2025/12/02 - 2025/12/02
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FUKUJIROさん
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令和7年(2025年)は昭和99年でしたが、大正14年(1925年)3月22日にラジオ放送が始まってから100年を迎えた年でした。
FUKUJIROはラジオ大好き人間で、小学校5年生の時にゲルマニウムラジオを作ってから、真空管ラジオの時代をかすめて深夜放送にはまったりしました。
21世紀も1/4が過ぎ、携帯電話を経てスマートフォンが生活の必需品となりましたが、今でもFUKUJIROのラジオ好きは変わっていません。
放送100年の節目に、東京の真ん中にある愛宕山山頂の「NHK放送博物館」を訪ねました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
-
高市早苗総理大臣の発言が影響しているのか、都内のホテル料金が下がりましたので、貧乏サラリーマンのFUKUJIROは半年ぶりに都内に泊まることができました。
ホテルの朝食は、JR東海の「おむすび弁当」でした。駅で購入すると定価は700円(税込)。 -
宿泊したホテルリブマックス赤坂GRANDEから出発します。名前は立派ですが、FUKUJIROが泊まれるランクのホテルでした。
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氷川坂を下って行きます。
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坂の途中に赤坂氷川神社がありました。
この辺り、今まで夜しか歩いたことがなかったので、初めてお参りします。 -
立派な社号柱が建っています。
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一の鳥居。
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参道の左側に狛犬(阿形)。
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狛犬(吽形)。
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赤坂氷川神社境内案内図。
かつてこの地には浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の正室・瑤泉院の実家である三次藩浅野家の下屋敷がありました。
享保15年(1730年)、現在の赤坂四丁目にあった赤坂氷川神社がこの地へ選座されました。 -
赤い太鼓橋。
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池の水はありません。
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ここからも上の段に行かれます。
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四合稲荷の鳥居。
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四合稲荷(しあわせいなり)。
明治30年(1898年)、周辺にあった古呂故稲荷・地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷の4社を合祀した際、勝海舟が「四社を合祀」したことから、幸福の「志を合わせる」をかけて名付けました。
その後、大正14年(1925年)に鈴降稲荷と縁起稲荷を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に明徳稲荷を合祀しています。 -
天水桶にもお狐さまがいます・
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四合稲荷社の提灯。
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上の段に向かいましょう。
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石段を上ると、二の鳥居。
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かなり急な石段を上がってきました。
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包丁塚。
昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合により建立されました。
料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。 -
赤坂氷川祭展示場。
全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示している施設です。この山車は港区有形民俗文化財となっています。 -
江戸型山車は、徳川将軍の上覧に際し、江戸城の城門をくぐるため、人形が上下するカラクリが特徴です。
関東大震災や東京大空襲の被災を受けて、祭礼の主役は山車から神輿へと変わり、江戸時代の山車は姿を消しました。
不完全ながらも9体の山車人形が残存していたことから、山車の修復・復元を行いました。 -
三の鳥居。
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手水舎。
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小雪の花手水。
桧
ドウダンツツジ
ヒペリカム
ウインダーベリー
小みかん
肥後ギク
嵯峨ギク
糸ギク -
中門。
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練塀(ねりべい)。
練った土と瓦を層状に積み上げた江戸時代から続く伝統工法で造られた塀です。「築地塀」とも呼ばれます。 -
練塀沿いに明治維新百年紀年植樹の碑がありました。クスノキとイチョウが植えられました。
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正面に拝殿、右に社務所、その奥に控室があります。
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社殿は享保14年(1729年)、八代将軍徳川吉宗公の命により建立しました。
関東大震災や東京大空襲の被害を免れ、当時の姿を今に伝えています。
昭和51年(1976年)に東京都指定有形文化財となりました。 -
御本殿。御祭神は、素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命の三柱です。
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縁結びの舎。
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御神木。
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大銀杏。
本社が遷座する以前よりこの地に生育しており、推定構齢450年です。
昭和20年の東京大空襲により幹の大部分を焼損しましたが、現在も秋には黄葉します。 -
力石。
江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として力試しが盛んに行われていました。 -
境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれています。
港区内の力石は、この石以外のほとんどが海岸沿いの神社に残されています。 -
さらに坂道を下っていきます。
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ANAインターコンチネンタル東京。
昭和61年(1986年)6月7日に開業した地上36階建て、高さ132.85mのホテル、客室数801室。
仕事では何度も来ていますが、泊まったことはありません。 -
榎坂を上ってきました。
途中に米国大使館があり、カメラを向けたら怒られそうな警備状況でした。 -
虎ノ門ヒルズ ステーションタワー。2023年7月に竣工した地上49階建て、高さ約266mの複合ビル。
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虎ノ門ヒルズ 森タワー。2014年6月に開業した地上52階建て、高さ247mの複合ビル。
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東京都港区の愛宕山は、天然の山としては東京23区の最高峰です。
標高25.7mの山頂に三等三角点があり、愛宕神社が鎮座しています。 -
愛宕神社へ続く参道の石段(男坂)は、「出世の石段」と呼ばれています。
寛永11年、三代将軍徳川家光公が芝増上寺にご参詣の帰り、梅の香りに誘われて山頂を見上げ「誰か騎馬にてあの梅を取って参れ」と命ぜられました。
名乗り出るものがいない中、四国丸亀藩の家臣、曲垣平九郎(まがき へいくろう)が果敢に挑戦しこれを成し遂げました。
家光公は、「まことにあっぱれ。日本一の馬術の名人である」と讃え、一夜にして平九郎の名は全国にとどろき出世をしたといいます。 -
朱塗りの大鳥居。
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参道の左側にブロンズ製狛犬(阿形)。
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狛犬(吽形)。
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出世の石段(男坂)は40°の急勾配、86段の石段が真っ直ぐに続いています。
この右側には、傾斜のやや緩い女坂もあります。 -
愛宕山を貫いて愛宕トンネルが通っています。
このトンネルの左手前には、麓と山頂を結ぶエレベーターが設置されています。
メニエール症を再発しているFUKUJIROは医者の言いつけを守ってエレベーターを利用しました。 -
山頂から見ると、恐ろしいほどの急勾配です。
江戸時代の眺望は素晴らしく、江戸湾を越えて房総半島までも望めたそうです。
鉄道唱歌の1番にも「愛宕の山」と歌われています。 -
愛宕神社の一の鳥居。
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手水舎。
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丹塗りの門。
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愛宕神社拝殿。
創建は慶長8年(1603年)、徳川家康公の命により防火の神様として愛宕権現が勧請されました。
「出世の石段」の故事に因んで、午年にお参りすると更に運勢が上がるとも云われます。
主祭神は、火産霊命(ほむすびのみこと)です。
配祀は、
罔象女命(みずはのめのみこと)〈水の神〉
大山祇命(おおやまづみのみこと)〈山の神〉
日本武尊(やまとたけるのみこと)〈武徳の神〉
昭和33年9月、御本殿、幣殿、拝殿などが再建されました。
また、平成26年よりデジタル決済でお賽銭することができるようになっています。 -
NHK放送博物館。
開館時間は9:30~16:30、月曜日(祝日または振替休日の場合は翌日)定休。
入場料は無料です。
愛宕山の山頂部は約6,000坪ほど。明治期には旅館兼食堂の愛宕館や5階建の愛宕塔(展望搭)が建っていましたが、関東大震災の被害で取り壊され、その跡地に東京放送局が建てられました。 -
