2025/11/21 - 2025/11/21
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NHK大河ドラマの「べらぼう」をPRする記念館を見学しました。
今年(2025年)は放送100年の記念の年ということで、それを大々的にアピールしているNHKは、江戸時代のメディア王こと蔦屋重三郎を主人公にした「べらぼう」を放送しました。
入館料の800円はちょっと高いかな~と思いつつホームページを見たら、無料の巡回バスにも乗れるとあるので、それならお得だなぁと思い、東京の仕事のついでに立ち寄りました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス 私鉄 徒歩
-
浅草駅から歩いて7分、台東区民会館に着きました。ここの9階が会場です。
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入り口の扉にも浮世絵があります。
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台東区民会館の1階です。
9階へは専用のエレベーターで上がります。 -
エレベーターに乗ったら、写楽の役者絵がありました。
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9階の廊下の壁紙は大きな浮世絵です。
「江戸名所 よし原仲の町桜の日」の一部。
歌川広重、天保11年(1840年)頃、シカゴ美術館所蔵。 -
10月31日~11月25日まで「蔦重めぐり ~台東区×東武鉄道×東京メトロ 手ぬぐいスタンプラリー~」というイベントが行われていて、特製の手ぬぐいを貰いました。これは嬉しいです♪
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蔦屋重三郎の黒緑色地紬縞着物。
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深く染め抜いた色と、江戸中期に波行った縞模様を組み合わせた蔦重の普段着。
背中の書物箱が重そうですね。 -
平賀源内が復元したというエレキテルの再現モデル。
平賀源内は、パトロンのお屋敷に出向いて実演販売を行っていました。
単なる発明家でなく、本草学者・地質学者・蘭学者・戯作者などの顔を持っていました。 -
安永3年(1774年)に蔦屋重三郎の依頼で吉原細見『細見嗚呼御江戸』に序文を寄せ、大きな話題となりました。5年後の安永8年(1779年)に殺傷事件を起こして獄死し、台東区の総泉寺に葬られました。
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古来より恐れられてきた雷様、そのミニミニ雷様を発生させたエレキテルの内部構造です。
ハンドルを回すとガラス瓶が回転し、金属との摩擦で静電気が発生して「バチッ」となるだけの装置ですが、当時の江戸では大評判になったそうです。 -
喜多川歌麿の濃藍色地菱に二引き小緻染め縮緬着物に栗色染め精好帯。
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大田南畝直筆の狂歌扇。撮影使用品。
大田南畝は、幕臣ながら狂歌や黄表紙、洒落本と多彩なジャンルで活躍し、狂歌師としての名は「四方赤良」で天明の狂歌ブームを牽引しました。
寛政の改革による出版統制が始まると断筆して幕臣としての活動に専念しました。 -
大田南畝著、青本番付「菊寿草」。撮影使用品。
菊寿草は、その年に刊行した青本を評した本でした。 -
平賀源内が授けた、蔦重の堂号「耕書堂」。撮影使用品。
錦絵出版に乗り出した蔦重は、堂号(版元としての名前)を考案してもらうため平賀源内を訪ねました。
源内は「書をもって世を耕し、日の本をもっと豊かな国にする」との思いを込めた名前を授けました。 -
耕書堂の再現セット。
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耕書堂の店内の様子も再現。
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江戸時代の本の制作過程。撮影使用品。
当時の本の制作には、①絵師が絵を描く②彫師が板木を彫る③摺師が版画を和紙に摺る④製本する。となります。
絵師、彫師、摺師などの卓越した職人たちが力を合わせて本が作られていました。 -
恋川春町『吉原大通絵』(国立国会図書館蔵)。
吉原では頻繁に狂歌を詠む会が開催されていました。朋誠堂喜三二〔狂名 手柄岡持〕や大田南畝(狂名 四方赤良〕ら人気の狂歌師が一堂に会した場面に蔦重も描かれています(手前左から2人目)。 -
田沼意次の草色地染め雲暈し柄染め縮緬着物に愛染茶色地変わり柄雪輪小紋織物羽織。
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5代目瀬川は、花魁の中でも最上位の「呼出」の地位にありました。
