2014/05/02 - 2014/05/03
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たびたびさん
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山陰の小京都津和野は、森鴎外の故郷であり、この辺りだと萩と並んで観光地としては定番中の定番でしょう。でも、情緒ある落ち着いた街並みと森鴎外だけでは、何かそこまで多くの人を引き付ける魅力はないような。30年振りの再訪でしたが、今回は、もう一度その辺りの疑問を確認してみたいと思いました。
ちなみに、司馬遼太郎は、明治になって、外様の藩の方が多彩な人材が出たとして、この津和野藩もその例として触れています。逆に、坂の上の雲の松山藩は親藩だし、必ずしもそうではないと思いますが、いずれにしても、藩毎に独立が保たれ、互いに競う意識が背景の一因としてあったのは間違いのないことだと思います。とすれば、津和野藩の伝統や気風がどのようなものだったのか。それがどのようにして森鴎外を育んだのかには自然と興味がわくところです。
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羽田空港から石見空港に到着。
五月のゴールデンウイークだからでしょうね。小さな空港なのですが、出口には帰省する家族を迎える人が山のようにいて、ちょっとびっくり。ローカル空港らしい光景でした。空港は、益田の町からでも、バスで15分くらい近いし、迎えにも来やすいのかもしれません。
ところで、空港内には、観光案内所はありませんが、観光パンフレットがずらりと置いてあるコーナーがあって、基本的な情報はここで十分入手できます。 -
バスで、益田駅に向かいます。
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15分くらいで到着です。
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いろはにほへとは、益田駅前。駅の周辺地図に載っていたので、列車の待ち合わせの時間を利用して、ここで晩飯を食べることにしました。入ると、お客さんでいっぱい。しかし、皆さん、酒を飲みに来ている人ばかり。食事のみという私は完全に浮いた存在になりそうでしたが、ほかに適当な店もないし、カウンターのお客の間に潜り込んで、オムライスをいただきました。おしゃれな飲み屋さんであることは間違いないのですが、早めに食べて、退散いたしました。
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益田駅のホームにあった柿本人麻呂像。
ところで、柿本人麻呂は、晩年、石見国庁へ赴任。そして、土地の女性と結ばれたのですが、その名は依羅娘子(よさみのおとめ)。都に帰る際に、妻を恋ふる歌を残しています。 -
翌朝、まず向かったのは永明寺です。
が、亀井家墓地があるというので、そちらの方に寄ってみましょう。 -
藩主亀井家歴代の墓所は、永太院の裏山。本当にこんなところにあるのかなあと心配しながら登って行くと、
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イチオシ
門と築地塀に囲まれた墓所らしきものが見えてきました。
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ほー。これは確かに大名の墓の威厳がありますね。
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初代、亀井茲矩(かめいこれのり)の墓ですが、亀井茲矩は、尼子の残党。山中鹿介の養女が妻ですが、それは山中鹿の妻の妹なんですね。尼子氏は上月城で孤立無援となり滅びるのですが、亀井茲矩は、秀吉に従っていたため、難を逃れることになりました。
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二代亀井政矩(かめいまさのり)は、石見津和野藩では初代藩主。墓石は、元寇船のいかりを利用したものだそう。津和野藩は、一時は南蛮貿易にも乗り出すなど開明的な動きをしていたよう。なかなか世の中の情勢に明るいところが窺えます。
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さて、改めて、永明寺へ。
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永明寺は、応永27年(1420年)に津和野城主、吉見頼弘によって創建され、
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以降、津和野藩主の代々の菩提寺となった名刹です。
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境内入ってすぐには、「森林太郎墓」と書かれた森鴎外の墓がありますが、
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周囲の墓も歴史を刻んだ趣がすごいですね。まるで時が止まったかのような景色です。
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これが本堂。
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拝観の時間は8時から。係りの人が来るまでしばらく待ちました。
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奥にある永明寺寺宝館は、有料施設。
「森林太郎として死せんとす」の森鴎外の遺書が目玉でしょうが、 -
それだけではありません。
こちらは後醍醐天皇ゆかりの観音像ですし、 -
御朱印貿易をしていたことに関係するルソンの壺。
藩主の菩提寺だけに、他にも仏画や焼き物の品々はそれなりの見応えです。 -
裏の日本庭園も見事。これも必見です。
