2022/04/08 - 2022/04/08
737位(同エリア1563件中)
ケーさん
この旅行記のスケジュール
2022/04/08
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電車での移動
JR松山駅前→道後公園 伊予鉄道 市内線(路面電車)
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湯築城跡
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電車での移動
道後公園→大街道 伊予鉄道 市内線(路面電車)
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日本100名城巡り
☆38城目☆湯築城(No.80)
愛媛県の100名城は、今治城、湯築城、松山城、大洲城、宇和島城の5城です。
四国地方の100名城(丸数字は今回行った順番)
76 徳島城(徳島県徳島市)⑧
77 高松城(香川県高松市)①
78 丸亀城(香川県丸亀市)⑨
79 今治城(愛媛県今治市)⑥
80 湯築城(愛媛県松山市)②
81 松山城(愛媛県松山市)③
82 大洲城(愛媛県大洲市)⑤
83 宇和島城(愛媛県宇和島市)④
84 高知城(高知県高知市)⑦
四国一周3泊4日の旅(1)高松城
https://4travel.jp/travelogue/11897574
3泊4日で四国の日本100名城を全制覇する計画をざっくりと立てました。
当初は青春18切符の旅の筈でしたが、青春18切符のみの移動は初日だけ。時間的に間に合わず途中から有料特急を使いまくって最後は新幹線で帰りました。今回学んだのは、青春18切符はぎりぎり日帰りの近場が向いているということ、青春18切符は発売初日に買うこと、スケジュールはぎゅうぎゅうに入れ過ぎないこと、旅の日数と時間はたっぷり用意しておくこと、時刻表はよく見ること、などなど。
予約しておいたホテル以外は行き当たりばったりでバタバタでしたが、目標だった四国100名城制覇も達成出来、美しいお城と景色もいっぱい見られ、列車もいろいろ乗れて楽しい旅でした。
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2022年4月8日(金)
ターミナルホテル松山を出発。
今日は愛媛の4城を巡る予定です。
ざっくり計画では、
湯築城→松山城→宇和島城→大須城
→松山に戻って道後温泉で夕食
全て電車と徒歩の移動なので超ハード。
まあなんとかなるでしょう。ターミナルホテル松山 宿・ホテル
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ホテルのすぐ前を通る路面電車。
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JR【松山】駅もホテルのすぐ前です。
松山駅 (愛媛県) 駅
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そしてこちらが伊予鉄道の路面電車(市内線)の【JR松山駅前】駅。
伊予鉄道 市内線(路面電車) 乗り物
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電車が来ました。
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ややこしい事にこの路線の駅には【JR松山駅前】と【松山市駅前】があるので、初めて来た人は私のように混乱するかと思います。
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湯築城には、「JR松山駅前駅」から「道後温泉行」に乗って「道後公園」で降りればいいようです。
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【道後公園】駅に到着です。
もう道後公園の入り口が見えてますね。 -
国史跡 湯築城跡
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【国史跡 湯築城跡】
湯築城は、室町時代伊予国守護であった河野氏の城跡で、当時伊予国の政治の中心地でした。
河野氏は、風早郡河野郷(松山市北部)を本拠とした豪族で、12世紀末の源平合戦で源氏方として活躍し、鎌倉時代には伊予国で最も有力な武士になりました。河野氏が湯築城に本拠を移したのは、14世紀前半河野通盛(みちもり)の時といわれています。当時の道後は、道後温泉に古くから天皇が来湯するなど人々の住来が多<、伊予国内では経済的、文化的な要地でした。その後、河野氏の歴代当主が伊予国守護に任命されるようになると、この地は政治的な中心としても栄えるようになりました。河野氏は水軍としても知られ、海賊衆として有名な来島村上氏もその配下でした。
湯築城は、はじめはいざという時に丘陵を城として利用するだけでしたが、16世紀半ばに河野通直(みちなお)が、外堀を堀り、その土で土塁を築いて、現在のような大規模な城となりました。戦国時代に平地の岡を二重の堀と土塁で囲った城は、全国でも大変珍しいものでした。
1585年に全国統一を目指す豊臣秀吉に攻められ、河野氏は降伏し、湯築城はまもなく廃城になったといわれています。江戸時代は松山藩が管理し、一般の人が立ち入ることは制限されていました。明治時代に入り、1888年に「道後公園」という名で広く一般に開放されるようになりました。道後温泉本館(国重要文化
財)建設を進めた道後湯之町伊佐庭如矢町長によって公園として壁備され、にぎわうようになりました。
1988年から12年間発掘調査がおこなわれ、25万点にも及ぶ土器等が出土し、戦国時代の遺構が良好な状態で残っていることが確認され、歴史上重要な遺跡として、2002年に国の史跡に指定されました。
湯築城の規模は、外を含め、南北約350m、東西約300mで、広さは約8.5haあります。中心は標高差31メートルの小高い丘陵で、「本壇」「杉の壇」と呼ばれる平坦地があり、最も高い本壇からは、松山城や遠く伊予灘を見ることができます。発掘調査により、城の南東側は上級武士の生活の場、南西側は城主に仕える武士が暮らす場所だったことがわかっています。
また、湯築城の西には城下町が広がっていました。北には石手寺、義安寺、宝厳寺、湯神社など河野氏とゆかりの深い寺社がありました。戦国時代に日本を訪れたイエズス会の教師ルイス・フロイスは、「道後の市」と呼ばれ大変栄えていた様子を『日本史』の中に記しています。 -
【搦手門(からめてもん)】
搦手門は、城の裏門のことです。河野氏の時代にここがどのように呼ばれていたかはわかりませんが、江戸時代に書かれた『予陽郡郷俚諺集「(よようぐんごうりげんしゅう)』に「東西に門有、城は東表也」と書かれています。
発掘調査では、二つの段階の門が確認されています。外堀が約2メートルの水路によって続いていた時期は木橋が掛けられていたようですが、後に水路は埋められて土橋になっています。門も、内側に後退して建てられています。また、いずれの段階でも門をくぐって外に排水する溝が設けられていました。 -
搦手門
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【湯築城資料館】
発掘調査の成果や河野氏の歴史が展示されています。湯築城資料館 美術館・博物館
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資料館で配布されていた湯築城マップ
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【土塀(どべい)】
土塀は川原石を使って0.7m幅(最大は1.0m幅)の二列の石列を作り、間に小さな石をつめて2~3段の高さの基礎を立ち上げます。その上に粘土のブロックを積み重ねて、表面に壁土(かべつち)を塗り仕上げます。調査では基礎石部分だけが検出されました。各屋敷は14~15m間隔で土塀によって区画されており、道路側で土塀の切れている所を入り口としていました。 -
土塀
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【武家屋敷1】
この屋敷は発掘された礎石の配置からみた間取りや当時の資料をもとに復元されました。
石の間隔を測ったところ、柱間(はしらま)は全て均一で1.97メートル(6尺5寸)を基本とする礎石建物であることがわかりました。 -
【ある日の武家屋敷】
16世紀中頃、家臣が住んでいた武家屋敷のある日のようすを再現しました。
主室では、武士や僧侶が集まり「連歌(れんが)」を楽しみながら、教養をやしなうとともに仲間意識を強めています。
連歌は、複数の人が一座に会して、和歌の上句(かみのく)にあたる5・7・5と下句(しものく)の7・7を交互に詠み続け、百韻(100句)を完成させる形式が一般的です。
ここでは、中央の上座に宗匠(そうしょう)を指導者として招き、式目(しきもく)と呼ばれる約束事を教わりながら連歌の稽古をしており、手前右手の武士が採用された句を書きとめる執筆(しゅひつ)の役目を果たしています。
挙句(あげく)(最後の一句)が近くなり、みんな創作に苦心していますが、板間(いたのま)の台所では、使用人が連歌を終えた客人に茶を点てる準備をしています。 -
ある日の武家屋敷
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ある日の武家屋敷
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【内堀・内堀土塁(うちぼりどるい)】
この城には堀が二重に巡らされています。そのう
ち内側の堀を「内堀」といいます。敵が中央の丘陵に簡単に攻められないようにするために掘られたものです。さらに守りを固めるため、堀を掘った時の土を掻き上げて土手を造っています。これを「内堀土塁」と呼びます。
内堀の規模は、幅11~12m、深さ3m、内堀土塁は基底幅7m、復元高2m程度です。 -
【武家屋敷2】
この屋敷は発掘された礎石の配置からみた間取りや、当時の資料をもとに復元されました。
5個の礎石と2箇所の礎石抜き取り跡が発見され、これは建物の棟(むね)通りと考えられます。
また西側の南北に並ぶ礎石は、他の礎石よりも小さいことから、この建物の西側には庇(ひさし)などがあったと考えられます。 -
武家屋敷2
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内部は展示室になっています。
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【道路・排水溝】
外土塁の内側には道路と排水溝が巡っています。道路の幅はおよそ3mです。道路に接して流れている排水溝は、大小さまざまな大きさの川原石を積み上げて作られています。
城内には排水溝が折れ曲がり道路の狭くなっている所が数箇所ありますが、この場所は道路も排水溝も直線的に伸びており、これらの基本構造を最もよく表しています。 -
道路・排水溝
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【庭園の池】
ここでは池が発見されました。3m四方に小石を敷き詰めた深さ0.3mの浅い池と、大きな石を周囲に配置した最長8m、最深部0.8mの池が一体化した形です。
道路に沿って流れている排水から、細い溝をつないで池に水を取り込んでいます。
池の周囲には建物の一部と思われる礎石があることから、池をのぞむ建物などがあり、庭園が造られていたと考えられます。 -
庭園の池
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【最大土坑(どこう)】
この場所には、長さ6.8m、幅3.4m、深さ0.8mの、発見した中では最大の土坑があります。
中からは主師質土器の皿が大量に出土しており、また、破損した陶磁器や魚骨、貝類などもみられ、ここがゴミ穴として利用されていたことがわかります。
当時、土師質土器の皿は、儀式や宴会で使用された後に捨てられます。近くにある庭園をのぞみながら宴会などを楽しんでいたのでしょうか。 -
土塁
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【外堀土塁】
外堀土塁は外堀を掘った時に出る土を盛り上げて造られており「掻揚げ土塁」と呼ばれています。堀と一体となって城の領域を形づくり敵の侵入を防ぐことや、城内がどのようになっているのかを外から見られないようにする目的があります。この付近の土塁が最も残りが良いので、断ち割って造り方をみることにしました。
機械のない時代に多くの人々の手によって造られたこの大規模な土塁は、湯築城跡の中でも最も代表的な遺構です。 -
【土塁展示室】の入口。
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土塁の中に入って、土塁の断面が見られ、土塁の造り方が学べます。
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展示品
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【道路・排水溝・外堀土塁裾石】
城内の南東側に当たる箇所です。外堀土塁に沿って造られている道路や排水溝は、この場所で折れ曲がり、水はここから西に流れて行きます。
また、道路に面して外堀土塁の裾に巡らされている裾石は、ここが最も高く良好に残っています。 -
土塁と外堀
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土塁と外堀
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土塁と外堀
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東南側の内堀の丘陵部の斜面にある天然の岩盤。
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【遮蔽土塁(しゃへいどるい)】
この土塁のある場所は、外堀と内堀の間が最も狭い所です。この土塁の重要な役割は、大手からの視線をさえぎることと、上級武土居住区への容易な侵入を防止することにあります。もちろんこの土塁と外線土塁の間には門が必要です。
【排水溝(実物展示)】
眼の前の溝は当時の実物です。
大手からの溝は2段階まで使用された後、埋められていました。石の間に見られる赤い線から上の部分は、石が抜け落ちていたので、新しく石を入れ復元しています。
内堀に流れ込む溝は4段階のもので、遮蔽土塁の南面を区画しています。溝が交わっている箇所で、作られた年代の新旧を利断することができます。 -
遮蔽土塁
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【内堀・内堀土塁】
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内堀
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【石造 湯釜 一基】
愛媛県指定有形文化財(建造物) -
石造湯釜
湯釜 名所・史跡
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湯築城跡は素朴で面白い城跡でした。
一周したら思っていたより広くて予定時間オーバー。展望台は諦めて、次の松山城へと急ぎます。
市内電車で「道後公園」から「大街道」まで6駅11分。 -
100名城スタンプの設置場所は、湯築城資料館の中です。
スタンプには、上半分が復元された武家屋敷、下半分が湯築城跡を上から見た図がデザインされています。
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