べらぼうでは、瀬川は蔦重と幼馴染という設定で、遊女屋・松葉屋の花魁、花の井として登場しました。
蔦重が版元になって吉原細見を出すことを知った花の井は、売れ行きを伸ばす目玉とするため、細見発行にあわせて5代目瀬川を襲名しました。
ほとんどの遊女は性病を罹患し、若くして病死していましたが、5代目瀬川は「老婆」と呼ばれるまで長生きしたと云われています。 -
じっと瀬川を見ていたら、スタッフから左右や後ろもご覧くださいとアドバイスされました。空いていたので、他のお客の邪魔をしていたのではありません。
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後ろ姿まで写真を撮る人はごく少数です。
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エレベーターホールでは、檜細工師 三浦宏作品展(11月13日~2026年1月12日)が行われていました。
浅草出身の檜細工師・三浦宏氏が制作した江戸期の家屋の模型作品を展示されています。 -
番屋。
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手押しポンプ。
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湯屋。
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洗い場とその奥の湯船も再現されています。
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湯温を保つため、湯船の手前にある柘榴口の様子も丁寧に作られています。
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薪割り。
他にも長屋などがありました。 -
べらぼう 江戸たいとう 大河ドラマ館の見学を終えたので、循環バスに乗って蔦重ゆかりの地である浅草~吉原辺りを観光しましょう。
エレベーターで1階に降りたら、バス乗り場までスタッフが案てくれました。
9人乗りのワンボックスですが、最初の区間は乗客5人でした。 -
大河ドラマ館から約5分、最初の停車地は日蓮宗の正法寺(しょうぼうじ)です。
平成6年にビル型のお堂を再建しました。 -
正法寺に設置されたスタンプ。
入館時にもらった手ぬぐいに押すものですが、インクが色落ちしそうなので、紙に押しました。 -
蔦屋重三郎は寛政9年(1797年)に47歳で病没し、蔦屋家の菩提寺である誠向山 正法寺に埋葬されました。
復刻された蔦屋家の墓碑と重三郎母子顕彰碑が建てられています。
碑には本名「喜多川柯理」が刻まれ、碑文は蔦重と親交のあった江戸時代後期の狂歌師・国学者・戯作者だった石川雅望と大田南畝によるものです。
石川雅望は、狂歌師・宿屋飯盛として天明狂歌四天王の1人に数えられています。
雅望の墓は台東区の榧寺(台東区蔵前 3-22-9)にあります。 -
喜多川柯理(からまる)本性(生家の苗字)丸山、蔦屋重三郎と称する。
父は重助、母は広瀬氏。寛延三年庚午一月七日江戸吉原の里に生まれる。
幼くして喜多川氏の養子となる。その人となりは志、人格、才知が殊に優れ、小さな事を気にもせず、人には順をもって接した。吉原大門の外に一軒の店を開き、後に通油町に移転、父母を迎えて厚く養ったが、その父母も相次いで亡くなった。~中略~寛政丁目の年の夏、五月六日にこう言った「私は今日の昼時には死ぬよ。」身の回りの始末をし妻と別れの言葉を交わし、昼時になり笑ってまた言った「自分の人生は終わったはずなんだが(芝居の終演に鳴らす)拍子木がならない。ずいぶん遅いな。」言い終わった後はもう言葉を発することはなく夕刻になって亡くなった。齢四十八歳。~後略~
石川雅望 大田南畝
実母顕彰の碑文
~前略~柯理が来て言うには「私は七歳で母と別れさみしい思いをしたが後に再会することができて今の自分がある。願わくば片言の言葉を基に捧げてその苦労に報いてやりたい。」私はこう言った「あなたは(寛政の改革による弾圧で)破産し獄中にもあった、なのにそんな逆境を乗り越え起業を成した。そんな人物が他にいるだろうか。子のすべき行いとは、母の遺した教えを変えることなく大切にし努力することである」~後略~
寛政癸丑茖舂南畝子題 -
正法寺の蔦屋家歴代墓碑には、蔦屋重三郎だけでなく実母つよ、妻てい、番頭勇助をはじめ、歴代蔦重や親族たちが葬られています。
上段、右から5番目に蔦屋重三郎の名前が刻まれています。 -
近くには田中智學先生創業之地の碑があります。
田中智學(たなか ちがく、文久元年11月13日(1861年12月14日)~昭和14年(1939年)11月17日))は、第二次世界大戦前の日本の宗教家で、「大東亜共栄圏」の拠り所となった「八紘一宇」という言葉を造語した人です。
ただし、日蓮主義者の田中智學は戦争を批判していました。 -
正法寺には江戸三大毘沙門天の一角に数えられる開運大毘沙門天がお祀りされています。
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この開運大毘沙門天は、神楽坂の善国寺、芝の正伝寺とともに「江戸の三大毘沙門天」に数えられ、「下町、山谷の毘沙門」として評判でした。
中央のお神輿の中に安置されています。 -
正法寺から蔦重ゆかりの地循環バスに乗って約5分、平賀源内墓所に近い郵便局前で下車。乗客は6人でした。
そこから歩いて約4分で平賀源内墓所(台東区橋場2-22-2)に着きました。
築地塀に囲まれた敷地があります。 -
かつてこの地には総泉寺の墓地がありましたが、総泉寺が板橋区に移転する際、平賀源内のお墓はこの場所に残されました。
お墓は国の史跡に指定され、史跡平賀源内先生墓入口の碑があります。 -
その隣には静軒先生之碑があります。
儒学者の寺門静軒は、吉原の繁栄など「江戸繁昌記」を著しましたが、これが風紀を乱すとの理由で咎められてしまい、板木没収、江戸追放の処分を受けました。
寺門静軒は明治元年3月24日没、翌年5月に建立。 -
木造の覆い屋の中にあります。
安永8年(1779年)、平賀源内は殺傷事件を起こし小伝馬町の牢内で獄死、曹洞宗の総泉寺に葬られましたが、総泉寺は関東大震災で焼失しました。 -
笠塔婆(笠付の角塔)が建ち、「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻まれています。
平賀源内のお墓は、出身地の讃岐国寒川郡志度浦(香川県さぬき市)の自性院にもあります。
よろしければ、さぬき市を訪問した際の旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11910742
二つのお墓をお参りするとエレキテルの護法が身につくとされています。 -
平賀源内墓地修築之碑。
昭和5年建立の大きな石碑です。 -
蔦重ゆかりの地循環バスは、乗車定員9名のワンボックスでした。満員のときは乗れません。3回目の乗車も乗客は5人でした。
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循環バスに乗って約5分、ファミリーマート前で下車。
すぐ近くに江戸新吉原耕書堂がありますが、まず150mほど南にある吉原神社に参拝しましょう。 -
逢初楼(あいぞめざくら)。
「逢初め」とは、恋焦がれている人に初めて逢うという意味があり、かつて吉徳稲荷(現吉原神社)の縁結びの御神木として崇信され、また廓の三雅木(見返り柳・逢初桜・駒繫の松)としても知られていました。浅草防犯健全協力会が奉納。 -
手水舎。
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吉原遊郭には、吉原大門手前の「吉徳稲荷」、廓の四隅の「榎本稲荷」、「明石稲荷」、「開運稲荷」、「九郎助稲荷」という5つの稲荷社が合祀されています。
その後、吉原弁財天も合祀され、現在では6社が祀られています。
昭和20年(1945年)、米軍による東京大空襲で吉原一帯が全焼。昭和43年に再建された社殿です。 -
吉原神社の創建は、5社が合資された明治14年です。
御祭神は倉稲魂命と市杵島姫命の二柱です。
吉徳稲荷大神(家内安全・商売繁盛の神様)
明石稲荷大神(火災除けの神様)
開運稲荷大神(開運・幸運・幸福を招く神様)
榎本稲荷大神(家内安全・商売繁盛の神様)
九郎助稲荷大神(縁結び・五穀豊穣・所願成就の神様)
吉原弁財天(開運・財運・歌舞音曲芸能上達・弁舌の神様 -
花魁姿のパネル。
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吉原遊郭内の四隅に祀られていた稲荷社のうち、最南端にあったのが九郎助(くろすけ)稲荷です。神狐像は金和7年7月に奉納されました。
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縁結び・五穀豊穣・諸願成就の神さまとして篤い信仰を集めていました。
毎月午の日には縁日が開かれ、たいへんな賑わいをみせたそうです。 -
お穴様。
九郎助稲荷に隣接する空間ですが、この地中には神社の土地をお守りする神様が鎮座すると云われ、心をこめてお詣りすると必ず福が得られると伝わっています。 -
神仏習合の名残、龍燈鬼(りゅうとうき)と天燈鬼(てんとうき)の像。
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この里に
おぼろふた々び
濃きならむ
明治22年に浅草で生まれた小説家・劇作家・俳人の久保田万太郎の句碑があります。 -
裏門。大河ドラマ「べらぼう」に合わせて整備されたようです。
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再現されている高札。
かつて郭の入り口にあった吉徳稲荷の前が高札場でした。 -
裏門を進と、神輿庫のような建物があり、シャッター絵が見事でした。
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シャッター絵。
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仲ノ町通りを南へ3分ほど歩きます。
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吉原弁財天に来ました。
かつてこの辺りは湿地帯で、多くの池が点在していました。
明暦3年(1657年)の大火後、端府は湿地の一部を埋立て、日本橋にあった吉原遊郭を移転させ、新吉原としました。
この場所には池が残り、新吉原花園池(弁天池)となっていました。
吉原弁財天は、昭和10年に吉原神社に合祀されため、現在は境外末社という位置づけになっていますが、鎮魂碑など多くの遺構を残されています。 -
門を入り、参道を進と鳥居があります。
新吉原遊郭の楼主たちの信仰を集めた歴史があります。 -
石碑があります。
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花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼を担っていました。昭和33年(1958年)の「売春防止法」施行まで、約300年間にわたり悲しい歴史が続いていました。
昭和35年建立、律文は共立女子大学教授で俳人の山路関山氏。 -
不動明王のパネル。
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庄司甚右衛門の碑。
日本橋にあった元吉原の創設者である初代惣名主庄司甚右衛門(天正3年(1575年)年~寛永21年11月18日(1644年12月17日))の碑が建っています。
漢文でその生い立ちなどが刻まれています。 -
小さな弁天池です。
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赤富士の滝。山の高さは3m位かな。
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弁天池の鯉。
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吉原弁財天の本宮正面。
すぐそばまで池が迫っており、建物全体は撮影できませんでした。
アジアの寺院のような極彩色の造りです。 -
本宮正面の額は「鯉の滝登り」。
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変額「吉原辨財天」。
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本宮には琵琶を奏でる黄金の弁財天坐像が鎮座しています。
といっても吉原神社に祀られているのは市杵島姫命ですから、これは仮のお姿なのかも知れません。 -
敷地の中央に岩石でできた築山があります。
大正12年の関東大震災では、遊女や関係者、避難してきた人々およそ500人が焼死しました。 -
吉原観音像。
大正15年(1926年)、震災被災者の慰霊のために建立されたのが吉原観音像(大震火災焼死追悼記念碑)です。
毎年9月1日には慰霊祭が執り行われています。 -
築山の裏手には、観世音菩薩、弥勒菩薩、阿弥陀如来、千手観音菩薩などの小さな石佛が鎮座しています。
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仲ノ町通りは、かつて吉原大門へと続く五十間道でした・
日本堤から吉原大門の中の様子が見えないようにS字カーブを描いています。 -
五十間道は、現在もそのまま曲がりくねっています。
この道を進み、耕書堂を過ぎると今でも歓楽街が広がっています。100mほど歩いてみましたが、白髪のFUKUJIROでさえ客引きのお兄さんから何度も声をかけられました。 -
江戸新吉原耕書堂(再現)。
蔦屋重三郎が新吉原の大門前に開業した「耕書堂」を模して造られています。
店内では、吉原に特化した観光案内や、土産品販売などを行っていました。 -
耕書堂に設置されたスタンプ。
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花魁が履く高下駄の展示。昭和22~23年頃に作られたもので、高さ25.5cm、重さ3kg、サイズは22cm。
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吉原細見五葉松(複製品)の展示。天明3年(1783年)正月の蔦屋重三郎版。
朋誠堂喜三二が序文を書いています。 -
吉原細見(複製品)の展示。天明8年(1788年)秋の蔦屋重三郎版。
江戸新吉原耕書堂前から蔦重ゆかりの地循環バスに乗って大河ドラマ館へ戻ります。最後も5分位かな~と油断していたら、渋滞や中華系団体の雑踏に巻き込まれて約25分もかかってしまいました。これなら歩いて入谷駅へ向かった方が良かったです。
事情を知っている人は巡回バスには乗らないらしく、乗客はわずか3人でした。納得です。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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