多賀城・塩釜・利府旅行記(ブログ) 一覧に戻る
日本100名城巡り<br />☆50城目☆多賀城(No.7)<br /><br />宮城県の100名城は、仙台城、多賀城の2城です。<br /><br />東北地方の100名城(スタンプ済には◯)<br />4	弘前城(青森県弘前市)<br />5	根城(青森県八戸市)<br />6	盛岡城(岩手県盛岡市)<br />7	多賀城(宮城県多賀城市)◯<br />8	仙台城(宮城県仙台市)◯<br />9	久保田城(秋田県秋田市)<br />10	山形城(山形県山形市)<br />11	二本松城(福島県二本松市)<br />12	会津若松城(福島県会津若松市)<br />13	白河小峰城(福島県白河市)

多賀城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻

5いいね!

2023/08/04 - 2023/08/04

532位(同エリア539件中)

旅行記グループ 日本100名城(2)2019年から

0

44

ケー

ケーさん

日本100名城巡り
☆50城目☆多賀城(No.7)

宮城県の100名城は、仙台城、多賀城の2城です。

東北地方の100名城(スタンプ済には◯)
4 弘前城(青森県弘前市)
5 根城(青森県八戸市)
6 盛岡城(岩手県盛岡市)
7 多賀城(宮城県多賀城市)◯
8 仙台城(宮城県仙台市)◯
9 久保田城(秋田県秋田市)
10 山形城(山形県山形市)
11 二本松城(福島県二本松市)
12 会津若松城(福島県会津若松市)
13 白河小峰城(福島県白河市)

  • 2023年8月4日(金)<br />仙台(JR東北本線)→国府多賀城(約12分)<br />国府多賀城駅北口を出るとロータリー(タクシーや一般車両送迎用)があります。<br /><br />国府多賀城駅から多賀城跡まで徒歩15分ほどらしいですが、道がよくわからなくて駐輪場事務所の方にお尋ねしたところ、暑い中ご苦労さまですと親切に教えて下さいました。<br />全国的な猛暑でこの日の仙台の最高気温は31℃超え。

    2023年8月4日(金)
    仙台(JR東北本線)→国府多賀城(約12分)
    国府多賀城駅北口を出るとロータリー(タクシーや一般車両送迎用)があります。

    国府多賀城駅から多賀城跡まで徒歩15分ほどらしいですが、道がよくわからなくて駐輪場事務所の方にお尋ねしたところ、暑い中ご苦労さまですと親切に教えて下さいました。
    全国的な猛暑でこの日の仙台の最高気温は31℃超え。

    国府多賀城駅

  • 北口ロータリーのすぐ横が舘前遺跡(芝生広場)になっていて説明板があります。<br />写真左の線路横の細い道を進むと舘前遺跡の台地上に到着し、多賀城跡の敷地や政庁跡はそこから徒歩約10~15分ほどです。

    北口ロータリーのすぐ横が舘前遺跡(芝生広場)になっていて説明板があります。
    写真左の線路横の細い道を進むと舘前遺跡の台地上に到着し、多賀城跡の敷地や政庁跡はそこから徒歩約10~15分ほどです。

  • 国府多賀城駅から徒歩で行ったルート。<br />(案内マップより)

    国府多賀城駅から徒歩で行ったルート。
    (案内マップより)

  • 【特別史跡 館前遺跡】<br /> 台地上に位置する本遺跡は、多賀城跡の南東隅から二〇〇メートルほどの距離にあり、さらに政庁跡(せいちょうあと)との距離は六〇〇メートルになります。また、ここから南東方向五〇〇メートルの高崎丘陵上には多賀城廃寺(たがじょうはいじ)があり、本遺跡は政庁と廃寺を結ぶ線のほぼ中間に位置しています。<br /> この遺跡からは掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)六棟、溝跡、整地層などが発見されており、六棟の建物跡はすべて九世紀前半に存在していたものと考えられます。さらに、六棟の中でも中心に位置するものは、四面に廂(ひさし)が付く格の高い建物です。このような建物は、県内では「陸奥国府(むつのこくふ)」が置かれた多賀城跡などで数例確認されているのみであり、しかもそのうち一例は多賀城の政庁正殿(せいでん)であることから、四面廂付建物(しめんびさしつきたてもの)のもつ意味は本遺跡の性格を考える上で極めて重要です。<br /> 本遺跡は、多賀城に赴任した国司(こくし)の館跡と考えられ、その重要性から昭和五十五年三月に特別史跡多賀城跡附寺跡の一部として追加指定されました。<br /> 平成二〇年一〇月 多賀城市教育委員会