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珍しいのは、本堂の夜泣き人形。ドイツに持って行ったら、日本に帰りたいと泣いたという人形です。河津匂子の作品です。
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こちらの坂崎出羽守の墓は、永明寺の本堂脇を少し登ったところ。
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ちなみに、坂崎出羽守というのは、宇喜多秀家の従兄弟。関ケ原の戦いでは東軍に味方し、津和野3万石の城主となります。また、大坂夏の陣では、家康の孫娘、千姫を救出するという大手柄をたてますが、千姫は本多忠刻に輿入れとなります。それを巡って、理由は処々の説があるようですが家康との確執が生まれ、改易となってしまい、亀井家に続くことになります。
しかし、地元では津和野の街を整備した名君であったと評価されていて、悲劇の殿様かもしれません。 -
永明寺から乙女峠に向かう途中にあったのは、光明寺。
ここには、吉見正頼(よしみ まさより)の夫人の墓があります。正頼は、大内氏の重臣。大内義隆の姉を妻にして、重く用いられましたが、義隆は陶隆房の謀反により討たれてしまいます。
正頼は反隆房の急先鋒として挙兵するのですが、逆に、城を囲まれ息子を人質に講和せざるを得なくなるなど苦境に陥りますが、最後は、毛利氏に協力し本懐を遂げ、毛利氏に仕えることとなりました。 -
これが、夫人の墓です。
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ここから乙女峠へ。
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イチオシ
乙女峠マリア聖堂は、昭和26年、津和野カトリック教会の神父、岡崎祐次郎氏が殉教者の霊を慰めるために建立した聖堂です。
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そして、この乙女峠は、明治政府がキリスト教を改宗させるために、津和野に連れてこられた長崎県浦上のキリスト信徒153名の殉難地。この地にあった寺で拷問にかけられて、殉教した信徒は36名にものぼったということです。
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引き返そうとおp持ったのですが、ここから十字架の道というのがあるようで、これを行ってみることにします。
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途中途中には、キリストの十字架の道行きを示す石碑。処刑されるキリストがゴルゴダの丘に十字架を背負って登って行く場面が、10の場面に分けて解説されて、建っていました。
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と、その先にたどり着いたのは蕪坂千人塚と追福碑。ちなみに、千人塚は、殉教者達のお墓です。
そこから、市街にまっすぐ下って行くとまた永明寺を通って市内につながる。山を一周した感じですね。 -
市街地に戻って。
古橋酒造株式会社は、津和野のメインストリート本町通りにある老舗の酒蔵。ちょうど四つ角にあって、昔から「角酒場」の愛称があるんだとか。 -
ちょっと店内に入ってみると、お店の銘柄は「初陣」。酒蔵らしい見せる工夫が店内にあふれていて、楽しい限り。津和野の街を盛り上げるお店の一つだと思います。
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ところで、津和野には、名物、源氏巻を扱うお店が10軒くらいありまして、この倉益開正堂もその一つ。殿町通り沿いにあるお店です。
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源氏巻はそれぞれに特徴があって、カステラ生地の薄い・厚い。堅いのや柔らかいのや餡子も漉し餡、粒餡、白餡と多彩です。ここの源氏巻は、粒餡をいただきましたが、期待した粒餡の粒の感じは比較的弱いかも。餡子の甘さも強くなくて、むしろ、カステラ生地の香りの方が印象に残りました。そういう意味では、比較的標準的なタイプだと思います。
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さらに、中心部に向かいます。
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殿町通りは、津和野観光のメインストリートです。
津和野駅からだと歩いて10分くらいと少し離れていて、津和野カトリック教会が目印。ここから石畳の道がスタートします。通りに面しては、武家屋敷の白い土塀と錦鯉も泳ぐ掘割も。角館のようなまっすぐな通りです。 -
この大岡家老門は、旧津和野藩の藩校だった養老館の向かい。武家屋敷が集まる殿町通りの一角です。大岡家は、多胡家とともに、津和野藩の家老を代々任された家柄。老門は、なまこ塀とあいまって家老の権勢を今に伝える堂々とした構えです。
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殿町掘割は、殿町通りの脇に整備された掘割。掘割には、錦鯉が泳ぎ、季節になると花菖蒲も咲き乱れます。辺りには、津和野カトリック教会、藩校養老館跡、郡役所跡津和野もあって、これらと合わせて津和野を象徴する景色となっています。
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養老館は、旧津和野藩の藩校。
天明6年(1786年)、津和野藩8代藩主、亀井矩賢が設置したもので、儒学、兵法、弓術、馬術、剣術、槍術、砲術等を教えたと言います。 -
建物は武術教場と書庫が残っており、武術教場は津和野町の民俗資料館となっていますが、こちらの内容はちょっと平凡かと思います。
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なお、民俗資料館以外は無料。自由散策ができるオープンな施設です。
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さらに進んで。
旧津和野藩家老 多胡家表門は、殿町通りの大岡家老門から少し離れた並びにある門。多胡家は、津和野藩亀井家11代にわたる筆頭家老の家柄。津和野の名物、源氏巻は、藩主の窮地を救うべく吉良上野介に進物として贈られた縁起の良いお菓子ですが、そのお菓子を送ったのはこの多胡の家老です。
もう少し詳しく説明すると、源氏巻のいわれですが、赤穂の浅野内匠守の刃傷事件が起きる前のこと。津和野藩主、亀井茲親が勅使接待役を命じられ、吉良上野介に教示したのですが、浅野と同じく数々の非礼から藩主が立腹。それを知った家老の多胡外記は吉良家に進物を贈りつけ、ことなきを得、その進物がこの源氏巻だったのです。源氏巻の下には小判もあったのでしょうが、津和野藩の危機を救った縁起の良いお菓子なのです。 -
戻ってきて、今度は資料室はぜくら。
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こちらは、純然たる美術館ではなくて、焼き物や小物を売るお店のよう。そのお店の二階が展示室になっていました。
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なお、この建物は、旧藩時代の蔵で蝋(ロウ)の原料の櫨(ハゼ)を格納していたということで、「はぜくら」です。
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展示屋には、津和野藩主の書、藩士山本琴谷の絵、能面などの美術品の数々。数は限られていますが、大事に保管されているのが伝わってきます。
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三松堂の本店は、津和野大橋を越えて行った場所にあるのですが、この本町店菓心庵は、その支店です。
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ちょっと小ぶりな店舗ですが、低い屋根の町屋風の店舗は、中に入ると風情ある雰囲気が津和野でもずば抜けていると思います。
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お決まりの源氏巻を買いましたが、ほかの和菓子も美しい。しばらく居させてもらいたいような気持ちになりました。
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沙羅の木松韻亭は、津和野市街の中心部。殿町通りの津和野カトリック教会も向かいです。
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中はこんな具合。
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ここは、お土産物屋さんとか喫茶とかの施設なんですが、
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お勧めは、やはりことぶきやの源氏巻。特に、白餡のタイプの方は、焼き上がりの温かい時が風味も良くて抜群においしいです。
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そして、津和野には、源氏巻を扱うお店が10軒くらいあるのですが、今度は山本風味堂です。他のお店は殿町通りに集中しているのですが、ここはそれより線路に近い通りです。
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それぞれ特徴があるのですが、ここの源氏巻は、餡子が中心。餡子のおいしさを前面に出しているように思います。粒餡のタイプをいただきましたが、餡子がカステラ生地から浮き出しています。それだけ生地が薄いのかもしれませんが、餡子の甘さは、なんというか賑やかな甘さ。それだけで、楽しくなるような味わいです。
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小京都と呼ばれる津和野であれば、やはり京都と同じように、街には民芸品の小物を扱うお店が似合います。この海老舎は、そうしたお店。津和野のメインストリートに面したゆったりとした店構えで、出入りする人も頻繁です。一つ一つの商品もですが、お店全体の雰囲気を楽しめるのがいいところ。この日はガラス食器の企画展をやっていました。
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たまたまなんですが、この日はちょうど乙女峠まつりだったんですね。明治の初め、長崎から津和野に移され殉教したキリスト教徒を偲ぶイベントで、なんと全国から2000人もの参加者が集まっていました。
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これは教会の内部。畳が敷いてあるのが珍しいところです。
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さて、イベントの方は。
津和野カトリック教会に集まって、 -
イチオシ
その後、殉教の地、乙女峠まで、マリア様の像を数人の女性が担いで歩きます。キリスト教徒の衣装に身を包んだ子供たちもいましたが、
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かわいらしさの中にもちょっと厳粛な空気があって、津和野ってこんな一面もあったんですね。意外な感じの一方で、津和野の街に根付いた行事であることも実感されました。
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乙女祭りの行列を見送った後、近くでは石見神楽もやっていました。
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そういえば、あんまりじかには見たことがなかったかも。
