関ヶ原・垂井旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 25年GW、関ケ原を巡り東軍西軍の陣跡を巡りました。ただ石碑と解説版が残るのみとは言え、実際の関ヶ原の舞台に立ち想いを馳せる事で、大きな感動を覚えました。丸一日かけて最後に家康の最初の陣地に到着した時には最早日没直前。関ヶ原の合戦には、もう一か所、南宮山で静観を続けた毛利を始めとした大軍の陣跡が残されている筈ですが、其処を訪れる時間はありませんでした。また、関ケ原の合戦終了後、脱出を試みる際、主君を守る為に討ち死にした島津豊久の碑も訪れたいと思っていました。年が変わる前に、今年やり残してしまった宿題を済ます為、岐阜県垂井に向けて旅立ちました。<br /><br />関ヶ原編<br /><br />https://4travel.jp/travelogue/11976354

宿題を済ませに南宮山へ・関が原陣跡巡り2

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2025/12/30 - 2025/12/30

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さっくん

さっくんさん

 25年GW、関ケ原を巡り東軍西軍の陣跡を巡りました。ただ石碑と解説版が残るのみとは言え、実際の関ヶ原の舞台に立ち想いを馳せる事で、大きな感動を覚えました。丸一日かけて最後に家康の最初の陣地に到着した時には最早日没直前。関ヶ原の合戦には、もう一か所、南宮山で静観を続けた毛利を始めとした大軍の陣跡が残されている筈ですが、其処を訪れる時間はありませんでした。また、関ケ原の合戦終了後、脱出を試みる際、主君を守る為に討ち死にした島津豊久の碑も訪れたいと思っていました。年が変わる前に、今年やり残してしまった宿題を済ます為、岐阜県垂井に向けて旅立ちました。

関ヶ原編

https://4travel.jp/travelogue/11976354

  •  今年のGW、関ケ原の古戦場を訪れました。その時南宮山迄は訪れる事が叶わず、心残りに思っていました。そんな思いを年越しさせたくは無かったので、二日歩き続けて足はボロボロでしたが、始発電車に乗り込んで南宮山を目指しました。

     今年のGW、関ケ原の古戦場を訪れました。その時南宮山迄は訪れる事が叶わず、心残りに思っていました。そんな思いを年越しさせたくは無かったので、二日歩き続けて足はボロボロでしたが、始発電車に乗り込んで南宮山を目指しました。

  •  現代では新幹線と言う画期的な移動手段があります。深夜バスも考えましたが、いつだってその場主義の私。思いついたのは年末なのでもう席が残っていませんでした。<br /><br /> でも年末は深夜バスの料金も高く、かかる時間と新幹線の料金差を考えると、新幹線の方に分がある様に感じます。

     現代では新幹線と言う画期的な移動手段があります。深夜バスも考えましたが、いつだってその場主義の私。思いついたのは年末なのでもう席が残っていませんでした。

     でも年末は深夜バスの料金も高く、かかる時間と新幹線の料金差を考えると、新幹線の方に分がある様に感じます。

  •  家康率いる東軍と、ほぼ同じ道程で南宮山を目指します。家康はどんな想いで東海道を進んでいたのでしょう?浜松あたりでしょうか?東から太陽が昇って来ます。

     家康率いる東軍と、ほぼ同じ道程で南宮山を目指します。家康はどんな想いで東海道を進んでいたのでしょう?浜松あたりでしょうか?東から太陽が昇って来ます。

  •  名古屋を出てすぐ右手に清州城を通り過ぎます。石田三成率いる西軍は、当初尾張周辺で東軍を迎え撃ちたいと想定していた様です。その想定通りに進めば、清州状に入っていたのは東軍では無く三成だったかもしれません。名古屋から岐阜にかけては、木曽川、揖斐川、長良川が連続し、天然の堀と化す事から、守りやすいと捉えられた様です。<br /><br /> 西から進軍してくる石田三成率いる本体と、伊勢方面の東軍に属した小勢を次々と攻略して北進した毛利秀元率いる別動隊が尾張で集結する想定だった様です。

     名古屋を出てすぐ右手に清州城を通り過ぎます。石田三成率いる西軍は、当初尾張周辺で東軍を迎え撃ちたいと想定していた様です。その想定通りに進めば、清州状に入っていたのは東軍では無く三成だったかもしれません。名古屋から岐阜にかけては、木曽川、揖斐川、長良川が連続し、天然の堀と化す事から、守りやすいと捉えられた様です。

     西から進軍してくる石田三成率いる本体と、伊勢方面の東軍に属した小勢を次々と攻略して北進した毛利秀元率いる別動隊が尾張で集結する想定だった様です。

  •  しかし東軍の進行は想定以上に早く、清州を通り越し、織田信長の孫、嘗ての三法師、織田秀信が守る岐阜城も、嘗て城主だった事もあり、城の勝手を知り尽くしていた池田輝政と福島正則によって、あっけなく落城してしまった事から、石田三成は彼の想定する最終防衛ラインとも言える大垣城に入城。伊勢方面から移動を続けた別動隊の毛利隊は南宮山に次々と着陣。一方家康率いる東軍も、大垣城を前にする赤坂に着陣。舞台は整った…筈でした…が…。

     しかし東軍の進行は想定以上に早く、清州を通り越し、織田信長の孫、嘗ての三法師、織田秀信が守る岐阜城も、嘗て城主だった事もあり、城の勝手を知り尽くしていた池田輝政と福島正則によって、あっけなく落城してしまった事から、石田三成は彼の想定する最終防衛ラインとも言える大垣城に入城。伊勢方面から移動を続けた別動隊の毛利隊は南宮山に次々と着陣。一方家康率いる東軍も、大垣城を前にする赤坂に着陣。舞台は整った…筈でした…が…。

  •  そんな関ヶ原の合戦の流れをおさらいしている内に、あっという間に南宮山の最寄り駅、垂井に到着しました。<br /><br /> 関ヶ原の合戦自体は、あっという間に決着がついてしまうのですが、其処に至る過程には、様々な説があり、しかも全国的な展開で前哨戦が巻き起こり、様々なドラマが生まれました。

     そんな関ヶ原の合戦の流れをおさらいしている内に、あっという間に南宮山の最寄り駅、垂井に到着しました。

     関ヶ原の合戦自体は、あっという間に決着がついてしまうのですが、其処に至る過程には、様々な説があり、しかも全国的な展開で前哨戦が巻き起こり、様々なドラマが生まれました。

  •  駅前には、此処垂井を治めていた竹中半兵衛の銅像が旅人を出迎えてくれます。竹中半兵衛と言えば屈指の軍師。今日の散策の策も練って頂きましょう。

     駅前には、此処垂井を治めていた竹中半兵衛の銅像が旅人を出迎えてくれます。竹中半兵衛と言えば屈指の軍師。今日の散策の策も練って頂きましょう。

  •  近頃、地方都市ではタクシーさえ見つかり辛い状況ですが、1台見つける事が出来たので、早速乗車。陣跡巡りは垂井町のホームページの散策ルートを参考に察せて頂きましたが、私はそれを逆打ちする策を練りました。その散策ルートを辿ると、最後に訪れる設定の長宗我部盛親の陣跡は登山が絡みます。<br /><br /> 最期の最期に登山は辛いですし、見学後、駅までは、ひたすら1時間程、一般道を歩かねばなりません。勿論そんな場所ではタクシーが捕まる筈もありません。ならば最初にズルしてタクシーで登山口まで行ってしまい、其処から散策ルートを逆打ちしようと言う魂胆です。

     近頃、地方都市ではタクシーさえ見つかり辛い状況ですが、1台見つける事が出来たので、早速乗車。陣跡巡りは垂井町のホームページの散策ルートを参考に察せて頂きましたが、私はそれを逆打ちする策を練りました。その散策ルートを辿ると、最後に訪れる設定の長宗我部盛親の陣跡は登山が絡みます。

     最期の最期に登山は辛いですし、見学後、駅までは、ひたすら1時間程、一般道を歩かねばなりません。勿論そんな場所ではタクシーが捕まる筈もありません。ならば最初にズルしてタクシーで登山口まで行ってしまい、其処から散策ルートを逆打ちしようと言う魂胆です。

  •  駐車場から南宮山方面を臨みます。これから向かうべく長宗我部盛親の陣跡は南宮山に繋がる山麓にある栗原山に残ります。私はこの頃殆どタクシーに乗らないのですが、初乗り料金は安いくらいに感じましたが、料金の上がり方が半端無く、海外のイカさまメーターかよ!と思ったくらいです。この頃なんでも高騰しているなぁ驚きました。

     駐車場から南宮山方面を臨みます。これから向かうべく長宗我部盛親の陣跡は南宮山に繋がる山麓にある栗原山に残ります。私はこの頃殆どタクシーに乗らないのですが、初乗り料金は安いくらいに感じましたが、料金の上がり方が半端無く、海外のイカさまメーターかよ!と思ったくらいです。この頃なんでも高騰しているなぁ驚きました。

  •  始発で訪れた事もありますが、全く人気がありません。ちょっと不安を感じつつ看板の支持通りに脇道を目指します。

     始発で訪れた事もありますが、全く人気がありません。ちょっと不安を感じつつ看板の支持通りに脇道を目指します。

  •  長宗我部盛親は四国の覇者長宗我部元親の4男に産まれ、長兄の長宗我部信親が戸次川の戦いで戦死した事により、激しい家督相続を巡る争いの後、親である元親のゴリ押しもあり家督を継ぐ事となりました。しかし、こうした家督継承の異常性から豊臣政権内では正当な当主とは認められていなかった様です。<br /><br /> 元服の際、増田長盛が烏帽子親を務めた事から、盛の字を授かり盛親と命名したと言い、その縁もあって西軍に組する事となったと言われます。

     長宗我部盛親は四国の覇者長宗我部元親の4男に産まれ、長兄の長宗我部信親が戸次川の戦いで戦死した事により、激しい家督相続を巡る争いの後、親である元親のゴリ押しもあり家督を継ぐ事となりました。しかし、こうした家督継承の異常性から豊臣政権内では正当な当主とは認められていなかった様です。

     元服の際、増田長盛が烏帽子親を務めた事から、盛の字を授かり盛親と命名したと言い、その縁もあって西軍に組する事となったと言われます。

  •  ちょっと進んだ先に分岐点がありました。勿論長宗我部盛親陣跡の表示に進みましたがフェンスで仕切られ、扉にはチェーンがグルグル巻きにされていました。初見、その異様な光景にビビり引き返してしまいました。仕方が無いから反対の清水公園に向かいます。

     ちょっと進んだ先に分岐点がありました。勿論長宗我部盛親陣跡の表示に進みましたがフェンスで仕切られ、扉にはチェーンがグルグル巻きにされていました。初見、その異様な光景にビビり引き返してしまいました。仕方が無いから反対の清水公園に向かいます。

  •  何やらそれらしきものが見えてきました。

     何やらそれらしきものが見えてきました。

  •  確かに長宗我部盛親陣跡の看板が出ています。でも…なんか違う。私が事前にググった風景と違うのです。私の記憶が確かならば、盛親の陣跡は見晴らしがある場所だったのに、此処は未だ栗原山の麓に過ぎません。おかしい…。もう一回最初の場所に行ってみるか?

     確かに長宗我部盛親陣跡の看板が出ています。でも…なんか違う。私が事前にググった風景と違うのです。私の記憶が確かならば、盛親の陣跡は見晴らしがある場所だったのに、此処は未だ栗原山の麓に過ぎません。おかしい…。もう一回最初の場所に行ってみるか?

