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「沖縄県立博物館・美術館」からはタクシーで移動します。既に正午も過ぎているので国際通りの市場本通りの入り口で降ろしてもらいます。通りをまっすぐ進むと新しくなった「那覇市第一牧志公設市場」の建物が見えてきます。以前と変わらず1階が物販のお店で2階がレストランのようなのでエスカレーターに進みます。どの店に入ろうか迷いますが、ちょうど席の空いていた「きらく」に入ります。まずはオリオンビールを注文してのどを潤します。1本580円という値段が嬉しいです。続いて妻のリクエストで島らっきょう、もずくの天婦羅、白いか炒め、沖縄焼きそば、パパイヤチャンプルーを一気に片づけます。大満足のお昼の後は1階でのお買い物です。食品は最終日に買うとして、妻は新しい大きな「にんじんしりしり」に目が釘付けです。市場の通りをぶらぶらした後は壺屋の「やちむん通り」に向かい、次の目的地の「壺屋焼き博物館」に入ります。保全中の県立博物館で頭の中は飽和状態ですが、ここも以前から来たかった博物館です。名前の通りに沖縄の焼き物に特化していますが、その歴史がよくわかる展示になっています。そして金城次郎や島常賀、大城幸祐や小橋川永昌の作品を観ることができます。質の良い作品を観てしまうと段々と欲しい気持ちが芽生えてきます。長年沖縄へ来ても今まで陶器を買ったことは小橋川永昌の窯で有名な赤絵の壺を買ったくらいでした。今回はじっくりお店も見て周り、「Sprout」というギャラリーで小橋川源慶という物故作家の壺を買い求め、さらに金城次郎の魚形の箸置きまで手に入れました。その後は壺屋の町並みを散策し、「新垣家住宅」も見学しタクシーに乗って「沖縄ホテル」に戻ります。<br />

MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(11)新しくなった第一牧志公設市場から壺屋やちむん通りを歩く。

9いいね!

2024/01/13 - 2024/01/13

4540位(同エリア7268件中)

kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

「沖縄県立博物館・美術館」からはタクシーで移動します。既に正午も過ぎているので国際通りの市場本通りの入り口で降ろしてもらいます。通りをまっすぐ進むと新しくなった「那覇市第一牧志公設市場」の建物が見えてきます。以前と変わらず1階が物販のお店で2階がレストランのようなのでエスカレーターに進みます。どの店に入ろうか迷いますが、ちょうど席の空いていた「きらく」に入ります。まずはオリオンビールを注文してのどを潤します。1本580円という値段が嬉しいです。続いて妻のリクエストで島らっきょう、もずくの天婦羅、白いか炒め、沖縄焼きそば、パパイヤチャンプルーを一気に片づけます。大満足のお昼の後は1階でのお買い物です。食品は最終日に買うとして、妻は新しい大きな「にんじんしりしり」に目が釘付けです。市場の通りをぶらぶらした後は壺屋の「やちむん通り」に向かい、次の目的地の「壺屋焼き博物館」に入ります。保全中の県立博物館で頭の中は飽和状態ですが、ここも以前から来たかった博物館です。名前の通りに沖縄の焼き物に特化していますが、その歴史がよくわかる展示になっています。そして金城次郎や島常賀、大城幸祐や小橋川永昌の作品を観ることができます。質の良い作品を観てしまうと段々と欲しい気持ちが芽生えてきます。長年沖縄へ来ても今まで陶器を買ったことは小橋川永昌の窯で有名な赤絵の壺を買ったくらいでした。今回はじっくりお店も見て周り、「Sprout」というギャラリーで小橋川源慶という物故作家の壺を買い求め、さらに金城次郎の魚形の箸置きまで手に入れました。その後は壺屋の町並みを散策し、「新垣家住宅」も見学しタクシーに乗って「沖縄ホテル」に戻ります。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
高速・路線バス 観光バス タクシー ANAグループ 私鉄 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 「沖縄県立博物館・美術館」からはタクシーで国際通りまで移動しました。市場本通りには立ち寄りたいお菓子屋さんもあるので下見しておきます。

    「沖縄県立博物館・美術館」からはタクシーで国際通りまで移動しました。市場本通りには立ち寄りたいお菓子屋さんもあるので下見しておきます。

    市場本通り 市場・商店街

  • 1年前には赤珊瑚のピアスを買ったし昨日は石垣島で黒真珠のピアスを買って、まだ何か欲しいのでしょうか。

    1年前には赤珊瑚のピアスを買ったし昨日は石垣島で黒真珠のピアスを買って、まだ何か欲しいのでしょうか。

  • 東京へ帰るまで3日あるのでこの日は買えませんが、この「やまや」の月桃に包んだムーチーが好きなので帰る日に買おうと思っています。

    東京へ帰るまで3日あるのでこの日は買えませんが、この「やまや」の月桃に包んだムーチーが好きなので帰る日に買おうと思っています。

    もちの店 やまや グルメ・レストラン

  • この辺りには何軒ものお菓子屋さんが並んでいるので店先を覗くのは楽しいです。

    この辺りには何軒ものお菓子屋さんが並んでいるので店先を覗くのは楽しいです。

  • まずは目的の「第一牧志公設市場」に向かいます。一昨年12二月に来たときはまだ工事中の囲いが残っていましたので、新しくなった姿はこれが初めてです。

    まずは目的の「第一牧志公設市場」に向かいます。一昨年12二月に来たときはまだ工事中の囲いが残っていましたので、新しくなった姿はこれが初めてです。

    第一牧志公設市場 市場・商店街

  • 建物は新しくなっても営業しているお店は同じようです。1階にはおいしそうな魚介が売っています。コロナ中の石垣島の旅で行った「舟蔵の里」という八重山の郷土料理の店で食べた夜行貝が美味しかったことを思い出します。

    建物は新しくなっても営業しているお店は同じようです。1階にはおいしそうな魚介が売っています。コロナ中の石垣島の旅で行った「舟蔵の里」という八重山の郷土料理の店で食べた夜行貝が美味しかったことを思い出します。

