2026/07/17 - 2026/07/17
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FUKUJIROさん
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この旅行記スケジュールを元に
仕事でときどき訪れたことのある青物横丁ですが、駅の周辺を歩いた数回分を整理してみました。
浅学のFUKUJIROは、青物横丁が旧東海道に面していることも、品川宿の一部だったことも知りませんでした。
品川宿は、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、江戸時代には西国への出入口として、五街道の中でも最重要視されていました。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋111軒、水茶屋64軒、人口7,000人程の大きな宿場で、現在の北品川から青物横丁まで広がっていました。
7年前になりますが、FUKUJIROは北品川にある品川神社に参拝しています。
よろしければ、そのときの旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11511474
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
青物横丁駅の中央口です。
-
青物横丁駅の正面には「ジュネーブ平和通り」と刻まれた石碑があり、いつも疑問に思っていましたが、今回の散策で謎が解けました。
国道15号線のうち、青物横丁駅前の720mほどにジュネーブ平和通りという副名が付いています。 -
ジュネーブ平和通り沿いのドトールコーヒーショップ 青物横丁店。
待ち合わせをしたり、時にはここで打ち合わせもしています。 -
ジュネーブ平和通りを東へ歩くと、うなぎ 丸富(まるとみ)さんがあります。
働いている人は、ゴルフが大好きな親父さんとそのご家族です。 -
早い、旨い、安いの三拍子がそろっているお店ですが、カウンター席だけなので、長居は禁物です。さっと食べてさっと帰りましょう。
店内はスマホ厳禁なので写真はありませんが、鰻重がお薦めです。 -
少し戻って東海道南品川交差点を青物横丁商店街に入ります。
この通りが旧東海道です。 -
青物横丁商店街を北へ歩きます。
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品川寺と書いて、読み方は「ほんせんじ」です。
品川寺は、大同年間(806年~810年)に開創された品川で最も古いお寺です。
弘法大師が東国巡錫(じゅんしゃく)の際、この地に錫を留め、領主の品河氏に水月(すいげつ)観音を授けたことが始まりと伝えられます。 -
東海七福神のマップ。
昭和7年に品川が大東京に編入された記念として北品川から大森まで約4.5㎞、旧東海道を歩く「東海七福神」を定めました。期間は毎年、元旦~成人の日まで。 -
山門前に鎮座する銅造地蔵菩薩坐像。宝永5年(1708年)建立です。
江戸時代中期に深川の僧 地蔵坊正元が寄進を集めて造ったもので、日本橋から始まる各街道沿いに6体の銅造の地蔵菩薩像が建立されました。
江戸六地蔵として伝わり、すべて東京都指定有形文化財です。
第1番 旧東海道 品川寺(品川区南品川三丁目)真言宗醍醐派 2.75m
第2番 奥州街道 東禅寺(台東区東浅草二丁目)曹洞宗 2.71m
第3番 甲州街道 太宗寺(新宿区新宿二丁目)浄土宗 2.67m
第4番 旧中山道 真性寺(豊島区巣鴨三丁目)真言宗豊山派 2.68m
第5番 水戸街道 霊巌寺(江東区白河一丁目)浄土宗 2.73m
第6番 千葉街道 永代寺(江東区富岡一丁目) 高野山真言宗
第6番は富岡八幡宮の二の鳥居付近にありましたが、明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊されたため、現存しません。 -
江戸名所図会にも記載されている大仏は丈六の大きさです。
東海道だった青物横丁商店街を歩く人々に向けられ、300年間、 旅人と町の人々を見守っています。
FUKUJIROは以前に霊巌寺を参拝していますので、2つ目です。
よろしければ霊巌寺の周辺を散策したときの旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11862231 -
溺死者供養之塚(左)と地蔵菩薩。
銅造地蔵と向かいうように「明治廿九年(1896年)二月十一日銘の溺死者供養之塚があります。詳細はわかりませんが、田中彦太郎ほか品川灣溺死者の名前が刻まれています。
また、舟形光背型の地蔵菩薩像は、元禄9年(1696年)6月の造立で銅造地蔵よりも古いものです。 -
山門前に台石が亀趺の宝篋印塔があります。
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山門は薬医門形式。
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真言宗醍醐派別格本山 品川寺。
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境内の左手に鐘楼堂。
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品川宿は「旅人の町」としてたいそう栄えましたが、江戸時代末期には寺域が荒廃し、大梵鐘も海外に流出してしまいました。
