2022/04/09 - 2022/04/09
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ケーさん
日本100名城巡り
☆43城目☆高知城(No.84)
高知県の100名城は、高知城の1城です。
四国地方の100名城(丸数字は今回行った順番)
76 徳島城(徳島県徳島市)⑧
77 高松城(香川県高松市)①
78 丸亀城(香川県丸亀市)⑨
79 今治城(愛媛県今治市)⑥
80 湯築城(愛媛県松山市)②
81 松山城(愛媛県松山市)③
82 大洲城(愛媛県大洲市)⑤
83 宇和島城(愛媛県宇和島市)④
84 高知城(高知県高知市)⑦
前回の旅行記
四国一周3泊4日の旅(6)今治城 日本100名城巡りの巻
https://4travel.jp/travelogue/11929240
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2022年4月9日(土)
今治(10:59発)→多度津(12:21着)7駅
JR特急しおかぜ14号 岡山行
多度津(12:49発)→高知(14:42着)
JR特急南風9号 高知行
今日の予定は今治城と高知城の2城を巡ること。
まずは今治城に行って5件もある愛媛県の100名城を制覇しました。お次は高知県の100名城高知城へ向かいます。
今治から高知までは3時間43分かかります。
遠いな~。
列車での四国一周で、もっと効率のいいコースはあると思うけど既に遅いし今は知りたくない(現実逃避)特急 南風 乗り物
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特急南風車窓からの景色
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停車していた白い列車。観光列車かな。
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JR高知駅から高知城までは歩いて行きました。(徒歩25分)
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国宝高知城の碑
昭和9年(1934)に国宝に指定されましたが、昭和25年(1950)に文化財保護法が制定されたことに伴い、現在は15棟の建造物が重要文化財に指定されています。高知城 (高知公園) 名所・史跡
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山内一豊の銅像
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【山内一豊の銅像】
土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(愛知県)岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年(1573)豊臣秀吉に従って純田信長の朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の傘下として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(滋賀県)長浜2万石の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(静岡県)掛川5万石を領した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて翌6年入国。高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。
慶長10年(1605)9月20日没。61歳。
この銅像は大正2年(1913)に建設された銅像の原形をもとにして平成8年(1996)9月20日に再建除幕された。 -
【高知城の沿革】
高知城はもと大高坂城といい、南北朝時代には大高坂松王丸がここに砦を築いて南朝方に味方して戦った記録があります。
戦国時代の天正16年(1588)、土佐の国主であった長宗我部元親がここに築城して、岡豊城(南国市)から移りましたが、城下が低温地のため水難に悩まされ、3年ほどで浦戸に移りました。
期間が短く、その規模や構造は明らかになっていません。
現在の城郭は、慶長5年(1600)の関ヶ原の功績を認められて、土佐の初代藩主となった山内一豊によって慶長6年から築城され、2年後主要部分が完成しましたが、全体の完成には10年を要しました。享保12年(1727)追手門など一部を残して焼失、宝暦3年(1753)元の姿に再建されました。
明治6年(1873)いち早く都市公園としての整備が進められて廃城を免れ、追手門と本丸の全構造物を残して県立の公園として発足しました。
全国に残る12の旧城の一つで、築城当時の複雑巧妙な縄張りを残す石垣、豪壮な木割りの追手門、規模は小さいながら優美な姿を誇り、南海道随一の名城とうたわれた天守間、それに付属する本丸御殿をはじめとして、本丸の全建造物が完全な姿で残されているのは、全国でも高知城だけです。
昭和9年(1934)国宝に指定されましたが、昭和25年(1950)に文化財保護法が制定されたことに伴い、現在は15棟の建造物が重要文化財に指定されています。
また、昭和34年(1959)城跡一帯が史跡に指定されました。
戦後は、各建造物の解体修理に着手、追手門は昭和26年(1951)に、天守閣は同30年、その他の建造物は34年3月にそれぞれ改修竣工しました。 -
【高知城マップ】
①山内一豊像 ②追手門
③石落とし ④板垣退助像
⑤山内一豊妻像 ⑥杉ノ段
⑦鉄門跡 ⑧三ノ丸
⑨石樋の構造 ⑩長宗我部期石垣
⑪丑寅櫓跡 ⑫詰門
⑬二ノ丸 ⑭本丸
⑮天守 ⑯懐徳館