  • レストランの並ぶ2階へとエスカレーターで上がります。建物はきれいになっていますが、きれいになり過ぎた気もします。

    レストランの並ぶ2階へとエスカレーターで上がります。建物はきれいになっていますが、きれいになり過ぎた気もします。

  • 1周して迷った挙句にちょうど席が空いた「きらく」という店にします。

    1周して迷った挙句にちょうど席が空いた「きらく」という店にします。

  • まずはオリオンビールを注文します。クルーズ船を降りたばかりなので何でも安く感じます。瓶ビール中瓶1本580円です。ベトナムとかラオス並みの値段です。

    まずはオリオンビールを注文します。クルーズ船を降りたばかりなので何でも安く感じます。瓶ビール中瓶1本580円です。ベトナムとかラオス並みの値段です。

    きらく グルメ・レストラン

  • ここでの料理の注文は妻の希望に添うことにします。まずは島らっきょう。久し振りに頂くと美味しいです。これは市場で買って帰ることにします。

    ここでの料理の注文は妻の希望に添うことにします。まずは島らっきょう。久し振りに頂くと美味しいです。これは市場で買って帰ることにします。

  • 揚げたてのモズクの天ぷらが届きました。粉塩を軽く降っていただくとビールが進みます。

    揚げたてのモズクの天ぷらが届きました。粉塩を軽く降っていただくとビールが進みます。

  • 白イカ炒めは少し甘めの中華風でした。白いかが食べたかったので鵜sが、美味しかったけどこれはちょっと選択ミスだったかな。

    白イカ炒めは少し甘めの中華風でした。白いかが食べたかったので鵜sが、美味しかったけどこれはちょっと選択ミスだったかな。

  • パパイヤチャンプルーが絶品でした。これもビールが進みます。

    パパイヤチャンプルーが絶品でした。これもビールが進みます。

  • 初めて食べた沖縄焼きそばもさっぱりとした美味しい塩味です。白ご飯が欲しくなります。ビールを追加して全部で5,500円でした。

    初めて食べた沖縄焼きそばもさっぱりとした美味しい塩味です。白ご飯が欲しくなります。ビールを追加して全部で5,500円でした。

  • 妻は以前買ったニンジンシリシリの孔が小さいので、新たに大きな孔のものを買い求めました。1,000円なので自分で買うみたいです。さらに「みのる漬物店」で島らっきょうの漬物などもお買い上げです。

    妻は以前買ったニンジンシリシリの孔が小さいので、新たに大きな孔のものを買い求めました。1,000円なので自分で買うみたいです。さらに「みのる漬物店」で島らっきょうの漬物などもお買い上げです。

  • 市場周辺のアーケードも少し歩いてみます。市場の建物は新しくなりましたが、周辺には昔懐かしい「昭和」の雰囲気が残っています。

    市場周辺のアーケードも少し歩いてみます。市場の建物は新しくなりましたが、周辺には昔懐かしい「昭和」の雰囲気が残っています。

    むつみ橋通り 名所・史跡

  • パリにあるパサージュのほとんどを歩いたことがありますが、このアーケードも同じ雰囲気を感じます。高級ショップが居並ぶところではなく、下町にある「パサージュ・ブラディ」とか「パサージュ・デュ・プラド」、「パサージュ・デュ・ケール」を思い出します。

    パリにあるパサージュのほとんどを歩いたことがありますが、このアーケードも同じ雰囲気を感じます。高級ショップが居並ぶところではなく、下町にある「パサージュ・ブラディ」とか「パサージュ・デュ・プラド」、「パサージュ・デュ・ケール」を思い出します。

  • 張り子の「ロードワークス」にも寄ろうと思いましたが、予定通り「やちむん通り」に向かい、次の目的地の「壺屋焼き博物館」に着きました。

    張り子の「ロードワークス」にも寄ろうと思いましたが、予定通り「やちむん通り」に向かい、次の目的地の「壺屋焼き博物館」に着きました。

    壺屋やちむん通り 名所・史跡

  • ここには以前立ち寄る時間が無かったので今回楽しみにしていました。県内唯一の焼物の博物館で、焼物の基礎知識や沖縄の焼物の歴史、壺屋焼の製法や技法などがわかりやすく説明され、土器の時代から現代の壺屋の陶工達の作品まで展示されています。

    ここには以前立ち寄る時間が無かったので今回楽しみにしていました。県内唯一の焼物の博物館で、焼物の基礎知識や沖縄の焼物の歴史、壺屋焼の製法や技法などがわかりやすく説明され、土器の時代から現代の壺屋の陶工達の作品まで展示されています。

  • 入り口には島常賀作の「龍柱」が置かれてあります。首里城正殿内の「御差床(うさすか)」という国王の玉座の金色に輝く龍柱や正殿の前にあった石階段の両脇にあった「大龍柱」、手すりの奥にある「小龍柱」のことを思い出します。「首里城」が燃えている映像はトルコのアンタルヤのホテルでテレビで観たときは信じられませんでした。

    入り口には島常賀作の「龍柱」が置かれてあります。首里城正殿内の「御差床(うさすか)」という国王の玉座の金色に輝く龍柱や正殿の前にあった石階段の両脇にあった「大龍柱」、手すりの奥にある「小龍柱」のことを思い出します。「首里城」が燃えている映像はトルコのアンタルヤのホテルでテレビで観たときは信じられませんでした。

  • 「土器の使用から陶磁器の輸入まで」<br />沖縄で土器が造られたのは6600年前のことで、生で食べるか焼くしかなかった人々は土器を使うことで煮て食べるという食文化の革命を経験します。沖縄本島と周辺離島の土器は九州の影響を受けますが、宮古や八重山では異なる土器が現れます。12世紀になると徳之島で焼かれたカムィ焼きや中国陶磁器が沖縄に入ってきます。

    「土器の使用から陶磁器の輸入まで」
    沖縄で土器が造られたのは6600年前のことで、生で食べるか焼くしかなかった人々は土器を使うことで煮て食べるという食文化の革命を経験します。沖縄本島と周辺離島の土器は九州の影響を受けますが、宮古や八重山では異なる土器が現れます。12世紀になると徳之島で焼かれたカムィ焼きや中国陶磁器が沖縄に入ってきます。

  • 12世紀頃に輸入された陶磁器が展示されています。中国陶磁器の輸入は14世紀から15世紀にピークに達しますが、この時期の沖縄本島は北山と中山と南山に分かれた三山時代と重なり、それぞれが中国と正式に交流していた時代です。15世紀以降になると朝鮮やタイ、ベトナムや日本からの輸入が加わります。

