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行った回数を1回多く書いてしまったので修正しました。もしも新規に更新されてしまったら申しわけございませんm(_ _)m<br /><br />日本100名城巡り<br />☆47城目☆篠山城(No.57)<br /><br />兵庫県の100名城は、竹田城、篠山城、明石城、姫路城、赤穂城の5城です。<br /><br />近畿地方の100名城(スタンプ済には◯)<br />49 小谷城(滋賀県長浜市)◯<br />50 彦根城(滋賀県彦根市)◯<br />51 安土城(滋賀県近江八幡市)◯<br />52 観音寺城(滋賀県近江八幡市)◯<br />53 二条城(京都府京都市)◯<br />54 大阪城(大阪府大阪市)◯<br />55 千早城(大阪府千早赤阪村)◯<br />56 竹田城(兵庫県朝来市)◯<br />57 篠山城(兵庫県丹波篠山市)◯<br />58 明石城(兵庫県明石市)◯<br />59 姫路城(兵庫県姫路市)◯<br />60 赤穂城(兵庫県赤穂市)<br />61 高取城(奈良県高市郡)◯<br />62 和歌山城(和歌山県和歌山市)◯

篠山城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻

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2022/05/15 - 2022/05/15

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旅行記グループ 日本100名城(2)2019年から

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ケー

ケーさん

行った回数を1回多く書いてしまったので修正しました。もしも新規に更新されてしまったら申しわけございませんm(_ _)m

日本100名城巡り
☆47城目☆篠山城(No.57)

兵庫県の100名城は、竹田城、篠山城、明石城、姫路城、赤穂城の5城です。

近畿地方の100名城(スタンプ済には◯)
49 小谷城(滋賀県長浜市)◯
50 彦根城(滋賀県彦根市)◯
51 安土城(滋賀県近江八幡市)◯
52 観音寺城(滋賀県近江八幡市)◯
53 二条城(京都府京都市)◯
54 大阪城(大阪府大阪市)◯
55 千早城(大阪府千早赤阪村)◯
56 竹田城(兵庫県朝来市)◯
57 篠山城(兵庫県丹波篠山市)◯
58 明石城(兵庫県明石市)◯
59 姫路城(兵庫県姫路市)◯
60 赤穂城(兵庫県赤穂市)
61 高取城(奈良県高市郡)◯
62 和歌山城(和歌山県和歌山市)◯

  • 2022年5月15日<br /><br />JR線「篠山口」駅下車<br />東口の神姫バス「篠山口駅」乗り場へ(徒歩4分)<br />「二階町」で下車(12駅、約16分)<br />篠山城跡に向かいます(徒歩6分)

    2022年5月15日

    JR線「篠山口」駅下車
    東口の神姫バス「篠山口駅」乗り場へ(徒歩4分)
    「二階町」で下車(12駅、約16分)
    篠山城跡に向かいます(徒歩6分)

  • 篠山城下町マップ<br />(パンフレットより)

    篠山城下町マップ
    (パンフレットより)

  • 篠山城跡が見えました。

    篠山城跡が見えました。

  • 史跡篠山城跡

    史跡篠山城跡

    篠山城跡 名所・史跡

  • 【国指定史跡 篠山城跡】<br /> 篠山城は、慶長14年(1609)に、天下を盤石なものにしようとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大坂城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の話大名を牽制するために、山陰道の要衝であったこの地に築いた城です。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15カ国20大名が動員されました。<br /> 城は、当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いています。工事は、開始から1年に満たない短期間でほぼ出来上がるという突貫工事で進められました。笹山は全体が岩盤で出来ていたため、難工事の中での完成でした。<br /> 篠山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎が行ったものです。堀を二重に廻し、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっています。天守閣は、城の完成を急いだことと実戦向きの城としたため築かれませんでしたが、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられました。<br /> 大坂夏の陣を経て江戸幕府が安定すると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられます。江戸時代を通して、幕府の信頼厚い譜代大名の4家が、藩主として次々と移ってきています。<br /><br />名称 国指定史跡篠山城跡<br />城の種類 平山城<br />城の形状 輪郭式と梯郭式の併用<br />面積 19.3万平方メートル<br />史跡指定 昭和31年12月28日

    【国指定史跡 篠山城跡】
     篠山城は、慶長14年(1609)に、天下を盤石なものにしようとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大坂城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の話大名を牽制するために、山陰道の要衝であったこの地に築いた城です。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15カ国20大名が動員されました。
     城は、当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いています。工事は、開始から1年に満たない短期間でほぼ出来上がるという突貫工事で進められました。笹山は全体が岩盤で出来ていたため、難工事の中での完成でした。
     篠山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎が行ったものです。堀を二重に廻し、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっています。天守閣は、城の完成を急いだことと実戦向きの城としたため築かれませんでしたが、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられました。
     大坂夏の陣を経て江戸幕府が安定すると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられます。江戸時代を通して、幕府の信頼厚い譜代大名の4家が、藩主として次々と移ってきています。

    名称 国指定史跡篠山城跡
    城の種類 平山城
    城の形状 輪郭式と梯郭式の併用
    面積 19.3万平方メートル
    史跡指定 昭和31年12月28日

  • 北廊下門跡

    北廊下門跡

  • 北廊下門跡から見た鍵型の内堀

    北廊下門跡から見た鍵型の内堀

  • 枡形<br /><br />枡形とは、大手門と鉄門(くろがねもん)との間にある侵入した敵軍の動きをさまたげるための方形の広場。<br />石垣は、滋賀・近江の穴太衆(あのうしゅう)によるもの。自然石をあまり加工しないで積む「野面積み(のづらづみ)」と、出角(ですみ)は「算木積み(さんぎづみ)」の工法を用いている。

    枡形

    枡形とは、大手門と鉄門(くろがねもん)との間にある侵入した敵軍の動きをさまたげるための方形の広場。
    石垣は、滋賀・近江の穴太衆(あのうしゅう)によるもの。自然石をあまり加工しないで積む「野面積み(のづらづみ)」と、出角(ですみ)は「算木積み(さんぎづみ)」の工法を用いている。

  • 【鉄門跡(くろがねもんあと)】<br /> 二の丸へ至る最後の門の跡です。絵図によると櫓門形式の門があり、呼び名の通り門扉(もんび)には、鉄板が張られていたのではないかと考えられます。<br /> 発掘調査の結果、門跡は廃城後に1.5m埋められていましたが、土を取り除いたところで、門跡の範囲を示す敷石と階段跡等の遺構が発見されました。これによって鉄門は東西の幅約5m、奥行き4.5mの大きさで、東側石垣高さ4mと、西側石垣高さ4.5mとの間に造られた厳重な構造であったことが明らかとなりました。<br /> 二の丸登り口の整備にあたり鉄門跡の範囲を自然石による敷石で示しています。

    【鉄門跡(くろがねもんあと)】
     二の丸へ至る最後の門の跡です。絵図によると櫓門形式の門があり、呼び名の通り門扉(もんび)には、鉄板が張られていたのではないかと考えられます。
     発掘調査の結果、門跡は廃城後に1.5m埋められていましたが、土を取り除いたところで、門跡の範囲を示す敷石と階段跡等の遺構が発見されました。これによって鉄門は東西の幅約5m、奥行き4.5mの大きさで、東側石垣高さ4mと、西側石垣高さ4.5mとの間に造られた厳重な構造であったことが明らかとなりました。
     二の丸登り口の整備にあたり鉄門跡の範囲を自然石による敷石で示しています。

  • 大書院、史料館

    大書院、史料館

  • 史料館入口

    史料館入口

    篠山城大書院 花見

  • 大書院入館券

    大書院入館券

  • 大書院(おおしょいん)・史料館のご案内

    大書院(おおしょいん)・史料館のご案内

  • 大書院平面図<br />(パンフレットより)

    大書院平面図
    (パンフレットより)

  • 【大書院(おおしょいん)の復元】<br /> 大書院は、築城の時に建てられた書院造の建物で、新年の祝賀など、藩の公式行事に使用されました。建物は、北正面に唐破風をつけた車寄があり、東に中門が突き出す様式で、内部にはハつの部屋があります。藩主の着座する上段の間は、大床、違棚、帳台構、付書院が設けられています。<br /> 城の建物は、明治六年(一八七三)のいわゆる「廃城令」によって、その大半が取り壊されましたが、大書院だけは解体されることなく、学校、公会堂として利用されていました。しかし、昭和十九年(一九四四)、惜しくも焼失してしまいました。<br /> その後、篠山城跡は未整備のままでしたが、保存を望む声がもち上がり、昭和三十一年(一九五六)に国の史跡に指定されました。これを機に石垣修理、民有地の公有化並びに発掘調査を実施し、篠山城跡の保存に努めてきました。<br /> このような経過を経て、昭和五十九年(一九八四)に篠山城の建物復元を望む声が、市民の中からもち上がりました。そして、平成二年(一九九〇)に篠山城跡学術調査委員会が設置され、城跡内の建物の復元可能な場所について、調査研究がなされました。その結果、大書院は復元可能との答申を得ました。<br /> 復元に向け、市民と行政が力を合わせて、建築費の確保のため杮板一枚三千円を基本として募金を募る一方、文化庁、兵庫県の補助金を受け、平成八年(一九九六)から四カ年計画で復元工事に着手しました。そして、大書院、史料館、井戸屋形、門などが、平成十二年(二〇〇〇)に総事業費約十二億円で完成しました。

    【大書院(おおしょいん)の復元】
     大書院は、築城の時に建てられた書院造の建物で、新年の祝賀など、藩の公式行事に使用されました。建物は、北正面に唐破風をつけた車寄があり、東に中門が突き出す様式で、内部にはハつの部屋があります。藩主の着座する上段の間は、大床、違棚、帳台構、付書院が設けられています。
     城の建物は、明治六年(一八七三)のいわゆる「廃城令」によって、その大半が取り壊されましたが、大書院だけは解体されることなく、学校、公会堂として利用されていました。しかし、昭和十九年(一九四四)、惜しくも焼失してしまいました。
     その後、篠山城跡は未整備のままでしたが、保存を望む声がもち上がり、昭和三十一年(一九五六)に国の史跡に指定されました。これを機に石垣修理、民有地の公有化並びに発掘調査を実施し、篠山城跡の保存に努めてきました。
     このような経過を経て、昭和五十九年(一九八四)に篠山城の建物復元を望む声が、市民の中からもち上がりました。そして、平成二年(一九九〇)に篠山城跡学術調査委員会が設置され、城跡内の建物の復元可能な場所について、調査研究がなされました。その結果、大書院は復元可能との答申を得ました。
     復元に向け、市民と行政が力を合わせて、建築費の確保のため杮板一枚三千円を基本として募金を募る一方、文化庁、兵庫県の補助金を受け、平成八年(一九九六)から四カ年計画で復元工事に着手しました。そして、大書院、史料館、井戸屋形、門などが、平成十二年(二〇〇〇)に総事業費約十二億円で完成しました。

  • 【篠山城復元模型】縮尺 1/350<br /> 篠山城は、徳川家康が天下普請で築いた城です。創建は慶長14年(1609)、関ヶ原の戦い(1600)と大坂冬の陣(1614)の間のまだ天下が安定する前の時代です。<br /> 模型は、いわゆる「正保城絵図」の一つ「丹波篠山城之絵図」(内閣文庫蔵)と、同時期の「丹波国笹山城絵図」(岡山大学附属図書館蔵)を基に復元され、創建時に近い時代の篠山城全体の姿が再現されています。<br /> 篠山城は徳川幕府の戦略的に重要な拠点です。城は四周を二重の堀に囲まれ、各出入口は馬出しや桝形によって厳しく守られ、防御を主体とした堅固な城構え<br />であったことがよく分かります。<br /><br />【篠山城の曲輪呼称(くるわこしょう)の変化】<br /> パネル内に表記した篠山城の曲輪の呼び方は、築城当時と江戸時代中期以降では異なっています。<br />()内の表記は江戸時代中期以降の呼び方です。<br />殿主土台(天守台)・殿主丸(本丸)・本丸(二の丸)・二の丸(三の丸)

    【篠山城復元模型】縮尺 1/350
     篠山城は、徳川家康が天下普請で築いた城です。創建は慶長14年(1609)、関ヶ原の戦い(1600)と大坂冬の陣(1614)の間のまだ天下が安定する前の時代です。
     模型は、いわゆる「正保城絵図」の一つ「丹波篠山城之絵図」(内閣文庫蔵)と、同時期の「丹波国笹山城絵図」(岡山大学附属図書館蔵)を基に復元され、創建時に近い時代の篠山城全体の姿が再現されています。
     篠山城は徳川幕府の戦略的に重要な拠点です。城は四周を二重の堀に囲まれ、各出入口は馬出しや桝形によって厳しく守られ、防御を主体とした堅固な城構え
    であったことがよく分かります。

    【篠山城の曲輪呼称(くるわこしょう)の変化】
     パネル内に表記した篠山城の曲輪の呼び方は、築城当時と江戸時代中期以降では異なっています。
    ()内の表記は江戸時代中期以降の呼び方です。
    殿主土台(天守台)・殿主丸(本丸)・本丸(二の丸)・二の丸(三の丸)

  • 篠山城の歴史<br />(パンフレットより)

    篠山城の歴史
    (パンフレットより)

  • 篠山城築城前史<br />一中世の八上城から近世の篠山城へ一

    篠山城築城前史
    一中世の八上城から近世の篠山城へ一

  • 【明智光秀の丹波攻め】<br /> 京都の後背地を占める丹波国は、室町幕府管領をつとめた細川京兆家が守護職を世襲し、船井郡八木城主の内藤氏が守護代に任じた。応仁の乱を経て戦国時代となった 16世紀になると多紀郡の波多野氏、氷上郡の荻野(赤井)氏らが台頭、群雄割拠する情勢となった。<br /> 永禄11年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、波多野・荻野氏ら丹波の諸勢力は将軍義昭と信長に服属した。その後、信長が将軍義昭と不和になると、荻野直正は毛利氏に通じ、甲斐武田氏、本願寺らと結んで反信長色を鮮明にした。天正3年(1575)、毛利氏の因幡攻めに呼応した直正は但馬に攻め入ると竹田城を攻略した。窮した山名祐豊は信長に援助を求め、それに応えた信長は明智光秀を丹波へ派遣して氷上郡の黒井城攻めを命じた。いわゆる第一次丹波攻めで、波多野秀治ら丹波国衆のほとんどは光秀に味方して黒井城攻めに加わった。ところが、翌年の正月15日、突如波多野秀治が光秀から離反、大敗北を喫した光秀は京へと逃げ帰った。<br /> 敗れた光秀は、山城を築き、軍道を整備するなどして、第二次丹波攻めの準備を進めた。その一方で、本願寺攻め、播磨攻めに従軍、その間、病に伏すなどした光秀が、ふたたび丹波に攻め入ったのは天正5年10月のことであった。光秀は籾井城・細工所城などを攻略、波多野氏の本城である八上城に陣を進めた。翌6年、毛利氏と結んだ播磨三木城主の別所長治、摂津有岡城主荒木村重らが次々と離反、これに力を得た波多野秀治は光秀の築いた陣城に攻勢をかけた。対する光秀は金山城を築いて多紀郡と氷上郡を分断し、八上城の周囲に堀・塀・柵などを築いて波多野秀治を追い詰めていった。<br /> 光秀の徹底した攻囲によって八上城への補給路は完全に断たれ、城内では餓死者が続出するなど凄惨な籠城戦が続いた。やがて、城内は抗戦派と和平派とに分裂、ついに秀治ら兄弟は城内の路地にて捕えられ光秀の下に差し出された。天正7年6月1日のことであった。こうして八上城は落城、安士に送られた秀治兄弟は倉長の命によって磔刑に処され波多野氏は滅亡した。同年8月、黒井城も落城、丹波一円は明智光秀によって平定されたのであった。<br /> 織田信長は「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこした」と激賞、丹波一国は明智光秀が治めるところとなった。しかし、天正10年6月2日、光秀による本能寺の変によって言長は討死、光秀も山崎の合戦に敗れて滅亡したのであった。

    【明智光秀の丹波攻め】
     京都の後背地を占める丹波国は、室町幕府管領をつとめた細川京兆家が守護職を世襲し、船井郡八木城主の内藤氏が守護代に任じた。応仁の乱を経て戦国時代となった 16世紀になると多紀郡の波多野氏、氷上郡の荻野(赤井)氏らが台頭、群雄割拠する情勢となった。
     永禄11年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、波多野・荻野氏ら丹波の諸勢力は将軍義昭と信長に服属した。その後、信長が将軍義昭と不和になると、荻野直正は毛利氏に通じ、甲斐武田氏、本願寺らと結んで反信長色を鮮明にした。天正3年(1575)、毛利氏の因幡攻めに呼応した直正は但馬に攻め入ると竹田城を攻略した。窮した山名祐豊は信長に援助を求め、それに応えた信長は明智光秀を丹波へ派遣して氷上郡の黒井城攻めを命じた。いわゆる第一次丹波攻めで、波多野秀治ら丹波国衆のほとんどは光秀に味方して黒井城攻めに加わった。ところが、翌年の正月15日、突如波多野秀治が光秀から離反、大敗北を喫した光秀は京へと逃げ帰った。
     敗れた光秀は、山城を築き、軍道を整備するなどして、第二次丹波攻めの準備を進めた。その一方で、本願寺攻め、播磨攻めに従軍、その間、病に伏すなどした光秀が、ふたたび丹波に攻め入ったのは天正5年10月のことであった。光秀は籾井城・細工所城などを攻略、波多野氏の本城である八上城に陣を進めた。翌6年、毛利氏と結んだ播磨三木城主の別所長治、摂津有岡城主荒木村重らが次々と離反、これに力を得た波多野秀治は光秀の築いた陣城に攻勢をかけた。対する光秀は金山城を築いて多紀郡と氷上郡を分断し、八上城の周囲に堀・塀・柵などを築いて波多野秀治を追い詰めていった。
     光秀の徹底した攻囲によって八上城への補給路は完全に断たれ、城内では餓死者が続出するなど凄惨な籠城戦が続いた。やがて、城内は抗戦派と和平派とに分裂、ついに秀治ら兄弟は城内の路地にて捕えられ光秀の下に差し出された。天正7年6月1日のことであった。こうして八上城は落城、安士に送られた秀治兄弟は倉長の命によって磔刑に処され波多野氏は滅亡した。同年8月、黒井城も落城、丹波一円は明智光秀によって平定されたのであった。
     織田信長は「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこした」と激賞、丹波一国は明智光秀が治めるところとなった。しかし、天正10年6月2日、光秀による本能寺の変によって言長は討死、光秀も山崎の合戦に敗れて滅亡したのであった。

  • 波多野氏の興亡

    波多野氏の興亡

  • 八上城址ジオラマ<br />波多野秀治期、明智光秀による落城ごろの姿を想定して、山上の主郭部分を中心に作成されたものです。縮尺は1/1500、3Dプリンタ出力、接岸などは実際より高くなっています。

    八上城址ジオラマ
    波多野秀治期、明智光秀による落城ごろの姿を想定して、山上の主郭部分を中心に作成されたものです。縮尺は1/1500、3Dプリンタ出力、接岸などは実際より高くなっています。

  • 【丹波戦国史を刻む 八上城跡】<br />【城史、城跡遺構ともに我が国有数の戦国山城】<br /> 国指定史跡 八上城跡は、「丹波富士」と称される高城山(標高462m)に築かれた八上城を本城として、奥谷の城下を挟んで法光寺山の法光寺城を支城とする東西3kmに及大規模な中世山城である。高城山北鹿は古山陰道が東西に通じ、15世紀前半に群奉行の在庁する守護所が置かれるなど、多紀郡の中心地であった。<br /> 丹波に下向した渡多野氏は、はじめ奥谷城(蕪丸)を構え、勢力を拡大するとともに篠山盆地を見下ろす高城山山上に新たに城を構えた。「細川両家記」などによれば、大永6年(1526)に「矢上城」とあり、このころに築城されていたようだ。当時、波多野氏は二代の元清が弟柳本賢治とともに細川高国に反旗を翻した時期にあたり、元清は高国の軍勢を堅固に築き上げた八上城で迎撃した。以後、八上城は波多野氏の本城として、三好長慶との10年近い攻防、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めなどの戦いのなかで改修を重ねられ、いまに残る姿になったようだ。<br /> 本城である八上城跡の遺構群は、山上の主郭部、東北尾根筋の曲輪群、そして、奥谷城の三区画に分けられる、その規模は東西800メートル、南北400メートルに及び、丹波随一の戦国大名波多野氏にふさわしい戦国山城である。<br /> 山頂の主郭部は本丸を中核として、連郭式の曲輪群が有機的に配され、本丸、右衛門丸などの一部に石垣も残っている。本丸より東南方には土塁で防御した番所、大竪堀を経て朝路池のある南曲輪群が構えられている。さらに、奥谷城へと続く南斜面の中腹にに大規模な平坦地があり、八上城の重要な兵站基地であったと考えられている。<br /> 東北に伸びる尾根筋には、茶屋の壇と呼ばれる大曲輪、馬駈場、芥丸、西蔵丸が続き、尾根筋には竪堀が数条落とされている。全体的に削平も甘く、自然地形を呈しているが、三好氏、明智氏との戦いに対して整備、拡張されたもので、主郭部の東方を防御し、藤木坂、野々垣口を固める重要な曲輪群である。<br /> 八上城が落城したのち、丹波を治めた光秀も天正10年(1582)本能寺の変を起して滅亡、以後、豊臣政権下の大名が多紀郡を治め、前田氏の時代に北麓の春日神社一帯に居館が構えられた。慶長13年(1608)、徳川家康の実子といわれる松平康重が多紀郡を与えられ、八上城は主郭部を中心に改修されたようだ。しかし、家康が新たに篠山城を築いたことで八上城はその歴史を閉じた。とはいえ、八上城は戦国時代初期から後期、さらに近世城郭の発祥期までの歴史を刻む、山城遺構として貴重な存在である。<br /><br />【戦国山城の群集地 丹波篠山】<br /> 中世、丹波国多紀郡であった丹波篠山市には、八上城跡をはじめとして、約70以上の戦国山城が残っている。それぞれの山城の規模、保存状態、城史などはさまざまだが、いずれもその土地の戦国史と密接な関わりを有している。<br /> 八上城跡を訪ねられたのち、それらの山城にも足をのばし、丹波篠山の戦国時代に思いをはせていただきたい。

    【丹波戦国史を刻む 八上城跡】
    【城史、城跡遺構ともに我が国有数の戦国山城】
     国指定史跡 八上城跡は、「丹波富士」と称される高城山(標高462m)に築かれた八上城を本城として、奥谷の城下を挟んで法光寺山の法光寺城を支城とする東西3kmに及大規模な中世山城である。高城山北鹿は古山陰道が東西に通じ、15世紀前半に群奉行の在庁する守護所が置かれるなど、多紀郡の中心地であった。
     丹波に下向した渡多野氏は、はじめ奥谷城(蕪丸)を構え、勢力を拡大するとともに篠山盆地を見下ろす高城山山上に新たに城を構えた。「細川両家記」などによれば、大永6年(1526)に「矢上城」とあり、このころに築城されていたようだ。当時、波多野氏は二代の元清が弟柳本賢治とともに細川高国に反旗を翻した時期にあたり、元清は高国の軍勢を堅固に築き上げた八上城で迎撃した。以後、八上城は波多野氏の本城として、三好長慶との10年近い攻防、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めなどの戦いのなかで改修を重ねられ、いまに残る姿になったようだ。
     本城である八上城跡の遺構群は、山上の主郭部、東北尾根筋の曲輪群、そして、奥谷城の三区画に分けられる、その規模は東西800メートル、南北400メートルに及び、丹波随一の戦国大名波多野氏にふさわしい戦国山城である。
     山頂の主郭部は本丸を中核として、連郭式の曲輪群が有機的に配され、本丸、右衛門丸などの一部に石垣も残っている。本丸より東南方には土塁で防御した番所、大竪堀を経て朝路池のある南曲輪群が構えられている。さらに、奥谷城へと続く南斜面の中腹にに大規模な平坦地があり、八上城の重要な兵站基地であったと考えられている。
     東北に伸びる尾根筋には、茶屋の壇と呼ばれる大曲輪、馬駈場、芥丸、西蔵丸が続き、尾根筋には竪堀が数条落とされている。全体的に削平も甘く、自然地形を呈しているが、三好氏、明智氏との戦いに対して整備、拡張されたもので、主郭部の東方を防御し、藤木坂、野々垣口を固める重要な曲輪群である。
     八上城が落城したのち、丹波を治めた光秀も天正10年(1582)本能寺の変を起して滅亡、以後、豊臣政権下の大名が多紀郡を治め、前田氏の時代に北麓の春日神社一帯に居館が構えられた。慶長13年(1608)、徳川家康の実子といわれる松平康重が多紀郡を与えられ、八上城は主郭部を中心に改修されたようだ。しかし、家康が新たに篠山城を築いたことで八上城はその歴史を閉じた。とはいえ、八上城は戦国時代初期から後期、さらに近世城郭の発祥期までの歴史を刻む、山城遺構として貴重な存在である。

    【戦国山城の群集地 丹波篠山】
     中世、丹波国多紀郡であった丹波篠山市には、八上城跡をはじめとして、約70以上の戦国山城が残っている。それぞれの山城の規模、保存状態、城史などはさまざまだが、いずれもその土地の戦国史と密接な関わりを有している。
     八上城跡を訪ねられたのち、それらの山城にも足をのばし、丹波篠山の戦国時代に思いをはせていただきたい。

  • 源氏之間(21畳)

    源氏之間(21畳)

  • 史跡 篠山城跡大書院復元建築工事構造模型作製 平成九年 丁丑 九月吉日<br />

    史跡 篠山城跡大書院復元建築工事構造模型作製 平成九年 丁丑 九月吉日

  • 葡萄之間(21畳)

    葡萄之間(21畳)

  • 【草花小禽図屏風(そうかしょうきんずびょうぶ)】<br /> 中央の屏風は、篠山藩主青山家に伝えられていたもので、金地に草花と小鳥が巧みに描かれています。<br />江戸時代後期、狩野養川の手によるものです。

    【草花小禽図屏風(そうかしょうきんずびょうぶ)】
     中央の屏風は、篠山藩主青山家に伝えられていたもので、金地に草花と小鳥が巧みに描かれています。
    江戸時代後期、狩野養川の手によるものです。

  • 狩野養川院惟信(かのうようぜんいんこれのぶ)<br /> 宝暦3年~文化5年(1753~1808)56歳没。江戸時代後期の人。木挽町狩野家第7代目。典信(みちのぶ)の子。幼名は栄次郎。養川院・玄止斎と称した。<br /> 天明元年(1781)西の丸奥御用に任ぜられ、29歳で法眼となった。寛政2年(1790)に父の跡を継ぎ、同6年(1796)42歳で法印に叙せられた。<br /> 画風は温雅で微妙な表現にとみ、始終柔軟な作画を示している。

    狩野養川院惟信(かのうようぜんいんこれのぶ)
     宝暦3年~文化5年(1753~1808)56歳没。江戸時代後期の人。木挽町狩野家第7代目。典信(みちのぶ)の子。幼名は栄次郎。養川院・玄止斎と称した。
     天明元年(1781)西の丸奥御用に任ぜられ、29歳で法眼となった。寛政2年(1790)に父の跡を継ぎ、同6年(1796)42歳で法印に叙せられた。
     画風は温雅で微妙な表現にとみ、始終柔軟な作画を示している。

  • 篠山城の梵鐘

    篠山城の梵鐘

  • 【篠山城の梵鐘(ぼんしょう)】<br /> この梵鐘は、4代藩主松平(形原)康信が、寛文12年(1672)に二世安楽を願って造り、城中の道場にかけていたものです。その後、京都の新熊野権現社や蓮華寺へと移され、大切に保管されていました。<br /> 昭和58年(1983)、多くの方々の尽力によって310年ぶりに篠山へ還ってきました。大書院が復されたのを機に、この場所で展示することにしました。<br /><br />【西尾武陵(にしおぶりょう)と時の鐘】<br />「今打つは 城の七つよ 降は雪」<br />西尾武陵は、大山上村(篠山市大山上)に生まれました。<br />家業である造り酒屋を営むかたわら、蕪村の流れをくむ俳人として、文化文政時代に活躍しています。<br />西尾武陵〈明和3年(1766)~天保9年(1838)〉

    【篠山城の梵鐘(ぼんしょう)】
     この梵鐘は、4代藩主松平(形原)康信が、寛文12年(1672)に二世安楽を願って造り、城中の道場にかけていたものです。その後、京都の新熊野権現社や蓮華寺へと移され、大切に保管されていました。
     昭和58年(1983)、多くの方々の尽力によって310年ぶりに篠山へ還ってきました。大書院が復されたのを機に、この場所で展示することにしました。

    【西尾武陵(にしおぶりょう)と時の鐘】
    「今打つは 城の七つよ 降は雪」
    西尾武陵は、大山上村(篠山市大山上)に生まれました。
    家業である造り酒屋を営むかたわら、蕪村の流れをくむ俳人として、文化文政時代に活躍しています。
    西尾武陵〈明和3年(1766)~天保9年(1838)〉

  • 上段之間(21畳)

    上段之間(21畳)

  • 障壁画<br /><br /> これらの障壁画は、往時の雰囲気を出来るだけ再現するため、大書院が建築された時期、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を転用し、床貼り付けや襖として製作しました。<br /> 上段の間の大床は「老松図」、天袋は「花卉図」、違棚は「松竹梅雉子図」、帳台構は「牡丹図」、次の間襖四面は「籬に菊図」を用い、華やいだ中にも移りゆく季節感をかもし出すように努めました。

    障壁画

     これらの障壁画は、往時の雰囲気を出来るだけ再現するため、大書院が建築された時期、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を転用し、床貼り付けや襖として製作しました。
     上段の間の大床は「老松図」、天袋は「花卉図」、違棚は「松竹梅雉子図」、帳台構は「牡丹図」、次の間襖四面は「籬に菊図」を用い、華やいだ中にも移りゆく季節感をかもし出すように努めました。

  • 上段之間の大床に「老松図」、天袋に「花卉図」、違棚に「松竹梅雉子図」、帳台構に「牡丹図」

    上段之間の大床に「老松図」、天袋に「花卉図」、違棚に「松竹梅雉子図」、帳台構に「牡丹図」

  • 帳台構の「牡丹図」。

    帳台構の「牡丹図」。

  • 大床の「老松図」

    大床の「老松図」

  • 次之間(21畳)<br />襖四面の「籬に菊図」

    次之間(21畳)
    襖四面の「籬に菊図」

  • 次之間の板襖表面の「牡丹図」<br /><br />【板襖(いたぶすま)】<br /> 中央奥の板襖は、篠山城二の丸御殿に使用されていたものと伝えられています。表面は「牡丹図(ぼたんず)」、裏面には「桧に鷹図(ひのきにたかず)」が描かれ、江戸時代後期、狩野派(かのうは)絵師の手によるものです。

    次之間の板襖表面の「牡丹図」

    【板襖(いたぶすま)】
     中央奥の板襖は、篠山城二の丸御殿に使用されていたものと伝えられています。表面は「牡丹図(ぼたんず)」、裏面には「桧に鷹図(ひのきにたかず)」が描かれ、江戸時代後期、狩野派(かのうは)絵師の手によるものです。

  • 「篠山城之図」(17世紀後頃)<br />亀岡文化資料館寄託長澤家文書<br />東西 191.8✕南北225.6cm<br /><br />城下町絵図は、当時の景観を知るうえで貴重な資料となりますが、篠山城下町絵図はあまり多く残っていません。ここに紹介する絵図は、今回の調査で見出すことになりました。絵図の内容から、17世紀後半頃の城下町を描いたと予想されます。<br />この絵図で注目されるのは、大書院を含む二の丸の建築物が鳥観図的に描かれていることで、このように城内の建築物を描いた城絵図は珍しいです。この図の作成目的は不明で検討すべき点は多いですが、城下町の展開過程や城内の建築物などを考えるうえで、とても貴重な資料と言えます。

    「篠山城之図」(17世紀後頃)
    亀岡文化資料館寄託長澤家文書
    東西 191.8✕南北225.6cm

    城下町絵図は、当時の景観を知るうえで貴重な資料となりますが、篠山城下町絵図はあまり多く残っていません。ここに紹介する絵図は、今回の調査で見出すことになりました。絵図の内容から、17世紀後半頃の城下町を描いたと予想されます。
    この絵図で注目されるのは、大書院を含む二の丸の建築物が鳥観図的に描かれていることで、このように城内の建築物を描いた城絵図は珍しいです。この図の作成目的は不明で検討すべき点は多いですが、城下町の展開過程や城内の建築物などを考えるうえで、とても貴重な資料と言えます。

  • 「丹波国篠山城石垣損所絵図」(宝暦5年)、篠山市教育委員会所蔵、東西 103.4✕南北73.4cm<br /><br /> 江戸時代、諸大名は、城の修復の際、幕府の許可を得る必要があり、石垣の修復もそうして実施される工事のひとつでした。届けの際には、このような石垣の損所箇所や程度を示す絵図を作成して添えるのが一般的でした。<br /> この図は、篠山城の石垣の損所を修復するために宝暦5(1756)年に届けられた絵図の控えです。図中の黒点は石垣がふくらんで修復の必要な箇所を示し、朱点は修復を終えた箇所を示すと考えられます。このような石垣損所絵図は、青山家文書に最も多く残されたタイプの篠山城の絵図となっており、当時の篠山城の姿を知る貴重な資料となっています。

    「丹波国篠山城石垣損所絵図」(宝暦5年)、篠山市教育委員会所蔵、東西 103.4✕南北73.4cm

     江戸時代、諸大名は、城の修復の際、幕府の許可を得る必要があり、石垣の修復もそうして実施される工事のひとつでした。届けの際には、このような石垣の損所箇所や程度を示す絵図を作成して添えるのが一般的でした。
     この図は、篠山城の石垣の損所を修復するために宝暦5(1756)年に届けられた絵図の控えです。図中の黒点は石垣がふくらんで修復の必要な箇所を示し、朱点は修復を終えた箇所を示すと考えられます。このような石垣損所絵図は、青山家文書に最も多く残されたタイプの篠山城の絵図となっており、当時の篠山城の姿を知る貴重な資料となっています。

  • 孔雀之間(15畳)

    孔雀之間(15畳)

  • 篠山藩主青山家の甲冑(再現)と、孔雀の絵の掛け軸。

    篠山藩主青山家の甲冑(再現)と、孔雀の絵の掛け軸。

  • 手鞠之間(18畳)

    手鞠之間(18畳)

  • 虎之間(36畳)<br />大書院で最も広い部屋

    虎之間(36畳)
    大書院で最も広い部屋

  • 虎の間(手前)と手鞠の間(奥)に並ぶ甲冑

    虎の間(手前)と手鞠の間(奥)に並ぶ甲冑

  • 真田信繁、伊達政宗、織田信長、武田信玄、直江兼続の甲冑

    真田信繁、伊達政宗、織田信長、武田信玄、直江兼続の甲冑

  • 波多野秀治、明智光秀の甲冑

    波多野秀治、明智光秀の甲冑

  • 大名と領地

    大名と領地

  • 大名と国替

    大名と国替

  • 篠山城とその城下町

    篠山城とその城下町

  • 移り変わる篠山藩主

    移り変わる篠山藩主

  • この井戸は城北(じょうほく)の玉水(たまみず)から流れ出た水脈を利用していると伝えられており、厳しい日照りにも涸(か)れたことがありません。

    この井戸は城北(じょうほく)の玉水(たまみず)から流れ出た水脈を利用していると伝えられており、厳しい日照りにも涸(か)れたことがありません。

  • 南側から見た大書院

    南側から見た大書院

  • 大書院の特徴<br />(パンフレットより)

    大書院の特徴
    (パンフレットより)

  • 二の丸殿跡<br /> 御殿の復元は、江戸時代中期頃の古絵図をもとに平面表示の工法で、平成14年(2002)に完成しました。主に藩主の生活の場だったところで、休息の間や用人詰所、台所、厠など各室をみかげ石で区切り、部屋名を表示しています。総工費約1億1千万円。<br />(大書院パンフレットより)

    二の丸殿跡
     御殿の復元は、江戸時代中期頃の古絵図をもとに平面表示の工法で、平成14年(2002)に完成しました。主に藩主の生活の場だったところで、休息の間や用人詰所、台所、厠など各室をみかげ石で区切り、部屋名を表示しています。総工費約1億1千万円。
    (大書院パンフレットより)

  • 【史跡篠山城跡ニの丸御殿整備】<br /> 平成10年度に「史跡篠山城跡二の丸御殿庭園及び外構設計検討委員会」を設け、整備方針及び内容を決定し、平成11~13年度にかけて国、県の補助を受け、整備工事を実施した。<br /> 御殿は、大書院のように立体的に復元できる資料がないため、現在発見されている6種類の間取図の中で最も古い図(江戸時代中期頃)をもとに平面表示の工法で整備を実施した。<br /> さらに遺構保護の視点や建物跡が明確に周辺と異なった間であったことを示すため、盛土(もりど)により御殿跡全体を周辺地盤よりかさ上げした。<br /><br />【二の丸】<br />二の丸は、大書院、小書院(こしょいん)、中奥御殿(なかおくごぜん)、奥御殿(おくごぜん)、台所(だいどころ)などの建物と築山(つきやま)をもつ庭園があり、儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で篠山城で最も重要な場所であった。<br /> これら殿群の周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐように多聞櫓と門が配置されていた。<br /> 現在残っている二の丸御殿間取図や発掘調査の結果から御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり、増築されたりしていたようである。<br /> しかし大書院を除く建物は廃藩後には取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の建物はすべて無くなってしまっていた。

    【史跡篠山城跡ニの丸御殿整備】
     平成10年度に「史跡篠山城跡二の丸御殿庭園及び外構設計検討委員会」を設け、整備方針及び内容を決定し、平成11~13年度にかけて国、県の補助を受け、整備工事を実施した。
     御殿は、大書院のように立体的に復元できる資料がないため、現在発見されている6種類の間取図の中で最も古い図(江戸時代中期頃)をもとに平面表示の工法で整備を実施した。
     さらに遺構保護の視点や建物跡が明確に周辺と異なった間であったことを示すため、盛土(もりど)により御殿跡全体を周辺地盤よりかさ上げした。

    【二の丸】
    二の丸は、大書院、小書院(こしょいん)、中奥御殿(なかおくごぜん)、奥御殿(おくごぜん)、台所(だいどころ)などの建物と築山(つきやま)をもつ庭園があり、儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で篠山城で最も重要な場所であった。
     これら殿群の周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐように多聞櫓と門が配置されていた。
     現在残っている二の丸御殿間取図や発掘調査の結果から御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり、増築されたりしていたようである。
     しかし大書院を除く建物は廃藩後には取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の建物はすべて無くなってしまっていた。

  • 二の丸御殿跡

    二の丸御殿跡

  • 往時の名残をとどめる二の丸御殿庭園の井戸

    往時の名残をとどめる二の丸御殿庭園の井戸

  • 【埋門跡(うずみもんあと)】<br /> 埋門(うずみもん)周辺の石垣には、篠山城内で最も多くの符号、刻印があります。なかでも、埋門石垣南角に残る「三佐之内(さんざのうち)」の刻印は、篠山城築城時に普請総奉行(ふしんそうぶぎょう)を務めた、池田三左衛門輝政(いけださんざえもんてるまさ)の名を印したものといわれています。<br />「三左之内」の刻印は、埋門の外側で見ることができます。

    【埋門跡(うずみもんあと)】
     埋門(うずみもん)周辺の石垣には、篠山城内で最も多くの符号、刻印があります。なかでも、埋門石垣南角に残る「三佐之内(さんざのうち)」の刻印は、篠山城築城時に普請総奉行(ふしんそうぶぎょう)を務めた、池田三左衛門輝政(いけださんざえもんてるまさ)の名を印したものといわれています。
    「三左之内」の刻印は、埋門の外側で見ることができます。

  • 埋門は非常時には埋めて遮断することになる門。<br />付近の石垣には普請総奉行、池田輝政の刻印が今も残る。(埋門を出てすぐ右側の石垣をご覧ください。)<br />(パンフレットより)

    埋門は非常時には埋めて遮断することになる門。
    付近の石垣には普請総奉行、池田輝政の刻印が今も残る。(埋門を出てすぐ右側の石垣をご覧ください。)
    (パンフレットより)

  • 三左之内の刻印

    三左之内の刻印

  • 丸い刻印

    丸い刻印

  • 【篠山城本丸跡】<br /> ここは、篠山城の最後の砦となる本丸跡です。築城当初は現在の二の丸が本丸、現在の本丸は南東の隅に、天守台が造られたことから、特に殿守丸(てんしゅまる)と呼ばれていました。<br /> 天守台の大きさは東西約十九メートル、南北約二〇メートル、約三八〇㎡の広さがあります。天守台石垣は本丸内側からの高さ、約四メートル、外側の南と東側犬走りからの高さ約十七メートルで、篠山城で最も高い石垣です。<br /> 天守閣は築城の時に建築が中止され、代わって天守台南東隅に二間四方(四メートル四方)の一重の隅櫓(すみやぐら)が建てられました。<br /> 本丸の周囲は天守台と南西隅・北西隅・北東隅の三ヶ所に二重の隅櫓を建て、間を多聞櫓(たもんやぐら)でつないで内部を囲んでいました。二の丸には大書院をはじめとする御殿が建てられたのに対して、本丸には御殿等の建物は無かったようです。<br /> 本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、深さ約十六メートル(内水深八メートル)で、掘るのに二年もかかったと伝えられています。<br /> 篠山市教育委員会

    【篠山城本丸跡】
     ここは、篠山城の最後の砦となる本丸跡です。築城当初は現在の二の丸が本丸、現在の本丸は南東の隅に、天守台が造られたことから、特に殿守丸(てんしゅまる)と呼ばれていました。
     天守台の大きさは東西約十九メートル、南北約二〇メートル、約三八〇㎡の広さがあります。天守台石垣は本丸内側からの高さ、約四メートル、外側の南と東側犬走りからの高さ約十七メートルで、篠山城で最も高い石垣です。
     天守閣は築城の時に建築が中止され、代わって天守台南東隅に二間四方(四メートル四方)の一重の隅櫓(すみやぐら)が建てられました。
     本丸の周囲は天守台と南西隅・北西隅・北東隅の三ヶ所に二重の隅櫓を建て、間を多聞櫓(たもんやぐら)でつないで内部を囲んでいました。二の丸には大書院をはじめとする御殿が建てられたのに対して、本丸には御殿等の建物は無かったようです。
     本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、深さ約十六メートル(内水深八メートル)で、掘るのに二年もかかったと伝えられています。
     篠山市教育委員会

  • 天守台

    天守台

  • 天守台に上がります。

    天守台に上がります。

  • 【天守台】<br /> 天守台は本丸(殿主丸)南東部の城内で最も高く、奥まったところに位置し、石垣の高さは約17m、平面規模は東西約18m、南北約20mであります。<br /> 築城(1609)時に、天守閣は江戸時代の指示により、城郭が堅固すぎるとの理由で建築を中止し、代わって、南東隅に二間四方(4m四方)単層の隅櫓を配置し、東面と南面に土塀をめぐらせていました。<br /> 東方には丹波富士と呼ばれる中世の山城である高城山(八上城跡)が美しい姿を見せております。<br />  平成10年10月吉日 篠山町

    【天守台】
     天守台は本丸(殿主丸)南東部の城内で最も高く、奥まったところに位置し、石垣の高さは約17m、平面規模は東西約18m、南北約20mであります。
     築城(1609)時に、天守閣は江戸時代の指示により、城郭が堅固すぎるとの理由で建築を中止し、代わって、南東隅に二間四方(4m四方)単層の隅櫓を配置し、東面と南面に土塀をめぐらせていました。
     東方には丹波富士と呼ばれる中世の山城である高城山(八上城跡)が美しい姿を見せております。
      平成10年10月吉日 篠山町

  • 天守台からの眺望

    天守台からの眺望

  • 天守台からの眺望

    天守台からの眺望

  • 天守台からの眺望

    天守台からの眺望

  • 青山神社

    青山神社

  • 青山神社拝殿

    青山神社拝殿

  • 【青山神社】<br /> 青山神社は、1882年に本丸跡に建立され、篠山藩主<br />青山氏の遠祖青山忠俊と第12代主青山忠裕が祭神として祀られています。青山氏は譜代大名で幕府の要職を歴任した家柄で、中でも忠裕は30年余り老中を務め、その功績により篠山藩は5万石から6万石に加増されました。毎年4月第1土曜日(宵宮)と日曜日(本宮)に青山神社の祭礼が行われます。本宮では、春日神社へ渡の行列があり、御輿とともに鎧や薙刀を身に着けた小学生たちが太鼓と法螺貝の合図で練り歩きます。

    【青山神社】
     青山神社は、1882年に本丸跡に建立され、篠山藩主
    青山氏の遠祖青山忠俊と第12代主青山忠裕が祭神として祀られています。青山氏は譜代大名で幕府の要職を歴任した家柄で、中でも忠裕は30年余り老中を務め、その功績により篠山藩は5万石から6万石に加増されました。毎年4月第1土曜日(宵宮)と日曜日(本宮)に青山神社の祭礼が行われます。本宮では、春日神社へ渡の行列があり、御輿とともに鎧や薙刀を身に着けた小学生たちが太鼓と法螺貝の合図で練り歩きます。

  • 【学問と教育の神さま 青山神社のいわれ】<br /> 篠山城主であった青山家ゆかりの、ここ篠山城跡本丸に、明治十五年五月青山神社を創建して、青山家十代の名君青山忠俊公を祭神とし、青山家の御霊をお祀りいたしました。大正五年四月には、社殿を改築して規模も大きくなりました。<br />さらに昭和五年には、篠山城主であった十八代の名君青山忠裕公を合祀し、学問と教育の神様として、偉大なる人格が敬慕されてきました。

    【学問と教育の神さま 青山神社のいわれ】
     篠山城主であった青山家ゆかりの、ここ篠山城跡本丸に、明治十五年五月青山神社を創建して、青山家十代の名君青山忠俊公を祭神とし、青山家の御霊をお祀りいたしました。大正五年四月には、社殿を改築して規模も大きくなりました。
    さらに昭和五年には、篠山城主であった十八代の名君青山忠裕公を合祀し、学問と教育の神様として、偉大なる人格が敬慕されてきました。

  • 鉄門を通って篠山城跡から出ます。

    鉄門を通って篠山城跡から出ます。

  • 枡形

    枡形

  • 青山歴史村 丹波篠山デカンショ館<br />デカンショ節って丹波篠山の歌だったんですね。

    青山歴史村 丹波篠山デカンショ館
    デカンショ節って丹波篠山の歌だったんですね。

    丹波篠山市立青山歴史村 美術館・博物館

  • 丹波篠山大正ロマン館<br />旧篠山町役場を活用したこちらのお店では特産品を使った食事やお土産も買うことができます。

    丹波篠山大正ロマン館
    旧篠山町役場を活用したこちらのお店では特産品を使った食事やお土産も買うことができます。

    丹波篠山 大正ロマン館 名所・史跡

  • バスの待ち時間にお土産屋さん【丹波篠山百景館】に入りました。食器やお菓子やお酒など丹波篠山の特産品がいろいろ販売されていてるお土産屋さんです。<br />こちらの店内に併設されているカフェでちょっと休憩。メニューは黒豆コーヒー、黒豆ココア、ジュースなどのドリンクメニューとソフトクリームがあります。<br />今日一日暑い中歩き回ってめっちゃソフトクリームが食べたかったので迷わず黒豆ソフトを注文。黒豆ソフトはほんのり黒豆テイストの美味しいソフトクリームでした。

    バスの待ち時間にお土産屋さん【丹波篠山百景館】に入りました。食器やお菓子やお酒など丹波篠山の特産品がいろいろ販売されていてるお土産屋さんです。
    こちらの店内に併設されているカフェでちょっと休憩。メニューは黒豆コーヒー、黒豆ココア、ジュースなどのドリンクメニューとソフトクリームがあります。
    今日一日暑い中歩き回ってめっちゃソフトクリームが食べたかったので迷わず黒豆ソフトを注文。黒豆ソフトはほんのり黒豆テイストの美味しいソフトクリームでした。

    かふぇ いなぽんて グルメ・レストラン

  • 丹波黒豆パンも購入しました。写真撮る前に我慢できずにちょっと食べちゃいました。食べかけの写真ですみません。

    丹波黒豆パンも購入しました。写真撮る前に我慢できずにちょっと食べちゃいました。食べかけの写真ですみません。

  • 【京丹波 篠山店】の焼きポン。<br />バスを降りてから篠山城までの道をこちらのお店の焼きポン(焼き栗)を販売されていた元気で親切なお姉さんに教えてもらったので帰りに寄りました。<br />初めて食べた焼ポンは甘くてホクホクで美味しかったです。

    【京丹波 篠山店】の焼きポン。
    バスを降りてから篠山城までの道をこちらのお店の焼きポン(焼き栗)を販売されていた元気で親切なお姉さんに教えてもらったので帰りに寄りました。
    初めて食べた焼ポンは甘くてホクホクで美味しかったです。

  • 二階町商店街の薬局にサトちゃんとサトコちゃん(サトちゃんの妹)がいました。<br />懐かしい。かわいい。

    二階町商店街の薬局にサトちゃんとサトコちゃん(サトちゃんの妹)がいました。
    懐かしい。かわいい。

  • JR丹波篠山駅到着

    JR丹波篠山駅到着

  • スタンプの設置場所は大書院です。<br />復元された大書院がデザインされています。

    スタンプの設置場所は大書院です。
    復元された大書院がデザインされています。

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