⑰黑鉄門 ⑱忍び返し
⑲太鼓丸 ⑳桜山
㉑御台所屋敷跡 ㉒八幡宮跡
㉓獅子ノ段 ㉔搦手門跡 -
追手門(重要文化財)
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【追手門】
石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えを持つ。門前は枡形になっており、防御時には石垣上の狭間塀や門上から攻撃できるようになっている。また、門の2階には「石落とし」もあり、門の直上から石を落としたり槍を突くことができるようになっている。門前の石垣は城内で最も巨石が多くみられる場所であり、工事の際に印された「ウ」、「エ」、「ケ」、「シ」などの刻印も確認することができる。
【追手門から杉ノ段まで】
追手門をくぐり左手の石段を登り詰めると杉ノ段に至る。石段は登りにくく下りやすいよう幅が工夫されている。現在は蓋がされている井戸は良質の飲料水を汲めたことから、藩主の居住する二ノ丸御殿まで毎日10時、12時、16時の計3回運ばれていたという。藩主のお国入りや出駕の時には、一族がここまで送迎に出向いていた。高知城追手門 名所・史跡
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【追手門】
慶長年間創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように南面に建てられた城の正門である。
重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、欅を用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取付けている。その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えている。 -
追手門の石垣
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【板垣退助像】
初代は大正12(1923)年12月5日除幕。製作は坂本龍馬の銅像も作った、高知県宿毛市出身の本山白雲、総工費15,646円99銭。銅像の高さは2.46m。
銅像本体は戦時中、金属回収のため供出されることになり、昭和18(1943)年9月2日に壮行式が行われた。現在の銅像は、昭和31(1956)年5月11日に再建除幕されたもの。製作は夜須町出身の浜口青果、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。銅像の高さは2.20m、台座4.205m、全高6.405m。板垣退助銅像 名所・史跡
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【板垣退助(1837-1919)】
近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保8年(1837)4月17日、高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊辰戦役の折に先祖の板垣姓を名乗り、武勲を立てた。
維新後、新政府の参議に列したがやがて下野、明治7年(1874)1月、民選議院設立建白書を左院に提出したのち帰高。同年4月、高知に立志社を創立して自由民権論を唱えた。明治14年(1881)10月、自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途上、4月6日岐阜中教院で暴漢に刺された。血潮に染まりながら板垣の叫んだことばは、いつしか
「板垣死すとも自由は死せず」
の名文句となり、怒濤の如く全国に伝承され自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。
明治20年(1887)5月、伯爵を授けられたが一代華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任ぜられること2回、晩年は政界を隠退し、社会改良運動に専念した。相撲や居合道などの発展のためにも尽力したが、大正8年(1919)7月16日、83才で死去した。遺著に「一代華族論」・「武士道」・「神と人道」・「獨論7年」・「立国の大本」等がある。 -
山内一豊の妻の銅像
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【山内一豊の妻の銅像】
山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれ。通称千代といわれているが、これを裏づける確かな資料はない。出身についても通説では近江国(滋賀県)滝井氏の家臣若宮友興の娘とされているが、近年では美濃国(岐阜県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。
幼い頃父を失い、17、8歳の頃一豊と結線、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世出を助け逸話が残されている。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られている。
また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縫りこめた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになった。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られている。元和3年(1617)12月4日、京都で没、61歳。法号見性院(けんしょういん)。