    12世紀頃に輸入された陶磁器が展示されています。中国陶磁器の輸入は14世紀から15世紀にピークに達しますが、この時期の沖縄本島は北山と中山と南山に分かれた三山時代と重なり、それぞれが中国と正式に交流していた時代です。15世紀以降になると朝鮮やタイ、ベトナムや日本からの輸入が加わります。

  • ベトナムの酒注ぎは現在のカラカラという酒器に似ています。中国南部から渡った鉢はベトナムのホイアンの沖で海から揚がった陶器によく似ています。我が家にもたくさんあるので気になります。手前に並んでいる物は沖縄で作られたもので、海外からの輸入品を模倣したと考えられます。

    ベトナムの酒注ぎは現在のカラカラという酒器に似ています。中国南部から渡った鉢はベトナムのホイアンの沖で海から揚がった陶器によく似ています。我が家にもたくさんあるので気になります。手前に並んでいる物は沖縄で作られたもので、海外からの輸入品を模倣したと考えられます。

  • 琉球王国の正史として編纂された歴史書「球陽」によると壺屋は先行する知花や涌田や宝口の窯場が1682年に統合されて生まれました。これは首里王府の製作によるもので、統合後の壺屋は廃藩置県まで王府の管理する官窯的な性格を持っていました。

    琉球王国の正史として編纂された歴史書「球陽」によると壺屋は先行する知花や涌田や宝口の窯場が1682年に統合されて生まれました。これは首里王府の製作によるもので、統合後の壺屋は廃藩置県まで王府の管理する官窯的な性格を持っていました。

  • 康熙11年の1672年に首里城正殿が瓦葺によって再建されたのをきっかけに寺院や番所などの公共建築が相次いで瓦葺きに変わります。これは防災面から首里王府の政策として進められました。これにより瓦の需要が増大し、瓦増産の経費節減のために窯場の統合が行われたと考えられます。

    康熙11年の1672年に首里城正殿が瓦葺によって再建されたのをきっかけに寺院や番所などの公共建築が相次いで瓦葺きに変わります。これは防災面から首里王府の政策として進められました。これにより瓦の需要が増大し、瓦増産の経費節減のために窯場の統合が行われたと考えられます。

  • 「飴釉アンビン」<br />按瓶(あんびん)は土瓶型の急須のことで、大型のものが多くその多くが共手になっています。

    「飴釉アンビン」
    按瓶(あんびん)は土瓶型の急須のことで、大型のものが多くその多くが共手になっています。

  • 「琉球王国時代の古窯分布図」<br />壺屋以外はあまり聞きなれない古窯跡の名前が連ねています。壺屋焼きは先行する喜名焼、知花焼、涌田焼などの技術を受け継いでいると言われます。喜名と知花の技術は荒焼の壺や甕に、涌田の技術は後の上焼きに繋がる灰釉碗などに見ることができます。

    「琉球王国時代の古窯分布図」
    壺屋以外はあまり聞きなれない古窯跡の名前が連ねています。壺屋焼きは先行する喜名焼、知花焼、涌田焼などの技術を受け継いでいると言われます。喜名と知花の技術は荒焼の壺や甕に、涌田の技術は後の上焼きに繋がる灰釉碗などに見ることができます。

  • 18世紀から19世紀の古我知焼の「渇釉竹形筒花生」は力強い節の造形と掛流しの釉薬の具合が魅力的です。古窯と言いながらも並んだ陶器の年代を見ると18世紀から19世紀に造られたものが並んでいます。<br />

    18世紀から19世紀の古我知焼の「渇釉竹形筒花生」は力強い節の造形と掛流しの釉薬の具合が魅力的です。古窯と言いながらも並んだ陶器の年代を見ると18世紀から19世紀に造られたものが並んでいます。

  • 壺屋焼きには2つの種類があり、1つは「荒焼(あらやち)」と呼ばれる釉薬をかけないと黒く発色する釉薬をかけた陶器をまとめて呼びます。もう1つは「上焼き(じょーやき)」という釉薬を使い化粧掛けを施す技術が用いられます。

    壺屋焼きには2つの種類があり、1つは「荒焼(あらやち)」と呼ばれる釉薬をかけないと黒く発色する釉薬をかけた陶器をまとめて呼びます。もう1つは「上焼き(じょーやき)」という釉薬を使い化粧掛けを施す技術が用いられます。

  • 明治12年に行われた廃藩置県により、壺屋も首里王府の管理する窯から民間の窯場となり、大きな転換点を迎えます。明治以降上焼きの釉薬の原料として従来の高価な呉須から安価な酸化コバルトが大量に導入されます。

    明治12年に行われた廃藩置県により、壺屋も首里王府の管理する窯から民間の窯場となり、大きな転換点を迎えます。明治以降上焼きの釉薬の原料として従来の高価な呉須から安価な酸化コバルトが大量に導入されます。

  • 窯の中には棚を組み、効率よく大量の焼き物を積める技術が導入されます。またこの厨子蓋のように焼成時に碗などを重ね、大量に窯詰め出来るようにしました。重ね焼きでは製品の上に「トゥチグヮー」という道具を置き、その上に別の製品を重ねました。

    窯の中には棚を組み、効率よく大量の焼き物を積める技術が導入されます。またこの厨子蓋のように焼成時に碗などを重ね、大量に窯詰め出来るようにしました。重ね焼きでは製品の上に「トゥチグヮー」という道具を置き、その上に別の製品を重ねました。

  • 本土から来た陶磁器を扱う商人が本土の磁器製品を持ち込むようになると上焼は次第に市場を奪われていきます。「スンカンマカイ」と呼ばれる磁器製品が陶器である壺屋の製品より安価で丈夫だったことから家庭用の食器として盛んに使われていきます。愛媛の砥部焼の印判という型紙や転写シールを使ったものは一見手描きのように見栄えも良かったのでしょう。

    本土から来た陶磁器を扱う商人が本土の磁器製品を持ち込むようになると上焼は次第に市場を奪われていきます。「スンカンマカイ」と呼ばれる磁器製品が陶器である壺屋の製品より安価で丈夫だったことから家庭用の食器として盛んに使われていきます。愛媛の砥部焼の印判という型紙や転写シールを使ったものは一見手描きのように見栄えも良かったのでしょう。

  • 「多様化する壺屋焼き」<br />市場を奪われた壺屋の職人たちが活路を見出したのが琉球古典焼きでした。ただこの古典焼きも収入アップにはつながらなかったようです。沖縄とは全く関係のないエジプト模様などを職人に描かせ、本土市場に出荷しました。