1階が受付、2階がテーマ展示ゾーン、3階がヒストリーゾーン。
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階段で2階に上がると、ジオラマが展示されています。
平成24年4月~9月に放送された連続テレビ小説「梅ちゃん先生」のタイトルバックで使われたジオラマです。山本高氏の作品。
連続テレビ小説「梅ちゃん先生」の世界を表現したジオラマです。 -
東京都大田区蒲田の街がモデルです。
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屋形船が浮かんでいるのは、蒲田の街を流れている呑川でしょうか。
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こちらは平成19年の大河ドラマ「風林火山」のセットを1/20サイズで再現した模型です。
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ジオラマだけ見て、3階へ。
放送の100年の展示室に入りましょう。 -
後藤新平像。安政4年(1857年)~昭和4年(1929年)
岩手県奥州市(旧水沢市)の生まれ。
大正13年(1924年)に社団法人東京放送局が設立されて初代総裁に就任、日本で初めてのラジオ仮放送を開始しました。 -
関東大震災から2年後の大正14年(1925年)3月22日の朝「JOAK,JOAK,こちらは東京放送局であります」ラジオ放送の第一声でした。
最初の放送は、府立東京高等工芸学校の図書室を仮放送所として使っていました。送信アンテナは,隣接する旧逓信省電気試験所にあった木製支柱の40m空中線でした。
JR山手線の田町駅前に、その記念碑が建てられています。 -
社団法人東京放送局假送信所の室内図。
放送機出力は220Wで,ラジオが聞こえる範囲は鉱石式受信機で約30km,真空管式3球受信機で40km程度だったそうです。 -
日本初の放送機が展示されています。
米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社製のAT-702型送信機です。
この送信機も東京市電気研究所が持っていたものを借用し、東京放送局初代技術部長の北村政治郎氏らが放送用に改造したものでした。 -
銘板によると、ゼネラル・エレクトリック社製で最大出力は1kW、波長300~800mに対応しています。
現在のJOAKは594kHzですが、開局当時は周波数は800kHz(波長375m) でした。 -
373型ダブルボタンマイク(1925年製造)。
ラジオの第一声はで使われてマイクです。
湿気に弱いため、取り扱いが難しかったそうです。 -
放送開始当時の鉱石ラジオ。
-
放送開始当時の鉱石ラジオ。
鉱石ラジオとは、電波から音を取り出すために紅石を使うラジオのこと。主に黄鉄鉱や方鉛鉱が使われましたが、驚くことに鉱石検波の原理は未だに解明できていません。
放送開始の頃は安価な鉱石ラジオが多く使用されましたが、感度は悪く、どの程度実際に聞こえたかはわかりません。 -
東洋レヂオ製3球ラジオ(1923年)。
3球ラジオは真空管を3本使用した方式のもので、真空管ラジオの中では、最も多くの家庭で使われました。 -
東京放送局 局舍模型。
大正14年(1925年)7月12日、芝浦の仮放送所から愛宕山の局舎に移転したときの模型です。
クリーム色の2階建ての局舎と、33m間隔で2基の三角鉄塔が建っており,その間に送信アンテナが張られていました。
昭和14年(1939年)に内幸町に放送会館が完成し、放送の制作は移転しました。 -
愛宕山の山頂に建てられていた鉄塔の写真。
自立式45m三角鉄塔が2基建てられ、その間に水平部28mの4条逆L型アンテナが張られていました。 -
JOAKさぐり式鉱石ラジオ(1925年)。
さぐり式は、金属の針で鉱石の最も感度の良いところを探り当てる方式のもの。
本機の中央には選曲ダイヤルがあり、その上部に取り付けられている鉱石の表面にキャッツウィスカー (猫のひげ )と呼ばれる細い金属線を軽く接触させて検波します。 -
左は、サイモフォンA型電池式2球再生ラジオ(1925年)。真空管を製造していた東京電気株式会社(現・東芝)が製造販売した2球式ラジオ。定価90円は、現在の貨幣価値で30万円位。
右は、日本無線V-2型鉱石検波単球ラジオ(1924年)。
このラジオは鉱石で検波した音を真空管1本で増幅し、レシーパーで聞く方式でした。 -
AR-812型 電池式6球スーパーヘテロダインラジオ(1925年)。
米国製高級ラジオ。このラジオは室内アンテナで、遠距離受信できるほど高感度の高級ラジオでした。 -
安中電機製のAR36式電池式ラジオ(1925年)。型式証明第4号。
放送開始直前、通信省は電気試験所が「型式証明」したラジオでなければ販売や使用できないことを規定しました。 -
芝浦製作所製ジュノラ 6A型6球スーパーヘテロダインラジオ(1925年)。
国産では最高級品のラジオで小型の真空管6本を使用したスーパーヘテロダイン方式です。
スピーカーのホーン部分を折り曲げて内部に組み込まれています。 -
展示品。
-
開局記念の記念カード。
東京放送局JOAKが開局して以降、段階的に放送局の開設が進み、ラジオ放送網は全国に広がり、放送開始10周年には27局に達しました -
東京放送局のコールサインはJOAK。
-
「コドモのテキストJOAK」創刊号(1928年)。
日本の歴史や行事などが絵入りでわかりやすく紹介されています。 -
ラジオ体操の解説図付きチラシ。
-
放送局型3号ラジオ(1938年)。
ラジオの品質向上のため、日本放送協会は「放送局型受信機現定」を定めました。放送局型3号は電波の弱い地域用の4球ラジオでした。 -
放送局型122号ラジオ(1940年)。
材料節約時代を反映して。ラジオにも鉄・鍋・アルミなどの節約が要請されるようになりました。回路を見直し、トランス類を廃止するなどの検討を行ったのが、放送局型122号ラジオでした。 -
時局下、婦人こそ最もよくラジオを利用せねばなりません!
