2014/05/04 - 2014/05/04
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たびたびさん
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幕末から明治維新に向かっては、難解なパズルを解くような局面展開が続きます。
始まりは、もちろんペリーの来航。安政の大獄で知られる井伊直弼が開港の決断をするのですが、それは開明的な考え方に基づくものではなく、国力が充実すればまた鎖国に戻すといった詭弁を弄するもの。この時、天皇の勅許を得ていなかったことが、その後の尊王攘夷派の恰好の攻撃材料となります。しかし、尊王攘夷派とても、世界情勢を理解しているわけではなく、単なる気分的な高揚があっただけのこと。腹が固まれば、攘夷など簡単だとしか思っていません。
やはり、重要なことは、個々の思想ではなく、漠然とした不安や新しい時代への渇望といった庶民の意識のうねりが大きなエネルギーとなっていたことです。こうしたエネルギーは、藩で言えば下武士、公家も下層の階級。農民や地方の有力者にも広がっていて、何かをしなければいけないという熱にうかれたような気分が充満していたのです。脱藩浪人たちが京都に集まり、時代を動かそうと暗躍を始めますが、その多くはただ熱情があっただけ。自分の行動が後に続く人々に何かを残す。そこに意味があるという命知らずの面々です。
この危ないエネルギーを意識しながら、時代をどう動かしていくか。英傑たちの活躍が始まるのです。ちなみに、尊王攘夷は、水戸が火をつけますが、結局は内部抗争が果てしなく続き、天狗党に象徴されるように自滅に近い結末。御三家であり、佐幕から抜け出せないという限界もありました。
長州は、藩主以下が早くから純粋な尊王攘夷に動き、自らも下関海峡でアメリカ商船を砲撃して、幕府を執拗に追い詰めますが、これに待ったをかけたのは、公武合体を主導する島津久光の薩摩藩。松平容保の会津藩とも連携して、8月18日の政変で長州藩を追い落し、翌年、禁門の変でも再びこれを撃退。長州藩は、一転、朝敵となってしまいます。
しかし、薩摩藩は大久保利通、西郷隆盛らが力をつけ、討幕へと舵を切ったことから薩長は急接近。坂本竜馬の斡旋もあって、薩長同盟が実現するのです。一方、あくまで佐幕派で、内乱を避けたい山内容堂の土佐藩は、大政奉還へと導き、松平春嶽の越前・尾州藩とともに徳川の力を温存させる協調体制の道を探ります。しかし、薩摩藩の決意は固く、岩倉具視と一枚岩となって王政復古と徳川の領土返還を貫く構えを崩すことはない。遂に会津・桑名を中心とする幕府軍は激高。鳥羽伏見で戦端を開くという流れです。
ところで、その長州藩ですが、長州藩とても尊王攘夷で一貫していたわけではなく、禁門の変後の第一次長州征伐では、幕府への恭順を主張する保守派が力を盛り返します。ただ、ここで高杉晋作の騎兵隊をはじめとする農民を含んだ新興勢力が藩の主導権を奪い、新しい時代を求めるより明確な意識を持った集団が誕生するのが面白いところ。その力は下関や山口市を中心に勢力を伸ばし、萩の保守派を追い落としていくのです。
予備知識はこのくらいにして、さあ、どこまでそんなところを感じれる旅になるでしょうか。出発です。
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イチオシ
湯田温泉で泊まったホテルにレンタサイクルがあったので、急きょ、そこからレンタサイクルで回ることにしました。地図で見ると、湯田温泉は山口市内の主要観光スポットにも近いんですね。
出発して、ほどなく中原中也詩碑。錦川通りを山口市の方に行ったところで、温泉街の端っこです。
刻まれているのは、「童謡」。
しののめの
よるのうみにて
汽笛鳴る。
こころよ
起きよ
目を醒[さ]ませ。
しののめの
よるのうみにて
汽笛鳴る。
象の目玉の、
汽笛鳴る。
碑の文字は、中也直筆の原稿によるものです。 -
続いて、権現山。高さ40mほどの山の石段を上がった山頂には、熊野神社がありまして、熊野権現を祀ることから権現山。
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この権現山の麓のお寺の和尚さんが、白狐が毎夜温泉に浸かっていたところを見たのが湯田温泉の始まりと言われています。
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朝倉八幡宮は、1863年、長州藩が8月18日の政変に敗れたことで、都より落ち延びてきた七卿ゆかりの神社。
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湯田温泉に逗留した七卿はこの神社に日参し、再起を願ったということです。七卿奉納の和歌を所蔵しています。
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湯田温泉を見渡せるロケーション。七卿はここを毎日登って来たんですね。
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まだ旅は始まったばかりです。先を急ぎましょう。
木戸神社は、木戸孝允を祀る神社。木戸孝允は、明治10年に亡くなりますが、木戸家の旧宅・山林を地元の糸米村へ寄付し、村民の学資に充てるよう遺言を残します。 -
その遺徳に報いるため、村民が旧宅の地に祠を建立したのが、神社の始まりです。
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少し進んで、山口大神宮は、大内文化を伝える神社。
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大内氏30代、大内義興は、山口に逃げてきた前将軍の足利義稙を奉じて上洛、以降11年間京都に滞在し、管領代として幕政を執行します。
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その間、伊勢神宮に参拝し、山口にも伊勢神宮を勧請したいと願い、永正17年(1520年)に創建。以降、西のお伊勢さまと呼ばれ、親しまれてきました。