    「多様化する壺屋焼き」
    市場を奪われた壺屋の職人たちが活路を見出したのが琉球古典焼きでした。ただこの古典焼きも収入アップにはつながらなかったようです。沖縄とは全く関係のないエジプト模様などを職人に描かせ、本土市場に出荷しました。

  • 「琉球古典焼 掻落帆船文皿」1930年代<br />本土市場に出荷された琉球古典焼きの中には日本酒用の徳利や茶道具など市場のニーズに合わせた製品が造られていきます。

    「琉球古典焼 掻落帆船文皿」1930年代
    本土市場に出荷された琉球古典焼きの中には日本酒用の徳利や茶道具など市場のニーズに合わせた製品が造られていきます。

  • 「琉球古典焼 掻落帆船魚文徳利」1916年から45年<br />この時代にこのような掻き落としの作品があったというのは驚きです。後の金城次郎につながるような魚文が可愛らしいです。<br />

    「琉球古典焼 掻落帆船魚文徳利」1916年から45年
    この時代にこのような掻き落としの作品があったというのは驚きです。後の金城次郎につながるような魚文が可愛らしいです。

  • 衰退していった上焼きに対して水甕など日常生活を主に貯蔵容器として使われていた荒焼は安定して需要がありました。明治37年の1904年の日露戦争前後は軍隊用に移出された泡盛の容器として大量の酒甕と酒壺が生産されました。当時壺屋では30基の荒焼窯が築かれ、1窯1回あたり1000個の甕が生産されました。壺屋には「荒焼バーキ、上焼ヒンスー」という言葉があり、荒焼陶工はザルで水をすくうように金払いが良く、上焼き陶工は貧しかった」という意味です。<br /><br />

    衰退していった上焼きに対して水甕など日常生活を主に貯蔵容器として使われていた荒焼は安定して需要がありました。明治37年の1904年の日露戦争前後は軍隊用に移出された泡盛の容器として大量の酒甕と酒壺が生産されました。当時壺屋では30基の荒焼窯が築かれ、1窯1回あたり1000個の甕が生産されました。壺屋には「荒焼バーキ、上焼ヒンスー」という言葉があり、荒焼陶工はザルで水をすくうように金払いが良く、上焼き陶工は貧しかった」という意味です。

  • 日露戦争による一時的好景気にはなったものの、本土の安価で軽い焼物が大量に流入し一般庶民に浸透した事により、壺屋焼は最大の危機に立たされる事となりました。そのような状況の中の大正時代に転機が訪れます。民藝運動を興した浜田庄司や河井寛次郎、つづいて柳宗悦らが沖縄の焼物を本土に紹介しました。

    日露戦争による一時的好景気にはなったものの、本土の安価で軽い焼物が大量に流入し一般庶民に浸透した事により、壺屋焼は最大の危機に立たされる事となりました。そのような状況の中の大正時代に転機が訪れます。民藝運動を興した浜田庄司や河井寛次郎、つづいて柳宗悦らが沖縄の焼物を本土に紹介しました。

  • それまで沖縄という地が地理的条件や他国の支配下にあるという閉鎖的条件だったため、広く知られることが無かった沖縄の焼物が全国で注目されることとなりました。「月刊民藝」1940年3月号の表紙は壺屋の陶工の初代小橋川仁王です。

    それまで沖縄という地が地理的条件や他国の支配下にあるという閉鎖的条件だったため、広く知られることが無かった沖縄の焼物が全国で注目されることとなりました。「月刊民藝」1940年3月号の表紙は壺屋の陶工の初代小橋川仁王です。

  • 1925年に壺屋で製作された濱田庄司の茶碗と共にバーナード・リーチの大皿も展示してあります。濱田庄司は3日間お世話になる「沖縄ホテル」に長期間滞在していました。好きな作家でもあり鮭年の陶器市の時は久し振りに益子の「濱田庄司記念益子参考館にも行くことができました。家でも茶器を使っています。

    1925年に壺屋で製作された濱田庄司の茶碗と共にバーナード・リーチの大皿も展示してあります。濱田庄司は3日間お世話になる「沖縄ホテル」に長期間滞在していました。好きな作家でもあり鮭年の陶器市の時は久し振りに益子の「濱田庄司記念益子参考館にも行くことができました。家でも茶器を使っています。

  • 「鐵砂抜絵 巡礼者模様皿」バーナード・リーチ<br />いつかリーチの作品も手に入れたいと思っていますが出会えないままです。

    「鐵砂抜絵 巡礼者模様皿」バーナード・リーチ
    いつかリーチの作品も手に入れたいと思っていますが出会えないままです。

  • コンクリート打放しの外観からは想像できない展示室があります。

    コンクリート打放しの外観からは想像できない展示室があります。

  • 太平洋戦争が起こり、次第に戦況が悪化すると日本本土から沖縄への輸送が途絶えがちになり、県内では様々な物資が不足し始めました。沖縄防衛の日本軍は物資を現地調達するようになり、壺屋でも昭和19年頃から軍隊用の食器として飯椀や汁椀が作られます。また電線架設用の碍子や蓄電用のバッテリーケースまで作られます。

    太平洋戦争が起こり、次第に戦況が悪化すると日本本土から沖縄への輸送が途絶えがちになり、県内では様々な物資が不足し始めました。沖縄防衛の日本軍は物資を現地調達するようになり、壺屋でも昭和19年頃から軍隊用の食器として飯椀や汁椀が作られます。また電線架設用の碍子や蓄電用のバッテリーケースまで作られます。

  • 沖縄戦終結後、日曜雑器生産のために壺屋はいち早く米軍の染料から解放され、陶器の生産が始まります。しかし、再び本土からの安い陶磁器が移入されたために、上焼の陶工たちは米軍向けの土産品を作るほか、展示会を開くなど陶芸作家的な活動を行うようになります。これに対して荒焼は水道の普及やプラスチック製品の普及によってようとは狭められていきます。

    沖縄戦終結後、日曜雑器生産のために壺屋はいち早く米軍の染料から解放され、陶器の生産が始まります。しかし、再び本土からの安い陶磁器が移入されたために、上焼の陶工たちは米軍向けの土産品を作るほか、展示会を開くなど陶芸作家的な活動を行うようになります。これに対して荒焼は水道の普及やプラスチック製品の普及によってようとは狭められていきます。

  • 終戦後に日用品が不足する中で読谷村に出来たスクラップの集積場から戦闘機に使われたジュラルミンなどを再利用して、鍋や薬缶が作られました。

    終戦後に日用品が不足する中で読谷村に出来たスクラップの集積場から戦闘機に使われたジュラルミンなどを再利用して、鍋や薬缶が作られました。

  • アメリカ兵が捨てたコカ・コーラの瓶は上部を切り取って磨き、コップとして使われました。後にこれを溶かして琉球ガラスの製作が始まります。

    アメリカ兵が捨てたコカ・コーラの瓶は上部を切り取って磨き、コップとして使われました。後にこれを溶かして琉球ガラスの製作が始まります。

  • 金城 次郎(きんじょう じろう)は那覇市生まれの陶芸家で、国の重要無形文化財「琉球陶器」技能保持者、沖縄県で初の人間国宝になりました。12歳の頃に壺屋で職人として働き始め、伝統的な技術や新しい技法や図柄を身につけていきました。この頃に濱田庄司と出会い、陶芸の道で生きていくことを決意します。

    金城 次郎(きんじょう じろう)は那覇市生まれの陶芸家で、国の重要無形文化財「琉球陶器」技能保持者、沖縄県で初の人間国宝になりました。12歳の頃に壺屋で職人として働き始め、伝統的な技術や新しい技法や図柄を身につけていきました。この頃に濱田庄司と出会い、陶芸の道で生きていくことを決意します。

  • 戦後は沖縄らしい模様として魚の模様を積極的に使うようになります。戦後の復興により都市化した壺屋では登り窯がつかえなくなったからで、読谷村に工房を移しました。県立博物館のミュージアムショップと、この壺屋焼物博物館でも金城次郎の作品を観ることでさらに欲しくなってきます。40年前に厨子甕でなくて金城次郎の作品に興味を持っていたらと。その当時の自分にガッカリです。

    戦後は沖縄らしい模様として魚の模様を積極的に使うようになります。戦後の復興により都市化した壺屋では登り窯がつかえなくなったからで、読谷村に工房を移しました。県立博物館のミュージアムショップと、この壺屋焼物博物館でも金城次郎の作品を観ることでさらに欲しくなってきます。40年前に厨子甕でなくて金城次郎の作品に興味を持っていたらと。その当時の自分にガッカリです。

  • 島常賀(しま じょうが)<br />荒焼を生業とする窯元の13代目に生まれました。20代のころからシーサー作りを学び、後に名人と評されます。粘土を貼り付けて加飾するタックヮーサーにも才能を発揮し、ダイナミックで勢いのある作品を作ります。

    島常賀(しま じょうが)
    荒焼を生業とする窯元の13代目に生まれました。20代のころからシーサー作りを学び、後に名人と評されます。粘土を貼り付けて加飾するタックヮーサーにも才能を発揮し、ダイナミックで勢いのある作品を作ります。

  • 食事の場での壺屋焼きは毎日の食器として使われました。当時の食事はサツマイモに味噌汁、家によってはおかずが付くこともありました。マカイと呼ばれる碗は汁を淹れたりご飯を盛るのに使われました。食後や食事の合間にお茶も飲まれましたが、その道具として急須と湯飲みが使われます。

    食事の場での壺屋焼きは毎日の食器として使われました。当時の食事はサツマイモに味噌汁、家によってはおかずが付くこともありました。マカイと呼ばれる碗は汁を淹れたりご飯を盛るのに使われました。食後や食事の合間にお茶も飲まれましたが、その道具として急須と湯飲みが使われます。

  • その当時の家屋を再現したコーナーもあります。「沖縄県立博物館」と同じく、非常に生活が分かりやすい展示です。

    その当時の家屋を再現したコーナーもあります。「沖縄県立博物館」と同じく、非常に生活が分かりやすい展示です。

  • 嘉瓶(ゆしびん)は琉球王朝時代から慶事の時に泡盛を贈るためのものです。贈られた嘉瓶(ゆしびん)は中の泡盛を他の容器に移した後で持ち主に返されました。そのために嘉瓶(ゆしびん)には家紋を入れたものもあります。

    嘉瓶(ゆしびん)は琉球王朝時代から慶事の時に泡盛を贈るためのものです。贈られた嘉瓶(ゆしびん)は中の泡盛を他の容器に移した後で持ち主に返されました。そのために嘉瓶(ゆしびん)には家紋を入れたものもあります。

  • カラカラは古くから人々に愛された泡盛容器で、いくつかの猪口とセットになっています。安定感があり注ぎやすいことからお祝いの座敷では欠かせないものでした。

    カラカラは古くから人々に愛された泡盛容器で、いくつかの猪口とセットになっています。安定感があり注ぎやすいことからお祝いの座敷では欠かせないものでした。

  • 生活の中の食器以外にも祖先祭祀のための香炉など仏具も陶器で作られました。

    生活の中の食器以外にも祖先祭祀のための香炉など仏具も陶器で作られました。

  • 「鉄釉ボージャー厨子」18世紀<br />胴には「雍正十年癸丑七月十三日 道性幼露善童子 若文子いりい大濱にや次男 かま戸」と書かれてあります。1732年の旧暦7月13に亡くなった幼子の甕だということが読み取れます。

    「鉄釉ボージャー厨子」18世紀
    胴には「雍正十年癸丑七月十三日 道性幼露善童子 若文子いりい大濱にや次男 かま戸」と書かれてあります。1732年の旧暦7月13に亡くなった幼子の甕だということが読み取れます。

  • 「輝緑岩製石厨子」<br />中国産の石材を使用した厨子は弘治5年の銘が残されています。この厨子に刻まれている平仮名は沖縄で現在確認されている中で最古のものです。

    「輝緑岩製石厨子」
    中国産の石材を使用した厨子は弘治5年の銘が残されています。この厨子に刻まれている平仮名は沖縄で現在確認されている中で最古のものです。

  • 「飴釉ボージャー厨子」18世紀<br />石垣島では18世紀前半から本格的な製陶が始まり、様々な厨子が作られています。昨日「石垣市立八重山博物館」で学んできたことです。<br />

    「飴釉ボージャー厨子」18世紀
    石垣島では18世紀前半から本格的な製陶が始まり、様々な厨子が作られています。昨日「石垣市立八重山博物館」で学んできたことです。