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国指定重要美術品の「大梵鐘」です。
大梵鐘は徳川家三代の将軍、家康公・秀忠公・家光公を供養するため、四代将軍の徳川家綱公が寄進したもので、明暦3年(1657年)に鋳造されました。梵鐘には徳川三代の将軍の法名の他、六体の観音像の彫刻が陽刻され、観音経一巻が陰刻されています。
幕末に海外に流出し、行方不明となってしまいましたが、大正8年(1919年)にスイスのジュネーヴにあるアリアナ美術館で見つかり、昭和5年(1930年)に品川寺に戻ってきたもので、「洋行帰りの鐘」と呼ばれています。 -
返還交渉には逓信大臣の小泉又次郎氏(小泉純一郎元総理大臣の祖父)が政府代表として当たりました。又次郎氏は品川寺近くの「腰之湯」の海側の屋敷に住み、国会に通っていました。
鐘の返還から60年を記念して、平成3年(1991年)に品川区とジュネーヴ市は友好都市となり、その後品川寺近くの青物横丁駅前の道が「ジュネーヴ平和通り」と名付けられました。
梵鐘の前には「ジュネーヴ平和通り命名記念碑」の石碑が建てられています。 -
左手の奥にあるガレージの上には「英霊堂」があり、観音様の前には軍鳩が背に乗った軍馬、軍犬が並んでいます。
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これらの馬・犬・鳩は、戦争中に徴用されて、軍馬、軍用犬、伝書鳩として海外に連れて行かれた動物たちです。
戦争に負け、戦地に置き去りにされた動物たちを供養するために建てられました。 -
都指定文化財の十三重塔、
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境内の奥に弁天堂が建てられています。
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琵琶を持たず6本手の弁財天像です。
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神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)。
寛政11年(1799年)、役行者御遠忌1100年に光格天皇が京都の聖護院に勅使を遣わし、「神変大菩薩」の諡(おくりな)を贈りました。 -
海照山 普門院 品川寺の本堂。
寺伝によると、大同年間(806~810年)に弘法大師空海を開山とし、創建されました。
長禄元年(1457年)、太田道灌により伽藍が建立され、寺号を金華山 普門院 大円寺と称しました。太田道灌の持仏と伝わる「聖観音像」を安置しています。
戦国時代には一時荒廃しましたが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興、京都の醍醐寺の末寺となり現在の寺号となりました。 -
本堂の扁額は、海照山です。
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本堂の左右には小さな梵鐘が2つ吊り下げられています。
本堂に向かって右側にあるのが「仁慈(いつくし)の鐘」。これは戦争裁判殉国者慰霊の碑で、東條英機をはじめとする7人の遺墨が揮毫されています。 -
もう1つは「まことの鐘」で、大東亜戦争に学徒出陣して帰ることのなかった魂を鎮魂するものです。英文も刻まれているモダンなデザインです。 -
御本尊は、水月観音と聖観音で、水月観音は秘仏となっています。
戦国時代には武田信玄に品川が攻められたことがあり、武田の兵によって水月観音が持ち去られたのですが、後に持ち去った兵が発狂してしまい、返却されたと伝わっています。 -
本堂の天井。
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絵馬。
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絵馬。
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曼荼羅。
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絵馬。
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修行大師像と花梨の木。
花梨は空海の故郷、香川県満濃町の町木で、昭和63年5月に第39回全国植劇祭が香川県満
濃池森林公園で開催された際、当時の皇太子ご夫妻によってお手蒔きされた花梨の種を譲り受けて育てたそうです。 -
花梨の実。花梨は梨の原種で、春に淡紅色の花が咲き、秋に実る黄色の実には薬効があります。
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修行大師像。
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太閤秀吉の枝垂れ桜。詳細はわかりません。
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句碑。6人の句が刻まれています。
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薬師堂ですが、御朱印の受付など寺務所も兼ねています。
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薬師堂のそばに立つ、樹齢600年、高さ約25mの大イチョウ(品川区認定天然記念物二号)です。
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大銀杏の根元には3つの石碑があります。
道祖神みちしるへ。昭和56年10月吉日建立。 -
角柱型庚申塔は寛政7年(1795)9月の銘があります。日月の下に庚申塔と文字があり、その下に三猿が彫られています。
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高さ2mの大きな自然石の庚申塔です。通称「光明石」、延寳8年(1680年)11月の銘があります。
石の表面に釈迦如来の種子「バク」、願主の板倉八兵衛等の名前が刻まれ、台石に三猿と二鶏、両側面に蓮華蓮葉の浮彫があります。 -
南無稲荷大明神。
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斜向かいの路地を東へ向かいましょう。
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50mほどで旧東海道よりも広い道路に出ました。この道は旧東海道に並行している「元なぎさ通り」で、この付近が埋め立てられる前には渚であったことに因んで付けられた品川区公式の愛称名です。
現在は海まで数kmも離れています。 -
旧東海道に戻ると、幕府御用宿「釜屋」跡があります。
南品川にあった釜屋は立場茶屋(宿場間で旅人がお茶や食事をして休息する場所)でしたが、本来の休息所から旅籠に発展し、幕末には本陣のような構えに改造し幕府御用宿となりました。
慶応3年(1867年)10月21日に新撰組副長の土方歳三等が訪れた記録が残っており、翌4年1月15日には鳥羽伏見戦から江戸に戻った新選組隊士たちがしばらく滞在しました。
現在はガーデンホーム南品川が建っており、その角地に説明板があります。 -
青物横丁商店街のほか、北品川本通り商店会 や北品川商店街をつなぐ約2kmの旧東海道品川宿エリアではFC東京のフラッグ200本を掲げています。
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「ようこそ東海道品川宿へ」と書かれたシャッター。
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旧東海道に面して海雲寺があります。
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海雲寺の寺号柱。
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山門の前に開運千體荒神王霊場の碑。
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黒瓦木造の山門です。
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山門の扁額は、海雲寺。
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江戸三十三観音霊場番外札所となっています。
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隣家との境の石塀には寄進者の名前が刻まれています。落語家、芸者、料理屋などの名が見えます。
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境内。山門を入るといろいろな石塔や像があります。
正面に見えているお堂は千躰荒神堂です。 -
宝篋印塔。
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境内中央に立荒神像。昭和2年(1927年)建立。
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北向きに立っているので、日中から午後は逆光で見えません。
千躰荒神は江戸時代より竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されていました。 -
平蔵地蔵。
2体の地蔵菩薩像の右側の地蔵像が平蔵地蔵と呼ばれています。
平蔵地蔵の由来が詳細に刻まれています。
江戸時代も終わりの頃、平蔵は仲間と共に鈴ケ森の刑場で働いていましたが、仕事のない日には物乞いをして暮らしていました。
ある日、平蔵はたくさんの小判が入った包みを拾いました。翌日、落し主の伊達藩士を探し出して包みを返しました。
このできごとを聞いた仲間は、「せっかく拾った大金を、おれたちに相談もしないで返すとは、何というお人好しだ」と、腹を立てて平蔵を棒で殴り殺してしまいました。
仙台藩士は、正直者の平蔵の死を悲しみ、海雲寺の墓地に地蔵菩薩像を建てて供養しました。
明治32年、「平蔵地蔵」の祀られていた場所が京浜急行電鉄の線路になるため、海雲寺の住職が新しいお地蔵様を作り、境内に移したそうです。 -
いつの頃からか、この力石は海雲寺の境内にあり、大正時代まで若者達の力競べに使われていました。当時門前には多勢の漁師や親船から積荷を小舟に移し取る瀬取(沖仲仕)がいて、この石を何回持ち上げられるか、門と本堂の間を何回持って歩けるかを競いました。
文字は東京芝浜松町出身の落語家、橘流寄席文字家元・橘右近師匠の奉納揮毫です。 -
