那覇旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「角萬漆器」からタクシーに乗って「識名園」までやってきました。ここも以前から来たいと思っていた場所でした。識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、また首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれ、中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されています。完成当時は中国皇帝からの使者の冊封使をもてなす、現在でいう迎賓館として使われました。「勧耕台」と称する展望台がありますが、ここから海を望むことはできません。これは琉球をより大きな国に見せるためともいわれています。かなり広大な敷地の上に高低差もあるのですっかり疲れてしまいました。駐車場に止まっていたタクシーで「ジャッキーステーキハウス」まで送ってもらいます。かなり混んでいましたが15分くらいで店に入ることができました。ここにも「昭和」の沖縄が残っていました。おいしいテンダーロインステーキにはビックリです。妻に倣ってSで注文しましたが、1口でMにすればよかったと後悔します。ベリッシマの船内でも美味しいステーキをいただきましたが、ここも忘れられない店になりました。沖縄での残り時間も少なくなりましたが、さらにタクシーで国際通りまで送ってもらいます。平和通と市場通りで最後の買い物です。島らっきょうと月桃の葉で包まれたむーちを買い求め、最後に昨日も入った「久高民芸店」に立ち寄ります。コロナで廃業になってしまった「琉球漆器」のお盆を買うためでしたが、さらにウインドウに飾ってあった眞喜屋修という作家の大きなシーサーも一対買ってしまいました。大嶺實清の作風に似たシーサーが魅力的でした。さすがにこれは持ち帰れないので宅急便のお世話になります。「沖縄ホテル」にタクシーで戻り。また増えてしまった荷物に自嘲しながらパッキン仕直します。ホテルの方にお礼を言い、タクシーを呼んでもらい空港まで向かいます。荷物を預けると身軽になりますが、また羽田空港で重たい思い嵌っています。最後に空港のフードコートで一服して最終便で帰りました。出発した1月7日にはお正月気分でしたが、10日後の東京はすっかりそんな気分も消えていました。

MSCベリッシマで新春の台湾基隆と石垣島と沖縄那覇クルーズの旅(14)識名園からジャッキーステーキハウスに満足し、久高民芸店で最後の買い物。

9いいね!

2024/01/15 - 2024/01/15

4542位(同エリア7268件中)

kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

「角萬漆器」からタクシーに乗って「識名園」までやってきました。ここも以前から来たいと思っていた場所でした。識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、また首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれ、中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されています。完成当時は中国皇帝からの使者の冊封使をもてなす、現在でいう迎賓館として使われました。「勧耕台」と称する展望台がありますが、ここから海を望むことはできません。これは琉球をより大きな国に見せるためともいわれています。かなり広大な敷地の上に高低差もあるのですっかり疲れてしまいました。駐車場に止まっていたタクシーで「ジャッキーステーキハウス」まで送ってもらいます。かなり混んでいましたが15分くらいで店に入ることができました。ここにも「昭和」の沖縄が残っていました。おいしいテンダーロインステーキにはビックリです。妻に倣ってSで注文しましたが、1口でMにすればよかったと後悔します。ベリッシマの船内でも美味しいステーキをいただきましたが、ここも忘れられない店になりました。沖縄での残り時間も少なくなりましたが、さらにタクシーで国際通りまで送ってもらいます。平和通と市場通りで最後の買い物です。島らっきょうと月桃の葉で包まれたむーちを買い求め、最後に昨日も入った「久高民芸店」に立ち寄ります。コロナで廃業になってしまった「琉球漆器」のお盆を買うためでしたが、さらにウインドウに飾ってあった眞喜屋修という作家の大きなシーサーも一対買ってしまいました。大嶺實清の作風に似たシーサーが魅力的でした。さすがにこれは持ち帰れないので宅急便のお世話になります。「沖縄ホテル」にタクシーで戻り。また増えてしまった荷物に自嘲しながらパッキン仕直します。ホテルの方にお礼を言い、タクシーを呼んでもらい空港まで向かいます。荷物を預けると身軽になりますが、また羽田空港で重たい思い嵌っています。最後に空港のフードコートで一服して最終便で帰りました。出発した1月7日にはお正月気分でしたが、10日後の東京はすっかりそんな気分も消えていました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.5
ショッピング
5.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
高速・路線バス 観光バス タクシー ANAグループ 私鉄 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 「角萬漆器」からタクシーに乗って「識名園」までやってきました。ここも以前から来たいと思っていた場所で、今回の旅で最後の観光ポイントでもあります。

    「角萬漆器」からタクシーに乗って「識名園」までやってきました。ここも以前から来たいと思っていた場所で、今回の旅で最後の観光ポイントでもあります。

    識名園 公園・植物園

  • 識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれました。造園は琉球の第二尚氏王朝の尚穆の時代に始まったと言われますが定かではないようですが、完成は尚温の時代の1799年ということは分かっています。

    識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれました。造園は琉球の第二尚氏王朝の尚穆の時代に始まったと言われますが定かではないようですが、完成は尚温の時代の1799年ということは分かっています。

  • まずはガジュマルの森の中を歩くので園全体を俯瞰することは出来ません。この旅の最終日でもありますが、唯一天気があまり良くない日でもありました。少し開けた場所に「番屋」があります。

    まずはガジュマルの森の中を歩くので園全体を俯瞰することは出来ません。この旅の最終日でもありますが、唯一天気があまり良くない日でもありました。少し開けた場所に「番屋」があります。

  • 「番屋」を過ぎて少し進むと右手に「通用門」があります。城に見られる櫓門と違い門そのものは木造建築で両側に切石の石垣があります。使用人が出入りする門で正門よりやや小さく作られているようです。

    「番屋」を過ぎて少し進むと右手に「通用門」があります。城に見られる櫓門と違い門そのものは木造建築で両側に切石の石垣があります。使用人が出入りする門で正門よりやや小さく作られているようです。

  • 恐竜でも出てきそうな鬱蒼とした森が続きます。この遊歩道は砕いた珊瑚のような砂利道になっています。

    恐竜でも出てきそうな鬱蒼とした森が続きます。この遊歩道は砕いた珊瑚のような砂利道になっています。

  • 「番屋」を大きく周り込むような園内の遊歩道を歩きます。

    「番屋」を大きく周り込むような園内の遊歩道を歩きます。

  • 「通用門」からは先は手入れの行き届いた石畳の道が始まります。分かりにくいですが、この辺りは幅の広い階段状になっています。

    「通用門」からは先は手入れの行き届いた石畳の道が始まります。分かりにくいですが、この辺りは幅の広い階段状になっています。

  • シマオオタニワタリはジャングルの中の樹皮や岩に着生している着生植物となります。新芽は食用とされ、天ぷらやおひたしなどにして食べられているようです。

    シマオオタニワタリはジャングルの中の樹皮や岩に着生している着生植物となります。新芽は食用とされ、天ぷらやおひたしなどにして食べられているようです。

  • クワズイモがポツンと1株植えてあります。誰かが植えたのか自生しているのでしょうか?

    クワズイモがポツンと1株植えてあります。誰かが植えたのか自生しているのでしょうか?

  • 梯梧の木が植えられていました。この木をじかに見るのは初めてかもしれません。琉球漆器の生地によく使われる樹木で、軽くて狂いが少ないのが特徴です。以前は下地に豚の血に含まれる膠質を利用し、下地に使用していました。この手法は明治以降の琉球漆器に多く見られましたが現在は行われていないようです。<br />

    梯梧の木が植えられていました。この木をじかに見るのは初めてかもしれません。琉球漆器の生地によく使われる樹木で、軽くて狂いが少ないのが特徴です。以前は下地に豚の血に含まれる膠質を利用し、下地に使用していました。この手法は明治以降の琉球漆器に多く見られましたが現在は行われていないようです。

  • 「正門」までやってきました。2つの門を見ることができましたが、どちらも内側だけで表側が見られなかったのが残念です。この門は国王一家や冊封使などが出入りしました。2つの門は「屋門(やーじょう)」と呼ばれる屋根の付いた形式です。「屋門」は格式のある屋敷などにしか使えませんでした。

    「正門」までやってきました。2つの門を見ることができましたが、どちらも内側だけで表側が見られなかったのが残念です。この門は国王一家や冊封使などが出入りしました。2つの門は「屋門(やーじょう)」と呼ばれる屋根の付いた形式です。「屋門」は格式のある屋敷などにしか使えませんでした。

  • 「正門」からの道はさらに幅が広がり、琉球石灰岩の小さめの石が隙間なく敷かれているので舗装されているようです。先ほどの「通用門」にあった段差はここにはありません。

    「正門」からの道はさらに幅が広がり、琉球石灰岩の小さめの石が隙間なく敷かれているので舗装されているようです。先ほどの「通用門」にあった段差はここにはありません。

  • 森の中を抜けると「心字池」が見えてきます。ここに至るまで池の存在は全く感じられないので、作庭した人物の心情が感じられます。

    森の中を抜けると「心字池」が見えてきます。ここに至るまで池の存在は全く感じられないので、作庭した人物の心情が感じられます。

  • 「識名園」の周囲は完全に住宅地になっているので、その中にこのような空間があるとは思えません。

    「識名園」の周囲は完全に住宅地になっているので、その中にこのような空間があるとは思えません。

  • 池のほうに目を奪われますが左手に目をやると石造りの2つの井戸口と2つの石碑があります。

    池のほうに目を奪われますが左手に目をやると石造りの2つの井戸口と2つの石碑があります。

  • 「育徳泉(いくとくせん)」は清冽な水をたたえ、池の水源の1つにもなっています。琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」にして、巧みな曲線が優しい美しさを感じさせてくれます。また、井戸口は右手に小さいものもあります。この泉に生える淡水産の紅藻類「シマチスジノリ」は国の天然記念物だそうです。

    「育徳泉(いくとくせん)」は清冽な水をたたえ、池の水源の1つにもなっています。琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」にして、巧みな曲線が優しい美しさを感じさせてくれます。また、井戸口は右手に小さいものもあります。この泉に生える淡水産の紅藻類「シマチスジノリ」は国の天然記念物だそうです。

  • 井戸の上には泉をたたえた2つの碑が立てられています。向かって右は嘉慶2年の1800年に尚温王の冊封正使趙文楷が題した「育徳泉碑」です。向かって左の碑は道光18年の1838年に尚育王の冊封正使林鴻年が題した「甘醴延齢碑」です。もとの碑は戦災を受けて下部が破損したため、昭和55年の1980年に拓本をもとにして復元したものです。

    井戸の上には泉をたたえた2つの碑が立てられています。向かって右は嘉慶2年の1800年に尚温王の冊封正使趙文楷が題した「育徳泉碑」です。向かって左の碑は道光18年の1838年に尚育王の冊封正使林鴻年が題した「甘醴延齢碑」です。もとの碑は戦災を受けて下部が破損したため、昭和55年の1980年に拓本をもとにして復元したものです。

  • 「育徳泉(いくとくせん)」を抜けて進むと池のほとりの芝生の広場に出ます。その先に平屋の「御殿(うどぅん)」が見えてきます。

    「育徳泉(いくとくせん)」を抜けて進むと池のほとりの芝生の広場に出ます。その先に平屋の「御殿(うどぅん)」が見えてきます。

  • 「御殿」は赤瓦屋根の民家風ですが、当時の瓦葺は上流階級のみが許された格調高い造りです。

    「御殿」は赤瓦屋根の民家風ですが、当時の瓦葺は上流階級のみが許された格調高い造りです。

  • 縁側の前には靴脱ぎの石が置かれています。室内に入ると廊下は板張り、部屋は畳敷きで昔の民家とよく似た造りです。

    縁側の前には靴脱ぎの石が置かれています。室内に入ると廊下は板張り、部屋は畳敷きで昔の民家とよく似た造りです。

  • 「前の一番座」という名前がついているので、今まで見てきた沖縄の民家と同じ構成になっているのが分かります。

    「前の一番座」という名前がついているので、今まで見てきた沖縄の民家と同じ構成になっているのが分かります。

  • 部屋数は15室と多いのでさすがに王家の別荘という感じがします。面白いのは縁側の軒下の柱は皮をむいた原木のままの丸柱で、室内は製材された角柱になっています。

    部屋数は15室と多いのでさすがに王家の別荘という感じがします。面白いのは縁側の軒下の柱は皮をむいた原木のままの丸柱で、室内は製材された角柱になっています。

  • 庭園の美しさを一番感じられるのは歩きながら回遊するよりも、建物の中の一番良い座敷から見ることだと聞いたことがあります。

    庭園の美しさを一番感じられるのは歩きながら回遊するよりも、建物の中の一番良い座敷から見ることだと聞いたことがあります。

  • 京都の「金閣寺」の金閣と呼ばれる舎利殿の中に入ったことがありますが、池の眺めは美しいのですが、金閣自体は見ることができないので物足りなく感じたことがあります。2層と3層は壁も床も黒漆塗りになっていて、この世のものとは思えない美しさだったことを覚えています。

    京都の「金閣寺」の金閣と呼ばれる舎利殿の中に入ったことがありますが、池の眺めは美しいのですが、金閣自体は見ることができないので物足りなく感じたことがあります。2層と3層は壁も床も黒漆塗りになっていて、この世のものとは思えない美しさだったことを覚えています。

  • 「桂離宮」は確かの池の周りを回遊して歩くよりも、目線の高さが高くなる御殿の上から眺めた方が格段に美しく感じました。母や祖母や叔母は月見台で月見をしたことがありましたが、そんな機会はもうあり得ません。

    「桂離宮」は確かの池の周りを回遊して歩くよりも、目線の高さが高くなる御殿の上から眺めた方が格段に美しく感じました。母や祖母や叔母は月見台で月見をしたことがありましたが、そんな機会はもうあり得ません。

  • 白木造りの内装はとてもすがすがしい気がしますが、元々このような仕上げだったのでしょうか。書院造りの違い棚などを見ると、実際の仕上げは違ったのではないかと思えました。

    白木造りの内装はとてもすがすがしい気がしますが、元々このような仕上げだったのでしょうか。書院造りの違い棚などを見ると、実際の仕上げは違ったのではないかと思えました。

  • 非常に長い庇が風雨や夏の暑い日差しを遮ってくれると感じます。

    非常に長い庇が風雨や夏の暑い日差しを遮ってくれると感じます。

  • 建物の周囲は石畳が周り込んでいますが、雨が板張りの外壁に跳ね返るので、実際に板が傷んでいます。

    建物の周囲は石畳が周り込んでいますが、雨が板張りの外壁に跳ね返るので、実際に板が傷んでいます。

  • 「御茶湯御酒羹所」は琉球国王にお出しする料理を温めていた場所です。料理を出す前に検査を3回していたようです。

    「御茶湯御酒羹所」は琉球国王にお出しする料理を温めていた場所です。料理を出す前に検査を3回していたようです。

  • トイレも再現されています。これはお尻を向こう側にして、こちら向きに使います。奥側の板は「きぬかけ」といい、まくり上げた衣類の裾を掛けて用を足しました。

    トイレも再現されています。これはお尻を向こう側にして、こちら向きに使います。奥側の板は「きぬかけ」といい、まくり上げた衣類の裾を掛けて用を足しました。

  • 外部との開口部は板戸になっています。明暗のコントラストが美しいです。

    外部との開口部は板戸になっています。明暗のコントラストが美しいです。

  • 「台所」には大きなまな板が置かれ、大きな竈が2つと小さな竈が4つ並んでいます。この部屋だけ天井が無く、煮炊きの時に生じた煙は屋根裏に伝わるような工夫がされています。屋根裏と天井の間を燻蒸することによりシロアリなどの害虫を防ぐことができました。

    「台所」には大きなまな板が置かれ、大きな竈が2つと小さな竈が4つ並んでいます。この部屋だけ天井が無く、煮炊きの時に生じた煙は屋根裏に伝わるような工夫がされています。屋根裏と天井の間を燻蒸することによりシロアリなどの害虫を防ぐことができました。

  • 部屋うちが暗くならないように中庭が設けて、隣接する部屋の中が明るく保たれています。シダ類が生えている庭はもっと手入れがされていたのだと思います。

    部屋うちが暗くならないように中庭が設けて、隣接する部屋の中が明るく保たれています。シダ類が生えている庭はもっと手入れがされていたのだと思います。

  • 襖などは無く、すべての仕切りは板戸でした。すべて取り外してしまえばかなりの開放感があると思います。この日は奥の客間でお茶会が催されていました。

    襖などは無く、すべての仕切りは板戸でした。すべて取り外してしまえばかなりの開放感があると思います。この日は奥の客間でお茶会が催されていました。

  • 妻は疲れて座り込んでしまいました。足が痛いので靴の脱ぎ履きが大変そうです。

    妻は疲れて座り込んでしまいました。足が痛いので靴の脱ぎ履きが大変そうです。

  • 第2次世界大戦で園内のほとんどの建造物が破壊されたため、現在見られるものは1975年から1995年にかけて復元されたものです。

    第2次世界大戦で園内のほとんどの建造物が破壊されたため、現在見られるものは1975年から1995年にかけて復元されたものです。

  • 「心字池」の周りを回遊します。急に天気が怪しくなってきました。西の方角に黒い雲が見えてきます。

    「心字池」の周りを回遊します。急に天気が怪しくなってきました。西の方角に黒い雲が見えてきます。

  • 「小石橋」は野趣のある琉球石灰岩をそのまま組んだような形をしています。

    「小石橋」は野趣のある琉球石灰岩をそのまま組んだような形をしています。

  • 池の中の「六角堂」が近づいてきました。

    池の中の「六角堂」が近づいてきました。

  • 「大石橋」は池に架かる石製のアーチ橋で、舟が橋の下をくぐることができるように太鼓橋になっています。中国江南に多い形を模しているようです。定かではありませんが、杭州の西湖の堤防を模したのかもしれません。西湖堤の縮景は小石川後楽園や、高松の栗林公園など日本各地の大名庭園でも見ることができます。

    「大石橋」は池に架かる石製のアーチ橋で、舟が橋の下をくぐることができるように太鼓橋になっています。中国江南に多い形を模しているようです。定かではありませんが、杭州の西湖の堤防を模したのかもしれません。西湖堤の縮景は小石川後楽園や、高松の栗林公園など日本各地の大名庭園でも見ることができます。

  • 「御殿」の反対側までやってきました。今にも雨が降り僧なので傘の用意をします。

    「御殿」の反対側までやってきました。今にも雨が降り僧なので傘の用意をします。

  • 「心字池」の中に小さな島を設けて、その中央に「六角堂」が建てられています。こちらにも小さな石橋が架かっています。さきほどの石橋に比べるとかなり小ぶりのアーチ橋です。

    「心字池」の中に小さな島を設けて、その中央に「六角堂」が建てられています。こちらにも小さな石橋が架かっています。さきほどの石橋に比べるとかなり小ぶりのアーチ橋です。

  • 「六角堂」の屋根は御殿と違い黒い瓦で葺かれています。この建物は明治時代までは四角の入母屋づくりの建物であったようです。六角という形には不思議な魅力があります。東京の浅草寺の「六角堂」は都内最古の木造建築ですし、茨城県の五浦の「六角堂」は明治時代に岡倉天心が思索の場所として自ら設計しています。一番有名なのは京都の「六角堂」でしょうか。個人的には中野の「哲学堂」の「六賢臺」ですね。

    「六角堂」の屋根は御殿と違い黒い瓦で葺かれています。この建物は明治時代までは四角の入母屋づくりの建物であったようです。六角という形には不思議な魅力があります。東京の浅草寺の「六角堂」は都内最古の木造建築ですし、茨城県の五浦の「六角堂」は明治時代に岡倉天心が思索の場所として自ら設計しています。一番有名なのは京都の「六角堂」でしょうか。個人的には中野の「哲学堂」の「六賢臺」ですね。

  • このアングルで橋を見るとやはりここは西湖堤を模したものだと思えます。琉球でも白居易の詩「銭塘江春行」で「緑楊陰裏白沙堤」とうたわれた白堤、蘇軾の造営によるという蘇堤などへの憧憬があったのではないでしょうか。

    このアングルで橋を見るとやはりここは西湖堤を模したものだと思えます。琉球でも白居易の詩「銭塘江春行」で「緑楊陰裏白沙堤」とうたわれた白堤、蘇軾の造営によるという蘇堤などへの憧憬があったのではないでしょうか。

  • 「六角堂」から「船揚場」に向かう途中、小高い丘があります。ここからの眺めが一番美しいと思います。日本各地の大名庭園も素晴らしいのですが、どこもその庭園の奥に無粋なマンションやビルが林立しているのがほとんどですが、ここにはそういった無粋なものが見えません。

    「六角堂」から「船揚場」に向かう途中、小高い丘があります。ここからの眺めが一番美しいと思います。日本各地の大名庭園も素晴らしいのですが、どこもその庭園の奥に無粋なマンションやビルが林立しているのがほとんどですが、ここにはそういった無粋なものが見えません。

  • ここで思いついたのですが、この池が西湖を模したのであれば「六角堂」は西湖に面して建つ「雷峰塔」か近くの銭塘江に建つ「六和塔」を模したのではないでしょうか。いずれにせよ明治以降の人の文人趣味だと思いますが。

    ここで思いついたのですが、この池が西湖を模したのであれば「六角堂」は西湖に面して建つ「雷峰塔」か近くの銭塘江に建つ「六和塔」を模したのではないでしょうか。いずれにせよ明治以降の人の文人趣味だと思いますが。

  • 小さい丘を越えて、再び池面の高さに下ってきます。

    小さい丘を越えて、再び池面の高さに下ってきます。

  • 細長い池の一番奥に「船揚場」があります。回遊路から石畳が緩やかに傾斜しながらそのまま水の中へと続いています。往時の琉球の王族はここから船を漕ぎ出して庭園の風流を楽しんだのでしょうか。<br /><br />

    細長い池の一番奥に「船揚場」があります。回遊路から石畳が緩やかに傾斜しながらそのまま水の中へと続いています。往時の琉球の王族はここから船を漕ぎ出して庭園の風流を楽しんだのでしょうか。

  • 再び回遊路は階段で丘を登ります。

    再び回遊路は階段で丘を登ります。

  • 展望台の傍らに石碑があり、「観耕台」は道光18年の1838年に尚育王のもとへ遣わされた冊封正使の林鴻年が題したもので、手入れの行き届いた田畑を見て、王が心から人々を励ましているとたたえたのです。

    展望台の傍らに石碑があり、「観耕台」は道光18年の1838年に尚育王のもとへ遣わされた冊封正使の林鴻年が題したもので、手入れの行き届いた田畑を見て、王が心から人々を励ましているとたたえたのです。

  • もとの碑は戦災を受けて破損したため、拓本をもとにして復元したものです。この「観耕台」に中国からの使節を案内した際に海が見えないことが考慮されたそうです。琉球の国土の狭さを感じさせないという意味があったということです。

    もとの碑は戦災を受けて破損したため、拓本をもとにして復元したものです。この「観耕台」に中国からの使節を案内した際に海が見えないことが考慮されたそうです。琉球の国土の狭さを感じさせないという意味があったということです。

  • バナナ畑の中から丸々と太った猫が出てきました。

    バナナ畑の中から丸々と太った猫が出てきました。

  • 再び石畳の道に戻り、「御殿」の裏側に戻ってきました。

    再び石畳の道に戻り、「御殿」の裏側に戻ってきました。

  • 手前の建物は「駕籠屋」で、「首里城」から国王などが乗ってきた御輿(うくし)を納めるところです。担ぎ手たちもここで休むことができました。

    手前の建物は「駕籠屋」で、「首里城」から国王などが乗ってきた御輿(うくし)を納めるところです。担ぎ手たちもここで休むことができました。

  • 最後に「番屋」を見学して「識名園」の見学が終わりました。住宅街なのでタクシーが捕まるか心配でしたが、駐車場で昼休みしていた運転手さんが送ってくれました。

    最後に「番屋」を見学して「識名園」の見学が終わりました。住宅街なのでタクシーが捕まるか心配でしたが、駐車場で昼休みしていた運転手さんが送ってくれました。

  • 最後の目的地は「ジャッキーステーキハウス」です。旅の終わりはここでステーキを食べることです。お昼時はかなり混雑するという店ですが、ピーク時を越えていたので10分ほどで名前が呼ばれました。「ジャッキーステーキハウス」は戦後間もない昭和28年の1953年にオープンしたステーキハウスです。

    最後の目的地は「ジャッキーステーキハウス」です。旅の終わりはここでステーキを食べることです。お昼時はかなり混雑するという店ですが、ピーク時を越えていたので10分ほどで名前が呼ばれました。「ジャッキーステーキハウス」は戦後間もない昭和28年の1953年にオープンしたステーキハウスです。

    ジャッキー ステーキハウス グルメ・レストラン

  • 創業者が叔父の店の暖簾分けという形で嘉手納に店を構えたのが始まりで、その後に那覇に店を出した時は「ニューヨークレストラン」の他に「ながたや」と「ジャッキーステーキハウス」という店名も使っていました。やがて嘉手納を引き払って完全に那覇だけになり、メニューもステーキを主体に絞った段階で「ジャッキーステーキハウス」になりました。因みにジャッキーは、お世話になった米兵の将校ジャクソンという方のことだそうです。

    創業者が叔父の店の暖簾分けという形で嘉手納に店を構えたのが始まりで、その後に那覇に店を出した時は「ニューヨークレストラン」の他に「ながたや」と「ジャッキーステーキハウス」という店名も使っていました。やがて嘉手納を引き払って完全に那覇だけになり、メニューもステーキを主体に絞った段階で「ジャッキーステーキハウス」になりました。因みにジャッキーは、お世話になった米兵の将校ジャクソンという方のことだそうです。

  • MSCベリッシマでも2回ステーキを食べてきましたが、どうしてもこの店に来たかったのです。

    MSCベリッシマでも2回ステーキを食べてきましたが、どうしてもこの店に来たかったのです。

  • Aサインという米軍風紀取締委員会が発行する認定書をもらうのがなかなか大変だったそうです。肉は米軍指定の業者から仕入れなければならず、食器の洗浄にも規定があったり、建物もコンクリート製でなければならなかったそうです。当時の軍人や軍属はAサインのある営業施設以外での飲食は禁止されていたため、これが取得できるかどうかはお店にとって死活問題でした。

    Aサインという米軍風紀取締委員会が発行する認定書をもらうのがなかなか大変だったそうです。肉は米軍指定の業者から仕入れなければならず、食器の洗浄にも規定があったり、建物もコンクリート製でなければならなかったそうです。当時の軍人や軍属はAサインのある営業施設以外での飲食は禁止されていたため、これが取得できるかどうかはお店にとって死活問題でした。

  • アメリカンダイナーを思わせる店内はアメリカ統治下の雰囲気をそのまま残しています。ここにも「昭和」の沖縄が残っていました。今回の那覇の「昭和巡り」もここで最後です。

    アメリカンダイナーを思わせる店内はアメリカ統治下の雰囲気をそのまま残しています。ここにも「昭和」の沖縄が残っていました。今回の那覇の「昭和巡り」もここで最後です。

  • まずは生ビールをジョッキでいただきます。10日間お疲れさまでした。帰ったらすぐに次のモロッコの旅の準備をしなければなりません。その前に洗濯など妻にお願いすることがたくさんあります。

    まずは生ビールをジョッキでいただきます。10日間お疲れさまでした。帰ったらすぐに次のモロッコの旅の準備をしなければなりません。その前に洗濯など妻にお願いすることがたくさんあります。

  • 10日間天気も良く楽しい年始の旅行でした。いつまで今旅が続けられるか分かりませんが、少しでも長くと願います。

    10日間天気も良く楽しい年始の旅行でした。いつまで今旅が続けられるか分かりませんが、少しでも長くと願います。

  • ステーキのセットはサラダとスープも付いています。ドレッシングやスープの味も昔の味を踏襲していると感じます。最後にこの店に来れて良かったです。

    ステーキのセットはサラダとスープも付いています。ドレッシングやスープの味も昔の味を踏襲していると感じます。最後にこの店に来れて良かったです。

  • 一番人気のメニューはテンダーロインステーキです。妻に倣ってSサイズにしてしまいましたが、Mサイズにすればよかったと後悔します。これで3,000円のセットです。

    一番人気のメニューはテンダーロインステーキです。妻に倣ってSサイズにしてしまいましたが、Mサイズにすればよかったと後悔します。これで3,000円のセットです。

  • お肉は柔らかくて焼き具合も程よいミディアムレアだったので、店オリジナルのソースでぺろりといただけました。この店は現金払いのみなので、そこだけ注意が必要です。相変わらずお客さんはどんどん回転して常時満席状態です。

    お肉は柔らかくて焼き具合も程よいミディアムレアだったので、店オリジナルのソースでぺろりといただけました。この店は現金払いのみなので、そこだけ注意が必要です。相変わらずお客さんはどんどん回転して常時満席状態です。

  • 表通りに出てタクシーで国際通りまで送ってもらいます。平和通周辺で最後の買い物です。

    表通りに出てタクシーで国際通りまで送ってもらいます。平和通周辺で最後の買い物です。

    平和通り商店街 市場・商店街

  • 「やまや」の月桃に包んだムーチーを買おうと思ったのが、遅い時間去ったのですでに売り切れでした。「松原屋製菓店」に少し残っていたので、自宅文と友人へのお土産を買います。

    「やまや」の月桃に包んだムーチーを買おうと思ったのが、遅い時間去ったのですでに売り切れでした。「松原屋製菓店」に少し残っていたので、自宅文と友人へのお土産を買います。

  • 「第一牧志公設市場」で島らっきょうと海ぶどうを買って市場通りを戻ってきます。宝石屋さんを素通りしてくれて助かりました。

    「第一牧志公設市場」で島らっきょうと海ぶどうを買って市場通りを戻ってきます。宝石屋さんを素通りしてくれて助かりました。

    市場本通り 市場・商店街

  • 昨日「琉球漆器」のお盆を買おうか迷った「久高民芸店」にもう一度寄ることにします。「琉球漆器」はコロナ禍で廃業してしまったので、今後手に入らなくなります。朱塗りの厚みのある盛盆の大きなものが残っていました。それだけのつもりがウインドウの上部に飾ってあった緑釉のシーサーが気になります。一見して大嶺實清の作品かと思ったほどです。お弟子さんだった眞喜屋修の作品でしたが、迫力もあり、出来も良いので買い求め宅急便で送ってもらうことにします。

    昨日「琉球漆器」のお盆を買おうか迷った「久高民芸店」にもう一度寄ることにします。「琉球漆器」はコロナ禍で廃業してしまったので、今後手に入らなくなります。朱塗りの厚みのある盛盆の大きなものが残っていました。それだけのつもりがウインドウの上部に飾ってあった緑釉のシーサーが気になります。一見して大嶺實清の作品かと思ったほどです。お弟子さんだった眞喜屋修の作品でしたが、迫力もあり、出来も良いので買い求め宅急便で送ってもらうことにします。

    久高民芸店 お土産屋・直売所・特産品

  • 国際通りからタクシーで「沖縄ホテル」に戻って、荷物を受け取ってパッキングのし直しです。手持ちの秤で23キロギリギリのトランクを4個と手持ちのボストンバックを2つにリュックになりました。タクシーを呼んでもらい空港へ向かいます。若さ中央通りを走っていると巨大な「龍柱」が見えました。以前はたくさん来ていた中国からのクルーズ船は近くの「那覇クルーズターミナル」に入港したので、この柱が出迎えたんですよとドライバーさんが教えてくれます。那覇市と中国福州市が、昭和56年の1981年の友好都市締結から平成23年の2011年で30周年を迎え、両市の友好と交流を記念して建設されたものです。像の規模は高さ15メートルで幅3メートルあり、中国福建省産の花崗岩で造られています。

    国際通りからタクシーで「沖縄ホテル」に戻って、荷物を受け取ってパッキングのし直しです。手持ちの秤で23キロギリギリのトランクを4個と手持ちのボストンバックを2つにリュックになりました。タクシーを呼んでもらい空港へ向かいます。若さ中央通りを走っていると巨大な「龍柱」が見えました。以前はたくさん来ていた中国からのクルーズ船は近くの「那覇クルーズターミナル」に入港したので、この柱が出迎えたんですよとドライバーさんが教えてくれます。那覇市と中国福州市が、昭和56年の1981年の友好都市締結から平成23年の2011年で30周年を迎え、両市の友好と交流を記念して建設されたものです。像の規模は高さ15メートルで幅3メートルあり、中国福建省産の花崗岩で造られています。

  • 那覇空港に着いて荷物を持ってチェックインします。マイレージで取得したチケットは座席もすでに決まっています。身軽でもありませんが、トランク4個手放したところでフードコートで恒例の反省会です。本当は「A&amp;W」でルートビアでもよいかと思いましたが、やっぱりレモンサワーですね。

    那覇空港に着いて荷物を持ってチェックインします。マイレージで取得したチケットは座席もすでに決まっています。身軽でもありませんが、トランク4個手放したところでフードコートで恒例の反省会です。本当は「A&W」でルートビアでもよいかと思いましたが、やっぱりレモンサワーですね。

    那覇空港 空港

  • フライドポテトとタコスをつまみに旅の思い出を話し合い、反省会も無事に終わりました。追加でジーマーミ―豆腐もお土産に買って長い旅は終わりました。荷物を持って羽田空港から帰るのは大変でした。

    フライドポテトとタコスをつまみに旅の思い出を話し合い、反省会も無事に終わりました。追加でジーマーミ―豆腐もお土産に買って長い旅は終わりました。荷物を持って羽田空港から帰るのは大変でした。

    スナックコートbyフウゲツ グルメ・レストラン

  • メルカリで買った50年以上前の古い角萬漆器の堆錦餅(ついきんもち)の龍盆は3400円で、薄汚れていましたが、歯磨き粉とサラダオイルを混ぜたもので磨き上げたら新品のように蘇りました。数日後に「久高民芸店」から届いたシーサーと共に飾りました。

    メルカリで買った50年以上前の古い角萬漆器の堆錦餅(ついきんもち)の龍盆は3400円で、薄汚れていましたが、歯磨き粉とサラダオイルを混ぜたもので磨き上げたら新品のように蘇りました。数日後に「久高民芸店」から届いたシーサーと共に飾りました。

9いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP