2001/10/12 - 2001/11/04
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kojikojiさん
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ナザレから日帰りでバターリャとアルコバッサを周遊しました。これはポピュラーなルートのようでインフォメーションのお姉さんはバスの時間を全て暗記していました。朝10時50分のバスが運休で始発は12時25分でした。午前中に動けないのでかなり急ぎ足の観光になってしまい、街中をブラブラする時間も無かったのが残念でした。
何とか目的の教会の見学は出来て、ナザレに戻ったのは7時過ぎでした。大西洋に沈むでっかい夕日が見られたのはラッキーでした。カメラを持ってなかったのは残念ですが。夕食はCASA O PESCADOU という定食屋みたいな店に入りました。お客はみんな地元の漁師さんで、魚料理を注文すると「俺たちが獲ってきた魚だ。」とか「上手いだろう。」と話しかけてきます。最後はワインを飲みながら一緒にサッカー観戦。楽しいひと時でした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 高速・路線バス
- 航空会社
- エールフランス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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予定していた午前中のバスが運休のため、ナザレを出発するのが昼過ぎになってしまいましたが、次に行くアルコバッサ経由だったのでナザレに戻る途中に立寄れば良いので安心できました。
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広場から見たバターリャ修道院のファサードです。石灰岩が黄土色に変色した上に雨に当っているので石のパッチワークのように見えます。正式名聖母マリア修道
で知られる修道院は、1385年8月14日バターリャ近郊で行われたアルジュバロータの戦いで、カスティーリャ王国軍をジョアン1世が打ち破ったことを聖母マリアに感謝するために建設が開始されます。アルジュバロータの戦いはポルトガルの勝利を決定付けた戦いとして知られ、バターリャとはポルトガル語で「戦闘」を意味します。バトルの語源でもあります。 -
ファサードのアーチ・ヴォールトの彫刻はキリストの戴冠の場面です。飴色に変わった石の色が柔らかい彫刻のイメージとマッチしています。
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本当は石ではないのでは?と思えます。実際に石の中では柔らかい物なので加工もし易かったのでしょう。
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創設者の礼拝堂はジョアン1世の指示のもと、フュゲットが建設したポルトガルで最初のパンテオンです。フランボワイヤン式とイングランドの垂直様式の調和を見ることができ、礼拝堂は3つの格間と中央の8本の支柱によって控え壁が設けられた八角形の空間に分けられています。
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ポルトガルでステンドグラスは珍しく思えました。ゴシックの建物のせいかドイツ風な雰囲気も感じられます。調べてみるとポルトガルにおいて最初にステンドグラスを備えた教会建築で、フランケン地方やニュルンベルク地方のドイツ人の芸術家がバターリャに持ち込んだとされるそうです。最古のステンドグラスは1430年代末のものだそうです。
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この修道院にはジョアン1世と王妃フィリパの墓の他にペドロ王子やエンリケ航海王子も眠っています。
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外装はポルト・ド・モスで産出された石灰岩によって構成されており、時が経過するにつれて黄土色へと変色していったようです。レイヨナン式とフランボワイヤン式といったゴシック建築の様式に加え、ルネサンス建築が融合した稀有な例であり、イングランドの垂直様式の要素も強く感じられます。
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愛労を埋め尽くすマヌエル様式の石のレースは本当に素晴らしいです。
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個人的にはこの修道院の彫刻が一番印象に残っています。
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日本人が好むのは寺社建築の透かし彫りに似ているからでしょうか?素材は違っても親近感を感じます。
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「陰翳礼讃」の中で谷崎潤一郎は「西洋の文化では可能な限り部屋の隅々まで明るくし、陰翳を消す事に執着したが、いにしえの日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ映える芸術を作り上げたのであり・・・。」と書き残していますが、ポルトガルだけは日本の美意識に近かったのではないかと感じます。
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ディティールを見ていったら次に進めないような気がします。
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未完の礼拝堂はバターリャ修道院が完成形を見ることがなかったことを示す証でもあり、礼拝堂自体はドゥアルテ1世によって1437年に着工しました。ドゥアルテ1世と彼の子孫が埋葬されるための王室の第2の霊廟であったが、実際にはドゥアルテ1世とその妻であるレオノール・デ・アラゴンの2人のみが埋葬されています。
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ドーム天井の部分以外は完璧に出来上がっています。建設当時もドームを造るのは高い技術が必要だったのではないかと思います。
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この日は雨が降ったり止んだりだったので、特に建物の中と外の境界が曖昧になり、不思議な感じがしたのかもしれません。
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ここまでの装飾過多になると執念に近いようなものを感じます。
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紙にペンで描くように彫刻されています。一度どこかで仮組した石材に彫刻を施したのか?積み上げた石に直接彫っていったのか疑問が残ります。
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表に出ると日差しが戻ってきました。一日数本とバスの時間が決まっているのでアルコバサへ急ぎます。ゆっくり周辺の散策も出来なかったのが残念です。
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アルコバッサ修道院はポルトガル初代国王アフォンソ1世の所願により、1178年に建築が始められます。フランスのシトー派の影響を強く受け、修道院の正面ファサードは18世紀に改築されたバロック様式ですが、内部はゴシック様式が残っています。南の翼廊にはポルトガル文学で悲恋が歌われるペドロ1世と愛妾イネスの墓が並んでいます。
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ポルトガル王アフォンソ4世は王太子ドン・ペドロをカスティーリャ王族コンスタンサ・マヌエルと結婚させます。ところがカスティーリャ王国から嫁いできたコンスタンサの女官のなかにイネス・デ・カストロという美女がいて、ペドロはイネスの方に夢中になってしまいます。王位の後継者が正妻を省みず不倫の愛に溺れるのを見かねたアフォンソ王は何度もペドロにイネスとの関係を絶つように迫るが、ペドロは聞き入れようとはしませんでした。
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王女コンスタンサは王子フェルナンド(フェルナンド1世)を出産したが早世してしまいます。やがて歳月が流れペドロはイネスとの間に子も生まます。公務をないがしろにしてコインブラで愛の生活を送るペドロに絶望したアフォンソ王は、ついにイネスを亡き者にするよう3人の家臣に命じます。1355年王子ペドロの不在の間に3人の刺客はイネスを暗殺しますが、このことを知ったペドロは怒り狂い、ポルトガル北部で反乱を起こします。母后ベアトリスのとりなしで父と子は和解しますが、5ヶ月後アフォンソ王が崩御してペドロはポルトガル王位に即位します。これがペドロ1世です。
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ペドロ王は父王とは和解しても実際にイネスを手にかけた3人の刺客は許せず、カスティーリャに逃れた2人はポルトガルに引き渡され、ペドロ王の目の前で処刑されます。アラゴン王国に亡命した者は自殺に追い込まれた。イネスを亡くしたペドロ1世はその後二度と結婚せず独身を通しています。
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ドニャ・イネスの悲劇は、ポルトガルの詩や伝説の中で永く語り継がれています。
そしてこの堂内で二人の棺は祭壇に向かって左右に置かれています。通常であれば横並びに置くところですが、ここでは足を向い合せるように置かれています。 -
それは最後の審判のときに目覚めた二人が最初に目を合わせられるようにとの想いからだそうです。
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この後に行ったコインブラではこの物語を知った後だったので、イネスの暗殺された涙の館に行ったのは言うまでもありません。
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アルコバッサも古い建物が残る素敵な町でした。ここも時間が無くて駆け足で通り過ぎる旅だったのが残念です。
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ポルトガル縦断の旅も半分くらい過ぎたでしょうか?後半はスペイン北部とマドリッド周辺も入れてしまいましたがポルトガルだけでゆっくり一月予定を組んでも良かったなと思いました。
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