    【特別史跡 館前遺跡】
     台地上に位置する本遺跡は、多賀城跡の南東隅から二〇〇メートルほどの距離にあり、さらに政庁跡(せいちょうあと)との距離は六〇〇メートルになります。また、ここから南東方向五〇〇メートルの高崎丘陵上には多賀城廃寺(たがじょうはいじ)があり、本遺跡は政庁と廃寺を結ぶ線のほぼ中間に位置しています。
     この遺跡からは掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)六棟、溝跡、整地層などが発見されており、六棟の建物跡はすべて九世紀前半に存在していたものと考えられます。さらに、六棟の中でも中心に位置するものは、四面に廂(ひさし)が付く格の高い建物です。このような建物は、県内では「陸奥国府(むつのこくふ)」が置かれた多賀城跡などで数例確認されているのみであり、しかもそのうち一例は多賀城の政庁正殿(せいでん)であることから、四面廂付建物(しめんびさしつきたてもの)のもつ意味は本遺跡の性格を考える上で極めて重要です。
     本遺跡は、多賀城に赴任した国司(こくし)の館跡と考えられ、その重要性から昭和五十五年三月に特別史跡多賀城跡附寺跡の一部として追加指定されました。
     平成二〇年一〇月 多賀城市教育委員会

  • 館前遺跡

    館前遺跡

  • 【多賀城南辺東(なんぺんひがし)地区整備案内図】<br />ここは多賀城の外周を囲む外郭線(がいかくせん)の南東隅(なんとうすみ)のエリアです。<br />多賀城がつくられた奈良時代から平安時代にはこの周辺は湿地でした。この池やあやめ園は当時の湿地の様子を、土手状の高まりは築地塀の跡を表現しています。<br />このエリアの多賀城外郭線は、南辺が土を積み重ねた築地塀(ついじべい)、東辺が丸太を立て並べた材木塀(ざいもくべい)となっていました。<br /> 多賀城市(協力:宮城県多賀城跡調査研究所)

    【多賀城南辺東(なんぺんひがし)地区整備案内図】
    ここは多賀城の外周を囲む外郭線(がいかくせん)の南東隅(なんとうすみ)のエリアです。
    多賀城がつくられた奈良時代から平安時代にはこの周辺は湿地でした。この池やあやめ園は当時の湿地の様子を、土手状の高まりは築地塀の跡を表現しています。
    このエリアの多賀城外郭線は、南辺が土を積み重ねた築地塀(ついじべい)、東辺が丸太を立て並べた材木塀(ざいもくべい)となっていました。
     多賀城市(協力:宮城県多賀城跡調査研究所)

  • 説明板前

    説明板前

  • 【多賀城南辺(なんぺん)の築地塀(ついじべい)と櫓(やぐら)】<br /> ここでは築地塀(ついじべい)に取り付く櫓(やぐら)が発見されました。この櫓は奈良時代から平安時代にかけて、3回建て替えられていました。見張り台の役目だけではなく、多賀城の正面を荘厳(そうごん)に飾るねらいもあったと考えられます。<br /> 現在は、湿地の中で築地塀が大規模な盛土整地(もりどせいち)の上に築かれていた様子を再現しています。6本の木柱は櫓の柱の位置を、手前の木杭列(きぐいれつ)は盛土整地の端を押さえる土留め(どどめ)を、手前の池と奥のあやめ園はこの周辺が湿地であったことを表しています。<br /> 多賀城市(協力:宮城県多賀城跡調査研究所)

    【多賀城南辺(なんぺん)の築地塀(ついじべい)と櫓(やぐら)】
     ここでは築地塀(ついじべい)に取り付く櫓(やぐら)が発見されました。この櫓は奈良時代から平安時代にかけて、3回建て替えられていました。見張り台の役目だけではなく、多賀城の正面を荘厳(そうごん)に飾るねらいもあったと考えられます。
     現在は、湿地の中で築地塀が大規模な盛土整地(もりどせいち)の上に築かれていた様子を再現しています。6本の木柱は櫓の柱の位置を、手前の木杭列(きぐいれつ)は盛土整地の端を押さえる土留め(どどめ)を、手前の池と奥のあやめ園はこの周辺が湿地であったことを表しています。
     多賀城市(協力:宮城県多賀城跡調査研究所)

  • 南門地区の丘から見下ろした多賀城南辺東地区の櫓跡と築地塀跡とあやめ園。あやめの季節は5月なので花は見られませんでした。

    南門地区の丘から見下ろした多賀城南辺東地区の櫓跡と築地塀跡とあやめ園。あやめの季節は5月なので花は見られませんでした。

  • 多賀城跡南門の碑

    多賀城跡南門の碑

  • 外郭南門は復元工事中。ちらっと見えたけど立派で美しい門で完成が楽しみです。<br /><br />【多賀城南門】<br />外郭区画施設の南辺ほぼ中央に位置する正門。この門から政庁正面まで直線道路が延びていました。<br />(説明板より)<br />

    外郭南門は復元工事中。ちらっと見えたけど立派で美しい門で完成が楽しみです。

    【多賀城南門】
    外郭区画施設の南辺ほぼ中央に位置する正門。この門から政庁正面まで直線道路が延びていました。
    (説明板より)

  • 外郭南門復元イメージ図<br />(パンフレットより)

    外郭南門復元イメージ図
    (パンフレットより)

  • 【多賀城碑覆屋】<br />この中に重要文化財の石碑が保存されています。

    【多賀城碑覆屋】
    この中に重要文化財の石碑が保存されています。

  • 【多賀城碑拓本】<br />(パンフレットより)

    【多賀城碑拓本】
    (パンフレットより)

  • 【多賀城碑/壺碑(つぼの石ぶみ)】<br />(国重要文化財/国名勝)<br /> 奈良時代に多賀城の修造を記念して制作された石碑です。2代藩主伊達忠宗の頃に土中から発見されると、西行や源頼朝が和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地「壺碑」と関連付けられ、有名になりました。それにより、時の文化人や学者の注目を集めるところとなり、仙台藩や民間の俳諧師により保護顕彰されてきました。<br /> 江戸時代にここを訪れた松尾芭蕉は、時間とともに変わりゆく歌枕の中で、多賀城陣だけが昔からの変わらぬ姿を留めていることに感動したことを、「おくのほそ道」に記しています。

    【多賀城碑/壺碑(つぼの石ぶみ)】
    (国重要文化財/国名勝)
     奈良時代に多賀城の修造を記念して制作された石碑です。2代藩主伊達忠宗の頃に土中から発見されると、西行や源頼朝が和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地「壺碑」と関連付けられ、有名になりました。それにより、時の文化人や学者の注目を集めるところとなり、仙台藩や民間の俳諧師により保護顕彰されてきました。
     江戸時代にここを訪れた松尾芭蕉は、時間とともに変わりゆく歌枕の中で、多賀城陣だけが昔からの変わらぬ姿を留めていることに感動したことを、「おくのほそ道」に記しています。

  • 【重要文化財 多賀城碑】<br /> 上部に「西」の一字があり、その下、細い線で囲んだ中に十一行、一四〇字が刻まれています。碑文内容は大きく二つに分かれ、前半は、京(平城京)などから多賀城までの距離が記されています。当時の一里は約五三五mです。後半には、神亀元年(七二四)、大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字六年(七六二)、藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらえみのあそんあさかり)が多賀城を修造したことが記され、最後の行に稗を建てた年月日が刻まれています。<br /> 碑文の内容が藤原朝獦による修造に力点を置いていることから、多賀城修造記念碑とみることができます。<br /> 碑は歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」としても有名で、元禄二年(一六八九)、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中、碑と対面し、そのときの感動を紀行文『おくのほそ道』に書き残しています。<br /> また多賀城陣は、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)(栃木県大田原市)、多胡碑(たごひ)(群馬県高崎市)とともに、日本三古碑のひとつに数えられています。<br /> 多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また、数少ない奈良時代の金石(きんせき)文として貴重であることから、平成十年六月三十日、国の重要文化財(古文書)に指定されました。<br /> 平成二十三年二月 多賀城市教育委員会、

    【重要文化財 多賀城碑】
     上部に「西」の一字があり、その下、細い線で囲んだ中に十一行、一四〇字が刻まれています。碑文内容は大きく二つに分かれ、前半は、京(平城京)などから多賀城までの距離が記されています。当時の一里は約五三五mです。後半には、神亀元年(七二四)、大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字六年(七六二)、藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらえみのあそんあさかり)が多賀城を修造したことが記され、最後の行に稗を建てた年月日が刻まれています。
     碑文の内容が藤原朝獦による修造に力点を置いていることから、多賀城修造記念碑とみることができます。
     碑は歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」としても有名で、元禄二年(一六八九)、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中、碑と対面し、そのときの感動を紀行文『おくのほそ道』に書き残しています。
     また多賀城陣は、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)(栃木県大田原市)、多胡碑(たごひ)(群馬県高崎市)とともに、日本三古碑のひとつに数えられています。
     多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また、数少ない奈良時代の金石(きんせき)文として貴重であることから、平成十年六月三十日、国の重要文化財(古文書)に指定されました。
     平成二十三年二月 多賀城市教育委員会、

  • 道路を渡って政庁跡に向かいます。

    道路を渡って政庁跡に向かいます。

  • 史跡 多賀城跡碑

    史跡 多賀城跡碑

    多賀城跡 名所・史跡

  • 【政庁南大路(せいちょうみなみおおじ)の石垣】<br />奈良時代の石垣を再現しました。発掘調査で見つかった本物の石垣は地下に保存されています。<br /> 宮城県多賀城跡調査研究所 2022.4

    【政庁南大路(せいちょうみなみおおじ)の石垣】
    奈良時代の石垣を再現しました。発掘調査で見つかった本物の石垣は地下に保存されています。
     宮城県多賀城跡調査研究所 2022.4

  • 100名城スタンプ設置場所の案内図

    100名城スタンプ設置場所の案内図

  • 南門から政庁跡に向かう途中の右手にあるのが城前地区です。官衙主屋(かんがしゅおく)の構造復元などの工事中でした。<br /><br />【城前官衙(じょうまえかんが)】<br /> 城前官衙は、外郭南門(なんもん)から政庁に向かう政庁南大路(せいちょうみなみおおじ)の東側丘陵に置かれた、奈良・平安時代の役所です。整備では第Ⅱ期(天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)~宝亀(ほうき)11年(780))の姿を再現しています。このころには多賀城に鎮守府(ちんじゅふ)(鎮平(ちんぺい)を指揮監督する軍事担当の役所)が置かれており、その仕事などが行われていた場所と考えられています。<br /> 第Ⅱ期の城前官衙は、中央の広場を囲むように役所建物が整然と立ち並んでいました。城前の主屋は南寄りに建てられ、北側が広場になっていることから、この役所は政庁のある北側が正面であったと考えられます。発掘調査では、官衙全体に火災を受けた痕跡が見つかっており、宝亀 11年(780)の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱により、政庁と同じくほぼ全焼したと考えられます。<br />(説明板より)

    南門から政庁跡に向かう途中の右手にあるのが城前地区です。官衙主屋(かんがしゅおく)の構造復元などの工事中でした。

    【城前官衙(じょうまえかんが)】
     城前官衙は、外郭南門(なんもん)から政庁に向かう政庁南大路(せいちょうみなみおおじ)の東側丘陵に置かれた、奈良・平安時代の役所です。整備では第Ⅱ期(天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)~宝亀(ほうき)11年(780))の姿を再現しています。このころには多賀城に鎮守府(ちんじゅふ)(鎮平(ちんぺい)を指揮監督する軍事担当の役所)が置かれており、その仕事などが行われていた場所と考えられています。
     第Ⅱ期の城前官衙は、中央の広場を囲むように役所建物が整然と立ち並んでいました。城前の主屋は南寄りに建てられ、北側が広場になっていることから、この役所は政庁のある北側が正面であったと考えられます。発掘調査では、官衙全体に火災を受けた痕跡が見つかっており、宝亀 11年(780)の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱により、政庁と同じくほぼ全焼したと考えられます。
    (説明板より)

  • 政庁南大路跡

    政庁南大路跡

  • 【政庁南大路跡(せいちょうみなみおおじあと)】<br />多賀城の正門である外郭南門から、中枢部である政庁まで、南北にまっすぐ通じる道路で、多賀城の中で最も重要な道路です。<br />発掘調査の結果、道路幅は、政庁第Ⅰ~Ⅱ期(8世紀)が約13m、第Ⅲ~Ⅳ期(9~11世紀中頃)は約23mであったことが分かりました。政庁南側斜面は自然石を並べた階段が設けられていました。また道路には排水用の暗渠(あんきょ)も設置されており、ここから多数の木簡(もっかん)が見つかっています。現在は政庁第Ⅰ~Ⅱ期の姿に復元整備しています。

    【政庁南大路跡(せいちょうみなみおおじあと)】
    多賀城の正門である外郭南門から、中枢部である政庁まで、南北にまっすぐ通じる道路で、多賀城の中で最も重要な道路です。
    発掘調査の結果、道路幅は、政庁第Ⅰ~Ⅱ期(8世紀)が約13m、第Ⅲ~Ⅳ期(9~11世紀中頃)は約23mであったことが分かりました。政庁南側斜面は自然石を並べた階段が設けられていました。また道路には排水用の暗渠(あんきょ)も設置されており、ここから多数の木簡(もっかん)が見つかっています。現在は政庁第Ⅰ~Ⅱ期の姿に復元整備しています。

  • 階段を登って振り返ると、正面に復元中の外郭南門、左手に復元中の官衙主屋が見えます。

    階段を登って振り返ると、正面に復元中の外郭南門、左手に復元中の官衙主屋が見えます。

  • 【政庁の建物配置と変遷(へんせん)】<br />政庁には、中心に正殿(せいでん)が、その左右前方には東・西脇殿(とうざいわきでん)が、南正面には南門が建てられ、これらに囲まれた広場が儀式を行う重要な場所となっていました。政庁には4時期の変遷がありますが、いずれの時期にも、これらの主要な運物の配置は変わっていません。

    【政庁の建物配置と変遷(へんせん)】
    政庁には、中心に正殿(せいでん)が、その左右前方には東・西脇殿(とうざいわきでん)が、南正面には南門が建てられ、これらに囲まれた広場が儀式を行う重要な場所となっていました。政庁には4時期の変遷がありますが、いずれの時期にも、これらの主要な運物の配置は変わっていません。

  • 神亀元(724)年 第Ⅰ期<br />【大野東人(おおのあずまびと)により多賀城が創建される】<br />最初に造営された政庁で、建物はすべて掘立式(ほったてしき)です。主要建物は瓦葺き(かわらぶき)であったと考えられています。<br /><br />天平宝字6(762)年 第Ⅱ期<br />【藤原朝獦(ふじわらのあさかり)により多賀城の大改修が行われる】<br />建物はすべて疎石式(そせきしき)・瓦葺に建て替えられます。伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱で焼失しました。現地では、最も荘厳であったこの時期の姿を表示しています。

    神亀元(724)年 第Ⅰ期
    【大野東人(おおのあずまびと)により多賀城が創建される】
    最初に造営された政庁で、建物はすべて掘立式(ほったてしき)です。主要建物は瓦葺き(かわらぶき)であったと考えられています。

    天平宝字6(762)年 第Ⅱ期
    【藤原朝獦(ふじわらのあさかり)により多賀城の大改修が行われる】
    建物はすべて疎石式(そせきしき)・瓦葺に建て替えられます。伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱で焼失しました。現地では、最も荘厳であったこの時期の姿を表示しています。

  • 宝亀11(780)年 第Ⅲ期<br />【伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)による焼き討ち後に再建】<br />火災後に同じく疎石式・瓦葺で再建されました。貞観(じょうかん)11年(869)の大地震で被害を受けます。<br /><br />貞観11(869)年 第Ⅳ期<br />【陸奥国大地震被災後の復興】<br />震災復興では主に瓦の葺き替えが行われました。その後、新たに北方建物がつくられます。

    宝亀11(780)年 第Ⅲ期
    【伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)による焼き討ち後に再建】
    火災後に同じく疎石式・瓦葺で再建されました。貞観(じょうかん)11年(869)の大地震で被害を受けます。