  •  誰も周囲にいなかったから正確な事は解りません。推測するに山を囲むフェンスは熊避けと思われます。そして扉の厳重に巻かれたチェーンも熊が押して通らない様にする為のもの。(私有地等入ってはいけない場所にはチェーンに施錠されています。)恐る恐るチェーンを解いて扉を開け、扉を元に戻し、チェーンを厳重に巻きつけます。<br /><br /> これ程迄の対策を施さないとならぬ程、熊被害が出ているのだと思うとゾッとすると同時に、私は今自らその熊が出没する領域に踏み込んでしまったと言う事を悟ります。自ら動物園の檻の中に入り鍵を閉めてしまった気分です。

     誰も周囲にいなかったから正確な事は解りません。推測するに山を囲むフェンスは熊避けと思われます。そして扉の厳重に巻かれたチェーンも熊が押して通らない様にする為のもの。(私有地等入ってはいけない場所にはチェーンに施錠されています。)恐る恐るチェーンを解いて扉を開け、扉を元に戻し、チェーンを厳重に巻きつけます。

     これ程迄の対策を施さないとならぬ程、熊被害が出ているのだと思うとゾッとすると同時に、私は今自らその熊が出没する領域に踏み込んでしまったと言う事を悟ります。自ら動物園の檻の中に入り鍵を閉めてしまった気分です。

  •  小さな神社がありました。解説版もありました。ちゃんとした散策路に間違いない様です。

     小さな神社がありました。解説版もありました。ちゃんとした散策路に間違いない様です。

  •  関が原の松尾山にも、こうした看板がありましたが、こうした思いやりって素敵だと思います。栗原山は今日一番の登山ですが、一昨日の岩殿山縦走、昨日丸一日多摩をハイキングした後なので疲労の蓄積が半端無いです。

     関が原の松尾山にも、こうした看板がありましたが、こうした思いやりって素敵だと思います。栗原山は今日一番の登山ですが、一昨日の岩殿山縦走、昨日丸一日多摩をハイキングした後なので疲労の蓄積が半端無いです。

  •  所々に解説版があるのも嬉しいです。

     所々に解説版があるのも嬉しいです。

  •  同じ山登りと言っても、一昨日登った岩殿山とは全く植生も変わっていて、植物に関してチンプンカンプンな私でも結構雰囲気の違いを楽しめてます。

     同じ山登りと言っても、一昨日登った岩殿山とは全く植生も変わっていて、植物に関してチンプンカンプンな私でも結構雰囲気の違いを楽しめてます。

  •  天狗がうちわを隠した木だそうです。

     天狗がうちわを隠した木だそうです。

  • いったい、どこに隠したんじゃぁ~。首が折れそうです。ボケられたらツッコミを入れるのは、礼儀と言うものですが、こう看板を作って下さったのなら、しっかりリアクションを入れる事も重要だと思います。

    いったい、どこに隠したんじゃぁ~。首が折れそうです。ボケられたらツッコミを入れるのは、礼儀と言うものですが、こう看板を作って下さったのなら、しっかりリアクションを入れる事も重要だと思います。

  •  そして遂に栗原山山頂(かな)?の長宗我部盛親陣後に到着しました。

     そして遂に栗原山山頂(かな)?の長宗我部盛親陣後に到着しました。

  •  先に述べ戸通り、長宗我部盛親は家督相続の悶着により、正当な後継ぎとして豊臣秀吉に認められず官位も貰えずの状態でしたから、この合戦に貢献して名誉挽回を狙っていたに違いないでしょう。しかし現実は、南宮産の麓に陣取った吉川広家が、徳川家康と通じており動く事が無かったので、その背後に陣取った諸将も動く事が出来ず、結局何も出来ないうちに西軍は壊滅してしまいました。

     先に述べ戸通り、長宗我部盛親は家督相続の悶着により、正当な後継ぎとして豊臣秀吉に認められず官位も貰えずの状態でしたから、この合戦に貢献して名誉挽回を狙っていたに違いないでしょう。しかし現実は、南宮産の麓に陣取った吉川広家が、徳川家康と通じており動く事が無かったので、その背後に陣取った諸将も動く事が出来ず、結局何も出来ないうちに西軍は壊滅してしまいました。

  •  結局何も出来ぬまま、逃走する事しか出来ず(闘争出来たのさえ不幸中の幸いだった。)彼は故郷の土佐に戻ります。彼は井伊直政を介して家康に謝罪を伝えたかった様なのですが、またしてもお家騒動を起こし、その咎も加わった事で改易されてしまいました。その後長宗我部家の再興を夢見ながら、悶々とした日々を盛親は過ごす事になります。

     結局何も出来ぬまま、逃走する事しか出来ず(闘争出来たのさえ不幸中の幸いだった。)彼は故郷の土佐に戻ります。彼は井伊直政を介して家康に謝罪を伝えたかった様なのですが、またしてもお家騒動を起こし、その咎も加わった事で改易されてしまいました。その後長宗我部家の再興を夢見ながら、悶々とした日々を盛親は過ごす事になります。

  •  そんな盛親に格好の機会が訪れます。徳川家康が豊臣家を滅ぼす為に行った二度に及ぶ大坂の陣です。最早徳川は頼れない盛親は、この戦いで豊臣方として戦う事に賭けました。結果は誰もが知る所です。こうして嘗ての四国の覇者、長宗我部家は滅亡を遂げました。

    イチオシ

     そんな盛親に格好の機会が訪れます。徳川家康が豊臣家を滅ぼす為に行った二度に及ぶ大坂の陣です。最早徳川は頼れない盛親は、この戦いで豊臣方として戦う事に賭けました。結果は誰もが知る所です。こうして嘗ての四国の覇者、長宗我部家は滅亡を遂げました。

  •  しかしこの家康が仕掛けた大坂の陣、本当に豊臣家を滅ぼす為だけに家康は戦ったのでしょうか?私はそうは思いません。これは私の推測ですが、私が家康ならそうします。<br /><br /> 家康、その時の齢70歳を超えています。当然息子の世代への引継ぎが迫る年齢です。幕府創始者として、少しでも世を平和にして引き継ぎたいと思うのは、親なら誰しも共通して思うところでしょう。

     しかしこの家康が仕掛けた大坂の陣、本当に豊臣家を滅ぼす為だけに家康は戦ったのでしょうか?私はそうは思いません。これは私の推測ですが、私が家康ならそうします。

     家康、その時の齢70歳を超えています。当然息子の世代への引継ぎが迫る年齢です。幕府創始者として、少しでも世を平和にして引き継ぎたいと思うのは、親なら誰しも共通して思うところでしょう。

  •  そして世を見渡せば、粗方徳川の世となり戦が減った事で、日本には大勢の浪人が溢れています。現代に於いても大きな戦争の後には必ずと言って良い程退役軍人の問題が発生します。PTSDを患う者、社会に適合出来ず治安を乱す者等々。勿論当時なら猶更の事。復讐の念に駆られた者、長宗我部盛親の様にお家の再興を望む者…。

     そして世を見渡せば、粗方徳川の世となり戦が減った事で、日本には大勢の浪人が溢れています。現代に於いても大きな戦争の後には必ずと言って良い程退役軍人の問題が発生します。PTSDを患う者、社会に適合出来ず治安を乱す者等々。勿論当時なら猶更の事。復讐の念に駆られた者、長宗我部盛親の様にお家の再興を望む者…。

  •  世の中には彼等の鬱憤が煙の様に立ち込めていました。家康もそれを十分に理解していたからこそ、大坂の陣を行ったのだと思います。戦を始めれば、そんな輩は誘蛾灯に集まる虫の様に群って来る。其処を一網打尽にする。<br /><br /> そう、大阪の夏の陣は、不要となった浪人達の在庫一掃セール、否、綺麗な言葉に言い換えれば、彼等に最期の散り場所を提供したと言えば宜しいでしょうか?<br /><br /> 私にはそんな気がしてなりません。

     世の中には彼等の鬱憤が煙の様に立ち込めていました。家康もそれを十分に理解していたからこそ、大坂の陣を行ったのだと思います。戦を始めれば、そんな輩は誘蛾灯に集まる虫の様に群って来る。其処を一網打尽にする。

     そう、大阪の夏の陣は、不要となった浪人達の在庫一掃セール、否、綺麗な言葉に言い換えれば、彼等に最期の散り場所を提供したと言えば宜しいでしょうか?

     私にはそんな気がしてなりません。

  •  栗原山から下界に戻り、長宗我部盛親の陣跡を見上げました。関が原の合戦では何等活躍の舞台が与えられなかったものの、大坂の陣で戦って散れたのだから、武士としては本望だったのかもしれません。合掌。

     栗原山から下界に戻り、長宗我部盛親の陣跡を見上げました。関が原の合戦では何等活躍の舞台が与えられなかったものの、大坂の陣で戦って散れたのだから、武士としては本望だったのかもしれません。合掌。

  •  南宮山の陣跡巡りは(私はモデルルートの逆回り)長宗我部盛親陣跡~長束正家陣跡~南宮大社迄が一般路を結構長く歩きます。長束と長宗我部の陣跡を巡りたい方は自転車も考慮に入れた方が体力的にも時間的にも節約になります。

     南宮山の陣跡巡りは(私はモデルルートの逆回り)長宗我部盛親陣跡~長束正家陣跡~南宮大社迄が一般路を結構長く歩きます。長束と長宗我部の陣跡を巡りたい方は自転車も考慮に入れた方が体力的にも時間的にも節約になります。

  •  南宮山を仰ぎ見ながら、ひたすら歩きます。でも関ヶ原のあれこれに想いを馳せているとあっと言う間です。関ケ原と比べて垂井の陣跡は、要所要所は関ケ原に合わせた立派な解説版が立てられているのですが、脇役は寂しいものです。HPで、「垂井を抜きに関ケ原は語れない!」と豪語しているのですから、もっと解説版も力を入れて頂けると嬉しいです。<br /><br /> でも垂井町のHPの仰っている事はごもっともであり、南宮山の部隊は動きはしなかったものの、もし動いていたのなら、戦局がどう動いていたか解らない大軍なので、本当に重要なポイントです。

     南宮山を仰ぎ見ながら、ひたすら歩きます。でも関ヶ原のあれこれに想いを馳せているとあっと言う間です。関ケ原と比べて垂井の陣跡は、要所要所は関ケ原に合わせた立派な解説版が立てられているのですが、脇役は寂しいものです。HPで、「垂井を抜きに関ケ原は語れない!」と豪語しているのですから、もっと解説版も力を入れて頂けると嬉しいです。

     でも垂井町のHPの仰っている事はごもっともであり、南宮山の部隊は動きはしなかったものの、もし動いていたのなら、戦局がどう動いていたか解らない大軍なので、本当に重要なポイントです。

  •  長宗我部盛親の陣跡、栗原山の麓から南宮山方面に向かい20分程戻った場所、其処に本日二人目の陣跡があります。前方を大いに見渡せる、小高い、如何にも陣を張ってくれと言わんばかりの場所に彼の陣跡はありました。

     長宗我部盛親の陣跡、栗原山の麓から南宮山方面に向かい20分程戻った場所、其処に本日二人目の陣跡があります。前方を大いに見渡せる、小高い、如何にも陣を張ってくれと言わんばかりの場所に彼の陣跡はありました。

  •  五奉行の一人、長束正家の陣跡です。正家は算術が非常に長けていた事で取り立てられ、主に兵糧奉行として活躍しました。兵糧奉行と言う事で実戦経験は殆ど無いに等しいのですが、関ケ原の合戦では石田三成の要請に応じて参戦。合戦前の小競り合いでは池田隊と鉄砲の打ち合いこそあった様ですが、合戦開始後は吉川広家が動かなかった事により、長宗我部盛親同様、何も出来ないまま敗戦を迎えました。

    イチオシ

     五奉行の一人、長束正家の陣跡です。正家は算術が非常に長けていた事で取り立てられ、主に兵糧奉行として活躍しました。兵糧奉行と言う事で実戦経験は殆ど無いに等しいのですが、関ケ原の合戦では石田三成の要請に応じて参戦。合戦前の小競り合いでは池田隊と鉄砲の打ち合いこそあった様ですが、合戦開始後は吉川広家が動かなかった事により、長宗我部盛親同様、何も出来ないまま敗戦を迎えました。

  •  合戦後、彼は逃走し、犠牲を払いながらもなんとか水口城に引き上げますが。亀井茲矩、池田長吉に包囲の上、本領を安堵すると騙され出てきたところを捕縛され、切腹を命じられると言う悲劇的な最期を遂げました。

     合戦後、彼は逃走し、犠牲を払いながらもなんとか水口城に引き上げますが。亀井茲矩、池田長吉に包囲の上、本領を安堵すると騙され出てきたところを捕縛され、切腹を命じられると言う悲劇的な最期を遂げました。

  •  何故、これまで戦闘に参加してこなかった裏方であり、奉行と言う役職もあった彼が、三成の要請に応じて合戦に参加したのか?今となっては解りません。彼とて武将の一人、一度くらい皆の様に戦場に出たかったのかもしれません。しかし華々しく戦える場も無く、騙された上に切腹とはあんまりな最期だったと言えます。合掌。

     何故、これまで戦闘に参加してこなかった裏方であり、奉行と言う役職もあった彼が、三成の要請に応じて合戦に参加したのか?今となっては解りません。彼とて武将の一人、一度くらい皆の様に戦場に出たかったのかもしれません。しかし華々しく戦える場も無く、騙された上に切腹とはあんまりな最期だったと言えます。合掌。

  •  長宗我部盛親の陣跡から長束正家の陣跡は、タクシーも通った車通りの多い道路でしたが、長束正家の陣跡から南宮大社迄は、民家の多い田舎道を進みます。

     長宗我部盛親の陣跡から長束正家の陣跡は、タクシーも通った車通りの多い道路でしたが、長束正家の陣跡から南宮大社迄は、民家の多い田舎道を進みます。

  •  今こそ長閑な田舎道ですが、決戦直前には長束隊と池田隊の間で鉄砲を撃ちあう小競り合いがあったと言います。多分ここら辺の出来事ではないでしょうか?

     今こそ長閑な田舎道ですが、決戦直前には長束隊と池田隊の間で鉄砲を撃ちあう小競り合いがあったと言います。多分ここら辺の出来事ではないでしょうか?

  •  ひたすら南宮山を回り込みながら進みます。毛利秀元の陣跡は、南宮山の背後からハイキングコースを登り詰めた先にあります。そう言えば毛利の親族の小早川秀秋の陣跡も、松尾山の山頂にありました。本当毛利の陣跡巡りは体力が要ります。

     ひたすら南宮山を回り込みながら進みます。毛利秀元の陣跡は、南宮山の背後からハイキングコースを登り詰めた先にあります。そう言えば毛利の親族の小早川秀秋の陣跡も、松尾山の山頂にありました。本当毛利の陣跡巡りは体力が要ります。

  •  道中、物凄く貫禄のある黒猫様に遭遇しました。腹も出てるし、目つきがたまりません。きっと凄腕のボス猫です。

     道中、物凄く貫禄のある黒猫様に遭遇しました。腹も出てるし、目つきがたまりません。きっと凄腕のボス猫です。

  •  小さなお稲荷様がありました。

     小さなお稲荷様がありました。

  •  小さな神社もありました。

     小さな神社もありました。

  •  やっとの事で南宮大社に到着すれば、何やら騒々しい。どうやら初詣の容易で縁日の屋台を組み立て中の様です。もう今年もあと二日ですね。

     やっとの事で南宮大社に到着すれば、何やら騒々しい。どうやら初詣の容易で縁日の屋台を組み立て中の様です。もう今年もあと二日ですね。

  •  南宮大社は金属の総本宮として、全国の金属業、鉱山業、鍛冶屋から厚い信仰を集めている神社です。朱祭神は金山彦命です。

     南宮大社は金属の総本宮として、全国の金属業、鉱山業、鍛冶屋から厚い信仰を集めている神社です。朱祭神は金山彦命です。

  •  戦国時代は刀の需要も多かったでしょうから、信仰される事も多かった筈ですが、関ケ原の合戦で焼失してしまい、徳川家光の時代に再建されています。また、規模の大きい神社で、数多くの境内末社があります。

     戦国時代は刀の需要も多かったでしょうから、信仰される事も多かった筈ですが、関ケ原の合戦で焼失してしまい、徳川家光の時代に再建されています。また、規模の大きい神社で、数多くの境内末社があります。

  •  新年に向けてでしょうか?巨大な絵馬が飾られていました。どうやら2026年は午年の様ですね。この頃干支なんて全然解らなくなってしまいました。今年はどの動物さんだったのでしょうか?

     新年に向けてでしょうか?巨大な絵馬が飾られていました。どうやら2026年は午年の様ですね。この頃干支なんて全然解らなくなってしまいました。今年はどの動物さんだったのでしょうか?

  •  境内末社である湖千海神社です。豊玉彦命を祀る神社で、聖武天皇が此方で参拝して力を頂き、大仏建立を成し遂げたと言われているそうです。

     境内末社である湖千海神社です。豊玉彦命を祀る神社で、聖武天皇が此方で参拝して力を頂き、大仏建立を成し遂げたと言われているそうです。

  •  南宮稲荷の稲荷神社特有の多連する鳥居群。有名な伏見稲荷神社では、インバウンドの人達で大渋滞している様ですが、此処はひっそりとしていて神聖さを保っています。あ!インバウンドの人は見ちゃダメです(笑)

    イチオシ

     南宮稲荷の稲荷神社特有の多連する鳥居群。有名な伏見稲荷神社では、インバウンドの人達で大渋滞している様ですが、此処はひっそりとしていて神聖さを保っています。あ!インバウンドの人は見ちゃダメです(笑)

  •  稲荷神社特有の数多の鳥居と、数多の幟の先に…。

     稲荷神社特有の数多の鳥居と、数多の幟の先に…。

  •  稲荷社の本殿がありました。祭神は保食神。天照大神の命により保食神を見に行った月読命が、もてなしに怒り斬ってしまった。保食神の屍から数々の食べ物が生まれ、民が生きていく糧となった。…なんだかなぁ…と感じるお話がありました。<br /><br /> …って言うか祭神は狐様じゃないの?脇に小さな祠があったので、狐様はそちらなのかもしれません。

     稲荷社の本殿がありました。祭神は保食神。天照大神の命により保食神を見に行った月読命が、もてなしに怒り斬ってしまった。保食神の屍から数々の食べ物が生まれ、民が生きていく糧となった。…なんだかなぁ…と感じるお話がありました。

     …って言うか祭神は狐様じゃないの?脇に小さな祠があったので、狐様はそちらなのかもしれません。

  •  南宮稲荷から南宮山ハイキングコースの間に、安国寺恵瓊の陣跡が残ります。安国寺恵瓊は毛利家の外交僧ですが、毛利に留まらず豊臣家としてもネゴシエイターとして大活躍しました。しかしその前身は列記とした安芸武田家の武将です。しかし毛利家に安芸武田家が滅ぼされた事により、当時子供だった恵瓊は寺に送られ僧侶の道を歩む事になりました。<br /><br /> しかし歴史とは皮肉なもので、ひょんな事から彼は自分の家を滅ぼした毛利の下で仕えることとなるのです。

     南宮稲荷から南宮山ハイキングコースの間に、安国寺恵瓊の陣跡が残ります。安国寺恵瓊は毛利家の外交僧ですが、毛利に留まらず豊臣家としてもネゴシエイターとして大活躍しました。しかしその前身は列記とした安芸武田家の武将です。しかし毛利家に安芸武田家が滅ぼされた事により、当時子供だった恵瓊は寺に送られ僧侶の道を歩む事になりました。

     しかし歴史とは皮肉なもので、ひょんな事から彼は自分の家を滅ぼした毛利の下で仕えることとなるのです。

  •  その後毛利家の外交僧として活躍し、信長の死を予言したり、その後、毛利と合戦中の豊臣秀吉が明智光秀を撃つ為の大返しを行うに際しては、豊臣方の黒田官兵衛との話し合いを巧みに進め、豊臣秀吉に恩を売り、その才能を認められました。<br /><br /> その後は毛利に留まらず豊臣家の側近としても八面六臂の大活躍でした。<br /><br />

     その後毛利家の外交僧として活躍し、信長の死を予言したり、その後、毛利と合戦中の豊臣秀吉が明智光秀を撃つ為の大返しを行うに際しては、豊臣方の黒田官兵衛との話し合いを巧みに進め、豊臣秀吉に恩を売り、その才能を認められました。

     その後は毛利に留まらず豊臣家の側近としても八面六臂の大活躍でした。

  •  関が原に於いては石田三成に賛同し、総大将に毛利輝元を擁立する等、彼の得意とする調整役として遺憾無くその才能を発揮しました。また武将としても参陣しましたが、立場上毛利家内の宿敵とも言える、家康と通じている吉川広家が彼の直前の南宮山麓に陣を張っていた事から、再三出陣を広家に催促するも聞き入れられず、無念のまま関ヶ原の合戦を終える事となりました。

     関が原に於いては石田三成に賛同し、総大将に毛利輝元を擁立する等、彼の得意とする調整役として遺憾無くその才能を発揮しました。また武将としても参陣しましたが、立場上毛利家内の宿敵とも言える、家康と通じている吉川広家が彼の直前の南宮山麓に陣を張っていた事から、再三出陣を広家に催促するも聞き入れられず、無念のまま関ヶ原の合戦を終える事となりました。

  •  恵瓊はその後、逃亡するものの結局捕縛され、石田三成、小西行長と共に京都、三条河原にて処刑されました。広家が家康と通じていた事もあり、何とか毛利家は命脈は保ち、世は徳川の世になると、毛利家として一番積極的に西軍に加担していた安国寺恵瓊は、毛利方にとっても世間の評判共々、悪名を一身に受ける事となりました。<br /><br /> 外交僧として人一倍口が立った彼でしたが、その口が災いの下になってしまいました。正に諸刃の剣です。合掌。

     恵瓊はその後、逃亡するものの結局捕縛され、石田三成、小西行長と共に京都、三条河原にて処刑されました。広家が家康と通じていた事もあり、何とか毛利家は命脈は保ち、世は徳川の世になると、毛利家として一番積極的に西軍に加担していた安国寺恵瓊は、毛利方にとっても世間の評判共々、悪名を一身に受ける事となりました。

     外交僧として人一倍口が立った彼でしたが、その口が災いの下になってしまいました。正に諸刃の剣です。合掌。

  •  南宮山のハイキングコースもしっかりクマ避けのバリケードが施されていました。登山者は開けたら必ず扉を閉め、しっかり閂を掛け直します。この様に表示されていれば解り易いのですが、長宗我部盛親陣跡の登山道は、ただ単に扉にチェーンが巻き付けられていただけだったので、都会者には最初サッパリ意味が解らず、閉鎖されてしまったものと勘違いしてしまいました。

     南宮山のハイキングコースもしっかりクマ避けのバリケードが施されていました。登山者は開けたら必ず扉を閉め、しっかり閂を掛け直します。この様に表示されていれば解り易いのですが、長宗我部盛親陣跡の登山道は、ただ単に扉にチェーンが巻き付けられていただけだったので、都会者には最初サッパリ意味が解らず、閉鎖されてしまったものと勘違いしてしまいました。

  •  さて、本日のハイライト、毛利秀元の陣跡を目指して出陣いたします。クマ避けのフェンス内とは言え、此処は南宮大社を麓に控え、城跡巡りの人以外にも普通の登山客、更にはトレランの人も登っていたので熊との遭遇は心配無さそうです。

     さて、本日のハイライト、毛利秀元の陣跡を目指して出陣いたします。クマ避けのフェンス内とは言え、此処は南宮大社を麓に控え、城跡巡りの人以外にも普通の登山客、更にはトレランの人も登っていたので熊との遭遇は心配無さそうです。

  •  真っ直ぐに天を突く、針葉樹林が清々しいです。

     真っ直ぐに天を突く、針葉樹林が清々しいです。

  •  高度を増す度にお酒の徳利の容量で〇合目を表し、自分が今何処迄登ったか解る様になっています。ユーモアたっぷりですが、登頂したら酔っぱらってしまいそうな表記ですね(笑)

     高度を増す度にお酒の徳利の容量で〇合目を表し、自分が今何処迄登ったか解る様になっています。ユーモアたっぷりですが、登頂したら酔っぱらってしまいそうな表記ですね(笑)

  •  登山初心者にとって、こうした具体的な距離を見せてくれる事も嬉しい配慮だと思います。1,400m.ですか。駅から自宅みたいなもんだな♪いえいえ、通勤は山登りなんかしませんから!

     登山初心者にとって、こうした具体的な距離を見せてくれる事も嬉しい配慮だと思います。1,400m.ですか。駅から自宅みたいなもんだな♪いえいえ、通勤は山登りなんかしませんから!

  •  まだまだ四合ですか?もう私、十分酔いが回って来ました。もう千鳥足状態です。後から来た登山客が私を追い抜かしていきます。結構普段ならズンズン登る方なので、追い抜かしても、抜かされる事は滅多に無いのですが、体力落ちたものです。流石に歩き続けて三日目は辛い!頑張れ!

     まだまだ四合ですか?もう私、十分酔いが回って来ました。もう千鳥足状態です。後から来た登山客が私を追い抜かしていきます。結構普段ならズンズン登る方なので、追い抜かしても、抜かされる事は滅多に無いのですが、体力落ちたものです。流石に歩き続けて三日目は辛い!頑張れ!