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旧藩庁門は、山口県庁の敷地の一角。国道9号線からもすぐ見えています。
長州藩は萩に押し込められていたのですが、文久3年(1863年)に山口市に移転します。幕府の締め付けがガタガタになった時期であり、本来であれば、改易となってもおかしくない行動でしょう。
なお、門はその藩庁の正門で、脇門付、本瓦葺きの薬医門です。 -
山口県旧県庁舎及び県会議事堂は、山口県庁舎の敷地内。
大正2年に起工し、大正5年に竣工した建物は、後期ルネッサンス様式を基調とした大正時代を代表する洋風建築。 -
設計は、武田五一、大熊喜邦。県庁舎と議事堂が一体となって保存されていて、圧巻です。
なお、内部は県政資料館、議会資料館となっています。 -
県庁の周囲はお堀。
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つつじが満開でした。
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山口市歴史民俗資料館は、国道九号線沿い。県庁からだと歩いて15分くらい。
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歴民名品選コーナーというのがあって、
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大村益次郎、木戸孝允、伊藤博文、山形有朋の書状の展示。
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七卿の歌の短冊などもあって、大内文化の紹介と合わせて、明治維新の匂いがプンプンする内容でした。
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こちらは、普門寺。
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萩の藩庁が山口に移り、大村益次郎が藩命により江戸から帰藩しますが、益次郎は境内のこの建物を宿舎とします。合わせて、請われるままに、歩兵・騎兵・砲兵などの兵学を教授し、普門寺塾とか三兵塾と呼ばれたということです。
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イチオシ
ここから、香山公園のエリアに移動して。
まずは、洞春寺。ここは、毛利元就の菩提寺です。 -
ただ、それ以前に、大内盛見が祈願所として建立した国清寺があった場所。
観音堂も目を引きますが、これも大内氏の関係。大内義弘の子持盛が豊前国篠崎で戦死した後、菩提寺とした観音寺にあったものを移築したものです。 -
奥にあったのは、井上馨の墓。高杉晋作や久坂玄瑞らとともに過激な尊皇攘夷運動の考えにあったのですが、イギリスへ密航し開国論に転じ、むしろ、明治維新後に行政手腕などでその実力を発揮したイメージがありますが、山口では人気のある人物でしょう。
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墓地の一角に残る国清寺一切経蔵の礎石です。
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大内盛見の墓。大内氏の第11代当主で、大内弘世の子。兄の義弘が足利義満の幕府軍と戦って討ち死にしたことで、大内氏を継いでいます。北九州への進出に着手したりして、その後の大内氏の勢力拡大につながっていきます。
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さて、香山公園に到着して、これは萩藩主毛利家墓所。
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史跡にもなっているエリアですが、周囲は石の囲いがあって、
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こうして、外から眺めるしかありません。
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瑠璃光寺の境内にあるひと際大きな像は、大内広世像です。広世の時代に、周防と長門二か国の支配が固められました。
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瑠璃光寺資料館は、瑠璃光寺の資料館というよりも、五重塔の博物館といった感じ。
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最近に至るまでに建立された全国の五重塔の紹介と奥の展示室にはキラキラ輝くミニチュアの模型がいくつも並んでいました。ビデオがあって、これも瑠璃光寺五重塔の構造などを詳しく解説するもの。塔が上に行くほど、胴の部分が小さくなって、すっきりした姿に見えるというのは、確かにその通り。しかし、この説明で初めて気づきました。目の錯覚というのは恐ろしいものですね。
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瑠璃光寺の経緯はちょっと複雑。この地に寺が建立されたのは、室町時代、大内氏25代の大内義弘が建てた香積寺。五重塔は、26代大内盛見が足利義満に敗れて戦死した兄を弔うため、建てたもの。
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そして、江戸時代に入り、萩に押し込められた毛利輝元が香積寺を萩に移させるため、跡地に、別の場所で陶氏が建立していた仁保瑠璃光寺を移転。それが現在の瑠璃光寺となっています。
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ただ、瑠璃光寺と言えば、この五重塔。
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イチオシ
何度見ても美しいですね。
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イチオシ
屋根の整った美しさは、別格だと思います。
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香山公園は、大内文化を今に伝える国宝瑠璃光寺五重塔を中心にした公園なのですが、その他にも、園内には、明治維新に関係する露山堂や枕流亭なども。長州藩は萩に中心があったのですが、幕末には山口市に藩庁を移しており、こうした史跡があるんです。
そして、これが枕流亭。見た目はそう目立った建物ではないのですが、幕末、薩長連合を推進するためにやってきた薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛らと会見し、この建物で幕府を倒す密議が行われたという、まさに歴史の舞台となった建物。内部は公開されていて、二階へも上がれます。 -
幕末、藩主、毛利敬親は藩庁を萩から山口に移します。その際、現在の県庁内の一露山の麓に茶室を建て、そこで茶事と称して、討幕の密議をこらしたと言われました。露山堂は、その茶室を移したものです。内部は非公開だと思います。
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一の坂川は、山口県庁のすぐそばを流れる川。市街地を流れる川なのに、両岸には、樹木が生い茂って、山奥の川といった雰囲気。水も透き通っていて、きれいです。室町時代に大内氏が一の坂川を京の鴨川に見立てて街割をしたと言われるのですが、それを大事に今に伝えていることに敬意を表したいと思います。
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雲谷庵跡は、雪舟のアトリエがあったとされるところ。茅葺の建物が目印です。
ちなみに、雪舟は、大内氏の招きにより、40歳頃、山口にやってきます。48歳で明に渡りますが、帰国後もこの雲谷庵に住み、創作活動にいそしみます。雪舟は、この時代にしては、大変な長生きで、87歳で山口で亡くなっています。 -
山口市菜香亭は、明治10年頃に創業した料亭を移築したもの。
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名付け親は井上馨ですが、
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とにかく、地元出身の大物政治家や文人らに親しまれた場所だとか。
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大広間には、ここを訪ねてきた大物たちが揮ごうした書が鴨居に並んでいました。
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伊藤博文や佐藤栄作、田中角栄、竹下登。
これは、安倍総理は一次内閣の時に書いたもので、ちょっと元気がないような感じですと紹介がありました。 -
伊藤博文。
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三条実美。
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木戸孝允です。
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イチオシ
外観も紹介しておくと、こんな感じ。
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二階からさっきの大広間の方を見下ろします。なるほど、ここなら、どんなどんちゃん騒ぎをしても迷惑がかかることはないでしょう。
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再び、先を急ぎます。
野田神社は、明治維新の元勲毛利敬親を祀る神社。
ちなみに、毛利敬親は、別名「そうせい候」。家臣の進言に、いつも「そうせい、そうせい。」と承諾していたことから付けられたもの。 -
幕末の情勢は、尊王攘夷のエネルギーが明治維新への原動力となったのですが、攘夷は本来は無理筋。
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ただ、公武合体から討幕。攘夷から開国派といった道筋は決して平坦ではなく、正しいことがすべてではない。危うい場面の連続であったことを思うと、並大抵の人物ではなかったでしょう。
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境内は、そのまま隣りの豊栄神社につながっています。
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で、豊栄神社は、毛利元就を祀る神社。毛利輝元が広島から萩へ移った際、元就の霊を春日神社内に祀ったのを始まりです。
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明治に入ってから、萩から山口の現在の場所に移されました。豊栄の神号は朝廷から賜ったものだそうです。
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イチオシ
今八幡宮は、豊栄神社・野田神社のすぐ南側。小高い山の上にありました。室町時代、大内政弘が山口の鎮守と定め、その後、大内義興が明との交易で得た莫大な財力をバックにして、現在の社殿を造ったといいます。
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今の基準で見ると規模的にはそう大きくもないし、あまり豪華な感じはしないのですが、八幡造りの武家らしい構えはちょっと印象的。国の重要文化財です。
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そこから常栄寺に向かったのですが、その途中にあるのが山口県護国神社。明治維新以降、国のために命をささげた英霊を祀る神社です。
維新の雄藩であった長州の志士たち、吉田松陰、久坂玄瑞、大村益次郎、高杉晋作も含まれています。ただし、創建は昭和16年。長州藩のおひざ元にしては少し時期が遅いような気もしないではありません。 -
さて、常栄寺は、以前から来たかった寺。これまで何度か山口には来ていたのですが、山口市内でも遠い場所なので、なかなか来れてなかったんですよね。
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ここは、毛利元就が息子隆元の急逝を嘆き、その菩提を弔うために創建した寺。
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通称、雪舟庭と呼ばれる「常栄寺庭園」が名高く、国の史跡および名勝に指定されています。
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イチオシ
これが常栄寺の雪舟庭ですか。大内政弘が別荘として、雪舟に築庭させたものと伝えられますが、寺の説明でははっきりした証拠はないとしています。
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一方で、雪舟が大内文化の華がひらいた、この山口の地で
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旺盛な創作意欲をもって活動していたことは事実であり、
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関係はあると考えるのが自然でしょう。
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雪舟庭園は池泉回遊式庭園。
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三方が林に囲まれた小さな谷に作られていて、これを一周できるのですが、
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イチオシ
やはり、本堂から眺める景色が一番。
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イチオシ
芝生に、奥の池。
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それを包み込むような林。
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それをベースにして、立石が大胆に配置されている。石をふせ石にしたら、小川治兵衛風の明治の庭になってしまうんですが、立石の躍動感がすばらしい。それがこの庭の生命線だと思います。
なお、室町時代の特色となっている立石は、近くの山から運搬したといわれる輝岩だそうです。 -
では、常栄寺を後にして。
仁壁神社は、「にかべじんじゃ」と読みます。住吉三神を主祭神とし、周防国の三宮。
明応6年(1494年)、九州の戦陣から帰った領主、大内義興が国内の5社に戦勝報告をした際、当社は3番目であったことから「周防国三の宮」と称されるようになったということです。 -
続いて、サビエル公園。山口サビエル記念聖堂の近くと勘違いする人も多いようですが、全然違う場所です。ここは、日本最初のキリスト教教会とされる大道寺の跡地だそうです。ザビエルの記念碑が建っています。
ちなみに、当時の教会で歌ミサが行われたのが日本で最初のクリスマスだと言われています。 -
さて、市内中心部に戻ってきました。
浜屋餅舗は、亀山公園にほど近い場所。 -
いただいたのは、柏餅。葉っぱにしっかりくるんだお餅は、食べる段になって気が付くと、これはヨモギ餅だったんですね。力強い餡子の存在感に負けない、お餅のもっちり感が印象に残りました。
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と、ばりそば本舗って、何でしょう。幟が立って目立っていたので、つられて入ってみました。
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見た目は揚げた麺に餡かけが乗っている長崎皿うどん風なんですが、スープがさらっとしていて、ちょっと酸味がある独特の味わい。なかなかいけますねえ。スプーンで、スープを最後まですくって完食です。
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商店街にやって来ました。
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明治時代に創業されたという山陰堂は、この中一商店街にあって、白壁の堂々とした建物。かなり異彩を放っています。
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その名物は、「舌鼓」。
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求肥で白餡を包んだ小さなお菓子ですが、
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食べると求肥が白餡と微妙に溶け合って、その溶け具合がとても絶妙。貫録を感じるような逸品です。なるほど。なるほど。
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では、元気の出たところで、改めて史跡めぐりです。
十朋亭は、山口市内にある明治維新の遺構の一つ。あまり知られていないことだと思いますが、長州藩の中心は、明治維新を迎えるまで萩だったのではなく、1963年に藩主毛利敬親は湯田温泉に行ってくると言って、山口にそのまま居座り、藩庁も移してしまいます。京都の情勢を少しでも早く手に入れたかったのでしょう。ということで、山口市も維新の志士が活発に動くことになる。そして、ここは、醤油屋、萬代家の離れ。主人が志士達の活動を援護していたことから、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎などが訪れたということです。 -
こちらの龍福寺の始まりは、鎌倉時代、大内満盛が開基となって創建された瑞雲寺。
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陶晴賢の大内義隆への謀反の際に焼失しますが、
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毛利隆元によって、義隆の菩提寺として復興します。
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境内には、大内義隆の辞世の句碑があり、「討つ人も討たるる人も諸(もろ)ともに如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)」。討つ人も討たれる人も、人生は露のように、稲妻のようにはかないものだという意味のようですが、
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イチオシ
まったく予期しない出来事だったはずですし、
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華やかな文化の継承者だったことを思うと、ちょっと胸に迫ります。
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龍福寺資料館は、龍福寺の境内。
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龍福寺は、陶氏を破った毛利隆元が、大内義隆の菩提寺として、大内館跡に再建した寺であるのですが、大内義隆が毛利隆元を招き歓待し、毛利隆元が日ごろの支援に感謝するといった人形展示があったりして、大内氏と毛利氏の関係が彷彿とされるよう。
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ピークには九州や近畿にも領国を持っていた、大内氏の勢力地図なども興味を引きました。
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大内氏館跡の説明板は、龍福寺の門前にありますが、かつての館は、北側の今八幡宮の辺りまで含めた広大な敷地。始まりは、大内氏24代当主の大内弘世の居館。京都を模したと言われます。
大内義隆に謀反した陶隆房のために焼失したかどうかは実はよくわからないようで、はっきり最後となったのは毛利氏の侵攻。その後、この地に、毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立することになります。 -
八坂神社は、大内弘世が、京都の八坂神社を勧請したのが始まり。
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7月の山口祇園祭がこの神社の祭礼で、
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山口七夕ちょうちんまつり、山口天神祭と並び、山口三大祭りの一つに数えられています。
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京都の八坂神社では絶えてしまった鷺舞の奉納も行われます。
この大きな絵馬は何でしょうか。勢いのある絵のタッチが気になります。 -
築山は、大内家11代、雪舟を招聘し、文化に造詣の深いことで知られる大内教弘が築いた別邸。南側にあった大内氏館跡と同じく、京都の室町将軍邸を模した館であったと考えられています。
八坂神社の境内に、目立たないですが、案内板がありました。 -
八坂神社の境内の続きに、河村写真館と書いた擬洋風建築。三連アーチの正面ベランダと屋上の塔屋は、明治8年に建てられた見事なデザイン。毛利藩の砲術師範であった小野為八が、長崎留学中に砲術を学ぶ傍ら写真術も取得し、明治期になって写真館として開業したということ。
すでに廃業していたようですが、それには気が付きませんでした。 -
御菓子処風月堂は、今八幡神社を出たすぐのところ。ちょっと老舗風の店構えがいい感じです。
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新緑の季節ということで、草餅をいただきましたが、お餅は柔らかくて、食べると餡子と一緒に溶けるような味わい。自然のままに作るとこうなるもの。ただ、最近は、そうじゃないお菓子が幅を利かせていて、手を加えていないよさが皆さん分かるかなあ。ちょっと気になりました。
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萩往還という言葉は、初めて聞きましたが、これは、城下町である萩と防府市を山口市を経由してほぼ直線的に結んでいた街道のこと。幕末には、維新の原動力となった長州の志士たちが往来する道として、重要な役割を果たしたのではないかと思います。
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そこにあるのが山口ふるさと伝承総合センター。「まなび館」、「たくみ館」、「みやび館」の三つがあって、ちょっとややこしい。
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建物としては、たくみ館が一番大きくてこれが本館といった感じ。
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入ると、大内塗りなど、地元の伝統工芸品の展示やこれを実際に作っている生徒さんたちの作業風景を見ることができます。
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ただ、観光としては、まなび館がお勧め。
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明治時代に建築された古い造り酒屋を利用したもので、
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凧の展示とかが面白いです。
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のむら美術館の所蔵品の紹介もありました。
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山口県文書館は、山口図書館と一体になった施設。二階に上がると、明治維新に関係する図書のコーナーがあって、さすが維新の雄、長州藩のおひざ元だけのことはあります。
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維新の経緯はとても複雑。分かっているようで分かっていないことがいかに多かったか思い知らされています。
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山口県立美術館は、亀山公園の一角。どうしても、薩摩藩の鹿児島の美術館と比べてしまいたくなるのですが、結局、山口では、明治以降、偉大な画家は生んでいませんよね。
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なので、コレクション展では、香月泰男の版画がメインとなっていました。モダンな作風が実務家を多く生んだ長州の気風を反映しているような感じもして、自分で納得したりしました。一方で、萩焼の作品がもっと多いのかと思ったらそうでもなくて、ちょっとさみしく感じました。
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山口県立山口博物館も、亀山公園の一角。県立美術館の並びです。
長州藩のおひざ元だし、明治維新の関係の展示はどうなっているのか興味津々でしたが、大きく取り上げられていたのは、周布政之助。 -
軍備の増強や財政の整理などの藩政改革を進めたとありますが、維新への原動力は尊王攘夷という本来は無理筋な思想。知識や情報に明るく、的確な判断がすんなりと主流派になったわけではなく、特に、長州藩では藩論が紆余曲折したところ。一筋縄での説明では理解は難しいでしょう。
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兄弟堂は、山口駅から商店街に向かう大通り沿い。地元に密着したような小さな和菓子屋さんです。
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どら焼きをいただきましたが、津和野の源氏巻を散々食べた後だったので、カステラ生地や餡子など、何か、味が同じように感じました。逆に、源氏巻がどら焼きに似ているのかもしれませんが。。
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御堀堂本店は、山口駅から歩いてすぐですが、大通りから少し脇に入ったところ。ただ、大きなビルの看板が遠くからでもよく見えます。
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ここの外郎は山口では一番うまいという評判です。スタンダードな外郎と抹茶、小豆の三種類を買って、食べ比べ。小豆の外郎は黒砂糖の香りがして濃い味わい。深みのある甘さがいい感じでした。
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和菓子の家すえながは、山口市内のアーケード商店街の中。大判焼きの看板が目に入り寄ってみました。
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黒餡の大判をいただきました。食べ始めは、意外に甘さが抑えてあるなあとか思ったのですが、食べ進めるに従って、ちょうどいい感じ。繰り返し作った年季を感じる仕上がりだと思います。
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かなざわ菓子店は、山口市内のアーケード商店街を湯田温泉の方に抜けたすぐのところ。看板も何もない地味なお店ですが、地元のファンがちゃんといて、やっぱりここじゃないとダメなのよねとかいって、お客さんがやって来ます。
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私は、小豆の鹿の子をいただきましたが、垢抜けた甘さは確かに積み重ねたものがある。年を取っていつまで続けられるかわかりませんとご主人は自嘲していらっしゃいましたが、こういう店があること自体、山口の誇りではないかと思います。
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これは井上馨候遭難の地碑。
京都蛤御門の変で敗れた長州藩に対し、幕府は長州征伐の軍を進めます。長州藩では恭順の意を表すべきだとする恭順派と武力で幕府に対抗すべきとする急進派が争います。井上は、急進派であり、恭順派の壮士にここで襲われ、九死に一生を得ることとなった場所です。 -
藤光海風堂は、湯田温泉の表通り沿い。長門市に本店のある仙崎蒲鉾の直営店です。ちなみに、仙崎蒲鉾は宮内庁ご用達も務める老舗のよう。
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いただいたのは、「仙崎焼」という竹輪ですが、魚が何を食べているかといったコメントまでついていました。プリプリした食感は、あちこちあるのですが、ここのプリプリも独特な味が濃くてちょっと香ばしい。高級感があるように感じました。
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松田松栄堂は、湯田温泉の高速バス亭のはす向かい。ちょっと老舗風の渋い店構えです。外郎が名物のようですが、いろんな種類があって、これは目移りしますねえ。
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で、結局いただいたのは、夏ミカンの外郎。夏ミカンの香りと酸味がしっかり閉じ込められて、これはうまい。ういろうは、いろんな味と相性があうのでしょうが、夏ミカンがこんなに合うとは。意外なうまさがとても新鮮でした。
ここからバスで広島に抜けます。以上で二日間の旅は終了、お疲れ様でした。
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