    貞観11(869)年 第Ⅳ期
    【陸奥国大地震被災後の復興】
    震災復興では主に瓦の葺き替えが行われました。その後、新たに北方建物がつくられます。

  • 【政庁】<br />政庁は政務や儀式が行われる、城内で最も重要な場所です。周囲は約100mの築地塀で囲まれ、内部には正殿・脇殿などの建物が計画的に配置されていました。

    【政庁】
    政庁は政務や儀式が行われる、城内で最も重要な場所です。周囲は約100mの築地塀で囲まれ、内部には正殿・脇殿などの建物が計画的に配置されていました。

  • 【多賀城跡】<br />多賀城は一辺約1kmの外郭区画施設(築地塀や材木塀)で囲まれ、南・東・西辺には門が開かれていました。ほぼ中央には政庁が置かれ、また城内で平坦地が確保できる地域には役所が配置されていました。

    【多賀城跡】
    多賀城は一辺約1kmの外郭区画施設(築地塀や材木塀)で囲まれ、南・東・西辺には門が開かれていました。ほぼ中央には政庁が置かれ、また城内で平坦地が確保できる地域には役所が配置されていました。

  • 【国府多賀城】<br />7世紀後半の日本では、律令(りつりょう)にもとづいて中央に権力を集中させる国づくりが進められました。多賀城は神亀(じんき)元(724)年に創建された陸奥国府です。11世紀中頃まで古代東北の拠点として機能していました。

    【国府多賀城】
    7世紀後半の日本では、律令(りつりょう)にもとづいて中央に権力を集中させる国づくりが進められました。多賀城は神亀(じんき)元(724)年に創建された陸奥国府です。11世紀中頃まで古代東北の拠点として機能していました。

  • 【多賀城とは・・・】<br />(パンフレットより)

    【多賀城とは・・・】
    (パンフレットより)

  • 【政庁復元模型】<br />この模型は第Ⅱ期(8世紀後半)の姿を推定復元した<br />ものです。主要な建物である正殿(せいでん)、東・西脇殿(とうざいわきでん)、南門のほかに、東・西楼(とうざいろう)と後殿(こうでん)が新たに建てられ、広場は石敷きになります。南門の左右には翼廊(よくろう)が付き、築地塀(ついじべい)には東・西殿(とうざいでん)や北殿(ほくでん)などの装飾的な建物が付け加えられます。

    【政庁復元模型】
    この模型は第Ⅱ期(8世紀後半)の姿を推定復元した
    ものです。主要な建物である正殿(せいでん)、東・西脇殿(とうざいわきでん)、南門のほかに、東・西楼(とうざいろう)と後殿(こうでん)が新たに建てられ、広場は石敷きになります。南門の左右には翼廊(よくろう)が付き、築地塀(ついじべい)には東・西殿(とうざいでん)や北殿(ほくでん)などの装飾的な建物が付け加えられます。

  • 【政庁南門跡(せいちょうみなみもんあと)】<br />ここには、政庁の南正面の門がありました。奈良時代後半の第Ⅱ期は礎石式で、東西には門を飾るために翼廊(よくろう)が取り付いていました。<br />現在表示している建物北側の石組溝の石は当時の実物です。

    【政庁南門跡(せいちょうみなみもんあと)】
    ここには、政庁の南正面の門がありました。奈良時代後半の第Ⅱ期は礎石式で、東西には門を飾るために翼廊(よくろう)が取り付いていました。
    現在表示している建物北側の石組溝の石は当時の実物です。

  • 政庁南門跡

    政庁南門跡

  • 西翼廊跡

    西翼廊跡

  • 疎石

    疎石

  • 【政庁正殿跡(せいちょうせいでんあと)】<br />政庁の中心となる建物の跡です。疎石式(そせきしき)の四面庇付(しめんひさしつき)建物で、その南は石敷(いしじき)の広場となっていました。現在は建物の基壇(きだん)のみを復元表示していますが、礎石の一部は当時の実物です。

    【政庁正殿跡(せいちょうせいでんあと)】
    政庁の中心となる建物の跡です。疎石式(そせきしき)の四面庇付(しめんひさしつき)建物で、その南は石敷(いしじき)の広場となっていました。現在は建物の基壇(きだん)のみを復元表示していますが、礎石の一部は当時の実物です。

