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《2020.December》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅡ~北政所ねねの晩年・圓徳院編~<br /><br />相変わらずコロナウィルスが猛威を奮っている。第3波は第2派と呼ばれる〝東京型〟がGoToトラベルによって地方に拡散し、クラスターを発生させた。新聞の解説記事の受け売りだが、結局のところ地域経済を回すために〝旅行〟という手段を用いたことが軽率だったということを言いたいのであろう。その結果12月28日~1月11日出発予定の旅行に関し、全国的なGoToトラベルの適用除外が発表された。<br /><br />既に札幌市・東京都・名古屋市・大阪市・広島市を目的地とする旅行は、GoTo適用除外となっている。しかし実際これでコロナ禍が終息に向かうかどうかと尋ねられると、明確な答えを出す政治家も医療従事者もいないのが現実だ。取り敢えず人の流れを止めることで有症状・無症状問わず感染している者達による拡散を防ぐとか言っているようだが、肝心なことは論議されていないように思えてならない。クラスター発生地を見れば一目瞭然だが、閉鎖的空間に於ける密集が根底にある。飲食店で発生することは、食事中にマスクを外す〝当たり前〟が感染に繋がっていることも疑う余地はない。しかし飲食店をターゲットにしたGoToイートキャンペーン・プレミアム食事券は、旅行には抵抗があって行かない者も含めかなりの数が購入された現実がある。手軽さの違いと購入者は語っていた。<br /><br />私個人の話になるが基本外食はしない主義なので、プレミアム食事券を含め購入していない。仮に飲食店を利用するにしても〝必ず使う〟訳ではないので〝使い切らない〟という判断をした。またトラベルの恩恵は大きいとは感じているが、いつもならばそれなりの回数の旅をしているにも関わらず、泊まりがけの旅は2月の佐渡島、6月の北陸、10月の小豆島・岡山の3回しかない。つまりGoToの恩恵は1回しか受けていない。トラベルの不公平さはあちらこちらで言われていることであり、普段から旅行に出かける者達を刺激するだけで、そうではないインドア派にはなんの恩恵もないことである。<br /><br />GoToトラベルの恩恵を被れる時期の旅はしたが、宿の選択はいつもと変わるものではなかった。元々小豆島は夏場に計画したものを流用して実行したに過ぎず、ホテルもなんら変えてはいないものである。確かに夜行便のフェリーにもGoToが適用できたために、当初の計画時より旅行代金は安くなった。ただそれは結果論のことであり、当初の予算のままでも〝日にち〟さえ確保できれば行っていただろうと思っている。<br /><br />我が街滋賀県でも越県移動の自粛要請は出されている。しかし知り合いの旅行会社ではさぞかしキャンセルで賑わっているだろうと尋ねたところ、多くは〝日時変更〟だということを聞いた。つまり割引のない時期を変更しただけだという意味のない手続きに追いまくられ、売上げゼロで1日が終わるのもざらだと言っていた。<br /><br />もはやGoToキャンペーンで低迷した日本経済が上向くことはいつ?というのが私の考えとなっている。特別な割引が入っているのが当たり前だと言う考えになってしまうと、通常価格に戻った時にその値段を受け入れることができるかどうかも怪しいものだ。<br /><br />泊まりがけの旅が〝手控える〟という世論であれば従うのは良いが、同一県内での移動が問題にならず、越県は問題だと言うのも摩訶不思議なことである。<br /><br />GoToの先行きが不明な中連勤を繰り返して得た連休も、外出もせずに終わってしまうことも増えている今日この頃、11月中に行けなかった〝紅葉〟をふと思い出す。勿論12月に入ってからなので〝落葉〟と記載されているところがほとんどであったが、そんな中ライトアップを未だ行っている寺院を見つけ訪れることにした。京都東山の臨済宗建仁寺派鷲峰山高台寿聖禅寺、通称高台寺と呼ばれている寺院である。豊臣秀吉正室のねね(北政所)所縁の寺院だが、なぜか今まで行ったことがなかった。紅葉というよりライトアップを楽しみに向かった高台寺。先ずは高台寺の塔頭である〝圓徳院〟から訪れることにする。<br /><br />令和2(2020)年12月8日火曜日<br />高台寺を訪れることを決めて自宅を出発する。ちょうど帰宅したまーさんに駅まで送って貰った。高台寺最寄りは京都市営地下鉄東西線東山駅、田舎駅からだとJRと地下鉄を乗り継いだ方が安くて早いのであるが、たまにしか利用しないために京阪電鉄石山坂本線を利用する。京阪石山駅からびわこ浜大津駅を経て、太秦天神川駅行きの京津線直通列車に乗り換える。地上区間である京阪山科駅を出ると地下に潜り御陵・蹴上に停車した後東山駅に到着する。<br /><br />2番出口から地上へと出てくるとひたすら歩くこととなる。バスの利用を促されるが待ち時間も含めると所要時間は変わらないため、東大路通を南下して八坂神社の南付近の道路を東に進む。本来の道ではないかも知れないが〝高台寺はこちら〟の標識に従い歩いて行く。10分程で入口に到着するが、入山券の購入場所がわからない。人の流れを見て圓徳院の入山券売場へと向かい、共通入山券を900円で購入する。<br /><br />先に訪れた圓徳院は、豊臣秀吉正室ねねが秀吉の死後落飾し、高台院として秀吉の冥福を祈る場所として高台寺を建立。自身は高台寺塔頭であるここ圓徳院で暮らし、逝去までの20年を過ごしたとされている。高台院終焉の地と記されてあるものも見受けられるが確証はない。また落飾した時期も慶長8(1603)年5月の養母七曲殿(浅野長勝妻・ねねを養子にしている)の死、同年8月には秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫との婚儀を見届けた後に、関ヶ原合戦前に思い出の大阪城を出て<br />住んでいた京都新城から高台寺界隈に移り住んだという説が濃厚であり、秀吉の死後すぐに落飾した訳ではないというのが定説となっている。<br /><br />淀君・秀頼親子との関係の悪さを指摘するものも多いが、当時の正室は夫である城主不在の折には城代としての役割をすることが多々あり、中でもねねの手腕は秀吉亡き後の五大老のひとりである徳川家康も一目置く存在であったとされている。関ヶ原合戦前哨戦のひとつである大聖寺城の戦いに於いて西軍に付いた山口宗永に対し援軍を出したねねの甥にあたる木下利房。戦況には影響しなかったものの死罪に当たることをしたことになる。しかし東軍の徳川家康に口利きをしたのは他ならぬねねその人。結果死罪を免れ改易処分で済まされた。勿論利房は高台寺建立時の奉行を務めた人物でもあるため、この一件が現在に残る高台寺の基礎になっていることは言うまでもない。<br /><br />ねねの交渉人としての手腕は家康だけでなく秀頼・淀君母子も当然知っており、ねね自身も豊臣家存続を願いつつ大阪との遣り取りは続けていたと言われている。そんな中〝方広寺鐘銘事件〟が起こる。所謂〝国家安康〟〝君臣豊楽〟の騒動だが当時でも〝諱(いみな)〟を避けずに銘文を起草した〝文英清韓〟と、それに気づかなかった奉行片桐且元の〝手落ち〟の部分が最近取りだたされるようになり、一概に家康の言いがかりとは言えなくなっているのが現実だ。この際も大阪方では大きな問題に発展するとは思ってもいなかったようだ。仮に争いが起ころうとしても豊臣方にはNegotiatorが付いているという慢心があった。実際に家康との関係が決裂し、大阪冬の陣の開戦が秒読みになる中で、西国の豊臣恩顧の大名に対し援軍要請をしても反応はなかった。既に徳川方に忠勤を誓う起請文を出していたという説が現在では濃厚であり、馳せ参じたのは関ヶ原合戦に於いて西軍に属し改易された大名達が浪人していた真田・後藤・長宗我部,毛利・明石氏等に限られていた。頼みのねねは、家康に助命された木下利房が家康の命によりねねを見張っており、事実上軟禁状態だったとされている。そんな状況下での大坂の陣によって、夫秀吉と共に築いた豊臣家は滅亡する。<br /><br />豊臣家が滅亡した後もねねと徳川家との関係は良好だったとされている。ねねの動きを封じた木下利房はその功績で備中足守藩主に取り立てられている。寛永元(1624)年秋ねねは波乱の人生の幕を下ろす。70代後半から80代前半だった。最晩年には木下利房の子である木下利次を養子として迎えており、遺領として与えられていた内の近江国内3000石を相続している。この養子の件は記録も多く間違いはないであろうが、豊臣(羽柴)家の養子縁組とはどうなのだろうか?ねね存命中は許されていた羽柴姓だが、逝去後は利房が名乗っていた羽柴姓も禁じられ木下姓に戻している。建前上短期間は許されていたものの、徳川家が頭の上がらなかったねねの死後は手のひらを返している。結局のところは秀吉と共に作り上げた豊臣・羽柴家を残すことより、親戚筋であっても自分達の血筋を絶やさないようにしたと考えた方が理に敵う。<br /><br />実際のところ養子となった木下利次は3000石の所領ながら旗本となり、子孫は江戸期を生き抜いている。確かにねねが83歳で逝去後は婚家である豊臣姓大坂羽柴家の直系は断絶したものの、養家である浅野家には親戚筋の女系ではあるが豊臣姓羽柴家の血筋が広島藩浅野家に繋がっており、繁栄を極めたことは言うまでもない。付け加えるならばこの傍流の血は九条家を通して現在の皇室まで存続している。夫秀吉が亡くなった後に義理の子に当たり秀吉の血を受け継いだ秀頼が大阪の陣で敗死し、豊臣家の血筋が途絶えた時に於いてどこまで考えていたのかは知る由もないが、結果として400年の時を越えねねに流れる血は現在でも絶えていないことまで考えていたならば、その先見の明にはただただ脱帽するしかない。<br /><br />ねねが高台院として夫秀吉の霊を弔い高台寺を建立した。その前年慶長11(1605)年に伏見城から化粧御殿と庭園を移築し、新たに客殿(現方丈)を建立したことに歴史が始まった圓徳院。寺格を持つようになったのは寛永元(1624)年のことであり間もなくねねは亡くなった。彼女の死後寛永4(1627)年になり現在の圓徳院の寺名を得て高台寺の塔頭になって現在に至っている。<br /><br />晩年の19年をここで過ごし、すぐ近くに建立した高台寺に日参して夫秀吉の菩提を弔っていた。豊臣の血が途絶えた大坂夏の陣の折も、大阪まで飛んで行きたい衝動に駆られていたのであろうが、家康の命を受けた木下利房に監視され軟禁状態だったためにできなかった。姉御肌のねねのどうしようもない悲しみと歯痒さは、なんとなく一参拝者である私にまで伝わって来るのが圓徳院でもある。<br /><br />秀吉との思い出である伏見城から移した庭園である北庭は移築後に小堀遠州が整えたもので、北書院から眺めることができる。巨石を多く配置した珍しい造りの枯山水庭園と、庭園を囲むように植えられた少し小ぶりの紅葉は晩春から晩秋にかけて美しい色彩を放ち、訪れる者達の目に焼き付く素晴らしいものである。加えて色彩豊かなライトアップは、ねねが見ていただろう景色を現代風にアレンジした物のように見え、その奥深さを今に伝えているように感じた。<br /><br />また圓徳院には秀吉の出世守り本尊〝三面大黒天(さんめんだいこくてん)〟という大黒天・毘沙門天・弁財天の三天が合体した尊像が祀られている。大変珍しいものであるが、若かりし頃の秀吉が尾張国で道端に祀られていたものを大変気に入り、自らを託す〝本尊〟として崇め奉ったとの謂れが残されている。農民の出である秀吉が、織田信長の草履取りに取り立てられ、その後史上稀に見る出世街道を爆進したことは言うまでもないが、ねねとの婚姻、姉川の戦いに於ける織田方の敗戦に於いて殿を務め、自身も浅井長政の攻撃を受けるものの間一髪のところで逃れている。本能寺の変の折は毛利攻めの最中であったにも関わらず、明智光秀が毛利輝元に送った使者が陣屋を間違え、敵将である秀吉の陣に来たことで誰より先に主君の死を知った。知将黒田官兵衛の勧めもあり毛利方と講和を結ぶ策を取り、備中高松城主清水宗治の切腹を条件に将兵の助命嘆願を受け入れた。宗治の切腹を確認するや否やねねの母朝日殿の兄である杉原家次を城代に据え、自身は中国大返しで知られているように光秀討伐に一番乗りをし、山崎の戦いで勝利をし〝信長の後継者〟としての地位を得る。遅れて信長の死を知った照元は地団駄を踏むが既に時遅し。既に明智光秀は山科小栗栖にて落武者狩りの土民に竹槍で刺されて重傷を負い、自害して果てた後であった。<br /><br />その後の秀吉は信長の重臣達を押し退けて、信長の後継者としての立場を手に入れ、関白となり全国統一を成し遂げたのであった。<br /><br />そんな秀吉は片時も三面大黒天像を離さなかったと言われているが、残念ながら寿命には勝てず慶長3(1598)年にこの世を去る。後継者である秀頼の元に残されたとの説もあるが、実際にはねねが秀吉を弔うために手元に置いていたと言われている。ねねの性格では秀頼以後の豊臣家血筋の存亡を望まない訳はないのであるが、関ヶ原合戦で石田三成率いる西軍が敗れると、東軍の総大将徳川家康は難癖をつけて秀頼を65万石の一大名への格下げを断行する。その後征夷大将軍となった家康に対し、秀頼・淀君母子は第二代将軍の座が回って来るに違いないと確信していたが、その座は結局徳川秀忠が就くことになる。秀吉に目をかけられていた武将の多くは徳川方についており、ねねの動きを封じた家康は目の上のたんこぶだった豊臣家を潰しにかかる。果たして大坂の陣が始まるが、浪人していた猛将は集まるが所詮多勢に無勢。大坂夏の陣で秀頼・淀君は自害して果て、秀吉の血は僅か2代で滅びてしまう。身動きの取れない状況下でその様子を見ていたねねがどのような思いを持っていたのかはわからないが、秀吉が肌身離さず持っていた三面大黒天像を自らの手元に置いて秀吉を弔っていた。そしてねねの逝去後は、ねねが晩年を過ごした圓徳院の堂に祀られて大切にされ、今日でも見ることができる。もし秀頼の元に三面大黒天像が有れば豊臣家もまた違った歴史を辿ったのかも知れないと感じさせられるのがその素晴らしさなのだろうと感じる。歴史が変わることはないが、想像を膨らませることができるのはやはりご利益だと思えてならない。<br /><br />ねねの存在が色濃く残る圓徳院だが、忘れてはならないこととして、ねねが院号を勅賜され高台院となった後の生活に深く関わった兄の木下家定とその次男の利房の存在がある。家定は関ヶ原合戦時に家康の命によりねねの警護をしており、中立を保ったもののその功により備中足守藩2万5千石の大名として取り立てられた。しかし領地には赴かずそのまま京で出家し、慶長13(1608)年に66歳で亡くなっている。また利房は足守藩主とはなるものの父家定の遺領を兄勝俊と争い、所領没収の憂き目に遭っている。その後大坂の陣に於いて徳川方についた功により足守藩主に返り咲いているが、ねねの死後利房は伏見城の北政所化粧御殿をこの地に移築し、自らの邸宅としていたことがあった。その様な経緯があり、利房の死後その菩提を弔う寺として彼の院号である〝圓?院〟をそのまま寺号として高台寺の塔頭となっている。その様な過程があったため木下(杉原)氏の菩提寺となり、また武家の邸宅となった経緯から正門が侍長屋に直結する武家屋敷の様式を表す長屋門が作られている。<br /><br />また利房の兄である勝俊は、大坂の陣に於いて徳川方についた功により足守藩の継承を認められるが、実際には足守には出向かずに剃髪して京都東山に隠棲したと言われており、ねねの住む圓徳院隣に挙白堂を営んで長嘯子と号したとされている。この場所に〝歌仙堂〟と称する小閣を設け、その2階には三十六歌仙図を掲げた姿が現在でも目にすることができる。歌人として大名や幕府の要人、公家等文化人とも交流を持った勝俊は、死後高台寺にねねらとともに眠っている。<br /><br />方丈には重要文化財に指定されている〝紙本墨画山水図〟の32面が所蔵されている。これは天正17(1589)年頃長谷川等伯によって作成されたものの一部であり、明治初期の廃仏毀釈によって大徳寺三玄院にあったものが流出し圓徳院に飾られるようになったとされている。<br /><br />長谷川等伯はかねてより三玄院で襖絵を制作することを懇願していたが、修行の場に絵は不要と当時の住職宗園に相手にされなかったと言われている。ある時宗園が2ヶ月ほど留守をすることを知った等伯は、この時を狙って三玄院に押しかけ、まわりが止めるのを振り切り一気にこの襖絵を描いている。帰ってきてこの事を知った宗園は立腹しつつも絵の出来栄えに感嘆し結局この襖絵を認めたそうである。<br /><br />この逸話は襖絵の料紙が作画には不向きな雲母刷り胡粉の桐紋様の唐紙であることからも〝史実〟、若しくは史実に近いものとして現在では考えられているようである。圓徳院所蔵の他京都楽美術館収められている松林山水図4面の全36面の襖絵のすべてが桐紋様の上に描かれており、このような作品は他に例を見ない特異なものとして知られている。<br /><br />南庭は元々圓徳院にあったものではない。奈良国立文化財研究所の故森蘊博士指導のもと作られたものであり、現在は庭師北山安夫氏の監修の元維持されているものである。白砂の線引きがされており、ねねを想い圓徳院を訪れる女性の好みに合うように長屋門からこの南庭までを年中できるだけ花や紅葉を愛でられるように工夫されている人工的なものだと書かれていた。歴史とはかけ離れているものではあるが、やはり視線を考えて作られているものであり違和感はない。しかしあまりにもパーフェクト過ぎるものを作り上げることの是非論は確かに感じてしまう場所でもあった。<br /><br />重要文化財以外にも様々な歴史的背景を持つ貴重な品々を所蔵する圓徳院だが、ストロボを使わなければ撮影OKとなっている。画像に収めて鑑賞するのは如何なものかと言われるかも知れないが、寺院に限らず資料館でも展示内容の撮影を禁じ、しっかりと有償の書籍やはがきとして販売されている事実を踏まえると太っ腹と思えてならない。夜間拝観では見られるところが限られているのかも知れないが、小一時間かけて一周する価値は十分にあると感じられる場所であった。<br /><br />出口を出ると高台寺掌美術館がある。圓徳院や高台寺所蔵品の中でも選りすぐりの品々が厳格な環境管理の下で展示されているのはわかるのだが、躍動を感じる様な展示ではない。展示されているものがそれぞれ孤立しているように見え、別に入館料を払ってまで特別見ようという印象は持てなかった。これ自体は私の印象でしかないが、私以外に観覧者がいなかったこともそういった印象を強くした理由かも知れない。<br /><br />圓徳院と高台寺掌美術館を拝観した。これから参道を登り、いよいよ高台寺へと向かうことにする。<br /><br />  《次編に続く》

《2020.December》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅡ~北政所ねねの晩年・圓徳院編~

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2020/12/08 - 2020/12/08

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《2020.December》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅡ~北政所ねねの晩年・圓徳院編~

相変わらずコロナウィルスが猛威を奮っている。第3波は第2派と呼ばれる〝東京型〟がGoToトラベルによって地方に拡散し、クラスターを発生させた。新聞の解説記事の受け売りだが、結局のところ地域経済を回すために〝旅行〟という手段を用いたことが軽率だったということを言いたいのであろう。その結果12月28日~1月11日出発予定の旅行に関し、全国的なGoToトラベルの適用除外が発表された。

既に札幌市・東京都・名古屋市・大阪市・広島市を目的地とする旅行は、GoTo適用除外となっている。しかし実際これでコロナ禍が終息に向かうかどうかと尋ねられると、明確な答えを出す政治家も医療従事者もいないのが現実だ。取り敢えず人の流れを止めることで有症状・無症状問わず感染している者達による拡散を防ぐとか言っているようだが、肝心なことは論議されていないように思えてならない。クラスター発生地を見れば一目瞭然だが、閉鎖的空間に於ける密集が根底にある。飲食店で発生することは、食事中にマスクを外す〝当たり前〟が感染に繋がっていることも疑う余地はない。しかし飲食店をターゲットにしたGoToイートキャンペーン・プレミアム食事券は、旅行には抵抗があって行かない者も含めかなりの数が購入された現実がある。手軽さの違いと購入者は語っていた。

私個人の話になるが基本外食はしない主義なので、プレミアム食事券を含め購入していない。仮に飲食店を利用するにしても〝必ず使う〟訳ではないので〝使い切らない〟という判断をした。またトラベルの恩恵は大きいとは感じているが、いつもならばそれなりの回数の旅をしているにも関わらず、泊まりがけの旅は2月の佐渡島、6月の北陸、10月の小豆島・岡山の3回しかない。つまりGoToの恩恵は1回しか受けていない。トラベルの不公平さはあちらこちらで言われていることであり、普段から旅行に出かける者達を刺激するだけで、そうではないインドア派にはなんの恩恵もないことである。

GoToトラベルの恩恵を被れる時期の旅はしたが、宿の選択はいつもと変わるものではなかった。元々小豆島は夏場に計画したものを流用して実行したに過ぎず、ホテルもなんら変えてはいないものである。確かに夜行便のフェリーにもGoToが適用できたために、当初の計画時より旅行代金は安くなった。ただそれは結果論のことであり、当初の予算のままでも〝日にち〟さえ確保できれば行っていただろうと思っている。

我が街滋賀県でも越県移動の自粛要請は出されている。しかし知り合いの旅行会社ではさぞかしキャンセルで賑わっているだろうと尋ねたところ、多くは〝日時変更〟だということを聞いた。つまり割引のない時期を変更しただけだという意味のない手続きに追いまくられ、売上げゼロで1日が終わるのもざらだと言っていた。

もはやGoToキャンペーンで低迷した日本経済が上向くことはいつ?というのが私の考えとなっている。特別な割引が入っているのが当たり前だと言う考えになってしまうと、通常価格に戻った時にその値段を受け入れることができるかどうかも怪しいものだ。

泊まりがけの旅が〝手控える〟という世論であれば従うのは良いが、同一県内での移動が問題にならず、越県は問題だと言うのも摩訶不思議なことである。

GoToの先行きが不明な中連勤を繰り返して得た連休も、外出もせずに終わってしまうことも増えている今日この頃、11月中に行けなかった〝紅葉〟をふと思い出す。勿論12月に入ってからなので〝落葉〟と記載されているところがほとんどであったが、そんな中ライトアップを未だ行っている寺院を見つけ訪れることにした。京都東山の臨済宗建仁寺派鷲峰山高台寿聖禅寺、通称高台寺と呼ばれている寺院である。豊臣秀吉正室のねね(北政所)所縁の寺院だが、なぜか今まで行ったことがなかった。紅葉というよりライトアップを楽しみに向かった高台寺。先ずは高台寺の塔頭である〝圓徳院〟から訪れることにする。

令和2(2020)年12月8日火曜日
高台寺を訪れることを決めて自宅を出発する。ちょうど帰宅したまーさんに駅まで送って貰った。高台寺最寄りは京都市営地下鉄東西線東山駅、田舎駅からだとJRと地下鉄を乗り継いだ方が安くて早いのであるが、たまにしか利用しないために京阪電鉄石山坂本線を利用する。京阪石山駅からびわこ浜大津駅を経て、太秦天神川駅行きの京津線直通列車に乗り換える。地上区間である京阪山科駅を出ると地下に潜り御陵・蹴上に停車した後東山駅に到着する。

2番出口から地上へと出てくるとひたすら歩くこととなる。バスの利用を促されるが待ち時間も含めると所要時間は変わらないため、東大路通を南下して八坂神社の南付近の道路を東に進む。本来の道ではないかも知れないが〝高台寺はこちら〟の標識に従い歩いて行く。10分程で入口に到着するが、入山券の購入場所がわからない。人の流れを見て圓徳院の入山券売場へと向かい、共通入山券を900円で購入する。

先に訪れた圓徳院は、豊臣秀吉正室ねねが秀吉の死後落飾し、高台院として秀吉の冥福を祈る場所として高台寺を建立。自身は高台寺塔頭であるここ圓徳院で暮らし、逝去までの20年を過ごしたとされている。高台院終焉の地と記されてあるものも見受けられるが確証はない。また落飾した時期も慶長8(1603)年5月の養母七曲殿(浅野長勝妻・ねねを養子にしている)の死、同年8月には秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫との婚儀を見届けた後に、関ヶ原合戦前に思い出の大阪城を出て
住んでいた京都新城から高台寺界隈に移り住んだという説が濃厚であり、秀吉の死後すぐに落飾した訳ではないというのが定説となっている。

淀君・秀頼親子との関係の悪さを指摘するものも多いが、当時の正室は夫である城主不在の折には城代としての役割をすることが多々あり、中でもねねの手腕は秀吉亡き後の五大老のひとりである徳川家康も一目置く存在であったとされている。関ヶ原合戦前哨戦のひとつである大聖寺城の戦いに於いて西軍に付いた山口宗永に対し援軍を出したねねの甥にあたる木下利房。戦況には影響しなかったものの死罪に当たることをしたことになる。しかし東軍の徳川家康に口利きをしたのは他ならぬねねその人。結果死罪を免れ改易処分で済まされた。勿論利房は高台寺建立時の奉行を務めた人物でもあるため、この一件が現在に残る高台寺の基礎になっていることは言うまでもない。

ねねの交渉人としての手腕は家康だけでなく秀頼・淀君母子も当然知っており、ねね自身も豊臣家存続を願いつつ大阪との遣り取りは続けていたと言われている。そんな中〝方広寺鐘銘事件〟が起こる。所謂〝国家安康〟〝君臣豊楽〟の騒動だが当時でも〝諱(いみな)〟を避けずに銘文を起草した〝文英清韓〟と、それに気づかなかった奉行片桐且元の〝手落ち〟の部分が最近取りだたされるようになり、一概に家康の言いがかりとは言えなくなっているのが現実だ。この際も大阪方では大きな問題に発展するとは思ってもいなかったようだ。仮に争いが起ころうとしても豊臣方にはNegotiatorが付いているという慢心があった。実際に家康との関係が決裂し、大阪冬の陣の開戦が秒読みになる中で、西国の豊臣恩顧の大名に対し援軍要請をしても反応はなかった。既に徳川方に忠勤を誓う起請文を出していたという説が現在では濃厚であり、馳せ参じたのは関ヶ原合戦に於いて西軍に属し改易された大名達が浪人していた真田・後藤・長宗我部,毛利・明石氏等に限られていた。頼みのねねは、家康に助命された木下利房が家康の命によりねねを見張っており、事実上軟禁状態だったとされている。そんな状況下での大坂の陣によって、夫秀吉と共に築いた豊臣家は滅亡する。

豊臣家が滅亡した後もねねと徳川家との関係は良好だったとされている。ねねの動きを封じた木下利房はその功績で備中足守藩主に取り立てられている。寛永元(1624)年秋ねねは波乱の人生の幕を下ろす。70代後半から80代前半だった。最晩年には木下利房の子である木下利次を養子として迎えており、遺領として与えられていた内の近江国内3000石を相続している。この養子の件は記録も多く間違いはないであろうが、豊臣(羽柴)家の養子縁組とはどうなのだろうか?ねね存命中は許されていた羽柴姓だが、逝去後は利房が名乗っていた羽柴姓も禁じられ木下姓に戻している。建前上短期間は許されていたものの、徳川家が頭の上がらなかったねねの死後は手のひらを返している。結局のところは秀吉と共に作り上げた豊臣・羽柴家を残すことより、親戚筋であっても自分達の血筋を絶やさないようにしたと考えた方が理に敵う。

実際のところ養子となった木下利次は3000石の所領ながら旗本となり、子孫は江戸期を生き抜いている。確かにねねが83歳で逝去後は婚家である豊臣姓大坂羽柴家の直系は断絶したものの、養家である浅野家には親戚筋の女系ではあるが豊臣姓羽柴家の血筋が広島藩浅野家に繋がっており、繁栄を極めたことは言うまでもない。付け加えるならばこの傍流の血は九条家を通して現在の皇室まで存続している。夫秀吉が亡くなった後に義理の子に当たり秀吉の血を受け継いだ秀頼が大阪の陣で敗死し、豊臣家の血筋が途絶えた時に於いてどこまで考えていたのかは知る由もないが、結果として400年の時を越えねねに流れる血は現在でも絶えていないことまで考えていたならば、その先見の明にはただただ脱帽するしかない。

ねねが高台院として夫秀吉の霊を弔い高台寺を建立した。その前年慶長11(1605)年に伏見城から化粧御殿と庭園を移築し、新たに客殿(現方丈)を建立したことに歴史が始まった圓徳院。寺格を持つようになったのは寛永元(1624)年のことであり間もなくねねは亡くなった。彼女の死後寛永4(1627)年になり現在の圓徳院の寺名を得て高台寺の塔頭になって現在に至っている。

晩年の19年をここで過ごし、すぐ近くに建立した高台寺に日参して夫秀吉の菩提を弔っていた。豊臣の血が途絶えた大坂夏の陣の折も、大阪まで飛んで行きたい衝動に駆られていたのであろうが、家康の命を受けた木下利房に監視され軟禁状態だったためにできなかった。姉御肌のねねのどうしようもない悲しみと歯痒さは、なんとなく一参拝者である私にまで伝わって来るのが圓徳院でもある。

秀吉との思い出である伏見城から移した庭園である北庭は移築後に小堀遠州が整えたもので、北書院から眺めることができる。巨石を多く配置した珍しい造りの枯山水庭園と、庭園を囲むように植えられた少し小ぶりの紅葉は晩春から晩秋にかけて美しい色彩を放ち、訪れる者達の目に焼き付く素晴らしいものである。加えて色彩豊かなライトアップは、ねねが見ていただろう景色を現代風にアレンジした物のように見え、その奥深さを今に伝えているように感じた。

また圓徳院には秀吉の出世守り本尊〝三面大黒天(さんめんだいこくてん)〟という大黒天・毘沙門天・弁財天の三天が合体した尊像が祀られている。大変珍しいものであるが、若かりし頃の秀吉が尾張国で道端に祀られていたものを大変気に入り、自らを託す〝本尊〟として崇め奉ったとの謂れが残されている。農民の出である秀吉が、織田信長の草履取りに取り立てられ、その後史上稀に見る出世街道を爆進したことは言うまでもないが、ねねとの婚姻、姉川の戦いに於ける織田方の敗戦に於いて殿を務め、自身も浅井長政の攻撃を受けるものの間一髪のところで逃れている。本能寺の変の折は毛利攻めの最中であったにも関わらず、明智光秀が毛利輝元に送った使者が陣屋を間違え、敵将である秀吉の陣に来たことで誰より先に主君の死を知った。知将黒田官兵衛の勧めもあり毛利方と講和を結ぶ策を取り、備中高松城主清水宗治の切腹を条件に将兵の助命嘆願を受け入れた。宗治の切腹を確認するや否やねねの母朝日殿の兄である杉原家次を城代に据え、自身は中国大返しで知られているように光秀討伐に一番乗りをし、山崎の戦いで勝利をし〝信長の後継者〟としての地位を得る。遅れて信長の死を知った照元は地団駄を踏むが既に時遅し。既に明智光秀は山科小栗栖にて落武者狩りの土民に竹槍で刺されて重傷を負い、自害して果てた後であった。

その後の秀吉は信長の重臣達を押し退けて、信長の後継者としての立場を手に入れ、関白となり全国統一を成し遂げたのであった。

そんな秀吉は片時も三面大黒天像を離さなかったと言われているが、残念ながら寿命には勝てず慶長3(1598)年にこの世を去る。後継者である秀頼の元に残されたとの説もあるが、実際にはねねが秀吉を弔うために手元に置いていたと言われている。ねねの性格では秀頼以後の豊臣家血筋の存亡を望まない訳はないのであるが、関ヶ原合戦で石田三成率いる西軍が敗れると、東軍の総大将徳川家康は難癖をつけて秀頼を65万石の一大名への格下げを断行する。その後征夷大将軍となった家康に対し、秀頼・淀君母子は第二代将軍の座が回って来るに違いないと確信していたが、その座は結局徳川秀忠が就くことになる。秀吉に目をかけられていた武将の多くは徳川方についており、ねねの動きを封じた家康は目の上のたんこぶだった豊臣家を潰しにかかる。果たして大坂の陣が始まるが、浪人していた猛将は集まるが所詮多勢に無勢。大坂夏の陣で秀頼・淀君は自害して果て、秀吉の血は僅か2代で滅びてしまう。身動きの取れない状況下でその様子を見ていたねねがどのような思いを持っていたのかはわからないが、秀吉が肌身離さず持っていた三面大黒天像を自らの手元に置いて秀吉を弔っていた。そしてねねの逝去後は、ねねが晩年を過ごした圓徳院の堂に祀られて大切にされ、今日でも見ることができる。もし秀頼の元に三面大黒天像が有れば豊臣家もまた違った歴史を辿ったのかも知れないと感じさせられるのがその素晴らしさなのだろうと感じる。歴史が変わることはないが、想像を膨らませることができるのはやはりご利益だと思えてならない。

ねねの存在が色濃く残る圓徳院だが、忘れてはならないこととして、ねねが院号を勅賜され高台院となった後の生活に深く関わった兄の木下家定とその次男の利房の存在がある。家定は関ヶ原合戦時に家康の命によりねねの警護をしており、中立を保ったもののその功により備中足守藩2万5千石の大名として取り立てられた。しかし領地には赴かずそのまま京で出家し、慶長13(1608)年に66歳で亡くなっている。また利房は足守藩主とはなるものの父家定の遺領を兄勝俊と争い、所領没収の憂き目に遭っている。その後大坂の陣に於いて徳川方についた功により足守藩主に返り咲いているが、ねねの死後利房は伏見城の北政所化粧御殿をこの地に移築し、自らの邸宅としていたことがあった。その様な経緯があり、利房の死後その菩提を弔う寺として彼の院号である〝圓?院〟をそのまま寺号として高台寺の塔頭となっている。その様な過程があったため木下(杉原)氏の菩提寺となり、また武家の邸宅となった経緯から正門が侍長屋に直結する武家屋敷の様式を表す長屋門が作られている。

また利房の兄である勝俊は、大坂の陣に於いて徳川方についた功により足守藩の継承を認められるが、実際には足守には出向かずに剃髪して京都東山に隠棲したと言われており、ねねの住む圓徳院隣に挙白堂を営んで長嘯子と号したとされている。この場所に〝歌仙堂〟と称する小閣を設け、その2階には三十六歌仙図を掲げた姿が現在でも目にすることができる。歌人として大名や幕府の要人、公家等文化人とも交流を持った勝俊は、死後高台寺にねねらとともに眠っている。

方丈には重要文化財に指定されている〝紙本墨画山水図〟の32面が所蔵されている。これは天正17(1589)年頃長谷川等伯によって作成されたものの一部であり、明治初期の廃仏毀釈によって大徳寺三玄院にあったものが流出し圓徳院に飾られるようになったとされている。

長谷川等伯はかねてより三玄院で襖絵を制作することを懇願していたが、修行の場に絵は不要と当時の住職宗園に相手にされなかったと言われている。ある時宗園が2ヶ月ほど留守をすることを知った等伯は、この時を狙って三玄院に押しかけ、まわりが止めるのを振り切り一気にこの襖絵を描いている。帰ってきてこの事を知った宗園は立腹しつつも絵の出来栄えに感嘆し結局この襖絵を認めたそうである。

この逸話は襖絵の料紙が作画には不向きな雲母刷り胡粉の桐紋様の唐紙であることからも〝史実〟、若しくは史実に近いものとして現在では考えられているようである。圓徳院所蔵の他京都楽美術館収められている松林山水図4面の全36面の襖絵のすべてが桐紋様の上に描かれており、このような作品は他に例を見ない特異なものとして知られている。

南庭は元々圓徳院にあったものではない。奈良国立文化財研究所の故森蘊博士指導のもと作られたものであり、現在は庭師北山安夫氏の監修の元維持されているものである。白砂の線引きがされており、ねねを想い圓徳院を訪れる女性の好みに合うように長屋門からこの南庭までを年中できるだけ花や紅葉を愛でられるように工夫されている人工的なものだと書かれていた。歴史とはかけ離れているものではあるが、やはり視線を考えて作られているものであり違和感はない。しかしあまりにもパーフェクト過ぎるものを作り上げることの是非論は確かに感じてしまう場所でもあった。

重要文化財以外にも様々な歴史的背景を持つ貴重な品々を所蔵する圓徳院だが、ストロボを使わなければ撮影OKとなっている。画像に収めて鑑賞するのは如何なものかと言われるかも知れないが、寺院に限らず資料館でも展示内容の撮影を禁じ、しっかりと有償の書籍やはがきとして販売されている事実を踏まえると太っ腹と思えてならない。夜間拝観では見られるところが限られているのかも知れないが、小一時間かけて一周する価値は十分にあると感じられる場所であった。

出口を出ると高台寺掌美術館がある。圓徳院や高台寺所蔵品の中でも選りすぐりの品々が厳格な環境管理の下で展示されているのはわかるのだが、躍動を感じる様な展示ではない。展示されているものがそれぞれ孤立しているように見え、別に入館料を払ってまで特別見ようという印象は持てなかった。これ自体は私の印象でしかないが、私以外に観覧者がいなかったこともそういった印象を強くした理由かも知れない。

圓徳院と高台寺掌美術館を拝観した。これから参道を登り、いよいよ高台寺へと向かうことにする。

  《次編に続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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