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福井をグルっと巡る前に、大垣に行ってみました。<br />一気に車を運転して行くにはきついので、どこか岐阜県内で一泊したかったのですが、これまた歴史好きにはたまらない大垣に行ってみました。<br />天下分け目の戦いであった関ケ原を語る上で、大垣城は重要な場所です。<br />関ケ原の決戦の前、そして決戦の後、大垣城にはドラマがありました。<br />その様子がココでよくわかりました。

7日間で福井県を車でグルっと巡ってみました。01 福井までは一気にはいけないので、大垣で1泊。大垣城から市内をプラプラ。

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2025/09/28 - 2025/10/06

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nichi

nichiさん

福井をグルっと巡る前に、大垣に行ってみました。
一気に車を運転して行くにはきついので、どこか岐阜県内で一泊したかったのですが、これまた歴史好きにはたまらない大垣に行ってみました。
天下分け目の戦いであった関ケ原を語る上で、大垣城は重要な場所です。
関ケ原の決戦の前、そして決戦の後、大垣城にはドラマがありました。
その様子がココでよくわかりました。

  • 横浜の自宅から東名をひたすら西に。<br />3時間以上運転して、豊田上郷サービスエリアで休息です。<br />ココでランチにします。

    横浜の自宅から東名をひたすら西に。
    3時間以上運転して、豊田上郷サービスエリアで休息です。
    ココでランチにします。

  • 私は天ぷらそば。

    私は天ぷらそば。

  • 相方は親子丼です。

    相方は親子丼です。

  • コインパーキングに車を停めて、大垣公園へ。

    コインパーキングに車を停めて、大垣公園へ。

  • この大垣公園の中にある大垣城の天守を目指します。

    この大垣公園の中にある大垣城の天守を目指します。

  • この大垣公園の中には、濃飛護國神社もあります。<br />ここは大垣城の二の丸の跡です。

    この大垣公園の中には、濃飛護國神社もあります。
    ここは大垣城の二の丸の跡です。

  • そして大垣城の西門の前までやってきました。

    そして大垣城の西門の前までやってきました。

  • この西門は、昭和60年(1985年)に造られた疑似門です。

    この西門は、昭和60年(1985年)に造られた疑似門です。

  • 大垣城の天守です。<br />手前は戸田氏鉄の騎馬像です。

    大垣城の天守です。
    手前は戸田氏鉄の騎馬像です。

  • 戸田氏鉄は、徳川の家臣団の一人で、初代大垣城城主です。

    戸田氏鉄は、徳川の家臣団の一人で、初代大垣城城主です。

  • 江戸時代の大垣城下の図です。<br /><br />元々は室町末期に宮川安定が建てたお城がベースになっていると言われていますが、正確なことは判らないようです。<br />ここは中山道や美濃路、そして伊勢湾につながる川がある交通の要所で、軍事・経済上の重要な場所でした。<br />よって戦国時代は、様々な武将による争奪戦が繰り広げられました。<br /><br />市内に流れる水門川を外堀として利用して造られています。<br />1600年の関ケ原の戦いでは、西軍の石田三成の本拠地になったことで有名ですね。<br />江戸時代になって家康の家臣であった戸田氏鉄が入城。<br />十万石の居城となりました。

    江戸時代の大垣城下の図です。

    元々は室町末期に宮川安定が建てたお城がベースになっていると言われていますが、正確なことは判らないようです。
    ここは中山道や美濃路、そして伊勢湾につながる川がある交通の要所で、軍事・経済上の重要な場所でした。
    よって戦国時代は、様々な武将による争奪戦が繰り広げられました。

    市内に流れる水門川を外堀として利用して造られています。
    1600年の関ケ原の戦いでは、西軍の石田三成の本拠地になったことで有名ですね。
    江戸時代になって家康の家臣であった戸田氏鉄が入城。
    十万石の居城となりました。

  • 天守は四層四階建てです。<br />昭和11年に国宝に指定されましたが、空襲で焼失してしまいました。<br />この天守は、昭和34年に再建された建物です。

    天守は四層四階建てです。
    昭和11年に国宝に指定されましたが、空襲で焼失してしまいました。
    この天守は、昭和34年に再建された建物です。

  • 先ほどの西門から中へ。

    先ほどの西門から中へ。

  • 階段を上がって、

    階段を上がって、

  • 天守へ。<br /><br />秀吉の死後、東軍の徳川家康と西軍の石田三成が対立しますが、元々はこの大垣城が天下分け目の合戦の場になる可能性が高かったようです。<br />家康はこの大垣城を水攻めにしようと企てていたそうです。

    天守へ。

    秀吉の死後、東軍の徳川家康と西軍の石田三成が対立しますが、元々はこの大垣城が天下分け目の合戦の場になる可能性が高かったようです。
    家康はこの大垣城を水攻めにしようと企てていたそうです。

  • 何重にも堀が巡っていた大垣城。

    何重にも堀が巡っていた大垣城。

  • この案内図が面白い!<br /><br />今いる大垣城の北西に杭瀬川の古戦場があります。<br />関ケ原の戦いの前に、石田三成が大垣城に入場して西軍の本拠地としたのですが、東軍は清州城や岐阜城を攻略し、大垣城に迫っていました。<br />その時に西軍の島左近が東軍を誘い出して攻撃を仕掛けて勝利したのが杭瀬川の戦いです。<br />関ケ原の前の戦いですね。<br /><br />少し北には曽根城跡。<br />ここ、東軍に寝返った西尾光教のお城です。<br />こんな近かったのですね。<br /><br />そして大垣城の戦い。<br />これは関ケ原の戦いで家康が勝って三成が負けた後の戦いです。<br />西軍の負けが大垣城に伝わると、一部の武将が東軍に寝返ります。<br />二の丸、三の丸(東軍)vs本丸(西軍)<br />という大垣城内での戦いになったのが大垣城の戦いです。<br />1週間後にここでも東軍が勝利するのですね。

    この案内図が面白い!

    今いる大垣城の北西に杭瀬川の古戦場があります。
    関ケ原の戦いの前に、石田三成が大垣城に入場して西軍の本拠地としたのですが、東軍は清州城や岐阜城を攻略し、大垣城に迫っていました。
    その時に西軍の島左近が東軍を誘い出して攻撃を仕掛けて勝利したのが杭瀬川の戦いです。
    関ケ原の前の戦いですね。

    少し北には曽根城跡。
    ここ、東軍に寝返った西尾光教のお城です。
    こんな近かったのですね。

    そして大垣城の戦い。
    これは関ケ原の戦いで家康が勝って三成が負けた後の戦いです。
    西軍の負けが大垣城に伝わると、一部の武将が東軍に寝返ります。
    二の丸、三の丸(東軍)vs本丸(西軍)
    という大垣城内での戦いになったのが大垣城の戦いです。
    1週間後にここでも東軍が勝利するのですね。

  • 大垣城の中へ。<br /><br />200円×2名

    大垣城の中へ。

    200円×2名

  • ココの展示で面白かったのが、関ケ原合戦までの両軍の動きの細かい説明書きです。<br />それを西軍の三成側の目線で展示してありました。<br /><br />石田三成は、徳川家康が会津の上杉討伐中に宣戦布告。<br />美濃に進出して宇喜多秀家、毛利秀元、長曾我部守親、大谷吉継と合流して福島正則の清州城を落として尾張・三河の国境で家康を迎撃する計画でした。<br />それがこの図の第一次迎撃ライン。<br /><br />ところが東軍の動きが早かったため、三成は岐阜城、犬山城、竹ケ鼻城と、美濃・尾張の国境の守りを固めます。<br />それがこの図の第二次迎撃ライン。<br />ところが家康の到着を待たずに東軍は動き出し、岐阜城、犬山城、竹ケ鼻城は陥落。<br />東軍は大垣城のすぐ近くまで迫り、大垣城が最前線になってしまいます。<br />三成は、目の前の東軍と対峙しながら関ケ原の松尾山の修築をすすめ、大谷吉継を北陸から関ケ原に移動させ、中山道の守りを固めさせます。<br />これがこの図の第三次迎撃ラインです。

    ココの展示で面白かったのが、関ケ原合戦までの両軍の動きの細かい説明書きです。
    それを西軍の三成側の目線で展示してありました。

    石田三成は、徳川家康が会津の上杉討伐中に宣戦布告。
    美濃に進出して宇喜多秀家、毛利秀元、長曾我部守親、大谷吉継と合流して福島正則の清州城を落として尾張・三河の国境で家康を迎撃する計画でした。
    それがこの図の第一次迎撃ライン。

    ところが東軍の動きが早かったため、三成は岐阜城、犬山城、竹ケ鼻城と、美濃・尾張の国境の守りを固めます。
    それがこの図の第二次迎撃ライン。
    ところが家康の到着を待たずに東軍は動き出し、岐阜城、犬山城、竹ケ鼻城は陥落。
    東軍は大垣城のすぐ近くまで迫り、大垣城が最前線になってしまいます。
    三成は、目の前の東軍と対峙しながら関ケ原の松尾山の修築をすすめ、大谷吉継を北陸から関ケ原に移動させ、中山道の守りを固めさせます。
    これがこの図の第三次迎撃ラインです。

  • 石田三成は、居城であった近江の佐和山城から美濃のこの大垣城に入城しました。<br />美濃最大の大名は、織田信長の嫡男であった岐阜城の織田秀信。<br />石田三成に味方し西軍に属していました。<br />そして三成は、東軍に味方していた曽根城を攻め落とします。<br />又、岐阜城や犬山城に援軍を送ります。<br />しかし岐阜城は陥落するのですがこの図の面白いのが、<br />青いのが西軍の城。<br />オレンジが西軍の城だったのですが、岐阜城陥落後に東軍に鞍替えした城。<br />赤のが東軍の城です。

    石田三成は、居城であった近江の佐和山城から美濃のこの大垣城に入城しました。
    美濃最大の大名は、織田信長の嫡男であった岐阜城の織田秀信。
    石田三成に味方し西軍に属していました。
    そして三成は、東軍に味方していた曽根城を攻め落とします。
    又、岐阜城や犬山城に援軍を送ります。
    しかし岐阜城は陥落するのですがこの図の面白いのが、
    青いのが西軍の城。
    オレンジが西軍の城だったのですが、岐阜城陥落後に東軍に鞍替えした城。
    赤のが東軍の城です。

  • この時期、織田信長の嫡男であった織田秀信が城主だった岐阜城。<br />私も行ったことがありますが、長良川の畔にある厳しい山の金華山にある岐阜城。<br />浅野幸長、井伊直正、細川忠興、福島正則、京極高知、池田輝政と東軍の錚々たる武士が5つに分かれて岐阜城を攻め落としたのですね。<br />1日で落城したようです。<br /><br />

    この時期、織田信長の嫡男であった織田秀信が城主だった岐阜城。
    私も行ったことがありますが、長良川の畔にある厳しい山の金華山にある岐阜城。
    浅野幸長、井伊直正、細川忠興、福島正則、京極高知、池田輝政と東軍の錚々たる武士が5つに分かれて岐阜城を攻め落としたのですね。
    1日で落城したようです。

  • そして家康率いる東軍が美濃の南側をドンドン制圧していきます。<br /><br />周囲を西軍に囲まれていた東軍の松ノ木城の徳永寿昌と、今尾城の市橋長勝は、福島正則の命で城を出て西軍の福束城の丸毛兼利を攻めます。<br />西軍も三成の命で福束城に援軍を送ります。<br />両軍は長良川の支流である大榑川を挟んで対峙しました。<br />夜になって市橋長勝が西軍の背後に放火し、西軍は大混乱となったすきに攻め込んで勝利しました。これが大榑川の戦いです。<br />丸毛兼利は福束城まで敗走し籠城しますが戦いに敗れ大垣城に逃れます。<br /><br />そして徳永寿昌と市橋長勝は高須城を謀略、駒野城も開城させ、津屋城も落として南美濃はほとんど東軍のエリアになりました。<br /><br />

    そして家康率いる東軍が美濃の南側をドンドン制圧していきます。

    周囲を西軍に囲まれていた東軍の松ノ木城の徳永寿昌と、今尾城の市橋長勝は、福島正則の命で城を出て西軍の福束城の丸毛兼利を攻めます。
    西軍も三成の命で福束城に援軍を送ります。
    両軍は長良川の支流である大榑川を挟んで対峙しました。
    夜になって市橋長勝が西軍の背後に放火し、西軍は大混乱となったすきに攻め込んで勝利しました。これが大榑川の戦いです。
    丸毛兼利は福束城まで敗走し籠城しますが戦いに敗れ大垣城に逃れます。

    そして徳永寿昌と市橋長勝は高須城を謀略、駒野城も開城させ、津屋城も落として南美濃はほとんど東軍のエリアになりました。

  • この図は、その後の東軍赤坂への進出の図です。<br /><br />三成は小西行長と共に大垣城を出て揖斐川西岸の沢渡に布陣。<br />舞兵庫を長良川西岸の河渡に派遣して中山道を固め、島津義弘には墨俣を守らせました。<br />東軍の黒田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将は、長良川を渡って河渡の西軍を撃破。揖斐川まで進みます。<br />石田三成や小西行長は大垣城まで退却し、島津義弘も大垣城に入城します。<br /><br />東軍の先鋒4万人の兵は、大垣城の西北4㎞の赤坂に集結。<br />今、JRの美濃赤坂駅があるあたりですね。<br />西軍の長松城、西保城、本郷城、池尻城も落城。<br />大垣城を除く西美濃のほとんどの城は東軍が支配するお城になりました。<br />

    この図は、その後の東軍赤坂への進出の図です。

    三成は小西行長と共に大垣城を出て揖斐川西岸の沢渡に布陣。
    舞兵庫を長良川西岸の河渡に派遣して中山道を固め、島津義弘には墨俣を守らせました。
    東軍の黒田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将は、長良川を渡って河渡の西軍を撃破。揖斐川まで進みます。
    石田三成や小西行長は大垣城まで退却し、島津義弘も大垣城に入城します。

    東軍の先鋒4万人の兵は、大垣城の西北4㎞の赤坂に集結。
    今、JRの美濃赤坂駅があるあたりですね。
    西軍の長松城、西保城、本郷城、池尻城も落城。
    大垣城を除く西美濃のほとんどの城は東軍が支配するお城になりました。

  • そして東軍の先鋒4万は総大将徳川家康の到着を待ち、大垣城の西軍と3週間、杭瀬川を挟んで対峙しました。

    そして東軍の先鋒4万は総大将徳川家康の到着を待ち、大垣城の西軍と3週間、杭瀬川を挟んで対峙しました。

  • いよいよ関ケ原の前哨戦で西軍が勝利した杭瀬川の戦いです。<br />東軍の総大将の徳川家康が赤坂に到着すると、西軍は激しく動揺します。<br />動揺する西軍を落ち着かせるため、三成は島左近の案を受け入れ、島左近と蒲生備中は大垣城を出陣し、杭瀬川を渡って東軍を挑発。<br />その挑発と言うのが、東軍の目の前で稲刈りをして見せるというもの。<br />戦時下に目の前で余裕で稲刈りをする姿を見せられて怒った東軍は攻め込み、わざと逃げる西軍。罠にはまった東軍は背後から攻められ多くの犠牲者を出します。<br />この時に勝利した西軍は、士気を回復させます。<br />その後西軍は、密やかに関ケ原に転進。<br />西軍の動きを察した東軍も中山道を通って関ケ原に移動し、戦いの舞台は関ケ原に移りました。

    いよいよ関ケ原の前哨戦で西軍が勝利した杭瀬川の戦いです。
    東軍の総大将の徳川家康が赤坂に到着すると、西軍は激しく動揺します。
    動揺する西軍を落ち着かせるため、三成は島左近の案を受け入れ、島左近と蒲生備中は大垣城を出陣し、杭瀬川を渡って東軍を挑発。
    その挑発と言うのが、東軍の目の前で稲刈りをして見せるというもの。
    戦時下に目の前で余裕で稲刈りをする姿を見せられて怒った東軍は攻め込み、わざと逃げる西軍。罠にはまった東軍は背後から攻められ多くの犠牲者を出します。
    この時に勝利した西軍は、士気を回復させます。
    その後西軍は、密やかに関ケ原に転進。
    西軍の動きを察した東軍も中山道を通って関ケ原に移動し、戦いの舞台は関ケ原に移りました。

  • 三成ほか西軍のほとんどが関ケ原に転進したあと、大垣城は三成の妹婿である福原長堯が城主となって城を守り、東軍の激しい攻撃に耐えました。<br />しかし関ケ原の戦いで西軍の大敗が伝えられると、大垣城の二の丸や三の丸を守っていた武将たちが寝返り東軍に味方することとなり、大垣城の西軍は、本丸だけを残すのみとなりました。

    三成ほか西軍のほとんどが関ケ原に転進したあと、大垣城は三成の妹婿である福原長堯が城主となって城を守り、東軍の激しい攻撃に耐えました。
    しかし関ケ原の戦いで西軍の大敗が伝えられると、大垣城の二の丸や三の丸を守っていた武将たちが寝返り東軍に味方することとなり、大垣城の西軍は、本丸だけを残すのみとなりました。

  • 空襲で焼ける前の大垣城天守の写真が残っていました。

    空襲で焼ける前の大垣城天守の写真が残っていました。

  • 三成の妹婿である福原長堯が守る大垣城は本丸のみとなりますが、なかなか落ちませんでした。<br />家康は禅僧を遣わしいて降伏を促しましたが、福原長堯は城兵の助命を条件に降伏開城。<br />大垣城は落城しました。<br /><br />その後、何人か家康の部下たちが城主となりますが、徳川譜代の戸田氏鉄が城主となって明治まで続くことになります。

    三成の妹婿である福原長堯が守る大垣城は本丸のみとなりますが、なかなか落ちませんでした。
    家康は禅僧を遣わしいて降伏を促しましたが、福原長堯は城兵の助命を条件に降伏開城。
    大垣城は落城しました。

    その後、何人か家康の部下たちが城主となりますが、徳川譜代の戸田氏鉄が城主となって明治まで続くことになります。

  • ちなみに戸田氏鉄は関ケ原の戦いで東軍で参加していたのですね。

    ちなみに戸田氏鉄は関ケ原の戦いで東軍で参加していたのですね。

  • 室町後期から江戸初期の甲冑です。

    室町後期から江戸初期の甲冑です。

  • これは江戸中期の甲冑です。<br />赤穂事件(忠臣蔵)の際に、赤穂への使者として派遣された大垣藩士が有事に備えて持参したという甲冑です。

    これは江戸中期の甲冑です。
    赤穂事件(忠臣蔵)の際に、赤穂への使者として派遣された大垣藩士が有事に備えて持参したという甲冑です。

  • かつてこの大垣城の天守には鯱がありました。<br />空襲で焼けてしまいましたが、この鯱は昭和に復元された鯱です。

    かつてこの大垣城の天守には鯱がありました。
    空襲で焼けてしまいましたが、この鯱は昭和に復元された鯱です。

  • 火縄銃の展示と共に、

    火縄銃の展示と共に、

  • 武具の模型を触ることができました。<br />鉄砲と槍は重い。<br />弓は長い。

    武具の模型を触ることができました。
    鉄砲と槍は重い。
    弓は長い。

  • 関ケ原の前哨戦で西軍が勝利した杭瀬川の戦いのジオラマです。

    関ケ原の前哨戦で西軍が勝利した杭瀬川の戦いのジオラマです。

  • 四層四階建てだった大垣城の天守です。

    四層四階建てだった大垣城の天守です。

  • 江戸時代の大垣城の鳥瞰図です。<br />多くの堀が張り巡らされていますね。

    江戸時代の大垣城の鳥瞰図です。
    多くの堀が張り巡らされていますね。

  • 大垣の街は、室町末期に美濃路が整備した頃に宿場町としてスタートしました。<br />江戸時代の正規の東海道は尾張国から伊勢湾を横断して伊勢国に渡ることになっていましたが、ずっと陸路を進む美濃路は脇街道として整備され、船に乗れない馬連れの人々に重宝されました。<br /><br />一国一城令の後は、歴代城主によって街が整備されて、大垣の街が発展して行きました。<br />元々は宿場町でしたが、川湊を持つ港町として、そして城下町として大垣の街は発展していきましいた。<br /><br />これは大垣の藩札ですね。

    大垣の街は、室町末期に美濃路が整備した頃に宿場町としてスタートしました。
    江戸時代の正規の東海道は尾張国から伊勢湾を横断して伊勢国に渡ることになっていましたが、ずっと陸路を進む美濃路は脇街道として整備され、船に乗れない馬連れの人々に重宝されました。

    一国一城令の後は、歴代城主によって街が整備されて、大垣の街が発展して行きました。
    元々は宿場町でしたが、川湊を持つ港町として、そして城下町として大垣の街は発展していきましいた。

    これは大垣の藩札ですね。

  • これは当時の合印鑑(あわせいんかん)。<br />帳簿や書類などを他の帳簿や書類などと照らし合わせ、合っているときに押す印です。

    これは当時の合印鑑(あわせいんかん)。
    帳簿や書類などを他の帳簿や書類などと照らし合わせ、合っているときに押す印です。

  • 寛永天保通宝。<br />当時のコインですね。<br /><br />幕府が全国的に流通させた硬貨で、藩札と併用されました。

    寛永天保通宝。
    当時のコインですね。

    幕府が全国的に流通させた硬貨で、藩札と併用されました。

  • 櫛、かんざし、こうがい<br />です。<br /><br />こうがい、初めて実物を見ました。<br />江戸時代の髪の毛を整える道具ですね。

    櫛、かんざし、こうがい
    です。

    こうがい、初めて実物を見ました。
    江戸時代の髪の毛を整える道具ですね。

  • これも、身支度を整えるための道具です。

    これも、身支度を整えるための道具です。

  • 戸田氏鉄が徳川家康から頂いた品々が並んでます。

    戸田氏鉄が徳川家康から頂いた品々が並んでます。

  • 最上階までやってきました。

    最上階までやってきました。

  • 展望台になっています。

    展望台になっています。

  • こちらが北側の景色です。

    こちらが北側の景色です。

  • 右奥に大垣駅が見えます。<br />大垣の町のど真ん中ですね。

    右奥に大垣駅が見えます。
    大垣の町のど真ん中ですね。

  • こちらが西側の景色です。

    こちらが西側の景色です。

  • 杭瀬川や関ヶ原の位置を確認します。<br />少し右に伊吹山が見えていますね。

    杭瀬川や関ヶ原の位置を確認します。
    少し右に伊吹山が見えていますね。

  • こちらが南側の景色です。

    こちらが南側の景色です。

  • 右奥に見えている山は養老山地です。

    右奥に見えている山は養老山地です。

  • こちらは東側です。<br />奥の三角の山が金華山。<br />そうです!<br />岐阜城です!

    こちらは東側です。
    奥の三角の山が金華山。
    そうです!
    岐阜城です!

  • 大垣城から岐阜城の金華山が肉眼で見えるのですね~

    大垣城から岐阜城の金華山が肉眼で見えるのですね~

  • 大垣城天守をあとにしました。

    大垣城天守をあとにしました。

  • 大垣市郷土館にやってきました。

    大垣市郷土館にやってきました。

  • 大垣藩最後の家老であった、戸田鋭之助の屋敷跡が博物館になっています。<br />正門と塀は当時のものです。

    大垣藩最後の家老であった、戸田鋭之助の屋敷跡が博物館になっています。
    正門と塀は当時のものです。

  • ここも当時のものです。

    ここも当時のものです。

  • お邪魔します。<br /><br />200円×2名

    お邪魔します。

    200円×2名

  • 大垣の街の江戸時代のジオラマがありました。

    大垣の街の江戸時代のジオラマがありました。

  • 大垣城の石垣が高いな~

    大垣城の石垣が高いな~

  • 歴代藩主の肖像画がありました。

    歴代藩主の肖像画がありました。

  • 初代の戸田氏鉄ですね。<br />関ケ原の戦いに東軍で参加しています。<br /><br />大垣の街づくり(新田開発、治山治水、殖産及び学問の振興に尽力し藩政の基礎をつくりました。<br /><br />つづく<br /><br />他、中はほとんどが撮影禁止でした。<br />戸田家に関する展示がほとんどで、戸田氏の書画展開催中でした。

    初代の戸田氏鉄ですね。
    関ケ原の戦いに東軍で参加しています。

    大垣の街づくり(新田開発、治山治水、殖産及び学問の振興に尽力し藩政の基礎をつくりました。

    つづく

    他、中はほとんどが撮影禁止でした。
    戸田家に関する展示がほとんどで、戸田氏の書画展開催中でした。

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