  • 政庁正殿跡

    政庁正殿跡

  • 政庁正殿跡

    政庁正殿跡

  • 【特別史跡 多賀城跡附寺跡】<br /> 多賀城跡は、この附近の丘陵一帯の市川、浮島両地区にかけて所在しています。仙台平野の北端に位置しており、南に大平洋を望むことができます。東には国府の港と推定される塩竈の港をひかえるなど、古くから交通の要衝でした。<br /> 今からおよそ千三〇〇年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果していました。多賀城は、周囲が塀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。多賀城の平面形は、不整方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。<br /> 多賀城跡は、大正十一年十月に多賀城廃寺とともに国の史跡に指定されました。さらに、昭和三十年代に実施された発掘調査の成果により、日本の歴史を理解する上で学術上の価値が特に高く、貴重な遺跡として昭和四十一年四月、国の特別史跡に指定されております。その後も、多賀城跡と多賀城廃寺は、国司館など数回の追加指定が行われ、現在特別史跡の指定面積は約一〇七万六千平方メートルに及びます。<br /> 多賀城跡を末永く大切に保護するため、多賀城市では、指定地域の買上げを年次計画によって実施するとともに、特別史跡の維持管理を行っています。さらに、宮城県では、宮城県多賀城跡調査研究所を設置し、学術的調査を行い史跡公園として環境整備を継続的に実施しています。<br /> 多賀城市では、今後も我が国の歴史にとって欠くことのできない、国民の財産であるこの史跡を積極的に保存し、活用を図る所存でおります。<br /> 平成十年三月 多賀城市教育委員会

    【特別史跡 多賀城跡附寺跡】
     多賀城跡は、この附近の丘陵一帯の市川、浮島両地区にかけて所在しています。仙台平野の北端に位置しており、南に大平洋を望むことができます。東には国府の港と推定される塩竈の港をひかえるなど、古くから交通の要衝でした。
     今からおよそ千三〇〇年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果していました。多賀城は、周囲が塀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。多賀城の平面形は、不整方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。
     多賀城跡は、大正十一年十月に多賀城廃寺とともに国の史跡に指定されました。さらに、昭和三十年代に実施された発掘調査の成果により、日本の歴史を理解する上で学術上の価値が特に高く、貴重な遺跡として昭和四十一年四月、国の特別史跡に指定されております。その後も、多賀城跡と多賀城廃寺は、国司館など数回の追加指定が行われ、現在特別史跡の指定面積は約一〇七万六千平方メートルに及びます。
     多賀城跡を末永く大切に保護するため、多賀城市では、指定地域の買上げを年次計画によって実施するとともに、特別史跡の維持管理を行っています。さらに、宮城県では、宮城県多賀城跡調査研究所を設置し、学術的調査を行い史跡公園として環境整備を継続的に実施しています。
     多賀城市では、今後も我が国の歴史にとって欠くことのできない、国民の財産であるこの史跡を積極的に保存し、活用を図る所存でおります。
     平成十年三月 多賀城市教育委員会

  • 政庁跡から管理事務所に向かい100名城スタンプを押した後、作貫地区を少しだけ歩きました。のどかな道が続いています。

    政庁跡から管理事務所に向かい100名城スタンプを押した後、作貫地区を少しだけ歩きました。のどかな道が続いています。

  • 【作貫地区】<br />政庁の東に位置し、主屋を中心としたコの字型配置の役所建物跡などが見つかっています。<br />(説明板より)<br /><br />暑すぎてこれ以上は進めずに駅に戻りました。わかっているけどお城は真夏に行くもんじゃありませんね。

    【作貫地区】
    政庁の東に位置し、主屋を中心としたコの字型配置の役所建物跡などが見つかっています。
    (説明板より)

    暑すぎてこれ以上は進めずに駅に戻りました。わかっているけどお城は真夏に行くもんじゃありませんね。

  • 国府多賀城駅南口にある東北歴史博物館(の外観だけ)を見に行きました。立派できれいな建物です。

    国府多賀城駅南口にある東北歴史博物館(の外観だけ)を見に行きました。立派できれいな建物です。

    東北歴史博物館 美術館・博物館

  • 100名城スタンプは、多賀城跡管理事務所で押印しました。<br />スタンプには政庁正殿跡の復元された建物の基壇がデザインされています。

    100名城スタンプは、多賀城跡管理事務所で押印しました。
    スタンプには政庁正殿跡の復元された建物の基壇がデザインされています。

5いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP