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《2020.December》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅠ之参~武家の時代・そして近代へ編~<br /><br />高台寺参拝を終えねねの道を南進する。行きにチケットブースが無人だと思ったのは無人の〝観光案内所〟のようだった。しばらく歩くと高台寺と刻まれた石碑があった。駐車場へと向かう坂に繋がっているようで、車ならばこちらから進むことができるようだ。わざわざ石段の続く参道を歩く必要がないことを改めて知った。石碑の隣には維新の道がある。京都霊山護国神社や霊山歴史館の他坂本龍馬の墓もある。今日は時間の都合で行かないが、また改めて来た際には立ち寄りたいと思う。<br /><br />一旦西進すると高台寺表門がある。ライトアップはされているが、境内のように眩しいレベルではなく、重厚感を表現するものとなっていた。ここから北進する道は下河原通となる。カフェ等都情緒溢れる建物を利用したお店は、通常ならば多くの観光客で賑わっていそうだが、このご時世故店そのものが閉まっておりその賑やかさはなかった。途中石塀小道へと入り、The京都という雰囲気を味わう。狭くて入り組んだ路地は圓徳院出口を掠めて家と家の間を通り抜ける小道となり下河原通へと戻って来る。そのまま北進すると八坂神社石鳥居へと道は伸びており、再び東進するとねねの道に合流する。円山公園入口には京都霊山護国神社と頼山陽先生墓碑と刻まれた石碑がある。どうやらこちらからも行くことができるようだが、地図で見る限りわからなかった。京の街を〝碁盤の目〟と評するがあくまで洛中のことであり、その周辺ではどこに繋がっているのかがわからない小道が沢山ある。<br /><br />円山公園に入り先ずは〝例〟の銅像を探す。中岡慎太郎と坂本龍馬の像である。この像は戦時中の金属供出でなくなったものが、戦後に作り直されたものである。武家時代から近代化を推し進める尊王攘夷・大政奉還・王政復古の大号令等を経て明治維新と繋がっているが、この半世紀程の期間に於いて旧幕臣と官軍が争い多くの血が流れている。その犠牲を経て近代国家としての日本に行き着くのは言うまでもないことだが、維新の立役者と言われるこの両名は、グラバーをはじめとする武器商人から新式の銃を購入し、官軍が戦闘を優位に進める方程式を作り上げたことも事実である。戊辰戦争と呼ばれる近代日本に於ける最大の内乱による結果で明治維新となったことは知られているが、内乱と称されるものであれば、もう少し犠牲を減らすことはできなかったのか?と思えて仕方がない。結局思想論で敵対する旧幕臣によって両名は殺害された。そのことを血で血を争う結果だったと考えるのは私だけなのだろうかとふと思った。<br /><br />150年前に想いを馳せつつ円山公園を歩く。そのまままっすぐに進むと神宮道へと入り知恩院の三門が見えてくる。この界隈だが客待ちのタクシーが沢山停まっていた。この時期引っ張りだことなっている筈だが、観光地も含め需要はほとんどないと高台寺公園の喫煙コーナーで話をしたタクシードライバーさんが言っていた。東山の駅まで~と利用することも考えたが、帰り道に立ち寄る場所はほとんどが一方通行の道に面しており勝手が悪い。まぁ明日は我が身と思いながらも帰り道を歩いて行った。<br /><br />古門前通を西進したところに何やら石碑が建てられている場所を見つけ立ち寄ってみる。先求院、知恩院の塔頭のひとつであるが、ここには徳川四天王の一人酒井忠次公の墓所でもあるようだ。しかし実際の墓所は知恩院裏の墓地にあり、この先求院が管理しているとのことだった。この先求院何やら曰く付きの事件があったようで、詳細を調べようとするとその話ばかりが引っ張られてしまう。部外者の立ち入ることではないため、詳細を調べることを諦めて先を急ぐことにする。<br /><br />先求院の先を北進すると大きな学校らしき建物が見えて来る。浄土宗知恩院と関わりのある華頂女子高等学校である。明治44(1911)年に旧華頂宮邸宅跡に華頂女学院を創設したことに歴史が始まっている。以来1世紀を超える歴史を持つ学校ではあるが、少子化に伴う生徒減少が進む昨今に於いて多くの男子・女子高が共学化されているのに対し、華頂女子高は今尚女子校であり続けている。一度高校時代に学祭に呼ばれて行ったことがあるが、うちの高校との違いにビックリしてしまい記憶に残っていないことを思い出した。<br /><br />平日昼間ならば通学の女子高生で溢れている道であるが、この時刻故誰にも会うことはなかった。そのまま白川沿いまで歩いて行った後三条通へと向かって行った。一本橋を越え和菓子の餅寅の角を曲がる。餅寅横にも道標があったが〝明智光秀の塚〟に到着する。時折〝首塚〟と書かれている場合があるが、正しくは〝塚〟若しくは〝胴塚〟である。本能寺の変で信長を倒すも、11日後の天王山の戦いに於いて〝中国大返し〟をした羽柴秀吉軍に大敗した。明智軍本陣裏にあった勝竜寺城へと退却した光秀は、夜の闇に紛れて手勢と共に居城坂本を目指すが、陽が上る頃伏見小栗栖の竹林を歩いていた際に土民の槍によって深手を負った。これまでと悟った光秀はその場で自害して果て、介錯を行った家来がその首を布で包んで隠したと言われている。もっとも首はすぐに近くの農民によって発見され、信長の三男である神戸信孝の下へと届けられ、三井寺滞陣中の秀吉の下に届けられて首実験されたと言われている。その後光秀に味方し磔となった斎藤利三・阿閉貞大の首と共に現在の塚付近の粟田口で晒されたと言われている。その後寺僧や配下の武将によって首は持ち出されそれぞれの場所に埋められて供養されている。光秀の胴塚は刺された〝明智の薮〟付近の観修寺にあるが、首塚の伝承地はいくつかある。この場所は粟田口に程近い場所として、首を埋めた上に供養の五輪塔が建てられたと伝承されている。丁寧に葬られ今尚世話をする方々の手によって綺麗に塚がされていることは心打たれるものがあった。<br /><br />人が近づくと祠の照明が自動でつくようにされた光秀の塚を後にして今来た道を戻る。白川沿いに歩くとまもなく三条通に辿り着き、横断歩道を渡った場所が京都市営地下鉄東西線東山駅1番出入口である。<br /><br />3時間かけて歩いて来た。行きは京阪電車と地下鉄ルートであったが、帰りは先発が六地蔵行きなので地下鉄山科で下車し、JRで帰ることにする。時期遅れの紅葉巡りの旅だったが、意外にもまだ楽しめたことが今回の旅のメリットだと感じた私であった。<br /><br />  《終わり》

《2020.December》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅠ之参~武家の時代・そして近代へ編~

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2020/12/08 - 2020/12/08

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《2020.December》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅠ之参~武家の時代・そして近代へ編~

高台寺参拝を終えねねの道を南進する。行きにチケットブースが無人だと思ったのは無人の〝観光案内所〟のようだった。しばらく歩くと高台寺と刻まれた石碑があった。駐車場へと向かう坂に繋がっているようで、車ならばこちらから進むことができるようだ。わざわざ石段の続く参道を歩く必要がないことを改めて知った。石碑の隣には維新の道がある。京都霊山護国神社や霊山歴史館の他坂本龍馬の墓もある。今日は時間の都合で行かないが、また改めて来た際には立ち寄りたいと思う。

一旦西進すると高台寺表門がある。ライトアップはされているが、境内のように眩しいレベルではなく、重厚感を表現するものとなっていた。ここから北進する道は下河原通となる。カフェ等都情緒溢れる建物を利用したお店は、通常ならば多くの観光客で賑わっていそうだが、このご時世故店そのものが閉まっておりその賑やかさはなかった。途中石塀小道へと入り、The京都という雰囲気を味わう。狭くて入り組んだ路地は圓徳院出口を掠めて家と家の間を通り抜ける小道となり下河原通へと戻って来る。そのまま北進すると八坂神社石鳥居へと道は伸びており、再び東進するとねねの道に合流する。円山公園入口には京都霊山護国神社と頼山陽先生墓碑と刻まれた石碑がある。どうやらこちらからも行くことができるようだが、地図で見る限りわからなかった。京の街を〝碁盤の目〟と評するがあくまで洛中のことであり、その周辺ではどこに繋がっているのかがわからない小道が沢山ある。

円山公園に入り先ずは〝例〟の銅像を探す。中岡慎太郎と坂本龍馬の像である。この像は戦時中の金属供出でなくなったものが、戦後に作り直されたものである。武家時代から近代化を推し進める尊王攘夷・大政奉還・王政復古の大号令等を経て明治維新と繋がっているが、この半世紀程の期間に於いて旧幕臣と官軍が争い多くの血が流れている。その犠牲を経て近代国家としての日本に行き着くのは言うまでもないことだが、維新の立役者と言われるこの両名は、グラバーをはじめとする武器商人から新式の銃を購入し、官軍が戦闘を優位に進める方程式を作り上げたことも事実である。戊辰戦争と呼ばれる近代日本に於ける最大の内乱による結果で明治維新となったことは知られているが、内乱と称されるものであれば、もう少し犠牲を減らすことはできなかったのか?と思えて仕方がない。結局思想論で敵対する旧幕臣によって両名は殺害された。そのことを血で血を争う結果だったと考えるのは私だけなのだろうかとふと思った。

150年前に想いを馳せつつ円山公園を歩く。そのまままっすぐに進むと神宮道へと入り知恩院の三門が見えてくる。この界隈だが客待ちのタクシーが沢山停まっていた。この時期引っ張りだことなっている筈だが、観光地も含め需要はほとんどないと高台寺公園の喫煙コーナーで話をしたタクシードライバーさんが言っていた。東山の駅まで~と利用することも考えたが、帰り道に立ち寄る場所はほとんどが一方通行の道に面しており勝手が悪い。まぁ明日は我が身と思いながらも帰り道を歩いて行った。

古門前通を西進したところに何やら石碑が建てられている場所を見つけ立ち寄ってみる。先求院、知恩院の塔頭のひとつであるが、ここには徳川四天王の一人酒井忠次公の墓所でもあるようだ。しかし実際の墓所は知恩院裏の墓地にあり、この先求院が管理しているとのことだった。この先求院何やら曰く付きの事件があったようで、詳細を調べようとするとその話ばかりが引っ張られてしまう。部外者の立ち入ることではないため、詳細を調べることを諦めて先を急ぐことにする。

先求院の先を北進すると大きな学校らしき建物が見えて来る。浄土宗知恩院と関わりのある華頂女子高等学校である。明治44(1911)年に旧華頂宮邸宅跡に華頂女学院を創設したことに歴史が始まっている。以来1世紀を超える歴史を持つ学校ではあるが、少子化に伴う生徒減少が進む昨今に於いて多くの男子・女子高が共学化されているのに対し、華頂女子高は今尚女子校であり続けている。一度高校時代に学祭に呼ばれて行ったことがあるが、うちの高校との違いにビックリしてしまい記憶に残っていないことを思い出した。

平日昼間ならば通学の女子高生で溢れている道であるが、この時刻故誰にも会うことはなかった。そのまま白川沿いまで歩いて行った後三条通へと向かって行った。一本橋を越え和菓子の餅寅の角を曲がる。餅寅横にも道標があったが〝明智光秀の塚〟に到着する。時折〝首塚〟と書かれている場合があるが、正しくは〝塚〟若しくは〝胴塚〟である。本能寺の変で信長を倒すも、11日後の天王山の戦いに於いて〝中国大返し〟をした羽柴秀吉軍に大敗した。明智軍本陣裏にあった勝竜寺城へと退却した光秀は、夜の闇に紛れて手勢と共に居城坂本を目指すが、陽が上る頃伏見小栗栖の竹林を歩いていた際に土民の槍によって深手を負った。これまでと悟った光秀はその場で自害して果て、介錯を行った家来がその首を布で包んで隠したと言われている。もっとも首はすぐに近くの農民によって発見され、信長の三男である神戸信孝の下へと届けられ、三井寺滞陣中の秀吉の下に届けられて首実験されたと言われている。その後光秀に味方し磔となった斎藤利三・阿閉貞大の首と共に現在の塚付近の粟田口で晒されたと言われている。その後寺僧や配下の武将によって首は持ち出されそれぞれの場所に埋められて供養されている。光秀の胴塚は刺された〝明智の薮〟付近の観修寺にあるが、首塚の伝承地はいくつかある。この場所は粟田口に程近い場所として、首を埋めた上に供養の五輪塔が建てられたと伝承されている。丁寧に葬られ今尚世話をする方々の手によって綺麗に塚がされていることは心打たれるものがあった。

人が近づくと祠の照明が自動でつくようにされた光秀の塚を後にして今来た道を戻る。白川沿いに歩くとまもなく三条通に辿り着き、横断歩道を渡った場所が京都市営地下鉄東西線東山駅1番出入口である。

3時間かけて歩いて来た。行きは京阪電車と地下鉄ルートであったが、帰りは先発が六地蔵行きなので地下鉄山科で下車し、JRで帰ることにする。時期遅れの紅葉巡りの旅だったが、意外にもまだ楽しめたことが今回の旅のメリットだと感じた私であった。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 餅寅

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