2022/04/08 - 2022/04/08
516位(同エリア1658件中)
ケーさん
この旅行記のスケジュール
2022/04/08
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電車での移動
道後公園→大街道 路面電車
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徒歩での移動
ロープウェイ乗り場まで徒歩
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日本100名城巡り
☆39城目☆松山城(No.81)
愛媛県の100名城は、今治城、湯築城、松山城、大洲城、宇和島城の5城です。
四国地方の100名城(丸数字は今回行った順番)
76 徳島城(徳島県徳島市)⑧
77 高松城(香川県高松市)①
78 丸亀城(香川県丸亀市)⑨
79 今治城(愛媛県今治市)⑥
80 湯築城(愛媛県松山市)②
81 松山城(愛媛県松山市)③
82 大洲城(愛媛県大洲市)⑤
83 宇和島城(愛媛県宇和島市)④
84 高知城(高知県高知市)⑦
四国一周3泊4日の旅(1)高松城
https://4travel.jp/travelogue/11897574
四国一周3泊4日の旅(2)湯築城
https://4travel.jp/travelogue/11897577
3泊4日で四国の日本100名城を全制覇する計画をざっくりと立てました。当初は青春18切符の旅の筈でしたが、青春18切符のみの移動は初日だけ。時間的に間に合わず途中から有料特急を使いまくって最後は新幹線で帰りました。
行き当たりばったりでバタバタでしたが、目標だった四国100名城制覇も達成出来、美しいお城と景色もいっぱい見られ、列車もいろいろ乗れて楽しい旅でした。
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2022年4月8日(金)
本日2件目のお城は松山城。
急いでたからここまで来る過程の写真を全然撮ってませんでした。
路面電車で道後公園→大街道まで移動し、大街道から松山ロープウェー商店街を歩いてロープウェイ乗り場へ。松山城への登山道もありますが、楽して早く行きたい派の私はロープウェイを利用。
ここロープウェイ「東雲口」駅から本丸手前の「長者ヶ平」駅までは、ロープウェイかリフトかどちらかを選んで登れます(料金は同じで往復520円)。ロープウェイは10分ごとに発車、リフトはすぐに乗れるのでリフトを選びました。
久しぶりのリフトで乗る時と降りる時ちょっとドキドキ。松山城山東雲登山口~長者ヶ平ロープウェイ 乗り物
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約6分でロープウェイ長者ヶ平(ちょうじゃがなる)駅に到着。そこからは天守を目指してしばらく歩きます。登りがつらいけど石垣が見えてきてテンションが上がります。
この先に見えているのは隠門続櫓です。 -
【石垣】
石垣は、松山城を特徴づける構造物の一つで、中でも「登り石垣」は、全国で最大規模を誇ります。石材には主に花崗岩が使用され、隅部(すみぶ)はほとんどが算木積(さんぎつみ)です。
本丸を囲む高石垣(たかいしがき)は、高さ10mを越え、美しい曲線を描く扇勾配(おおぎこうばい)と、屈折を連続させることで防御性を高めた屏風折(びょうぶおれ)が特徴です。江戸時代に改修を受けている部分もありますが、北側を中心に、加藤嘉明による築城時(慶長7年(1602年)~)の典型的な石垣が良く残されています。その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積(らんづみ)です。
一方、本壇(ほんだん)の石垣は、北側と南側で異なっています。北側は、時期はわかりませんが、打込ハギの布積(ぬのづみ)で、隙間に合わせて加工された間詰石(まづめいし)が詰め込まれている特徴がみられます。南側は、北側より新しく、嘉永(かえい)年間(1848~1854年)、天守などが再建された際に、新しく積みなおされ、十分に手間をかけた切込ハギの布積で、隙間のない整った外観となっています。
※算木積・・石垣の隅部の積み方で、細長い石を使用し、長辺と短辺を交互に積み上げる方法である。16世紀後半から登用され、慶長10年(1605年)頃に完成しているため、石垣築造年代の判定ができる。
※打込ハギ・・打ち欠いた石材を用い、接合面を合わせて積み上げる方法で、自然石を用いた野面積より隙間が少なく、高く積み上げることができる。
※切込ハギ・・整形した石材を用い、密着させるように積み上げる方法である。
※乱積と布積・・乱積は、横方向の目地が通らない積み方で、布積は、横方向の目地が通る積み方である。
※長者が平(なる)から登り、最初に見える右手の美しい勾配の石垣(高さ約16m)は、昭和20年に長雨で崩れたため、同22年に修復されている。戦後、最初の大規模な石垣工事であり、その記念名が隅石に刻まれている。 -
長者ヶ平から石畳を歩いた先にある美しい勾配の石垣と隠門続櫓。
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【待合番所跡】
【大手門跡】
大手門は、慶長年間(1596~1615年)の築城時に建てられ、山麓にある二之丸および三之丸(堀之内)へ通ずる重要な門です。古文書や古絵図には、「尾谷二ノ門」「待合御門」「待合一ノ門」などと記されています。明治時代に、揚木戸門とともに取り壊されました。
【待合番所跡】
待合所跡待合番所は、東雲口からの登城道と二之丸からの登城道の合流する地点に、警備のために設けられました。その場所は、はっきりしていません。古文書には、常時三人が詰めていたと記されています。
この場所は、東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手の入口で最も堅固な筒井門に続く要点で、兵力運用の重要拠点ともなっています。
なお、古文書には、揚木戸門から大手門までの石垣上に、6箇所の石落、76箇所の鉄砲狭間、11箇所の矢狭間が備えられていた渡塀(土塀)があったことが記されています。
※石落(いしおとし)・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※狭間(さま)・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。 -
待合番所跡
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大手門跡
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大手門跡を抜けた先には、【二之丸史跡庭園】、【黒門口登城道】があります。
今回行けなかったけど二之丸史跡庭園には恋人の聖地があるそうです。 -
大手門跡脇から大きな太鼓櫓と正面に本壇が見えます。
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太鼓櫓と本檀と屏風折石垣
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この道をまっすぐ行けたら本壇まで近そうだけど行き止まりでした。
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手前に戻って、右側から入ります。
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重要文化財【戸無門(となしもん)】
【中ノ門跡】
平門跡中ノ門は、大手登城道の太鼓櫓石垣下に設けられていましたが、明治時代に取り壊されました。 この門を設けることで、攻めてきた寄手は、門を通り過ぎて直進する者と、戸無門へ行く者とに分かれることになりますが、直進した者は乾門(いぬいもん)下で行き止まりとなります。
太鼓櫓から乾門へ続く石垣は、屏風折と呼ばれ、石垣が屈折しています。これは、寄手がどこにいても弓や鉄砲で射撃することができる横矢掛(よこやがかり)といわれる防衛上重要な構造となっています。
※寄手・・攻めてきた敵の兵士や軍勢のこと。
※横矢・・・二方向以上からの射撃を横矢という。敵に対して二方向以上から射撃することを横矢掛という。
さっきの道を折り返さないで直進すると行き止まりなんだね。
【戸無門】
戸無門は、本丸の大手登城道に設けられた高麗門(こうらいもん)です。門は、両脇の寄掛柱(よせかけばしら)を石垣にもたせ、脇戸(わきど)はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱(かがみばしら)に扉を吊る肘壺(ひじつぼ)の痕跡もないので、創建当初から扉を持たなかったものと考えられています。
建築年代は明らかではありませんが、寛永(かんえい)から正保(しょうほう)年間(1624~1648年)の建立になるものと推定されています。また、寛政(かんせい)12年(1800年)に建替えられたことを示す棟札(むなふだ)が残されています。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
戸無門を過ぎて左折すると、大手で最も堅固な筒井門(つついもん)と隠門(かくれもん)の防衛線に達します。
※棟札・・建物の建築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと。 -
戸無門 背面
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重要文化財【隠門(かくれもん)】
【筒井門】
筒井門と隠門は、本丸大手の重要な固めで、城内で最も堅固な建造物の一つです。
筒井門は脇戸付の櫓門で、慶長年間(1596~1615年)の築城に際し、正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられる城内最古の建物の一つでした。明治時代になってから石落や窓などが改変されましたが、昭和10年(1935年)国宝に指定され、同12年に修復工事が実施されました。
同24年(1949年)2月、放火によって消失しましたが、同42年と43年に両側の石垣が解体修理され、同46年3月に総て栂(とが)で復元されました。門戸には楠(くす)の一枚板が用いられています。
焼失前、門の棟木裏には、「慶長□□年四月マサキヨリウツス也」と墨書されていました。
【隠門】
隠門は、正門である筒井門の奥の石垣の陰に隠された、埋門(うずめもん)形式の櫓門で、戸無門を通過して筒井門に迫る寄手の側面を急襲する策略が秘められています。
欄間(らんま)は戸無門同様の格子(こうし)欄間で、2階は筒井門東続櫓と隠門続櫓とを結ぶ渡櫓(わたりやぐら)となっています。
慶長年間(1596~1615年)の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重
な建造物です。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財となりました。
これを過ぎると、太鼓櫓と巽櫓の防衛線に達します。 -
筒井門とその上に筒井門続櫓、右奥に石垣の陰に隠された埋門の隠門があります。
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筒井門
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筒井門背面、筒井門続櫓
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重要文化財【隠門続櫓(かくれもんつづきやぐら)】
隠門続櫓は、隠門2階の渡櫓の東側に接続する平橋で、長者が平(なる)からの登城道を監視する目的で、揚木戸門(あげきどもん)前の本丸石垣の上に建っています。平面形は、石垣に合わせて東側に突き出た変則的なものとなっており、西側は隠門渡櫓につながっています。
隠門と同様に慶長(けいちょう)年間(1596~1615年)の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物です。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財となりました。 -
隠門 背面
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隠門、隠門続櫓、筒井門、筒井門続櫓
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【太鼓門(たいこもん)】
本丸大手の正門と位置付けられている脇戸付(わきどつき)の櫓門で、巽櫓(たつみやぐら)や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く第2の防衛線となっています。
築城時に建てられたと考えられ、明治時代になり石落や窓などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同47年(1972年)2月に門は欅、階上は栂(つが)で復元されました。門の両側の石垣には、戦災による剥離が残されています。
なお、戦後、太鼓門南続櫓跡には、朝6時、正午、夕方6時の時報にあわせて音楽を流すミュージックサイレンが置かれ、市民に親しまれていました。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。 -
太鼓門
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太鼓門
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【太鼓櫓(たいこやぐら)】
太鼓櫓は、本丸の西南隅に配置された矩折(かねおり)の二重櫓です。この櫓は、巽櫓(たつみやぐら)・太鼓門・同西塀と同じ高さ(約7m)の石垣の上に築造されており、これらは一連の防衛線となっています。
築城時に建てられたものと考えられ、明治時代に石落(いしおとし)や突揚戸(つきあげ)などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同46年(1971年)に西面の石垣が解体修理されたあと、同48年(1973年)3月に総て栂(つが)で復元されました。
なお、古絵図には、太鼓櫓前に本丸広場の警備の番所(ばんしょ)が記されています。
※矩折・・「矩」は直角を意味する。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※突揚戸・窓に取り付けられた板戸で、跳ね上げ式に外へ開き、棒で支えられている。
【太鼓門西塀】
太鼓門西塀(大鼓櫓東塀ともいう)は、長さ24.41mで、2箇所の石落と21箇所の狭間が備えられています。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同43年(1968年)から始められた木造復興計画の最後として、平成2年(1990年)に復元されました。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。 -
太鼓櫓
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本丸内から見た太鼓櫓
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【本丸】
本丸は城の防衛上最後の砦となる郭で、高さ10mを越える高石垣に囲まれ、南北約300m、東西約30~180mという全国的有数の規模を誇っています。高石垣は美しい曲線を描く扇勾配と、屈折を連続させることで防御性を高めている屏風折が特徴です。江戸時代には、その上に石落や狭間をある渡塀(土塀)がめぐり、また要所には櫓が配置され、城下からは塀や櫓に囲まれた天守が望めたと考えられます。
本丸北側には、松山城の中心である連立式天守の本壇が配置され、本丸南側には大手(正面、表口)である大手門、北側には搦手(背後、裏口)である乾門があります。乾門付近には、乾櫓や野原櫓という城内で最古の櫓が残されています。 -
本丸広場からの眺望
本丸、天守、屏風折の石垣が見られます。 -
【井戸】
この井戸は、築城時に谷だった場所を埋め立てるのにあわせて、泉を掘り下げ、石を積み上げて造られたと伝えられています。深さは44.2m、水深は9mあり、戦前までは釣瓶(つるべ)が備えられ、冷水を汲み上げて飲むことが許されていました。
上屋は昭和20年(1945年)7月の戦災で焼失したため、同27年(1952年)3月に城内で初めて再建されました。
井戸には、①底がない、②天守と二之丸への抜け穴がある、③大こうもりがいる、④水をきれいにするため大判・小判が投げ込まれている、などの伝承が残されていましたが、いずれも真実でないことがわかっています。 -
井戸
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【馬具櫓(ばぐやぐら)】
馬具櫓は、本丸広場の西側にある二重櫓で、太鼓櫓とともに、二之丸方面の監視・防衛を担う櫓です。
この櫓は、明治43年(1910年)に「松山公園」として開園される直前、管理人用寝泊所として改装されました。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同33年(1958年)3月に本丸の防災ポンプ操作室として鉄筋コンクリート造で再建されました。木造以外の工法で再建された城内唯一の建物で、現在は、本丸の防災を含む管理事務所となっています。
再建には、西側石垣(高さ約13m)に荷重を与えないようにするため、建物直下にケーソン工法の基礎3個が用いられています。この工事中、ケーソン基礎2個の最深部(深さ約4.7~5.9m)で、現在の石垣とは別の石積が発見されました。これは、まだ知られていない松山城の歴史を示すものかも知れません。 -
馬具櫓
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本丸広場から見た本檀
松山城 名所・史跡
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正面の「松山城観覧券発売所」で観覧券を購入して本壇に入場します。
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【松山城観覧券】の半券と裏面の説明書き
「松山や 秋より高き 天主閣 子規」
松山城は慶長七年(一六〇二年)、戦国時代の勇将で、賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍で有名な加藤嘉明により築城をはじめられたもので、勝山山頂に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸を整備した広大な規模の城郭である。江戸時代に建築再建された天守や城門、櫓など21棟は重要文化財に指定されている。特に安政元年(一八五四)年に再建された天守は、連立式天守で全国に現存する12城のうち一番新しい建築であるが、築城当時の縄張りをよく残している。 -
観覧券に似せてズームで撮ってみました。
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重要文化財
【紫竹門東塀(しちくもんひがしへい)】
乾門方面から攻撃に備えたものである。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、嘉永期の再建と見られる。昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。 -
紫竹門東塀と本壇
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本壇入口
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本壇入口
奥が天守、左が小天守、右が一ノ門南櫓 -
重要文化財【一ノ門】
脇戸附の高麗門で本壇の入口になるのでこの名があり、木割りも豪放である。二ノ門南櫓・三ノ門南櫓・小天守から射撃される構えとなっている。天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、天明六(一七八六)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。 -
一ノ門(城内側)と小天守
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重要文化財
【二ノ門(にのもん)】
本壇における第二番目の門で、薬医門の形式を持つ。天守・三ノ門東塀から射撃される構えとなっている。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、嘉永五(一八五二)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。 -
ニノ門
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ニノ門(城内側)
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【松山城 本壇 配置図】
【本壇】
松山城本壇は、天守を中心とする城郭建造物群の中枢です。本壇入口から天守広場までは、一ノ門、二ノ門、三ノ門、筋鉄門(すじがねもん)が設けられ、それぞれに塀と櫓を伴っています。一ノ門から二ノ門までの石垣や櫓で囲まれた空間には、30を超える狭間が備えられ、最終防御施設として厳重な構えとなっています。
本壇内の西では、天守、小天守、北隅櫓、南隅櫓が天守広場を取り固み、それらは十間廊下などの渡櫓で連結されており、姫路城と同じ連立式の建築形式となっています。
本壇外周の石垣は、巧みに屈曲を繰り返し出隅(ですみ)に櫓が配され、東面と西面の石垣は、城壁の中央を内側に折り曲げ防御性の高い「相横矢(あいよこや)」と呼ばれる石組になっています。また、ここでは、石垣の改修を確認でき、北は打込ハギ、南は切込ハギで、年代の異なる特徴を示しています。 -
重要文化財
【三ノ門(さんのもん)】
本壇における第三番目の門で高麗門の形式を持つ。三ノ門南櫓・天守から射撃される構えとなっている。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失
し、嘉永五(一八五二)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。 -
三ノ門
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三ノ門から見上げた天守
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重要文化財
【三ノ門南櫓(さんのもんみなみやぐら)】
一ノ門・二ノ門・三ノ門を防衛する役目を持つ一重櫓である。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失
し、嘉永五(一八五二)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。 -
三ノ門南櫓
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重要文化財
【筋鉄門東塀(すじがねもんひがしへい)】
一ノ門南櫓・一ノ門・小天守を防衛する。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失
し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみら
れる。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。 -
筋鉄門東塀
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登録有形文化財(建造物)
【筋鉄門(すじがねもん)】
脇戸附の櫓門で、門の柱に鉄板が張ってあるのでこの名がある。櫓は天守と小天守の通路となり、三ノ門を防衛する構えとなっている。
天明四(一七八四)年雷火のため焼失し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみられる。
昭和八年、放火によって一部消失したが、同四十三
年五月に昔日の姿に復元された。
令和元年九月十日に登録有形文化財(建造物)に登録された。 -
筋金門
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筋金門を抜けて天守広場に入りました。
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松山城 本壇 配置図
【天守】
天守は三重三階地下一階で、全高は天守広場から約20mあります。また、天守台石垣は、加工された石が隙間なく積まれ(切込ハギ)、4.1mの高さがあります。この石垣に囲まれる空間が、地下階となっています。
慶長年間(1596年~1615年)、加藤嘉明(かとうよしあき)の創建当初は、五重であったと言われています。寛永19年(1642年)、松平定行(まつだいらさだゆき)が、三年の年月をかけて三重に改築しましたが、天明4年(1784年)正月、落雷によって焼失しました。
安政元年(1854年)に再建され、わが国城郭建築史上最後の天守となりました。
形式は、塔の様に屋根を重ねた「層塔型(そうとうがた)」と言われる構造です。外観は、南北屋根妻側は、一重目に千島破風(ちどりはふ)が、二重目に唐破風(からはふ)が、東西屋根には一重目二重目とも千島破風が付けられています。随所に失や弾丸を放つ狭間が備えられ、窓には塗籠(ぬりごめ)格子、さらに四方に張りだした破風には鉄砲狭間が備えられ、外壁も三階は漆喰塗(しっくいぬり)の白壁となりますが、一階と二階は下見板(したみいた)が張られるなど武装建築としての様相をよく留めています。
地下にある穴蔵(穀倉)入口上部には、城内最大(約6トン)と言われる花崗岩(かこうがん)五本が並列し、また内部の柱・梁には抗腐力の強い楠(くす)材が用いられています。
【本壇建築物の木造復興】
本壇建物は、天明4年(1784年)落雷によって焼失した後、ほとんどが、弘化4年(1847年)から安政元年(1854年)に再建されました。この再建された建物の中で、以下の建物は、昭和8年(1933年)7月、怪火によって、小天守、多聞櫓、南隅櫓、北隅櫓、十間廊下(じっけんろうか)、玄関多聞櫓、玄関、内門、筋金門が焼失しましたが、昭和43年(1968年)5月に昔日の姿に復興されています。 -
登録有形文化財(建造物)
【小天守(こてんしゅ)】
天守につぐ大きさの二重二階の櫓で、大手・搦手を防衛する絶好の位置にある。純白の外壁が天守の黒漆の板壁と対比して美しい。
天明四(一七八四)年雷火のため消失し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみられる。国宝に指定される直前の昭和八年、放火によって消失した。
同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
今和元年九月十日に登録有形文化財(建造物)に登録された。 -
本壇内から見た小天守
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登録有形文化財(建造物)
【多聞櫓(たもんやぐら)】
南陽櫓と小天守とを連結する建物で南陽糖と紫竹門とを防衛する。
天明四(一七八四)年雷火のため消失し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみられる。国宝に指定される直前の昭和八年、放火によって消失した。
同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
今和元年九月十日に登録有形文化財(建造物)に登録された。 -
本壇内から見た多聞櫓
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登録有形文化財(建造物)
【南隅櫓(みなみすみやぐら)】
本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防衛するとともに、二之丸・三之丸を監視する二重櫓である。
天明四(一七八四)年雷火のため消失し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみられる。国宝に指定される直前の昭和八年、放火によって消失した。
同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
今和元年九月十日に登録有形文化財(建造物)に登録された。 -
本壇内から見た南隅櫓
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登録有形文化財(建造物)
【十間廊下(じっけんろうか)】
北隅櫓と南隅櫓を結び、その桁行が十間であるのでこの名がある。乾門正面を防衛する重要な位置にある。
天明四(一七八四)年雷火のため消失し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみられる。国宝に指定される直前の昭和八年、放火によって消失した。
同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
今和元年九月十日に登録有形文化財(建造物)に登録された。 -
本壇内から見た十間廊下
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本壇内から見た小天守、多聞櫓、南隅櫓、十間廊下
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登録有形文化財(建造物)
【北隅櫓(きたすみやぐら)】
本壇の西北隅に位置し、乾門・野原櫓および北郭方面を防衛する二重櫓である。
天明四(一七八四)年雷火のため消失し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみられる。国宝に指定される直前の昭和八年、放火によって消失した。
同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
今和元年九月十日に登録有形文化財(建造物)に登録された。 -
本壇内から見た北隅櫓
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登録有形文化財(建造物)
【玄関(げんかん)】
【玄関多聞櫓(げんかんたもんやぐら)】
本来の出入口であった玄関を上がったところで、内門櫓を経て天守に通じる仕切門・内門・北隅櫓を防衛する。
天明四(一七八四)年雷火のため消失し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみられる。
国宝に指定される直前の昭和八年、放火によって消失した。同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
今和元年九月十日に登録有形文化財(建造物)に登録された。 -
本壇内から見た玄関、玄関多聞櫓
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重要文化財【天守(てんしゅ)】
慶長年間、加藤嘉明が松山城郭を創建した当時、天守は五重であったといわれる。
寛永十九年(一六四二)年に松平定行が三重に改築したが、それから約百四十年のちの天明四(一七八四)年に雷火のため焼失した。その後七十年を経て安政元(一八五四)年に天守の再建工事が落成した。これが現存のもので、三重三階地下一階附の建造物である。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。 -
重要文化財【穴蔵(あなぐら)】
天守の地下一階にあたり、俗に穀倉や米蔵という。内部に防腐力のつよい樟材を使用し、床に素焼きの煉瓦を敷いて湿気を避けている。
平面積八九・二五平方メートルで約二千俵の米が貯蔵可能といわれる。現在は天守の入口に使用されている。 -
本壇内から見た天守
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玄関多聞櫓
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北隅櫓
初代城主加藤嘉明の兜と鎧 -
十間廊下
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十間廊下の展示物
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十間廊下に並ぶ【狭間(さま)】
塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。 -
南隅櫓
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多聞櫓の展示物
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多門櫓から小天守へ
小天守の露出した石垣が見えます。 -
小天守1階
松山城 小天守 名所・史跡
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【石落(いしおとし)】
天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。 -
小天守2階へ上がります。
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小天守2階
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【松山城の上棟式に使用された弓矢】
上棟式は棟木(むなぎ)を棟に上げる際、建物の守護神や工匠の神に工事進捗の感謝と加護を祈願し、末永く禍(わざわい)なく幸多いことを祈る祭祀(さいし)である。弓矢は式具の一つで不祥(ふしょう)を祓い除くものといわれている。 -
小天守から見た本丸広場
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小天守から見た屏風折石垣
手前から馬具櫓、太鼓櫓、戸無門が見えます。 -
小天守から見た本壇虎口(一、二、三ノ門)の複雑な進入路
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小天守から見た内庭(天守広場)
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小天守から筋鉄門の上を渡り天守へ
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天守最上階
松山市街や瀬戸内海まで見渡せて360度の絶景が楽しめます。
松山城の天守は三重三階地下一階(層塔型天守)。
天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。 本壇は本丸から8.3m高く、本丸の標高は約132mなので、天守の標高は約161mになります。これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。 -
南
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南方面
本丸広場、松山市中心部 -
東方面
道後温泉本館、道後公園(湯築城跡)、石鎚山 -
北
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北方面
瀬戸内海、松山市北部 -
西
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西方面
瀬戸内海、興居島
下には、内庭の小天守、南隅櫓、北隅櫓、玄関多門櫓が見えます。 -
登録有形文化財(建造物)
【内門(うちもん)】
天守の西側に位置し、仕切門との間は枡形となっている。上の櫓は天守と玄関多聞櫓の通路である。天守および玄関多聞櫓の戦力によって防衛される。
天明四(一七八四)年雷火のため消失し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみられる。昭和八年、放火によって一部消失したが、同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
今和元年九月十日に登録有形文化財(建造物)に登録された。 -
内門
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重要文化財
【仕切門内塀(しきりもんうちへい)】
乾門方面に対し側防の構えとなっている。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失
し、安政元(一八五四)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。 -
仕切門内塀
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重要文化財
【仕切門(しきりもん)】
脇戸附の高麗門であって、天守の北側に位置し、内門との間が枡形となている。天守・玄関多聞櫓によって防衛される仕組みである。
天明四(一七八四)年雷火のため消失し、嘉永五(一八五二)年までに再建されたとみられる。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。 -
仕切門
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仕切門
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【天神櫓(てんじんやぐら)】
本壇東北の隅に位置し、艮橋・艮門および小筒櫓を訪衛する。またこの櫓には松平(久松)家の先祖である菅原道真(天満天神)の像を安置し、城の安全を祈ったのでこの名がある。
昭和二十年戦災により焼失したので同五十四年九月に古い資料に基づいて昔日の姿に復元された。 -
天神櫓
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天神櫓付近から見た天守
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松山城は、重要文化財と有形文化財がめっちゃ多くて現存12天守の連立式天守も高石垣もかっこよかったです。本当に良いお城ですね。
今回もスポットの見逃しや撮り忘れがたくさんあったけどまた今度来た時に。すっかり忘れてるけど松山城には数十年前にも来たことがありました。 -
帰りのリフト。
麓の町並みが少々見えます。 -
12時05分
JR松山駅に戻って来ました。
往復の移動も含めて松山城に3時間ぐらいかかって、予定より全然遅れてます。
さあ!次のお城「宇和島城」へ向かいますよ!松山駅 (愛媛県) 駅
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スタンプの設置場所は、松山城天守入口です。
スタンプには、本壇の連立式天守(天守・小天守・櫓・渡櫓)を上から見た図がデザインされています。
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