この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕された。 -
杉ノ段
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井戸跡
現在は蓋がされている良質の飲料水を汲めたという井戸。 -
【杉ノ段】
かつて杉の巨木がたくさんあったのでこの名がある。北の部分には塗師部屋があり、また長崎から求めてきた舶来品を入れる長崎蔵があった。
ニノ丸へ上る道の南側に残る井戸は、深さ約18メートルあり、記録にある城内 14の井戸のうちで最も水質が良かったので、毎日午前10時・正午・午後4時の3回この井戸水を汲み、藩主の住む二ノ丸殿に運んだという。この段を北に回った部分には重要書類などを保管する証文蔵が離れて建てられており、南には鐘撞堂などのある太鼓丸があった。城内の林にはたぬき・うさぎ・いのしし・あなぐまなどの動物がいたと記録されている。
杉ノ段には国学者で『万葉集古義』を著わした鹿持雅澄(1791~1858)の愛の碑、高知県の水力発電に功績のあった清水源井しみずげんせい(1860~1924)記念碑、明治初期の医師であった星野秀太郎(1859~88)・楠正興(1829~87)・岡村算機(1835~1890)の記念碑、浜田波静(1870~1923)の句碑、山内一豊の妻の銅像などがある。 -
犬走りと天守
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天守
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天守
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石樋(いしどい)
雨の多い土佐のこと、高知城において「雨仕舞い」は敵からの防御と並び重要であった。城内には多くの水路が設けられ、石垣から飛び出した石樋で排水していた。城内で16箇所が確認され、本丸の石樋はいまも現役である。三ノ丸で発掘された水路と石樋は構造をいつでも見ることができるようになっている。 -
【石樋(いしどい)】
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鉄門跡
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鉄門跡
打込みハギで丁寧に築かれている石垣。 -
【鉄門跡】
この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。ここを入ると二ノ丸から本丸に通じる重要な位置にあるため石垣は整然と築かれていて、門の扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられていたので、鉄門と称された。
小さな枡形を形作っている門の内側には番所があって、弓・鉄砲を持った番人と足軽が詰めていた。
右と正面の石垣の上には矢狭間塀がめぐらされていて、門内に侵入した敵を3方面から攻撃できるようになっていた。左に曲がって石段を上ると、矢狭間塀のために右手の二の丸方向への道は見えず、むしろ詰門への石段が連続して見えるので、自然と詰問の方向に導かれるように巧妙に設計されていた。石段は18段あって「一八雁木」と呼ばれていたが、現在は16段になっている。石段の中間から鉄門の二階に上がれるように設計されており、その辺りの石には切り出した時の楔の跡がそのまま残っているものがみられる。 -
詰門(重要文化財)
【鉄門跡と詰門】
杉ノ段から右手に石段を登ると打込ハギという手法で築かれた堅牢な石垣が目立つ鉄門跡に至る。当時は門扉に多数の小鉄板が打ち付けられ、門内には小さな枡形が設けられた重要な防衛ポイントであった。再建時に積み直された石垣には、石を割るための楔の跡も残っている。
鉄門跡の階段を越えると右手前に三ノ丸、右手に二ノ丸、左手に本丸と天守閣が迫り、真正面には数段の石段越しに黒塗りの詰門がみえる。敵はここで自然に正面の詰門側へと誘導され、石段を登るが最後、三方から矢と鉄砲の嵐に見舞われる。門内は侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されており、1階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっている。 -
詰門付近から見た天守
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詰門付近から見た天守
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二の丸に向かう道の手前から振り返って見た天守
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二ノ丸
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【二ノ丸】
本丸の北、三ノ丸の西上方に位置するこの二ノ丸は、三ノ丸より約8メートル高く、標高約40メートル、外輪の長さ270メートル、総面積4,128平方メートルの台地である。ここに建てられていた二ノ丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部二階建てになっていた。総面積は1,233平方メートルもあった。明治6年(1873)公園化にともなってすべての建物が撤去されたが、現在残る築山は、奥御殿の上段の間に藩主が着座したとき、正面に見える位置にあたっている。