  • 那覇市内の真ん中にありながら博物館を訪れる人の姿はほとんどありませんでした。やちむん通りには観光客の姿もあるので残念なことだと思います。

    那覇市内の真ん中にありながら博物館を訪れる人の姿はほとんどありませんでした。やちむん通りには観光客の姿もあるので残念なことだと思います。

  • 1つの時代をくぐり抜けた甕や壺がたくさん並んでいます。

    1つの時代をくぐり抜けた甕や壺がたくさん並んでいます。

  • 「瓦づくりと瓦窯」<br />明治22年の1889年委それまで禁止されていた民家の瓦葺が認められるようになると瓦造りも盛んになり、壺屋の他地方でも瓦窯が築かれるようになります。大正12年の1923年委は都と八重山を含めて76の瓦窯がありました。

    「瓦づくりと瓦窯」
    明治22年の1889年委それまで禁止されていた民家の瓦葺が認められるようになると瓦造りも盛んになり、壺屋の他地方でも瓦窯が築かれるようになります。大正12年の1923年委は都と八重山を含めて76の瓦窯がありました。

  • 戦後の一時期まで中国の技法を受け継いだ手作りで行われ、それぞれの工程に専任の職人がいました。ところが昭和50年代にはほとんど機械化されたことから古い瓦窯は消えていきます。

    戦後の一時期まで中国の技法を受け継いだ手作りで行われ、それぞれの工程に専任の職人がいました。ところが昭和50年代にはほとんど機械化されたことから古い瓦窯は消えていきます。

  • 瓦の製作方法の説明の後はシーサーの展示になります。屋根の上に置かれるシーサーは瓦の製作と切り離せないものです。

    瓦の製作方法の説明の後はシーサーの展示になります。屋根の上に置かれるシーサーは瓦の製作と切り離せないものです。

  • 「漆喰シーサー」大城幸祐<br />妻が若い頃に那覇空港に打っていた漆喰シーサーが忘れられないといい、ずっと欲しがっていました。いくら探しても見つからなかったものがここにありました。

    「漆喰シーサー」大城幸祐
    妻が若い頃に那覇空港に打っていた漆喰シーサーが忘れられないといい、ずっと欲しがっていました。いくら探しても見つからなかったものがここにありました。

  • 瓦造りの道具の説明がありました。非常に分かりやすいイラストです。

    瓦造りの道具の説明がありました。非常に分かりやすいイラストです。

  • 以前ベトナムのホイアンの瓦造りを見たことがありますが、型枠と少しの道具を使うだけの簡単なものでした。同じように中国から技術が伝わったと思いますが、地域によって差異が生じるのだと感じました。

    以前ベトナムのホイアンの瓦造りを見たことがありますが、型枠と少しの道具を使うだけの簡単なものでした。同じように中国から技術が伝わったと思いますが、地域によって差異が生じるのだと感じました。

  • 球那覇空港ターミナルの前に設置されていた島常賀作の大きなシーサーが納められていました。40年前に初めて来た沖縄の陽射しの眩しさを思い出します。仕事先のオリオンホテルまで乗ったタクシーの色はボディーの下半分が真っ赤で、上半分が鮮やかなブルーで、まるで沖縄の漁船のように見えました。

    球那覇空港ターミナルの前に設置されていた島常賀作の大きなシーサーが納められていました。40年前に初めて来た沖縄の陽射しの眩しさを思い出します。仕事先のオリオンホテルまで乗ったタクシーの色はボディーの下半分が真っ赤で、上半分が鮮やかなブルーで、まるで沖縄の漁船のように見えました。

  • 「三彩獅子(華南三彩)」15世紀から16世紀<br />中国から伝わった獅子像がシーサーへと変化していきます。

    「三彩獅子(華南三彩)」15世紀から16世紀
    中国から伝わった獅子像がシーサーへと変化していきます。

  • 「風獅爺」20世紀台湾<br />昨日まで台湾の基隆や石垣島で見てきた道教寺院に飾られる神像のようです。これは金門島に伝わる強風や邪気を払うとされる獅子像です。屋根瓦の上に乗っていた意味が分かったような気がします。

    「風獅爺」20世紀台湾
    昨日まで台湾の基隆や石垣島で見てきた道教寺院に飾られる神像のようです。これは金門島に伝わる強風や邪気を払うとされる獅子像です。屋根瓦の上に乗っていた意味が分かったような気がします。

  • シーサーは沖縄県などでみられる伝説の獣像で、魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されることが多いです。名前は「獅子(しし)」、元はサンスクリット語のライオンであるシンハを沖縄語で発音したものです。八重山方言ではシィーシ、シーシ-といいます。

    シーサーは沖縄県などでみられる伝説の獣像で、魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されることが多いです。名前は「獅子(しし)」、元はサンスクリット語のライオンであるシンハを沖縄語で発音したものです。八重山方言ではシィーシ、シーシ-といいます。

  • 「輝緑石製石厨子」16世紀<br />中国産の輝緑石を使った厨子は王家などでしか使用した例がありません。この博物館では現存する輝緑石製石厨子を直接見ることができます。この言葉の意味は翌々日に行った「玉陵(たまうどぅん)」で分かりました。

    「輝緑石製石厨子」16世紀
    中国産の輝緑石を使った厨子は王家などでしか使用した例がありません。この博物館では現存する輝緑石製石厨子を直接見ることができます。この言葉の意味は翌々日に行った「玉陵(たまうどぅん)」で分かりました。

  • 「石灰岩製石厨子」18世紀<br />銘書には乾隆15年の1750年に洗骨したことが記されています。「沖縄県立博物館」で見てきたものとは違う厨子の奥深さを感じます。東アジアの陶芸史に造詣が深かつた東京経済大学名誉教授の門上秀叡夫妻が収集 した厨子190基、沖縄陶器関連資料がこの博物館に収蔵されています。

    「石灰岩製石厨子」18世紀
    銘書には乾隆15年の1750年に洗骨したことが記されています。「沖縄県立博物館」で見てきたものとは違う厨子の奥深さを感じます。東アジアの陶芸史に造詣が深かつた東京経済大学名誉教授の門上秀叡夫妻が収集 した厨子190基、沖縄陶器関連資料がこの博物館に収蔵されています。

  • 「ボージャー厨子」18世紀

    「ボージャー厨子」18世紀

  • 「上焼コバルト掛厨子」20世紀

    「上焼コバルト掛厨子」20世紀

  • 「三彩泡盛壺/百薬長」19世紀<br />表面に土を塗りつけるドゥルタックヮーサーと呼ばれる技法が使われた酒壺です。底部近くに注ぎ口があることから飲食店や酒販店で使用されたと考えられます。

    「三彩泡盛壺/百薬長」19世紀
    表面に土を塗りつけるドゥルタックヮーサーと呼ばれる技法が使われた酒壺です。底部近くに注ぎ口があることから飲食店や酒販店で使用されたと考えられます。

  • 「黒釉掻落鉢」20世紀<br />ほとんど同じ技法で作られた鉢をタイのスコータイの窯元で買ったことがあるので驚きました。スコータイへ行ったのは10年ほど前のことでしたが、もう15年か20年前だったらそこらの土産物屋で出土した本物が買えたと聞きます。ベトナムでも20年前はそんな感じでした。アジアを旅すると来るのが遅かったと感じることが何度もあります。

    「黒釉掻落鉢」20世紀
    ほとんど同じ技法で作られた鉢をタイのスコータイの窯元で買ったことがあるので驚きました。スコータイへ行ったのは10年ほど前のことでしたが、もう15年か20年前だったらそこらの土産物屋で出土した本物が買えたと聞きます。ベトナムでも20年前はそんな感じでした。アジアを旅すると来るのが遅かったと感じることが何度もあります。

  • 「貼付龍文カラカラ」島袋明達<br />沖縄の方言で貼り付けるという意味の「タックヮーサー」という技法が使われています。立体的な龍が生き生きとしています。この旅の前にメルカリで古い角萬漆器の龍の「堆錦餅(ついきんもち)飾り盆」を購入しましたので、こんなカラカラも欲しいと思いました。

    「貼付龍文カラカラ」島袋明達
    沖縄の方言で貼り付けるという意味の「タックヮーサー」という技法が使われています。立体的な龍が生き生きとしています。この旅の前にメルカリで古い角萬漆器の龍の「堆錦餅(ついきんもち)飾り盆」を購入しましたので、こんなカラカラも欲しいと思いました。

  • 「赤絵大壺」小橋川永昌<br />仁王と呼ばれた小橋川窯の作品です。これはコロナ禍中の前回の沖縄旅行の際に窯を訪ねて買い求めたので同じようなものがあります。埋め尽くされた吉祥紋と赤絵が魅力的です。

    「赤絵大壺」小橋川永昌
    仁王と呼ばれた小橋川窯の作品です。これはコロナ禍中の前回の沖縄旅行の際に窯を訪ねて買い求めたので同じようなものがあります。埋め尽くされた吉祥紋と赤絵が魅力的です。

  • 全ての柄を覚えていたわけではないので、ここでこの説明版を見ることができたのはラッキーでした。

    全ての柄を覚えていたわけではないので、ここでこの説明版を見ることができたのはラッキーでした。

  • 博物館の屋上からは裏にある「ニシヌメー(北の宮)」という拝所に出ることができます。ここで初めて山に面して建物が建っていると分かりました。ニシとは方言で北のことを意味します。この地には二シヌ窯と呼ばれる登窯がありましたが、大正7年に窯を壊して大和風のお宮を作りました。

    博物館の屋上からは裏にある「ニシヌメー(北の宮)」という拝所に出ることができます。ここで初めて山に面して建物が建っていると分かりました。ニシとは方言で北のことを意味します。この地には二シヌ窯と呼ばれる登窯がありましたが、大正7年に窯を壊して大和風のお宮を作りました。

  • ここに土地の守り神である土帝君(ト―ティークン)と焼き物の神様が祀られ、北の宮(ニシヌメー)と名付けられました。

    ここに土地の守り神である土帝君(ト―ティークン)と焼き物の神様が祀られ、北の宮(ニシヌメー)と名付けられました。

  • 博物館の見学の後はやちむん通りを歩き、「SPROUT」というギャラリーにお邪魔しました。この店の女性のオーナーが感じの良い方でいろいろ壺屋のことを教えてくださいました。これは彼女が瓦の破片で作った漆喰のシーサーです。この店で小橋川源慶の壺を買い求めました。既に亡くなった物故作家ですが、ハンガリーの民窯のような素朴なデザインが気に入りました。

    博物館の見学の後はやちむん通りを歩き、「SPROUT」というギャラリーにお邪魔しました。この店の女性のオーナーが感じの良い方でいろいろ壺屋のことを教えてくださいました。これは彼女が瓦の破片で作った漆喰のシーサーです。この店で小橋川源慶の壺を買い求めました。既に亡くなった物故作家ですが、ハンガリーの民窯のような素朴なデザインが気に入りました。

    craft house sprout 専門店

  • 買ったものと荷物を見せに預けてさらにやちむん通りを散策します。ほんの数年振りに歩いたのですが、かなりおしゃれな店も増えて、歩いている人も若い人が増えたようです。

    買ったものと荷物を見せに預けてさらにやちむん通りを散策します。ほんの数年振りに歩いたのですが、かなりおしゃれな店も増えて、歩いている人も若い人が増えたようです。

  • 40年前に初めて来たときは若かったせいもあったのか、入りたくなるような店も少なかったと思います。

    40年前に初めて来たときは若かったせいもあったのか、入りたくなるような店も少なかったと思います。

  • 一度戻って「東の井戸(アガリヌカー)」まで進みました。壺屋村の東井戸で、昔の井戸は生活用水でもあり野菜洗いや洗濯に使用され、隣近所のもコミニュケーションの場でもありました。拝み等や正月の若水取りにも使用されました。各地域にも部落の井戸が残っている所は少なくなりましたが、ここでは今でも拝み所として参拝されているようです。後ろにあるガジュマルが風避けとなって壺屋の人たちを護っているようです。

    一度戻って「東の井戸(アガリヌカー)」まで進みました。壺屋村の東井戸で、昔の井戸は生活用水でもあり野菜洗いや洗濯に使用され、隣近所のもコミニュケーションの場でもありました。拝み等や正月の若水取りにも使用されました。各地域にも部落の井戸が残っている所は少なくなりましたが、ここでは今でも拝み所として参拝されているようです。後ろにあるガジュマルが風避けとなって壺屋の人たちを護っているようです。

  • 母と3人で来た沖縄の旅で立ち寄って、焼物博物館にもあった「赤絵大壺」を購入した小橋川窯です。立ち寄ったらまた何か買ってしまいそうなのでそのまま散歩道を進みます。

    母と3人で来た沖縄の旅で立ち寄って、焼物博物館にもあった「赤絵大壺」を購入した小橋川窯です。立ち寄ったらまた何か買ってしまいそうなのでそのまま散歩道を進みます。

    小橋川清正 陶器工場 専門店

  • 青海波に積まれた琉球瓦が美しいです。

    青海波に積まれた琉球瓦が美しいです。

  • 店の裏にこのような工房があったのは今回初めて知りました。

    店の裏にこのような工房があったのは今回初めて知りました。

  • この通りに入ったのは今回が初めてでした。「SPROUT」でいろいろ教えてもらってよかったです。

    この通りに入ったのは今回が初めてでした。「SPROUT」でいろいろ教えてもらってよかったです。

  • こんな素敵な通りがあるとは思いませんでした。何より他に誰も歩いていないのが良かったです。

    こんな素敵な通りがあるとは思いませんでした。何より他に誰も歩いていないのが良かったです。

  • 何十年も時間が停まったように感じます。先ほど博物館で学んできたことが走馬灯のように思い出されてきます。

    何十年も時間が停まったように感じます。先ほど博物館で学んできたことが走馬灯のように思い出されてきます。

  • 新垣家住宅は昭和49年の1974年まで陶業を営んでいました。約400坪の屋敷内には赤瓦を連ねた主屋、作業場、離れ、登窯や石造の「フールと呼ばれる豚小屋兼便所と石垣などが残っています。

    新垣家住宅は昭和49年の1974年まで陶業を営んでいました。約400坪の屋敷内には赤瓦を連ねた主屋、作業場、離れ、登窯や石造の「フールと呼ばれる豚小屋兼便所と石垣などが残っています。

    新垣家住宅 名所・史跡

  • 見学出来るのはその一部ですが無料で見学することができます。新垣家は琉球王国時代康熙21年の1682年の壺屋統合の頃に読谷から移住してきたと伝えられており、代々親雲上(ぺーちん)の称号を有し、壺屋陶業での中心的役割を果たしてきたと考えられています。

    見学出来るのはその一部ですが無料で見学することができます。新垣家は琉球王国時代康熙21年の1682年の壺屋統合の頃に読谷から移住してきたと伝えられており、代々親雲上(ぺーちん)の称号を有し、壺屋陶業での中心的役割を果たしてきたと考えられています。

  • 登窯は通称「東の窯」(あがりぬかま)と呼ばれ、全長約23メートル幅約4メートルで、最上部にある排煙口を除く窯全体が赤瓦の屋根で覆われています。

    登窯は通称「東の窯」(あがりぬかま)と呼ばれ、全長約23メートル幅約4メートルで、最上部にある排煙口を除く窯全体が赤瓦の屋根で覆われています。

  • 新垣家住宅は伝統的な壺屋陶工の住宅形式を知る上で唯一残された貴重な建造物であることから、平成14年の2002年に国指定重要文化財として指定されています。

    新垣家住宅は伝統的な壺屋陶工の住宅形式を知る上で唯一残された貴重な建造物であることから、平成14年の2002年に国指定重要文化財として指定されています。

  • 京都の清水で陶芸を営む母の従弟が滋賀県の清田に登り窯を持っていて、いつか火入れした時を見に行きますと言ってからもう20年以上経っています。

    京都の清水で陶芸を営む母の従弟が滋賀県の清田に登り窯を持っていて、いつか火入れした時を見に行きますと言ってからもう20年以上経っています。

  • 一番下の大口の上には小さなシーサーが置かれていました。ここで陶器が焼かれることはありませんが、まるでこの登り窯を護っているように見えました。

    一番下の大口の上には小さなシーサーが置かれていました。ここで陶器が焼かれることはありませんが、まるでこの登り窯を護っているように見えました。

  • 琉球石灰岩の石垣はとても風情があります。登り窯の上に架けられた屋根裏と相まってとても宇月しいです。

    琉球石灰岩の石垣はとても風情があります。登り窯の上に架けられた屋根裏と相まってとても宇月しいです。

  • 新垣家には陶土作る沈殿槽や足踏み場も残されています。現在は組合が運営する精土工場で精製された陶土を購入して使っていますが、以前は各工房ごとに陶土が作られました。上焼きの陶土には沖縄本島中北部で採れる赤土と白土、それぞれ数種類使います。原土はそのまま使えず石や砂や不純物を取り除くために「水簸(すいひ)」という方法が使われました。ここでは3段になった沈殿池の一番上段い沈殿した泥状のものを乾燥させて陶土としました。

    新垣家には陶土作る沈殿槽や足踏み場も残されています。現在は組合が運営する精土工場で精製された陶土を購入して使っていますが、以前は各工房ごとに陶土が作られました。上焼きの陶土には沖縄本島中北部で採れる赤土と白土、それぞれ数種類使います。原土はそのまま使えず石や砂や不純物を取り除くために「水簸(すいひ)」という方法が使われました。ここでは3段になった沈殿池の一番上段い沈殿した泥状のものを乾燥させて陶土としました。

  • さらに散策を続けます。きれいな生垣の足元にはこんな遊びもありました。本来だったら席岩頭が置かれるような場所です。

    さらに散策を続けます。きれいな生垣の足元にはこんな遊びもありました。本来だったら席岩頭が置かれるような場所です。

  • 陶芸家の島袋常秀が子供の頃にこの通りを歩くとこの顔が怖かったとNHKの日曜美術館だったかテレビの番組で話していたのを思い出しました。

    陶芸家の島袋常秀が子供の頃にこの通りを歩くとこの顔が怖かったとNHKの日曜美術館だったかテレビの番組で話していたのを思い出しました。

  • タイムスリップしたような壺屋の時間が終わりました。「SPROUT」に戻って荷物を受け取ってタクシーを捕まえに表通りに向かいます。ギャラリーで電話してもらったのですが、車が出払っている時間帯だったようです。うまくタクシーに乗れて「沖縄ホテル」に戻りました。

    タイムスリップしたような壺屋の時間が終わりました。「SPROUT」に戻って荷物を受け取ってタクシーを捕まえに表通りに向かいます。ギャラリーで電話してもらったのですが、車が出払っている時間帯だったようです。うまくタクシーに乗れて「沖縄ホテル」に戻りました。

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