近江八幡・安土旅行記(ブログ) 一覧に戻る
日本100名城巡り<br />☆34城目☆安土城跡(No.51)<br />☆35城目☆観音寺城(No.52)<br />☆36城目☆彦根城(No.50)<br /><br />滋賀県の100名城は、<br />小谷城、彦根城、安土城、観音寺城の4城です。<br /><br />近畿地方の100名城(スタンプ済には◯)<br />49	小谷城(滋賀県長浜市)<br />50	彦根城(滋賀県彦根市)◯<br />51	安土城(滋賀県近江八幡市)◯<br />52	観音寺城(滋賀県近江八幡市)◯<br />53	二条城(京都府京都市)◯<br />54	大阪城(大阪府大阪市)◯<br />55	千早城(大阪府千早赤阪村)◯<br />56	竹田城(兵庫県朝来市)◯<br />57	篠山城(兵庫県丹波篠山市)<br />58	明石城(兵庫県明石市)◯<br />59	姫路城(兵庫県姫路市)◯<br />60	赤穂城(兵庫県赤穂市)<br />61	高取城(奈良県高市郡)◯<br />62	和歌山城(和歌山県和歌山市)◯<br /><br />今回初めて青春18切符を買って使用してみました。<br />この日は彦根城と安土城と観音寺城のスタンプをゲット。彦根城は過去に天守は訪問済で、観音寺城は時間がなくなったため、この2城はスタンプのみです。<br />安土城とその周辺を徒歩で回ってクタクタ。レンタサイクルを借りれば良かったと後悔。<br />いつもながらの行き当たりばったりのゆるい旅でした。

安土城・観音寺城・彦根城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻

19いいね!

2022/04/02 - 2022/04/02

506位(同エリア1302件中)

旅行記グループ 日本100名城(2)2019年〜

0

74

ケー

ケーさん

この旅行記のスケジュール

2022/04/02

この旅行記スケジュールを元に

日本100名城巡り
☆34城目☆安土城跡(No.51)
☆35城目☆観音寺城(No.52)
☆36城目☆彦根城(No.50)

滋賀県の100名城は、
小谷城、彦根城、安土城、観音寺城の4城です。

近畿地方の100名城(スタンプ済には◯)
49 小谷城(滋賀県長浜市)
50 彦根城(滋賀県彦根市)◯
51 安土城(滋賀県近江八幡市)◯
52 観音寺城(滋賀県近江八幡市)◯
53 二条城(京都府京都市)◯
54 大阪城(大阪府大阪市)◯
55 千早城(大阪府千早赤阪村)◯
56 竹田城(兵庫県朝来市)◯
57 篠山城(兵庫県丹波篠山市)
58 明石城(兵庫県明石市)◯
59 姫路城(兵庫県姫路市)◯
60 赤穂城(兵庫県赤穂市)
61 高取城(奈良県高市郡)◯
62 和歌山城(和歌山県和歌山市)◯

今回初めて青春18切符を買って使用してみました。
この日は彦根城と安土城と観音寺城のスタンプをゲット。彦根城は過去に天守は訪問済で、観音寺城は時間がなくなったため、この2城はスタンプのみです。
安土城とその周辺を徒歩で回ってクタクタ。レンタサイクルを借りれば良かったと後悔。
いつもながらの行き当たりばったりのゆるい旅でした。

  • 2022年4月2日(日)<br /><br />JR安土駅に到着。<br />織田信長公像が立っています。<br />駅前の観光案内所に寄って安土城までの道順を教えてもらいました。

    2022年4月2日(日)

    JR安土駅に到着。
    織田信長公像が立っています。
    駅前の観光案内所に寄って安土城までの道順を教えてもらいました。

    織田信長公像 名所・史跡

  • レンタサイクル屋さんが目立っています。私は自転車が苦手でママチャリしか乗れません。ちょっと迷ったけどまあいいやと徒歩で行くことに。

    レンタサイクル屋さんが目立っています。私は自転車が苦手でママチャリしか乗れません。ちょっと迷ったけどまあいいやと徒歩で行くことに。

    安土駅

  • JRの券売機で初めて買ってみた青春18切符。ほぼ衝動買いです。残りの期限はあとわずかで使い切れるかわかりません。<br /><br />青春18切符とは、JRの普通列車が5日(5回)分まで乗り放題になるお得な切符です。2022年春季は12,050円でした。<br />例年、春季、夏季、冬季に発売されます。<br />2022年の発売期間と利用期間は以下のとおりでした。<br />●春季<br />・発売期間:2月20日~3月31日<br />・利用期間:3月1日~4月10日<br />●夏季<br />・発売期間:7月1日~8月31日<br />・利用期間:7月20日~9月10日<br />●冬季<br />・発売期間:12月1日~12月31日<br />・利用期間:12月10日~2023年1月10日

    JRの券売機で初めて買ってみた青春18切符。ほぼ衝動買いです。残りの期限はあとわずかで使い切れるかわかりません。

    青春18切符とは、JRの普通列車が5日(5回)分まで乗り放題になるお得な切符です。2022年春季は12,050円でした。
    例年、春季、夏季、冬季に発売されます。
    2022年の発売期間と利用期間は以下のとおりでした。
    ●春季
    ・発売期間:2月20日~3月31日
    ・利用期間:3月1日~4月10日
    ●夏季
    ・発売期間:7月1日~8月31日
    ・利用期間:7月20日~9月10日
    ●冬季
    ・発売期間:12月1日~12月31日
    ・利用期間:12月10日~2023年1月10日

  • てくてく歩きます。

    てくてく歩きます。

  • 麓の発掘調査によって、石垣・虎口が整備・復元されていました。<br /><br /><br />

    麓の発掘調査によって、石垣・虎口が整備・復元されていました。


  • 西側石塁の枡形虎口と平入り虎口<br /><br />大手門から西に延びる石塁には2箇所の出入り口があります。最も西端に設けられた出入り口は二度折れして入る枡形虎口と呼ばれる構造で、その東端に造られた出入り口は、平入り虎口と呼ばれる門を入るとすぐに城内に行き着くものです。<br /> 平入り虎口の東袖壁は石塁をL字状に屈曲させ幅を約5メートルに拡幅させています。伝羽柴邸下段郭にあるような櫓門になっていた可能性があります。西袖壁の南面側は基底石が残っていなかったため当初の石塁幅を確かめることができず、整備工事では左右対称の形に復元しています。また、登り降りする段差がありますが、石段等の当時の遺構が残っていなかったため花崗岩の切石を使い築城時のものと区別しています。<br /> 枡形虎口では二つの新しい発見がありました。一つは、枡形虎口の南面石垣沿いに幅約50センチの石敷き側溝が造られていたことです。このことから南面石垣沿いには通路のような陸地が百々橋口まで延びていることが明らかになりました。二つ目は、枡形虎口の西壁と南面石垣には約1.5メートル大の大石を等間隔に配置する模様積みですが、奥壁の石垣は約40~60センチ大の石を布積みにしており石の積み方が違うことが分かりました。このことから、当初安土城の南面を画する東壁の石垣が造られていましたが、天王の行幸のため大手を三門にする設計変更をした際、南側に郭を継ぎ足して、石塁とセットになった枡形虎口が造られたと考えられます。<br /> また、枡形虎口の上段には安土城廃城後、畑地として利用された時に造られた石垣が残っていました。廃城後の安土城の利用方法を知っていただき、石積みの違いを見て頂くため解体せず残しました。

    西側石塁の枡形虎口と平入り虎口

    大手門から西に延びる石塁には2箇所の出入り口があります。最も西端に設けられた出入り口は二度折れして入る枡形虎口と呼ばれる構造で、その東端に造られた出入り口は、平入り虎口と呼ばれる門を入るとすぐに城内に行き着くものです。
     平入り虎口の東袖壁は石塁をL字状に屈曲させ幅を約5メートルに拡幅させています。伝羽柴邸下段郭にあるような櫓門になっていた可能性があります。西袖壁の南面側は基底石が残っていなかったため当初の石塁幅を確かめることができず、整備工事では左右対称の形に復元しています。また、登り降りする段差がありますが、石段等の当時の遺構が残っていなかったため花崗岩の切石を使い築城時のものと区別しています。
     枡形虎口では二つの新しい発見がありました。一つは、枡形虎口の南面石垣沿いに幅約50センチの石敷き側溝が造られていたことです。このことから南面石垣沿いには通路のような陸地が百々橋口まで延びていることが明らかになりました。二つ目は、枡形虎口の西壁と南面石垣には約1.5メートル大の大石を等間隔に配置する模様積みですが、奥壁の石垣は約40~60センチ大の石を布積みにしており石の積み方が違うことが分かりました。このことから、当初安土城の南面を画する東壁の石垣が造られていましたが、天王の行幸のため大手を三門にする設計変更をした際、南側に郭を継ぎ足して、石塁とセットになった枡形虎口が造られたと考えられます。
     また、枡形虎口の上段には安土城廃城後、畑地として利用された時に造られた石垣が残っていました。廃城後の安土城の利用方法を知っていただき、石積みの違いを見て頂くため解体せず残しました。

  • 枡形虎口

    枡形虎口

  • 平入り虎口

    平入り虎口

  • 石塁(せきるい)と大手三門(おおてさんもん)<br /> 安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁(ぼうるい)で遮(さえぎ)っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸(ぎょうこう)を計画していたことから、城の正面を京の内裏(だいり)と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口(にしますがたこぐち)以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。<br /> 東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。石塁は一直線ではなく大手門の所でへの字に屈曲しています。石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾(かいこん)により大半が消失し築城時の高さは不明です。そのため復元にあたっては、南側から石塁北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。東平入(ひらい)り虎口(こぐち)は、間口(まぐち)約5.5m奥行き約4.2mで、柱を受ける礎石(そせき)等が残ってないため門の構造は不明です。<br /> 石塁の中に詰められている栗石(ぐりいし)がない部分が約30m(東側石塁の西端に網を張って中の栗石が見えるようにしている部分から西です)あり、この間に大手門があったと思われます。石塁から南に2間分、2.4mの間隔で礎石が2基、礎石抜き取り穴が1基見つかっていますが、石塁の基底石が据えられている面と同じ高さにあり、大手門の柱が石塁より前に2間分飛び出すという特異な形になり規模や構造において不明な点が多くどのような門であったか不明です。<br /> また、虎口や通路に上がる段差がある部分ですが、その多くが後世の開墾で当時の遣構が消滅して、石段であったか木階段であったか確定することができませんでした。そのため確実に築城時に段があったが材質が不明である部分については安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしています。門があったと見られる部分には豆砂利樹脂舗装(まめじゃりじゅしほそう)をして表示しています。また、通路部分は針葉樹(しんようじゅ)の間伐材(かんばつざい)を使ったウッドチップ樹脂舗装で表示しています。上段の郭の内、土塀(どべい)があったと推定される箇所はウバメガシの生垣(いけがき)にしています。

