2005/12/17 - 2005/12/21
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旅人のくまさんさん
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<2005年12月19日(月)>
アユタヤ遺跡の見学を申し込んでいたのは私一人でしたから、専属のガイドさんと運転手さん付きの贅沢な見学となりました。この日も願っても無い好天に恵まれました。10月頃まで続く雨季が終って、完全に乾季に入っていたようです。
今回の旅行での一番の楽しみが、この世界文化遺産、アユタヤ遺跡の見学でした。ガイドさんは、9時にホテルに出迎えに来てくれる約束になっていました。(ウィキペディア)
<近道を通って早朝の散歩>
7時前に起床しましたから、朝食の後に、アユタヤ見学の時間までは、1時間以上の余裕がありました。それで、近道を通って、クイーンズガーデンの早朝の散歩を楽しみました。近道は、2階のレストランの横を通って、ホテルの裏口に通じるコースです。BTSのスクンビット駅への近道にもなっています。
公園に隣接する扉には、いつもホテルの守衛さんが常駐していますので、声を掛けてから、その門を潜りました。公園では、平日の早い時間でしたが、ジョギングや散歩の人を、結構見かけました。昨日は、日曜日でしたから、遊戯具でお子さんを遊ばせているお母さん方も見えましたが、今朝は、その遊戯具の場所は閑散としていました。
カメラを持参しての散歩でしたから、一通り公園を散歩しながら撮影をしました。花壇では赤いバラの花も咲いていました。公園から眺めたインペリアル・クイーンズパークホテルの姿も中々でした。
<アユタヤ遺跡見学へ>
約束の時間の少し前に、ガイドさんがホテルに迎えに来てくれました。私一人の贅沢な観光になりましたので、約束の時間前でしたが、すぐにホテルを出発しました。市内を通過する時に、ラッシュアワーの影響を出来るだけ少なくするためでもありました。
ラッシュになっていましたが、大きな渋滞にはなりませんでした。感心したのは、どんなに混雑していても、車同士が譲り合う光景があちこちで見られたことです。強引に割込んだり、意地悪をして、割り込みをさせないような運転は見かけませんでした。タイの人の人間性を垣間見たような思いでした。
アユタヤ遺跡見学の前に、少しその説明をしておきます。西暦1350年にシャム(現在のタイ国)、アユタヤ王朝の都として築かれたアユタヤは、チャオプラヤ川中流の沿岸にあります。東西約7km、南北約4km、四方を川に囲まれた島状の街です。水運を利用し、近隣だけでなく中国、ペルシャ、遠くヨーロッパとも交易を広め、最盛期には東南アジア最大の都市へと発展しました。
アユタヤの歴代王は上座仏教を信奉し、都に数多くの寺院や宮殿を建立しました。今日残っているそのほとんどは、都ができて150年の間に建てられたものです。35代にわたって続いたアユタヤ王朝も、1767年、ビルマの軍勢によって滅亡しました。この侵攻により廃虚となった遺跡群は、1991年、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。
四方を川に囲まれたアユタヤの町は、その『島』全体が遺跡で溢れていますが、中でも見所とされるのは。王室守護寺院のワット・プラ・スィー・サンペット、木の根に仏頭が取り込まれたワット・マハータート、巨大な涅槃仏のワット・ロカヤスタなどです。他にも見所が沢山あり、数え上げれば、きりがないほどです。
<バンパイン夏離宮>
アユタヤ遺跡群の見学の前に、順路のバンパインの夏離宮を見学しました。ここまで、バンコクのホテルを出発して1時間程の行程でした。
アユタヤから南に約20km、チャオプラヤ川の中洲に立つバンパイン宮殿(バンパイン夏離宮)は、1632年にアユタヤ朝の第26代プラサート・トーン王によって建造されました。
以来、歴代王の夏の離宮として使用されましたが、1767年のアユタヤ王朝崩壊後は、約80年間も放置されていました。19世紀になってラーマ四世からラーマ五世の時代にかけて再建されて、昔の姿を取り戻しています。
現在でもここは王室の所有ですが、王室関係者は外国高官の公式訪問などの特別な時しか使用しないため、一般に公開されています。入場に際しては王宮と同様の服装チェックがあります。
離宮全体のイメージは、西洋式の庭園を強くイメージさせます。ラーマ五世が、繰り返しヨーロッパを歴訪された影響とガイドさんが説明していました。その敷地内にある建物は、西洋の建築様式のほか、中国風の建物やタイの伝統様式の建築物が、広い敷地に散在しています。
印象深かった建物の中でも三つに絞るとしたら、アイサワン・ティッパートの名前の、ラーマ五世の像が安置されているタイ様式の建物、これは水上パレスの別称もあります。明天殿と呼ばれている中国様式の建物と、ポルトガル様式の展望台を挙げることができます。
