOP
- 旅行記6398冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 5,390,294アクセス
- フォロワー204人
世界文化遺産の厳島神社の紹介です。平家による信仰で有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられました。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けますが、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で、建物の全てを焼失しました。
- 交通手段
- 観光バス 新幹線
-
イチオシ
厳島神社のシンボルとも言える、赤い『大鳥居』の光景です。神社の沖合、約200メートルの場所に建てられています。柱と控えの柱を含めて6本ありますが、正面からの光景ですから、重なって、下部が太い2本の柱のように見えています。
-
海上に建つ厳島神社の回廊から眺めた、周りの回廊や社殿の光景です。同社の御由緒からの紹介です『安芸守となった平清盛が当社を篤く崇敬し、仁安3年(1168年)に寝殿造の様式を取り入れた御社殿に修造した。清盛の官位が上がるにつれ平家一門のみならず、承安4年(1174年)に、後白河法皇の御幸(ごこう)、治承4年(1180)3月と9月に高倉上皇の御幸』などが紹介されていました。
-
檜皮葺の屋根の上に降り積もった、落ち葉の光景です。背後に見える公孫樹の大木が葉を散らし始めていました。黄葉の始まりで、まだ半分ほどは緑の葉の状態でした。厳島神社の境外になるのでしょうか、朱塗りの建物ではありませんでした。
-
『卒塔婆石』のタイトルがあったの紹介です。平康頼は俊寛、藤原成経とともに鬼界ヶ島(薩摩硫黄島)に島流しになります。都に帰りたいと願い、平康頼は二首の歌を作り、1000本の卒塔婆に書いて流します。その1本が厳島神社に流れ着きました。そのことが京都で評判になり、平清盛は平康頼を許し、鬼界ヶ島から帰還できました。平家物語に記されていたようです。
-
イチオシ
先ほど紹介した卒塔婆石が、右手に見える石の容器のようです。伝承を分かりやすく伝えるために、池の中にセットされているようでした。その左手に説明立札がありました。『平家物語』が広く読まれていた時代、今でいう、観光スポットになっていたようです。『平家物語』は、日本の鎌倉時代に成立したとされる軍記物語ですが、作者は不明です。万葉集の『詠み人知らず』と同じ意味かも知れません。
-
厳島神社の回廊越しに眺めた五重塔の光景です。五重塔は厳島神社ではなく、豊臣秀吉が創建した豊国神社(千畳閣)に関連する国の重要文化財の建物です。完成する前に秀吉は亡くなりました。『卒塔婆石』に関わる『鹿の谷事件』のことをもう少し詳しく紹介します。『治承元年(1177年)、大納言藤原成親(なりちか:1138~1179年)を中心とする後白河上皇の近臣たち(俊寛僧都、西光法師、平康頼ら)の平家打倒の企みは、事前に平清盛に知られ、計画の首謀者たちは捕らえられ、処罰されました。いわゆる『鹿の谷(ししのたに)事件です。この後も紹介が続きますが、『み熊野ネット』の現代語訳や『ウィキペディア』を参照しました。
-
写真は、回廊の軒下から眺めた、豊国神社(千畳閣)と五重塔の光景です。右手にある五重塔は、頭がはみ出してしまいました。『鹿の谷事件』の続きです。『西光法師は、その子らとともに処刑されました。首謀者の藤原成親は、当然死罪になるべきところを、成親の妹を妻にしている平重盛(清盛の嫡男)の必死の説得により、流罪となりました』
-
写真は、回廊の軒下から眺めた、豊国神社(千畳閣)の五重塔の光景です。『成親の嫡男・成経(なりつね)も捕えられ、やはり流罪になりました。成親は備前(岡山県)の児島に流され、成経は、平康頼(やすより)・俊寛僧都(しゅんかんそうず)の2人とともに、薩摩(鹿児島県)の南方海上にうかぶ鬼界ケ島(きかいがしま)に流罪になりました』、平安時代、京の都から南の果てまで、随分と遠い島流しです。
-
写真は、回廊の軒下から眺めた、豊国神社(千畳閣)の光景です。『南海の孤島、鬼界ケ島に流された成経、康頼、俊寛の3人です。藤原成経(生年未詳~1202年)は、陰謀の首謀者・成親の嫡男です。この事件当時、右近衛少将で丹波守でした。清盛の弟の教盛(のりもり)の娘を妻にしているため、教盛に救われました』、平康頼は、明法道(法律)の家柄・中原氏の出身ですが、若くして平氏を名乗りました。
-
写真は、回廊の軒下から眺めた、豊国神社(千畳閣)と五重塔の光景です。『平康頼(1146?~1120年)』は、十代で平保盛(平清盛の甥)の家人となり、その頃から平氏を名乗ったようです。保盛に従って赴任した尾張国知多郡野間の荘には、平治の乱で亡くなった、源義朝(源頼朝の父)の墓があり、敵将の墓を修理して弔ったことが京にも伝わり、後白河法皇にも達し、やがて近習に取り立てられました。
-
写真は、日本一の規模とされる回廊のズームアップ光景です。康頼の行いは、『清盛はじめ平家一門からも、武士の鑑、一門の名を高めたとして好評判でした』、また、『任官と同時に、上皇の近習にとり立てられ、半月もたたない仁安4年(1169年)1月14日、後白河上皇12回目の熊野参詣には、早くも近習として供を命ぜられ、嘉応元年(1170年)4月20日の東大寺参詣にも随行しました』
-
イチオシ
『後白河上皇は今様を非常に愛好していて、多くの公家や官人にも教えていました。康頼も門弟の一人となりましたが、美声で声量もあり、抜きん出た歌い手だったようです。その点でも、上皇から特に目をかけられていたようです。検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官と称しました』、『今様(いまよう)』は、平安時代中期に生まれた、当時の『流行歌』です。
-
平家物語によれば、『信仰心の厚かった康頼は配流にあたり出家入道し性照と号しました。配流先で京を懐かしむ日々の中、成経と康頼は千本の卒塔婆に望郷の歌2首を記し海に流すことを思い立ちました。一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行った』と記しています。写真は、回廊の側面光景です。大勢の見学者は、一方通行での案内だったようです。
-
『治承2年(1178年)、赦免船が来島し、成経と康頼は赦免されて京へ戻りますが、俊寛僧都は許されませんでした。康頼は帰京後、伯母が尼となって身を寄せていた東山の雙林寺で、仏教説話集「宝物集」を編集執筆しました。鬼界が島に一人残された俊寛僧都は、数年後に都から、はるばる訪ねて来た弟子の有王の世話をうけながら、自ら絶食して生命を絶ちました』
-
壇ノ浦の戦いに敗れ、平家が滅亡したのは、 寿永4年(1185年)でした。俊寛僧都の弟子の有王は、主人を火葬して骨を持ち帰り、高野山に埋葬しましたが、康頼はその分骨をゆずり受けて、壇の下に葬ったとも言われています。康頼は、歌人としても優れ、『千載和歌集』(4首)、勅撰和歌集にも6首が採録されています。
-
写真は、赤い柱が格子に組まれた、回廊の天井部分の光景です。『康頼は、文治2年(1186年)、源頼朝(1147~1199年)により、阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命されました。 康頼は京より森藤の地に下向しました。康頼は41歳になっていました。康頼は承久2年(1220年)頃、自らの生涯75年間の出来事を記録し、一通を京都の雙林寺へ送り、一通は玉林寺に残し、その年に大往生しました』
-
写真は、回廊に従って行き着いた、講堂のような社殿の光景です。康頼の紹介の続きです。『方一丁の土地、通称一町地で火葬され、遺言で家人の鶴田氏が康頼神社を建て主君を神として祀り代々祭司を務めました。康頼神社の脇に墓があります。遺骨は分骨されて、京都東山の雙林寺にも埋葬されました。康頼神社の脇に三基の五輪塔がありますが、康頼の母、康頼、俊寛僧都の3人のものといわれています』
-
『康頼の嫡男・平清基は、承元年中(1207~1211年)に保司職を継承しました。鎌倉3代将軍・源実朝(1192~1219年)が死去する頃には、幕府は執権の北条氏が頼朝以来の有力な御家人・門葉を排除し、実権を掌握していました。後鳥羽上皇は諸国の広大な荘園を再び取り返そうと、全国の武士に北条義時追討の院宣を下しました』、しかし目的は達しませんでした。康頼に関する紹介は、これでお終いです。
-
13世紀の初め頃に、二度の火災に遭い、現在残る社殿は、仁治年間(1240~1243年)以降に造営されたものです。厳島は、神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは地御前神社(外宮)において主な祭祀が行われていました。鎌倉時代末期から南北朝時代以降、社人・僧侶が禁を破って厳島に住むようになったとされます。(ウィキペディア)
-
少し高い台座の上に置かれたブロンズ製の狛犬の光景です。中世以降の厳島神社の略歴紹介が続きます。『戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退する。毛利元就(1497~1571年)が、弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島を含む一帯を支配下に置き、厳島神社を崇敬するようになり、再び隆盛しました。元就は大掛かりな社殿修復を行ないました。(ウィキペディア)
-
織豊時代になると、豊臣秀吉(1537~1598年)は九州遠征の途上で厳島神社に参拝し、大経堂(現・千畳閣)の造営を行なっています。一説には、大名の石高並みの約1万石、時価にして7億もの予算が投入されたとされます。また、瓦には『王』の文字があしらわれ、金箔が用いられました。江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わったようです。(同上)
-
写真は、多くの人が足を止めていた、拝殿のような場所の光景です。明治維新後、明治新政府が派遣した大参事によって社殿が『仏式』と判断され、神仏分離の原則によって社殿の焼却が命じられ増した。いわゆる『廃仏毀釈』です。厳島神社の『棚守(宮司に相当)』が、東京の明治新政府に直訴したことにより、社殿の焼却は免れたものの、大きな影響を受けました。(同上)
-
明治新政府の命により、仏教的と考えられた社殿の彩色がすべて剥がし落とされて『白木造』に改められ、千木と鰹木が新設されるなどの『復古』が行われました。また、『大経堂(千畳閣)』は、内陣の木鼻を切り落とし、仏像などを撤去したうえで末社『豊国神社』に改められ、社殿の損壊と分離が行われました。この時、大聖院(旧別当寺)、大願寺などの寺院が独立しました。(同上)
-
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列し、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格しました。明治末に社殿が国宝に指定されたことを機に、廃仏毀釈で破壊された部分が明治末の大修理と大正の修理で復旧され、千木と鰹木も撤去されました。このため、明治時代の厳島神社の写真にのみ、千木と鰹木が写っています。(同上)
-
写真は、強い降りではありませんでしたが、降り続いていた春の雨の光景です。厳島神社の社殿は、台風に伴う土石流、高潮などの被害をたびたび受けています。しかし、毎回被害を受けるのは能舞台、門客神社、楽房などの一部の建物に限られてます。これらの建物は平清盛の時代には存在せず、後に追加されたものです。いずれも簡易な構造の附属社殿とされます。(同上)
-
写真は、雨の中でもしっかりと守りの役目を果たしていたブロンズの獅子像です。厳島神社の主要社殿は、200年に一度の高潮にも水没しない位置を選んで建てられているとし、本殿内陣は、清盛の時代以来850年間、一度も水没したことがないと、建築士家から指摘されています。(同上)
-
厳島神社からは、一番近い場所から眺めた『大鳥居』の光景になるようです。ビューポイントらしく、傘を差した大勢の人が見学に集まっていました。『大鳥居』の正面になる場所には、灯篭が置かれていました。
-
傘を差すのは少し煩わしいですが、背後の山が、半ば霞に覆われた光景は風情がありました。撮影をしているこの場所は、傘はいらない、回廊の屋根の下になります。しばし、その幻想的な光景を楽しみました。
-
写真は、屋根のない回廊を傘を差して歩く参拝者の光景です。厳島神社の社殿の柱が、不同沈下を起こさないのは、社殿の建つ位置がもともと陸地であったところを掘削して海としたためであり、社殿は大きな岩盤の上に建っているのではないかとする指摘もあります。(ウィキペディア)
-
写真は、人の姿がなくなったところで撮影した同じ場所の光景です。東西廻廊は、一般の神社の廻廊のように敷地を四角く区切るものではなく、海上の各建物と陸地とを結ぶ渡り廊下の役を果たしています。廻廊の現在の床板は、明治末期頃に張り替えられたもので、磨滅防止のため、本来の床板の上に保護板が張られています。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2015春、宮島と原爆ドーム
-
前の旅行記
2015秋、厳島神社と出雲大社(3/17):厳島神社(3):大鳥居、狛犬、鹿、神馬、社殿
2015/11/17~
宮島・厳島神社
-
次の旅行記
2015秋、厳島神社と出雲大社(5/17):厳島神社(5):回廊、獅子像、太鼓橋、スケッチ展
2015/11/17~
宮島・厳島神社
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(1/17):厳島神社(1):波止場、フェリー、大鳥居
2015/11/17~
宮島・厳島神社
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(2/17):厳島神社(2):波止場、海鵜、鹿、平清盛像
2015/11/17~
宮島・厳島神社
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(3/17):厳島神社(3):大鳥居、狛犬、鹿、神馬、社殿
2015/11/17~
宮島・厳島神社
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(4/17):厳島神社(4):海上の社殿、回廊、大鳥居
2015/11/17~
宮島・厳島神社
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(5/17):厳島神社(5):回廊、獅子像、太鼓橋、スケッチ展
2015/11/17~
宮島・厳島神社
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(6/17):厳島神社(6):大銀杏、穴子飯、五重塔、千畳閣
2015/11/17~
宮島・厳島神社
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(7/17):厳島神社(7完):商店街、大杓文字、波止場
2015/11/17~
宮島・厳島神社
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(8/17):原爆ドーム(1):相生橋、平和記念公園、平和の鐘
2015/11/17~
広島市
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(9/17):原爆ドーム(2):平和記念公園、原爆資料館
2015/11/17~
広島市
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(10/17):原爆ドーム(3):原爆資料館、被曝展示品
2015/11/17~
広島市
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(11/17):出雲大社(1):広島のホテル、瀬戸内海、庭園
2015/11/17~
広島市
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(12/17):出雲大社(2):さざれ石、巨大注連縄、拝殿
2015/11/17~
出雲市
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(13/17):出雲大社(3):参道、拝殿、本殿、宇豆柱跡
2015/11/17~
出雲市
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(14/17):出雲大社(4):瑞垣、お御籤掛、境内社、千家
2015/11/17~
出雲市
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(15/17):出雲大社(5):祖霊社、出雲そば、藪椿、石蕗
2015/11/17~
出雲市
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(16/17):出雲大社(6):大国主命像、神馬、懸崖菊
2015/11/17~
出雲市
-
2015秋、厳島神社と出雲大社(17/17):出雲大社(7):彰古館、素鵞社、岡山経由帰名
2015/11/17~
出雲市
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
宮島・厳島神社(広島) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2015春、宮島と原爆ドーム
0
30