    石塁(せきるい)と大手三門(おおてさんもん)
     安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁(ぼうるい)で遮(さえぎ)っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸(ぎょうこう)を計画していたことから、城の正面を京の内裏(だいり)と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口(にしますがたこぐち)以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。
     東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。石塁は一直線ではなく大手門の所でへの字に屈曲しています。石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾(かいこん)により大半が消失し築城時の高さは不明です。そのため復元にあたっては、南側から石塁北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。東平入(ひらい)り虎口(こぐち)は、間口(まぐち)約5.5m奥行き約4.2mで、柱を受ける礎石(そせき)等が残ってないため門の構造は不明です。
     石塁の中に詰められている栗石(ぐりいし)がない部分が約30m(東側石塁の西端に網を張って中の栗石が見えるようにしている部分から西です)あり、この間に大手門があったと思われます。石塁から南に2間分、2.4mの間隔で礎石が2基、礎石抜き取り穴が1基見つかっていますが、石塁の基底石が据えられている面と同じ高さにあり、大手門の柱が石塁より前に2間分飛び出すという特異な形になり規模や構造において不明な点が多くどのような門であったか不明です。
     また、虎口や通路に上がる段差がある部分ですが、その多くが後世の開墾で当時の遣構が消滅して、石段であったか木階段であったか確定することができませんでした。そのため確実に築城時に段があったが材質が不明である部分については安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしています。門があったと見られる部分には豆砂利樹脂舗装(まめじゃりじゅしほそう)をして表示しています。また、通路部分は針葉樹(しんようじゅ)の間伐材(かんばつざい)を使ったウッドチップ樹脂舗装で表示しています。上段の郭の内、土塀(どべい)があったと推定される箇所はウバメガシの生垣(いけがき)にしています。

  • 東側石塁東虎口

    東側石塁東虎口

  • 東川石塁北上段郭と虎口<br /><br /> 東側石塁東虎口の城内側は、一段高い郭(A区)が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣(石垣360)により遮られています。<br /> 石塁との間は約6mあります。石垣に沿って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことが分かりました。<br /> この石垣360には大手道から東へ約25mの地点に上段郭へ上がる虎口(A区虎口)が設けられていました。虎口は、間口約5.0m、奥行き約5.5m以上で、石段で上がるようになっています。石段は下段4段、上段3段で、中間に奥行き2.5mの踊り場が造られていました。踊り場には東西側壁寄りに門の袖柱を受ける礎石が残っていました。門の主柱を受ける礎石が残っていないため門の規模は不明ですが、残存する2基の小礎石から薬医門か唐門であったと思われます。<br /> 上段郭の内部は江戸時代以降に水田耕作などで開墾されており、築城時の遺構は残念ながら残っていません。しかし、虎口の門の形態や郭の広さから伝羽柴秀吉邸上段郭にあるような屋敷であったことが考えられます。

    東川石塁北上段郭と虎口

     東側石塁東虎口の城内側は、一段高い郭(A区)が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣(石垣360)により遮られています。
     石塁との間は約6mあります。石垣に沿って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことが分かりました。
     この石垣360には大手道から東へ約25mの地点に上段郭へ上がる虎口(A区虎口)が設けられていました。虎口は、間口約5.0m、奥行き約5.5m以上で、石段で上がるようになっています。石段は下段4段、上段3段で、中間に奥行き2.5mの踊り場が造られていました。踊り場には東西側壁寄りに門の袖柱を受ける礎石が残っていました。門の主柱を受ける礎石が残っていないため門の規模は不明ですが、残存する2基の小礎石から薬医門か唐門であったと思われます。
     上段郭の内部は江戸時代以降に水田耕作などで開墾されており、築城時の遺構は残念ながら残っていません。しかし、虎口の門の形態や郭の広さから伝羽柴秀吉邸上段郭にあるような屋敷であったことが考えられます。

  • 東側石塁北上段郭と虎口

    東側石塁北上段郭と虎口

  • 城なび館

    城なび館

  • 特別史跡安土城跡<br /> 安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576) に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で 信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピール します。しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた擦見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくこ とになります。<br /> 安土城跡は大正15年(1926)に史躍に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万㎡が特別史跡に指定されました。<br /> 昭和15・16年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年? 50年(1960?1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われました。昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われています。そして、平成元年度(1989)から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として『特別史跡安 土城跡調査整備事業』が20年計画で行われています。

    特別史跡安土城跡
     安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576) に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で 信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピール します。しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた擦見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくこ とになります。
     安土城跡は大正15年(1926)に史躍に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万㎡が特別史跡に指定されました。
     昭和15・16年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年? 50年(1960?1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われました。昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われています。そして、平成元年度(1989)から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として『特別史跡安 土城跡調査整備事業』が20年計画で行われています。

    安土城跡 名所・史跡

  • 正面の受付で入山料を払って入ります。

    正面の受付で入山料を払って入ります。

  • 大手道跡の石段

    大手道跡の石段

  • 上から下を眺めます。<br />石段長くてキツかったー。<br />とはいっても安土城のある安土山は標高198mの低い山で、道も整備されていて登りやすいので、装備なしの普通の格好で老若男女スイスイ登っていました。<br />春休み時期のせいなのか人もすごく多かったです。

    上から下を眺めます。
    石段長くてキツかったー。
    とはいっても安土城のある安土山は標高198mの低い山で、道も整備されていて登りやすいので、装備なしの普通の格好で老若男女スイスイ登っていました。
    春休み時期のせいなのか人もすごく多かったです。

  • 主廓へと続く石段

    主廓へと続く石段

  • 大手道跡の石仏<br /> この石仏は築城の際に大手道の石材として使われたものです。<br /> 城普請に使用する多くの石材は近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等も含まれていました。<br />  出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しています。趣旨をこ理解の上、見学して下さい。

    大手道跡の石仏
     この石仏は築城の際に大手道の石材として使われたものです。
     城普請に使用する多くの石材は近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等も含まれていました。
      出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しています。趣旨をこ理解の上、見学して下さい。

  • 黒金門跡(くろがねもんあと)<br /> ここは、安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。<br /> 高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを超え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口門・七曲口道からの入り口なのです。 <br /> 安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。<br /> 平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。

    黒金門跡(くろがねもんあと)
     ここは、安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。
     高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを超え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口門・七曲口道からの入り口なのです。
     安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。
     平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。

  • 黒金門跡

    黒金門跡

  • 黒金門跡

    黒金門跡

  • 二の丸跡へ

    二の丸跡へ

  • 仏足石(室町時代中期)<br />この仏足石は大手道石段などに見られる石仏と同様、築城当時単なる石材として集められ、石垣に使われて居た様で、昭和の初期、登山道撃備工事の時この附近の崩れた石垣の中から発見されました。仏足石は、お釈迦様の足跡を表現したもので、古代インドでは、仏像に先立ち崇拝の対象とされて居ました。我が国では、奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代国宝級)の物として有名ですが、此の仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。

    仏足石(室町時代中期)
    この仏足石は大手道石段などに見られる石仏と同様、築城当時単なる石材として集められ、石垣に使われて居た様で、昭和の初期、登山道撃備工事の時この附近の崩れた石垣の中から発見されました。仏足石は、お釈迦様の足跡を表現したもので、古代インドでは、仏像に先立ち崇拝の対象とされて居ました。我が国では、奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代国宝級)の物として有名ですが、此の仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。

  • 仏足石

    仏足石

  • 信長公本廟(二の丸跡)

    信長公本廟(二の丸跡)

  • 二の丸址碑と織田信長公本廟碑

    二の丸址碑と織田信長公本廟碑

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 本丸跡<br /><br /> 天王台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷(せんじょうじき)と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天守台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。昭和16年と平成11年の三度にわたる発掘調査の結果、東西約34m✕南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約218m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。4~6寸(12~18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)問隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。<br /> 礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿(だいりせいりょうでん)と非常によく似ていることが分かりました。豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復原したのが右の図です。西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束(ゆかづか)が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。<br /> なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。<br />「信長公記(しんちょうこうき)』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿(ぎょうこうごてん)だったのではないでしょうか。

    本丸跡

     天王台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷(せんじょうじき)と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天守台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。昭和16年と平成11年の三度にわたる発掘調査の結果、東西約34m✕南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約218m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。4~6寸(12~18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)問隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。
     礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿(だいりせいりょうでん)と非常によく似ていることが分かりました。豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復原したのが右の図です。西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束(ゆかづか)が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。
     なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。
    「信長公記(しんちょうこうき)』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿(ぎょうこうごてん)だったのではないでしょうか。

  • 天主閣跡への石段

    天主閣跡への石段

  • 天主の礎石<br />天主台石垣上には、天主の礎石が残されています。<br />当時はこの礎石の上に柱が建てられていました。

    天主の礎石
    天主台石垣上には、天主の礎石が残されています。
    当時はこの礎石の上に柱が建てられていました。

  • 安土城の天主は、完成してからわずか三年後の天正一〇年(一五八二) 六月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦磯と草木の下に埋もれてしまいまし た。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和一五年(一九四〇)のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。<br />皆様が立っておられる場所は、地下一階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。左の図は、建設当時の天主台を復原したものです。その規模の雄大さを想像してください。(案内板より)

    安土城の天主は、完成してからわずか三年後の天正一〇年(一五八二) 六月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦磯と草木の下に埋もれてしまいまし た。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和一五年(一九四〇)のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。
    皆様が立っておられる場所は、地下一階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。左の図は、建設当時の天主台を復原したものです。その規模の雄大さを想像してください。(案内板より)

  • 天守台から見える琵琶湖

    天守台から見える琵琶湖

  • 摠見寺跡(そうけんじあと)<br /> 摠見寺跡(そうけんじ)は、織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。<br />天主と城下町を結ぶ百々橋口(どどばしぐち)道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼をまぬがれることができましたが、江戸時代末期の嘉永7年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を焼失してしまいました。その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺地を移し、現在に至るまで法灯(ほうとう)を守り続けています。<br /> 平成6年度に発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見されました。南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものでした。本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の仁王門・表門から本堂前を通り、東の裏門に通じています。建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築されたことが、種々の記録から分かります。<br /> その後、豊臣秀頼(とよとみひでより)によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏(くり)等が増築されました。江戸時代になると、伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・土蔵・木蔵など、寺の生活を支える多くの建物が建てられました。右の『近江名所図会』に描かれた様子を重ね合わせると、江戸時代を通じて活動を続ける摠見寺の姿がうかがえます。

    摠見寺跡(そうけんじあと)
     摠見寺跡(そうけんじ)は、織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。
    天主と城下町を結ぶ百々橋口(どどばしぐち)道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼をまぬがれることができましたが、江戸時代末期の嘉永7年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を焼失してしまいました。その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺地を移し、現在に至るまで法灯(ほうとう)を守り続けています。
     平成6年度に発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見されました。南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものでした。本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の仁王門・表門から本堂前を通り、東の裏門に通じています。建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築されたことが、種々の記録から分かります。
     その後、豊臣秀頼(とよとみひでより)によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏(くり)等が増築されました。江戸時代になると、伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・土蔵・木蔵など、寺の生活を支える多くの建物が建てられました。右の『近江名所図会』に描かれた様子を重ね合わせると、江戸時代を通じて活動を続ける摠見寺の姿がうかがえます。

    総見寺 寺・神社・教会

  • 摠見寺本堂跡

    摠見寺本堂跡

  • 摠見寺本堂跡からの眺望

    摠見寺本堂跡からの眺望

  • 摠見寺三重塔<br />

    摠見寺三重塔

  • 重要文化財 摠見寺二王門

    重要文化財 摠見寺二王門

  • 木造金剛二力士立像

    木造金剛二力士立像

  • 木造金剛二力士立像<br /><br />木造金剛二力士立像も重要文化財です。

    木造金剛二力士立像

    木造金剛二力士立像も重要文化財です。

  • 重要文化財 摠見寺二王門<br /><br /> 正面の柱間三間の中央間を出入口とする楼門を三間一戸(さんげんいっこ)楼閣といって実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛柵を設け、金剛力士の像をまつるため二王門と名づけている。<br /> この門は棟木に元亀二年(一五七一)の建立を示す墨書銘があるが、織田信長が天正四年(一五七六)築城に着手し、あわせて摠見寺を建てるに際し甲賀郡から移建したと伝えられる。組物は上下層とも三手先(みてさき)で、和様を主調とした最も一般的な形式であるが、下層中央間の彫刻入りの蟇股(かえるまた)や隅柱の上部についている頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)などは室町時代末期の特徴をよく現している。<br /> 木造金剛二力士立像は応仁元年(一四六七)の作で重要文化財に指定されている。<br />  昭和五十二年十月<br />    安土町教育委員会

    重要文化財 摠見寺二王門

     正面の柱間三間の中央間を出入口とする楼門を三間一戸(さんげんいっこ)楼閣といって実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛柵を設け、金剛力士の像をまつるため二王門と名づけている。
     この門は棟木に元亀二年(一五七一)の建立を示す墨書銘があるが、織田信長が天正四年(一五七六)築城に着手し、あわせて摠見寺を建てるに際し甲賀郡から移建したと伝えられる。組物は上下層とも三手先(みてさき)で、和様を主調とした最も一般的な形式であるが、下層中央間の彫刻入りの蟇股(かえるまた)や隅柱の上部についている頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)などは室町時代末期の特徴をよく現している。
     木造金剛二力士立像は応仁元年(一四六七)の作で重要文化財に指定されている。
      昭和五十二年十月
        安土町教育委員会

  • 羽柴秀吉邸跡

    羽柴秀吉邸跡

  • 伝羽柴秀吉邸跡<br /> ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、上下2段に別れた郭(造成された平地)で構成されています。下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるもので すが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っています。武士が控える遠侍と呼ばれる 部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。下段郭には厩が 1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。背面の石垣裾に設けられた幅 2m程の石段は、上段郭の裏手に通じています。 <br /> 上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。門を入ると右手に台所があり、さらに進むと主屋の玄関に達します。玄関を入ると武台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。さらにその奥には内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は 366㎡あり、この屋敷では最大の規模を持っています。<br /> 戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる、誠に貴重なものといえます。

    伝羽柴秀吉邸跡
     ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、上下2段に別れた郭(造成された平地)で構成されています。下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるもので すが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っています。武士が控える遠侍と呼ばれる 部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。下段郭には厩が 1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。背面の石垣裾に設けられた幅 2m程の石段は、上段郭の裏手に通じています。
     上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。門を入ると右手に台所があり、さらに進むと主屋の玄関に達します。玄関を入ると武台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。さらにその奥には内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は 366㎡あり、この屋敷では最大の規模を持っています。
     戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる、誠に貴重なものといえます。

  • 羽柴秀吉邸跡の石垣

    羽柴秀吉邸跡の石垣

  • 安土城址の碑

    安土城址の碑

  • 当初はここから観音寺城まで歩いて行くつもりでしたが、ざっくり計画なので予定通りにはいきません。

    当初はここから観音寺城まで歩いて行くつもりでしたが、ざっくり計画なので予定通りにはいきません。

  • 私以外人っこ1人歩いていません。<br />そもそも歩いて行けるような距離ではなかったかも。この辺りを回るには自転車は必須ですね。

    私以外人っこ1人歩いていません。
    そもそも歩いて行けるような距離ではなかったかも。この辺りを回るには自転車は必須ですね。

  • 前方にヨーロッパ調の建築物があります。

    前方にヨーロッパ調の建築物があります。

  • 左の建物は安土城考古博物館。

    左の建物は安土城考古博物館。

    安土城考古博物館 美術館・博物館

  • 右の建物は安土町の総合体育館あづちマリエート。

    右の建物は安土町の総合体育館あづちマリエート。

  • 真ん中の建物は文芸セミナリヨ。

    真ん中の建物は文芸セミナリヨ。

    文芸セミナリヨ 美術館・博物館

  • 安土城天主信長の館<br /><br />時間がないので中には入らず外から眺めただけ。観音寺城に行くのは既に諦め、スタンプは駅前の安土城郭資料館で押すことにしました。

    安土城天主信長の館

    時間がないので中には入らず外から眺めただけ。観音寺城に行くのは既に諦め、スタンプは駅前の安土城郭資料館で押すことにしました。

    安土城天主信長の館 美術館・博物館

  • 信長の館から歩いて40分。駅前の安土城郭資料館に到着です。時刻は既に15時過ぎ。これから彦根城にスタンプをもらいに行く予定なので焦ります。<br />入場料を払って入館し、まずは観音寺城の100名城スタンプを押しました。

    信長の館から歩いて40分。駅前の安土城郭資料館に到着です。時刻は既に15時過ぎ。これから彦根城にスタンプをもらいに行く予定なので焦ります。
    入場料を払って入館し、まずは観音寺城の100名城スタンプを押しました。

    安土城郭資料館 美術館・博物館

  • 信長の甲冑の顔出しパネル

    信長の甲冑の顔出しパネル

  • 織田信長の南蛮甲冑と屏風

    織田信長の南蛮甲冑と屏風

  • 模型 安土山・観音寺

    模型 安土山・観音寺

  • 安土城天主復元ひな型

    安土城天主復元ひな型

  • 安土城天主復元ひな型

    安土城天主復元ひな型

  • 時刻は15時30分。<br />安土駅から彦根駅まではJR琵琶湖線で約18分。<br />彦根城のスタンプは開国記念館にあるので営業時間内に行かなければなりません。

    時刻は15時30分。
    安土駅から彦根駅まではJR琵琶湖線で約18分。
    彦根城のスタンプは開国記念館にあるので営業時間内に行かなければなりません。

    安土駅

  • 琵琶湖八景碑

    琵琶湖八景碑

  • スタンプは間に合いました。良かった。

    スタンプは間に合いました。良かった。

  • 彦根城<br />

    彦根城

    彦根城 名所・史跡

  • 時刻は16時38分。<br />博物館も既に終了しています。

    時刻は16時38分。
    博物館も既に終了しています。

    彦根城博物館 美術館・博物館

  • 京橋口門

    京橋口門

  • 京橋口門と雁木<br />

    京橋口門と雁木

  • 登り石垣

    登り石垣

  • 水堀と桜

    水堀と桜

  • 自販機にもひこにゃんが。ふなずしも自販機で買えるんですね。

    自販機にもひこにゃんが。ふなずしも自販機で買えるんですね。

  • 四番町スクエアお店マップ<br /><br />ここでお土産を買って帰りました。<br />この日のJRの電車賃は合計3,800円ぐらい。青春18切符の元を取るにはまだまだです。

    四番町スクエアお店マップ

    ここでお土産を買って帰りました。
    この日のJRの電車賃は合計3,800円ぐらい。青春18切符の元を取るにはまだまだです。

    四番町スクエア 名所・史跡

  • 安土城のスタンプは、安土城入場券売り場、安土城郭資料館、安土城天主信長の館、安土城跡ガイダンス施設の4箇所にあります。<br /><br />スタンプには大手道の石段がデザインされています。

    安土城のスタンプは、安土城入場券売り場、安土城郭資料館、安土城天主信長の館、安土城跡ガイダンス施設の4箇所にあります。

    スタンプには大手道の石段がデザインされています。

  • 観音寺城のスタンプは、安土城郭資料館、桑實寺、観音正寺、石寺楽市会館にあります。<br /><br />スタンプには大石垣がデザインされています。

    観音寺城のスタンプは、安土城郭資料館、桑實寺、観音正寺、石寺楽市会館にあります。

    スタンプには大石垣がデザインされています。

  • 彦根城のスタンプは、開国記念館内受付横に設置してあります。<br /><br />スタンプには国宝の天守がデザインされています。

    彦根城のスタンプは、開国記念館内受付横に設置してあります。

    スタンプには国宝の天守がデザインされています。

19いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

日本100名城(2)2019年〜

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP