2024/01/13 - 2024/01/13
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kojikojiさん
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この旅行記のスケジュール
2024/01/13
この旅行記スケジュールを元に
MSCベリッシマを降りてからは那覇での3日間の旅が始まりました。「沖縄ホテル」に荷物を預けた後はタクシーで「沖縄県立博物館」に移動します。那覇市内はタクシーをちょい乗りしても1000円ちょっとなので助かります。沖縄には何度も来ていて、那覇にも宿泊していますが、ツアーできた場合は首里城周辺の見学ばかり何度もすることになります。今回は後半は自由な個人旅行なので今まで行きたくて行けなかったところを着て周れます。そのいちばんがこの「沖縄県立博物館」でした。琉球王国の時代についても詳しく学んでいないし、薩摩藩による琉球侵攻についても知識がなく、沖縄となってからの明治以降の歴史の知識もあやふやです。これはちゃんと学ばなければと思ったのがきっかけでした。タクシーを降りて真っ白な城の(ぐすく)のような建物に驚き、その意匠の中に花ブロックがあることに気が付きながら見学を始めます。ここを見学して初めて途切れ途切れの知識が薄っすらでも繋がった気がしました。キャプションの言葉の端々に恨みつらみみたいなものも少しは感じましたが、それも含めて現在の沖縄なのだなと思いました。美術館の方は興味のある内容ではなかったのでミュージアムショップに入りましたが、ガラスケースに入った金城次郎の作品を観ると欲しくなてしまいます。ここでは諦めて「郷土玩具こくら」で作っている「土人形(んーちょふぅとぅきー)」を買い求めます。一昨年の12月に琉球料理の「美榮(みえい)」で女将さんに見せてもらってからずっと探していたものです。これが買えただけでもここへ来た甲斐がありました。次は新しくなった「那覇市牧志公設市場」でお昼を食べるのでタクシーで国際通りに向かいます。運転手さんが「博物館へ行ったんですか?」と尋ねるので「ずっと行きたかったんですが、素晴らしかったです。」と答えると「観光客の人で行かれる人は少ないけど、本当はあの博物館は見てもらいたいんですよ。」という言葉が心に残りました。いろいろなことを知らないで済ませてしまうのは行けないなと思いました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー ANAグループ 私鉄 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「沖縄ホテル」に荷物を置いてタクシーで「沖縄県立博物館・美術館」までやってきました。目的は博物館で琉球王国から沖縄の歴史や文化を学ぶためです。これまで何度も沖縄を訪ね、那覇にも何度も宿泊していますが、ツアーで来ることが多く自由時間もほとんどなく、ここへ来ることは出来ませんでした。
沖縄県立博物館 美術館 美術館・博物館
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この建物を設計したのは東京都の石本建築事務所と沖縄市の二基建築設計室(二基設計)の共同企業体で、城(ぐすく)をイメージしたデザインが高評価を得たそうです。それ以外にも花ブロックのイメージも感じます。
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外壁には琉球石灰岩を使う予定でしたが予算の都合で不可能になり、白セメントに琉球石灰岩を砕いたものを混ぜ、さらに表面を削って琉球石灰岩の風合いを出したそうです。
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屋外展示として琉球の伝統的な高倉と民家が再現されています。穀物を貯蔵する倉には、いわゆる高倉と高床倉と地倉の3つがありますがここにあるのは高倉です。元々は沖永良部島にあったものを移築しています。高倉は床を高くすることで通風をよくし、湿気を防ぎ、また柱の上部に「ねずみ返し」の板た柱にトタンを巻くなど穀物の保存に工夫がなされています。柱は円形で、建物の大きさによって4本、6本、9本とし、その上に床をつくり寄棟の屋根をかけます。屋根は茅葺または竹葺です。
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「ヒンブン」と呼ばれる中垣があります。「ヒンプン」は表から建物の内部が直接見えないように造られたもので、外から魔が入ってくるのを防ぐというマジナイ的な意味をもち、屋敷の内と外の仕切りの役目も果たします。中国では「塀風門」があり、「ヒンプン」はその形式を沖縄化したものといわれています。
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その奥には母屋があります。沖縄の伝統的な民家は高温多湿の気候風土に適した構造になっています。門扉がなく母屋も雨戸を全開にして風を通します。母屋の間取りは右から一番座と呼ばれる客間、中央が二番座で仏間、左が板間になります。その裏には寝室があり、板間の裏が台所になっています。母屋の大きく伸びた軒の下は雨端(あまはじ)と呼ばれ、庇が日影を作る快適な場所です。
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「沖縄赤瓦」または「琉球瓦」は中南部に分布する「クチャ」と呼ばれる黒灰色の泥岩を主原料として赤土を混合します。クチャは鉄分を多く含んでいるので酸化焼成することにより赤色に発色します。伝統的な沖縄赤瓦は本土の本葺瓦と同様の形状をしていて、平瓦に相当する女瓦(雌瓦、ミーガーラ)と、丸瓦に相当する男瓦(雄瓦、ウーガーラ)の2種類があります。
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「海洋博公園おきなわ郷土村」や「石垣やいま村」など沖縄各地の民俗村でいろいろ学んでおいて良かったと思います。
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外壁を琉球石灰岩を使用したPC版のダブルスキンとすることで環境負荷を削減し、エントランスホールや美術館展示室への自然採光と雨水利用などの自然エネルギー利用、冷房等の省エネルギーシステムも取り入れた設計になっています。
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エントランスホールの柱には沖縄に自生するヤシ科の樹木を写し、建築本体に近代沖縄建築の仕様を踏襲したコンクリートペンキ仕上げを採用しています。昨日石垣見てきた「米原のヤシ原生林」のヤエヤマヤシの森の木漏れ日を思い出します。
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今回は博物館の常設展示だけの見学になります。入場料は530円でした。
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展示されているすべてに興味があるわけではないので飛び飛びに見学をしていきます。先史時代もあまり興味はありませんが、古来より沖縄の島々は海によってたがいに隔てられると同時に、海によってアジア、太平洋地域と深く結びつけられているので足を止めます。
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うるま市石川で発見された古我地原貝塚の発掘調査にもとづき、縄文人の生活を復元しています。東側に海を望む台地上に小さなグループで暮らしていた縄文人たちの竪穴式住居や、ゴミ捨て場である貝塚など、縄文人の生活をみることができます。
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グスク時代になり、それぞれの地域に有力者が登場するようになると、防御などを目的とした、さまざまなグスクがつくられていきます。有力者たちは中国への朝貢を通して文化の移入や交易に努め、富が築かれていきました。
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奄美大島の「赤城名城」と沖縄本島の「勝連城跡」と「玉城城跡」と宮古島の「高輿城跡」が紹介されています。その中で行ったことがあるのは40年前に行った「玉城城跡」だけでした。
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三山時代は古代琉球の時代区分の1つで、元亨2年の1322年頃から正長2年の1429年までの時代です。沖縄本島を統一する勢力が存在せず拮抗し互いに相争っていた事から「三山鼎立時代」とも呼ばれます。その当時に建設された沖縄本島内に残る城(ぐすく)の案内です。この中では「座喜味城跡」だけ行ったことがあります。
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1429年以後も争乱が相次ぎ統一にほど遠い時代が続きますが、金丸尚円時代からは薩摩の貿易統制の結果として琉球の統一性が高まり、尚氏は世襲されて後に第二尚氏と呼ばれるに至ります。「首里城」は三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されていて、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の多くの城(ぐすく)同様に成立したものと考えられます。その時代の出土品が陳列されています。そのほとんどが中国からもたらされたもののようでした。
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沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを勢力下に置きました。三山時代を経て沖縄本島を統一する頃には国家の体裁を整え、明の冊封体制に入り、一方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国となります。
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宣徳4年・永享元年の1429年に第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立したと考えられています。 第一尚氏は大和(日本本土)や中国(明)・朝鮮半島(李朝)やジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大しました。第一尚氏王統の第6代の尚泰久王は、「万国津梁」の鐘を鋳造し、海洋国家としての繁栄を確立します。成化5年・文明元年の1469年に尚泰久王の重臣であった金丸(後の尚円王)が尚徳王の薨去後に王位を継承し、第二尚氏王統が成立しました。王位継承に関しては重臣たちの推挙によって即位したと記されていますが、尚徳王の世子は殺害されており、クーデターによる即位であったと考えられます。
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「明考宗勅諭(琉球国中山王尚真宛)」
当時の中国では新帝の即位に伴って周辺の従属国に勅使を送る慣わしがありました。これは明の考宗皇帝が即位したのちに尚真王へ下賜した勅諭です。幅の広いみつまた紙に瑞雲と五爪の龍が金泥で描かれ、皇帝の印である「廣運之寶」が押印されています。 -
琉球王は明国に対しては冊封国として中国皇帝の臣下となることを強いられましたが、国内では時に琉球王を天子や皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せたたようです。
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第一尚氏(だいいちしょうし)は尚思紹王を始祖とし、7代63年間(永楽4年の1406年から成化5年の1469年まで続いた琉球最初の統一王朝をつくりあげた王家およびその姓の通称です。正式には尚氏ですが第二尚氏と区別するために、一般には第一尚氏と呼ばれます。
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「冊封使行列図」
中国皇帝より琉球に派遣された冊封使(さくほうし)一行が那覇の天使館から首里城へ向かう行列の様子を描いています。画面に登場する人物は中国人が220名、それに付き従う琉球人が380名の総勢600名が描かれています。冊封使から与えられる勅書を付庸国の使者が受け取ることで中国王朝の皇帝とその国王の君臣関係が成立します。 -
琉球は中国(明)との進貢貿易を支える品々を確保するために。東アジア諸地域との活発な貿易を行いました。日本や朝鮮だけではなくシャム、ジャワ、マラッカなど東南アジア諸国との貿易も展開します。
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16世紀になるとポルトガルなど西洋諸国の東南アジア進出や、明の海禁政策のゆるみによる中国上人の積極的な貿易活動によって、東南アジア諸国と琉球との貿易は衰退し、やがて途絶えます。
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15世紀から16世紀にかけての海上交易図がありました。今回は横浜から台湾と石垣島を経由して那覇に入っているということもあり、航海してきた海原が思い出されます。いつかもっと先のマラッカ海峡辺りまでのクルーズにも乗ってみたくなります。
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「唐船(進貢船)」の大きな模型が置かれてありました。東京国立博物館蔵の「唐船図」には長さ十一丈五尺、幅二条七尺三寸(船身約34.8メートル、幅約9.7メートル)と船の大きさが記されています。
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乗船人数は100名前後だったようですが、近世の唐船にくらべ古琉球期はさらに大きな船でした。明との朝貢関係が成立して以後の琉球は明から大型船を下賜され、その数は洪武と永楽年間(1368年から1424年)だけでも30隻におよびました。
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その当時の交易品だった青磁の鉢や大皿が並んでいます。産地を見ると龍泉窯とあるのでがぜん興味が湧いてきます。
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「古流球の文化」
琉球は中国や日本や朝鮮と交流しながら海に開かれた王国を作り上げました。王府が中心となり、港町の那覇と王都の首里を発展させ、中縄貿易を活発化させました。異国との交易は文化創造の機会となり、琉球文化の基礎が作られました。この時期に造られた石碑や鐘や寺院建築に施された装飾や美術工芸品に琉球文化の萌芽を見ることができます。 -
「国王頌徳碑(拓本)」
首里城の守礼門から始まる真珠道(まだまみち)の入り口に建てられた石碑です。宮古から宝剣の治金丸(ちかねまる)と真珠が贈られたことに対して、尚真王の徳をたたえた内容が刻まれています。この日は翌々日現物を見ることになります。 -
「仏教文化と梵鐘」
琉球に仏教が伝えられたのは13世紀中ごろのことで王府より保護され、多くの寺院が造られました。首里城の近くにも位牌を祀る円覚寺が建てられました。日本から琉球を訪れた僧侶たちは両国間の貿易の大切なパイプ役となり、文化の伝達者にもなりました。尚泰久王の在位期間には23口(こう)もの梵鐘が鋳造され、寺院や天妃宮などの宗教施設に寄進されました。 -
「旧円覚寺楼鐘」
琉球王家の菩提寺であった旧円覚寺の鐘楼に懸けられていた鐘です。1496年委鋳造されましたが痛みが激しかったために1697人に再鋳造されました。現存する沖縄最大の鐘で1.9トンあります。 -
「旧首里城正殿鐘(「万国津梁の鐘)」
長禄2年の1458年に琉球王国第一尚氏王統の尚泰久王が鋳造させた梵鐘で、表に刻まれた銘文には琉球の海洋国家としての気概と、仏教の興隆が謳われています。かつては首里城正殿に懸けられていましたが、現在はこの博物館に収められています。 -
「唐と大和の御取合(うとぅいえー)」
「御取合」とはお付き合いを意味する沖縄の古い言葉で、個人的な交際から国家間の外交も意味しました。薩摩の琉球侵攻により琉球は幕藩体制に組み込まれ、王府の主体的な政治活動は制限され、年貢の納入も義務付けられました。また中国とも活発な交流関係を結んでおり、琉球を通じて中国の文物や技術が日本にもたらされました。 -
「神女制度のしくみ」
琉球王国では尚真王のときに王権をより強化するために村落祭祀を司る神女(祝女・根神など)を組織化し、中央集権的な宗教組織を整備しました。神女は村落や間切りごとに任命され、豊作や航海安全を祈願しました。神女は地域の振興を担い、中央集権体制を支える役割を果たしました。神女組織の頂点には「聞得大君」と呼ばれる国王の姉妹が就任し、国王を祭祀の面から支える体制を作りました。 -
「伊平屋の阿母加那志正装」
「伊平屋の阿母加那志」とは第二尚氏王統の初代尚円王が伊是名島に住む姉に与えた特別な神職の名前です。阿母加那志が身にまとう花や鳥の模様の紅色の緞子、金簪、勾玉は尚円王から贈られたもので権威の象徴でした。 -
「聞得大君御殿黄金簪」
儀礼の際に使われた大簪で前面に金箔が押され、頭(かぶ)には太陽を示す日輪や雲、龍と波の浮彫などが施され、柄の部分には唐草文や魚々子(ななこ)文が彫られています。琉球における金工技術が詰められている簪です。 -
慶長14年の1609年の春に3,000の薩摩郡が琉球に侵攻し、琉球側も応戦しましたが軍事力の差は大きく、首里城は占領されました。敗れた琉球王国は奄美諸島を薩摩に割譲したほか多額の年貢納入の義務を負うなど従属的な関係になりました。島津家の背後には徳川将軍が控えており、王国の自立性は大きく失われました。
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「琉球使節の主なルート」
中国に誕生した清とも琉球王国は新たな冊封(さくほう)と進貢(しんこう)関係を結びました。原則として2年に一度の割合で施設や貿易船を派遣しましたが、それ以外にも様々な名目で人員や船を送り、中国との交流や公益活動を活発化させました。この交流を通じて中国文化を学び、多くの人材を育成しました。 -
「魏学源肖像画」
椅子に座る魏学源(ぎ がくげん)は久米村出身の役人です。王府の命を受け3回中国へ渡りました。琉球が東アジアの海上交易国家として成功した理由の1つに渡来した中国人の協力があげられます。那覇の隣に久米村という居住地を作り、外交関係における交渉や通訳を担い、航海術をもたらしました。 -
「役人の位階制度」
近世になると厳格な身分制度がつくられます。1689年の「系図座」設置をきっかけに系図を持つ「士族」の身分と持たない無系の「農民」の差が歴然となりました。系持ちの「士族」の身分においても簪の材質や頭に被る帕(はちまき)の色や模様、衣装の種類などに位階の差が明示されるようになります。 -
「男性の大礼時の正装」を表したイラストが分かりやすいです。
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特徴的なのは帯を前面で結んでいることで、生地は中国から輸入した絹で作っていました。和服の形ではありますが日本本土のものと違って袖の口が広くて開いています。これは風通しをよくするためで広袖と言います。
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王族や士族の男性用礼服は黄色地が最上位とされました。「帕(はちまき)」と呼ばれる冠でも階級が区分されました。帕は一見して分からないが、木の板に布地を織り込んで巻きつけるようにして作られており、こちらも衣服と同様に通気性を重視しています。
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衣装の素材は主に苧麻布や芭蕉布が使われ、こうした植物繊維の衣装は一般庶民から王族まで共通して着用していました。大きな違いは織り上げる糸の細さで、身分が上にいけばいくほど、製造工程に時間と手間がかかった繊細できめ細かい絹のような質のものを身につけていました。
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「王国の末期」
中国と日本日本という大国との関係を維持しながら王国として存続してきた琉球ですが、19世紀になると矛盾が深まります。農村の疲弊や王府の財政難が原因で、王国経営は行き詰まりが顕著になります。 -
琉球では台風や旱魃のせいで作物が育ちにくい環境がありました。儀間真常は野国総官が中国から持ち帰ったサツマイモの栽培と普及に力を入れ、農村における主要な食物として定着させました。琉球や奄美諸島では旱魃に強い蘇鉄を食用として栽培し、災害に備える救荒作物として利用しました。奄美大島を旅した際に聴いた話が本当だと知ったことでした。
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この時代の農村は五世帯(五人与)を一単位として税を納める仕組みとなっていました。18世紀になり、度重なる災害や飢饉、伝染病で農村が疲弊してくると、厳しい生活から逃亡する者や身売りをする者、借金のために富農(ウェーキ)のもとで住込みで働く者(イリチリ)や、特定の日時で働く者(シカマ)などが出てきました。
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「蘇鉄の料理方法」
蘇鉄の幹と種子から採れるデンプンは味噌や醤油で味付けして粥にして食べました。蘇鉄には毒があるので料理するときには何度も水にさらして毒抜きが必要でした。中毒死することもありました。 -
前日に石垣島で参拝した「唐人墓」の拓本です。咸豊2年の1852年に中国のアモイからカリフォルニア州へ航行中のアメリカの奴隷貿易船「ロバート・バウン号」の船内で、400人の中国人が奴隷にされたことを知って暴動を起こした事件がありました。苦力(クーリー)は米国人船長と船員を殺して船を操縦しましたたが、石垣島の崎枝村沖合で座礁し、上陸した中国人をとらえるために米英は戦艦を派遣して琉球も巻き込む国際的な事件になりました。
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「朝鮮西海岸及び大琉球島探検航海記」バジル・ホール
著者のバジル・ホールは1816年に琉球に来航した英国艦ライラ号の艦長です。中国への英大使一行をアルセスト号と共に護送した際に琉球に寄港して農民と交歓しています。平和的な琉球の人々の姿が紹介されています。 -
「外蕃容貌図画」
江戸時代に日本周辺諸国の異民族についてその容姿や服装などを図画で著したものです。必ずしも正確ではありませんが、琉球人についての容姿や特徴がスケッチされています。 -
「ドイツ皇帝博愛記念碑(拓本軸装)」
明治6年の1873年にドイツ商船ロベルトソン号が中国の福州からオーストラリアに向かう途中に台風で遭難して宮古島宮国村の沖合で難破しました。その際に島民が乗組員を救助したことにより、ドイツ皇帝ウィルヘルム1世が勇気と博愛の精神をたたえ、1876年に建立したものです。 -
「ペリー提督の琉球踏査」
琉球滞在期間中にペリーは探検隊を編成して、沖縄本島の調査を行いました。踏査泰一行は地質や植物、動物や天門といった調査を行いました。踏査は3回にわたって行われましたが、誤射事件を起こすなど琉球にとっては迷惑な出来事だったようです。随行したハイネによるスケッチが数多く残されています。探検中に採取された動植物および岩石は、米国に持ち帰られ、米国ハーバード大学、ニューヨーク植物園、スミソニアン研究所等の米国研究機関に収録保管されています。 -
「日本遠征記」ペリー
ペリー提督は1853年に黒船を率いて浦賀に入港しました。当時鎖国中の江戸幕府と日米和親条約を締結し、帰途には琉球国と琉米修好条約を締結しました。
「太平の眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」とは4隻の黒船が来航した当時の混乱ぶりを伝える狂歌です。その後、日本では260年以上続いた江戸幕府が、琉球では600年以上も続いた琉球王国が崩壊するなど、歴史は急展開を迎えることになります。 -
「近代の始まり」
およそ500年に渡って続いた琉球王国でしたが、決定的な存続の危機に直面します。明治維新によって近代国家をスタートさせた日本が琉球王国を内部に編入しようと動き出したからです。中国と日本との関係を維持しながら独自の王国を存続する意思を主張しますが1879年に王国は滅亡します。 -
「沖縄県の形成」
明治政府は南の国境線を画定するために琉球王国を廃止し、琉球藩(沖縄県)に改めることによって近代日本の内部に編入しようとしました。日本政府は1879年に軍隊と警察官を送りました。最後の国王尚泰王は三司官たちと共に首里城を明け渡します。翌年末にはユリシーズ・グラント米大統領の仲介による清との外交交渉(分島問題)を経て事実上琉球王国は消滅しました。「琉球処分」は侵略と併合、国家統一、内政改革など、さまざまな特徴を持っています。 -
「琉球から沖縄へ―大和世(やまとゆー)」
緊迫したアジア情勢の中で沖縄は1つの県として近代日本の国家体制に組み込まれることになります。いわゆる「大和世」のはじまりです。県知事は明治政府から派遣され、県庁役人のほとんどが他府県出身者によって占められました。政府の方針に基づき旧慣温存政策がとられますが共通語教育は積極的に取り組まれました。標準語励行運動は沖縄方言の撲滅運動とセットで推進されます。 -
1894年の日清戦争の勝利によって「琉球処分」以降の日清間で争われた琉球・沖縄の帰属問題は最終的に決着されました。さらに日本は台湾を植民地として領土拡大を図りました。1931年の満州事変で満州全土を占領した日本は国際社会から批判を浴びて孤立化していきます。1945年の沖縄では住民を巻き込んだ日米両軍による地上戦が行われ、23万余りの尊い人命が失われました。焦土と化した沖縄では多くの貴重な文化財も焼失し破壊されました。
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太平洋戦争後生活や文化の復興が進むとともに住民自治に基づく琉球政府も発足しました。米軍は沖縄を「キーストーン・オブ・パシフィック」太平洋の要石と呼び、アジアにおける戦略基地として重要視します。琉球列島米国民政府は大規模な基地建設を推し進めながらも産業振興、生活福祉、教育、文化振興などもおこないました。
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「琉球船舶旗」
アメリカ統治下で琉球の船舶はこの旗を国際標準旗として掲げることが義務付けられました。この旗は国際間では全く通用しなかったため、1962年委はマグロ漁船が銃撃を受ける事件が起こりました。これを契機に日米間で協議が行われ「RYUKYUS」と書かれた三角旗を上に付けることを条件に「日の丸」を掲げることが認められました。 -
「沖縄県庁」扁額
20世紀を代表する書家の謝花雲石(じゃはな うんせき)が書いた書です。謝花は1883年に那覇泉崎に生まれ、朝鮮に渡って書を学び帰郷後に沖縄県庁に勤務しました。 -
1972年5月15日に沖縄の施政権はアメリカから日本へ返還されました。祖国復帰を記念して日本政府が製作した銅製のメダルです。表に日章旗、裏に守礼門が描かれていました。メダルは県内の児童生徒に配布されるものでしたが返還協定に反対し、不当な祖国復帰を訴えた沖縄教職員組合の賛同を得られなかったため地域によっては配布されませんでした。
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沖縄県は日本政府の援助を受けて「復帰」を記念した事業を行いました。復帰記念植樹債や若夏国体、沖縄海洋博博覧会のいわゆる「復帰記念三大イベント」は社会資本の整備を伴い、観光業を中心に県内産業を活性化させました。政府や県外業者の主導で事業が行われ、開発が進む一方で経済のひずみや自然破壊の問題が残りました。
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1970年の大阪万博に続き1975年の沖縄海洋博は子供の頃に憧れのイベントでした。大阪へは行くことができましたが、その当時の沖縄はとても遠いところでした。子供ながらに日本ってすごいなと思ったものですが、その当時は琉球や沖縄のことを全く知らなかったのだと感じました。
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ここからはメインホールの脇に続く小さな展示室に移ります。琉球と沖縄の文化と芸術が紹介されています。1つの展示室は「神山政良コレクション展」と銘打っています。神山政良は明治15年の1882年に生まれた沖縄県出身の初の大蔵官僚で祖国復帰運動家でもあります。父が尚昌の御側士として仕えた縁もあって娘の八重子と結婚しています。
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昨日石垣島で行った「石垣市立八重山博物館」でも見ることの出来た「絣(かすり)」は並んでいます。14世紀から15世紀に中国や東南アジアとの貿易が行われたことから琉球王国へ織物技術が入ってきました。琉球絣は沖縄王府に収める貢納布(こうのうふ)として織られるようになります。貢納布は首里王府の絵師がつくったデザイン集である御絵図帳(みえずちょう)の図柄を織物に完成させたものです。デザインや染色、織物技術は発展し琉球絣の製造には島の女性たちが従事していました。
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「朱黒漆箔絵夫婦枕」
朱漆塗りに箔絵技法を用いて左三つ巴紋をあしらった木製の枕と、黒漆塗りに金箔を散らせて透かし漆で塗りこめた木製の枕を収める箱です。政良の妻の八重子は尚泰王の娘に当たる人物で、嫁入り道具の1つと考えられます。 -
「紅型軸」城間栄喜作
城間栄喜によって染められた紅型で1979年に寄贈されています。布は経糸(たていと)が木綿で緯糸(よこいと)が苧麻(ちょま)と思われます。 -
花籠から牡丹と柳があふれ、花の間に燕が飛んでいる華やかな作品です。19世紀の紅型にも同じ模様があるため、古典の写しと考えられます。
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「赤絵急須」
底部に三つ足が付く形は沖縄の急須の特徴と共通していますが、絵付けは京焼の古清水の絵のようで産地ははっきりしていません。淡い色味の絵の具で花などを描き、所々金彩で彩っています。蓋の摘みは菊の花を模しています。 -
「黒地龍文貼付帯」
赤地五爪(ごそう)龍の繻珍(しゅちん)という繻子地に2種類以上の色糸を使って模様を表した織物を円形に切り取り、黒字繻子に張り付けて帯に仕立てたものです。尚泰王の曾孫が嫁入りに持参した琉球王家伝来の品で繻珍は清時代のものですが、帯への仕立ては昭和初期と思われます。 -
「茶地龍瑞雲立波文様繻珍帯」
中国との冊封関係の中で贈られた反物を帯に仕立てています。光沢のある柔らかい繻子織に色糸で五爪の龍と瑞雲、立波などの模様を織り出しています。最後の琉球国王の尚泰が所有していました。 -
「菊遠山流水模様白地型紙」
次の写真の紅型衣装の裾模様を染めるのに使われた型紙です。白地型紙は模様を残して、地を彫落とす型紙を指します。模様がバラバラにならないように細い絹糸(しらが)を張り巡らしています。 -
「木綿水色地松皮菱に菊藤燕遠山流水模様衣装」
上部に松川菱に菊を重ねて藤が下がり、下部には菊水模様が絵画的に表現されています。3枚の白地型紙を使って、木綿の裏表から染めた両面染めの衣装です。 -
「龍瑞雲青海立波模様繻珍衣装」
中国から拝領した織物で作ったフィーターと呼ばれる冬用の衣装で、国王の普段着として使われました。金糸が織り込まれた五爪(ごそう)の龍の周りには瑞雲が立ち込め小花矢牡丹、蝙蝠などのおめでたい模様が配されています。 -
「沖縄出土の貿易陶磁器」
沖縄県内のグスク時代の遺跡からは海外貿易での繁栄を物語るように多種多様な貿易陶磁器が出土しています。もっとも多いのが中国で、他にもタイやベトナム、朝鮮半島やヌ本から持ち込まれたものもあります。 -
中国で大量生産された生活雑器が多いようです。個人的には染付などの時期に目が行ってしまいます。
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一番興味をもって知りたかった「沖縄の民族世界」のコーナです。沖縄の島々に伝わる生活文化について紹介しています。村落の成り立ち、信仰と祭り、人の一生、農耕と漁労、衣食住、職人の技、変容する民俗などのテーマを設けて、「観る」「聴く」「触る」「調べる」といった体験的な要素を加えた展示を行っています。
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昭和40年の1965年の名護市幸喜区をモデルにした伝統的集落のチェックポイントが列記されています。そこには北風を遮る森(むい)を背にして南方向に集落が広がり、御嶽(うたき)の側に草分けの家とノロ殿内がある。神アサギ、カー、ハル、サーターヤー跡、村墓が点在する。漁場としての内海(いのー)がある。屋号を通して本家や分家関係の村落発展の過程を知ることができるとあります。
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名護市の集落の地図を見ていくと共同体としての集落の特性が見えてくるようです。40年前那覇の畳屋さんの軽トラに乗せてもらい、大宜味村まで畳表を取りに行ったことがありました。着いた家ではちょうど100歳になるおばあさんが亡くなったということで、家にはお邪魔しませんでしたが、その時の村の風景はよく覚えています。
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「村落を取り巻く世界」
沖縄の人々は村落とそれを取り巻く世界について独自の考えを持っています。村落の立地と風水、海の彼方から訪れる神々、天体や気象、法衣の知識など沖縄における民族の世界は豊かで個性的です。 -
「御嶽(うたき)と神人(かみんちゅ)」
村落には御嶽(うたき)と呼ばれる神聖な場所があります。神様を祀る空間でこんもりした森(むい)になっています。御嶽の奥にはイビと呼ばれる特別な聖域があります。 -
イビには石(または樹木)と香炉が置かれているだけです。御嶽では神様に祈りを捧げる神人(かみんちゅ)と呼ばれる女性たちが祀りを行います。
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「石香炉」は今まで行ったいくつかの御嶽で見た記憶がありますが、遠く離れた場所にあり、間近で見るのはこれが初めてでした。
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沖縄では海の彼方から神様が訪れて、恵みをもたらすと信じられています。毎年の祭りの際は仮面や仮装で登場し、人々と交流したあとに再び帰って行きます。この神を来訪神といいます。お盆の碑には死後の世界のグソーから死者の霊が訪れて人々の歓待を受けます。この弥勒(ミルク)は豊年祭などに登場する来訪神です。八重山諸島を中心に広く信仰されています。仏教の弥勒信仰と琉球の古い信仰が混ざり合って、その姿は中国の布袋信仰の影響を受けています。
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「龕(がん)」
葬式の時に棺を入れて墓まで運ぶ屋形の輿を龕と呼びます。朱塗りの槇に木で作った重い輿で、屋根や柱や戸などすべて組み立て式になっています。龕は村落で共有し、村はずれにある「龕屋」で保管しました。 -
周囲の壁には僧や花などの仏画が描かれ、さらにその周りに仏画を描いた垂れ幕が掛けられます。2本の棒の上に載せて前後を8人で担ぎます。
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上段は「墓誌・墓中符」というもので、墓の建造年代や由来、被葬者の氏名などを墨書または陰刻したものを墓誌といいます。墓の護りをする呪符を記したものは墓中符といい、いずれも素焼きの陶板で、墓の中に置かれました。
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沖縄本島をバスで走っていると車内から撥を見ることが何度かありました。ただ通り過ぎるだけではありますが、その独特な「亀甲墓」の外観は不思議に思えました。その構造や各所の名前を知ることができました。
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「洗骨習慣と厨子甕」
沖縄では火葬が一般的に広がるまで風葬という方法で死者を葬りました。風葬とは崖下や墓の中に遺体を仮置きして自然に朽ちるのを待つ方法です。数年後に白骨化した骨を海で洗い浄めて厨子甕に移し替えます。この習俗を洗骨といい、朝鮮半島や琉球列島、中国南部に広く分布しています。納骨した厨子甕は墓の中に安置して供養します。 -
「壺型厨子甕(喜納焼)」康熙9年1670年銘入り
17世紀後半になると陶製の厨子甕が出現しはじめるが、壺型厨子はその初期を飾るものです。このボージャー厨子は全体に装飾が少なく丸みを帯びた簡素な姿が「禿げ坊主」を想起させることからこの名が付いたと思われる。胴部には瓦屋根付きの入口の張り付けがある以外、ほかは蓮華などの線彫りがある程度で全体の印象は素朴です。蓋は笠状で頂上に宝珠やそれを扁平にしたような形のつまみが付いています。1730年代以降になると赤っぽい甕が多くなり、全体に厚ぼったく線彫りも少なくなり、1770年代以降あまり造られなくなります。 -
「石灰岩製石厨子」康煕33年1694年銘入り
屋根は入母屋で本体はごく一部を除いて彫刻を欠き、立派な彫刻を刻んだ尚円王の閃緑岩製石厨子と比べると全体に簡素な造りです。玉陵にある尚真王第4代尚清王の石厨子が石灰岩製で、その後の第5代尚元王、第6代尚永王、第8代尚豊王、第9代尚賢王、第10代尚質王、第11代尚貞王、第12代尚益王までの約200年間にわたる歴代国王とその妃(尚益王妃を除く)の石厨子もすべて石灰岩製です。 -
23歳の時に沖縄のホテルの改修工事で1カ月以上那覇に滞在したことがありました。その時に始め手壺屋の通りを歩きましたが、そのときに美しい厨子甕を初めて見ました。40年ほど前のことで当時コバルト釉の掛かった甕が20万円ほどだったと記憶しています。ホテルに宿泊しての出張だったので丸々出張経費が浮いてしまい、思わず買いたくなりました。その時の見る目は正しかったと思いますが、大きかったのと骨壺という用途を考えて諦めました。代わりに「角萬漆器」で懐石盆を誂えましたが、どちらが正解だったのか答えは出ません。
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「上焼本御殿(うどぅん)型厨子甕」
釉薬を掛けたタイプの厨子甕です。化粧掛けの上に飴釉、緑釉、呉須(コバルト色)を用いた色彩豊かなものが多く造られます。屋根は寄棟や重層になった入母屋の変形で、しゃちほこを乗せ、獅子や龍を屋根の上に配しています。胴部には蓮華や五弁花を張り付けています。 -
「上焼コバルト掛厨子甕」昭和4年1929年
西洋コバルトを全面に掛けたもので、鮮やかな青色をしています。これに一部飴釉を掛けて二色に彩色しているものもあります。時期は西洋コバルトが大量に日本に輸入されるようになった明治以降で、明治34年から戦後まで造られました。形はツノ型に似ていますが、ツノはなくこちらのほうが高価です。しゃちほこ、獅子、龍頭等の張り付けも多く装飾豊かです。 -
厨子甕は遺骨を納めるというその性質上、元来は人目に触れるようなものではありませんでしたが、廃藩置県後にまずバジル・ホール・チェンバレンによって、その芸術的、民俗学的価値が高く評価されました。また、昭和に入ると柳宗悦や濱田庄司らの民藝運動を通して、厨子甕は沖縄陶器を代表するジャンルの1つとして、その芸術的価値が認められるようになりました。
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「焼締甕型厨子甕(喜納焼)
ボージャー厨子と入れ替わるように1770年代から出現しはじめ、戦後まで作られました。マンガン掛けの焼締め厨子甕である。マンガンを掛けると全体に黒っぽい色の甕になります。陶製厨子甕のうちでも数の上でもっとも多く、初期には上流向けも作られましたが、のちに庶民向けのものとなります。時代が下るにつれて胴部の口は大きくなり全体のシルエットも細身になります。 -
「沖縄に生きる人々」
沖縄の人々は島の土地を上手に利用して田畑をこしらえて、魚を獲って暮らしました。人生の節目には祝い事た儀式を行い、皆で祝福しました。最後のコーナーでは沖縄の農耕や漁業、人生儀礼などの習俗が紹介されています。 -
人生の節目に行われる祝い事や儀式を人生儀礼といいます。誕生祝い、成人式、結婚式、年日(とぅしびー)祝い、長寿祝い、そして葬式です。これら多くは中国や日本本土から伝わり、現在の形になりました。「命名札」は自分の時は父が墨書きしてくれたものでした。
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「タンカーユーエーの占い道具」
タンカーユーエーは生後万歳の祝いのことです。当日は健康祈願の他に占いをします。農具、大工道具、文房具、再訪道具、機織道具などを並べて、子供がそのいずれかを取るによって将来を占います。男女の別、両親の職業や希望により並べられる品物が異なりました。これは福岡の「福岡市博物館」でも同じ風習があることを知りました。 -
「子供の玩具」
以前那覇で時間があった際に「ロードワークス」という店で沖縄の張り子について知りました。その後琉球料理の「美榮(みえい)」で古い張り子を見せてもらったこともあり、興味を持っていました。子供の頃は両親が張り子を旅先で買っていても何とも思いませんでしたが、50台を過ぎたころから日本や中国でも買い求めている自分に気が付きます。 -
ここにはそんな張り子や郷土玩具が並べられています。「鯉乗り童子」は中国の登竜門の故事に倣っているのでしょう。「阿麻和利」という15世紀の琉球王国の勝連半島を勢力下に置いていた按司はここで初めて知りました。
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起き上がり小法師の「うっちりくぶし」やノロ人形の「ヌール―グヮー」、お手玉や琉球まりなどが並んでいます。
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「トーカチ祝いの斗掻」
トーカチとは米寿祝いのことで、枡に盛った穀類などを縁の高さにならすのに使う竹製の道具「斗掻(とかき)」の方言でもあります。トーカチ祝いでは大きなザルにお米を盛り、それに赤い紙を貼った斗掻を差します。
「トゥシビー祝いの晴れ着」
亀甲柄に亀のかすりを配した文様は「八十八」と呼ばれ、祝い用の晴れ着として人気がありました。この小袖(どぅすでぃ)は真栄城興盛の作品です。
「カジマヤ―祝いの風車」
カジマヤーは沖縄地方で行われる数え年97歳の長寿の祝いで、漢字では風車、風車祭と表記します。 -
「イノーと暮らし」
沖縄ではサンゴ礁に囲まれた浅瀬をイノーと呼んで大いに利用しました。銛と鉤で貝やタコを捕り、夜は明かりを灯して魚を突きます。ワナを仕掛けたり海藻を採取するのは女性の仕事でした。 -
沖縄の人々にとってイノーは生活空間の一部であり、豊かな海の恵みをもたらす大切な場所でした。イノーに仕掛けるワナの1つに魚垣があります。琉球諸島ではカチとかカツと呼ばれています。海の浅いところに石積みの垣根を作り、潮の満ち干を利用して魚を獲ります。
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「サバニ」
サバニは沖縄を代表する舟で、漁撈や輸送の手段として活躍しました。もとは刳り舟(くいぶに)でしたが、明治時代に板を張り合わせた合わせ舟(あーしぶに)が登場します。名前の由来は鯖舟(さばふに)、小舟(さぶね)などの説があります。 -
漁具や農耕具が数多く展示してあります。所は違えど昔の日本でも現在の中国の少数民族の村では見ることができるものが多いです。
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「摺り臼を使う穀物調整」
摺り臼(しりうーし)は米や粟などの籾殻を取り除く道具です。上下に分かれた円筒形の臼を重ねて用います。上下のすり鉢状に刳り貫いた部分に穀物を入れ、ギザギザの溝を付けた接地面で摺り合わせます。 -
摺り臼(しりうーし)は島ごとに特徴があり、薄に縄を結んで両側から引く方法は先島諸島に多く、取っ手を付けたものは沖縄と奄美諸島に分布しています。
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「法螺やかん(ぶらやくん)」
ホラ貝の胴部に釘型の木の枝を刺して柄にしたり、複数の孔をあけて縄を通して使いました。これで煮たお茶は美味しく、病気を治すと言われました。 -
沖縄の住まいと衣と食」
沖縄は湿潤な亜熱帯性の高温多湿の気候に属しています。沖縄の衣食住の文化には気候風土に適した生活上の工夫が多く見られます。また周辺の国々や地域の文化を取り入れた多様性も特徴の1つです。 -
「民家の間取り」
沖縄の民家は南向きを理想とし、門と母屋の間に中垣(ひんぶん)を設けています。母屋の間取りは一番座(客間)、二番座(仏間)、裏座、台所に区別されます。母屋の軒、または軒下を雨端(あまはじ)といい、大きな庇が日影を作ります。前庭(なー)とともに労働や社交の場として利用します。母屋の他に前の家(めーぬやー)、納谷兼家畜小屋、豚便所(ふーる)、菜園(あたい)があります。 -
客間として使われる一番座の床の間(とぅく)です。畳の半間よりも広い奥行きがあります。掛軸(かきえ)と左下には三線箱、壺(かーみ)が置かれています。
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仏間である二番座の仏壇(ぶちだん)です。中央の赤い位牌(いーふぇー)、その右には大和位牌(やまとぅいーふぇー)も並べられます。大きな香炉(うこーる)、左には黒線香(うこー)、打銭(うちカビ)があります。
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沖縄位牌は位牌立てが上下左右に分けられていて、上段に男性祖先、下段に女性祖先を祀るります。
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台所の手間、二番座の横には板間があり、食事をしたり居間の役割があります。部屋の角には囲炉裏(ジール)も見えます。
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民家の衣食住に関わる展示には細かい説明書きがあるので理解しやすいです。
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土間と台所の質や絵も良く出来ていて、本物の碑が淹れられているように見えます。壁になら出られているより使い勝手などが分かりやすいと思います。
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こちらも同じように分かりやすい案内があります。
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今まで「琉球村」や「おきなわ郷土村」、石垣島の「やいま村」などを見学してきましたが、この博物館の展示が一番リアルで人々の生活を感じることができました。
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「三線とはなにか」
三線についての展示も興味深いものでした。前日石垣島で初めて手に取ることができ、つま弾くことも出来ました。自分では楽器の演奏はしませんが、古楽器の演奏を聴くのは好きで、中国雲南省の麗江で納西族の古楽を聴いたり、ベトナムのハノイでは歌札(かーちゅー)も訪ねました。
納西古楽:https://4travel.jp/travelogue/10353357
河内歌札:https://4travel.jp/travelogue/10674546 -
現在の三線には代表的な7つの型があるそうで、南風原(フェーバル)、知念大工(チニンデーク)、久場春殿(クバシュンドゥン)、久葉の骨(クバヌフニー)、真壁(マカビ)、平仲知念(ヒラナカチニン)、与那城(ユナグシク)に分かれます。
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それぞれの型は棹の形状に違いがあり、生み出した琉球王国時代の名工の名前がつけられていいます。特に「天(チラ)」と呼ばれる棹の先端部の形状には湾曲の度合いや稜線の有無などで大きな違いがあり、型の個性を決定づける大きな要素だそうです。
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こちらも写真が添えられているのでとても分かりやすいです。1時間ほどで駆け足でしたが今まで分からなかったことや新しい発見など充実した見学になりました。
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ミュージアムショップでは金城次郎の抱瓶(だちびん)の良いものがあって悩みましたが諦めました。ただ、一昨年12月に琉球料理の「美瑩(みえい)」で見せてもらった「郷土玩具こくら」で作っている「土人形(んーちょふぅとぅきー)」をみつけました。これは記念に買い求めました。
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博物館の出口も城(ぐすく)のような建築の美しさを感じることができました。
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ここからタクシーに乗って国際通りに向かいます。運転手さんに博物館が素晴らしかったことと今まで来る機会が無かった話をすると、「私たちは観光客の方にこの博物館に来てもらいたいんです。」という言葉が心に残りました。
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