石山寺周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
例年にないゴールデンウィークを過ぎ、なお衰えを見せないコロナ禍。車でしかできないこと以外はできるだけ公共交通機関を利用している私でも、さすがにバスや電車の乗車も〝三密〟にあたると言われるとビビってしまう。そんな理由で4月下旬からマイカー通勤に切り替えた。月に数回利用するだけだった車を、休み以外は毎日使っている今日、引き籠ってばかりであった休日に出かけなければならなくなった。特別定額給付金申請に必要なマイナンバーカードの電子証明書の更新期限が切れていた。仕方がないので支所に行かねばならない。ただそれ以前の〝暗証番号失念〟で役所は〝超密〟と聞く。おまけに仕事をしない滋賀県の首都市は本庁が何より閉鎖している。前市長がなくさなかった〝支所〟でなんとか対応ができているお粗末な行政ゆえ、どうなっているのか読めない怖さがあった。が先に延ばしてもことは進まないということで、休みの今日にやっと重い腰を上げ所へと出向くことにした。<br /><br />先ずは切らしたタバコを買うために近所のローソン大津大平1丁目店に立ち寄って蚊箱とコーラを購入し、先ず一服。そして目的地である大津市役所石山支所に到着した。驚きの光景だったのが誰もいなかったこと。モタモタしていたらまた込み合う~と急いで手続きをする。暗証番号は勿論覚えていた。しかしその他の暗証番号って設定した記憶がない。今までマイナンバーカードを利用したのは住民票を取得した時のみ。その時は4ケタの暗証番号しか入れていない。結局5回間違ってしまったのでロックがかかってしまい解除する羽目に。あ~やっちゃった…。ただ使いもしないものの入力をした記憶もないのだがそういうことはないのであろうか?その内医療機関受給者証と後期高齢者受給者証の紛失再交付という厄介な方々がいらっしゃった。おまけにマスクもしていない…。早く終わらしたいがゆっくりするのが役所の仕事。程々に時間は掛かったものの無事目的を果たし、車へと戻る。<br /><br />取り敢えず最低限のやることは終わらした。ただせっかく外出したのだから我が街探訪に出かけることにする。先ずは石山寺。勿論コロナ禍で閉山中である。そのため門前の市営駐車場もお金はかからない。日本一古い淡水貝塚である石山貝塚や〝静けさや〟の松尾芭蕉の句碑、三鈷の松を訪れた後、朗澄律師大徳遊鬼境を訪れる。自らが死後鬼となって石山寺を守ると言った故事から公園として祀っている場所である。青葉茂る今の時期が見頃なのでなかなかの景色だと思う。そして石山寺郵便局は観光客がいなければ普通の特定郵便局でしかなく、瀬田川クルーズもコロナ禍で運休中である。<br /><br />一通り見るだけに時間は本当にかからない。人のいない景色をカメラに収めて出発することにする。瀬田川沿いを暫く走り、瀬田の唐橋を半分渡った中の島へと向かう。ホテルアープしが付近からは唐橋も見え、上流は琵琶湖下流は瀬田川という場所でもある。<br /><br />それから瀬田川東岸を南下する。京滋バイパスをアンダーパスして田上に入り、瀬田川洗堰へと繋がる道の途中に南郷水産センターがある。ここは小学校の遠足やプライベートでも何回も訪れているが、やはりコロナの影響で閉館中であった。敷地内に松尾芭蕉の句碑があるといった発見をした後に車に戻る。瀬田川洗堰を渡り南郷公園に車を停めて洗堰の様子をカメラに収める。何度も来ている場所ではあるが、何も気にかけたことがなかったので発見も多い。旧南郷洗堰は確かに見たことがあった。しかし大正時代の貞明皇后来訪記念碑というのは初めて知った。というよりもは石碑は知っていても内容を知らなかったというのが事実である。実は先程から〝瀬田川洗堰〟と〝南郷洗堰〟という言葉を何気に使っているが、これには大きな違いがあり、明治時代に作られた旧洗堰が南郷洗堰、昭和の治水工事の結果できたものが瀬田川洗堰となる。本来使い分けなければならないものではあるが、地元民はたいてい南郷洗堰という。存在する場所が南郷であるからそう言っているのだと思うが定かではない。もしジモティに洗堰を案内してもらうことがあれば、正してあげるのも良いかも知れない。ただ素直に聞く人がどれ位いるかは私は知らない(笑)。<br /><br />話は変わるが瀬田川洗堰の下流に大きな橋が架かっている。国道422号線大石東バイパスに属する瀬田川令和大橋だ。開通した際は国道の橋で最初に〝令和〟という名前を冠したものとして新聞にも載っていた。ネタ作りの橋と思われるが、この橋を含む大石東バイパスの開通は、つい最近まで狭窄路として有名だった国道422号線を幹線道路にまで伸し上げたものであった。現在国道422号線は大津市松原町から紀伊長島町迄の177kmの国道となっているが、以前は滋賀・三重県道大津上野線が国道に格上げになっただけの酷道であった。真っ直ぐな道がないといっても過言ではなく、ひたすら山道をクネクネと走っていた。免許取り立ての頃は山道を走る練習コースにもなっていた。数十年経った頃には大石富川の集落を繋ぐような旧道が大石バイパスとして生まれ変わり、立石橋から旧上野市(現伊賀市)へは三田坂バイパス(トンネル)が整備された。加えて関津トンネルを含む大石東バイパスの完成で、大型車が幅員を気にせずに走れるようになった。石山から信楽迄1時間かからない。化石年齢からすると信じられないの一言に尽きる。新名神高速道路も完成したが、行きはともかく帰りは使わずに国道422号線を走ることが当たり前になった。でも調子に乗って飛ばしているとサルやシカが頻繁に道路に出てくるので注意が必要である。瀬田川を〝渡る〟ことは石山から信楽や上野に向かうにはネックになり続けてきた。瀬田川令和大橋の前は昭和63(1988)年完成の京滋バイパス側道に迄遡る。便利になるのが良いのか悪いのか迷ってしまう私であった。<br /><br />もう少し走ってみようと車に戻る。南郷公園には〝南郷学区わがまち再発見〟マップがある。こういう類の地図は地元民でも知らないこともあり重宝する。次回の石山めぐり旅の参考にしようと思う。車を停めていた南郷公園だが、市民プールもある本格的な公園施設である。平日ではあるが学校が休みのために子供達が遊んでいる。ただ事故に繋がるという理由からスケボや球技は集団でしないこととお達しが来ていたはず。しかし付き添いの若い母親達は子供達の好き勝手に遊ばせている。気持ちはわからなくもないが、年寄りも羽を伸ばしに来る場所なので事故があってからでは遅いのである。行政がはっきりとした決断をしないから暴走してしまうのである。外出自粛をするのか止めるのか早くはっきりして貰いたい。<br /><br />どうも人が集まるところではエクサイトしてしまうようなので退散することにした。瀬田川西岸を南下すること数分で立木観音に到着する。到着して先ずビックリしたのは駐車場に車がないこと。長年住んでいて初めての光景に唖然とする。ここから見える鹿跳渓谷は絶景だがそれは置いておき、車止めが置かれている参道の入口へと向かう。ウェブサイトの告知通り4月15日から5月31日迄は閉山する旨が立て看板に書かれていた。少し上ることはできるようだったが、そこには〝通行止〟と書かれているだけのようなのでやめておく。800段余りの急な階段が続く参道、当たり前だが手摺りを持ったり息を弾ませて登らなければならないので、余計に感染する確率が高いと判断された様子。勿論その様子は何度も体験しているのでわかっているため、素直に参道入口から手を合わせ、コロナ禍の早期収束を願いつつ車へと戻る。ちょうどバスが来たので記録しようとしたところ、運転士氏が気づいたようで目の前で減速した。ただ撮影のためと言うのではなく、バス停がわからない観光客がバス待ちをしている様に見えたようだ。田舎に行くとバス停が片方向にしかないことがある。それと勘違いされたようだ。慌てて手を振り乗らないゼスチャをする。ちなみに石山駅方面のバス停は、立木観音山道を下りて少し北側にある。ちょうど見えない位置に立っていたのでそう思われたようだ。ややこしい立ち位置で大変申し訳ない。<br /><br />車に戻って出発するが次に訪れる場所は初訪問となる浄土寺であった。大石東集落にある明見山浄土寺。普通のお寺だが特定の方々には超メジャー史跡として知られている。時は元禄徳川綱吉の治世、主君浅野内匠頭長矩の仇討ちをした大石内蔵助良雄以下四十七士。いわゆる忠臣蔵である。内蔵助は赤穂の生まれだがその祖先はここ大石の出であり、先祖の菩提寺が浄土寺だったことが理由である。大石内蔵助良雄から遡ること5代目の大石久右衛門良信は八幡城主豊臣秀次の家臣でありここ大石庄を治めていた。秀次切腹後は浪人したようだが、その次男である大石良勝は当時常陸国の大名であった浅野家の筆頭家老となり、大石内蔵助良勝と名乗っている。その三代後が大石内蔵助良雄であり播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の筆頭家老となった人物である。<br /><br />松の廊下の一件で赤穂藩は取り潰しとなり、良雄も浪人生活を送っていたようだ。討ち入りまでの一時を過ごした大石の屋敷跡はまた別の場所にある。浄土寺裏手の山にある屋敷跡は先祖の久右衛門良信の邸宅のことである。本堂の後ろに石段があり、そこに史跡〝内蔵助祖先館〟並〝大石家菩提寺旧跡〟と書かれたら石碑がある。墓は良信とその室、そして良勝の室と書かれていた。良信の慰霊碑として宝篋印塔が建立されているが、時期は鎌倉時代のものと書かれており、時代のズレはなんなのが分からない。<br /><br />墓参りを済ませて屋敷跡へと向かおうとするが何やら茂みの中から物音がする。よく見ると鹿がいた(驚)。人間を見ても動じないことから慣れていることがわかる。しかし数十倍の体重と角と争っても勝ち目はない。と言うことで怖くなり、屋敷跡へ行くのは次回に回すことにした。<br /><br />四十七士の位牌が本堂に奉られているそうだが後から知った。また本堂裏の墓地にその数らしい石仏群があったが詳細はわからない。無計画に来たことを残念に思いつつ寺を後にする。<br /><br />そしてこちらも学校遠足先であった佐久奈度神社へと向かう。駐車場となっている佐久奈度公園は旧鎮座地であり、天ヶ瀬ダムができた際に少し高い位置にある現在の場所に移設されている。天智天皇の時代に重臣であった中臣朝臣金連が勅願により祓戸の神を祀ったのが創始とされている。厄除けの神社として有名であり、大石内蔵助良雄の曽祖父にあたる良勝が武運長久を祈って納めた絵馬があるそうだがいつも見られるわけではないようだ。という訳で今回は数十年ぶりの参拝ということを記録しておこうと目論んでいたところ、まさかの拝殿の写真がメイン端末のiPhoneXの不具合でボケボケになってしまった。取り敢えず載せてはおくが再度撮影しなければいけない。<br /><br />ただ佐久奈度神社に所縁のある中臣朝臣金連は天智天皇、次いで弘文天皇(大友皇子)の重臣であった人物である。中臣鎌足の従兄弟にあたることを考えれば当たり前ではあるが、古代日本最大の内乱と称される壬申の乱に於いて大友皇子率いる近江朝廷軍は大海人皇子(天武天皇)の軍に敗れ大友皇子は自害し、その後金も捕らえられ死罪になっている。創始にあがる名前が近江朝廷の血に塗られた一面を垣間見たように感じた私であった。<br /><br />気分を入れ替えて神社敷地からの鹿跳渓谷の眺めをカメラに収める。若干の高さが鹿跳橋と渓谷の美しい姿を綺麗に見せてくれるのは不思議であった。<br /><br />車に戻りスマホ検索で最寄りの観光地と検索をしたら富川磨崖仏と出てきたので久しぶりに行ってみることにした。富川集落手前の岩肌に約20mの阿弥陀如来像が彫られている場所である。ここは阿弥陀如来像の耳付近から鉱水が流れ出ており〝耳だれ不動〟とも呼ばれている。耳の病にご利益があるとして有名な場所でもある。以前は阿弥陀如来像は信楽川を挟んだ国道からも見えたはずだが、今では木々が生い茂っており、見えなくなってしまっていた。参道を歩けば程なく着くはずだが、台風の影響で倒木があるために通れないと聞いたことがある。確かキリを持参して祈願した後にそのキリを納め、代わりに納められていた別のキリを頂いてくるという作法だったはずだが、運動不足で鈍った足腰で臨んで怪我をして救急車のお世話になることは、このご時世故に医療従事者の方々に余計な仕事を増やすことにしかならないため慎まなければならない。さっきの鹿のこともあり、もっと計画立てて訪れようと気持ちを入れ替え、碑とその付近の様子をカメラに収め今日のプチ旅行は終わりとする。<br /><br />県境を越えて移動することは、今現在では控えめにしておいた方が無難であろう。そんな中〝再発見街歩き〟は身近過ぎて気づいていないことも少なくないことが身に染みて分かった。スマホナビで地図が検索できてしまう今日だが、パソコンから地図をプリントアウトして、目ぼしい場所をプロットしアナログチックに巡ることもまた楽しそうだ。地図作成に1日、そして実行に1日費やしてまた身近な〝新た〟を探してみたいと思えた今回の旅路であった。<br /><br />   《おわり》

《2020.May》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXIII石山編~歴史があり変わり行く街石山~

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2020/05/21 - 2020/05/21

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

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例年にないゴールデンウィークを過ぎ、なお衰えを見せないコロナ禍。車でしかできないこと以外はできるだけ公共交通機関を利用している私でも、さすがにバスや電車の乗車も〝三密〟にあたると言われるとビビってしまう。そんな理由で4月下旬からマイカー通勤に切り替えた。月に数回利用するだけだった車を、休み以外は毎日使っている今日、引き籠ってばかりであった休日に出かけなければならなくなった。特別定額給付金申請に必要なマイナンバーカードの電子証明書の更新期限が切れていた。仕方がないので支所に行かねばならない。ただそれ以前の〝暗証番号失念〟で役所は〝超密〟と聞く。おまけに仕事をしない滋賀県の首都市は本庁が何より閉鎖している。前市長がなくさなかった〝支所〟でなんとか対応ができているお粗末な行政ゆえ、どうなっているのか読めない怖さがあった。が先に延ばしてもことは進まないということで、休みの今日にやっと重い腰を上げ所へと出向くことにした。

先ずは切らしたタバコを買うために近所のローソン大津大平1丁目店に立ち寄って蚊箱とコーラを購入し、先ず一服。そして目的地である大津市役所石山支所に到着した。驚きの光景だったのが誰もいなかったこと。モタモタしていたらまた込み合う~と急いで手続きをする。暗証番号は勿論覚えていた。しかしその他の暗証番号って設定した記憶がない。今までマイナンバーカードを利用したのは住民票を取得した時のみ。その時は4ケタの暗証番号しか入れていない。結局5回間違ってしまったのでロックがかかってしまい解除する羽目に。あ~やっちゃった…。ただ使いもしないものの入力をした記憶もないのだがそういうことはないのであろうか?その内医療機関受給者証と後期高齢者受給者証の紛失再交付という厄介な方々がいらっしゃった。おまけにマスクもしていない…。早く終わらしたいがゆっくりするのが役所の仕事。程々に時間は掛かったものの無事目的を果たし、車へと戻る。

取り敢えず最低限のやることは終わらした。ただせっかく外出したのだから我が街探訪に出かけることにする。先ずは石山寺。勿論コロナ禍で閉山中である。そのため門前の市営駐車場もお金はかからない。日本一古い淡水貝塚である石山貝塚や〝静けさや〟の松尾芭蕉の句碑、三鈷の松を訪れた後、朗澄律師大徳遊鬼境を訪れる。自らが死後鬼となって石山寺を守ると言った故事から公園として祀っている場所である。青葉茂る今の時期が見頃なのでなかなかの景色だと思う。そして石山寺郵便局は観光客がいなければ普通の特定郵便局でしかなく、瀬田川クルーズもコロナ禍で運休中である。

一通り見るだけに時間は本当にかからない。人のいない景色をカメラに収めて出発することにする。瀬田川沿いを暫く走り、瀬田の唐橋を半分渡った中の島へと向かう。ホテルアープしが付近からは唐橋も見え、上流は琵琶湖下流は瀬田川という場所でもある。

それから瀬田川東岸を南下する。京滋バイパスをアンダーパスして田上に入り、瀬田川洗堰へと繋がる道の途中に南郷水産センターがある。ここは小学校の遠足やプライベートでも何回も訪れているが、やはりコロナの影響で閉館中であった。敷地内に松尾芭蕉の句碑があるといった発見をした後に車に戻る。瀬田川洗堰を渡り南郷公園に車を停めて洗堰の様子をカメラに収める。何度も来ている場所ではあるが、何も気にかけたことがなかったので発見も多い。旧南郷洗堰は確かに見たことがあった。しかし大正時代の貞明皇后来訪記念碑というのは初めて知った。というよりもは石碑は知っていても内容を知らなかったというのが事実である。実は先程から〝瀬田川洗堰〟と〝南郷洗堰〟という言葉を何気に使っているが、これには大きな違いがあり、明治時代に作られた旧洗堰が南郷洗堰、昭和の治水工事の結果できたものが瀬田川洗堰となる。本来使い分けなければならないものではあるが、地元民はたいてい南郷洗堰という。存在する場所が南郷であるからそう言っているのだと思うが定かではない。もしジモティに洗堰を案内してもらうことがあれば、正してあげるのも良いかも知れない。ただ素直に聞く人がどれ位いるかは私は知らない(笑)。

話は変わるが瀬田川洗堰の下流に大きな橋が架かっている。国道422号線大石東バイパスに属する瀬田川令和大橋だ。開通した際は国道の橋で最初に〝令和〟という名前を冠したものとして新聞にも載っていた。ネタ作りの橋と思われるが、この橋を含む大石東バイパスの開通は、つい最近まで狭窄路として有名だった国道422号線を幹線道路にまで伸し上げたものであった。現在国道422号線は大津市松原町から紀伊長島町迄の177kmの国道となっているが、以前は滋賀・三重県道大津上野線が国道に格上げになっただけの酷道であった。真っ直ぐな道がないといっても過言ではなく、ひたすら山道をクネクネと走っていた。免許取り立ての頃は山道を走る練習コースにもなっていた。数十年経った頃には大石富川の集落を繋ぐような旧道が大石バイパスとして生まれ変わり、立石橋から旧上野市(現伊賀市)へは三田坂バイパス(トンネル)が整備された。加えて関津トンネルを含む大石東バイパスの完成で、大型車が幅員を気にせずに走れるようになった。石山から信楽迄1時間かからない。化石年齢からすると信じられないの一言に尽きる。新名神高速道路も完成したが、行きはともかく帰りは使わずに国道422号線を走ることが当たり前になった。でも調子に乗って飛ばしているとサルやシカが頻繁に道路に出てくるので注意が必要である。瀬田川を〝渡る〟ことは石山から信楽や上野に向かうにはネックになり続けてきた。瀬田川令和大橋の前は昭和63(1988)年完成の京滋バイパス側道に迄遡る。便利になるのが良いのか悪いのか迷ってしまう私であった。

もう少し走ってみようと車に戻る。南郷公園には〝南郷学区わがまち再発見〟マップがある。こういう類の地図は地元民でも知らないこともあり重宝する。次回の石山めぐり旅の参考にしようと思う。車を停めていた南郷公園だが、市民プールもある本格的な公園施設である。平日ではあるが学校が休みのために子供達が遊んでいる。ただ事故に繋がるという理由からスケボや球技は集団でしないこととお達しが来ていたはず。しかし付き添いの若い母親達は子供達の好き勝手に遊ばせている。気持ちはわからなくもないが、年寄りも羽を伸ばしに来る場所なので事故があってからでは遅いのである。行政がはっきりとした決断をしないから暴走してしまうのである。外出自粛をするのか止めるのか早くはっきりして貰いたい。

どうも人が集まるところではエクサイトしてしまうようなので退散することにした。瀬田川西岸を南下すること数分で立木観音に到着する。到着して先ずビックリしたのは駐車場に車がないこと。長年住んでいて初めての光景に唖然とする。ここから見える鹿跳渓谷は絶景だがそれは置いておき、車止めが置かれている参道の入口へと向かう。ウェブサイトの告知通り4月15日から5月31日迄は閉山する旨が立て看板に書かれていた。少し上ることはできるようだったが、そこには〝通行止〟と書かれているだけのようなのでやめておく。800段余りの急な階段が続く参道、当たり前だが手摺りを持ったり息を弾ませて登らなければならないので、余計に感染する確率が高いと判断された様子。勿論その様子は何度も体験しているのでわかっているため、素直に参道入口から手を合わせ、コロナ禍の早期収束を願いつつ車へと戻る。ちょうどバスが来たので記録しようとしたところ、運転士氏が気づいたようで目の前で減速した。ただ撮影のためと言うのではなく、バス停がわからない観光客がバス待ちをしている様に見えたようだ。田舎に行くとバス停が片方向にしかないことがある。それと勘違いされたようだ。慌てて手を振り乗らないゼスチャをする。ちなみに石山駅方面のバス停は、立木観音山道を下りて少し北側にある。ちょうど見えない位置に立っていたのでそう思われたようだ。ややこしい立ち位置で大変申し訳ない。

車に戻って出発するが次に訪れる場所は初訪問となる浄土寺であった。大石東集落にある明見山浄土寺。普通のお寺だが特定の方々には超メジャー史跡として知られている。時は元禄徳川綱吉の治世、主君浅野内匠頭長矩の仇討ちをした大石内蔵助良雄以下四十七士。いわゆる忠臣蔵である。内蔵助は赤穂の生まれだがその祖先はここ大石の出であり、先祖の菩提寺が浄土寺だったことが理由である。大石内蔵助良雄から遡ること5代目の大石久右衛門良信は八幡城主豊臣秀次の家臣でありここ大石庄を治めていた。秀次切腹後は浪人したようだが、その次男である大石良勝は当時常陸国の大名であった浅野家の筆頭家老となり、大石内蔵助良勝と名乗っている。その三代後が大石内蔵助良雄であり播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の筆頭家老となった人物である。

松の廊下の一件で赤穂藩は取り潰しとなり、良雄も浪人生活を送っていたようだ。討ち入りまでの一時を過ごした大石の屋敷跡はまた別の場所にある。浄土寺裏手の山にある屋敷跡は先祖の久右衛門良信の邸宅のことである。本堂の後ろに石段があり、そこに史跡〝内蔵助祖先館〟並〝大石家菩提寺旧跡〟と書かれたら石碑がある。墓は良信とその室、そして良勝の室と書かれていた。良信の慰霊碑として宝篋印塔が建立されているが、時期は鎌倉時代のものと書かれており、時代のズレはなんなのが分からない。

墓参りを済ませて屋敷跡へと向かおうとするが何やら茂みの中から物音がする。よく見ると鹿がいた(驚)。人間を見ても動じないことから慣れていることがわかる。しかし数十倍の体重と角と争っても勝ち目はない。と言うことで怖くなり、屋敷跡へ行くのは次回に回すことにした。

四十七士の位牌が本堂に奉られているそうだが後から知った。また本堂裏の墓地にその数らしい石仏群があったが詳細はわからない。無計画に来たことを残念に思いつつ寺を後にする。

そしてこちらも学校遠足先であった佐久奈度神社へと向かう。駐車場となっている佐久奈度公園は旧鎮座地であり、天ヶ瀬ダムができた際に少し高い位置にある現在の場所に移設されている。天智天皇の時代に重臣であった中臣朝臣金連が勅願により祓戸の神を祀ったのが創始とされている。厄除けの神社として有名であり、大石内蔵助良雄の曽祖父にあたる良勝が武運長久を祈って納めた絵馬があるそうだがいつも見られるわけではないようだ。という訳で今回は数十年ぶりの参拝ということを記録しておこうと目論んでいたところ、まさかの拝殿の写真がメイン端末のiPhoneXの不具合でボケボケになってしまった。取り敢えず載せてはおくが再度撮影しなければいけない。

ただ佐久奈度神社に所縁のある中臣朝臣金連は天智天皇、次いで弘文天皇(大友皇子)の重臣であった人物である。中臣鎌足の従兄弟にあたることを考えれば当たり前ではあるが、古代日本最大の内乱と称される壬申の乱に於いて大友皇子率いる近江朝廷軍は大海人皇子(天武天皇)の軍に敗れ大友皇子は自害し、その後金も捕らえられ死罪になっている。創始にあがる名前が近江朝廷の血に塗られた一面を垣間見たように感じた私であった。

気分を入れ替えて神社敷地からの鹿跳渓谷の眺めをカメラに収める。若干の高さが鹿跳橋と渓谷の美しい姿を綺麗に見せてくれるのは不思議であった。

車に戻りスマホ検索で最寄りの観光地と検索をしたら富川磨崖仏と出てきたので久しぶりに行ってみることにした。富川集落手前の岩肌に約20mの阿弥陀如来像が彫られている場所である。ここは阿弥陀如来像の耳付近から鉱水が流れ出ており〝耳だれ不動〟とも呼ばれている。耳の病にご利益があるとして有名な場所でもある。以前は阿弥陀如来像は信楽川を挟んだ国道からも見えたはずだが、今では木々が生い茂っており、見えなくなってしまっていた。参道を歩けば程なく着くはずだが、台風の影響で倒木があるために通れないと聞いたことがある。確かキリを持参して祈願した後にそのキリを納め、代わりに納められていた別のキリを頂いてくるという作法だったはずだが、運動不足で鈍った足腰で臨んで怪我をして救急車のお世話になることは、このご時世故に医療従事者の方々に余計な仕事を増やすことにしかならないため慎まなければならない。さっきの鹿のこともあり、もっと計画立てて訪れようと気持ちを入れ替え、碑とその付近の様子をカメラに収め今日のプチ旅行は終わりとする。

県境を越えて移動することは、今現在では控えめにしておいた方が無難であろう。そんな中〝再発見街歩き〟は身近過ぎて気づいていないことも少なくないことが身に染みて分かった。スマホナビで地図が検索できてしまう今日だが、パソコンから地図をプリントアウトして、目ぼしい場所をプロットしアナログチックに巡ることもまた楽しそうだ。地図作成に1日、そして実行に1日費やしてまた身近な〝新た〟を探してみたいと思えた今回の旅路であった。

   《おわり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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