二ノ丸にはこのほか目付役所やスキヤ櫓、家具櫓、長局(ながつぼね)などの建物があった。特に西北隅にあった二ノ丸乾櫓(いぬいやぐら)は、城内にあった8棟の櫓の内では唯一三階建てで、二階と三階の屋根には飾りの千鳥破風を配し、さながら小天守のようであった。
北側の一段下がったところに水の手門があり、綿蔵・綿蔵門を経て城八幡方面や北門の方に通じていた。 -
本丸と二ノ丸をつなぐ詰門2階の橋廊下の二ノ丸側入口
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詰門2階の橋廊下
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詰門2階の橋廊下
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【詰門(つめもん)】
詰門は本丸と二ノ丸の間の堀切に設けられた櫓門である。廊下橋としての役割も担っており、二階部分は、藩主のもとに向かう家老の待合場所であったことから、詰門の名が付けられたと言われている。
一階部分は、籠城に備え、塩を蓄える蔵になっている。入口は、東面と西面で食い違いになっており、攻め寄せた敵が容易に突破できない構造となっている。 -
天守(重要文化財)と本丸御殿(重要文化財)
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【本丸・天守閣】
本丸は標高44.4メートル、変形の土地で総面積は約1,580平方メートルある。その中に天守閣をはじめとして本丸御殿・東西多門櫓・廊下門・黒鉄門・納戸蔵などが配置され、外回りは銃眼のついた矢狭間でつないでいる。本丸のすべての建造物が完全な形で残されているのは全国12の城郭の中でも高知城だけで、たいへん貴重な遺構である。本丸の建物は慶長6(1601)創建、享保12年(1727)火災のため全焼、寛延2年(1749)前後の再建であるが、創建当時の規模をそのまま残している。天守閣の高さは18.5メートル。他の城郭に見られる天守台はなく、北面の石垣から直接建ち上げる形にしており、入り口は殿に接している。建坪は168.18平方メートル、延べ面積499.84平方メートルで、外観は四層であるが、内部は三層で六階になっている。最上階外側の四面には高欄のついた回り縁をめぐらし、外に出て展望することができるようになっている。
二階大屋根と最上層にそれぞれ銅製の鯱を置き、大屋根の南北に千鳥破風、第三層の寄棟部分は東西に唐破風を置くなど、外観を美しく見せる工夫が各所に施されている。力強い軒先の反りも見事で、小規模ながら南海道随一の名城といわれた面影を今に残している。 -
【本丸御殿など】
本丸には天守閣・本丸御殿・納戸蔵・廊下門・東多聞・西多聞・黒鉄門などの建造物が残る。現存十二城のなかでも、本丸御殿を残すのは高知城のみで、いずれも国の重要文化財に指定されている。東多聞は武器庫、西多聞は本丸警護の武士の番所、納戸蔵は藩の重要書類の収蔵、黒鉄門は儀式の際に藩主が出入りするのに用いられた。
御殿の書院は正殿、溜ノ間、玄関からなり、正殿には一段高くした上段ノ間があり、西側には武者隠しがある。欄間は土佐の荒波を表現したものになっている。創建当初の御殿は金箔張の襖など贅を尽くしたものであったが、再建時には全体に質素な造りになったという。(高知城パンフレットより) -
納戸蔵(なんどぐら)(重要文化財)
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【西多聞(にしたもん)】
構造形式 一重櫓 本瓦葺
建築年代 江戸時代中期
本丸を囲む櫓の一つ。
多聞櫓は、長屋状の建物のこと。
本丸の西側の守りを両側に延びる矢狭間塀とともに担っている。内部は、二部屋に別れている。外壁は、分厚い漆喰で塗籠められており、火災から守ると同時に風雨に備えたものとなっている。 -
西多聞櫓(重要文化財)と廊下門(重要文化財)
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黒鉄門(重要文化財)
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【黒鉄門(くろがねもん)】
構造形式 櫓門入母屋造 一階建 本瓦葺
建築年代 享保 15(1730)年
本丸南側を固める門。守りを堅固にするため、扉の外側には、黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられている。この様子から、黒鉄門と名付けられたものと考えられている。
二階部分は、武者が隠れることが出来る様になっており、門の外側に石落としが設けられるなど防御性の高い門となっている。 -
入場券
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入場券裏面
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【駕籠(かご)】
一人用の伝統的な乗り物。この覆いのある駕籠は位の高い人に使用された。
長い木の棒でつり、2人の男の人が肩に担いだ。14世紀頃、このような駕籠が使われ始め、17,18世紀頃、重要な交通手段として発展した。
【家紋(かもん)】
これは「三つ柏(かしわ)」と呼ばれている山内家の家紋で、土佐藩船の船印として使われていた。土佐出身の岩崎弥太郎が三菱を興した時、山内家と岩崎家の家を統合させて、会社のロゴを作成した。 -
二ノ丸欄間(梅丸彫)
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【二ノ丸欄間(にのまるらんま)(梅丸彫)】
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御茶所
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【御茶所(おちゃどころ)】
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うちわけ波の欄間
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【うちわけ波の欄間(らんま)】
(波の透彫欄間(すかしぼりらんま)) -
書院造
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【書院造(しょいんづくり)】
書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生まれ近世に武家の住宅様式として完成した。それは、大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物群で、個々の建物(書院)は、畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成される。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸(まいらど)・明障子(あかりしょうじ)・雨戸が立てられ、内部は間仕切が増えて大小の部屋ができ、間仕切には襖・明障子が用いられる。柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾される。また、天井には格天井(ごうてんじょう)が用いられる。
書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや座敷飾りの位置、装飾などにより、身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴する建築様式である。 -
物見窓
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【物見窓(ものみまど)】
矢狭間塀(やざまべい)に設けられた横連子(れんじ)の武者窓のことで、本丸東南面の物見(監視)を担う軍学上重要な窓。矢狭間塀には、監視や鉄砲を打つためにある狭間(ざま)が設けられているが、確認できる範囲が狭いことから監視範囲を大きくとった物見窓が設けられている。 -
【スギ円盤標本について】
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竹の節欄間
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【竹の節欄間(たけのふしらんま)】
竹の節欄間は、竹の節状のデザインがに用いられているもので間仕切りの上部に使われている。この様式は、平安時代の貴族の書院造りの館の間仕切りにも用いられた意匠と伝えられている。杉の一枚板戸(いちまいいたど)下部の引き違い板戸は、板目表面を「砂ずり仕上げ」とよばれる方法で仕上げられた一枚板の建具。板戸より数段大きい杉の大木から切り出されたものである。 -
【帳台構え(ちょうだいかまえ)】
裏は納戸となっており、藩主護衛の武士が隠れたことから「武者隠し」と呼ばれる。
【上段の間(じょうだんのま)】
外の部屋より床を一段高くした藩主の御座所(ござしょ)。来客応接の間として武家・大名の屋敷には必ず設けられた。床、違棚(ちがいだな)、付書院(つけしょいん)、帳台構(ちょうだいかまえ)の座敷飾りが付けられるのが通例である。 -
上段の間(じょうだんのま)
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【容堂(ようどう)詩書】(複製)
山内容堂(豊信)土佐藩十五代藩主
酒と詩を愛し鯨海酔候と称した。
龍馬伝では、近藤正臣さんが山内容堂を演じてましたよね。 -
帳台構え
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【帳台構え(ちょうだいがまえ)】
書院造の座敷に違い棚や付け書院とともに設けられるもので、畳より一段高いところに框を設け、鴨居を長押の下に低く取り付け、引き分け戸または引き戸の襖を設けたもの。高知城の帳台構えは、上段の間(座敷)に面した側は、襖障子に壺金が打たれ、揚げ巻き緒びを組緒にした房が取り付けられるなどの杜麗な装飾が施されている。帳台とは、貴族などの屋敷の寝間や居室のことを指すが、江戸時代の大各屋敷などでは、裏側が納戸となり、藩主護衛の武士が隠れる場所に役割が変化した。こうしたことから、「武者隠し」とも呼ばれる。 -
【武者隠し】
帳台構えの裏側の納戸。扉の先は上段ノ間。 -
【雪隠の間(せっちんのま)】
城内には、多くの便所が設けられていたが、ここ本丸御殿の雪際は、藩主しか使うことが出来ないものであった。 -
天守1階
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石落とし
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【石落とし】
石垣直下まで押し寄せてきた敵に対する防御装置。長細い開口部を直下に向けて設け、そこから石、熱湯などを落とし、弓や鉄砲、やりで攻撃を加えることができる。一階床面には取っ手の付いた床板を取付け、床下は非常時の貯蔵庫になる。 -
石落とし
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鉄砲狭間
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【鉄砲狭間(てっぽうざま)と忍び返し】
格子窓の下に開けられた正方形の小穴が鉄砲狭間である。伏せ撃ちが出来るよう窓より下の位置に設けられ
ている。天守の北面には、石垣を登る敵からの防御装置として現存天守で唯一残る「忍び返し」が付けられており、天守北面の守りを固めている。 -
土佐漆喰(とさしっくい)
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【土佐漆喰(とさしっくい)】
土佐漆喰とは、石灰石に塩を加えて焼成してできた地灰にネズサと呼ばれる発酵させた藁(わら)スサを混ぜて水でこねたもの。きめが細かく厚塗りができ、丈夫に仕上がることから風雨に強いことが特徴である。塗った直後は、クリーム色だが時間と共に固く白くなっていく。台風常襲地域である土佐の風土に合ったもので、水切り瓦とあわせて建物の外壁を特徴づけている。 -
【鎌継ぎ(かまつぎ)】
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天守2階
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再建と廃城
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高知城の天守
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入母屋破風側の破風の間
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【破風の間】(天守3階)
破風の内側に部屋を設け、人が入れるようにしたものが初期の形態で実戦的なものである。高知城の破風の間は石打ち棚と呼ばれ、物見や鉄砲狭間の役割があり、攻撃の為の小陣地になり東西南面に設けられている。北側の破風内部は隠し部屋となっている。 -
天守最上階(6階)
外側四面に高欄のついた回り縁をめぐらし、外に出て展望することができます。風が気持ちよくて眺望が見事です。 -
西方面
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西
眼下に本丸(黒鉄門、黒鉄門西北矢狭間塀、西多聞、廊下門、東多聞)が見えます。 -
北方面
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北
眼下に本丸と二ノ丸が見えます。 -
東方面
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東
追手門が見えます。
図書館、文学館、土佐女子高、歴史博物館などがあります。 -
南方面
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南
高知県庁、高知市役所、正面に筆山、運動場、野球場などがあります。 -
【天守の「重」と「階」】
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【漆(うるし)塗りの高欄(こうらん)】
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築城の技術
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天守を降りて、本丸内の櫓内部(東多聞櫓)を見学。
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一領具足の足軽
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【長宗我部氏と一領具足】
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【資料にみる土佐の一領具足(いちりょうぐそく)】
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【長宗我部(ちょうそかべ)軍の強さと一領具足】
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【兵農未分離軍団とその限界】
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東多聞櫓から廊下門(2階)入口へ。反対側には西多聞櫓。
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【山内容堂所用陣羽織(複製)】
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【本丸御殿(懐徳館(かいとくかん))】
高知城は、明治6(1873)年に明治政府から公園とすることが許可された。その時に、天守は成臨閣、本丸御殿は懐徳館と名付けられ、一般に開放された。
本丸御殿は、公式の会見で使用される書造りの正殿がもうけられるなど、もっとも格式の高い場所である。本丸御殿の遺構は貴重であり、高知城と川越城にのみ残されている。
懐電館には、明治12(1879)年から同29(1896)年まで県立図書館の転身である高知書籍館を設置され、図書が一般に公開されていた。また。県内外の有志から歴史的な美術工芸品など多数の資料が寄せられ、見学することができた。これらの資料は、現在、適切な保存環境を備えた高知県立高知城歴史博物館、高知県立歴史民俗資料館などに移管されている。 -
本丸南側の石垣の石樋。その上に石落とし。
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【三ノ丸石垣】
三ノ丸は、慶長6年(1601)の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。
石垣に使用されている石材は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太夫(あのうしゅう)が、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三ノ丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。
三ノ丸の入り口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確認され、改めてその事実が確認された。三ノ丸の石垣は、慶安3年(1650)、宝永4年(1707)に地震や豪雨により、崩壊し、修理した記録が見られる。
今回の修理は、平成11年に実施した調査により、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘週室や測量などを
実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。
工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど原状復旧をを基本として実施した。
改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21年度にかけて実施、総工費約4億円を要した。 -
三ノ丸石垣
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三ノ丸石垣
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三ノ丸石垣
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シノギ角の三ノ丸石垣
石垣の隅角が直角に近い角度で出ている所を出角(でずみ)、鈍角に出ている所をシノギ角(ずみ)と呼ぶ。石垣は長くなると壊れやすいので、それを防止する強化策。 -
帰りに追手門前で撮った写真(日が暮れて暗いし電線も入っちゃってるけど)。
100名城スタンプのデザインでもある、天守と追手門が一緒に収まるおすすめ撮影スポットです。 -
高知城を出てはりまや橋方面に歩いて向かいます。その近辺のお土産屋さんでスノードームも探してみます。
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はりまや橋
はりまや橋 名所・史跡
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はりまや橋は日本三大がっかり名所の一つで、あと二つは札幌市時計台とオランダ坂です。
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路面電車とさでんの路線図
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はりまや橋から高知駅まで路面電車のとさでんに乗って帰ります。
はりまや橋駅→ 高知城前駅(高知駅)
(とさでん桟橋線 各停 高知駅前行)
スノードームは一つも見つかりませんでした。路面電車で桂浜まで行けばあったかもしれないけど、もう18時過ぎだし疲れていたので断念。路面電車(とさでん交通) 乗り物
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朝から今治城→電車移動→高知城→はりまや橋近辺観光と今日も一日めっちゃ歩いてくたくた。夕飯はスーパーで何か買って済まそうかと思っていたらJR高知駅前に庄やさんを発見!せっかくだから高知の名物っぽい美味しいものを食べたい!っとフラフラ入りました。
昔から馴染み深い庄やさん。地域によってメニューが違うんですねー。 -
お造り1人用盛り。
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鰹のたたき 4貫 ポン酢。
鰹のたたきの生臭いのは苦手なんですが、こちらのは生臭くなくて美味しかったです。さすが高知ですね。 -
うつぼ唐揚げ。
うつぼ料理は和歌山だけでなく高知でも名物なんですね。うつぼの唐揚げは鶏肉みたいでくせがなくてこちらも美味しかったです。 -
シメは尾道ラーメン(ネギ抜き)。
高知名物だけでなく広島名物まで食べられて得した気分です。ご馳走様でした。 -
この日はJR高知駅から徒歩4分の「スーパーホテル高知天然温泉」に宿泊しました。
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天然温泉「ながおか温泉、龍馬の湯」完備、17時~21時にソフトドリンクやお酒が飲み放題のウェルカムバーあり、無料朝食付きで、快適なホテルでした。
(無料朝食の写真のみ。部屋写真撮るの忘れました) -
高知城パンフレット表紙
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高知城パンフレット
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高知城パンフレット
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高知城パンフレット
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高知城パンフレット
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高知城パンフレット
左上にうちの猫の足入り(^_^;) -
高知城のスタンプの設置場所は本丸御殿入口です。
スタンプには、現存十二天守の天守と追手門がデザインされています。
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