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《2020.March》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅大阪そのⅠ~大阪城編~<br /><br />昨今毎日必ず耳にする〝新型コロナウィルス〟という言葉。COVID-19の呼称を使えばともかく過去にコロナウィルスが原因だったSARSやMARSが流行った際に今ほど騒いだだろうかとふと考える。SARSが8ヶ月、MARSが7ヶ月終息するまでに時間を要しているが、素人目から見れば同じと違う?としか思えない。RNAポリメラーゼがその頃開発されてはいなかったにしろ、結局のところ罹患初期には対処療法だということも一緒だろう。解熱剤がよろしくない。だから鎮痛薬として販売されているものはダメで、総合感冒薬ならば大丈夫とか意味不明なことが流布されているのが現実だろう。<br /><br />専門家の中でも意見が分かれている中で、素人がわかる訳がないというのが私の意見である。クラスター発生が怖い、そうすれば店という閉鎖環境に於いて日々接客を行っている販売員は、やもすれば濃厚接触者となる標的だ。しかし会社は商売なので従業員から患者が出るまでは手を打たない。そんな現実で効果的に罹患を予防することは事実上不可能ではないかと思えて仕方がない。株価は暴落し、学校が休みになったために従業員に有給を取らせざるを得なくなった会社が公費補助を申請することが可能になった。そこまで余力のない会社が健全な経営をしているとは到底思えないが、一時凌ぎができない以上仕方がない。<br /><br />結局のところ休みに家に篭るしか選択肢がないということなのか?いやそうではない。いつもならば人・ヒト・ひとでごった返している場所に人がいないのである。ということは人酔いせずにぶらり歩きができるに違いない。うん、この時期を逃す手はない。素直に物事を考えない私にとってはごく当たり前の発想だった。普段は人が多くて近づけない場所…大阪城なんて良いかも知れない…。深く考える前に荷物を作り出発する。飛行機を利用する時にしか向かわない街大阪。さあどんなことをして来たのだろうか?<br /><br />令和2(2020)年3月19日木曜日<br />最近寝不足が続いていたので、休みの日は寝坊する。しかし天気も良いので出かけようとあらかじめ組み上げた行程を見直してみる。うん、今日は大阪城に行こう!そんな感じで目的地を決め準備をする。そこに偶々ハルが帰ってきた。いつもお世話しているので(笑)駅迄送って貰う。取り敢えず京橋駅まで行くのに片道分と京都大阪間の〝格安きっぷ〟を購入する。そして出勤時とは逆方向の新快速に乗車する。やはり人は少ない様に感じられた。<br /><br />乗ってしまえば40分強で大阪に着いてしまう。佐渡に行くときに伊丹空港は利用したが大阪駅はずいぶんと久しぶりだ。ただコースはいつもと同じく環状線外回りに乗車する。多分B&#39;zの大阪城ホールの感覚なのであろう。しかし今回は京橋で降りる。KDDIビルなど極々稀に来る場所ではあるが、何度来ても苦手意識の消えない場所である。そんな京橋駅だが今回は駅前から回って行くように考えていた。南口広場のブロンズ像〝平和よ永遠なれ〟はライオンズクラブの創立20周年を記念して建立されたものになる。そしてわずかに離れた場所にある〝大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑〟。昭和20(1945)年8月14日の最後の大阪大空襲で、大阪砲兵工廠を狙った1t爆弾のひとつが京橋駅を直撃し、城東線(現:大阪環状線)を突き抜けて、多くの人々が避難していた片町線(現:東西線)ホームまで到達し、氏名が判明しているものだけで210名、のべ5~600名の犠牲者を出している。その様を見た方が自費で霊を弔うために建立したものだ。恥ずかしいことだが私自身慰霊碑があることを知ったのは最近のことである。<br /><br />手を合わせて歩き始める。旧町名の存在を伝える碑を見つつ寝屋川を渡る。川沿いにはモクレンの花が咲き、憩いの場となっているようだ。そして読売テレビの前には最近特にSNSで取り上げられる〝名探偵コナン〟像が置かれていた。<br /><br />いつもならば近過ぎて全景がわからない大阪城ホールも、川を挟んで見ればよくわかる。第二寝屋川を渡ると川の駅大阪水上バス大阪城港があるが、コロナ騒動で運休中となっている。同じ理由で閉鎖されている大阪城ホールやジョーテラスを横切り、(大阪)砲兵工廠跡碑へとやって来た。すぐ近くまでは来ているが、来るか来ないかは興味と関心に加えて〝余裕〟であることを改めて感じた。<br /><br />碑を見終えると外堀に沿って北上する。近くの青屋門から城内に入ればそのまま天守閣付近の散策となるが、今回は堀の外側に存在する史跡を巡るのが目的だ。ただ青屋門前にも悲しき天守閣をはじめとする城内施設の閉鎖の通知が貼られていた。webで知っていたために内容は気にはしていなかったが、良く見ると3月15日迄と書かれているものもある。訪れた日は3月19日なので、情報に疎い観光客ならば向かう可能性がある様に思う。現場の混乱はわかるが、大阪随一の観光地としてはお粗末な限りである。<br /><br />施設入館は次回以降にして公式少年野球城下に位置する第二寝屋川の河川敷へと向かう。なにやら石垣の隙間にレンガを積んで作られた人工物の痕跡を見つけた。ブロックで蓋をされているのは、戦前・戦中に大阪城内に設けられた大阪砲兵工廠の遺構だと思われる。詳細は書かれていないが近くには大きな遺構があるはずだ。しかし大き過ぎて近くからはわからないため、新鴫野橋を渡って対岸から眺めることにした。砲兵工廠荷揚門、水運を利用して材料や製品の積み込みや荷揚げをこの地で行っていた。その水門の遺構である。明治4(1871)年に完成したこの荷揚門は、大阪大空襲で焼失を免れた歴史的遺産のひとつである。<br /><br />そんな歴史遺産と大阪城天守閣をファインダーに収め、今来た道を戻って行く。途中川の柵にアオサギのモニュメントらしきものを見かけた。一応記録しておこうとカメラを構えたが、先程とはなにかが違う。良く見ると動いているではないか(驚)。鳥好きな方にはなにを言うかと言われそうだが素人のレベルはこんなものであろう。名前の由来なのかと思いつつ新鴫野橋を渡り、堀沿いを再び歩いて行く。花の時期としては微妙なのはわかっているが桃園に立ち寄ってみる。ちらほら咲だが人は少ない。それを理由に引き気味に花を撮影するが、いつもならば人が写り込んで背景になるのだが、人がいなければビル群が背景となる。都会の憩いの場としての紹介はともかく、花の存在を伝えるものには一切ならなかった。それはそれで貴重な景色と割り切ってカメラに収め再び歩き出す。<br /><br />北外堀のエリアまでやって来た。お決まりの角度から天守閣を撮影し辺りを探索する。多分怪しいと思われているだろうが知ったことではない。朽ち果てた煉瓦造りの建物があった。立入禁止となっているだけでなにも書かれてはいない。廃墟マニアのようだがこれは大阪砲兵工廠化学分析場の遺構である。自衛隊が利用していた時期もあるが、今では朽ちるのを待つ廃墟でしかない。急大阪砲兵工廠は大阪城一帯がそうであった。しかし今では大阪城ホールやジョーテラスに変わってしまい、その面影は跡地の碑が残っているに過ぎない。歴史的遺構の保存を考えない大阪市と揶揄されているが正しくそうだと思ってしまう。その結果広大な敷地に跡地の碑が点在しているために規模すら分からないものになっている。負の遺産だが史実を伝えるには焼け残った建物も残すには値すると私は思う。観光地ができないものは即解体では歴史ある街大阪とは絶対に受け入れることはできないであろう。<br /><br />化学分析場の先には三つの場所を纏めて示す滑稽な石碑が建っている。明治天皇聖燭跡・大阪砲兵工廠・大阪城筋金門の碑、明治天皇が立ち寄った場所であり、大阪砲兵工廠の跡地であり、大阪城筋金門があった場所・・・。ここまでになると同じ時代にあったものと誤表記していると思いたくなる。まあ一個人が言っても仕方がないことではあるが。そして現在の追手門学院の敷地にある大阪偕行社附属小学校跡地と正門。学院の歴史として関係がないと言い切られてしまっている。軍隊の是非論ではなく戦前にはエリートとされていた陸軍士官学校。陸士卒の士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された偕行社は、間違いなくエリートの集まりであり、附属学校はその御子息が集うエリート予備学校であった。そんな組織とは関係ないと言われる由来は何なのか?どうやら戦中の学童疎開に於いて、大阪偕行社からの援助が得られず学校側が独自で手配したことによるらしい。平和学習に力を入れている学校だから体裁を気にしたのかと思いきやそうでもない。ただ良くも悪くも歴史はあるので、それは校史に入れても良いのではとかんじるのはわたしだけなのだろうか?<br /><br />更にお堀に沿って歩いて行くと西外堀エリアに入った。千貫櫓が見えるのはまさに大阪城大手門付近にいることを意味する。大手前芝生広場にひとつのブロンズ像が置かれている。世界連邦平和像のネーミングもあるが、作風からして北村西望の作品であることはすぐにわかる。平和を探求する像に意見する立場ではないが、同じく氏作の長崎平和公園にある平和祈念像について言われている〝作成費用問題〟のことを思い出さずにはいられない。1973年の建立と記されているので昭和48年、戦後の混乱期を脱却した後ではあるがその資金調達に目が行ってしまうのはやはり平和祈念像に由来するのは間違いない。意外と知られていないらしいが、建立場所は間違いなく一等地であり、界隈の史跡を含めコンセプトがバラバラで統一感がないからではと私には見えて仕方がない。<br /><br />その芝生広場の斜向かいには工事のために囲いが作られている一角がある。推測ではあるがここが大阪連隊区庁舎跡ではないかと思う。既に解体が済み何かが建てられそうな様子を見て、やはり大阪後ろを振り返らない都市と改めて感じた。<br /><br />そのまま南下すると南外堀エリアとなり、六番櫓が見えている。馬場町の交差点向かいには大阪歴史博物館とNHK大阪ホールが聳えている。勿論歴史博物館も例に漏れず閉館中なので素通りし、教育塔へと立ち寄ってから南下を続けることにする。<br /><br />上町筋を南下して阪神高速のガードを越えると一際大きな緑地帯が出現する。難波宮跡公園は大別して第36代孝徳天皇時代の前期難波宮と第45代聖武天皇時代の後期難波宮と分かれている。ただ戦前にはこの難波宮は場所すらわかっておらず、大正時代になって往時の瓦などが出土したことからその存在が明らかにされるかに見えた。しかし折しもこの付近一帯は陸軍が用地を接収していたことから調査をすることもできなかった。大阪砲兵工廠建設時にも遺構らしき物が発見されてはいたようだが、歴史よりも工廠建設が優先されることとなり、本格的に発掘が始まったのは敗戦によって陸軍の管轄下から解放された戦後になってからのことであった。<br /><br />見つかった遺構を含め、都市公園としての〝難波宮跡公園〟として一般に開放され、引き続き発掘を続ける過程を難波宮調査事務所にて見学ができるようになっている。そんな歴史公園の中にひとつ場違いな碑が建立されている。歩兵第八連隊跡地、第二次大戦中バターン・コレヒドール攻略戦を戦った部隊である。向かいの大阪医療センター内にある歩兵第37連隊跡地の碑も病院敷地内という変わった場所にあるが、この二つの連隊は碑が建立されている場所に兵舎を含めた連隊本部が置かれており、その地に生存者の手によって跡地碑が建立されたという普通の流れでできた物に過ぎないのである。この辺りはある意味頑固な大阪人を垣間見ているような気がした。<br /><br />更に歩くと上町交差点北西角に大きな石碑が建立されていることに気づく。〝兵部大輔大村益次郎殉難碑〟、長州生まれの村田蔵六は医師であり大日本帝国陸軍を作った軍師でもある。江戸時代末期から明治維新に変わる動乱の時代だったことが災いし、立場を失った士族の反感を買い、京都で襲撃されて重傷を負った。当時京都では治療が受けられなかったために大阪へと搬送され、手術を受けることとなった。しかし次官クラスという立場が災いし、手術をうけるための勅許を得るに手間取り、右足切断の手術を受けるも既に手遅れ状態であり、数日後敗血症のため45歳で死去している。その手術をした場所が鈴木町大阪仮病院、現在の大阪医療センターであることから建立されたそうだ。生前の写真や肖像画が無く、死後に特徴を聞き集めて描かれた肖像画が有名である。火吹きダルマと揶揄された顔つきであるが、その昔大河ドラマ花神で中村梅之助が演じた姿がまさにそのものだった記憶がある。忘れかけていたことをふと思い出すことができた。<br /><br />上町筋を今度は北上する。歩兵第37連隊跡地碑は意外にも大阪医療センター敷地内にあった。入口が分からずすこし歩くが医療センター北東角に石碑があることに気付く。補修痕があり、読めない部分があるがどうやら〝明治天皇聖躅・大阪師範學校址〟碑のようだ。なにがあって修復したのかは不明だが、そんなものも残っていた。その後医療センター敷地内へと入り、ウォークナビを利用し碑の場所へと辿り着く。現在の医療センター敷地も歩兵連隊が駐屯していたことを証明するものに間違いはない。敷地内の桜もほころび始めたようでその様子をカメラに収め次の場所へと歩いて行く。<br /><br />難波宮公園に沿って北上し、大阪城敷地内に戻って来た。南外堀エリアはあじさい・うつぎ園等花のエリアとしても有名だ。その中のひとつの史跡を見つけるために歩き回る。なんとか見つけられたのは大阪陸軍城南射撃場跡地碑。戦後陸自の施設を経て公園となった。分かり辛かったのは地面に埋まっている石だったこと。石碑といえば一定の高さがあるわけではない。<br /><br />近くに祠が設けられている。非常に小さなものだが由来書き等なく委細不明である。堀を挟んで豊国神社があるため、大坂の陣や戊辰戦争、はたまた砲兵工廠時代の戦死・殉死者を祀っているようにも思える。もしかすると個人のものなのかも知れないが。<br /><br />あたりが暗くなりピンポイントでの場所がわかり辛くなってきた。ピース大阪は閉館中でその隣にある〝城中焼亡埋骨墳〟と刻まれているものは大坂の陣ではなく、戊辰戦争の際に新政府軍に攻められて戦死した旧幕臣の遺骨を丁重に集めて建立したものである。裏面には薩摩・長州の藩士建立と刻まれていることからもわかることだろう。残念さんという別称もあるが、一部では大坂の陣に於ける戦没者を祀ると誤解されているようで、隣に並ぶ小さな碑には〝淀君之霊〟の文字が刻まれていた。<br /><br />この後は公園内を回って行くことになる。花壇に埋もれている〝焼夷軍人・同妻の碑〟は、戦傷により〝名誉の負傷〟とされた者が戦後その扱いが真逆になることを憂いている碑であった。<br /><br />算用曲輪は玉造口の手前にある。曲輪とは、城の内外を土塁・石垣・堀などで区画した区域の名称であるとされているが、この場所が豊臣時代に支払賃金や納られる年貢や金銀を計算する場所であったことに由来している。当時上町台地の高低差を利用して作られたとされているが、残念ながらこの場所では高低差を知ることは何もない。<br /><br />そして玉造口から城内に入るとすぐに〝蓮如上人袈裟懸けの松がある。浄土真宗本願寺第八世蓮如上人が築いた石山本願寺を築いた際の伝承地とされており、大阪城建設前に作られた石山本願寺には寺を中心とした寺内町として賑わっていたことは知られている。大阪を商都としたとされる本願寺ではあるが、戦国時代の一大勢力と化し一向一揆等で各地の守護大名を自害に追い込み、勢力下に置いた生々しい一面も持っている。<br /><br />石山本願寺自体も石山合戦で織田信長・豊臣秀吉の軍勢と戦った後明け渡している。一説には明け渡しに伴って放火して去ったとも言われており、その後豊臣秀吉が大阪城を築城するにあたり、その痕跡すら残らないようにしたのではなく既に〝されていた〟というのが事実である。<br /><br />そのような理由から石山本願寺跡と言っても〝伝承〟や〝推測地〟であることが事実となっている。ここ蓮如袈裟懸けの松も豊臣徳川時代の盛土がされているので、上人が袈裟懸けした松の根が地上に残っているはずはない。一説には門徒が大阪城内に痕跡を見つけたものの、さすがに跡地碑を建てることは出来なかったとも言われている。歴史の解釈は自由であり、その答えがわからないからまた面白い典型的な場所のように思いつつ、次の目的地を目指すことにする。<br /><br />大阪城内の豊國神社は、文字通り豊臣秀吉・秀長・秀頼を祀る神社である。明治維新の折に建立されたのは別の場所であり、この場所に遷座したのは昭和36(1961)年のことである。玉造口から城内に入ると裏門から入る形になるがさすがに夜の神社参りは少し怖く、外周を通り正門へと向かう。府社の扱いだったがそれなりに大きいものに私の目には映った。<br /><br />桜門を潜ると目の前の巨石に目を奪われる。蛸石と振袖石、場内一と三番目の巨石である。徳川時代の天下普請による大阪城改築の際、第二代岡山藩主池田忠雄が持ち込んだものである。108tあるとのことにもびっくりだが、夜だと巨石とライトアップされた天守閣がなんとも言えない幻想的な景色を醸し出しているかを知った。記録によると19:08の景色、人がいないからこそのものであろう。<br /><br />通り過ぎそうになったが銀明水井戸の井筒がある。元は徳川時代の大阪城改築の際に本丸御殿裏に設けられ、警備にあたる役人の飲用水として用いられた格式高い井戸のひとつである。しかし明治期の旧陸軍第四師団司令部庁舎建設時に現在地に移設され、水道が引かれ現在に至るというものである。由緒書もあったが残念ながら外観だけのものであった。<br /><br />巨石を眺めながら歩いて行くとほぼどこからでも大阪城天守閣が見える場所に着く。ミライザ大阪城は旧陸軍第四師団司令部庁舎、大阪城址明治天皇駐蹕之処(めいじてんのうちゅうひつのところの)碑、タイムカプセルEXPO&#39;70等を経て〝教育勅語記念碑〟に至る。教育勅語渙發四拾周年記念と書かれているので昭和6(1931)年のことになる。思想信教はともかく道徳論を説いている部分には、今の教育に欠けている点を述べているようにも感じ、じっくり読んでみる価値はあると思う。<br /><br />そしていよいよ大阪城天守閣の前に到着するが、まずは残念石に敬意を表する。故郷を離れて大阪へとやって来たまでは良いが、なんらかの理由はあれ石垣には使用されずに放置されてしまった正しく〝残念な石〟には日の目を見て貰いたい。石垣は多くの石が集まって見られているが、君たちはひとつだけで目立っているんだよと。<br /><br />そう呼びかけて先を急ぐ。山里丸石垣の機銃掃射痕。昭和20(1945)年3月から8回もの大規模な空爆を受けた大阪。中でも陸軍関連施設が密集していた大阪城界隈は標的にされ続けたことに疑う余地はない。空爆の際に石垣が受けた機銃掃射の弾痕が未だ見ることができる。石を破壊する銃撃の威力を今に伝える貴重な史跡であり戦跡でもあると改めて思う。<br /><br />少し進むと大小の石がゴロゴロと転がっている広場に着く。刻印石広場と名を打たれた広場は、徳川時代の大阪城改築時に石を用意した藩主が、自分達の功労を証明するために家紋などを岩に刻んでいた。そのうち使われなかった物や後の改修工事の際に組み替えた物が置かれている。気持ちはわかるがあまり数が多いと伝わって来るものも少なくなる。ある意味これらも残念石かも知れない…。<br /><br />本来ならば極楽橋を通って終わりとなるが、最後にひとつ立ち寄る場所がある。天守閣の北山里曲輪にある隅櫓跡(伝)にある豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑。この地に〝豊臣秀頼・淀君ら自刃の地〟碑が建立されたのは平成9(1999)年のことである。かなり新しいものになるが、大阪城の歴史的建造物についての〝由緒書〟にはかなり多いもののひとつでしかないと思う。極楽橋を渡って大阪城天守閣を訪れるルートから外れた場所にあるため碑の存在自体を知らない者も多いと聞く。一応〝碑はこちら〟とは書いてはあるが、見下ろす大阪城天守閣に気を取られることは間違いなく、やはり残念な場所のひとつとなってしまっている。<br /><br />まあいろいろと考えながら大阪城界隈を歩いて来て、最後極楽橋を渡り終えたときには19:50…。やはり出立の遅さの影響だと反省した。<br /><br />後は帰るのみだが食事をして来いとはるから連絡があった。おまけにJR線は事故で振替輸送をしている様子。大阪城公園駅から環状線で帰るルートも微妙なので京橋でご飯を食べて帰ることにした。取り敢えず〝安く〟と〝お腹いっぱい〟のコンセプトで調べると餃子の王将が表示された。しかしかなり混雑の表示もある。京橋駅近くを歩いていると店は見つけたがやはりいっぱいの様子。他を探そうと歩き始めた瞬間〝宮本むなし〟を見つける。混雑はしていないため入店する。メニューはいつもと同じチキン南蛮定食。店の規模は違うが、システムは一緒なので気が楽だ。お腹が膨れて満足し、店を出ることにした。<br /><br />21:00を過ぎたのでJR線も復旧していると思いきやまだの様子。下手に遅れてバスがなくなると歩きかタクシーになるため少し急ぐ。結局京阪で帰ることにした。京橋駅前には喫煙所が設けられており、取り敢えず食後の一服をする。これで大阪のイベントは終了し、一路京都を目指す。時間も時間だし振替輸送はまだ終わっていない時間だったため、久しぶりに〝プレミアムカー〟を利用しようと考えた。しかし目の前で△から×に変わってしまった…。ならば仕方がない特急で三条まで向かうことにする。プレミアムカー連結なので間違いなく8000系車両である。21:43に京橋を出るが、枚方市や樟葉辺りで多くの乗客は降車して行く。そして22:27に三条到着。途中でJRや近鉄を使って移動しようとも考えるがもう面倒臭くなってきたのでそのまま乗り続けた。三条では京都市営地下鉄東西線に乗車するが、最初に来たのは京阪線直通のびわこ浜大津行きであった。たまにしか乗らないのでこれで帰っても良いか~と思ったが、駅でのバスの乗り継ぎ時刻が微妙だったこともあり、一旦御陵で下りて六地蔵行きに乗り換える。これをやらないと京阪山科で追加料金を徴収される羽目になる。観光都市京都にあって〝不満〟のネタとして上位にランクインしているものと聞いている。勿論地元民はそこらは踏まえて地下鉄山科駅を利用する。<br /><br />山科では京阪山科よりも少し離れるのが残念なところ。地下道を歩いて駅前の喫煙所で一服し、時刻表を眺める。スマホ情報では遅れ表示がなくなっていたがどうやらまだ数分の遅れは残っているようだ。22:56の新快速は5分遅れで到着。ということは乗り換えに10分程度は取れそうだ。しかしいつものように〝かっ飛ぶ〟走行はないようだ。結局8分遅れで田舎駅に到着。いつもならばガラガラのバス停は、JR遅延のために帰るのが遅れた人が多かった。その後はスムーズなもので23:40頃自宅に無事到着した。私はこれにて終了だが、まーさんが石垣から帰ってくるらしい。ピーチ便が遅れたことは聞いていたがその後どうなったのかは知らない。1:30頃には帰ってきたようだがどうやって帰って来たかは聞いてはいない。<br /><br />そんなこんなで〝日暮れ後〟に振り回された日帰り大阪の旅はこれで終わる。日暮れのために確認できなかった場所の再検証を含め、いつ行くことができるのであろうか…。<br /><br />  《終わり》

《2020.March》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅大阪そのⅠ~大阪城編~

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2020/03/19 - 2020/03/19

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《2020.March》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅大阪そのⅠ~大阪城編~

昨今毎日必ず耳にする〝新型コロナウィルス〟という言葉。COVID-19の呼称を使えばともかく過去にコロナウィルスが原因だったSARSやMARSが流行った際に今ほど騒いだだろうかとふと考える。SARSが8ヶ月、MARSが7ヶ月終息するまでに時間を要しているが、素人目から見れば同じと違う?としか思えない。RNAポリメラーゼがその頃開発されてはいなかったにしろ、結局のところ罹患初期には対処療法だということも一緒だろう。解熱剤がよろしくない。だから鎮痛薬として販売されているものはダメで、総合感冒薬ならば大丈夫とか意味不明なことが流布されているのが現実だろう。

専門家の中でも意見が分かれている中で、素人がわかる訳がないというのが私の意見である。クラスター発生が怖い、そうすれば店という閉鎖環境に於いて日々接客を行っている販売員は、やもすれば濃厚接触者となる標的だ。しかし会社は商売なので従業員から患者が出るまでは手を打たない。そんな現実で効果的に罹患を予防することは事実上不可能ではないかと思えて仕方がない。株価は暴落し、学校が休みになったために従業員に有給を取らせざるを得なくなった会社が公費補助を申請することが可能になった。そこまで余力のない会社が健全な経営をしているとは到底思えないが、一時凌ぎができない以上仕方がない。

結局のところ休みに家に篭るしか選択肢がないということなのか?いやそうではない。いつもならば人・ヒト・ひとでごった返している場所に人がいないのである。ということは人酔いせずにぶらり歩きができるに違いない。うん、この時期を逃す手はない。素直に物事を考えない私にとってはごく当たり前の発想だった。普段は人が多くて近づけない場所…大阪城なんて良いかも知れない…。深く考える前に荷物を作り出発する。飛行機を利用する時にしか向かわない街大阪。さあどんなことをして来たのだろうか?

令和2(2020)年3月19日木曜日
最近寝不足が続いていたので、休みの日は寝坊する。しかし天気も良いので出かけようとあらかじめ組み上げた行程を見直してみる。うん、今日は大阪城に行こう!そんな感じで目的地を決め準備をする。そこに偶々ハルが帰ってきた。いつもお世話しているので(笑)駅迄送って貰う。取り敢えず京橋駅まで行くのに片道分と京都大阪間の〝格安きっぷ〟を購入する。そして出勤時とは逆方向の新快速に乗車する。やはり人は少ない様に感じられた。

乗ってしまえば40分強で大阪に着いてしまう。佐渡に行くときに伊丹空港は利用したが大阪駅はずいぶんと久しぶりだ。ただコースはいつもと同じく環状線外回りに乗車する。多分B'zの大阪城ホールの感覚なのであろう。しかし今回は京橋で降りる。KDDIビルなど極々稀に来る場所ではあるが、何度来ても苦手意識の消えない場所である。そんな京橋駅だが今回は駅前から回って行くように考えていた。南口広場のブロンズ像〝平和よ永遠なれ〟はライオンズクラブの創立20周年を記念して建立されたものになる。そしてわずかに離れた場所にある〝大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑〟。昭和20(1945)年8月14日の最後の大阪大空襲で、大阪砲兵工廠を狙った1t爆弾のひとつが京橋駅を直撃し、城東線(現:大阪環状線)を突き抜けて、多くの人々が避難していた片町線(現:東西線)ホームまで到達し、氏名が判明しているものだけで210名、のべ5~600名の犠牲者を出している。その様を見た方が自費で霊を弔うために建立したものだ。恥ずかしいことだが私自身慰霊碑があることを知ったのは最近のことである。

手を合わせて歩き始める。旧町名の存在を伝える碑を見つつ寝屋川を渡る。川沿いにはモクレンの花が咲き、憩いの場となっているようだ。そして読売テレビの前には最近特にSNSで取り上げられる〝名探偵コナン〟像が置かれていた。

いつもならば近過ぎて全景がわからない大阪城ホールも、川を挟んで見ればよくわかる。第二寝屋川を渡ると川の駅大阪水上バス大阪城港があるが、コロナ騒動で運休中となっている。同じ理由で閉鎖されている大阪城ホールやジョーテラスを横切り、(大阪)砲兵工廠跡碑へとやって来た。すぐ近くまでは来ているが、来るか来ないかは興味と関心に加えて〝余裕〟であることを改めて感じた。

碑を見終えると外堀に沿って北上する。近くの青屋門から城内に入ればそのまま天守閣付近の散策となるが、今回は堀の外側に存在する史跡を巡るのが目的だ。ただ青屋門前にも悲しき天守閣をはじめとする城内施設の閉鎖の通知が貼られていた。webで知っていたために内容は気にはしていなかったが、良く見ると3月15日迄と書かれているものもある。訪れた日は3月19日なので、情報に疎い観光客ならば向かう可能性がある様に思う。現場の混乱はわかるが、大阪随一の観光地としてはお粗末な限りである。

施設入館は次回以降にして公式少年野球城下に位置する第二寝屋川の河川敷へと向かう。なにやら石垣の隙間にレンガを積んで作られた人工物の痕跡を見つけた。ブロックで蓋をされているのは、戦前・戦中に大阪城内に設けられた大阪砲兵工廠の遺構だと思われる。詳細は書かれていないが近くには大きな遺構があるはずだ。しかし大き過ぎて近くからはわからないため、新鴫野橋を渡って対岸から眺めることにした。砲兵工廠荷揚門、水運を利用して材料や製品の積み込みや荷揚げをこの地で行っていた。その水門の遺構である。明治4(1871)年に完成したこの荷揚門は、大阪大空襲で焼失を免れた歴史的遺産のひとつである。

そんな歴史遺産と大阪城天守閣をファインダーに収め、今来た道を戻って行く。途中川の柵にアオサギのモニュメントらしきものを見かけた。一応記録しておこうとカメラを構えたが、先程とはなにかが違う。良く見ると動いているではないか(驚)。鳥好きな方にはなにを言うかと言われそうだが素人のレベルはこんなものであろう。名前の由来なのかと思いつつ新鴫野橋を渡り、堀沿いを再び歩いて行く。花の時期としては微妙なのはわかっているが桃園に立ち寄ってみる。ちらほら咲だが人は少ない。それを理由に引き気味に花を撮影するが、いつもならば人が写り込んで背景になるのだが、人がいなければビル群が背景となる。都会の憩いの場としての紹介はともかく、花の存在を伝えるものには一切ならなかった。それはそれで貴重な景色と割り切ってカメラに収め再び歩き出す。

北外堀のエリアまでやって来た。お決まりの角度から天守閣を撮影し辺りを探索する。多分怪しいと思われているだろうが知ったことではない。朽ち果てた煉瓦造りの建物があった。立入禁止となっているだけでなにも書かれてはいない。廃墟マニアのようだがこれは大阪砲兵工廠化学分析場の遺構である。自衛隊が利用していた時期もあるが、今では朽ちるのを待つ廃墟でしかない。急大阪砲兵工廠は大阪城一帯がそうであった。しかし今では大阪城ホールやジョーテラスに変わってしまい、その面影は跡地の碑が残っているに過ぎない。歴史的遺構の保存を考えない大阪市と揶揄されているが正しくそうだと思ってしまう。その結果広大な敷地に跡地の碑が点在しているために規模すら分からないものになっている。負の遺産だが史実を伝えるには焼け残った建物も残すには値すると私は思う。観光地ができないものは即解体では歴史ある街大阪とは絶対に受け入れることはできないであろう。

化学分析場の先には三つの場所を纏めて示す滑稽な石碑が建っている。明治天皇聖燭跡・大阪砲兵工廠・大阪城筋金門の碑、明治天皇が立ち寄った場所であり、大阪砲兵工廠の跡地であり、大阪城筋金門があった場所・・・。ここまでになると同じ時代にあったものと誤表記していると思いたくなる。まあ一個人が言っても仕方がないことではあるが。そして現在の追手門学院の敷地にある大阪偕行社附属小学校跡地と正門。学院の歴史として関係がないと言い切られてしまっている。軍隊の是非論ではなく戦前にはエリートとされていた陸軍士官学校。陸士卒の士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された偕行社は、間違いなくエリートの集まりであり、附属学校はその御子息が集うエリート予備学校であった。そんな組織とは関係ないと言われる由来は何なのか?どうやら戦中の学童疎開に於いて、大阪偕行社からの援助が得られず学校側が独自で手配したことによるらしい。平和学習に力を入れている学校だから体裁を気にしたのかと思いきやそうでもない。ただ良くも悪くも歴史はあるので、それは校史に入れても良いのではとかんじるのはわたしだけなのだろうか?

更にお堀に沿って歩いて行くと西外堀エリアに入った。千貫櫓が見えるのはまさに大阪城大手門付近にいることを意味する。大手前芝生広場にひとつのブロンズ像が置かれている。世界連邦平和像のネーミングもあるが、作風からして北村西望の作品であることはすぐにわかる。平和を探求する像に意見する立場ではないが、同じく氏作の長崎平和公園にある平和祈念像について言われている〝作成費用問題〟のことを思い出さずにはいられない。1973年の建立と記されているので昭和48年、戦後の混乱期を脱却した後ではあるがその資金調達に目が行ってしまうのはやはり平和祈念像に由来するのは間違いない。意外と知られていないらしいが、建立場所は間違いなく一等地であり、界隈の史跡を含めコンセプトがバラバラで統一感がないからではと私には見えて仕方がない。

その芝生広場の斜向かいには工事のために囲いが作られている一角がある。推測ではあるがここが大阪連隊区庁舎跡ではないかと思う。既に解体が済み何かが建てられそうな様子を見て、やはり大阪後ろを振り返らない都市と改めて感じた。

そのまま南下すると南外堀エリアとなり、六番櫓が見えている。馬場町の交差点向かいには大阪歴史博物館とNHK大阪ホールが聳えている。勿論歴史博物館も例に漏れず閉館中なので素通りし、教育塔へと立ち寄ってから南下を続けることにする。

上町筋を南下して阪神高速のガードを越えると一際大きな緑地帯が出現する。難波宮跡公園は大別して第36代孝徳天皇時代の前期難波宮と第45代聖武天皇時代の後期難波宮と分かれている。ただ戦前にはこの難波宮は場所すらわかっておらず、大正時代になって往時の瓦などが出土したことからその存在が明らかにされるかに見えた。しかし折しもこの付近一帯は陸軍が用地を接収していたことから調査をすることもできなかった。大阪砲兵工廠建設時にも遺構らしき物が発見されてはいたようだが、歴史よりも工廠建設が優先されることとなり、本格的に発掘が始まったのは敗戦によって陸軍の管轄下から解放された戦後になってからのことであった。

見つかった遺構を含め、都市公園としての〝難波宮跡公園〟として一般に開放され、引き続き発掘を続ける過程を難波宮調査事務所にて見学ができるようになっている。そんな歴史公園の中にひとつ場違いな碑が建立されている。歩兵第八連隊跡地、第二次大戦中バターン・コレヒドール攻略戦を戦った部隊である。向かいの大阪医療センター内にある歩兵第37連隊跡地の碑も病院敷地内という変わった場所にあるが、この二つの連隊は碑が建立されている場所に兵舎を含めた連隊本部が置かれており、その地に生存者の手によって跡地碑が建立されたという普通の流れでできた物に過ぎないのである。この辺りはある意味頑固な大阪人を垣間見ているような気がした。

更に歩くと上町交差点北西角に大きな石碑が建立されていることに気づく。〝兵部大輔大村益次郎殉難碑〟、長州生まれの村田蔵六は医師であり大日本帝国陸軍を作った軍師でもある。江戸時代末期から明治維新に変わる動乱の時代だったことが災いし、立場を失った士族の反感を買い、京都で襲撃されて重傷を負った。当時京都では治療が受けられなかったために大阪へと搬送され、手術を受けることとなった。しかし次官クラスという立場が災いし、手術をうけるための勅許を得るに手間取り、右足切断の手術を受けるも既に手遅れ状態であり、数日後敗血症のため45歳で死去している。その手術をした場所が鈴木町大阪仮病院、現在の大阪医療センターであることから建立されたそうだ。生前の写真や肖像画が無く、死後に特徴を聞き集めて描かれた肖像画が有名である。火吹きダルマと揶揄された顔つきであるが、その昔大河ドラマ花神で中村梅之助が演じた姿がまさにそのものだった記憶がある。忘れかけていたことをふと思い出すことができた。

上町筋を今度は北上する。歩兵第37連隊跡地碑は意外にも大阪医療センター敷地内にあった。入口が分からずすこし歩くが医療センター北東角に石碑があることに気付く。補修痕があり、読めない部分があるがどうやら〝明治天皇聖躅・大阪師範學校址〟碑のようだ。なにがあって修復したのかは不明だが、そんなものも残っていた。その後医療センター敷地内へと入り、ウォークナビを利用し碑の場所へと辿り着く。現在の医療センター敷地も歩兵連隊が駐屯していたことを証明するものに間違いはない。敷地内の桜もほころび始めたようでその様子をカメラに収め次の場所へと歩いて行く。

難波宮公園に沿って北上し、大阪城敷地内に戻って来た。南外堀エリアはあじさい・うつぎ園等花のエリアとしても有名だ。その中のひとつの史跡を見つけるために歩き回る。なんとか見つけられたのは大阪陸軍城南射撃場跡地碑。戦後陸自の施設を経て公園となった。分かり辛かったのは地面に埋まっている石だったこと。石碑といえば一定の高さがあるわけではない。

近くに祠が設けられている。非常に小さなものだが由来書き等なく委細不明である。堀を挟んで豊国神社があるため、大坂の陣や戊辰戦争、はたまた砲兵工廠時代の戦死・殉死者を祀っているようにも思える。もしかすると個人のものなのかも知れないが。

あたりが暗くなりピンポイントでの場所がわかり辛くなってきた。ピース大阪は閉館中でその隣にある〝城中焼亡埋骨墳〟と刻まれているものは大坂の陣ではなく、戊辰戦争の際に新政府軍に攻められて戦死した旧幕臣の遺骨を丁重に集めて建立したものである。裏面には薩摩・長州の藩士建立と刻まれていることからもわかることだろう。残念さんという別称もあるが、一部では大坂の陣に於ける戦没者を祀ると誤解されているようで、隣に並ぶ小さな碑には〝淀君之霊〟の文字が刻まれていた。

この後は公園内を回って行くことになる。花壇に埋もれている〝焼夷軍人・同妻の碑〟は、戦傷により〝名誉の負傷〟とされた者が戦後その扱いが真逆になることを憂いている碑であった。

算用曲輪は玉造口の手前にある。曲輪とは、城の内外を土塁・石垣・堀などで区画した区域の名称であるとされているが、この場所が豊臣時代に支払賃金や納られる年貢や金銀を計算する場所であったことに由来している。当時上町台地の高低差を利用して作られたとされているが、残念ながらこの場所では高低差を知ることは何もない。

そして玉造口から城内に入るとすぐに〝蓮如上人袈裟懸けの松がある。浄土真宗本願寺第八世蓮如上人が築いた石山本願寺を築いた際の伝承地とされており、大阪城建設前に作られた石山本願寺には寺を中心とした寺内町として賑わっていたことは知られている。大阪を商都としたとされる本願寺ではあるが、戦国時代の一大勢力と化し一向一揆等で各地の守護大名を自害に追い込み、勢力下に置いた生々しい一面も持っている。

石山本願寺自体も石山合戦で織田信長・豊臣秀吉の軍勢と戦った後明け渡している。一説には明け渡しに伴って放火して去ったとも言われており、その後豊臣秀吉が大阪城を築城するにあたり、その痕跡すら残らないようにしたのではなく既に〝されていた〟というのが事実である。

そのような理由から石山本願寺跡と言っても〝伝承〟や〝推測地〟であることが事実となっている。ここ蓮如袈裟懸けの松も豊臣徳川時代の盛土がされているので、上人が袈裟懸けした松の根が地上に残っているはずはない。一説には門徒が大阪城内に痕跡を見つけたものの、さすがに跡地碑を建てることは出来なかったとも言われている。歴史の解釈は自由であり、その答えがわからないからまた面白い典型的な場所のように思いつつ、次の目的地を目指すことにする。

大阪城内の豊國神社は、文字通り豊臣秀吉・秀長・秀頼を祀る神社である。明治維新の折に建立されたのは別の場所であり、この場所に遷座したのは昭和36(1961)年のことである。玉造口から城内に入ると裏門から入る形になるがさすがに夜の神社参りは少し怖く、外周を通り正門へと向かう。府社の扱いだったがそれなりに大きいものに私の目には映った。

桜門を潜ると目の前の巨石に目を奪われる。蛸石と振袖石、場内一と三番目の巨石である。徳川時代の天下普請による大阪城改築の際、第二代岡山藩主池田忠雄が持ち込んだものである。108tあるとのことにもびっくりだが、夜だと巨石とライトアップされた天守閣がなんとも言えない幻想的な景色を醸し出しているかを知った。記録によると19:08の景色、人がいないからこそのものであろう。

通り過ぎそうになったが銀明水井戸の井筒がある。元は徳川時代の大阪城改築の際に本丸御殿裏に設けられ、警備にあたる役人の飲用水として用いられた格式高い井戸のひとつである。しかし明治期の旧陸軍第四師団司令部庁舎建設時に現在地に移設され、水道が引かれ現在に至るというものである。由緒書もあったが残念ながら外観だけのものであった。

巨石を眺めながら歩いて行くとほぼどこからでも大阪城天守閣が見える場所に着く。ミライザ大阪城は旧陸軍第四師団司令部庁舎、大阪城址明治天皇駐蹕之処(めいじてんのうちゅうひつのところの)碑、タイムカプセルEXPO'70等を経て〝教育勅語記念碑〟に至る。教育勅語渙發四拾周年記念と書かれているので昭和6(1931)年のことになる。思想信教はともかく道徳論を説いている部分には、今の教育に欠けている点を述べているようにも感じ、じっくり読んでみる価値はあると思う。

そしていよいよ大阪城天守閣の前に到着するが、まずは残念石に敬意を表する。故郷を離れて大阪へとやって来たまでは良いが、なんらかの理由はあれ石垣には使用されずに放置されてしまった正しく〝残念な石〟には日の目を見て貰いたい。石垣は多くの石が集まって見られているが、君たちはひとつだけで目立っているんだよと。

そう呼びかけて先を急ぐ。山里丸石垣の機銃掃射痕。昭和20(1945)年3月から8回もの大規模な空爆を受けた大阪。中でも陸軍関連施設が密集していた大阪城界隈は標的にされ続けたことに疑う余地はない。空爆の際に石垣が受けた機銃掃射の弾痕が未だ見ることができる。石を破壊する銃撃の威力を今に伝える貴重な史跡であり戦跡でもあると改めて思う。

少し進むと大小の石がゴロゴロと転がっている広場に着く。刻印石広場と名を打たれた広場は、徳川時代の大阪城改築時に石を用意した藩主が、自分達の功労を証明するために家紋などを岩に刻んでいた。そのうち使われなかった物や後の改修工事の際に組み替えた物が置かれている。気持ちはわかるがあまり数が多いと伝わって来るものも少なくなる。ある意味これらも残念石かも知れない…。

本来ならば極楽橋を通って終わりとなるが、最後にひとつ立ち寄る場所がある。天守閣の北山里曲輪にある隅櫓跡(伝)にある豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑。この地に〝豊臣秀頼・淀君ら自刃の地〟碑が建立されたのは平成9(1999)年のことである。かなり新しいものになるが、大阪城の歴史的建造物についての〝由緒書〟にはかなり多いもののひとつでしかないと思う。極楽橋を渡って大阪城天守閣を訪れるルートから外れた場所にあるため碑の存在自体を知らない者も多いと聞く。一応〝碑はこちら〟とは書いてはあるが、見下ろす大阪城天守閣に気を取られることは間違いなく、やはり残念な場所のひとつとなってしまっている。

まあいろいろと考えながら大阪城界隈を歩いて来て、最後極楽橋を渡り終えたときには19:50…。やはり出立の遅さの影響だと反省した。

後は帰るのみだが食事をして来いとはるから連絡があった。おまけにJR線は事故で振替輸送をしている様子。大阪城公園駅から環状線で帰るルートも微妙なので京橋でご飯を食べて帰ることにした。取り敢えず〝安く〟と〝お腹いっぱい〟のコンセプトで調べると餃子の王将が表示された。しかしかなり混雑の表示もある。京橋駅近くを歩いていると店は見つけたがやはりいっぱいの様子。他を探そうと歩き始めた瞬間〝宮本むなし〟を見つける。混雑はしていないため入店する。メニューはいつもと同じチキン南蛮定食。店の規模は違うが、システムは一緒なので気が楽だ。お腹が膨れて満足し、店を出ることにした。

21:00を過ぎたのでJR線も復旧していると思いきやまだの様子。下手に遅れてバスがなくなると歩きかタクシーになるため少し急ぐ。結局京阪で帰ることにした。京橋駅前には喫煙所が設けられており、取り敢えず食後の一服をする。これで大阪のイベントは終了し、一路京都を目指す。時間も時間だし振替輸送はまだ終わっていない時間だったため、久しぶりに〝プレミアムカー〟を利用しようと考えた。しかし目の前で△から×に変わってしまった…。ならば仕方がない特急で三条まで向かうことにする。プレミアムカー連結なので間違いなく8000系車両である。21:43に京橋を出るが、枚方市や樟葉辺りで多くの乗客は降車して行く。そして22:27に三条到着。途中でJRや近鉄を使って移動しようとも考えるがもう面倒臭くなってきたのでそのまま乗り続けた。三条では京都市営地下鉄東西線に乗車するが、最初に来たのは京阪線直通のびわこ浜大津行きであった。たまにしか乗らないのでこれで帰っても良いか~と思ったが、駅でのバスの乗り継ぎ時刻が微妙だったこともあり、一旦御陵で下りて六地蔵行きに乗り換える。これをやらないと京阪山科で追加料金を徴収される羽目になる。観光都市京都にあって〝不満〟のネタとして上位にランクインしているものと聞いている。勿論地元民はそこらは踏まえて地下鉄山科駅を利用する。

山科では京阪山科よりも少し離れるのが残念なところ。地下道を歩いて駅前の喫煙所で一服し、時刻表を眺める。スマホ情報では遅れ表示がなくなっていたがどうやらまだ数分の遅れは残っているようだ。22:56の新快速は5分遅れで到着。ということは乗り換えに10分程度は取れそうだ。しかしいつものように〝かっ飛ぶ〟走行はないようだ。結局8分遅れで田舎駅に到着。いつもならばガラガラのバス停は、JR遅延のために帰るのが遅れた人が多かった。その後はスムーズなもので23:40頃自宅に無事到着した。私はこれにて終了だが、まーさんが石垣から帰ってくるらしい。ピーチ便が遅れたことは聞いていたがその後どうなったのかは知らない。1:30頃には帰ってきたようだがどうやって帰って来たかは聞いてはいない。

そんなこんなで〝日暮れ後〟に振り回された日帰り大阪の旅はこれで終わる。日暮れのために確認できなかった場所の再検証を含め、いつ行くことができるのであろうか…。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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