手水舎。
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鐘楼堂。
鐘楼には、大正14年(1925年)鋳造の梵鐘がかけられています。 -
鐘楼堂の柱には羽目板があり、それぞれに彫刻が施されています。
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千躰荒神堂。
本堂に祀られている御本尊の十一面観音像の鎮守として千躰三宝大荒神王を祀っています。
このお寺に祀られている千躰荒神は台所の神様として庶民から信仰され、台所で火と水を守るこの神様を信仰すれば一切の災難を避けて、衣食住に不自由しないとされています。 -
千躰荒神堂。
こちらに祀られている荒神王は元は九州熊本天草の荒神ヶ原にあったもので、鍋島甲斐守直澄に篤く守護されていました。その後、こちらに勧請されました。
そのご利益から度重なる江戸の火事からお寺を守ってきたとされ、鎮火防火の神様として信仰されました。 -
向拝の彫刻と銅鑼。
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荒神堂内には信徒が奉納した27面の扁額があります。
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中央の額は、昭和10年に奉納された浪曲家廣澤虎造夫妻による文字額です。
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千躰荒神堂奉納扁額(大絵馬)。区指定文化財です。
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雌雄一対の鶏絵が多く奉納されています。
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品川千躰三宝荒神王。
この千躰荒神像は、インドの毘首羯摩作と伝えられ、古く肥後国天草郡荒神ヶ原にあり、鍋島直澄が島原の乱に際して18歳で出陣時に戦勝祈願したところ、千躰の神兵に助太刀され大きな武勲を得たと伝わっています。
江戸高輪二本榎の佐賀藩鍋島家下屋敷に遷座して篤く祀られていましたが、明和7年(1770年)3月当寺に勧請されました。 -
格天井の中央に龍の図が、その周りに纏図が描かれています。
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龍吟山 瑞林院 海雲寺の本堂です。
建長3年(1251年)、臨済宗 海晏寺(かいあんじ、青物横丁に現存)の塔頭として僧不山により開基され、はじめは庵瑞林(あんずいりん)といいました。
ご本尊は仏師春日の作とされる十一面観世音菩薩像です。
慶長元年(1596年)海晏寺五世分外祖耕大和尚を開山とし曹洞宗に改められ、寛文元年(1661年)に海雲寺となりました -
千躰荒神堂から見て右手の建物の裏側にも石碑などがあります。
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えんの行者像。
役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたといわれます。 -
橘右近の筆塚。
橘右近(たちばなうこん)は、家業の庭師を継がず、最初は浪曲の吉川小龍の門に入り、18歳の時に柳家さくら(後の3代目柳家つばめ)に入門しました。柳家龍馬で初高座。
江戸期から続いていた寄席のビラ字職人がいなくなってしまい、見よう見まねで書き始め、自身のスタイルを確立し、橘流寄席文字家元となりました。平成7年7月3日没。 -
塀際に、根元が地中に埋まった状態の「大日本帝国議会原始紀◯◯(たぶん念碑)」があります。
大日本帝国議会発足の記念碑を建立しようとする人達により、明治29年、海雲寺に仮設されました。その後、建立計画はなくなり、そのままになったようです。 -
烏枢沙摩明王堂があります。
烏枢沙摩明王はトイレの守護神で不浄除けの御利益があると言われています。 -
烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)は、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持つとされ、密教における明王の一尊で真言宗・天台宗・禅宗・日蓮宗などの諸派で信仰されます。
意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれました。 -
旧東海道に出ると、千體荒神の碑。
この路地を西(写真の正面方向)へ向かい、青物横丁駅へ戻ります。 -
京急の高架沿いに進みます。右側は海雲寺の墓地です。
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高架下に青物横丁駅の東口があります。
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会議に出席しました。
江戸川区船堀にある「割烹なかざと」のお弁当が出されました。昭和28年創業、3代目板長が作る懐石弁当「華」です。今回も美味しくいただきました。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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