ラジオを聴く事を推奨するチラシ。 -
大東亜戦争を終結させるため、天皇自らがマイクの前に立ちました。
このマイクは戦中から終報後にかけて室内外の放送で使用されていたマツダA型ベロシティマイク(1937年)です。
従来のカーポンマイクに代わり、初めて国産リポン型マイクを完成させたものです。 -
玉音放送。
昭和20年8月14日の深夜、「玉音放送」を録音しました。「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムトシ・・・。」翌15日正午の放送で人々は終戦を知りました。 -
玉音盤(1945年)。
皇居内に持ち込んだ4台の録音機で、昭和天量の声を収録した「玉商盤」のうちの1枚。 -
終戰の詔書も掲示されています。
-
スタンダード SR-500型5球ポータブルラジオ(1950年)。
プラスチックの筐体となり、小型の真空管(MT管)を使用した小型のものが流行しました。
NHKが第1回紅白歌合戦を放送したのが、昭和26年(1951年)1月3日のこと、ラジオの音質も良くなり、音楽番組も増えていました。 -
ゼネラル 5S-4型 マジックアイ付5球スーパーラジオ(1951年)。
ダイヤルパネルには周波数表示に加えて各地の放送局名が印字してあり、選局を容易にしています。
マジックアイ(右上の丸いガラス部分)は、放送局の送信周波数とラジオの受信周波数が一致すると猫の目の様に細く光り、選局を容易にしました。 -
日本でのテレビ研究は、ラジオ放送が始まる前からすでにスタートしていました。
遠くの光景を目の前に再現する“無線遠視”を夢見ていた高柳健次郎博士は、大正15年(1926年)12月25日、「イ」の文字をブラウン管に映し出すことに成功しました。
奇しくもこの日は大正天皇崩御の日でした。 -
日本放送協会は昭和5年(1930年)6月、東京・砧に技術研究所を設立し、テレビ放送の研究を開始しました。
高柳式テレビ(復元機)が展示されています。
送信機は、円板に小さな孔(走査孔)をうず巻き状にあけた「ニプコー円板」による機械式走査を行うものです。
■走査孔の数:40
■走査線:40本(現在のハイビジョンは1,125本)
■円盤回転数:毎秒30(当初は毎秒14)
受像機は、世界ではじめてブラウン管を使った電子式テレビ受像機でした。 -
テレビのある家庭(昭和30年代)。
-
当時もっとも多く生産されたのが14インチのモノクロテレビでした。
テレビの上には、鮭を咥えたヒグマの置物。この頃はヒグマも人類と共存できていましたね。 -
もちろん、ラジオもまだまだ健在でした。
NHKは、昭和43年3月末でラジオ契約を廃止しました。 -
家具調テレビのナショナルパナカラーTH-3300F(1970年)。
昭和40年代になるとカラーテレビが普及し始め、そのデザインには木目調を取り入れたものが人気となりました。
時間の都合により、テレビコーナーは省略して移動しました。 -
NHK放送博物館は山頂にあるため、東京メトロの神谷町駅へ向かうFUKUJIROはこの急な階段を降りました。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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