  •  ヨタヨタ私が登っていると、物凄い勢いで駆け降りて来る人がいました。まさか熊が出たのかと思いましたよ!まぁトレランの人だった訳ですが…。<br /><br /> でも、これ冗談では済まされないのです。昨年起きた知床でトレランをしていた青年が熊の襲撃を受け、亡くなる事件が発生しました。多分トレランをしていて、熊と出合い頭となってしまい、熊を驚かせて結果、熊を刺激させてしまったのでしょう。<br /><br /> このケースは、被害に遭ったのが本人でしたから自己責任で終わりですが、他の登山者も巻き込んでしまう可能性もあるので、熊の出没の可能性のある山でのトレランはどうか控えて欲しいと思います。

     ヨタヨタ私が登っていると、物凄い勢いで駆け降りて来る人がいました。まさか熊が出たのかと思いましたよ!まぁトレランの人だった訳ですが…。

     でも、これ冗談では済まされないのです。昨年起きた知床でトレランをしていた青年が熊の襲撃を受け、亡くなる事件が発生しました。多分トレランをしていて、熊と出合い頭となってしまい、熊を驚かせて結果、熊を刺激させてしまったのでしょう。

     このケースは、被害に遭ったのが本人でしたから自己責任で終わりですが、他の登山者も巻き込んでしまう可能性もあるので、熊の出没の可能性のある山でのトレランはどうか控えて欲しいと思います。

  •  こうした史跡とその解説があるのも嬉しい事です。南宮大社は、明治時代の神仏分離が進む以前は、神仏習合の傾向が強い神社だったそうで、神宮寺としても機能していたのだそうです。そうした事から十棟の僧坊が建立され、その一棟が此処に建てられていたとの事です。因みに現在も、そのうちの一棟が、真禅院として残されているそうなので、下山後訪れて見ようと思います。<br /> 

     こうした史跡とその解説があるのも嬉しい事です。南宮大社は、明治時代の神仏分離が進む以前は、神仏習合の傾向が強い神社だったそうで、神宮寺としても機能していたのだそうです。そうした事から十棟の僧坊が建立され、その一棟が此処に建てられていたとの事です。因みに現在も、そのうちの一棟が、真禅院として残されているそうなので、下山後訪れて見ようと思います。
     

  •  此方はもう一つの僧坊跡。こうした解説版を読んでいると、つい夢中になって、疲れているのを忘れてしまい、体力が回復したと体が誤認してくれます。…薬物と同じで、後からツケが回ってくるのですけどね…。

     此方はもう一つの僧坊跡。こうした解説版を読んでいると、つい夢中になって、疲れているのを忘れてしまい、体力が回復したと体が誤認してくれます。…薬物と同じで、後からツケが回ってくるのですけどね…。

  •  基本出不精の私が、こうして山登りを楽しめているのも、此処に歴史があったからです。歴史を好きになれた事で、私の人生は豊かになりました。歴史との出逢いに感謝しなければなりません。

     基本出不精の私が、こうして山登りを楽しめているのも、此処に歴史があったからです。歴史を好きになれた事で、私の人生は豊かになりました。歴史との出逢いに感謝しなければなりません。

  •  南宮山の奥宮にあたる、高山神社に到着しました。祭神は木花開耶姫命・瓊瓊杵尊。花の様に美しい女神と天照大神の孫にあたられる神の御夫婦。安産、子育ての神として信仰されているとの事です。

     南宮山の奥宮にあたる、高山神社に到着しました。祭神は木花開耶姫命・瓊瓊杵尊。花の様に美しい女神と天照大神の孫にあたられる神の御夫婦。安産、子育ての神として信仰されているとの事です。

  •  登りながらふと思います。此処が山城なら仕方ありません。でも此処数日の内に合戦が始まる事を想定した陣です。それなのに、こんなに登ったところに陣を張る意味あったのですかね?登るにしろ降りるにしろ疲れるし、時間がかかるし。展望が良いのは解りますが、見張りを立てておけば済む事ですし…。

     登りながらふと思います。此処が山城なら仕方ありません。でも此処数日の内に合戦が始まる事を想定した陣です。それなのに、こんなに登ったところに陣を張る意味あったのですかね?登るにしろ降りるにしろ疲れるし、時間がかかるし。展望が良いのは解りますが、見張りを立てておけば済む事ですし…。

  •  関ケ原の合戦は野戦となった結果、超短時間で終わってしまいましたが、それは直前で大きく戦局が変わったからの事。毛利が此処に布陣した頃は、石田本隊は大垣城に籠城しており、と言う事は毛利は此処に後詰めとして長期戦の構えでいた。だからこそこの高度に陣を張ったのだと思います。<br /><br /> 理解したなら頑張りなさい!自分。後二合です!

     関ケ原の合戦は野戦となった結果、超短時間で終わってしまいましたが、それは直前で大きく戦局が変わったからの事。毛利が此処に布陣した頃は、石田本隊は大垣城に籠城しており、と言う事は毛利は此処に後詰めとして長期戦の構えでいた。だからこそこの高度に陣を張ったのだと思います。

     理解したなら頑張りなさい!自分。後二合です!

  •  立派な赤松が聳えています。

     立派な赤松が聳えています。

  •  ウォオ!テンション上がります!次の看板は頂上です!

     ウォオ!テンション上がります!次の看板は頂上です!

  •  さて、漸くラストスパートです。でもトレランじゃないので決して走りません!

     さて、漸くラストスパートです。でもトレランじゃないので決して走りません!

  •  遂に毛利秀元の陣跡の遺構が見えてきました。先ずは土橋との事です。

     遂に毛利秀元の陣跡の遺構が見えてきました。先ずは土橋との事です。

  •  これは…堀切ですね?

     これは…堀切ですね?

  •  カメラをズームしてぇ…。当たったぁ!漸く、少しは解ってきたかなぁ?

     カメラをズームしてぇ…。当たったぁ!漸く、少しは解ってきたかなぁ?

  •  土塁もしっかり、こんもり、てんこ盛りです。

     土塁もしっかり、こんもり、てんこ盛りです。

  •  続いて虎口もありました。私は不思議に思うのですが、此処は単なる陣跡です。しかも関ヶ原の合戦は、先にも述べた通り想定された決戦地がジリジリと西へと後退していった結果此処に陣取る事になりました。そんな急な展開で、土塁作っていたり小口を設けたり出来たのでしょうか?以前設けられていたものを流用したのでしょうか?

     続いて虎口もありました。私は不思議に思うのですが、此処は単なる陣跡です。しかも関ヶ原の合戦は、先にも述べた通り想定された決戦地がジリジリと西へと後退していった結果此処に陣取る事になりました。そんな急な展開で、土塁作っていたり小口を設けたり出来たのでしょうか?以前設けられていたものを流用したのでしょうか?

  •  虎口を観察します。確かに陣跡に入る直前に道が急角度で曲がっているのが確認できます。

     虎口を観察します。確かに陣跡に入る直前に道が急角度で曲がっているのが確認できます。

  •  何々?解説版がありました。どうやら読み進めると毛利勢が築いた様な書きっぷりです。これくらいの規模ならばあっという間に出来てしまうものなのでしょうか?工作兵的な集団がいたのでしょうか?山登らされて、やっと登り切った!とか思っていたら、早速土木工事に取り掛からねばならなかった兵隊さんは可哀そうだなぁ…私は此処迄登って来ただけでヘトヘトです。

     何々?解説版がありました。どうやら読み進めると毛利勢が築いた様な書きっぷりです。これくらいの規模ならばあっという間に出来てしまうものなのでしょうか?工作兵的な集団がいたのでしょうか?山登らされて、やっと登り切った!とか思っていたら、早速土木工事に取り掛からねばならなかった兵隊さんは可哀そうだなぁ…私は此処迄登って来ただけでヘトヘトです。

  •  そして、やっとこさ登り詰めてお酒の瓶も満杯です。お酒なんて一滴も飲んじゃいないのに、連日の昇り降りで、もう私の足元は泥酔した様にフラフラです。(実は南宮山の頂上は、もっと登ったところにある様ですが、展望もない様ですし、歴史にも絡みませんので遠慮させて頂きました。)

     そして、やっとこさ登り詰めてお酒の瓶も満杯です。お酒なんて一滴も飲んじゃいないのに、連日の昇り降りで、もう私の足元は泥酔した様にフラフラです。(実は南宮山の頂上は、もっと登ったところにある様ですが、展望もない様ですし、歴史にも絡みませんので遠慮させて頂きました。)

  •  南宮山の頂点近くに陣取る人物は、此処南宮山グループのリーダーとも言える毛利秀元です。毛利秀元は毛利元就の四男、穂田元清の子で、後に主家毛利輝元の養子となりました。<br /><br /> その後は輝元の使いっ走りと言ったら失礼ですが、朝鮮の役も輝元の代わりとなって出兵させられましたし、今回の関ケ原に於いても、大坂城でヒッキーになっていた輝元の名代として、毛利グループを纏めて西軍の別動隊として活躍し、伊勢方面から南宮山に陣取りました。<br /><br /> 秀元は使いっ走りにさせられていたとは言え、前哨戦でも軍功を立てていますし、やる気満々の様でした。しかしながら、毛利家を支える両川の一人、南宮山麓に陣を構えた吉川広家が徳川に通じ全く動かなかった事で、秀元も群を動かす事が出来ません。痺れを切らした長束正家等が催促を行うものの、同族のものが動こうとしないので<br /><br />「弁当食べてるから動けない。」<br /><br /> 等と、今の職場で言ったら殴られそうな言い訳をして動かなかったので「宰相の空弁当。」等、後世揶揄される事となりました。

     南宮山の頂点近くに陣取る人物は、此処南宮山グループのリーダーとも言える毛利秀元です。毛利秀元は毛利元就の四男、穂田元清の子で、後に主家毛利輝元の養子となりました。

     その後は輝元の使いっ走りと言ったら失礼ですが、朝鮮の役も輝元の代わりとなって出兵させられましたし、今回の関ケ原に於いても、大坂城でヒッキーになっていた輝元の名代として、毛利グループを纏めて西軍の別動隊として活躍し、伊勢方面から南宮山に陣取りました。

     秀元は使いっ走りにさせられていたとは言え、前哨戦でも軍功を立てていますし、やる気満々の様でした。しかしながら、毛利家を支える両川の一人、南宮山麓に陣を構えた吉川広家が徳川に通じ全く動かなかった事で、秀元も群を動かす事が出来ません。痺れを切らした長束正家等が催促を行うものの、同族のものが動こうとしないので

    「弁当食べてるから動けない。」

     等と、今の職場で言ったら殴られそうな言い訳をして動かなかったので「宰相の空弁当。」等、後世揶揄される事となりました。

  •  やる気があった本人としては、さぞかし無念の事だったと思いますし、事実その後広家が、毛利の所領の安堵を願って徳川と内通していたとは言え、もし、毛利が一丸となって西軍として戦っていたら、西軍の勝利、即ち毛利家の更なる躍進も望めた事から、関ケ原の合戦後の秀元と広家は勿論の事、彼等の子孫に及ぶ迄両家の確執は続いたと言います。<br /><br /> 因みに、秀元は、輝元の養子になったと書きましたが、輝元にはその後、実子が出来てしまいます。当然、秀元と実子秀就の確執は日々日々大きくなり、秀元の毛利家からの独立騒動に発展、幕府の仲裁を受けるに迄及びました。毛利と言えば毛利元就の三本の矢が有名ですが、実際は広家との確執やら、実子秀就との騒動やら、江戸初期の毛利は家内騒動ばかりでした。

     やる気があった本人としては、さぞかし無念の事だったと思いますし、事実その後広家が、毛利の所領の安堵を願って徳川と内通していたとは言え、もし、毛利が一丸となって西軍として戦っていたら、西軍の勝利、即ち毛利家の更なる躍進も望めた事から、関ケ原の合戦後の秀元と広家は勿論の事、彼等の子孫に及ぶ迄両家の確執は続いたと言います。

     因みに、秀元は、輝元の養子になったと書きましたが、輝元にはその後、実子が出来てしまいます。当然、秀元と実子秀就の確執は日々日々大きくなり、秀元の毛利家からの独立騒動に発展、幕府の仲裁を受けるに迄及びました。毛利と言えば毛利元就の三本の矢が有名ですが、実際は広家との確執やら、実子秀就との騒動やら、江戸初期の毛利は家内騒動ばかりでした。

  •  それにしても謎なのは、大坂城でヒッキーになって全く動かなかった毛利輝元の存在です。山は動かずと言えば格好良いものの、西軍の総大将として、西軍に所属した毛利一族の代表として、一族である毛利秀元や安国寺恵瓊は西軍としてイケイケ派であり、吉川広家は東軍に通じて動かない。小早川秀秋に至っては東軍に寝返ってしまう。総大将の輝元は彼等の動向をどれだけ把握していたのでしょう?<br /><br /> 改易処分を受けそうになっていた事から、書状くらいは出していた様ですが、石田三成の出陣要請には応えず、戦後、大坂城に落ち延び、徹底抗戦を訴えた立花宗茂等の熱弁にも応えず、徳川家康の要請には言われるままイソイソ大坂城を退去。<br /><br /> まるで、土曜の夜、ブラウン管の前に、何も出来ないまま立ち尽くしている事で笑いを取っている、高きブーの様な有様じゃないですか…。結局西軍の勢力の大半を占めていたと言っても過言では無い、毛利グループの指示系統が、全く機能していなかった事が、西軍の最大の敗因の様な気がするのですが…。<br /><br />元祖高木ブー伝説<br /><br />https://youtu.be/4OeY28QYrYI?si=tGlR0F1VdBWIj9jP

     それにしても謎なのは、大坂城でヒッキーになって全く動かなかった毛利輝元の存在です。山は動かずと言えば格好良いものの、西軍の総大将として、西軍に所属した毛利一族の代表として、一族である毛利秀元や安国寺恵瓊は西軍としてイケイケ派であり、吉川広家は東軍に通じて動かない。小早川秀秋に至っては東軍に寝返ってしまう。総大将の輝元は彼等の動向をどれだけ把握していたのでしょう?

     改易処分を受けそうになっていた事から、書状くらいは出していた様ですが、石田三成の出陣要請には応えず、戦後、大坂城に落ち延び、徹底抗戦を訴えた立花宗茂等の熱弁にも応えず、徳川家康の要請には言われるままイソイソ大坂城を退去。

     まるで、土曜の夜、ブラウン管の前に、何も出来ないまま立ち尽くしている事で笑いを取っている、高きブーの様な有様じゃないですか…。結局西軍の勢力の大半を占めていたと言っても過言では無い、毛利グループの指示系統が、全く機能していなかった事が、西軍の最大の敗因の様な気がするのですが…。

    元祖高木ブー伝説

    https://youtu.be/4OeY28QYrYI?si=tGlR0F1VdBWIj9jP

  •  残念ながら、ちょっと東の空がガスってしまいました。此処から見える展望は東側です。朝に登った栗原山の長宗我部盛親の陣跡、長束正家の陣跡からの展望も同様です。それに対し決戦が行われた関が原は此処より遥か西方です。即ち各陣跡は決戦地にそっぽを向いて築かれているのです。<br /><br /> 関ヶ原の合戦は様々な説がありますが、少なくともこの事から、当初は関が原が舞台になる事は想定されていなかったと言う事は間違い無いでしょう。

     残念ながら、ちょっと東の空がガスってしまいました。此処から見える展望は東側です。朝に登った栗原山の長宗我部盛親の陣跡、長束正家の陣跡からの展望も同様です。それに対し決戦が行われた関が原は此処より遥か西方です。即ち各陣跡は決戦地にそっぽを向いて築かれているのです。

     関ヶ原の合戦は様々な説がありますが、少なくともこの事から、当初は関が原が舞台になる事は想定されていなかったと言う事は間違い無いでしょう。

  •  此処から眺められるのは東側、即ち石田三成を始め西軍本体が集結している大垣城です。当然敵方の東軍は大垣城を攻めにかかるでしょう。その光景をこの山の上から観察し、時を見極めて攻め込む東軍の背後を突く!攻城戦をしかける敵を、後詰めの部隊で挟撃するのは時に見られる戦法です。なんか高い所に建つと気分も盛り上がって来ます。自分も此処から見下ろせば、<br /><br />「此処からなら、もしかして、俺でも家康やっつけられるんじゃね?」<br /><br /> とか、思ってしまいます。<br /><br />でも、現実…そうはならなかった…。

    イチオシ

     此処から眺められるのは東側、即ち石田三成を始め西軍本体が集結している大垣城です。当然敵方の東軍は大垣城を攻めにかかるでしょう。その光景をこの山の上から観察し、時を見極めて攻め込む東軍の背後を突く!攻城戦をしかける敵を、後詰めの部隊で挟撃するのは時に見られる戦法です。なんか高い所に建つと気分も盛り上がって来ます。自分も此処から見下ろせば、

    「此処からなら、もしかして、俺でも家康やっつけられるんじゃね?」

     とか、思ってしまいます。

    でも、現実…そうはならなかった…。

  •  南宮山、此処にいる部隊は、まるで取り残されてしまったかの様に動かぬまま、家康は関ケ原方面に移動してしまい、三成も折角入城した防御力の高い大垣城を捨てて関ケ原に向かってしまったのです。<br /><br /> 此処が最大の関ヶ原の合戦の謎が深い所です。先ずどっちが先に関ケ原を目指したのか?どうして関ケ原を目指したのか?これは専門家の間でも議論が繰り広げられている最中です。ただ一つ確かな事は、関ケ原で雌雄が決まったと言う事です。

     南宮山、此処にいる部隊は、まるで取り残されてしまったかの様に動かぬまま、家康は関ケ原方面に移動してしまい、三成も折角入城した防御力の高い大垣城を捨てて関ケ原に向かってしまったのです。

     此処が最大の関ヶ原の合戦の謎が深い所です。先ずどっちが先に関ケ原を目指したのか?どうして関ケ原を目指したのか?これは専門家の間でも議論が繰り広げられている最中です。ただ一つ確かな事は、関ケ原で雌雄が決まったと言う事です。

  •  先ず一般的に知られている事は、家康が先に動いた説です。「大垣城をスルーして、三成の居城佐和山城を攻めて、その足で大坂に向かう。」と言うデマを流して、三成をおびき寄せたと言うものです。<br /><br /> 家康は攻城戦より野戦を得意としましたし、攻城戦は時間がかかります。旗本衆の殆どを秀忠に任せ、家康は多くの豊臣方の武将を引き連れ東軍としていました。余り時間をかけ過ぎると、彼等がどう動くか解りません。調略した吉川広家や小早川秀秋の動きも心配です。家康にしてみたら短期戦で終わらせたかった。だから城から引き摺り出す必要があったと言うのがこの説です。

    イチオシ

     先ず一般的に知られている事は、家康が先に動いた説です。「大垣城をスルーして、三成の居城佐和山城を攻めて、その足で大坂に向かう。」と言うデマを流して、三成をおびき寄せたと言うものです。

     家康は攻城戦より野戦を得意としましたし、攻城戦は時間がかかります。旗本衆の殆どを秀忠に任せ、家康は多くの豊臣方の武将を引き連れ東軍としていました。余り時間をかけ過ぎると、彼等がどう動くか解りません。調略した吉川広家や小早川秀秋の動きも心配です。家康にしてみたら短期戦で終わらせたかった。だから城から引き摺り出す必要があったと言うのがこの説です。

  •  一方、新しい説では、いや、三成が最初に動いたとする説です。大きな理由は、小早川秀秋の挙動が怪しい事は、当時から三成方も憂慮していました。もし小早川が寝返ってしまうと関ヶ原西方の街道を抑えられてしまうと、西軍としては退路を断たれる事になります。<br /><br /> また、石田三成にとっても、家康同様に西軍のメンバーがどれだけ信じ切れるか不安を抱えたままの開戦だったので、三成として短期決戦を望んだから、先に仕掛けたのでは無いかと言うのが、三成説の理由となります。(一方、大坂城にいて動かない、毛利輝元を待つ為、持久戦に持ち込みたかったとする説もあります。)

     一方、新しい説では、いや、三成が最初に動いたとする説です。大きな理由は、小早川秀秋の挙動が怪しい事は、当時から三成方も憂慮していました。もし小早川が寝返ってしまうと関ヶ原西方の街道を抑えられてしまうと、西軍としては退路を断たれる事になります。

     また、石田三成にとっても、家康同様に西軍のメンバーがどれだけ信じ切れるか不安を抱えたままの開戦だったので、三成として短期決戦を望んだから、先に仕掛けたのでは無いかと言うのが、三成説の理由となります。(一方、大坂城にいて動かない、毛利輝元を待つ為、持久戦に持ち込みたかったとする説もあります。)

  •  どうやら、どちらが先になったとしても、短期決戦に持ち込みたいのは両者ともで、そうしたところで思惑は一致したのかもしれません。どちらも不安を抱えつつ対陣していたのです。<br /><br /> 不幸な事に、その不安が的中してしまったのが三成でした。小早川が信用出来ないと言うのはビンゴだったものの、まさか南宮山が全く機能しなくなるとは夢にも思わなかったのでは無いでしょうか?もし、その危険を察知していたなら、彼は決して大垣城を出てはいないと思いますから。

     どうやら、どちらが先になったとしても、短期決戦に持ち込みたいのは両者ともで、そうしたところで思惑は一致したのかもしれません。どちらも不安を抱えつつ対陣していたのです。

     不幸な事に、その不安が的中してしまったのが三成でした。小早川が信用出来ないと言うのはビンゴだったものの、まさか南宮山が全く機能しなくなるとは夢にも思わなかったのでは無いでしょうか?もし、その危険を察知していたなら、彼は決して大垣城を出てはいないと思いますから。

  •  三成としては、例え小早川が裏切ったとしても、南宮山の部隊が動き出せば、東軍を挟撃出来る、あわよくば小早川が裏切らなければ、最早東軍は、関ケ原に袋のネズミだ!とさえ思ってしまったのかもしれません。<br /><br /> しかし、現実は小早川は裏切り、吉川は動かず、毛利を支えるべく二つの川が機能しなくなった事で、西軍の鶴翼の両翼は捥がれ、為す術西軍は地に墜ちていったのです。

     三成としては、例え小早川が裏切ったとしても、南宮山の部隊が動き出せば、東軍を挟撃出来る、あわよくば小早川が裏切らなければ、最早東軍は、関ケ原に袋のネズミだ!とさえ思ってしまったのかもしれません。

     しかし、現実は小早川は裏切り、吉川は動かず、毛利を支えるべく二つの川が機能しなくなった事で、西軍の鶴翼の両翼は捥がれ、為す術西軍は地に墜ちていったのです。

  •  この様に東軍、西軍、家康、三成、双方とも、蓋を開けて見なければ、どう動くか全く解らない要素を抱えながら突入したのが関ヶ原の戦いとも言えると思うのです。戦っている本人達ですらそうなのですから、私達からしても、歴史に「たらればを言い始めたらキリが無い。」のは十分承知していて尚「たられば」を考えずにいはいられない。だからこそ関ヶ原の合戦は人気があるのかもしれません。

     この様に東軍、西軍、家康、三成、双方とも、蓋を開けて見なければ、どう動くか全く解らない要素を抱えながら突入したのが関ヶ原の戦いとも言えると思うのです。戦っている本人達ですらそうなのですから、私達からしても、歴史に「たらればを言い始めたらキリが無い。」のは十分承知していて尚「たられば」を考えずにいはいられない。だからこそ関ヶ原の合戦は人気があるのかもしれません。

  •  そして、此処南宮山は、関ケ原に於ける、そんな「たられば」の重要な聖地の一つである事は間違い無いでしょう。もし、毛利が空弁当を食べてさえいなければ、関ケ原の合戦は大きく運命が変わっていた事は間違い無いのですから。

     そして、此処南宮山は、関ケ原に於ける、そんな「たられば」の重要な聖地の一つである事は間違い無いでしょう。もし、毛利が空弁当を食べてさえいなければ、関ケ原の合戦は大きく運命が変わっていた事は間違い無いのですから。

  •  漸く熊避けのフェンスの外側、つまり人間界に戻って来ました。南宮稲荷の鳥居達が出迎えてくれます。

     漸く熊避けのフェンスの外側、つまり人間界に戻って来ました。南宮稲荷の鳥居達が出迎えてくれます。

  •  稲荷側から見ると、奉納者を示す札が整然と貼り付けられ、往きとは受けるイメージが異なります。

     稲荷側から見ると、奉納者を示す札が整然と貼り付けられ、往きとは受けるイメージが異なります。

  •  昨今の広告業界は、テレビの時代は最早終焉を告げ、ネットの完全勝利の時代になりましたが、当時はこうした多くの人が参拝に来る稲荷に鳥居を奉納する事で、CMを打つ効果もあったのでしょう。

     昨今の広告業界は、テレビの時代は最早終焉を告げ、ネットの完全勝利の時代になりましたが、当時はこうした多くの人が参拝に来る稲荷に鳥居を奉納する事で、CMを打つ効果もあったのでしょう。

  •  潜り抜けました。潜り抜け終わると、何故か気持ちがスッキリした様にも感じます。もしかするとこの沢山の鳥居のトンネルは、現世と戦国時代のタイムトンネルなのかもしれません。

     潜り抜けました。潜り抜け終わると、何故か気持ちがスッキリした様にも感じます。もしかするとこの沢山の鳥居のトンネルは、現世と戦国時代のタイムトンネルなのかもしれません。

  •  さぁ、次なる旅人さん、タイムトンネルを潜って、戦国時代へ行ってらっしゃい!<br /><br />鳥居潜りを動画でお楽しみ下さい。<br /><br />https://youtube.com/shorts/2BGY9GfhPXs?feature=shared

    イチオシ

     さぁ、次なる旅人さん、タイムトンネルを潜って、戦国時代へ行ってらっしゃい!

    鳥居潜りを動画でお楽しみ下さい。

    https://youtube.com/shorts/2BGY9GfhPXs?feature=shared

  •  境内に戻ってくると、途端雰囲気が変わりました。陽が当たり、人々がいるからでしょうか?暖かな感じがします。初詣を控えているので、人出が多い訳ではありませんが、参拝しに来た人々の表情に、今年も無事過ごす事が出来た安堵感が出ているからかもしれません。

     境内に戻ってくると、途端雰囲気が変わりました。陽が当たり、人々がいるからでしょうか?暖かな感じがします。初詣を控えているので、人出が多い訳ではありませんが、参拝しに来た人々の表情に、今年も無事過ごす事が出来た安堵感が出ているからかもしれません。

  •  私は神道に信仰は無いので、手を合わせる事はしませんが、人々の祈る姿は神聖な気持ちになって、いかなる宗教のものであったとしても崇高なものと思います。

     私は神道に信仰は無いので、手を合わせる事はしませんが、人々の祈る姿は神聖な気持ちになって、いかなる宗教のものであったとしても崇高なものと思います。

  •  南宮大社、想像していた以上に大規模な神社でした。そしてふと思います。幾ら天下分け目の大戦だからと言って、此処を焼き払って陣を張るなんて不届きな事したから西軍罰が当たったのでは無いでしょうか?(西軍が火を放ったとは限りませんが…。)

     南宮大社、想像していた以上に大規模な神社でした。そしてふと思います。幾ら天下分け目の大戦だからと言って、此処を焼き払って陣を張るなんて不届きな事したから西軍罰が当たったのでは無いでしょうか?(西軍が火を放ったとは限りませんが…。)

  •  そして南宮山での関が原の合戦の最重要人物であろう吉川広家の陣跡を訪れました。え?これだけかよ?ちゃんとした看板も無し?と驚きつつ。<br /><br /> 因みに毛利元就の三本の矢では無いですが、毛利元就の次男が吉川家へ三男が小早川家となり、この二つの家を両川と呼び、本家である毛利家を支えました。吉川広家はその二代目、つまり毛利元就の孫の世代となります。

    イチオシ

     そして南宮山での関が原の合戦の最重要人物であろう吉川広家の陣跡を訪れました。え?これだけかよ?ちゃんとした看板も無し?と驚きつつ。

     因みに毛利元就の三本の矢では無いですが、毛利元就の次男が吉川家へ三男が小早川家となり、この二つの家を両川と呼び、本家である毛利家を支えました。吉川広家はその二代目、つまり毛利元就の孫の世代となります。

  •  吉川広家は、毛利家内の領土問題が発生した時、その解決を巡った判断により石田三成を嫌い、家康に近しくなったと言う説があります。(家康にとっては買収成功と言ったところでしょうか?)<br /><br /> 事の真偽は解りませんが、広家が家康と通じていたのは明らかで、毛利のネゴシエイターであり、三成と通じていた安国寺恵瓊とはバチバチにやり合う関係だったと言います。<br /><br /> 表立っては安国寺恵瓊の目論見通り進んでいた毛利の方針の中、広家は皆に伝える事無く家康と共謀し、自らが南宮山麓に陣取る事で、南宮山方面に陣取った毛利秀元、安国寺恵瓊、長束正家、長曾我部盛親の部隊の動きを完封してしまったのです。安国寺恵瓊にしてみたら、「してやられたり!」家康にとっては「チョー、グッジョブ!」って小躍りしたに違いありません。

     吉川広家は、毛利家内の領土問題が発生した時、その解決を巡った判断により石田三成を嫌い、家康に近しくなったと言う説があります。(家康にとっては買収成功と言ったところでしょうか?)

     事の真偽は解りませんが、広家が家康と通じていたのは明らかで、毛利のネゴシエイターであり、三成と通じていた安国寺恵瓊とはバチバチにやり合う関係だったと言います。

     表立っては安国寺恵瓊の目論見通り進んでいた毛利の方針の中、広家は皆に伝える事無く家康と共謀し、自らが南宮山麓に陣取る事で、南宮山方面に陣取った毛利秀元、安国寺恵瓊、長束正家、長曾我部盛親の部隊の動きを完封してしまったのです。安国寺恵瓊にしてみたら、「してやられたり!」家康にとっては「チョー、グッジョブ!」って小躍りしたに違いありません。

  •  関ヶ原の戦いは両軍とも8万人程度で争われたと言います。その数では互角に見えます。その中で南宮山に詰めていたのは2万4千程度と言われています。しかし吉川広家が南宮山を完封した事により、実際戦ったのは8万VS5万6千に変わってしまいます。<br /><br /> 更に両川のもう一つの川、即ち小早川秀秋も裏切ります。小早川秀秋は1万5千を抱える大勢力だったので、彼が裏切った事により、差し引き東軍9万5千VS西軍4万1千と言う差が産まれてしまいました。現実にはもっと裏切った武将がいましたから、これ以上の差が出ていた事になります。この事からも西軍に勝ち目が無かった事が解ります。

     関ヶ原の戦いは両軍とも8万人程度で争われたと言います。その数では互角に見えます。その中で南宮山に詰めていたのは2万4千程度と言われています。しかし吉川広家が南宮山を完封した事により、実際戦ったのは8万VS5万6千に変わってしまいます。

     更に両川のもう一つの川、即ち小早川秀秋も裏切ります。小早川秀秋は1万5千を抱える大勢力だったので、彼が裏切った事により、差し引き東軍9万5千VS西軍4万1千と言う差が産まれてしまいました。現実にはもっと裏切った武将がいましたから、これ以上の差が出ていた事になります。この事からも西軍に勝ち目が無かった事が解ります。

  •  それにしても西軍の総大将を務めた毛利家を支えるべく両川が、共に裏切ったり、動かなかったりした事で、西軍の敗北が決定的になるとは皮肉なものです。結果として吉川広家の目論見通り、徳川家康が勝利して、家康は広家の条件を入れて毛利の所領は安堵されて終わる筈でした。<br /><br /> しかしこれの真偽は解りませんが、寸でのところで西軍の総大将だった毛利輝元が積極的に書状を出していた事が判明してしまいます。所領安堵の約束は、輝元が担がれて総大将になっており、決して積極的に務めた訳では無いと言うのが条件だった事もあり、約束は反故となり、広家自体は所領安堵されたものの、毛利家本家は改易と言う判断を下されてしまいます。

     それにしても西軍の総大将を務めた毛利家を支えるべく両川が、共に裏切ったり、動かなかったりした事で、西軍の敗北が決定的になるとは皮肉なものです。結果として吉川広家の目論見通り、徳川家康が勝利して、家康は広家の条件を入れて毛利の所領は安堵されて終わる筈でした。

     しかしこれの真偽は解りませんが、寸でのところで西軍の総大将だった毛利輝元が積極的に書状を出していた事が判明してしまいます。所領安堵の約束は、輝元が担がれて総大将になっており、決して積極的に務めた訳では無いと言うのが条件だった事もあり、約束は反故となり、広家自体は所領安堵されたものの、毛利家本家は改易と言う判断を下されてしまいます。

  •  広家は必死に弁明し、漸く改易は免れたものの、それまでの山陽山陰8か国120万石から周防・長門2か国30万石迄大幅に減封され、輝元も隠居させられました。<br /><br /> もし、あの時毛利が一団となって西軍が戦っていたら?毛利が天下を取れていたかもしれません。しかし広家は西軍の敗北を予想し、その時に備え、最悪の事態を打開すべく動きました。どちらの答が正しかったのでしょう?歴史ファンでも意見が分かれる武将ではあります。実際その後毛利家の間でも、長きに渡って吉川家との確執は続いたと言います。

     広家は必死に弁明し、漸く改易は免れたものの、それまでの山陽山陰8か国120万石から周防・長門2か国30万石迄大幅に減封され、輝元も隠居させられました。

     もし、あの時毛利が一団となって西軍が戦っていたら?毛利が天下を取れていたかもしれません。しかし広家は西軍の敗北を予想し、その時に備え、最悪の事態を打開すべく動きました。どちらの答が正しかったのでしょう?歴史ファンでも意見が分かれる武将ではあります。実際その後毛利家の間でも、長きに渡って吉川家との確執は続いたと言います。

  •  朝倉山 真禅院を訪れました。天台宗のお寺で南宮大社と深い関りを持つ寺院です。南宮大社は神仏習合の要素が強く、明治以降の神仏分離政策により、以前は南宮大社にあった本地堂、三重塔が此処に移設されました。

     朝倉山 真禅院を訪れました。天台宗のお寺で南宮大社と深い関りを持つ寺院です。南宮大社は神仏習合の要素が強く、明治以降の神仏分離政策により、以前は南宮大社にあった本地堂、三重塔が此処に移設されました。

  •  先に述べた通り、南宮大社は神仏習合の傾向が強く、神宮寺としての機能も保持しており、平将門の乱の調伏の為、建立された十棟の僧坊の一つが真禅院とされています。<br /><br /> と言う事は…平将門公を祀った神田明神とはバチバチの関係と言う事でしょうか?将門公は好きなので複雑です。

     先に述べた通り、南宮大社は神仏習合の傾向が強く、神宮寺としての機能も保持しており、平将門の乱の調伏の為、建立された十棟の僧坊の一つが真禅院とされています。

     と言う事は…平将門公を祀った神田明神とはバチバチの関係と言う事でしょうか?将門公は好きなので複雑です。

  •  こんな立地に建てられていた為、当然南宮大社と共に関ヶ原の合戦では焼失し(南宮山では吉川広家が動かなかった為、戦闘は起きていない筈なのですが、予め陣取りの邪魔になるから焼き払われてしまったのでしょうか?)その後南宮大社と共に徳川家光により再建されました。

     こんな立地に建てられていた為、当然南宮大社と共に関ヶ原の合戦では焼失し(南宮山では吉川広家が動かなかった為、戦闘は起きていない筈なのですが、予め陣取りの邪魔になるから焼き払われてしまったのでしょうか?)その後南宮大社と共に徳川家光により再建されました。

  •  お隣の滋賀県は飛び出し坊やで有名ですが、岐阜県は飛び出し少女の様です。私にはキックかましてるお転婆少女にしか見えませんが、可愛らしいですね!小さな子供が交通事故に巻き込まれるのは、本当辛いニュースです。ドライバーの皆様、ご安全に!

     お隣の滋賀県は飛び出し坊やで有名ですが、岐阜県は飛び出し少女の様です。私にはキックかましてるお転婆少女にしか見えませんが、可愛らしいですね!小さな子供が交通事故に巻き込まれるのは、本当辛いニュースです。ドライバーの皆様、ご安全に!

  •  山梨でも見かけましたが、こう言うポスト良いですねぇ。なんで東京では無くなってしまったのだろう?

     山梨でも見かけましたが、こう言うポスト良いですねぇ。なんで東京では無くなってしまったのだろう?

  •  浅野幸長の陣跡に到着しました。垂井エリアでは次に訪れる池田輝政陣跡と共に東軍の陣跡となります。吉川広家が家康と通じていた為、戦闘になる確率は少なかったものの、もしもの時に備えての布陣です。<br /><br /> 因みに陣跡は中参道の一里塚と同じ場所に残されており、中山道で国の史跡に指定されているのは、東京板橋区志村のものと此処だけであり、貴重な史跡だとの事です。

     浅野幸長の陣跡に到着しました。垂井エリアでは次に訪れる池田輝政陣跡と共に東軍の陣跡となります。吉川広家が家康と通じていた為、戦闘になる確率は少なかったものの、もしもの時に備えての布陣です。

     因みに陣跡は中参道の一里塚と同じ場所に残されており、中山道で国の史跡に指定されているのは、東京板橋区志村のものと此処だけであり、貴重な史跡だとの事です。

  •  浅野幸長の父は五奉行の浅野長政。五奉行の中では唯一武断派に所属した武将であり、父子共に三成を嫌っていました。加藤清正ら武断派7人衆の一人であり、石田三成襲撃事件を起こしています。こうした流れから自然東軍につき、父は江戸で留守を守る大役を務め、子である幸長は、池田輝政と共に南宮山方面の後詰めとして布陣しました。

     浅野幸長の父は五奉行の浅野長政。五奉行の中では唯一武断派に所属した武将であり、父子共に三成を嫌っていました。加藤清正ら武断派7人衆の一人であり、石田三成襲撃事件を起こしています。こうした流れから自然東軍につき、父は江戸で留守を守る大役を務め、子である幸長は、池田輝政と共に南宮山方面の後詰めとして布陣しました。

  •  因みに目の前を走る道路は中山道であり、この道を真っ直ぐ歩いて行けばゆくゆくは家康の最初の陣地、桃配り山に到達します。即ちGWでの散策の終点です。此処で前回と繋がってくるのだなと思うと感無量で、思わずそのまま歩いて行きたくなりますが、まだまだ垂井で見たいポイントがあるので引き返します。

     因みに目の前を走る道路は中山道であり、この道を真っ直ぐ歩いて行けばゆくゆくは家康の最初の陣地、桃配り山に到達します。即ちGWでの散策の終点です。此処で前回と繋がってくるのだなと思うと感無量で、思わずそのまま歩いて行きたくなりますが、まだまだ垂井で見たいポイントがあるので引き返します。

  •  池田輝政の陣跡にやってきました。大層立派な標識が建てられていました。それにしても後ろの看板、もしかして御子孫様の会社なのでしょうか?<br /><br /> 池田家は織田、豊臣、徳川と父子に渡り仕え、其々の武将に重用された武将です。よっぽど世渡りが上手かったのか?それとも好人物だったのか?肖像画はちょいと馬鹿殿風ですが、当時生き残るにはそれくらいの方が良かったのかもしれません。

     池田輝政の陣跡にやってきました。大層立派な標識が建てられていました。それにしても後ろの看板、もしかして御子孫様の会社なのでしょうか?

     池田家は織田、豊臣、徳川と父子に渡り仕え、其々の武将に重用された武将です。よっぽど世渡りが上手かったのか?それとも好人物だったのか?肖像画はちょいと馬鹿殿風ですが、当時生き残るにはそれくらいの方が良かったのかもしれません。

  •  決して目立つ武将ではありませんが要所要所に登場して活躍する、彼はそんなタイプ。関ケ原では冒頭で述べた前哨戦となった岐阜城攻略で、岐阜城城主を務めた経験を活かし、福島正則と共に石田三成が驚愕するスピードで岐阜城を陥落させてます。<br /><br /> 関ケ原本戦では、南宮山方面の後詰めとして、桃配り山の家康の本陣より後方に、山内一豊、浅野幸長と共に布陣。南宮山の敵陣とは一番至近距離の布陣でしたが、先に述べた通り吉川広家が動かなかった通り、戦闘を行う事無く合戦を終了しています。

     決して目立つ武将ではありませんが要所要所に登場して活躍する、彼はそんなタイプ。関ケ原では冒頭で述べた前哨戦となった岐阜城攻略で、岐阜城城主を務めた経験を活かし、福島正則と共に石田三成が驚愕するスピードで岐阜城を陥落させてます。

     関ケ原本戦では、南宮山方面の後詰めとして、桃配り山の家康の本陣より後方に、山内一豊、浅野幸長と共に布陣。南宮山の敵陣とは一番至近距離の布陣でしたが、先に述べた通り吉川広家が動かなかった通り、戦闘を行う事無く合戦を終了しています。

  •  この時の布陣から鑑みても、幾ら山内、浅野、そして池田輝政が優秀だったとしても、南宮山の部隊が一斉に攻撃を始めようものなら、兵数的にも三者じゃ防ぎきれる筈も無いので、家康が広家との約束を如何に信用していたかが伺えると思います。<br /><br /> 池田輝政は、この功績により姫路を与えられ、姫路城を今ある姿に変えた人物としても有名です。

     この時の布陣から鑑みても、幾ら山内、浅野、そして池田輝政が優秀だったとしても、南宮山の部隊が一斉に攻撃を始めようものなら、兵数的にも三者じゃ防ぎきれる筈も無いので、家康が広家との約束を如何に信用していたかが伺えると思います。

     池田輝政は、この功績により姫路を与えられ、姫路城を今ある姿に変えた人物としても有名です。

  •  池田輝政の陣跡には、並んで春王・安王の墓が残っています。私の苦手な室町時代の歴史なので知りませんでしたが、当時の鎌倉公方足利持氏が、関東管領上杉憲実と争い、幕府が上杉を援護した為、持氏は討たれ、持氏の子春王、安王は日光に落ち延びました。<br /><br /> その後、下総の結城氏朝が、春王、安王を迎えて挙兵するも、これも幕府により鎮圧されました。春王、安王は捉えられ、京都への護送中、この地で処刑されたとの事です。

     池田輝政の陣跡には、並んで春王・安王の墓が残っています。私の苦手な室町時代の歴史なので知りませんでしたが、当時の鎌倉公方足利持氏が、関東管領上杉憲実と争い、幕府が上杉を援護した為、持氏は討たれ、持氏の子春王、安王は日光に落ち延びました。

     その後、下総の結城氏朝が、春王、安王を迎えて挙兵するも、これも幕府により鎮圧されました。春王、安王は捉えられ、京都への護送中、この地で処刑されたとの事です。

  •  つまり、実際は関東地方で起こった争いであり、その結果として此処迄護送された上、此処で亡くなったと言う事らしいです。詳しくは知りませんが、現在より血と言うものに重きをおいた時代とは言え、大の大人が年端のいかない子供を出汁にして権力を奪い合うのは醜い事だと思いますし、それに巻き込まれた挙句処刑されてしまった兄弟は余りにも惨い事に思います。合掌。

     つまり、実際は関東地方で起こった争いであり、その結果として此処迄護送された上、此処で亡くなったと言う事らしいです。詳しくは知りませんが、現在より血と言うものに重きをおいた時代とは言え、大の大人が年端のいかない子供を出汁にして権力を奪い合うのは醜い事だと思いますし、それに巻き込まれた挙句処刑されてしまった兄弟は余りにも惨い事に思います。合掌。

  •  専精寺を訪れました。此処は垂井城があった場所とされ、その城主は西軍大谷刑部吉継と共に戦った平塚為広と言われます。なんか彼の名を聞いただけで、涙腺が緩んでしまいます。

     専精寺を訪れました。此処は垂井城があった場所とされ、その城主は西軍大谷刑部吉継と共に戦った平塚為広と言われます。なんか彼の名を聞いただけで、涙腺が緩んでしまいます。

  •  平塚為広は、大谷刑部吉継と共に石田三成へ家康との戦いの無謀さを問うが、結局叶わぬと知ると、その友情から大谷刑部は石田三成と命運を共にする決意を決め、平塚為広もそれに従いました。<br /><br /> その当時大谷刑部はライ病を患い、輿に乗って戦うしか無く、視力も衰えていた様ですが、それを平塚為広が補いつつ、小早川秀秋の裏切りを発端に連鎖反応で膨れ上がった寝返りの軍勢と、必死になって戦いました。

     平塚為広は、大谷刑部吉継と共に石田三成へ家康との戦いの無謀さを問うが、結局叶わぬと知ると、その友情から大谷刑部は石田三成と命運を共にする決意を決め、平塚為広もそれに従いました。

     その当時大谷刑部はライ病を患い、輿に乗って戦うしか無く、視力も衰えていた様ですが、それを平塚為広が補いつつ、小早川秀秋の裏切りを発端に連鎖反応で膨れ上がった寝返りの軍勢と、必死になって戦いました。

  •  善戦も空しく、やがて持ち堪えられぬと知った時、為広は大谷刑部に辞世の句を贈りました。<br /><br />「名の為に 捨つる命は惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思えば」

     善戦も空しく、やがて持ち堪えられぬと知った時、為広は大谷刑部に辞世の句を贈りました。

    「名の為に 捨つる命は惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思えば」

  •  それに対して大谷刑部はこう返したと言います。<br /><br />「契りあらば 六つの巷に 待て暫し 遅れ先立つ 事はありとも」<br /><br /> この返歌が届いたかどうか知る人はいませんが、二人肩を並べながら、三途の川を渡っていった事でしょう。

     それに対して大谷刑部はこう返したと言います。

    「契りあらば 六つの巷に 待て暫し 遅れ先立つ 事はありとも」

     この返歌が届いたかどうか知る人はいませんが、二人肩を並べながら、三途の川を渡っていった事でしょう。

  •  平塚為広が慕った大谷刑部吉継と言う武将は、この他にも石田三成との友情譚や、彼の切腹後の湯浅五助のエピソード等悲しくも美しいエピソードばかり残る武将です。その多くは後からの創作が多分に含まれるでしょうが、これ程多くの美談に飾られた武将は珍しく、彼が如何に義に篤く慕われていた武将だったかが伝わってきます。

     平塚為広が慕った大谷刑部吉継と言う武将は、この他にも石田三成との友情譚や、彼の切腹後の湯浅五助のエピソード等悲しくも美しいエピソードばかり残る武将です。その多くは後からの創作が多分に含まれるでしょうが、これ程多くの美談に飾られた武将は珍しく、彼が如何に義に篤く慕われていた武将だったかが伝わってきます。

  •  垂井城跡のすぐ隣には岐阜県の名水50選に選ばれている泉が、これまた岐阜県指定の天然記念物瀬ある大ケヤキの下に湧き出しています。

     垂井城跡のすぐ隣には岐阜県の名水50選に選ばれている泉が、これまた岐阜県指定の天然記念物瀬ある大ケヤキの下に湧き出しています。

  •  垂井の地名の由来になった泉であり、「続日本紀」に記されている、聖武天皇が美濃行幸中に立ち寄った「曳常泉」こそ、この泉であるとされています。故に完璧に垂井城跡が喰われてしまっている事は、関が原ファンとしては複雑な心境です。

     垂井の地名の由来になった泉であり、「続日本紀」に記されている、聖武天皇が美濃行幸中に立ち寄った「曳常泉」こそ、この泉であるとされています。故に完璧に垂井城跡が喰われてしまっている事は、関が原ファンとしては複雑な心境です。

  •  湧き出した泉は、綺麗な池になっていました。<br /><br />「昔見したる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年を経にける」<br /><br />藤原 隆経<br /><br />「葱白く 洗ひたてたる 寒さかな」<br /><br />松尾芭蕉

     湧き出した泉は、綺麗な池になっていました。

    「昔見したる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年を経にける」

    藤原 隆経

    「葱白く 洗ひたてたる 寒さかな」

    松尾芭蕉

  •  そして、再び竹中半兵衛像にご対面。即ち垂井駅に戻って来ました。当初は関ヶ原のオマケと迄はいかないものの、局地的な陣跡程度に考えていましたが、関ケ原の合戦の行方を変え兼ねない重要な勢力であった事は確かな事。散策も二か所の登山を伴い、丸一日、散策し甲斐のある陣跡巡りでした。垂井町のHPが<br /><br />「垂井を抜きにして関ケ原合戦は語れない!」<br /><br />と豪語しているのも納得しました。大満足で垂井を後にします。

     そして、再び竹中半兵衛像にご対面。即ち垂井駅に戻って来ました。当初は関ヶ原のオマケと迄はいかないものの、局地的な陣跡程度に考えていましたが、関ケ原の合戦の行方を変え兼ねない重要な勢力であった事は確かな事。散策も二か所の登山を伴い、丸一日、散策し甲斐のある陣跡巡りでした。垂井町のHPが

    「垂井を抜きにして関ケ原合戦は語れない!」

    と豪語しているのも納得しました。大満足で垂井を後にします。

  •  地方の電車には、いつもタイミングが悪い私ですが、今回はドンピシャのタイミングで列車がやって来ました。人間どうしても自分が暮らしているペースで動いてしまう為、駅に向かえば乗り遅れても10分待てば必ず次のが来る、なぁんて考えで駅に向かってしまうので、そりゃ1時間に1本とかの地方の駅で、適当な感覚で駅に向かって、タイミングが合うこと自体珍しい事なのだと思います。

     地方の電車には、いつもタイミングが悪い私ですが、今回はドンピシャのタイミングで列車がやって来ました。人間どうしても自分が暮らしているペースで動いてしまう為、駅に向かえば乗り遅れても10分待てば必ず次のが来る、なぁんて考えで駅に向かってしまうので、そりゃ1時間に1本とかの地方の駅で、適当な感覚で駅に向かって、タイミングが合うこと自体珍しい事なのだと思います。

  •  垂井から一駅移動して関ケ原にやって来ました。GWの関ケ原散策で、行き残してしまった、どうしても行きたい場所が一か所残されているのです。でも、その前に、お腹が減って倒れそうです。見たい場所が多過ぎると、つい食事を疎かにしてしまうのが私の弱点。調べて見ても、年末で営業している店が殆どありません。こうなったら高くつくでしょうが、あそこしかありません!

     垂井から一駅移動して関ケ原にやって来ました。GWの関ケ原散策で、行き残してしまった、どうしても行きたい場所が一か所残されているのです。でも、その前に、お腹が減って倒れそうです。見たい場所が多過ぎると、つい食事を疎かにしてしまうのが私の弱点。調べて見ても、年末で営業している店が殆どありません。こうなったら高くつくでしょうが、あそこしかありません!

  •  私が向かった先は関ケ原古戦場資料館。此処に併設されているレストランでは、戦国武将に因んだ料理が食べられます。前回食べられなかったので、今回は奮発して大好きな石田三成公をモチーフにした戦略武将カレー食べようっと♪と食べる気満々で挑みました。<br /><br /> で、で…閉まってました(号泣)(ノД`)シクシク<br /><br />なんでだよぉ!年末年始って掻き入れ時じゃないのかよぉ!

     私が向かった先は関ケ原古戦場資料館。此処に併設されているレストランでは、戦国武将に因んだ料理が食べられます。前回食べられなかったので、今回は奮発して大好きな石田三成公をモチーフにした戦略武将カレー食べようっと♪と食べる気満々で挑みました。

     で、で…閉まってました(号泣)(ノД`)シクシク

    なんでだよぉ!年末年始って掻き入れ時じゃないのかよぉ!

  • 駅前のこっちのお店も閉まってる…。<br /><br />アッサリ討ち死にしますた。(ノД`)シクシク<br /><br />もう…倒れそう…。コンビニなんてある訳無いし…。

    駅前のこっちのお店も閉まってる…。

    アッサリ討ち死にしますた。(ノД`)シクシク

    もう…倒れそう…。コンビニなんてある訳無いし…。

  • そしたら、救世主が現れました!薬屋と聞いて諦めていたのですが…ヤケにでかい!なんじゃこりゃ?何となく理解しました。地方じゃコンビニなんてあっても、24時間営業しても元が取れません。逆に夜遅くやってるスーパー形式の店舗を要所に作る。地方の人は大抵車を持っているので、要所に作ればその方が効果的なのではないでしょうか?そうした部分に薬屋さんが進出しているって事なのでしょう。<br /><br /> 地方に行ったらコンビニ探すのではなく、薬屋探す!で決まりかもしれません。でも、お腹減ったから薬屋何処にありますか?って聞いたら変な顔されますよね?

    そしたら、救世主が現れました!薬屋と聞いて諦めていたのですが…ヤケにでかい!なんじゃこりゃ?何となく理解しました。地方じゃコンビニなんてあっても、24時間営業しても元が取れません。逆に夜遅くやってるスーパー形式の店舗を要所に作る。地方の人は大抵車を持っているので、要所に作ればその方が効果的なのではないでしょうか?そうした部分に薬屋さんが進出しているって事なのでしょう。

     地方に行ったらコンビニ探すのではなく、薬屋探す!で決まりかもしれません。でも、お腹減ったから薬屋何処にありますか?って聞いたら変な顔されますよね?

  •  で、ハンバーグ&竜田揚げ弁当を頂きました。あんまりお腹空いていたので、駐車場の隅っこで食べました。で、これ美味しいし安いんですよ!奥さん!ハンバーグも入って、竜田揚げも入って、なんと!なんと!498円ですよ!<br /><br /> 沢庵もね、ちゃんと噛み応えがあります。コンビニのあの、如何にも合成着色料使いました!って言う紙切れみたいな沢庵では無いのですよ!いやぁ、地方のスーパー、凄いです!都会者って損してるよね(ノД`)シクシク

     で、ハンバーグ&竜田揚げ弁当を頂きました。あんまりお腹空いていたので、駐車場の隅っこで食べました。で、これ美味しいし安いんですよ!奥さん!ハンバーグも入って、竜田揚げも入って、なんと!なんと!498円ですよ!

     沢庵もね、ちゃんと噛み応えがあります。コンビニのあの、如何にも合成着色料使いました!って言う紙切れみたいな沢庵では無いのですよ!いやぁ、地方のスーパー、凄いです!都会者って損してるよね(ノД`)シクシク

  •  お腹を満たし、大満足で最後の目的地を目指します。やっぱり地方に来て一番驚くのはコンビニが無い事ですが、実際暮していてコンビニを使う事って仕事中立ち寄る程度ですから。<br /><br /> とある時、都内の中心で外国人に「コンビニは何処?」と尋ねられ「Over There!」って指差したのですが、友人が「お前この辺詳しいの?」と聞くから「いや、全然。初めて来た場所。でもここら辺ならどっちへ歩いても100m圏内にコンビニがあるから、間違いは言ってない。」と返しました。本当それくらいあるんです。犬も歩けばコンビニに当る。

     お腹を満たし、大満足で最後の目的地を目指します。やっぱり地方に来て一番驚くのはコンビニが無い事ですが、実際暮していてコンビニを使う事って仕事中立ち寄る程度ですから。

     とある時、都内の中心で外国人に「コンビニは何処?」と尋ねられ「Over There!」って指差したのですが、友人が「お前この辺詳しいの?」と聞くから「いや、全然。初めて来た場所。でもここら辺ならどっちへ歩いても100m圏内にコンビニがあるから、間違いは言ってない。」と返しました。本当それくらいあるんです。犬も歩けばコンビニに当る。

  •  そんなこんなで、本日最後の目的地、烏頭坂に到着しました。烏頭坂は「島津の退け口」として有名な坂で、島津義久が戦死した場所と言われます。

    イチオシ

     そんなこんなで、本日最後の目的地、烏頭坂に到着しました。烏頭坂は「島津の退け口」として有名な坂で、島津義久が戦死した場所と言われます。

  •  「島津の退け口」は関ヶ原の合戦後、島津隊が徳川軍を中央突破して退却した勇猛果敢さの武勇伝として残ります。それは鬼島津と呼ばれた島津義弘の武勇の一つとさえ思われがちですが、それは違います。

     「島津の退け口」は関ヶ原の合戦後、島津隊が徳川軍を中央突破して退却した勇猛果敢さの武勇伝として残ります。それは鬼島津と呼ばれた島津義弘の武勇の一つとさえ思われがちですが、それは違います。

  •  島津義弘が武勇のある武将である事は何ら間違いもありませんが、そんな義弘でさえ、関ケ原合戦敗戦時には切腹を覚悟する程追い詰められていたのです。そんな叔父である義弘に向かい豊久は言いました。<br /><br />「貴方あっての島津です。」<br /><br /> と、義弘が羽織っていた陣羽織を着ると、豊久は義弘の身代わりとなって殿を務め散っていきました。ですから、島津の退き口の本当の武勇は島津豊久にあると私は思うのです。

     島津義弘が武勇のある武将である事は何ら間違いもありませんが、そんな義弘でさえ、関ケ原合戦敗戦時には切腹を覚悟する程追い詰められていたのです。そんな叔父である義弘に向かい豊久は言いました。

    「貴方あっての島津です。」

     と、義弘が羽織っていた陣羽織を着ると、豊久は義弘の身代わりとなって殿を務め散っていきました。ですから、島津の退き口の本当の武勇は島津豊久にあると私は思うのです。

  •  勿論、豊久はお家の為の想い、義弘の身代わりとなって散ったのですから、義弘の武勇となって語られるのは、彼の望むところであり本懐だと思います。だけれど、私は、そんな出しゃばらない、人の為に、家の為に、自分を犠牲に出来た豊久の命懸けの奮闘を評価してあげたい。多分自分だったら、絶対出来ない行為だと思うから…余計…。安らかに…合掌。

     勿論、豊久はお家の為の想い、義弘の身代わりとなって散ったのですから、義弘の武勇となって語られるのは、彼の望むところであり本懐だと思います。だけれど、私は、そんな出しゃばらない、人の為に、家の為に、自分を犠牲に出来た豊久の命懸けの奮闘を評価してあげたい。多分自分だったら、絶対出来ない行為だと思うから…余計…。安らかに…合掌。

  •  戦国時代って、平たく言えば単なる内戦の時代、裏切りは当たり前で、常に殺し合う異常な世の中です。だけれど、そんな中で掃きだめの中の鶴の様に美しい心を保てる人もいます。勿論その多くは、多くの部分創作が含まれるのだと思います。<br /><br /> 然しながら火の無い所に煙は立たぬとも言われます。その人が人の心を動かす何かを持っていたからこそ、人々は語り継いできたのでしょう。それが450年経た今に至る迄語り継がれていると言う事の方が重要な事なのではないでしょうか?

     戦国時代って、平たく言えば単なる内戦の時代、裏切りは当たり前で、常に殺し合う異常な世の中です。だけれど、そんな中で掃きだめの中の鶴の様に美しい心を保てる人もいます。勿論その多くは、多くの部分創作が含まれるのだと思います。

     然しながら火の無い所に煙は立たぬとも言われます。その人が人の心を動かす何かを持っていたからこそ、人々は語り継いできたのでしょう。それが450年経た今に至る迄語り継がれていると言う事の方が重要な事なのではないでしょうか?

  •  こうした極限状態の中で見せる、人の美しさが輝く部分を知る度に、彼等が私に訴えかけてくる様な気持ちになります。その時お前はどうするのだ?格好悪くても良い、じゃが決して恥ずかしい事はするなよ!と。<br /><br /> 毎度いつも学ばされます。歴史は常に残酷な一面も見せますが、年の終わりに近づいた今、せめて美しさに触れたくて、一駅先に進み、島津豊久公に逢いに来ました。逢えてよかったです。良い年越しになりそうです。

     こうした極限状態の中で見せる、人の美しさが輝く部分を知る度に、彼等が私に訴えかけてくる様な気持ちになります。その時お前はどうするのだ?格好悪くても良い、じゃが決して恥ずかしい事はするなよ!と。

     毎度いつも学ばされます。歴史は常に残酷な一面も見せますが、年の終わりに近づいた今、せめて美しさに触れたくて、一駅先に進み、島津豊久公に逢いに来ました。逢えてよかったです。良い年越しになりそうです。

  •  烏頭坂には、薩摩十字が彫られたベンチが設けられていました。岐阜県と鹿児島県は、全国初の姉妹県盟約を結んだ県で、その一環として「島津の退き口」の舞台となった烏唐頭坂に鹿児島県産のクスノキを利用してベンチが作られ寄贈されたものだそうです。有難く、島津豊久公に想いを馳せさせて頂きました。

     烏頭坂には、薩摩十字が彫られたベンチが設けられていました。岐阜県と鹿児島県は、全国初の姉妹県盟約を結んだ県で、その一環として「島津の退き口」の舞台となった烏唐頭坂に鹿児島県産のクスノキを利用してベンチが作られ寄贈されたものだそうです。有難く、島津豊久公に想いを馳せさせて頂きました。

  •  薩摩ベンチに腰掛け、GWと本日、二日間かけて歩いてきた関ヶ原の思い出を振り返りました。ギリギリの生死の狭間で、武将達は何を感じたのか?決断を下したのか?様々な生き様が交差したからこそ、今をどう生き延びるかを悩む我々が、その答を探しに、多くの人々が此処に訪れるのかもしれません。<br /><br /> そんな関が原で、私が一番好きなエピソード。それは湯浅五助と藤堂高刑の物語。<br /><br /> それは小早川秀秋の裏切りに、最早最期の時を迎えた大谷刑部吉継が、切腹の介錯を務めた湯浅五助に託した「病により崩れた顔を晒し首にだけはされたくない。」と言う最期の願い。その願いを敵中突破しながらなんとか遂行した五助でしたが、寸でのところを敵方の藤堂高刑に見つかってしまうのでした。<br /><br />「私の首は献上します。しかし私の一生の願いと思って私の主君の首の在りかを秘密にして欲しい」<br /><br /> と五助は頼みました。後日、高刑は彼の主君の藤堂高虎と共に、家康の前に湯浅五助の首を持ち、報告に上がりました。すると家康はその軍功を称えつつも、大谷刑部の近習を討ち取ったのなら、大谷刑部の首の在りかも知っている筈だと高刑に問い質しました。高刑は答えました。<br /><br />「ええ、知っております。但しそれは武士と武士の約束故、例え家康公であられても、口を割る訳にはいきません。お詫びにどうぞ私の首を刎ねてくださいませ。」<br /><br /> それを受けた家康は<br /><br />「その志、決して忘るるでないぞ!」<br /><br />と、高刑に褒美を渡したと言います。<br /><br /> 登場人物、全てが全て、漢の中の漢だと思います。大好きな、そして決して忘れてはいけないエピソードだと思います。

     薩摩ベンチに腰掛け、GWと本日、二日間かけて歩いてきた関ヶ原の思い出を振り返りました。ギリギリの生死の狭間で、武将達は何を感じたのか?決断を下したのか?様々な生き様が交差したからこそ、今をどう生き延びるかを悩む我々が、その答を探しに、多くの人々が此処に訪れるのかもしれません。

     そんな関が原で、私が一番好きなエピソード。それは湯浅五助と藤堂高刑の物語。

     それは小早川秀秋の裏切りに、最早最期の時を迎えた大谷刑部吉継が、切腹の介錯を務めた湯浅五助に託した「病により崩れた顔を晒し首にだけはされたくない。」と言う最期の願い。その願いを敵中突破しながらなんとか遂行した五助でしたが、寸でのところを敵方の藤堂高刑に見つかってしまうのでした。

    「私の首は献上します。しかし私の一生の願いと思って私の主君の首の在りかを秘密にして欲しい」

     と五助は頼みました。後日、高刑は彼の主君の藤堂高虎と共に、家康の前に湯浅五助の首を持ち、報告に上がりました。すると家康はその軍功を称えつつも、大谷刑部の近習を討ち取ったのなら、大谷刑部の首の在りかも知っている筈だと高刑に問い質しました。高刑は答えました。

    「ええ、知っております。但しそれは武士と武士の約束故、例え家康公であられても、口を割る訳にはいきません。お詫びにどうぞ私の首を刎ねてくださいませ。」

     それを受けた家康は

    「その志、決して忘るるでないぞ!」

    と、高刑に褒美を渡したと言います。

     登場人物、全てが全て、漢の中の漢だと思います。大好きな、そして決して忘れてはいけないエピソードだと思います。

  •  今回の旅は、此処関ヶ原駅で完結したいと思います。年末ギリギリのタイミングで、宿題になっていた南宮山周辺の陣跡巡り、完了する事が出来ました。<br /><br />最期迄、ご覧になって下さり、ありがとうございました。

     今回の旅は、此処関ヶ原駅で完結したいと思います。年末ギリギリのタイミングで、宿題になっていた南宮山周辺の陣跡巡り、完了する事が出来ました。

    最期迄、ご覧になって下さり、ありがとうございました。

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