2024/01/12 - 2024/01/12
4569位(同エリア5869件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1760冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,462,924アクセス
- フォロワー169人
この旅行記のスケジュール
2024/01/12
この旅行記スケジュールを元に
定期観光バスを降りた後は妻の後をついて「琉球真珠」の店に行きます。前に来たときに見た黒真珠のネックレスはありませんでしたが、黒真珠のピアスが欲しいようです。ここまでカジノで勝ち続けているので気が大きくなり、プレゼントしてしまいました。時間があるので「ユーグレナモール」にも行ってみましたが特に買いたいものも無く、八重山そばの「真仁屋」でそばを食べるほどお腹も空いてい鳴く。ここで妻と別れて「石垣市立八重山博物館」に向かいました。石垣島での定期観光バスの最後にこの博物館の前を通過したので、どうしても見たくなったからです。小さな市立博物館でしたが、これまであまり知ることのなかった八重山の文化や風習を知ることができました。台湾の基隆から船で来たというのも良かったと思います。台湾も含めた同じ文化圏だと感じることも多かったです。それとは別の琉球の影響を受けた文化や風習もありました。翌日は那覇でベリッシマを下船した後に「沖縄県立博物館」に行く予定でしたが、その前にここを見学することができて良かったと思います。今回石垣島を一周したこととこの博物館を見て、コロナ禍で来た前回の旅が完結したような気がしました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー ANAグループ 私鉄 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
「ユーグレナモール」で妻と別れて1人で「石垣市立八重山博物館」に向かいます。その手前には「八重山島蔵元跡」がありました。「蔵元」とは首里王府が地方統治のために創設した政庁で、石垣島のほかに宮古島と久米島に置かれていました。
ユーグレナモール 市場・商店街
-
「八重山群島政府道路元標」も隣接して置かれてあります。道路元標は道路の起終点等の基準位置を定めた標石で、各市町村に1つ置くこととなっていたそうです。ローマのマイルストンを思い出します。
-
「石垣市立八重山博物館」に着きました。開館していますが、訪れる人も少ないのか見学者の姿はありません。常設展示の見学は200円でした。見学者には絵葉書セットがいただけます。
石垣市立八重山博物館 美術館・博物館
-
入り口には「ハーリー船」が展示してあります。一昨年行った「海洋博公園」では「美ら海水族館」には行かずに「海洋文化館」の見学をしました。ここも訪れる人は少ないのですが、素晴らしい博物館でした。
-
本土復帰記念事業として石垣市役所旧庁舎跡に建設され、昭和47年の1972年に開館しました。昭和58年の1983年には「沖縄県立博物館」(2006年3月に閉館)に続き、沖縄県内で2番目の登録博物館となりました。
-
16世紀の中国彰州窯の青花盤です。これらは名蔵のシタダル遺跡で発見されたものです。この遺跡では海中から大量の中国産の陶磁器が採集されているそうです。2000年頃にベトナムを旅していて立ち寄ったホイアンの土産物屋の店の奥には大抵ガラスケースがあり、海から揚がった陶器が売られていました。中には硫酸などで古く見せかけたものもありましたが、いいものが安く買えました。
-
茶色い陶器は「パナリ焼」と呼ばれる新城島(パナリ)で焼かれた土器です。17世紀から19世紀にかけて壺や甕や鉢などが造られました。手前に並ぶ磁器は左から沖縄本島から伝わったもの、中国から伝わったもの、日本本土から伝わったものです。
-
「園比屋武御嶽(そのひやんうたき)石門扁額」の拓本です。琉球王国の王宮だった首里城にある「園比屋武御嶽」にある石門は竹富島出身の西糖により築城されたと伝えられます。扁額には「首里の王おきやかもいかなしの御代にたて申候」とあります。
-
「龍蝋燭の下図」
龍蝋燭とは燭台に立てた蝋燭に竜が巻き付く姿をした装飾品で、首里や那覇では「ルーダックス」とか「ドゥラスク」、八重山では「キンリュウ」と呼ばれました。要とは祖先を祀る仏壇に飾られる他、かつては旧手での冊封や元旦の儀式に用いられました。 -
「権現堂 鬼面」
ごb言動の神殿正面柱に掛けられていた鬼面で、本来4面のうちの3面です。全体は赤色に塗られ、眉と目玉は黒、歯と白目は白色に塗り分けられています。開口と閉口で陰陽を象っています。4つの面は登野城、大川、石垣、新川の4つの集落(四箇村)を意味していました。 -
「登野城の大胴・小胴」
石垣島登野城に伝わる能楽系の大和芸能があり、大胴(大鼓)と小胴(小鼓)と太鼓が伝承されています。17世紀の中ごろに八重山に常駐した大和在番が伝えたとする説と琉球王府が士族に対し大和芸能を奨励したという説があります。八重山の士族は鼓をはじめ謡や狂言をたしなみましたが、現在は鼓だけが伝えられ、豊年祭や12年に1度行われる結願祭りで演じられます。 -
「渋張り三線」
蛇皮が高架で普及していなかった時代は和紙に芭蕉の渋汁を塗って何枚か張り合わせたものが用いられました。この三線の胴には上質の美濃紙に芭蕉の渋で9枚ほど張り合わせています。 -
鄭嘉訓書「叙典堂」
鄭嘉訓(てい かくん)は近世琉球を代表する書家で楷書と行書に優れました。久米三十六姓の子孫として生まれ、1791年に御右筆相対役となり、1796年に清の福州に留学しています。中国と鹿児島にそれぞれ3回渡っており、1806年には尚灝王即位謝恩使の江戸上りに儀衛正として随行しました。1816年に島津斉興の招聘を受けて1年半鹿児島に滞在し、薩摩藩士の書道を指導しました。 -
喜友名安信「鯉図」
喜友名安信(きゆな あんしん)は近代八重山を代表する絵師です。石垣島に生まれ、首里の小波蔵安章に絵を学び、明治24年の1891年まで八重山蔵元絵師をつとめています。博物館の横にあった「蔵元」(王府の出先機関)に絵師たちは勤務し、主な業務としては蔵元館内の視察の際の記録、異国舶来航の際の異国船や異国人の記録、異国船との交渉の際の図による通訳の補助、貢納布のデザイン帳の作成でした。 -
久場島清輝「鯉・雉図」
久場島清輝は慶応2年の1866年に那覇生まれ、明治25年の1892年頃に沖縄芝居
の巡業で石垣島に来島後に宮良に定住し、宮良を拠点に活躍した画家・芸能家でした。 -
久場島清輝「福禄寿・恵比寿」
宮良に定住した清輝は、各村々をまわり舞踊を教えるとともに、所望された家の床間に飾る掛軸の絵や、村々の葬具の仏画等を描いたといいます。 -
久場島清輝「紫微鑾駕(しびらんか)」
北極星を中心とした紫微宮に住む北極星が神格化された道教の神で、獅子のような動物に跨り鎖状の手綱を持っています。八重山諸島では木造建築の棟木に「天官賜福紫微鑾駕」の除災招福の呪語を記す風習があり、鑾駕に乗った福を賜る北極紫微大抵に家が護られ家族の安寧を込めました。 -
「ヤマカシラ」
村のシンボルとして、村人が総出で働くとき、「豊年祭」などで使用しました。竿にたてて持ち、下に三角旗をつけます。 -
「プーリィ」の初日は御嶽(おん)でツカサなどの神女を中心に行事が執り行われることから「オンプーリィ」と呼ばれます。2日目は4つの村を挙げて豊穣を祝うことから「ムラプーリィ」と呼ばれます。午後から村を象徴する旗頭を立て新川の「真乙姥御嶽(まいつばおん)」に集まり芸能を奉納しました。
-
他にもサイレーと呼ばれる男の神がツカサに五穀の種子を授ける儀式や選ばれた1人の女性がツカサから貫棒をもらい、雄綱と雌綱をつなぐ「アヒャー綱(女性だけの綱引き)」があり、夕方には松明が灯され大綱引きが行われます。
-
各集落には「旗頭本」という本が残され、明治期の「プーリィ」や「天長節(天皇の誕生日)」などの記録と使われた旗頭の絵図が記されています。
-
-
「立浪」のデザインの旗頭を見ていたら秋田県の横手市の「梵天」の頭飾りを連想しました。この2月に56年振りに「かまくら」と「梵天」を見に行けるので楽しみにしていたせいかもしれません。
-
真っ赤な太陽に松竹梅と丹頂がデザインされた旗頭が展示室の中央に置かれてあります。
-
こちらは太陽を中心に蝶が舞い、白い餅花のおめでたいデザインです。
-
八重山のお盆(ソーロン)は旧暦7月13日から15日に行われ、13日に迎え日(ンカイビ)、送り日(ウクリビ)と呼びます。盆の3日間はアンガマが行われます。アンガマの語源は「母上(アンガマ)」や「姉小(アンガマ)」、浄土宗の行脚僧は訛ったものという説があります。
-
アンガマの一行は三線や太鼓の音に合わせ道歌を謡いながらクバ扇を手に持ち、爺(ウシュマイ)と婆(ンミー)に面を先頭に踊り手である子(ファー)や孫(マー)が続きます。この一行は後生(グショー)と呼ばれるあの世から来た精霊で、訪問する家の子孫繁栄と翌年の豊作を祝福する神でもあります。
-
「波照間島前村の弥勒(ミルク)面」
八重山では旧暦6月の「豊年祭」、9月と10月の「結願祭」と「節祭」、竹富島では「種子取祭」などに「弥勒(ミルク)」が現れます。 -
常世国(ニライカナイ)から島々に五穀豊穣をもたらす農耕の神と仰ぎ、弥勒によってもたらされた実り豊かな生活を「弥勒世(ミルクユー)」「弥勒世果報(ミルクユガフ)」と呼びます。波照間島では旧暦7月14日の先祖供養と豊穣感謝と祈願を行う島最大の祭り「ムーシャマ」に弥勒が現れます。インド発祥の弥勒信仰は台湾や中国では布袋の姿に変わり、八重山ではこのような姿に変わります。
-
「西表島網取村の獅子頭」
網取村では「豊年祭」や「節祭」の際に獅子舞が演じられました。この獅子頭は大川村の大浜宣寛という人物が明治21年の1888年に鹿川村と崎山村の獅子頭と共に造りました。歯が欠けて修理された痕は三箇村の獅子頭が出来上がった際の獅子舞の指導中に他の頭と鉢合わせになった際に欠けたと言われます。 -
「西表島干立の節祭のオホホ」
西表島の祖納と干立、両地区の節祭は500年の歴史があるとされ、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。旧暦9月か10月の己亥を吉日と定めて3日間行われ、2日目がメインの日で奉納芸能が催されます。祖納は前泊浜、干立は前の浜で五穀豊穣をもたらす神を迎える神事「世乞い(ユークイ)」、「船漕ぎ競争」、「ヤフヌ手」、「棒術」、「獅子舞」、「弥勒(ミルク)行列」などが行われます。 -
「波照間島前部落の獅子」
旧盆7月14日に行われる波照間島最大の年中行事をムシャ―マという先祖を供養し、豊作と島民の安全を祈願します。 -
当日は島全体を「東」と「前」と「西」の3組に分け、多彩な芸能を繰り広げ、各組一つがいの獅子の乱舞で最高潮となります。
-
石垣島川平の「節祭」には来訪神「マユンガナシィ」が出現します。顔を手拭いで覆い、クバ笠と蓑をつけた「マユンガナシィ」が家々を訪れ、翌年の豊作と家族の健康、牛馬の繁盛を約束し、農作の心得を説き教えます。この行事は写真撮影が禁止されていますが写真が展示されています。
-
「八重山焼」
八重山群島石垣島の陶器で島人の石垣という人がまず沖縄本島那覇に赴いて陶法を伝習し、享保9年の1724年に国命を受けた泉崎の仲村渠致元を伴って帰えりました。致元は島人を指導して山田平で製陶を始め、1726年にその製品を主に送り、那覇に帰り国主より賞を受けました。 -
窯は仲村渠致元画八重山を去った後の1729年に条件の揃った字大川の黒石川(フーシーナー)に移転します。1755年ごろには字石垣西長間原に平田窯が築かれます。「蔵元」には壺瓦方が設けられ、窯を管理しましたが明治26年の1893年委は廃止されます。
-
「朱漆東道盆(トンダーブン)」
翌日那覇に着いた盤には琉球料理の「美栄」を予約してあり、そこでは「東道盆(トンダーブン)」に盛った宮廷料理をいただくことになっています。 -
「霊供盆(リョングボン)」
仏前や神前に供物を盛る器です。琉球漆器は若い頃から好きで、40年前に那覇の「角萬漆器」で懐石盆を誂えたことがあります。今回移転した店に行くことができ、朱塗りの皿と黒塗りの三方を買うことができました。 -
琉球漆器の歴史は琉球王国時代の14世紀から15世紀頃に始まります。中国との貿易が盛んだったため、漆器の技法は中国から伝わりました。15世紀に琉球王国が統一されると組織的に漆器を作るため貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ)が設置されます。政治と信仰の結びつきが強い琉球地域では、祭祀や儀式で漆の装飾品や首飾り玉などを使用しました。琉球の士族や王族はもとより地方でも、漆器は人と神を結ぶ儀礼の場所で使用されてきました。
-
沖縄伝統の仕掛け凧は沖縄本島では「風蝶(フータン)」、八重山では「シャクシメ―」と呼ばれます。高く上がった凧の糸に蝶を取り付けると羽で風を受けて凧に向かって揚がっていきます。シャクと呼ばれる糸目のストッパーに当たるとそのはずみで羽を閉じる仕掛けです。羽を閉じるとそのまま下がってきますが、その時に紙吹雪を振らせる仕掛けもあります。その下には竹細工の郷土玩具が並んでいます。
-
「苧麻白地ウシヌヤマ文衣装」
八重山上布はイラクサ科の多年草である苧麻(ちょま)標準和名はカラムシを原料とし、茶色に発色するクール(紅露、ソメモノイモ)、黄色に発色するフクギ(福木)、藍色に発色するリュウキュウアイやタイワンコマツナギ等の染料で染めます。発色を促し定着させるために、仕上げには海晒しが行われます。クールを用いて摺込捺染法で絣柄に染めた茶染の白絣が特に有名です。 -
1500年のオヤケアカハチ戦争によって琉球王国による支配が確立すると、苧麻の布を王府に貢納するようになり、1615年頃には王府の命により那覇から茂樽(武樽とも)が織物の指導のために派遣されました。
-
「木綿花色地菱格子に雲蝶紅葉紅型衣装」
1611年に儀間真常が薩摩から木綿種子を持ち帰り栽培し、那覇泉崎村に住んでいた薩摩出身の梅千代と実千代に製織させたことが琉球におけるも綿織物の始まりです。八重山では慶良間列島に流罪になっていた大浜安師が麺の栽培や製糸と製織法を学び1634年に帰島偽に広めました。保温性に優れた綿織物は献納布として製織され着用は士族に限られました。 -
「同衣(綸子衣装)」
長興姓9世豊川善庸が明治4年の1871年に首里に上国する際に遭難し、3年後に中国から帰島した際に持ち帰った防寒着です。 -
「地機(ジバタ)」
5世紀ころから使用されたとみられる手織機で、いざり機とも呼ばれました。織り手の腰で経糸(たていと)の張力を加減し、片足に掛けた紐を引いたり緩めたりすることにより経糸を上下させて緯糸(よこいと)を塔すことにより布を織ることができます。 -
東南アジアを旅すると各地で見掛けるのもこのタイプの織機ですが、明治以降に高機が復旧し始めると次第に地機は姿を消していき、昭和の終わりには使用されなくなります。八重山では「パトームス」とか「ジゥーパタ」と呼ばれました。緯糸(よこいと)を「杼(ひ)」と呼ばれるシャトルの中に装置して、織るときに用いる機織用具も並んでいます。
-
「天蓋(ティンガイ)」
長い棒の先に龍頭を付けたもので、葬列の際に仏像を収める厨子の龕(ガン)の前に立たせ、葬列の威儀をただす役割を持ちます。 -
「サイグルマ」
葬式の時に喪主が着用する衣装です。 -
「龕(ガン)」
葬式の時に棺を入れて墓まで運ぶ屋形の輿を龕(ガン)、またはガンダラゴーと呼びます。朱塗りの槇に木で作った重い輿で、屋根や柱や戸などすべて組み立て式になっています。屋根に鯱を飾り、四つ柱には「南無阿弥陀仏」と書いた木旗を咥えた小鳥の彫り物があります。周囲の壁には僧や花などの仏画が描かれ、さらにその周りに仏画を描いた垂れ幕が掛けられます。2本の棒の上に載せ、前後を8人で担ぎます。 -
「洗骨」
八重山では洗骨のことをシンクチィ、再荼毘(マタダビ)、マタカザミといいます。洗骨は死後3年、5年、7年の奇数年に行われ、家族に妊婦がいる時や生年の干支に当たる年のものがいる時は避けました。石垣島では火葬が一般的になる昭和初期まで行こなわれました。 -
「四つ幡」
葬列の時に使った弔い旗です。「佛諸行無常」「法是生滅法」「僧生滅滅己」「賽寂滅為楽」の文字が書かれています。 -
「厨子甕」
火葬が一般的になる前は人が亡くなると死者を墓に埋葬し、その数年後に遺骨を洗い清める「洗骨」を行いました。洗い終わった遺骨を厨子甕に納め、墓中に安置しました。 -
1つ1つ見ている時間はありませんでしたが、昭和初期くらいまでの生活感を感じる雑器が並んでいます。
-
「筵打機(ニカフクヤマ)」
ニカフクとは大きな藁の筵で、農家では農作業に欠かせないものでした。雑穀を干したり脱穀する際には必要な道具です。太い青竹の間に縦に藁縄を張り、横糸に藁縄を通すという簡単な打ち機です。 -
「釣瓶(チリ)」
クバの葉で作られた水汲み用の釣瓶で、これに縄を付けて使用しました。 -
居間で使われた生活道具が並んでいます。他所から持ち込まれたものと島で作られたものが上手く調和しているように感じます。
-
「石敢當(イシガントウ)」
中国の風俗に由来する魔除けの石碑で「石敢當」の文字を刻み、T字路の突き当りなどに立てます。この石敢當は石垣市内に立てられたもので「太公在此(たいこうここにあり)」と「泰山石敢當」と併記されています。前者は起工・建築・修繕等に用いる符に書かれる文字で、両者が併記される例は沖縄県内ではこの石敢當のみです。 -
小さな展示室が1つですが充実した展示物に驚きました。那覇で「沖縄県立博物館」へ行くのがさらに楽しみになりました。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2024MSCベリッシマ台湾・石垣島・那覇の旅
-
前の旅行記
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(7)石垣島一周定期観光バスで川平湾の美しい海...
2024/01/12~
石垣島
-
次の旅行記
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(9)沖縄ホテルに宿泊し、美栄とBARサクラザ...
2024/01/13~
那覇
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(1)航海の無事とカジノの勝利を祈願しに中華街...
2024/01/07~
横浜
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(2)終日航海日はカジノとPOSIDONIAの...
2024/01/08~
横浜
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(3)終日航海日はインペリアルカジノとロンドン...
2024/01/09~
横浜
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(4)台湾の基隆に入港し路線バスで和平島観光漁...
2024/01/10~
基隆
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(5)基隆奠済宮に参拝し、基隆廟口夜市に遊ぶ。
2024/01/10~
基隆
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(6)基隆中正公園大仏禅寺を参拝し、基隆廟口夜...
2024/01/11~
基隆
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(7)石垣島一周定期観光バスで川平湾の美しい海...
2024/01/12~
石垣島
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(8)石垣市立八重山博物館で八重山の文化を学ぶ...
2024/01/12~
石垣島
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(9)沖縄ホテルに宿泊し、美栄とBARサクラザ...
2024/01/13~
那覇
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(10)沖縄県立博物館で琉球と沖縄の歴史を学び...
2024/01/13~
那覇
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(11)新しくなった第一牧志公設市場から壺屋や...
2024/01/13~
那覇
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(12)ホエールウォッチングから栄町市場のうり...
2024/01/14~
那覇
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(13)首里城から初めての玉陵を参拝し、40年...
2024/01/15~
那覇
-
MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(14)識名園からジャッキーステーキハウスに満...
2024/01/15~
那覇
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
石垣島(沖縄) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2024MSCベリッシマ台湾・石垣島・那覇の旅
0
58