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☆48城目☆赤穂城(No.60)<br /><br />兵庫県の100名城は、竹田城、篠山城、明石城、姫路城、赤穂城の5城です。<br />今回の赤穂城で近畿地方は制覇です。<br /><br />【近畿地方の100名城(スタンプ済には◯)】<br />49 小谷城(滋賀県長浜市)◯<br />50 彦根城(滋賀県彦根市)◯<br />51 安土城(滋賀県近江八幡市)◯<br />52 観音寺城(滋賀県近江八幡市)◯<br />53 二条城(京都府京都市)◯<br />54 大阪城(大阪府大阪市)◯<br />55 千早城(大阪府千早赤阪村)◯<br />56 竹田城(兵庫県朝来市)◯<br />57 篠山城(兵庫県丹波篠山市)◯<br />58 明石城(兵庫県明石市)◯<br />59 姫路城(兵庫県姫路市)◯<br />60 赤穂城(兵庫県赤穂市)◯<br />61 高取城(奈良県高市郡)◯<br />62 和歌山城(和歌山県和歌山市)◯

赤穂城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻

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2022/05/16 - 2022/05/16

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旅行記グループ 日本100名城(2)2019年から

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ケー

ケーさん

☆48城目☆赤穂城(No.60)

兵庫県の100名城は、竹田城、篠山城、明石城、姫路城、赤穂城の5城です。
今回の赤穂城で近畿地方は制覇です。

【近畿地方の100名城(スタンプ済には◯)】
49 小谷城(滋賀県長浜市)◯
50 彦根城(滋賀県彦根市)◯
51 安土城(滋賀県近江八幡市)◯
52 観音寺城(滋賀県近江八幡市)◯
53 二条城(京都府京都市)◯
54 大阪城(大阪府大阪市)◯
55 千早城(大阪府千早赤阪村)◯
56 竹田城(兵庫県朝来市)◯
57 篠山城(兵庫県丹波篠山市)◯
58 明石城(兵庫県明石市)◯
59 姫路城(兵庫県姫路市)◯
60 赤穂城(兵庫県赤穂市)◯
61 高取城(奈良県高市郡)◯
62 和歌山城(和歌山県和歌山市)◯

  • 2022年5月16日<br />播州赤穂駅到着。<br /><br />JR神戸新快速で大阪→姫路 8駅<br />JR山陽本線で姫路→播州赤穂 9駅<br />大阪駅から乗り換え1回で1時間47分かかりました。

    2022年5月16日
    播州赤穂駅到着。

    JR神戸新快速で大阪→姫路 8駅
    JR山陽本線で姫路→播州赤穂 9駅
    大阪駅から乗り換え1回で1時間47分かかりました。

    播州赤穂駅

  • 赤穂城跡までは駅から徒歩約20分。<br />一本道だからわかりやすいです。<br />道の途中にある【息継ぎ井戸】や【からくり時計・義士あんどん】は帰りに見ることにします。

    赤穂城跡までは駅から徒歩約20分。
    一本道だからわかりやすいです。
    道の途中にある【息継ぎ井戸】や【からくり時計・義士あんどん】は帰りに見ることにします。

  • 大手隅櫓が見えました。

    大手隅櫓が見えました。

  • 三の丸大手隅櫓<br />昭和30年に復元された。

    三の丸大手隅櫓
    昭和30年に復元された。

  • 三の丸大手門と太鼓橋と城址碑

    三の丸大手門と太鼓橋と城址碑

    赤穂城跡 (赤穂城跡公園) 名所・史跡

  • 大手高麗門<br />昭和30年に復元された。

    大手高麗門
    昭和30年に復元された。

  • 【三之丸大手門枡形】<br />防御側は、「枡形」を通る敵を様々な角度から鉄砲や弓矢で攻撃することが可能です。<br />現在は失われている門を通過した先には、さらに武者溜まりがありました。<br />狭い道を通ってやっと門を通過した敵に対し、多数の兵を置いた防御側は、有利に戦うことができました。<br />(本丸門内部説明板より)

    【三之丸大手門枡形】
    防御側は、「枡形」を通る敵を様々な角度から鉄砲や弓矢で攻撃することが可能です。
    現在は失われている門を通過した先には、さらに武者溜まりがありました。
    狭い道を通ってやっと門を通過した敵に対し、多数の兵を置いた防御側は、有利に戦うことができました。
    (本丸門内部説明板より)

  • 【大石邸長屋門】<br /> この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約二十六・ハメートル奥行約四・ハメートルの建物で、屋根瓦には双ッ巴の大石家の定紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄十四年三月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。<br /> 安政二年(一八五六年)に大修理が行われ、大正十二年国の史跡に指定された。<br /> 更に昭和三十七年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和五十二年十一月から国、県及び市の負担により、総工費三一三八万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した。<br /> 赤穂義士会

    【大石邸長屋門】
     この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約二十六・ハメートル奥行約四・ハメートルの建物で、屋根瓦には双ッ巴の大石家の定紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄十四年三月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。
     安政二年(一八五六年)に大修理が行われ、大正十二年国の史跡に指定された。
     更に昭和三十七年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和五十二年十一月から国、県及び市の負担により、総工費三一三八万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した。
     赤穂義士会

  • 大石邸長屋門

    大石邸長屋門

  • 大石邸長屋門

    大石邸長屋門

  • 赤穂市指定有形文化財 建造物 指定番号三一<br />【近藤源八宅跡長屋門】<br />所在地 赤穂市上仮屋一二四番地<br />所有者 赤穂市<br />管理者 赤穂市<br />指定年月日 平成一〇年四月二七日<br /> 近藤源八正憲(こんどうげんぱちまさのり)は甲州流(こうしゅうりゅう)軍学を修め、千石番頭(ばんがしら)の重職にあった。源八の妻は、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。源八の父である三郎左衛門正純(さぶろうざえもんまさずみ)も、甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。<br /> 近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋(げんぱちながや)」の愛称で親しまれているが、現存している建物は長屋門(ながやもん)の長屋部分である。門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていた。現在は、その内の北端部の一戸とその南隣りの一戸の北端の一部屋が残されている。この長屋門は、一八世紀以降に建て替えられたものと推察されるが、当時は総長二一間半(約四二・三m)の長大な長屋門であった。<br /> 城内に残された江戸期の建物は、大石良雄宅跡長屋門とこの近藤源八宅跡長屋門のみであり、礎石(そせき)や、柱材、梁材(はりざい)、天井、瓦、壁等の一部を保存し、平成一一年三月に解体復原整備が完了した。入り口部分の土間(どま)は、炊事場(すいじば)であったと考えられ、煙出し窓(けむりだしまど)や、天井周囲に残された煤(すす)が当時の生活ぶりを偲ばせている。また、簀子野地天井(すのこのじてんじょう)は建築当時の姿を保っており、屋外にある赤穂旧上水道(あこうきゅうじょうすいどう)の汲み出し枡(くみだします)とともに人気が高い。<br /> 赤穂市教育委員会

    赤穂市指定有形文化財 建造物 指定番号三一
    【近藤源八宅跡長屋門】
    所在地 赤穂市上仮屋一二四番地
    所有者 赤穂市
    管理者 赤穂市
    指定年月日 平成一〇年四月二七日
     近藤源八正憲(こんどうげんぱちまさのり)は甲州流(こうしゅうりゅう)軍学を修め、千石番頭(ばんがしら)の重職にあった。源八の妻は、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。源八の父である三郎左衛門正純(さぶろうざえもんまさずみ)も、甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。
     近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋(げんぱちながや)」の愛称で親しまれているが、現存している建物は長屋門(ながやもん)の長屋部分である。門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていた。現在は、その内の北端部の一戸とその南隣りの一戸の北端の一部屋が残されている。この長屋門は、一八世紀以降に建て替えられたものと推察されるが、当時は総長二一間半(約四二・三m)の長大な長屋門であった。
     城内に残された江戸期の建物は、大石良雄宅跡長屋門とこの近藤源八宅跡長屋門のみであり、礎石(そせき)や、柱材、梁材(はりざい)、天井、瓦、壁等の一部を保存し、平成一一年三月に解体復原整備が完了した。入り口部分の土間(どま)は、炊事場(すいじば)であったと考えられ、煙出し窓(けむりだしまど)や、天井周囲に残された煤(すす)が当時の生活ぶりを偲ばせている。また、簀子野地天井(すのこのじてんじょう)は建築当時の姿を保っており、屋外にある赤穂旧上水道(あこうきゅうじょうすいどう)の汲み出し枡(くみだします)とともに人気が高い。
     赤穂市教育委員会

  • 【二の丸門跡】<br /> 赤穂城は、正保(しょうほう)2年(1645)に浅野長直(あさのながなお)が常陸(ひたち)国笠間藩(かさまはん)から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安(けいあん)元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文(かんぶん)元年(1661)に完成した甲州流(こうしゅうりゅう)軍学の海岸平城である。<br /> ここ二の丸門跡は二の丸の入口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構えられていた。二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行(やまがそこう)が、承応(しょうおう)2年(1653)に変更したと言われる。<br /> 文久(ぶんきゅう)2年(1862)には、この付近で赤穂藩国家老森主税(もりちから)が、藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。この事件は、文久事件と呼ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討ち『高野(こうや)の復讐(ふくしゅう)<和歌山県高野町>』の発端となった。<br /> また、二の丸門をはさんだ、東方の東北隅櫓台(すみやぐらだい)から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁は、明治25年(1892)千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、築石として使用され取り除かれた。<br /> 平成10年3月 赤穂市教育委員会

    【二の丸門跡】
     赤穂城は、正保(しょうほう)2年(1645)に浅野長直(あさのながなお)が常陸(ひたち)国笠間藩(かさまはん)から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安(けいあん)元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文(かんぶん)元年(1661)に完成した甲州流(こうしゅうりゅう)軍学の海岸平城である。
     ここ二の丸門跡は二の丸の入口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構えられていた。二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行(やまがそこう)が、承応(しょうおう)2年(1653)に変更したと言われる。
     文久(ぶんきゅう)2年(1862)には、この付近で赤穂藩国家老森主税(もりちから)が、藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。この事件は、文久事件と呼ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討ち『高野(こうや)の復讐(ふくしゅう)<和歌山県高野町>』の発端となった。
     また、二の丸門をはさんだ、東方の東北隅櫓台(すみやぐらだい)から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁は、明治25年(1892)千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、築石として使用され取り除かれた。
     平成10年3月 赤穂市教育委員会

  • 【二之丸門跡】<br /> ここは赤穂城二之丸門のあった場所である。<br /> 浅野長直に仕えて赤穂に滞在していた軍学者山鹿素行(やまがそこう)が、築城工事中の承応二年(一六五三)、この門周辺の縄張りの一部を変更したことで知られている。<br /> 赤穂城二之丸の面積は一万七二五九坪であった。<br />二之丸門は櫓門で、桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪という規模であった。<br /> また、文久二年(一八六二)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老森主税(ちから)が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる「文久事件」である。この事件は、明治四年(一八七一)二月に和歌山県高野山で起こった「高野(こうや)の仇討ち」の導火線ともなった。<br /> ここに置かれている半畳ほどの二つの大きな石は、小石を持って叩くと、「かんかん」という音をたてることから、誰言うとなく「かんかん石」と呼ばれている。<br />  赤穗義士会

    【二之丸門跡】
     ここは赤穂城二之丸門のあった場所である。
     浅野長直に仕えて赤穂に滞在していた軍学者山鹿素行(やまがそこう)が、築城工事中の承応二年(一六五三)、この門周辺の縄張りの一部を変更したことで知られている。
     赤穂城二之丸の面積は一万七二五九坪であった。
    二之丸門は櫓門で、桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪という規模であった。
     また、文久二年(一八六二)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老森主税(ちから)が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる「文久事件」である。この事件は、明治四年(一八七一)二月に和歌山県高野山で起こった「高野(こうや)の仇討ち」の導火線ともなった。
     ここに置かれている半畳ほどの二つの大きな石は、小石を持って叩くと、「かんかん」という音をたてることから、誰言うとなく「かんかん石」と呼ばれている。
      赤穗義士会

  • 【赤穂城跡二之丸門枡形石垣の発掘調査】<br /> 二之丸門は、赤穂城三之丸から本丸へいたる主要ルート上に設けられた、枡形構造をもつ厳重な櫓門(やぐらもん)でした。明治維新後は門が取り壊され、石垣のみが残されていましたが、明治 25(1892)年の大水害による千種川の復旧用資材として、一帯の石垣は約 230mにわたって持ち出されてしまいました。<br /> 平成 14(2002)年度に一部を発掘調査したところ、二之丸門枡形を構成する低石垣の根石(ねいし)や、石垣の下部構造が良好に残されていることが判明しました。<br /> 特に低石垣の根石については石垣が不自然に追加されており、赤穂城築城時に赤穂を訪れた軍学者の山鹿<br />素行が「二之丸門枡形の一部を手直しした」との記録<br />(山鹿素行(やまがそこう)『年譜』)を裏付けるものとして評価できます。<br /> 平成28(2016)年度にはこの調査成果を活かし、二<br />之丸城壁の一部と低石垣が復元されました。<br /> 令和2年10月 赤穂市教育委員会

    【赤穂城跡二之丸門枡形石垣の発掘調査】
     二之丸門は、赤穂城三之丸から本丸へいたる主要ルート上に設けられた、枡形構造をもつ厳重な櫓門(やぐらもん)でした。明治維新後は門が取り壊され、石垣のみが残されていましたが、明治 25(1892)年の大水害による千種川の復旧用資材として、一帯の石垣は約 230mにわたって持ち出されてしまいました。
     平成 14(2002)年度に一部を発掘調査したところ、二之丸門枡形を構成する低石垣の根石(ねいし)や、石垣の下部構造が良好に残されていることが判明しました。
     特に低石垣の根石については石垣が不自然に追加されており、赤穂城築城時に赤穂を訪れた軍学者の山鹿
    素行が「二之丸門枡形の一部を手直しした」との記録
    (山鹿素行(やまがそこう)『年譜』)を裏付けるものとして評価できます。
     平成28(2016)年度にはこの調査成果を活かし、二
    之丸城壁の一部と低石垣が復元されました。
     令和2年10月 赤穂市教育委員会

  • 二の丸門跡

    二の丸門跡

  • 【山鹿素行先生銅像】<br /> 兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(一六二二<br />~一六八五)は、承応元年(一六五二)から万治三年(一六六〇)の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応二年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。<br /> その後、寛文五年(一六六五)に「聖教要録(せいきょうようろく)」の著述が幕府の忌諱(きい)に触れ、翌年から延宝三年(一六七五)まで赤穂に配流(はいる)され、二の丸内の家老大石頼母助(たのものすけ)邸の一隅に謫居(たっきょ)した。<br /> 配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全(しじょくとうたいぜん)」「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」「武家事紀(ぶけじき)」「謫居童問(たっきょとうもん)」など、素行の学問を代表する大著を完成している。<br /> 大正一四年(一九二五)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成一〇年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。<br /> 赤穗義士会(説明板より)

    【山鹿素行先生銅像】
     兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(一六二二
    ~一六八五)は、承応元年(一六五二)から万治三年(一六六〇)の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応二年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。
     その後、寛文五年(一六六五)に「聖教要録(せいきょうようろく)」の著述が幕府の忌諱(きい)に触れ、翌年から延宝三年(一六七五)まで赤穂に配流(はいる)され、二の丸内の家老大石頼母助(たのものすけ)邸の一隅に謫居(たっきょ)した。
     配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全(しじょくとうたいぜん)」「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」「武家事紀(ぶけじき)」「謫居童問(たっきょとうもん)」など、素行の学問を代表する大著を完成している。
     大正一四年(一九二五)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成一〇年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。
     赤穗義士会(説明板より)

  • 国史跡赤穂城跡案内図

    国史跡赤穂城跡案内図

  • 【よみがえる旧赤穂城庭園 二之丸庭園】

    【よみがえる旧赤穂城庭園 二之丸庭園】

  • 【大石頼母助屋敷門(おおいしたのものすけやしきもん)】<br />構造形式<br />薬医門 (一間二戸潜門付)<br />木造 切妻造 本瓦葺<br />主要寸法 <br />桁行三・一八m<br />梁間一・九ーm<br />軒高二・八八m 棟高四・五五m<br /><br /> 大石頼母助良重(よししげ)は、大石内蔵助良雄(くらのすけ よしたか)の大叔父にあたる人物で、家老職にあった。藩主浅野長直(あさのながなお)に重用され、二之丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。山鹿素行(やまがそこう)が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で八年余りを過ごしたという。平成十~十三年にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査によって、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかった。門は、発掘調査によって見つかった遺構に基づきその規模及び構造が検証され、薬医門形式の屋敷門として平成二十一年三月に塾備された。<br /> 赤穂市・赤穂市教育委員会

    【大石頼母助屋敷門(おおいしたのものすけやしきもん)】
    構造形式
    薬医門 (一間二戸潜門付)
    木造 切妻造 本瓦葺
    主要寸法 
    桁行三・一八m
    梁間一・九ーm
    軒高二・八八m 棟高四・五五m

     大石頼母助良重(よししげ)は、大石内蔵助良雄(くらのすけ よしたか)の大叔父にあたる人物で、家老職にあった。藩主浅野長直(あさのながなお)に重用され、二之丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。山鹿素行(やまがそこう)が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で八年余りを過ごしたという。平成十~十三年にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査によって、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかった。門は、発掘調査によって見つかった遺構に基づきその規模及び構造が検証され、薬医門形式の屋敷門として平成二十一年三月に塾備された。
     赤穂市・赤穂市教育委員会

  • 大石頼母助屋敷門<br />二の丸庭園には後ほど行きます。

    大石頼母助屋敷門
    二の丸庭園には後ほど行きます。

  • 赤穂城本丸門と城趾碑

    赤穂城本丸門と城趾碑

  • 定番の写真スポットです。

    定番の写真スポットです。

  • 雲が堀に写って綺麗です。

    雲が堀に写って綺麗です。

  • 【本丸門東の横矢】<br /> 攻め手に対する死角を減らすため、枠線にあたる「横矢」や石垣の「折れ」を多用したことが特徴的です。<br /> 枠線部分の狭間から矢印方向の土橋を通る敵を攻撃することができます。<br /> 敵の軍勢が攻め寄せた際に鉄砲や弓矢で迎撃しやすい工夫が赤穂城の随所にみられます。<br />(本丸門内部の説明板より)

    【本丸門東の横矢】
     攻め手に対する死角を減らすため、枠線にあたる「横矢」や石垣の「折れ」を多用したことが特徴的です。
     枠線部分の狭間から矢印方向の土橋を通る敵を攻撃することができます。
     敵の軍勢が攻め寄せた際に鉄砲や弓矢で迎撃しやすい工夫が赤穂城の随所にみられます。
    (本丸門内部の説明板より)

  • 本丸門東の横矢

    本丸門東の横矢

  • 【国史跡赤穂城跡本丸門(復元)】<br /> 本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治10年代後半の取壊しまでの約230年間存続していました。<br /> 現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。<br /> この平成の復元は、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩(かこうがん)による桝形石垣(ますがたいしがき)、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時の姿によみがえらせています。

    【国史跡赤穂城跡本丸門(復元)】
     本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治10年代後半の取壊しまでの約230年間存続していました。
     現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。
     この平成の復元は、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩(かこうがん)による桝形石垣(ますがたいしがき)、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時の姿によみがえらせています。

  • 本丸門から入ります。

    本丸門から入ります。

  • 本丸門枡形

    本丸門枡形

  • 本丸櫓門

    本丸櫓門

  • 本丸櫓門内部。<br />今日は無料公開の日でした。

    本丸櫓門内部。
    今日は無料公開の日でした。

  • 展示物

    展示物

  • 展示物

    展示物

  • 展示物

    展示物

  • 【本丸庭園施設案内図】<br /> 赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。<br /> 本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、翅橋門(はねばしもん)、厩口門(うまやぐちもん)の3門をもつ。天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓台のうち東北隅櫓台(すみやぐらだい)のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形(よこやますがた)として配されていた。<br /> 平成10年3月 赤穗市教育委員会

    【本丸庭園施設案内図】
     赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。
     本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、翅橋門(はねばしもん)、厩口門(うまやぐちもん)の3門をもつ。天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓台のうち東北隅櫓台(すみやぐらだい)のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形(よこやますがた)として配されていた。
     平成10年3月 赤穗市教育委員会

  • 本丸御殿跡の間取りの上を歩いて天守台へ向かいます。

    本丸御殿跡の間取りの上を歩いて天守台へ向かいます。

  • 天守が築かれなかった天守台。

    天守が築かれなかった天守台。

  • 天守台の石垣は、隅石は算木積みで石の加工は切り込こみ接ぎがメイン。

    天守台の石垣は、隅石は算木積みで石の加工は切り込こみ接ぎがメイン。

  • 天守台を登ります。<br />階段の一段が高いです。

    天守台を登ります。
    階段の一段が高いです。

  • 天守台の上です。

    天守台の上です。

  • 【国史跡 赤穂城跡】<br />赤穂城跡の概説<br /> 赤穂城は、正保二(一六四五)年に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元(一六四八)年より一三年にわたる歳月を費やし、寛文元(一六六ー)年に完成したものです。<br /> 城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、一部、二之丸桝形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とさ<br />れています。城郭の規模は、一〇の隅櫓、一二の諸門があり、曲輪の延長は二、八四七mに及んでいます。塁石、防壁、門、本丸御殿などが整えられ、居城としての威容が示されましたが、天守台のみ築かれて天守は構築されませんでした。<br /> 三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。しかし城郭復興の気運が高まり、大正元(一九ーニ)年には三之丸に赤穂大石神社が建立、大正一四(一九二五)年には二之丸に山鹿素行銅像が建立されるなどしました。<br /> 昭和三(一九二八)年には本丸内に赤穂中学校(後の赤穂高等学校)が竣工されましたが、昭和一五(一九四〇)年には城跡が風致地区に指定され、昭和二七年には都市公園の計画決定、さらに昭和四六(一九七一)年には国史跡に指定され、赤穂城整備が推進されることになりました。また平成一四(二〇〇二)年には、旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)が国名勝に指定され、現在も計画的に警備が図られています。

    【国史跡 赤穂城跡】
    赤穂城跡の概説
     赤穂城は、正保二(一六四五)年に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元(一六四八)年より一三年にわたる歳月を費やし、寛文元(一六六ー)年に完成したものです。
     城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、一部、二之丸桝形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とさ
    れています。城郭の規模は、一〇の隅櫓、一二の諸門があり、曲輪の延長は二、八四七mに及んでいます。塁石、防壁、門、本丸御殿などが整えられ、居城としての威容が示されましたが、天守台のみ築かれて天守は構築されませんでした。
     三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。しかし城郭復興の気運が高まり、大正元(一九ーニ)年には三之丸に赤穂大石神社が建立、大正一四(一九二五)年には二之丸に山鹿素行銅像が建立されるなどしました。
     昭和三(一九二八)年には本丸内に赤穂中学校(後の赤穂高等学校)が竣工されましたが、昭和一五(一九四〇)年には城跡が風致地区に指定され、昭和二七年には都市公園の計画決定、さらに昭和四六(一九七一)年には国史跡に指定され、赤穂城整備が推進されることになりました。また平成一四(二〇〇二)年には、旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)が国名勝に指定され、現在も計画的に警備が図られています。

  • 【赤穂城本丸】<br /> 赤穂城は、藩主御殿のある本丸と、その周囲を取り囲む二之丸、そして北側に曲輪が取り付く三之丸の三つの曲輪によって構成されてます。<br /> 二之丸には二之丸庭園をはじめ馬場や米蔵などがあり、三之丸には城の守りを兼ねて家臣が住んでいました。<br /> 藩主の住んでいた本丸には、本丸御殿南側に大池泉が広がり、御殿の内部から鑑賞することができました。このほか御殿内部の坪庭や、本丸北西部に「くつろぎ」と呼ばれた池泉もあり、藩主の生活を潤しました。<br /> なおこれらの池泉のみならず生活のための水は、すべて約7Km上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われました。<br /><br />【赤穂城天守台からの風景】<br /> 赤穂城の築かれた寛文元(一六六一)年は、江戸開府からすでに六〇年以上経過しており、このころの城郭は防衛の拠点ではなく経済の拠点としての役割を担っていました。赤穂城に天守が築かれず天守台のみとなっているのも、こうしたことが理由の一つとされています。しかし、浅野長直が築いたこの天守台からは、大変素晴らしい眺望を得ることができます。<br /> 当時の赤穂は製塩業が活発化しはじめたころで、近隣地域から製塩技術者を移住させて、東浜塩田の開発を本格化させていました。広大な西浜塩田の開発は森時代を待たなければなりませんが、眼前に広がる穏やかな瀬戸内海とともに、東浜塩田が着々と干拓されていくさまを、藩主は眺めることができたのでしょう。

    【赤穂城本丸】
     赤穂城は、藩主御殿のある本丸と、その周囲を取り囲む二之丸、そして北側に曲輪が取り付く三之丸の三つの曲輪によって構成されてます。
     二之丸には二之丸庭園をはじめ馬場や米蔵などがあり、三之丸には城の守りを兼ねて家臣が住んでいました。
     藩主の住んでいた本丸には、本丸御殿南側に大池泉が広がり、御殿の内部から鑑賞することができました。このほか御殿内部の坪庭や、本丸北西部に「くつろぎ」と呼ばれた池泉もあり、藩主の生活を潤しました。
     なおこれらの池泉のみならず生活のための水は、すべて約7Km上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われました。

    【赤穂城天守台からの風景】
     赤穂城の築かれた寛文元(一六六一)年は、江戸開府からすでに六〇年以上経過しており、このころの城郭は防衛の拠点ではなく経済の拠点としての役割を担っていました。赤穂城に天守が築かれず天守台のみとなっているのも、こうしたことが理由の一つとされています。しかし、浅野長直が築いたこの天守台からは、大変素晴らしい眺望を得ることができます。
     当時の赤穂は製塩業が活発化しはじめたころで、近隣地域から製塩技術者を移住させて、東浜塩田の開発を本格化させていました。広大な西浜塩田の開発は森時代を待たなければなりませんが、眼前に広がる穏やかな瀬戸内海とともに、東浜塩田が着々と干拓されていくさまを、藩主は眺めることができたのでしょう。

  • 天守台からの眺望。<br />本丸御殿跡が見えます。<br /><br />【本丸御殿跡】<br />絵図の記載から、畳や板間などを原寸大の規模で示し、間取を復元している。(パンフレットより)

    天守台からの眺望。
    本丸御殿跡が見えます。

    【本丸御殿跡】
    絵図の記載から、畳や板間などを原寸大の規模で示し、間取を復元している。(パンフレットより)

  • 天守台からの眺望。<br />庭園と大池泉が見えます。

    天守台からの眺望。
    庭園と大池泉が見えます。

  • 翅橋門(はねばしもん)跡<br />藩邸の裏手にある門で開閉式の翅橋が架かっていた。

    翅橋門(はねばしもん)跡
    藩邸の裏手にある門で開閉式の翅橋が架かっていた。

  • 翅橋門跡

    翅橋門跡

  • 【厩口門うまやぐちもん(台所門)】<br />構造形式 高麗門 木造 切妻造 本瓦葺<br />主要寸法<br /> 桁行三・ハ五m 梁間二・七三m<br /> 軒高四・六六m 棟高六・一三m<br /><br /> 浅野家時代には「厩口門」、森家時代には「台所門」と呼ばれていた。廃城後に失われ、後には県立赤穂高等学校の通用門として周辺石垣も改変されていた。<br /> 平成八年(一九九六)に実施した発掘調査によって、門の礎石・地覆石(じふくいし)などが良好な状態で見つかり、高麗門形式の門であったことが判明した。また、絵図史料などから、本丸門の高麗門と同規模であったことが分かっており、発掘遺構ともよく合致している。<br /> これらの資料をもとに、平成八~一三年(一九九六~二〇〇一)に門、橋、土塀及び周辺石垣が復元整備された。また、門に向かって左の石垣は曲面を描き、さらに横矢枡形を設けるなど、その縄張は大きな見所となっている。<br /> 赤穂市・赤穂市教育委員会<br />(説明板より)

    【厩口門うまやぐちもん(台所門)】
    構造形式 高麗門 木造 切妻造 本瓦葺
    主要寸法
     桁行三・ハ五m 梁間二・七三m
     軒高四・六六m 棟高六・一三m

     浅野家時代には「厩口門」、森家時代には「台所門」と呼ばれていた。廃城後に失われ、後には県立赤穂高等学校の通用門として周辺石垣も改変されていた。
     平成八年(一九九六)に実施した発掘調査によって、門の礎石・地覆石(じふくいし)などが良好な状態で見つかり、高麗門形式の門であったことが判明した。また、絵図史料などから、本丸門の高麗門と同規模であったことが分かっており、発掘遺構ともよく合致している。
     これらの資料をもとに、平成八~一三年(一九九六~二〇〇一)に門、橋、土塀及び周辺石垣が復元整備された。また、門に向かって左の石垣は曲面を描き、さらに横矢枡形を設けるなど、その縄張は大きな見所となっている。
     赤穂市・赤穂市教育委員会
    (説明板より)

  • 厩口門(台所門)

    厩口門(台所門)

  • 本丸南側石垣<br />赤穂城は横矢を意識した縄張で折れが沢山ある。

    本丸南側石垣
    赤穂城は横矢を意識した縄張で折れが沢山ある。

  • 翅橋門跡

    翅橋門跡

  • 本丸東北隅櫓台<br />本丸東北隅櫓は本丸に唯一あった櫓だった。

    本丸東北隅櫓台
    本丸東北隅櫓は本丸に唯一あった櫓だった。

  • お花見広場

    お花見広場

  • 【水手門(みずのてもん)】<br /> 瀬戸内海には、三原城や高松城など、海や川を巧みに取り入れて防御や水運を利用した平城の海城が多数みられます。<br /> かつて赤穂城は、古絵図に見られるように、東に熊見川(現在の千種川)、南はヨシ原が広がる干潟に面しており、満潮時には海水が石垣まで迫っていました。<br /> 水手門には、物資を運んできた船を泊めるための「船着場の雁木」や船を波から守る「突堤(波止場)」など、海城の特徴を伝える貴重な施設が、発掘調査などに基づき復元されています。ここから般入された米などの物資は、二の丸内の蔵に蓄えられ、藩の財政をささえたのです。

    【水手門(みずのてもん)】
     瀬戸内海には、三原城や高松城など、海や川を巧みに取り入れて防御や水運を利用した平城の海城が多数みられます。
     かつて赤穂城は、古絵図に見られるように、東に熊見川(現在の千種川)、南はヨシ原が広がる干潟に面しており、満潮時には海水が石垣まで迫っていました。
     水手門には、物資を運んできた船を泊めるための「船着場の雁木」や船を波から守る「突堤(波止場)」など、海城の特徴を伝える貴重な施設が、発掘調査などに基づき復元されています。ここから般入された米などの物資は、二の丸内の蔵に蓄えられ、藩の財政をささえたのです。

  • 水手門

    水手門

  • 水手門

    水手門

  • 【米蔵(こめぐら)】

    【米蔵(こめぐら)】

  • 復元した米蔵は、休憩所とトイレになっています。

    復元した米蔵は、休憩所とトイレになっています。

  • 【西仕切門】<br />構造形式<br /> 棟門 (一間一戸港門付)木造<br /> 切妻造 本瓦葺<br />主要寸法<br /> 桁行三・〇三m<br /> 梁間一・〇八m<br /> 軒高三・三三m<br /> 棟高四・六二m<br /><br /> 西仕切は二之丸を南北に二分する城壁で、低い石垣の上に土塀が巡らされていた。門は西仕切が屈折した部分に設けられており、発掘調査の結果、控柱付きの棟門であったことが判明した。この西仕切門は、文献史料や絵図などによれば「透シ門」などとも呼ばれていることから、門扉の一部に横板を張らない構造であったことがわかっている。こうした城門の構造は、戦の際に扉の縦格子から門前の敵兵の様子をうかがい、攻撃を加えるための工夫と言われ、松山城や熊本城をはじめ近世城郭にしばしば用いられていた。平成二十二年(二〇〇九)三月に復元された。<br /> 赤穂市・赤穂市教育委員会

    【西仕切門】
    構造形式
     棟門 (一間一戸港門付)木造
     切妻造 本瓦葺
    主要寸法
     桁行三・〇三m
     梁間一・〇八m
     軒高三・三三m
     棟高四・六二m

     西仕切は二之丸を南北に二分する城壁で、低い石垣の上に土塀が巡らされていた。門は西仕切が屈折した部分に設けられており、発掘調査の結果、控柱付きの棟門であったことが判明した。この西仕切門は、文献史料や絵図などによれば「透シ門」などとも呼ばれていることから、門扉の一部に横板を張らない構造であったことがわかっている。こうした城門の構造は、戦の際に扉の縦格子から門前の敵兵の様子をうかがい、攻撃を加えるための工夫と言われ、松山城や熊本城をはじめ近世城郭にしばしば用いられていた。平成二十二年(二〇〇九)三月に復元された。
     赤穂市・赤穂市教育委員会

  • 西仕切門

    西仕切門

  • 二の丸庭園

    二の丸庭園

  • 二の丸庭園<br /><br />篠山城跡もそうでしたが、赤穂城跡もよく整備されていてとても綺麗で立派です。<br />庭園は広くて気持ちがよく、池にはカメやサカナもいました。

    二の丸庭園

    篠山城跡もそうでしたが、赤穂城跡もよく整備されていてとても綺麗で立派です。
    庭園は広くて気持ちがよく、池にはカメやサカナもいました。

  • 塩谷門跡にあった赤穂城址碑と赤穂城の説明板

    塩谷門跡にあった赤穂城址碑と赤穂城の説明板

  • 【赤穂城 塩屋門跡】<br /> 塩屋門は、赤穂城三之丸の西に開かれた門で搦手にあたる。枡形と高麗門で構成され、高麗門は口幅二間二歩 、高さ二間半、建坪五坪の規模であった。枡形内には太鼓櫓があり、門外の侍屋敷に向けて合図を発した。またこの門の南には、東西三間半南北四間半の基底部をもつ二重櫓があった。枡形の石垣はよく残り、枡形内部の雁木坂や枡形外面の複雑な石垣の折れなど、特徴ある構造を見ることができる。<br /> 元禄十四年( 一七〇一 ) 二月十九日に藩主浅野長矩の刃傷、切腹を知らせる第一(早水藤左衛門 、萱野三平) ・ 第二 (原惣右衛門、大石瀬左衛門)の早使が入ったのがこの門であり、四月十九日城請取りの備中足守藩主木下肥後守の軍勢がこの門から入城したことで知られる。<br /> 赤穂義士会

    【赤穂城 塩屋門跡】
     塩屋門は、赤穂城三之丸の西に開かれた門で搦手にあたる。枡形と高麗門で構成され、高麗門は口幅二間二歩 、高さ二間半、建坪五坪の規模であった。枡形内には太鼓櫓があり、門外の侍屋敷に向けて合図を発した。またこの門の南には、東西三間半南北四間半の基底部をもつ二重櫓があった。枡形の石垣はよく残り、枡形内部の雁木坂や枡形外面の複雑な石垣の折れなど、特徴ある構造を見ることができる。
     元禄十四年( 一七〇一 ) 二月十九日に藩主浅野長矩の刃傷、切腹を知らせる第一(早水藤左衛門 、萱野三平) ・ 第二 (原惣右衛門、大石瀬左衛門)の早使が入ったのがこの門であり、四月十九日城請取りの備中足守藩主木下肥後守の軍勢がこの門から入城したことで知られる。
     赤穂義士会

  • 塩屋門<br /> 赤穂城は、浅野長直が慶安元年(1648)から13年をかけて寛文元年(1661)に完成させた海岸平城である。ここ塩屋門は赤穂城の搦手の門として配され高麗門1門からなる。その規模は間口約4m、建築面積約16.5mであったという。門を入ると内部は内枡形をなし、門正面には高さ4.5mの枡形石垣、左手は雁木となり、城内 は右手方向へ進路をとる。枡形内には番所と太鼓櫓があり、この櫓から塩屋門の周辺に屋敷を構える藩士への合図を発した。<br /> 左の写真は、明治10年代頃に写された塩屋門である。中央やや左に高麗門の門構えが、左端には太鼓櫓が見える。右奥の建物は二重の隅櫓で、1層目に唐破風付きの出窓を備えている。その規模は基底部で東西約6.9m·南北約8.8と伝えられる。<br /> 平成11年10月 赤穂市教育委員会

    塩屋門
     赤穂城は、浅野長直が慶安元年(1648)から13年をかけて寛文元年(1661)に完成させた海岸平城である。ここ塩屋門は赤穂城の搦手の門として配され高麗門1門からなる。その規模は間口約4m、建築面積約16.5mであったという。門を入ると内部は内枡形をなし、門正面には高さ4.5mの枡形石垣、左手は雁木となり、城内 は右手方向へ進路をとる。枡形内には番所と太鼓櫓があり、この櫓から塩屋門の周辺に屋敷を構える藩士への合図を発した。
     左の写真は、明治10年代頃に写された塩屋門である。中央やや左に高麗門の門構えが、左端には太鼓櫓が見える。右奥の建物は二重の隅櫓で、1層目に唐破風付きの出窓を備えている。その規模は基底部で東西約6.9m·南北約8.8と伝えられる。
     平成11年10月 赤穂市教育委員会

  • 良寛の歌碑が立っています。

    良寛の歌碑が立っています。

  • 塩屋門から大石神社に向かう道沿いには藩士たちの屋敷跡が道の両脇にありました。説明板を読んでいると年末に毎年放映されていた忠臣蔵のシーンを思い出します。<br /><br />【大野九郎兵衛宅跡】<br /> 大野九郎兵衛知房は、赤穂浅野家家老の一人で禄高は六百五十石であった。経済手腕を認められて召し抱えられたといわれている。<br /> 元禄十四年(一七〇一) 三月、浅野長矩の殿中刃傷事件の後、筆頭家老大石内蔵助や足軽頭原惣右衛門らと意見を異にし、赤穂城開城前の四月一二日に夜蔭(やいん)にまぎれて赤穂から出奔(しゅっぽん)した。<br /> 大石内蔵助らが討入りに失敗した場合の第二陣として備えていたという伝承もあり、その墓碑と称するものが全国に数ヶ所ある。しかし実際には京都付近で世を去り、黒谷に葬られたという。<br /> ちなみに、仮名手本忠臣蔵では九郎兵衛を斤九太夫(おのくだゆう)に、忰(せがれ)、郡右衛門(ぐんえもん)を定九郎(さだくろう)に擬(ぎ)している。<br /> 赤穂義士会

    塩屋門から大石神社に向かう道沿いには藩士たちの屋敷跡が道の両脇にありました。説明板を読んでいると年末に毎年放映されていた忠臣蔵のシーンを思い出します。

    【大野九郎兵衛宅跡】
     大野九郎兵衛知房は、赤穂浅野家家老の一人で禄高は六百五十石であった。経済手腕を認められて召し抱えられたといわれている。
     元禄十四年(一七〇一) 三月、浅野長矩の殿中刃傷事件の後、筆頭家老大石内蔵助や足軽頭原惣右衛門らと意見を異にし、赤穂城開城前の四月一二日に夜蔭(やいん)にまぎれて赤穂から出奔(しゅっぽん)した。
     大石内蔵助らが討入りに失敗した場合の第二陣として備えていたという伝承もあり、その墓碑と称するものが全国に数ヶ所ある。しかし実際には京都付近で世を去り、黒谷に葬られたという。
     ちなみに、仮名手本忠臣蔵では九郎兵衛を斤九太夫(おのくだゆう)に、忰(せがれ)、郡右衛門(ぐんえもん)を定九郎(さだくろう)に擬(ぎ)している。
     赤穂義士会

  • 【間瀬久太夫宅跡】<br /><br />【間瀬久太夫正明】<br />大目付 二百石・役料十石<br />表門組 行年六十三歳<br /> 間瀬(ませ)家は、久太夫(きゅうだゆう)の父の代から浅野家に仕えた。久太夫は大目付を務め、厳格・実直な人柄であったという。小野寺十内(おのでらじゅうない)は従弟(いとこ)、中村勘助は甥である。江戸潜伏期に用いた変名三橋浄貞(みつはしじょうてい)は祖父の姓にちなんでいる。<br /> 浅野長矩(あさのながのり)の従弟である大垣藩主戸田氏定(とだうじさだ)より城明け渡しが済むまでの居残りの面々に指名され、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)らと責務をまっとうした。<br /> 開城後は加東郡に移っていたが、元禄十五年(一七〇一)七月二十八日、京都円山で会議が行われたとき、嫡男孫九郎(ちゃくなんまごくろう)とともに出席し、大石がなかなか討入りの決意を示さないので、堀部弥兵衛(ほりべやへえ)・小野寺十内らを含む「老年の者たちだけでも討入りする」と意見し、大石に決断を促した。九月には大石主税に従って大石瀬左衛門らとともに江戸に下っている。<br />討入りのときは、大石・原惣右衛門(はらそうえもん)とともに表門内を固めた。細川家での切腹の際、「腹をこわしているので粗相をしかねない。その点承知を」と断っている。介錯人は本庄喜助(ほんじょうきすけ)。<br /> なお、二男の定八は、父・兄の累刑で伊豆大島へ流され、遠島中の宝永二年(一七〇五)二十二歳の若さで死去した。<br /> 赤穂義士会

    【間瀬久太夫宅跡】

    【間瀬久太夫正明】
    大目付 二百石・役料十石
    表門組 行年六十三歳
     間瀬(ませ)家は、久太夫(きゅうだゆう)の父の代から浅野家に仕えた。久太夫は大目付を務め、厳格・実直な人柄であったという。小野寺十内(おのでらじゅうない)は従弟(いとこ)、中村勘助は甥である。江戸潜伏期に用いた変名三橋浄貞(みつはしじょうてい)は祖父の姓にちなんでいる。
     浅野長矩(あさのながのり)の従弟である大垣藩主戸田氏定(とだうじさだ)より城明け渡しが済むまでの居残りの面々に指名され、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)らと責務をまっとうした。
     開城後は加東郡に移っていたが、元禄十五年(一七〇一)七月二十八日、京都円山で会議が行われたとき、嫡男孫九郎(ちゃくなんまごくろう)とともに出席し、大石がなかなか討入りの決意を示さないので、堀部弥兵衛(ほりべやへえ)・小野寺十内らを含む「老年の者たちだけでも討入りする」と意見し、大石に決断を促した。九月には大石主税に従って大石瀬左衛門らとともに江戸に下っている。
    討入りのときは、大石・原惣右衛門(はらそうえもん)とともに表門内を固めた。細川家での切腹の際、「腹をこわしているので粗相をしかねない。その点承知を」と断っている。介錯人は本庄喜助(ほんじょうきすけ)。
     なお、二男の定八は、父・兄の累刑で伊豆大島へ流され、遠島中の宝永二年(一七〇五)二十二歳の若さで死去した。
     赤穂義士会

  • 【神尾專右衛門(かみおせんえもん)屋敷跡】<br /> 素性は不明で、元禄十五年(一七〇二)十一月四<br />日に赤穂城の在番であった龍野藩主脇坂淡路守安照(<br />わきさかあわじのかみやすてる)(受城使)が永井伊賀守直敬(ながいいがのかみなおひろ)(浅野家断絶後の藩主)に渡した「赤穂城内侍屋敷関数図」しかわからず詳細は不詳である。<br /> なお、神尾専右衛門は、元禄十三年二月二十七日<br />付けの浅野家分限帳に神尾弥左(右)衛門(高瀬運<br />上奉行、十分横目、七両三人)が見受けられるが、城内屋敷地は重臣宅が多く、同一人物かどうか疑問が残る。<br /> 屋敷は塩屋門を入り右手側にあり、表口十四間程<br />(約二十五・四m)、奥行二十四間程(約四十三・六m)の広さで、他に菅仙右衛門(すがせんえもん)(二百五十石、札座奉行、奥野将監組)や磯貝十郎左衛門正久(いそがいじゅうろうざえもんまさひさ)(百五十石、用人)屋敷と記された絵図もある。<br /> 赤穂市教育委員会

    【神尾專右衛門(かみおせんえもん)屋敷跡】
     素性は不明で、元禄十五年(一七〇二)十一月四
    日に赤穂城の在番であった龍野藩主脇坂淡路守安照(
    わきさかあわじのかみやすてる)(受城使)が永井伊賀守直敬(ながいいがのかみなおひろ)(浅野家断絶後の藩主)に渡した「赤穂城内侍屋敷関数図」しかわからず詳細は不詳である。
     なお、神尾専右衛門は、元禄十三年二月二十七日
    付けの浅野家分限帳に神尾弥左(右)衛門(高瀬運
    上奉行、十分横目、七両三人)が見受けられるが、城内屋敷地は重臣宅が多く、同一人物かどうか疑問が残る。
     屋敷は塩屋門を入り右手側にあり、表口十四間程
    (約二十五・四m)、奥行二十四間程(約四十三・六m)の広さで、他に菅仙右衛門(すがせんえもん)(二百五十石、札座奉行、奥野将監組)や磯貝十郎左衛門正久(いそがいじゅうろうざえもんまさひさ)(百五十石、用人)屋敷と記された絵図もある。
     赤穂市教育委員会

  • 【田中貞四郎(たなかさだしろう)屋敷跡】<br />手廻頭 百五十石<br />玉虫七郎右衛門組 小納戸役<br /> 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)<br />の側近。主君内匠頭の遺骸を引き取って、田村邸から高輪泉缶寺(たかなわせんがくじ)まで見送った六人の藩士の一人。藩主内匠頭の用人である片岡源五右衛門高房(かたおかげんごえもんたかふさ)らとともに髻(もとどり)を切り落として、主君への殉死の意を示すと共に吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ(よしなか))への復讐を誓った家臣である。初め討ち入りの企てに加盟していたが、直前の元禄十五年(一七〇二)十一月七日になって脱落した。江戸における代え名は、田中玄四。<br /> 屋敷は塩屋門を入り左手の間瀬久太夫(ませきゅうたゆう)宅東隣りにあり、表口(おもてぐち)十四間程(約二十五・四m)、奥行十七間半程(約三十一・八m)の広さであった。<br /> 赤穂市教育委員会

    【田中貞四郎(たなかさだしろう)屋敷跡】
    手廻頭 百五十石
    玉虫七郎右衛門組 小納戸役
     浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)
    の側近。主君内匠頭の遺骸を引き取って、田村邸から高輪泉缶寺(たかなわせんがくじ)まで見送った六人の藩士の一人。藩主内匠頭の用人である片岡源五右衛門高房(かたおかげんごえもんたかふさ)らとともに髻(もとどり)を切り落として、主君への殉死の意を示すと共に吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ(よしなか))への復讐を誓った家臣である。初め討ち入りの企てに加盟していたが、直前の元禄十五年(一七〇二)十一月七日になって脱落した。江戸における代え名は、田中玄四。
     屋敷は塩屋門を入り左手の間瀬久太夫(ませきゅうたゆう)宅東隣りにあり、表口(おもてぐち)十四間程(約二十五・四m)、奥行十七間半程(約三十一・八m)の広さであった。
     赤穂市教育委員会

  • 【磯貝十郎左衛門正久(いそがいじゅうろうざえもんまさひさ)】<br />物頭 側用人 百五十石<br />裏門組 行年二十五歳<br /> 十郎左衛門は、旗本松平隼人正(まつだいらはやとのしょう)の家臣、磯貝権左衛門の三男として江戸で生まれた。生まれついての美男子で、幼いころから能や琴などの遊芸に優れ、ことに鼓の妙手であったという。<br /> 京都愛宕山教学院(あたごやまきょうがくいん)の稚児小姓(ちごこしょう)となっていたが、十四のとき、父権左衛門と懇意であった堀部弥兵衛の推挙で浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)公の小姓となった。長矩公は、この聡明な美少年をことのほか寵愛したという。十郎左衛門は、次第に重用され、十年の間に物頭(ものがしら)にまで進み、百五十石を給されるまでになる。この間、児小姓(こごしょう)頭であった片岡減五右衛門とは特に親しく、年齢の差を越えて刎頸(ふんけい)の交わりをしたと伝えられ、元禄十四年(一七〇一)三月十四日の長矩公切腹以後、常に源五右衛門と行動を共にした。<br /> 討ち入りのときは、裏門組に属し、手槍を揮(ふる)って活躍した。細川家にお預けののち、吉富五左衛門(よしとみござえもん)の介錯で切腹したが、死後、遺品のなかに、紫縮緬(ちりめん)の袱紗(ふくさ)に包まれた琴の爪が一つあったという。<br /> 赤穗義士会

    【磯貝十郎左衛門正久(いそがいじゅうろうざえもんまさひさ)】
    物頭 側用人 百五十石
    裏門組 行年二十五歳
     十郎左衛門は、旗本松平隼人正(まつだいらはやとのしょう)の家臣、磯貝権左衛門の三男として江戸で生まれた。生まれついての美男子で、幼いころから能や琴などの遊芸に優れ、ことに鼓の妙手であったという。
     京都愛宕山教学院(あたごやまきょうがくいん)の稚児小姓(ちごこしょう)となっていたが、十四のとき、父権左衛門と懇意であった堀部弥兵衛の推挙で浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)公の小姓となった。長矩公は、この聡明な美少年をことのほか寵愛したという。十郎左衛門は、次第に重用され、十年の間に物頭(ものがしら)にまで進み、百五十石を給されるまでになる。この間、児小姓(こごしょう)頭であった片岡減五右衛門とは特に親しく、年齢の差を越えて刎頸(ふんけい)の交わりをしたと伝えられ、元禄十四年(一七〇一)三月十四日の長矩公切腹以後、常に源五右衛門と行動を共にした。
     討ち入りのときは、裏門組に属し、手槍を揮(ふる)って活躍した。細川家にお預けののち、吉富五左衛門(よしとみござえもん)の介錯で切腹したが、死後、遺品のなかに、紫縮緬(ちりめん)の袱紗(ふくさ)に包まれた琴の爪が一つあったという。
     赤穗義士会

  • 【寺井玄渓(てらいげんけい)屋敷跡】<br />藩医 三百石十五人扶持<br /> 元禄十三年(一七〇〇)京都で町医者をしている時、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)に見出され、藩医として召し抱えられる。元禄十四年(一七〇一)三月十四日の刃傷時は二年足らずの新参家臣であったが、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)とは意を同じく討ち入りの企てに参画をし、再び京都で町医を開業した。元禄十五年(一七〇二)七月二十八日の円山会議で決定した江戸への下向は、息子玄達を同行させた。吉良討ち入りの前後、赤穂義士とも親交が厚かったせいか、手紙のやり取りが多く残されている。<br /> 屋敷は、表口(おもてぐち)十四間程(約二十五・四m)、奥行十九間半程(約三十五・四m)の広さであった。また、この地とは別に間瀬久太夫(ませきゅうだゆう)宅とお互い入れ代わった絵図や刈部弥二郎宅と記された絵図もある。<br /> 赤穂市教育委員会

    【寺井玄渓(てらいげんけい)屋敷跡】
    藩医 三百石十五人扶持
     元禄十三年(一七〇〇)京都で町医者をしている時、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)に見出され、藩医として召し抱えられる。元禄十四年(一七〇一)三月十四日の刃傷時は二年足らずの新参家臣であったが、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)とは意を同じく討ち入りの企てに参画をし、再び京都で町医を開業した。元禄十五年(一七〇二)七月二十八日の円山会議で決定した江戸への下向は、息子玄達を同行させた。吉良討ち入りの前後、赤穂義士とも親交が厚かったせいか、手紙のやり取りが多く残されている。
     屋敷は、表口(おもてぐち)十四間程(約二十五・四m)、奥行十九間半程(約三十五・四m)の広さであった。また、この地とは別に間瀬久太夫(ませきゅうだゆう)宅とお互い入れ代わった絵図や刈部弥二郎宅と記された絵図もある。
     赤穂市教育委員会

  • 片岡源五右衛門宅趾<br /><br />【片岡源五右衛門高房】<br />用人 三百五十石<br />表門隊 行年三十七歳<br /><br /> 父は尾張徳川家家臣の熊井重次郎(くまいじゅうじろう)で、八歳の時に浅野家家臣片岡六左衛門(かたおかろくざえもん)の養子となった。主君浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)と同年齢で、効い頃から側近くに仕えた、俸禄は初め百石であったが、幾度かの加増の後、三百五十石にまでなっている。<br /> 内匠頭は、田村邸での切腹の時、源五右衛門(げんごえもん)と磯貝十郎左衛門(いそがいじゅうろうざえもん)に「このことはかねてから知らせておくべきであったが、今日はやむをえない事情があったので知らせなかった。不審に思うことであろう」との言葉を遺した。切腹後、源五右衛門は磯貝らと田村邸に遺骸を引き取り、泉岳寺へ葬送している。<br /> 赤穂開城後は、大石内蔵助(くらのすけ)らのグループや堀部安兵衛(ほりべやすべえ)ら江戸の急進派とも距離を置き、一途に亡君の仇討ちだけを考えていた。大石らが討入りに向けて動き出してようやく同志に加わった。<br /> 討入りは表門隊に属し、富森助右衛門(とみのもりすけえもん)、竹林唯七(たけばやしただしち)とともに朱柄の槍を携えて屋敷内に踏み込んだ。細川家にお預けの後、二宮新右衛門(にのみやしんえもん)の介錯(かいしゃく)で切腹した。<br /> 赤穂義士会<br />(説明板より)

    片岡源五右衛門宅趾

    【片岡源五右衛門高房】
    用人 三百五十石
    表門隊 行年三十七歳

     父は尾張徳川家家臣の熊井重次郎(くまいじゅうじろう)で、八歳の時に浅野家家臣片岡六左衛門(かたおかろくざえもん)の養子となった。主君浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)と同年齢で、効い頃から側近くに仕えた、俸禄は初め百石であったが、幾度かの加増の後、三百五十石にまでなっている。
     内匠頭は、田村邸での切腹の時、源五右衛門(げんごえもん)と磯貝十郎左衛門(いそがいじゅうろうざえもん)に「このことはかねてから知らせておくべきであったが、今日はやむをえない事情があったので知らせなかった。不審に思うことであろう」との言葉を遺した。切腹後、源五右衛門は磯貝らと田村邸に遺骸を引き取り、泉岳寺へ葬送している。
     赤穂開城後は、大石内蔵助(くらのすけ)らのグループや堀部安兵衛(ほりべやすべえ)ら江戸の急進派とも距離を置き、一途に亡君の仇討ちだけを考えていた。大石らが討入りに向けて動き出してようやく同志に加わった。
     討入りは表門隊に属し、富森助右衛門(とみのもりすけえもん)、竹林唯七(たけばやしただしち)とともに朱柄の槍を携えて屋敷内に踏み込んだ。細川家にお預けの後、二宮新右衛門(にのみやしんえもん)の介錯(かいしゃく)で切腹した。
     赤穂義士会
    (説明板より)

  • 【赤穂大石神社】<br />大正元年、大石内蔵助良雄をはじめ、四十七義士と萱野三平を合祀して創建された。国指定史跡を一部含む境内には大石邸長屋門や庭園・義士ゆかりの武具・書画などを展示している義士宝物殿がある。また義士木像奉安殿には浅野公、四十七義士の木像が展示されている。

    【赤穂大石神社】
    大正元年、大石内蔵助良雄をはじめ、四十七義士と萱野三平を合祀して創建された。国指定史跡を一部含む境内には大石邸長屋門や庭園・義士ゆかりの武具・書画などを展示している義士宝物殿がある。また義士木像奉安殿には浅野公、四十七義士の木像が展示されている。

    赤穂大石神社 寺・神社・教会

  • 赤穂大石神社の本殿と拝殿は、1912年(大正元年)に建立。

    赤穂大石神社の本殿と拝殿は、1912年(大正元年)に建立。

  • 四十七義士を祀る<br />大願成就の神赤穂大石神社<br /><br />ご祭神<br />義士の統領大石内蔵助良雄命を始め、四十七義士命、中折の烈士萱野三平命<br />播州赤穂城主浅野内匠頭長直・采女正長友・内匠頭長矩の三候<br />浅野家断絶後の藩主森家の可成・長可・忠政・可隆・蘭丸・坊丸・カ丸の七

    四十七義士を祀る
    大願成就の神赤穂大石神社

    ご祭神
    義士の統領大石内蔵助良雄命を始め、四十七義士命、中折の烈士萱野三平命
    播州赤穂城主浅野内匠頭長直・采女正長友・内匠頭長矩の三候
    浅野家断絶後の藩主森家の可成・長可・忠政・可隆・蘭丸・坊丸・カ丸の七

  • 武家屋敷公園<br />(坂田式右衛門屋敷跡)

    武家屋敷公園
    (坂田式右衛門屋敷跡)

  • 武家屋敷公園

    武家屋敷公園

  • 【赤穂城 清水門跡】<br /> 清水門(しみずもん)は、赤穂城三之丸の東に開かれた門で、川口門とも呼ばれ、幅二間二歩、奥行七尺七寸、建坪四坪の規模であった。<br /> 門を出ると板橋があり、付近には熊見川(千種川本流の古称)沿いに蔵屋敷(米蔵)、川口番所、御薬煙場があった。また、門の南の石塁と二之丸東北隅櫓(すみやぐら)との間の二之丸堀には、敵兵の侵入を防ぐために六間一尺五寸の柵も設けられていた。<br /> なおこの門は、元禄十四年(一七〇一)四月十九日に幕府に城を明け渡した後、大石内蔵助が名残を惜しみつつ退去したことで知られている。<br /> 赤穂義士会

    【赤穂城 清水門跡】
     清水門(しみずもん)は、赤穂城三之丸の東に開かれた門で、川口門とも呼ばれ、幅二間二歩、奥行七尺七寸、建坪四坪の規模であった。
     門を出ると板橋があり、付近には熊見川(千種川本流の古称)沿いに蔵屋敷(米蔵)、川口番所、御薬煙場があった。また、門の南の石塁と二之丸東北隅櫓(すみやぐら)との間の二之丸堀には、敵兵の侵入を防ぐために六間一尺五寸の柵も設けられていた。
     なおこの門は、元禄十四年(一七〇一)四月十九日に幕府に城を明け渡した後、大石内蔵助が名残を惜しみつつ退去したことで知られている。
     赤穂義士会

  • 清水門跡

    清水門跡

  • 二之丸東北隅櫓台

    二之丸東北隅櫓台

  • 【赤穂市立歴史博物館】<br />愛称を”塩と義士の館”と呼び、赤穂の塩、赤穂の城と城下町、赤穂義士、旧赤穂上水道の4つをテーマとして郷土の歴史関係資料を多数展示。塩作りの歴史を系統的に見ることができ、また「忠臣蔵」を史実のみならず、演劇、絵画をはじめとする文化的側面からもとらえる。

    【赤穂市立歴史博物館】
    愛称を”塩と義士の館”と呼び、赤穂の塩、赤穂の城と城下町、赤穂義士、旧赤穂上水道の4つをテーマとして郷土の歴史関係資料を多数展示。塩作りの歴史を系統的に見ることができ、また「忠臣蔵」を史実のみならず、演劇、絵画をはじめとする文化的側面からもとらえる。

    赤穂市立歴史博物館 美術館・博物館

  • 大手門を通って来た道へ戻ります。

    大手門を通って来た道へ戻ります。

  • 【旧赤穂上水道 城内への配水】

    【旧赤穂上水道 城内への配水】

  • 【息継ぎ井戸】<br />早水藤左衛門、萱野三平の両士が、早かごで主君刃傷の凶報をもって江戸より駆けつけた際この井戸で一息ついて城内に入った。これが天下に誇る日本三大上水道の一つ赤穂藩上水道の給水井戸(枡)である。

    【息継ぎ井戸】
    早水藤左衛門、萱野三平の両士が、早かごで主君刃傷の凶報をもって江戸より駆けつけた際この井戸で一息ついて城内に入った。これが天下に誇る日本三大上水道の一つ赤穂藩上水道の給水井戸(枡)である。

    息継ぎ井戸 名所・史跡

  • 息継ぎ井戸の隣にある【からくり時計・義士あんどん】

    息継ぎ井戸の隣にある【からくり時計・義士あんどん】

    義士あんどん 名所・史跡

  • 100名城スタンプは本丸櫓門下に設置されています。<br />デザインは本丸門の枡形を上から見た図になります。

    100名城スタンプは本丸櫓門下に設置されています。
    デザインは本丸門の枡形を上から見た図になります。

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