はちのすけさんのクチコミ(119ページ)全3,333件
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.5
寺町通りから二条通りを西にぶらぶらと歩いていたら、伝統ある建築物が見えた。思わず近寄り、カメラのシャッターを切ったが、あとから調べるとそれが京都ハリストス正教会だった。京都市の指定文化財。聖堂の建築様式は日本では少ないロシア・ビザンチン様式で、最大長が22メートルに達するという。
- 旅行時期
- 2019年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.0
明治維新後に木戸孝允(桂小五郎)夫人となった幾松と桂小五郎が幕末に身を隠した場所だ。幾松は芸妓で、長州藩士の小五郎と知り合った。その後、禁門の変などを経て、長州藩は完全に幕府の敵となり、小五郎は「お尋ね者」に。幾松はそんな小五郎の政治活動を助けてかくまったという。碑がある料亭「幾松」には、小五郎が身を隠したとされる長持ちや抜け穴など、敵の目をくらますための仕掛けが今も残されているという。
- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.0
碑があるだけだが、歴史の舞台だ。幕末の大老・井伊直弼は勝手に外国と条約を結んだ釈明をするため老中の間部詮勝を京都に派遣する。その時に住んだのが、碑がある場所だ。間部は調停工作の一方で、幕府を批判する志士を捕縛し始める。これが安政の大獄の始まりだった。その意味では、この場所にも雰囲気がある。井伊の赤鬼、間部の青鬼と呼ばれたが、やがて2人は対立し、間部は退陣する。安政の大獄でとらえた志士の処刑に間部が反対したのが理由という。案外、いい人だと思うのだが。
- 旅行時期
- 2019年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.0
地下鉄烏丸線が京都-北大路で開通した時、御池駅に設けられた埋蔵文化財の展示コーナーを見に行ったことがある。その時は京都の地下から文化財が出土するのは当たり前だと思い、興味が持てなかった。今回、烏丸御池の交差点に置かれた石碑の内容はなかなか興味深い。縄文末期から古墳時代にかけて集落が営まれた証拠が多数出土したとあるが、この時代からこの土地が天災がなく安定していたことをうかがわせる。さらに足利将軍家や織田信長が宿営の地に選ぶなど中世は高級住宅街だったという。そういえば近くには尊氏ゆかりの邸宅跡や御所八幡宮、信長ゆかりの本能寺や二条城などが集中している。
- 旅行時期
- 2019年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
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投稿日 2019年06月15日
総合評価:3.0
現在も寺町にある善長寺の鎮守として、丹波国(現・福知山市)の大原神社が勧請されたのが創建。この大原神社は安産のご利益として知られていたが、勧請された大原神社はお札の配札場となり、代わりに運上米を納めていた。が、ある時から運上米を納めなくなり、二つの大原神社は対立。吉田神社が間に入って事を収めた後はそれぞれ違うお札を配るようになった。交流が復活したのは2001年。翌年には祇園祭で練り歩く地元の鉾が福知山大原神社の祭りに参加した。小さな神社だが、なかなか面白い歴史がある。
- 旅行時期
- 2019年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月13日
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投稿日 2019年06月13日
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投稿日 2019年06月13日
総合評価:3.0
六角堂に烏丸通側から向かうと、お堂と六角通をはさんで反対側の飛び地に建っている鐘楼だ。戦国時代、京都に戦乱の危機が迫るとこの鐘がつかれ、民に危機を知らせたという。今はセルフタイマーで正午や夕方に鳴る。初代の鐘は火事で焼失、二代目は第二次世界大戦時の金属供出で失われた。現在の鐘は戦後の1954年に復活した。
- 旅行時期
- 2019年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月13日
総合評価:3.0
石碑をそのまま読めば高瀬川を開削した角倉氏が江戸時代に邸宅を構えていた所だ。が、深読みすれば高瀬川の歴史を物語る石碑だといえる。高瀬川を開削した豪商の角倉了以は高瀬川の最上流にあたるこの場所に邸宅を構え、以降、幕末まで角倉家が高瀬川を運航する舟から運航料を取って高瀬川の管理運営をしていた。規制を緩和して民間に思い切って委ね、経済発展を享受してきた歴史が垣間見える。
- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月13日
総合評価:3.0
ディナーを食べに行く途中で見つけた。御池通に面したホテルギンモンドの隣にある。今まで数えきれないほど前を通っているのに、全然気づかなかった。こじんまりとした神社だ。現地の立札によると、戦時中、御池通の強制疎開で現地に移転させられたという。〝御所〟の名前がついたのは足利尊氏が自宅(御所と呼ばれていた)に勧請したのが由来。子供の守り神としてかんの虫封じ、夜泣き、安産などにご利益があることから、同じく京都にある三宅八幡宮と並んで「虫八幡」と呼ばれている。
- 旅行時期
- 2019年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月13日
総合評価:3.0
仏光寺通を歩いていて見つけた。明治維新後、京都で始まった教育改革をテーマにした博物館だ。全国で初めて実施した学区制の小学校である「番組小学校」など明治・大正・昭和の教育の変遷を資料や映像で紹介している。建物が立派だ。もともと番組小学校の一つである「開智小学校」の校舎を改修したもので、立派なエントランスは京都最古の学校建築を移築したという。遷都後の京都の一断面として面白い展示だった。
- 旅行時期
- 2019年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 3.0
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かつての御旅所
投稿日 2019年06月13日
総合評価:3.0
烏丸仏光寺から少し下がった烏丸通り沿いにある。八坂神社のかつての御旅所で、往時は神輿が立ち寄ったが、現在は小さなほこらが建っている。エリアの氏神のような存在だろうか。祇園祭のみこし3基のうち、2基を大政所と呼ぶが、それが立ち寄ったことから大政所御旅所となり、この辺りの地名になったという。御旅所はここから四条寺町に移転したが、祇園祭の時はお参りがある。
- 旅行時期
- 2019年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2019年06月13日
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投稿日 2019年06月12日
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投稿日 2019年06月12日
総合評価:3.5
江戸時代の東海道五十三次の最後は三条大橋だった。明治時代の京都市道路元標は烏丸三条にある。この河原町ー烏丸間の三条通地区は京都のメインストリートだったのだ。今でも残るレトロ建物群がそのことを雄弁に語り継いでいる。現代は落ち着いた大人の街だ。一度廃れたものの、復活した大人の町として、上品な飲食店が軒を連ねている。雑踏ではない、京都が楽しめるエリアだ。
- 旅行時期
- 2019年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5