もう少し補足しますと、中国様式の建物は、ウェーハート・チャムルーンと呼ばれ、宮廷の臣下の居室として使用されました。また、ポルトガル様式の展望台はラーマ四世が天体観測をしたとも伝えられています。現地ガイドさんの発音では、展望台ではなく、天文台に聞こえました。ホ・ウィトゥン・タサナーの名前があります。
<日本人村跡>
アユタヤの日本人村のことを説明するには、時代が遙か遡ります。西暦1350?1767年の417年間アユタヤがタイの首都でした。16世紀当時の日本では、外国貿易に従事する許可証(御朱印状)を発行して、貿易を奨励していましたが、御朱印状を持たない交易船も多くありました。
御朱印状を持たない貿易船で、タイの首都アユタヤに来た者も多く、その人達はタイ国王から居留地を与えられていました。その場所が、山田長政アユタヤ日本人村として今は観光地となっています。当時は、数千人の日本人が住んでいたとされます。その日本人町の首領が山田長政でした。
山田長政の日本時代について、もう少し紹介しておきます。江戸時代の初め、長政は家業の紺屋を継がず、沼津藩主の籠かきをし、兵法を学ぶ無頼漢でした。23歳の時、地元の豪商の船に便乗して台湾に密航し、更にアユタヤに渡ったとされます。
山田長政は、異国の風習に悩みながらも、多くの武功と知略によって、地位を築きました。南タイ、ナコン・シータマラートに反乱が起きた際、都を離れ、反乱軍を平定し、同地の武官の最高位の官職、大守にまでなったとされます。最期は、王宮内の権力闘争の犠牲となって、41歳で客死するという、波乱万丈の生涯を送ったようです。
1935年、バンコクに設立された泰日協会が、オランダ東インド会社の文献に基づき旧日本人町跡を発見してから、タイ国日本人会の協力で遺跡として保存されています。記念館兼お土産店は、日本人スタッフで運営されていました。
そのうちの一人の方と話が弾んでお聞きしたことを少し記しておきます。タイに赴任されて、10年以上が経ったとされる名古屋出身の方でした。『水上マーケットの品のうち、編み物や木製品は手で触れるのも避けたがいいです。消毒がしてありませんから、ダニなどが潜んでいて、持ち帰った後で、大変な目に会うことがあります』と言ったアドバイスでした。お値打ちな上に、きちんと消毒が施され、蝋燭立ての大部分もプラスチックではなく、木で作ってありましたら、色々と品定めをして、お土産を買い求めました。
<アユタヤ涅槃仏>
私一人のアユタヤ観光でしたから、自由にスケジュールの変更も出きました。それで、ガイドさんが予定していた見学地の順番を変えてもらった、行き先そのものも追加、変更をしてもらいました。その内の見学地の一つがワット・ロカヤスタの涅槃仏の積もりでしたが、ガイドブックや、インターネットで検索したワット・ロカヤスタの涅槃仏とは少し違っていました。それで、この項目のタイトルも、アユタヤの涅槃仏としました。
このお寺もビルマ軍によって破壊されたとされます。しかし、理由は分かりませんが、仏像は棄損されてなく、無事なお姿でした。建物自体が無残に壊されていたのに対し、不思議な光景でした。この後も、首を切られた仏像を沢山見ましたから、ことさらでした。少し細面の、素晴らしいお姿の仏像に手を合わせました。
<ワット・マハータート>
アユタヤ遺跡の写真の中でも、特に有名な光景が切り落とされた仏頭の周りを木の根が囲っている写真です。その仏頭が見学できるのが、ワット・マハータートです。
最初にワット・マハータートについて、ガイドブックを参照しながら説明をしておきます。建立者には諸説があるようです。13世紀頃の建立のようです。しかし、王室守護寺院のワット・プラ・スィー・サンペットに隣接する場所にありますから、有力な立場であった人が、建立に関係したのは間違い無いことでしょう。
やはりビルマ軍によって激しく破壊され、頭を刈り取られた仏像がずらりと並んでいます。木の根で覆われた仏頭も、刈り取られ、打ち捨てられたものの1つだったかもしれません。1956年に発見された宝物や仏像は、チャオ・サン・プラヤー国立博物館に収蔵されていますが、今回は見学しませんでした。
話しは元に戻って、根に覆われた仏頭ですが、並んで一緒に写真を撮る時には、必ずしゃがんで、見下ろすような姿勢をとらないよう、予め注意されました。柵で囲われ、飾りが一杯の頭だけの仏様は、今は手厚くもてなされ、参拝されています。この写真を撮る時も、しゃがみました。決して、見下ろすような撮影にならないように注意しました。
<ワット・プラ・スィー・サンペット>
15世紀末期の1491年に建立された王室守護寺院です。バンコクのワット・プラケオに匹敵する重要なお寺とされます。1500年には、ラーマティボディ2世が、高さ16m、総重量117kgの黄金で覆われた仏像を建造するなど、栄華を極めたとされます。
しかし、この寺院もビルマ軍の攻撃を受けて、破壊されてしまいました。中心部には、セイロン様式の3基の仏塔(チェディ)がありますが、それぞれ、歴代王を祀ってあります。周辺の仏塔が大きな破壊の跡があるのに対し、この3基は、漆喰も残って良く保存されています。王室の権威にかけて、再建されたものかも知れません。しかし、新しく修復した箇所が見当たりませんから、何かの理由で、もともと被害が少なかったのかも知れません。
ところで、この小冊子をまとめている最中に、NHKテレビの世界遺産の特集番組で、アユタヤ遺跡のことが放映されていました。その盛衰を説明する場面で、次のことが語られていました。記憶を辿って要旨を記しておきます。
『アユタヤの草創期は、王は民衆と同じレベルで仏陀を崇めていました。それで、一致団結して外敵と戦うことができました。しかし後世になると、王は民衆から離れ、自分を仏陀と同じレベルに置き、信仰の対象として、権威を高めようとしました。しかし、その結果は逆でした。民衆の心が王から離れ、一致団結して外敵と戦うことも出来なくなって、ついには滅ぼされてしまいました』
と言った解説でした。ワット・プラ・スィー・サンペットは、一般には王室守護寺院と称されていますが、別の説もあります。例えば、インターネット情報の一つには、『実際は寺院ではない。名称は御吉祥活仏寺院と呼ぶ程度』との書き込みもありました。
伝説によれば、ワット・プラ・スィー・サンペットは、アユタヤ王朝の創設者のラーマティボーディ1世(即位・1351?69年)によって宮殿が建てられたのを起源とされます。後のトライローカナート(即位・1448?88年)の時代になると宮殿が移築され、この地は王専用の仏教儀式の場となり、更に時代が下って、ラーマティボーディ二世(即位・1491?1529年)の時代に現存する仏塔のうち東側の二つが建てられ、この後、ラーマティボーディ二世が崩御すると、三つ目の仏塔が建てられました。
ここに納骨されているのはアユタヤ王朝の歴代王のうちの3人の王です。アユタヤ王朝が崩壊する原因を秘めた仏塔に感慨が沸きました。仏塔自体の目的が、次第と変化をしていったようです。
<象さんに乗ってトレッキング>
ツアーのオプションに象さんトレッキングが入っていました。ガイドさんは『食事のすぐ後ですと、揺れて気分が悪くなることがありますから、最後にします』と言って、時間を調整してくれました。
大きな象さんに乗るには、階段を登って台の上からになります。他に待っている人はいませんでしたから、すぐに乗ることができました。若い象使いの人は、片言の日本語が話せる人でした。それで、この象さんが19歳、前を歩いている一回り大きな象さんが、29歳であることも教えて貰いました。
象さんの上には、縁が付いた乗り籠がセットされ、この上に座ることになっています。足は象さんの首の後ろ辺りに乗せるように教えて貰いました。靴は履いたままですから、少し象さんには申し訳ない気がしますが、分厚い皮膚ですから、何の問題も無いのでしょう。
象さんの上から眺める景色は、2階建てのバスに乗ったような気分です。ゆっくりと歩みを進めますが、籠の上はかなり揺れます。ガイドさんの象酔い(?)のアドバイスが良く理解できました。時間をかけての遺跡めぐりのトレッキングもあるようですが、ツアーに組み込まれていたのは、途中で同じ道を引き返してくる、ショートカットコースでした。
気性が荒いとされるアフリカ象と比べると、実におとなしいアジア象の印象でした。小象さんと遊んだり、若い象さんにミルクを上げるイベントもあるようでした。初めての乗象(?)体験でしたが、大いに楽しむことができました。
ちなみにアフリカ象は、雄、雌とも、大きさは違うものの牙を持っていますが、アジア象は雄だけが牙を持っています。また、大きさも違い、アフリカ象は体長6?7.5mであるのに対し、アジア象は若干小さく、体長5.5?6.4mとされます。耳の大きさなども違います。もちろん、アフリカ象の方が、ジャンボ団扇のような、大きな耳を持っています。
<少し早い夕食>
アユタヤからの戻りも、高速道路の交通渋滞は無く、1時間程で、夕方の5時過ぎにはバンコク市内に到着しました。早く着いたのは、いいのですが、この後の予定は夕食だけでしたから、まだ開いていなかったレストランで、日が落ちない内からの夕食となりました。
食事の内容は、写真編に紹介しておきましたから、そちらをご覧ください。この日の夕食の楽しみは、トムヤンクンでした。世界の3大スープとも称されている、辛くて酸っぱい味が、病みつきになるスープです。そのほかにも3種類の料理と白ご飯が出されましたが、とても一人で食べきれる量ではありませんでした。
トムヤンクンは、新鮮な蝦がたっぷりと入って、期待通りでした。メニューにワインがありましたので、白のハウスワインをグラスで注文しました。2階の部屋を一人で貸し切っての食事でした。ワインと一緒にゆっくりとタイの料理を楽しみました。つい、もう一杯、ワインを追加しました。
その他の料理は、牛肉とピーマンの炒め物や、海産物の炒め物などでした。こちらも中々の味でしたが、何しろ量が多すぎましたから、半分以上が残ってしまいました。トムヤンクンだけは残さずに頂きましたが、少し申し訳ない気持ちで箸を擱きました。
<ナイトバザールへ>
夕食の後は、ホテルまで戻るスケジュールでしたが、行き先の変更をお願いして、ナイトバザールまで車で送って貰いました。明日は1日中、自由行動ですから、ガイドさんとはこれで最後となります。別れ際に少し多めのチップを渡しておきました。地下鉄とBTSを使って帰る予定であることをガイドさんに告げて、お別れしました。
ナイトバザールに到着したのは6時過ぎでしたから、まだ閑散としていました。今日の買い物予定はお香でした。白檀、英名はサンダルウッドです。何軒かお香を扱っているお店がありましたが、その1軒で大袋に入った三角錐の白檀を100バーツで買い求めました。日本で買えば1万円くらいはする量でした。それが日本円では350円ほどでした。
このお香は、香りが強いために、帰国の時のセントレア空港の税関で、品名と買った目的を、軽く尋ねられました。それで、お香の白檀であることと、値段のことを話しましたら、簡単に納得して頂きました。若い男性の職員の方でした。
このナイトバザールでは、反省事項があります。ポケットにデジカメを入れて写真を撮っていたのですが、人ごみの中で盗難にあったことです。少しばかり油断をしていました。幸いメモリーに入った写真が少ない内でしたから、大部分は、予備のカメラで撮り直すことが出来ました。ナイトバザールは盗難事故が多い場所と、ガイドブックでも注意されていますから、くれぐれもご注意を。
バンパイン夏離宮で
東西の粋凝らしたる館あり花咲き揃う夏の離宮に
日本人村で
アユタヤの遺跡に近き倭人村百歳重ね石碑に刻む
ワット・ロカヤスタで
黄の袈裟を纏し涅槃横たわる空は眩しき廃墟の寺院
ワット・マハータートで
刈り取れうち捨られし仏頭の蘇りたる巨木の根元
ワット・プラ・スィー・サンペットで
百敷の宮の護りの寺院なり復興なりし三基の仏塔
象トレッキング
まだ若き象の背中の籠に乗り揺て遺跡の道進み行く
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 船 タクシー
- 航空会社
- タイ国際航空
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ホテルに隣接したクイーンズパークです。ホテルの入り口には、何時も守衛さんが立っていました。何度も通るうちに挨拶を交わすようになりました。
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ビルの谷間から朝日が差し込んできました。暑くも無く、散歩を楽しむには絶好の時間帯です。
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噴水は一日中吹き上がっているようでした。公園の一角を占める池のアクセントになっていました。
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花は咲いていませんでしたが、紫露草のようです。大型の大紫露草科も知れません。野草の露草とは、大分イメージが異なります。
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すっかり葉を落とした白い幹の樹です。公園の花壇で見つけました。自由奔放に伸びた枝振りが印象的でした。
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公園の中央には広い池が配置されていました。そのほとりです。石段になったこの広場には、沢山の鳩が集まってきます。
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全面に蔦が生い茂って、お化けのようになった樹の幹です。普段、余り見かけない葉の大きな蔦です。観葉植物として鑑賞されている種類かも知れません。
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滑り台やブランコも公園の中にありました。昼間には子供さん達を遊ばせていた日本人親子も見かけました。タイに駐在されている家族達でしょう。
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季節は冬の12月ですが、タイでは秋バラの季節と言った感じでした。鮮やかな赤色のバラが公園の花壇に咲いていました。
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仔細に観察した訳ではありませんが、モクレン科のタイサンボクのようです。白木蓮に似た白い花が咲いていました。
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公園の広場にあった彫刻です。その石畳の広場を取り囲むようにベンチがあり、朝早くから腰掛けている人達がいました。
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初日の夜に撮影しましたが、昼間に見ますと、また違ったイメージです。左がプミポン国王、右が王妃の黄金色のレリーフです。
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朱色に近い色のブーゲンビリアです。原産地は、中央アメリカ、南アメリカの熱帯雨林です。花の部分は、赤色の中央部の黄色く見えるところです。
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オレンジ色に近いブーゲンビリアです。名前の由来は、1768年にブラジルで木を見つけたフランス人の陸軍士官ブガンビルに因むとされます。
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白色のブーゲンビリアです。和名はイカダカズラ、オシロイバナ科のブーゲンビリア属に属する熱帯性の低木です。
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公園側から眺めた、インペリアル・クイーンズパークホテルです。泊まった部屋は、左側のタワーの24階でした。
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公園の池のほとりからのホテルの遠望です。街中のホテルですが、中庭のような公園に、緑がたっぷりでした。素晴らしい環境でした。
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人工の池か、自然のものかは知りませんが、湖畔にも色々と変化を持たせてありました。木陰もあり、憩いの場所には好適です。
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日本では夏が相応しいカンナの赤い花です。因みにカンナは江戸時代の初期に渡来したとされます。熱帯・亜熱帯アメリカが原産地です。
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カンナも品種改良が進んでいるようで、いろんな色や絞りなどの花を見かけます。赤色や黄色は原種の色でしょうか。
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サンタンカの赤い花です。中国南部やマレーシアが原産地とされます。和名では山丹花と書いたり、三段花(サンダンカ)と記すこともあります。
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バンコクに到着した初日の夜に撮影した公園の中の建物です。その背後にはBTSの高架があり、更にその後ろには、高層ビルが控えていました。
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ボート遊びに作られた桟橋と東屋風の建物でしょうか。この日も、船は繋留されていませんでした。特別の日にだけ使用されるのでしょうか。
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公園にあったモニュメントの数々を紹介します。王妃のための公園ですから、著名な作家達による作品群に間違いないでしょう。
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タイの彫刻作家についての知識は、全くありません。それで結局はプレートの撮影はしませんでした。この作品はかなり具象的です。疾駆する牛でしょう。
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この作品は、具象的にも見え、抽象的な造形にも見えます。人物群像か、二人の人物を抽象化したようにも見えます。
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この作品は、純粋に造形美を楽しめばよい感じです。ブロンズ作品のようです。
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芸術作品が続いたところで、これは花壇の中に作られたお遊びの造形です。カンガルーに見えますが、他の動物かも知れません。
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王妃のための公園には、オブジェの他にも色々と工夫を凝らして見所が造ってありました。花壇と、その横の三角錐の建造物です。
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南国ムード一杯の植物です。ソテツかフェニックスの葉を巨大にした感じです。鋸歯状の大きな棘がありました。
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