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二人の大人の舞ですが、
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重厚で豪華な衣装がちょっと気になします。
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やんごとなき身分の人に関係する舞なんでしょうが、
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イチオシ
まあ、神楽なので、
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結局登場人物は神様ですから、それもそのはずでしょう。
ゆっくりした舞から、動きが激しくなって。。 -
二人が絡み合って、スピーディな展開です。変化があって楽しいですね。
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今度は、子供たちの神楽ですね。主人公はお供を連れて登場です。
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何か因縁の果し合いでもするんでしょうか。主人公は戦いに向けた決意のほどをとうとうと語っています。
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相手が出てきました。
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二人が激しく切り結ぶ。
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くるくる回りながら、
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右へ左へ。
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打ち込んだと思ったら、
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また、打ち込まれ。
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敵も味方も、
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必死の立ち回りです。
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イチオシ
衣装が木漏れ日の中でキラキラ光って、これもとってもいい感じ。
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何んとか、主人公が敵を討ち果たし、物語はめでたく終了です。体の動きに、目線の動き。練習してきた成果が十分に発揮されていました。お見事、お見事。
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イチオシ
こちらの津和野 鷺舞の像は、殿町通りの先の津和野大橋のたもと。二人の人物が鷺舞を舞う姿は、けっこう目立ちます。ちなみに、鷺舞は京都から山口を経過して伝わったものだとか。津和野の弥栄神社の祭りで、毎年祇園祭りの7月20日にこの舞が奉納されるということです。
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ここから、太鼓谷稲成神社に向かいます。この石の鳥居からが参道です。
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さて、ここにも、元祖源氏巻総本舗 宗家。元祖とか宗家とか、他とは違うという名前なんでしょうが、どうなんでしょうね。 -
いただいた源氏巻は、カステラ生地がしっかりしていて、やわらかい生地が主流の中にあっては、かなり特徴的だと思います。たぶん、昔のお菓子は今のように柔らかく出来なかったでしょうから、元は固い生地だったのかなあとか想像しました。昔の名残をとどめたタイプなら、確かに宗家の名前にはあっているでしょう。
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途中にある弥栄神社は、「やさかじんじゃ」と読みます。
正長元年(1428年)、三本松城主、吉見氏が京都の八坂神社の分霊を勧請したのが始まり。 -
毎年6月30日の輪くぐり神事7月20日・27日の鷺舞で知られ、鷺舞は「津和野弥栄神社の鷺舞」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。境内に、大きなケヤキもあって、ちょっと目を引きます。
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太鼓谷稲成神社に向かう参道にある、レトロな店構え。津和野の食堂では一番の老舗というが美松食堂です。
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黒いいなり寿司が名物で、これをいただきました。見た目は、醤油の黒さでしょうか。確かに真っ黒でインパクトあり。しかし、味の方は酸っぱいのが前面に出ていて、甘がらいのに慣れている人にとってはちょっと違和感があるかも。無条件でうまいという感じではありません。
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太皷谷稲成神社は、津和野市街を見下ろす山の中腹。
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ここから、九十九折の石段を登って行きます。
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日本五大稲荷の一つだそうですが、「いなり」を「稲成」と書くのはここだけです。
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市街から、登って行く参道には千本鳥居が続きます。
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だんだんと市街が下に見えていくので、また登る意欲も湧いてくる。けっこう面白い仕掛けでしょう。
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これが本殿。
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イチオシ
緑の山をバックに赤がとても鮮やかですねえ。
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帰りは駐車場の方から下って行きます。
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で、少し降りたところが津和野町城跡観光リフト。
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山城だった津和野城址に登るリフトで、歩くと40分くらいかかるというけっこうな急勾配をゆったりと上がって行きます。
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ただし、到着した地点から、城址まではさらに歩いて15分以上だとか言ってましたよね。さて、行った方がいいものかちょっと迷いましたが、天気もいいし、では頑張ってみましょう。
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津和野城の始まりは、鎌倉時代。
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元寇の翌年、吉見頼行が鎌倉幕府の命を受け、
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沿岸防備のために、この地に赴任。
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この三本松城を築きます。
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吉見氏は、その後、大内氏、毛利氏に属しますが、
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関ヶ原の戦いで毛利氏とともに萩に退去。
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江戸時代は、坂崎氏を経て、
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亀井氏の居城となっています。
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イチオシ
なるほど、本格的な山城ですね。
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しかし、よく整備されていて、
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気持ちいい。
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ただ、かなり時間を取られてしまいました。予定していなかったところなので、後のことが気になります。
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され、リフトを降りて、西周旧居へ急ぎます。
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西周旧居は、森?貎外旧居と川を挟んだ向かい側。畑の中に藁ぶき屋根と蔵が建っていまして、西は、ここで21歳まで暮らしています。
ちなみに、西は、?貎外の親戚にもあたり、ヨーロッパの学間や思想の啓蒙運動に努力した哲学者。「芸術」「理性」「科学」「技術」などの造語は、西周によるものであり、今の我々にもいかに恩恵が大きいことか。驚かざるを得ない人物です。 -
西周旧居から川を渡って。
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こちらが森鴎外旧宅。国指定の史跡です。
ちなみに、森家は代々津和野藩の藩医。50石取の家柄で、鴎外が生まれたのは、文久2年(1862年)。明治5年(1872年)に上京するまでここで過ごします。 -
小さな勉強部屋とかもありました。
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森鴎外記念館は、森鴎外旧居の隣りに建てられた鉄筋コンクリートの立派な施設。
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廃藩置県により、明治5年上京。既に、秀才として亀井藩主に将来を嘱望されていたようです。
東京大学医学部卒業後、軍医として、また、文豪として二つの人生を歩むのですが、その原点には御殿医ではあっても、処々の経緯から落ちぶれていた一家の期待を一身に背負った幼少期からの環境がありました。文字を読めなかった母が、鴎外の教育のために字を習ったりしていたとか、こうしたことがけっこう赤裸々に紹介されていました。
一方で、そうした点に目が行ってしまって、文学作品にかかる展示に割く時間が少なくなってしまうきらいがあるかもしれません。 -
アンティックドール美術館の名前から想像するのは、フランス人形とか中世の西洋の人形だったのですが、目に入ってくるのは、たくさんの猫の絵。パリで活躍中の板橋純世の絵画のようですが、どう鑑賞するのか微妙なところ。猫が好きな人が見るんでしょうか。リアルな絵画技術を見るんでしょうか。
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二階には、繊細なアンティックレースのコレクションもありましたが、これも微妙。古ぼっけたレースという印象以上のものはないかも。
美術館は、これすごいでしょと個々の作品をアピールするものではない。トータルとして美しくないと意味がない。その原点を見失っているのではないかと思います。 -
一貫堂は、三松堂本店と同じく、津和野の中心部からだと橋を渡った先のエリア。森鴎外記念館からの帰り道です。
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源氏巻を扱う三松堂本店に比べると小さい店舗だし、正直言えば、ちょっと活気がないかも。それでも、独自の源氏巻は、薄めの柔らかいカステラ生地にしっとり餡子を挟んだ正統派。源氏巻に外れはありません。
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さらに戻って、杜塾美術館は、津和野藩の旧筆頭庄屋屋敷を利用した私設美術館。
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中に入って、
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見上げるとむき出しのハリ組みも豪壮で、往時の繁栄が伝わってきます。
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館内は、土間には郷土出身の洋画家中尾彰、吉浦摩耶夫妻の柔らかな色調の作品。座敷にはスペイン・ゴヤの「闘牛技」の銅版画。家屋の雰囲気ととてもよくマッチしていて、オーナーの審美眼の確かさには敬服せざるを得ません。
なお、オーナーはDIY順天堂の社長だとか。広島のイズミの社長も美術館を持っていましたが、同じように審美眼は確か。小売業は客商売。その目線と共通するところがあるのかもしれません。 -
津和野町郷土館は、殿町通りから津和野大橋を越えてすぐ。大正10年に設立したという郷土歴史博物館の老舗です。
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吉見、坂崎、亀井と続く津和野藩の歴史の解説に加え、
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森鴎外や西周や当地ゆかりの文化人・芸術家の紹介。乙女峠のキリシタン殉教関連など、バランスの良い展示内容。
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伊沢蘭奢は、新劇女優として活躍した人。大正モダンの雰囲気がする大変な美人ですね。津和野の多彩さを感じます。
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昭和15年に建てられた建物の雰囲気も適度に重々しくて、いい雰囲気です。
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津和野は、山に囲まれた狭い平地に集落が集まるこじんまりした地域。その中心市街を貫いて流れるのが津和野川です。
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津和野大橋から、下流が市街。その右手には、青野山がそびえるというのが、津和野の特徴的な景色でしょう。なお、川原近くまでは降りて行けます。
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あぜみちレストハウスというJAのやっているお店。人の出入りがあって賑やかな施設です。ふと見ると、NHK全国手作りコロッケ金賞受賞という看板。そんな賞あったかなあと思いつつも、では食べてみましょう。
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注文してから揚げてくれるんですが、なるほど、ジャガイモの甘みがあって、いい感じ。きちんとしたうまさだと思います。
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峰月堂は、津和野市街の入り口といった辺り。ここでも、津和野の名物、源氏巻を買ってみようと寄ってみたのですが、ここには半分サイズの源氏巻がありました。
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たぶん、ここだけ。これなら、歩きながらでも、ちょこっと食べれます。餡子は、よく見ると源氏の名前の元になったといううっすら紫色。これはきれいです。固めの餡子も、源氏巻らしいかもしれません。
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続いて、しつこく今度は、藤村山陰堂です。津和野駅から中心部に向かう最初にあるといったロケーションですね。
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竹風軒や三松堂のように大きなお店ではありませんが、それでもそれぞれ特徴がある。
ここの源氏巻は漉し餡の色が薄い色。ちょっと固めに仕上げて、甘さよりも滑らかな餡の舌触りを強調していると思いました。 -
桑原史成写真美術館は、津和野出身の報道写真家、桑原史成の作品を展示する美術館。津和野駅を出てすぐです。
水俣病の写真などで有名だそうですが、最近、土門拳賞も受賞したのだとか。展示は、津和野の四季折々の街の風景を白黒写真で撮ったもの。渋い写真ですが、行事とか実物を見ているともっと感動が深まるのではないかと思いました。それとも、報道写真とは違って、氏の記憶に残る心象風景なのかもしれません。 -
安野光雅美術館は、津和野駅からすぐ。役場か学校の建物かと思うような大きな建物です。
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ちなみに、安野光雅は、大正15年に津和野町の旅館を営む家に生まれた画家であり、装幀家であり、絵本作家。司馬遼太郎の紀行文集「街道をゆく」の装画では、氏ならではの味のある世界を表現して、司馬遼太郎の感性に大いなる刺激を与えています。
司馬遼太郎は、少し風変わりな先生として描いているのですが、やはりただ者ではない。作品の幅の広さや膨大な知識とスケール感は、司馬遼太郎の気質と重なるものを感じます。 -
絵本三国志の展示がこのたびのメイン展示。ちょっと平山郁夫ばりの世界観も感じるような。個性的なだけではなくて、意外に基礎のしっかりした奥の深い作家であることを感じました。
この後広島の福屋でも個展を開催中で見に行きましたが、こちらは風景画。おっとりとした世界を表現したものですが、それだけじゃないんですけどねえ。まあ、いろんな顔を持っているのは、巨人の証です。 -
山田竹風軒本店は、津和野市街のメインストリート沿い。本町にある立派な店舗です。
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津和野には源氏巻のお店が10軒くらいあるのですが、たぶん、ここが一番大手かと思います。
餡子もカステラ生地も堂々とした存在感があって、やっぱり津和野を代表するお店でしょう。 -
日の向きが違ってきて、街の感じも変わってきました。さっきは光の向きがよくなかった教会が気になります。
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イチオシ
今度は、正面から日が当たって、白い外壁が美しいですね。
ちなみに、津和野カトリック教会は、津和野市街の中心部。昭和6年、ドイツ人シェーファによって建てられたゴシック建築の教会。 -
祭りの方は終わって閑散としていましたが、改めて、乙女峠の殉教の歴史を伝える乙女峠展示室を覗いてみました。
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うーん。本当は、鷲原八幡宮の馬場や堀庭園も見て見たかったんですが、これが限界みたいです。駅に向かって帰りましょう。
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戻る途中の津屋伊藤博石堂は、津和野市内のメインストリート沿い。いかにも老舗といった重厚な店構えは、それもそのはず、江戸後期の寛政10年創業の薬種問屋だそうで。
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ショーウィンドーには、胃と腸に効能があるという家伝薬「一等丸」か飾られていました。
店内には、お茶の販売コーナーがあって、これは馴染みやすい。ほか、薬問屋の道具類も展示してあります。 -
では、鯉の米屋も寄ってみますか。名前からは何の意味か分からないのですが、これは錦鯉を飼っているお米屋さん。
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イチオシ
鯉で有名な津和野で、店名にするくらいですから、やっぱりちょっとすごい。よく慣れてもいて、人影で一斉に寄ってきます。子供が餌をやったりしていましたが、楽しいことこの上ない。皆さんも是非寄ってみましょう。
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ちしゃの木は、駅前通りにある小さな食堂。農家食堂といったうたい文句で、おみやげのお菓子やスイーツもあるというお店。明るいおばちゃんがやってます。少し時間に余裕があるので、入ります。
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いただいたのは、栗ご飯とそばのセット。ちょっと量が少なめですが、まあ、丁寧に作った感はあります。あとで見るとスイーツのメニューもなかなか充実していて、ご飯よりもスイーツの方が気になると言えば気になりました。
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ということで、もう一軒「みのや」のスイーツを目指します。津和野駅から線路沿いに西へ歩いてすぐ。赤い大きな提灯に「みのや」と書いた店構えが目立っています。甘味処とちょっとした食事もできるという感じのお店です。
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きな粉餅をいただきました。おばちゃんが二人でやっていて、忙しそう。お餅は焼いたお餅を再び湯につけてきな粉をまぶしたもの。素朴だけど、いわゆる交じりっ気なしの旨さが光っていました。
これで、津和野は終了。今夜の宿は山口です。
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この旅行記へのコメント (2)
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- たらよろさん 2014/08/16 11:08:04
- 津和野の風情
- こんにちは、たびたびさま。
萩〜津和野方面は、以前から訪れてみたい場所なんですが、
なかなか機会に恵まれず未だに行けず仕舞い。
でも、やっぱり風情ある町並みに憧れますねー
苔むした墓所の落ち着きや、
鯉の泳ぐ町並み、
これらを楽しみに、他にも由緒ある歴史を感じにしっぽりと歩きたくなる…
素敵な旅行記をありがとうございました。
たらよろ
- たびたびさん からの返信 2014/10/01 15:13:26
- RE: 津和野の風情
- 津和野の乙女塚については、最近知りましたが、明治の廃仏毀釈などの流れと同根の事象です。
明治政府は、尊王攘夷の思想の名残りを留めていたため、神道や国学の力を借りて新たな国政のあり方を考えるきらいがありましたが、津和野は、最後の第11代藩主茲監が国学を奨励し、早くから長州藩と同調していたこともあって、大国隆正、福羽美静といった人物を神祇官の枢要な役職に送り込んでいました。そして、キリシタンの改宗は、その手腕を示す絶好の機会であり、対応が激烈になったという側面があったようです。
キリシタンの弾圧は、列強からの圧力もあり、岩倉具視の欧州視察を経て、明治4年には終わりを迎えますが、明治維新の迷走ぶりを示す事例であろうと思います。明と暗。歴史は、そのすべてを飲み込んで流れて行きます。
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