2025/05/16 - 2025/05/17
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FUKUJIROさん
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この旅行記のスケジュール
2025/05/17
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与謝野公園
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杉並区立桃井第二小学校
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荻窪税務署
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公生堂ビル(平野屋酒店跡)
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この旅行記スケジュールを元に
ある日の日本経済新聞・春秋欄に、井伏鱒二の訳詩「勧酒」が載っていました。
コノサカヅキヲ受ケテクレ/ドウゾナミナミツガシテオクレ/ハナニアラシノタトヘモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ(「厄除け詩集」)。その後に、最近はお酒を勧めにくい世になったと続くのですが、久し振りに井伏鱒二の名前を見て妙に気になってしまいました。
FUKUJIROも子どもの頃に教科書で「山椒魚」を読んだ記憶があるくらいなので、大昔の偉い人というイメージなのです。
ところが95歳で亡くなったのは平成5年(1993年)7月10日でした。大昔ではなくて、ちょっと前のことで、驚きました。
そして亡くなるまでの67年間を過ごした場所が荻窪で、荻窪にはたくさんの文化人が暮らしていたことも改めて知りました。
当日は松尾芭蕉翁に因んだ「旅の日」でもありましたから、東京の用事に託つけて荻窪へ行って来ました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
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荻窪駅の北口です。
荻窪駅は明治24年(1891年)12月21日に甲武鉄道の駅として開業しました。甲武鉄道が開通してから2年後のことで、当時、駅の周囲は民家が2軒ほどのほぼ原野だったという話もあります。初めは南口のみでしたが、昭和2年(1927年)に北口が開設されました。この年に井伏鱒二は駅の北側に、与謝野寛・晶子夫妻は南側に移り住んでいます。
と言いながらも今回は東京メトロ・丸ノ内線で終点まで乗っただけなんです。今は出口がたくさんあって迷子になりそうでした。 -
荻窪駅の北口を出て、青梅街道を渡ると教会通りがあります。戦前は弁天通りと呼ばれていましたが、天沼教会へ続く道で、戦後は教会通りと呼ばれるようになりました。
明治31年(1898年)生まれの井伏鱒二は、昭和2年(1927年)から荻窪で暮らし、教会通りを散歩していました。 -
教会通り新栄会の垂れ幕。
お店も人もたくさんなので、写真は撮れませんでした。 -
東京衛生アドベンチスト病院。
平成5年(1993年)6月24日、井伏鱒二は東京衛生病院に緊急入院、肺炎のため7月10日に95歳で逝去しました。
当時、夫人もこの病院に入院していました。 -
同じ敷地内の教会通りクリニック。
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案内図がありました。
天沼教会の敷地内に、昭和4年(1929年)東京衛生病院が開院しました。 -
教会通りクリニックの北側に天沼教会があります。
この通りを北へ向かうと日大二高通りがあり、その北側が杉並区清水、井伏鱒二は清水1丁目に住んでいました。 -
セブンスデー アドベンチスト天沼教会です。
明治29年(1896年)、米国人のウィリアム・C・グレンジャーと大河平(おこびら)輝彦が東京市麻布区本村町(現・港区南麻布)に英語聖書研究会を立ち上げました。
その後東京教会を設立し、千駄ヶ谷への移転を経て、大正4年(1915年)に現在地へ移転しました。大正6年に天沼教会堂を建てました。 -
セブンスデー・アドベンチスト 天沼教会。
現在の建物は昭和58年(1983年)に建設。
井伏鱒二の遺族は、身内だけでごく内輪に葬儀を行う意向でした。夫人も入院中のため、この教会で密葬することになりました。棺を乗せた霊柩車が教会を出るとき、夫人は、病院4階の窓から見送ったそうです。
入り口が開いていたので入ってみました。 -
パンフレットをいただきました。
教会の内部です。明るい室内で良い雰囲気ですね。パンフレットの写真を複写しました。
こちらは聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。教会の名称の由来ですが、「セフンスデー」とは、「第7日」の意味で、これは週の第7日である聖書の安息日を守る教会であることを表しています。また「アドベンチスト」とは、聖書の重要な教えである、キリストの再臨(アドベント)を待望する人々を意味します。 -
入り口の額。
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井伏鱒二のお墓は東京都港区青山の持法寺にあります。日蓮を宗祖(高祖)とする法華宗陣門流の寺院で、明暦元年(1655年)に開山されました。東京メトロ外苑前駅から徒歩5~6分です。
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戒名は照観院文寿日彗大居士。
左は先祖代々の碑。 -
井伏鱒二と刻まれた石柱の文字は本人のもの。右は生前に建てていた井伏家之墓。
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教会通りを戻らず、南へ歩いて光明院を目指します。
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このマークは荻窪消防団 第1分団のシャッターに描かれていました。
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お店の倉庫みたいなところに不思議なオブジェがありました。
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光明院の山門に着きました。
真言宗豊山派の寺院で、慈雲山 荻寺 光明院といいます。 -
弘法大師の碑。
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お寺のHPによると「(和銅元年)708年に行者が御本尊の千手観音を背負ってこの地を通りかかったところ、不思議と御本尊が重くなって動けなくなった。行者は御本尊がこの地に縁があるものと思い、付近に茂っていた荻を刈って草堂を作って御本尊を安置し、荻寺と名付けた。それ以来、この地一帯を荻窪と呼ぶようになった」とあります。
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六地蔵尊。
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保護樹木スダジイ。
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無縁仏の石塔。
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本尊移転之碑。
甲武鉄道が境内の真ん中を通ることになり、明治21年(1888)に本堂が移転しました。
中野の宝仙寺の末寺にあたる光明院は、当時は無住の寺で、宝仙寺が兼ねていたそうです。 -
不動明王像。
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泣きべそ地蔵尊。
地蔵尊、阿彌陀仏、観音菩薩、勢至菩薩の4体が建っています。両親と奥さんを相次いで亡くした小張吉兵衛が建立した石仏で、いつの間にか悲しみの顔にかわり、ついに泣きべその顔になった、と伝えられています。 -
保護樹木ケヤキ。
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鐘楼堂。
私小説作家の上林暁(かんばやし あかつき)が、「光明院の鐘の音」と題する随想を書いています。上林暁も東京衛生病院で亡くなり、光明院で葬儀が行われました。たくさんの文士が集い、鐘を鳴らして冥福を祈りました。 -
梵鐘。
大みそかには、22時30分から受付、祈願料1,000円を払い整理券を受け取ると、23時30分から整理券の番号順に鐘楼堂に上り、鐘を突きます。振舞酒に代えて1合の清酒「弘法大師」を持ち帰ります。整理券は限定108枚。 -
手水舎。
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手水鉢。杉並区有形文化財。
天和2年(1682年)、飢饉の折に亡くなった人々を弔うために、近在の村人が奉納したと伝えられており、杉並区内最古の手水鉢です。
安山岩で作られ、正面に蓮の花が浮き彫りされています。江戸木挽町(現・中央区銀座)の石工の作で、当時としては珍しく江戸から運ばれてきました。 -
本堂前に見事な松があります。
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本堂。
嘉永3年(1850年)に再建された堂で、甲武鉄道の敷設工事のため明治21年(1888年)に東北側へ移転ししまた。さらに昭和44年(1969年)に新築した大斎場の上へ移築しました。 -
光明院の住職・田代弘興(こうきょう)氏は、真言宗豊山派の第32代管長と総本山長谷寺(奈良県桜井市)の第87代化主(住職)を同時に務めていたすごい方です。
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本堂の内部。
御本尊は千手観音座像(南北朝時代の作と推定)です。普段は非公開ですが、5月第3日曜に御開帳されます。たまたま訪問日の翌々日でした。 -
本堂から見た境内。
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本堂の石段下に閻魔堂がありました。
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閻魔大王とその隣には奪衣婆。
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恐ろしい顔の閻魔大王。
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線路沿いに九重の塔と無縁仏の石塔。
中央線の電車が走り過ぎました。線路の南側には墓地があります。檀家は300家だそうです。 -
参拝をおえて出てくると、17時に閉門されていました。どこかに「荻」があったはずなんですが。
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駅へ向かう途中、白山神社の社号標と一の鳥居を見ました。社号標は紀元二千六百年紀年の建立。
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緑に囲まれた参道は薄暗く、灯籠が明るく見えました。参道にはいろんな石碑がありました。
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荻窪驛開設満五十年記念樹の碑。昭和16年建立。
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奉納山林三百十五坪の碑。
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参道の途中を道路が横切っています。
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長い参道です。
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やっと二の鳥居が見えましたが、17時で閉門でした。
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東京荻窪天然温泉 なごみの湯。
駅へ向かう途中にありました。
入館料が平日でも¥2,400円と高く、気軽にひとっ風呂浴びる料金ではないです。 -
荻窪駅の西口(JR)です。
この後は仕事です。 -
翌朝は予報どおり強い雨でした。
前日の荻窪散策が中途半端だったので、雨の中を再訪しました。 -
どうせなら違うルートで訪れようと思い、この日は京王線の芦花公園駅前(駅から少し離れている)から関東バスに乗り、荻窪4丁目バス停で降車します。
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バスを降りたらほとんど雨が止んでいます。4~5分歩いて与謝野公園へ来ました。
与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻は、関東大震災の翌年にはここを借りて移り、昭和2年(1927年)に麹町区(現・千代田区)から井荻村に転居しました。
夫妻が晩年を過ごした家の跡地は、昭和57年(1982年)に南荻窪中央公園として開かれ、晶子の没後70周年にあたる平成24年に再整備されて与謝野公園となりました。 -
最初に洋風の「采花荘」を建て、長男と二男を住まわせました。
昭和2年には晶子自身が図面を描いた母屋の「遙青書屋(ようせいしょおく)」を建築しました。クリーム色の壁、赤い屋根、緑の鎧戸のある洋館で、2階からは秩父連山、富士山、箱根まで遠望できました。
昭和4年、晶子五十歳のお祝いにと弟子たちから5坪ほどの一棟が贈られました。夫妻は好きだった「椿」を意味する「冬柏亭(とうばくてい)」と名づけて、書斎や茶室として使用しました。
この「冬柏亭」は京都の鞍馬寺に移築されており、現存しています。 -
晶子の「歌の作りやう」の碑。
荻窪川南共栄会商店街により建立。 -
この家で晶子は源氏物語の現代語訳に取り組み、昭和14年に「新新訳源氏物語」を完成させました。この年、晶子は還暦を迎えました。
晩年を過ごしていた夫妻ですが、寛は昭和10年(1935年)、晶子は昭和17年(1942年)に亡くなりました。 -
防災井戸。
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ちゃんと水が出ますが、飲用不可です。
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公園内には歌碑14基があります。
あまりにも有名な晶子のみだれ髪。 -
与謝野寛の最晩年の作。
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与謝野公園で「荻」を見られました。
イネ科で茎が太く、高さは1m~2.5mで「ススキ」や「ヨシ」によく似ています。昔は茅葺屋根(かやぶきやね)の材料としても使われていました。 -
与謝野公園を離れると雨が降り出しました。
善福寺川を渡ります。 -
善福寺川は、杉並区の善福寺池から流出し、中野富士見町駅付近で神田川に合流しています。
関東ローム層の乾いた土地を流れ、古来、善福寺川の流域だけが耕作地だったようです -
善福寺川を渡ると右手に杉並区立桃井第二小学校があります。
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桃井第二小学校校歌の碑。
与謝野晶子の自筆の文字が彫られています。
たかく聳ゆる富士の嶺は
桃井第二の校庭へ
学びの心澄み入れと
朝々清き気をおくる(以下、略)
作詞は与謝野晶子、作曲は山本直忠(山本直純の父)というすごい校歌です。 -
歌碑の裏面を見ると、夫の寛が頼まれていたものの、代わりに作詞する旨の経緯を説明しています。昭和11~12年頃に校歌を作詞しました。
柵があり、裏面がはっきりと見えずに残念でした。 -
歌碑の脇には防災井戸がありました。
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さて、昨日は参拝できなかった荻窪白山神社へ向かいます。
前方の中央線・総武線の線路を越えられるでしょうか。 -
見事に通行止めです。
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すぐ脇にはとても威圧的な荻窪税務署が建っています。パーティー券の裏金に課税しないのなら、庶民のヘソクリも非課税にしてほしいものです。
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荻窪税務署の地下駐輪場へ降りる道から、中央線の北側は抜けられるようです。
やっぱり税務署には抜け道があるんですね。 -
東京都道311号、環状八号線に並行して抜け道がありました。
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地下道を抜けると、昨日訪れた光明院の入り口でした。
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雨が強くなっているので急いで荻窪白山神社に向かいました。
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二の鳥居です。今日は開門されています。
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手水舎。
珠猫の手水舎という名前が付いていました。 -
猫の持つ珠からお水が出ています。
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狛犬(阿形)。
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眼光鋭い狛犬(吽形)。
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荻窪白山神社の拝殿。
社伝によると、文明年間(1469~86年)に関東管領上杉顕定の家臣中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿を建てたと伝えられています。
中田一族は下荻窪村の名主を務めたそうです。
御祭神は伊邪那美命です。
御神徳は、歯痛封じ、病気平癒、女性守護。
鉄筋コンクリート造の拝殿は、昭和43年の造営です。 -
扁額は白山神社です。
昭和天皇の侍従を務め、後に明治神宮の宮司(昭和34年~47年)となった甘露寺受長(かんろじ おさなが)氏の書です。 -
神楽殿。
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境内末社の三峯神社です。
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昭和の時代、地域住民や商店を営む人々のたっての願いで秩父三峯神社より勧請し、ご分霊頂いた社です。火防・盗賊・魔除けの御利益があると言われています
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三峯神社は狼(大神)を祀っていますが、こちらは猫です。
境内には正一位稲荷神社と田守稲荷神社も鎮座しています。 -
青森市出身の棟方志功は、昭和26年から72歳で亡くなった昭和50年まで荻窪(上荻1丁目)に住んでいました。
棟方志功は光明院を散策したり、近隣商店街の包み紙などの絵を描いたりしていたと伝わっています。
棟方の家は、細い路地の突き当たりにあり、家の裏には白山神社の木々が見えていたそうですが、場所ははっきりわかりませんでした。
青森市にあった棟方志功記念館を訪れた旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11696980 -
青梅街道に沿って、荻窪駅北口のバス停が並んでいますが、6番バス停(もはや駅前ではない)の向い側に公生堂ビル(賃貸オフィス)が建っています。
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公生堂ビル(平野屋酒店跡)。
昭和2年(1927年)5月、29歳の井伏鱒二は荻窪へ引越してきました。始めの約半年間を平野屋酒店の2階に下宿していて、太宰治もたびたび飲みに来ていたそうです。
その間に清水(1丁目)に家を建て、井伏鱒二は95歳まで荻窪に住んでいました。
天気予報によれば、ますます雨が強くなりそうなので撤退することにしました。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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