2020/05/31 - 2020/06/15
108位(同エリア377件中)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
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コロナ禍で外出自粛要請が出された。公共交通機関の利用も如何なものか?という意見があちらこちらから出たこともあり、ここ数十年通勤には〝車〟を利用しなかった私であったが、年金暮らしのハルと車通勤しかしたことないまーさんに〝うつす〟可能性を指摘され、巷でもあったのかなかったのかわからないGWから車通勤を始めた。最初は買い物のための〝寄り道〟程度しかしなかったが、日も延びてきたことから〝許される範囲〟での寄り道次いでの外出をするようになった。エリアは大津市南部、つまり石山寺界隈でもあるのだが、あまり住んでいても出かけないエリアとなる。南郷・田上・大石というエリアは、中学校の学区では分かれてはいるものの行動エリアがさほど広くないことから一角という表現をされることもある。
17:00に仕事を終え回るにしても限りがある。休みを利用して回るにも回り切れなかった場所を再訪する感が強く、同じことを繰り返すだけになるために1本に纏めてみた。写真が明るかったり暗かったりするのはそのせいもある。また休日利用時にはアナログカメラを用いているところもある。纏めてからばらした方が良かったかも…とも思ったりしたが、ここは切り良くひとつの旅行記にする。令和2年5月31日・6月7日・6月15日と3日かけて回りまわった史跡を紹介する。Webや観光案内所を訪ねても詳細がわからない史跡もあるため、今後〝史跡巡り〟をする方に役立てて貰いたいという思いから書いてみた。そんな〝なにげに関西街歩きそのⅣ~大石・田上・南郷エリア編~〟はどのようなものだったのか?
それではいざいざ~!
先ずは大石中にある佐久奈度神社。天智天皇の勅願によって中臣金が祓戸神を祀ったことを創始とする。平安時代には名神大社延喜の制に定められるなど当地方の名社であり、近代には村社を経て県社となっている。戦後GHQに目をつけられることを拒み、社標にある県社の文字はセメントで詰められている。昭和三十九年に下流域に〝天ヶ瀬ダム〟が建設されるに伴い旧境内地が水没予定地となるため、河畔にあったご社殿をやむなく高台に移し現在に至っている。旧境内地とされる場所には大イチョウが植わっており、往時を忍ばせるものとなっている。
忠臣蔵で有名となった大石家はこの地の出と言われており、大石内蔵助良雄の曽祖父である大石良勝が武運長久を祈って奉納した絵馬が残っており現在も見ることができる。
旧境内地は駐車場となっておりそばを流れる瀬田川は、宇治川・淀川と名を変え大阪湾に注いでいる琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。鹿跳橋付近の鹿跳渓谷は洗堰までの穏やかな流れとは一変して渓谷を流れており、雨上がりの時などは、その力を増した流れを間近に見ることができる場所としても知られている。
住宅街の裏手の山中に史跡大石邸跡がある。大石良信の3人の息子の中で次男良勝、三男信云は浅野家の筆頭家老、家老として名を馳せるが、歴史に埋もれている長男大石茂衛門良照は本貫地のここ大石荘にあった大石家本家を守り抜いた武士と言われており、この界隈も城郭化していたと伝えられている。
大石橋手間にある場所は、千代警部補殉職の地碑が建立されていた場所である。戦後の混乱期に闇米の取り締まり中に見つけた輸送トラックに飛びつくも、運転手が逃亡を謀りこの場所で振り落とされた挙句後輪で轢かれて殉職。二階級特進となり警部補となった。当時付近住民から通報が入り新聞沙汰にもなったニュースではあるが、今日訪れた際には碑は見当たらなかった。それらしき場所には砂利が敷かれており、わからなくはないが撤去の理由は不明である。石碑部門の史跡として名前が残っている以上この扱いは寂しい限りである。
八幡神社は地元集落の氏神様の様子を呈し、山神社は資料は勿論当地にも謂れらしきものがなかった場所であった。
浄土寺は浄土宗の寺院。大石家の菩提寺でもあったお寺の裏山には大石良信邸跡が残されている。しかしピンポイントデータがなく足場は悪い。城郭がわかるものならば曲輪の位置などから推測できるようだが、私にはその手の知識はない。足場の悪さに滑ってしまいカメラを破損した。素直に住職さんに場所を尋ねて訪れることをお勧めする。また境内には大石良信・良勝の家族の墓がある。良信供養塔はあるが墓はない。なぜかもわからなかった。
浄土寺から旧道を少し上り、関津峠頂上付近に整地された広場がある。大石義民之碑、江戸時代膳所藩戸田氏のかした通行税が集落民の生活を圧迫していた。住民の苦労を見兼ねた富川村庄屋兄弟が参勤交代の幕府大名行列に直訴。訴えは認められて通行税はなくなったが直訴は死罪の時代。二人はここ関津峠で磔となった。二人を義民として静かに祀り続けた大石村民であったが、大正時代になりその史実を知った滋賀県知事の働きかけにより大石義民の碑が建立された。しかし関津峠は離合も難しい狭い道であり、路肩にひっそりと建つ義民の碑はなかなか知られることはなかったようだ。しかし峠越えの道が整備された際に頂上付近に広場を作り新しい大石義民の碑も建立された。国道422号線バイパスを通るとトンネルで通過してしまう場所であるが、古いナビを使用しているとこの道を指し示すことがあるので是非立ち寄って頂けたらと思う場所である。
大石バイパスを信楽方面にしばらく走ると、信楽川を挟んで富川磨崖仏がある。耳だれ不動さんこと岩谷耳不動尊、正式には阿弥陀三尊不動明王磨崖仏と言うそうだ。阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩の阿弥陀三尊像に加えて不動明王立像が刻まれている。耳だれ不動の名の由来は、阿弥陀如来像の耳付近から流れ出る鉱水が淡紅色をしており、耳だれのように見えることからそう呼ばれるようになったと聞く。幼少の頃耳が悪かった私は若かりし両親に連れられよく訪れた場所であった。ご利益があって耳も治るといつしか立ち寄ることもなく年月が過ぎていた。数十年の年月が過ぎて自らが車を運転して訪れ、山道を歩いて阿弥陀様に会いに来た。参道は雨上がりだと足元に注意が必要だが、今回はその必要はなかった。
20分と言われる道のりを5分で踏破し、阿弥陀如来様と再会する。鎌倉時代に彫られたものだとの認識は当時はなかった。キリを持参し供えてあるものと交換し、家でお守りとする習慣は変わってはいないようだが、供えられているキリの数が減っていたように感じた。やはり年を取るとこの山道もそれなりにキツいものになるのかと思いつつ、幼少期のご利益に感謝してお参りを済ませて下山する。またの機会に再会することを願いながら・・・。
そのまま信楽方面へと進み、集落への連絡道路と化した旧422号線を見ながらバイパスを快走する。矢筈石倉(やはずいしくら)バス停を過ぎてから旧道を進むと春日神社がある。村社であった春日神社の創建は平安時代後期に栗太荘の領主だった二条蔵人助藤原重友が、前領主だった大和春日大社の分霊を勧請したことに始まるようだ。村の鎮守の神様そのものの神社のようだが、鎌倉時代末期に建てられた本殿は全国的にも数少ない二間社入母屋造の遺構であり、二間社入母屋造としては日本最古としても大変貴重なものとして明治35年(1902)に国指定重要文化財に指定されている。知識がないのが残念だが仕方がない。そんな由緒ある神社近くから中学時代の同級生が通学していたことをふと思い出す。
これより進むと信楽に入ってしまうためまた別の機会にすることにし、石山に向かって走ることにする。国道422号線大石東バイパス・関津トンネルを通る道は、昔とは異次元のようにも感じられる程の違いがある。瀬田川令和大橋手前で瀬田川沿いを走るようにすると黒津の街にたどり着く。元々は山岡資広の居城黒津城の城下町であるために、道が入り組んでいるに加えて狭い。そんな道をしばらく走ると住宅地の中に目指す三尾山大日堂がある。
瀬田川に迫り出すような位置にある三尾山は、瀬田川の流れを狭めていたために水害の元凶だと言われていた。奈良時代の僧行基が琵琶湖瀬田川流域の治水には三尾山の開削しかないとするも、開削すれば今度は下流域での氾濫が起こることを危惧し、三尾山にお堂を設けて大日如来を祀ったことに歴史が始まった。その際に今後三尾山を開削すれば祟りがあると伝え、明治期に至るまで三尾山を開削することはなかったらしい。そんな場所であるから居城を設けるには好都合だったために黒津城建設が決まったと言われている。
その後明治時代を迎えて祟りを越えた工事が進められ、ついに近代治水工事の原点となった南郷洗堰が完成する。そして行基が残した大日如来を携えた三尾山は、いつの頃からか常駐者もいなくなり荒廃して行った。現在では近くの住民たちが集まって清掃などを行い、ハイキングロードとして三尾山登山道を紹介している。しかし訪れた時は残念ながらコロナ騒動の影響からか手が入っておらず、目の前に大日如来さまがおられながらも蜘蛛の巣に邪魔されて大日堂訪問とはいかなかった。私の勝手な想像だが雪のない冬場に訪れるのが良いのではと思う。とにかく虫が多いので人の手が入っていようとも虫はいる。ならば虫が活動しない冬場がいいと単純に考えた。考えた者の責任として冬場の再訪を心に秘めて下山し、登山道入口から瀬田川令和大橋を見ながら、この辺りも変わったものだとため息をついたのは私本人だった。
車に戻り狭い急坂を下りて行く。閉館中の南郷水産センター前を通り過ぎ瀬田川洗堰を渡る。右折後すぐの南郷公園駐車場に車を停めて歩いて行く。地元では新旧の区別なく(南郷)洗堰と言うが、新堰は瀬田川洗堰と言うのが正しいようだ。洗堰の放流量も昨今の雨の影響からかかなり多いように感じる。新堰は昭和36(1961)年の完成なので勿論知る訳がないが、完成時には大きな歓声が上がったと推測する。バイパス水路は平成4(1992)年だが、こちらは実家を離れていたため知らないことだ。うちは山手の方なので水害とは縁がない。しかし湖の国の民としてはまわりに理解しては貰えない。旧堰ができた明治38(1905)年には、祟りがあるとされた大日山もダイナマイトによって崩され54mが河川敷に組み込まれた。粗方の瀬田川の流れはこの時に完成しているが、その昔石山寺門前を走る県道大津上野線(現国道422号線)は山門のすぐ前を通り過ぎ、結構カーブしていた記憶がある。護岸工事だったかも知れないが、道路が引き直され現在のような真っ直ぐな道に生まれ変わった。それ以外は昔のままなので治水ではなかったのであろう。特に石山小学校前付近から南郷に至る区間は全く変わってはいない。そうは言っても水害と無縁になったのは、先人達の苦労があってこその結果。改めて思いながら下流へと放流する瀬田川洗堰を眺めていた。
僅かではあるが、現堰の少し上流に旧堰が残っている。人力で放流量を変えていた旧堰の放流量調整には24時間以上費やしたと言うからびっくりである。遺構は立入禁止となっているが毎月第四土曜日には〝洗堰レトロカフェ〟が開催され、立ち入ることができるようになっている。競争率は高いようだが、地元の地の利を生かせて是非一度訪ねてみたいと思う。
洗堰下流には南郷温泉がある。泊まることもないが一応紹介だけしておき車に戻る。都市公園の南郷公園にはプールもある。今年はオープンするかもわからないが、古き良き時代の大津市ならではの施設だと思える。
そんな南郷公園を後にして帰路に着く。ファミリーマート+エフ・マーケット大津南郷店は地元スーパーとファミリーマートがコラボしてできたお店である。次いでセルフ&車検センター南郷SSに立ち寄って洗車をする。水洗い洗車200円は安いが、拭き上げ用のタオルがないのが欠点だ。タバコを買うためにファミリーマートそがわ千町店に立ち寄った。数年ぶりに入店したが、まさかのマイシガレットが置かれていない。仕方がないので他を探すが、こちらのファミマとはどうも相性が昔から悪い。帰り道から少し外れてローソン大津大平一丁目店に立ち寄って無事お目当てのタバコを購入して帰宅する。
距離的にはたかがしれているが、中身の濃い旅のなった大津南部エリアの旅路であった。
《次編に続く》
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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雨は大丈夫であろうか…。
モリーブ ショッピングモール
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佐久奈度神社を再訪する。
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佐久奈度神社謂れ文。
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佐久奈度神社、参道。
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佐久奈度神社、手水舎。
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佐久奈度神社、境内末社の稲荷神社(左)と八幡神社(右)。
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佐久奈度神社拝殿。
佐久奈度神社 寺・神社・教会
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拝殿の奥には本殿が鎮座している。
佐久奈度神社 寺・神社・教会
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本殿裏をのぞき込んでみた。キツッ~…こういう角度は本来NGなのかとも思う。
佐久奈度神社 寺・神社・教会
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佐久奈度の神と書いてあるのか…。
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佐久奈度神社、境内末社の焼鎌神社(左)・敏鎌神社(右)。
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佐久奈度神社、社務所。
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何だろう…。
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ここが〝もうひとつの鹿跳渓谷〟ビューポイントでもある。
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この時期は引っ張ると青葉が目立ち過ぎてしまうが…。
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ズーミングするにしたがって…。
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絶景が見えてきた。
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佐久奈度神社、日章旗が掲げられているのは神社の証。
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佐久奈度神社、移設されたことを確認して駐車場へと戻ることにする。
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駐車場から眺めた鹿跳橋と鹿跳渓谷。
鹿跳渓谷 自然・景勝地
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雨上がりなので流れが急なのが良くわかる。
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人の〝穢れ〟を流した水は、宇治川・淀川を経て大阪湾へと続いて流れて行く。
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佐久奈度神社旧語鎮座地の聳える御神木の大イチョウ。
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とある入口。
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とある山道に繋がるけもの道…。
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史蹟大石氏邸跡へやって来た。
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大石氏は平安時代前期の鎮守府将軍の藤原秀郷の末裔と云われており、小山氏を名乗っていたが栗太郡大石庄の下司職となり大石氏を称した。しかし応仁の乱(1467~77)によって一族が討死し、家名が絶えようとしたところ遠縁の小山朝重が大石豊後守良人と改名して跡を継いだ。この界隈の邸宅跡とは嫡流が絶えたのち本家となった中家の居館跡を指している。
天文・永禄の頃(1532~69)一族は数家の分家を出し繁栄しており大石党と称していたが、織田信長の近江侵攻で嫡流は領地を没収され絶え、かろうじて中家(中村)・西家(淀村)・新家(竜門村)の三家が存続し、その後中家が本家となったようである。
しかし〝大石小山系譜〟によると、大石家新祖は大石弾正衛門朝良と記載されてはいるが、実際どこの家に属していたか不明とされている。朝良の子であり兄の大石平左衛門良定は豊臣方武将の山口宗永が近江大石淀城主だった頃に仕え、秀吉の朝鮮出兵に従軍し功をあげている。その後山口宗永は関ケ原の戦いに於いて大聖寺城主として西軍石田三成に与した。そこへ東軍に与した前田利長率いる2万の軍勢が押し寄せ、善戦したものの500名ほどの手勢では多勢に無勢。大聖寺城は陥落し宗永・修弘父子は自害して果てている。大聖寺城落城の折に良定がどこにいたのかは不明である。しかし山口宗永が斃れた頃前後には大石に戻って浪人・隠居生活をこの地で送った後、慶長13(1608)年に大石庄中村において死去したと伝わっている。その良定が帰住したのがここ大石竜門の〝史蹟大石氏邸跡〟とされている。もっとも良定の跡を継いだ長男大石一定は、真壁藩主浅野長重に仕えたが、大坂夏の陣の天王寺合戦で戦死し、良定の血筋は断絶したと言われている。
しかしこの戦いで著しい戦功をあげた一門の大石良勝は1,500石の浅野家筆頭家老となり、また良勝の子孫も代々筆頭家老の地位を約束されるという永代家老家とされている。良勝の父は大石良信、つまり大石弾正衛門朝良の次男であり良定の弟でもある人物である。良信八幡城主であった関白豊臣秀次の側近の一人であったが、秀次が謀反の疑いをかけられ切腹した際に浪人となり、領地であった近江国大石庄で暮らしたと言われており、居住地は大石東にある浄土宗の寺院浄土寺の境内裏山に残っている。
この良勝坊主になるのを嫌がって出奔し、浪人の後下野国真岡藩主浅野長重に仕え、小姓から戦功をあげて浅野家筆頭家老まで上り詰めた人物である。浅野長重の子浅野長直が2代藩主の折、赤穂池田家騒動が起こり池田家が改易になると播磨赤穂藩主へと国替えとなる。それに伴い家老である良勝も赤穂へと移動し、赤穂藩家老大石家当主となる。2代目当主嫡男良欽が家老職を継ぐが、良欽の嫡男良昭は赤穂藩大阪屋敷詰めの中34歳で早世する。跡継ぎの早世により良欽は良昭の長男であり、自身の孫にあたる良雄を養嗣子に迎え後継ぎとする。良欽の死後19歳で赤穂藩の家老見習いになり大叔父である良重の後見を受ける。延宝7(1679)年21歳のときに正式な筆頭家老となる。主君は浅野氏赤穂藩二代藩主浅野長友の長男長矩。延宝3(1675)年に満7歳で三代目藩主となった長矩は僅か11歳で21歳の筆頭家老大石良雄との関係が始まることとなる。その後は史実の通り時は流れて行く…。
家老としての活躍をする大石良信の次男良勝、三男信云と比べ歴史上目立ってはいないが長男に良照という人物がいることを忘れてはならない。竜門の邸宅跡と比較して曲輪跡など〝城跡〟のような遺構が残されている。もっとも〝城郭跡〟とわかるものが説明できるレベルの物であって、素人が見ても良くはわからないのが事実である。ただ現在にまで〝大石〟と言う地名や苗字が残っているのは、良勝の兄大石茂衛門良照が本貫地の大石家本家を守り続けた成果ではないかと思えてしまうのが私の意見である。 -
ここに〝千代警部補殉職之碑〟が建立されていると書かれている。がそれらしいものは見当たらない…Why?
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砂利が敷き直されているのがその痕跡か…?
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八幡神社に立ち寄った。
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〇〇八幡神社 大正三年四月建立とある。〇〇は神社の〝格〟を刻んでいたのであろう。
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八幡神社、由緒書き。
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八幡神社、神楽殿。
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八幡神社、境内社愛宕神社。
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八幡神社、本殿。
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八幡神社、手水舎。
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山神社、委細不明。
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浄土宗浄土寺にやって来た。
浄土寺 寺・神社・教会
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四十七士に関わるものだろうか…?
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浄土寺、史跡内蔵助(大石良雄)祖先館並びに大石家菩提寺旧跡。
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浄土寺境内、大石家祖先の墓。
(右)大石九右衛門良信室志茂
(中央)五輪塔・・・大石(内蔵助)良雄五代の祖 大石久右衛門良信
ー八幡城主豊臣秀次公に仕えたー
供養塔・・・鎌倉末期の宝篋印塔
(左)大石良勝室
ー浅野家筆頭家老大石内蔵助良勝(良信次男)の室ー -
この辺りは〝シカ〟さんが出没することがあるので気をつけよう…。
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浄土寺裏手の山中に大石良信邸宅跡があるはずなのだが、ピンポイントデータがないため迷ってしまった。雨上がりで足場が悪く滑った瞬間カメラを破損。曲輪らしきものは確認できたが、城を邸宅としていた造りがわからない者には判別不能だ。素直に住職さんに尋ねることをお勧めする。
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浄土寺境内英霊碑。昭和15年の建立とあった。大石村の戦没者が祀られているのであろう。
浄土寺 寺・神社・教会
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改修を済ませた大石義民の碑を訪れる。
大石義民の碑 名所・史跡
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これだと見逃すこともないであろう。
大石義民の碑 名所・史跡
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由来書きまでできており、以前と比べれば前知識がなくとも理解できる物となっていた。
大石義民の碑 名所・史跡
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これが大正時代に作られた本来の大石義民の碑。
大石義民の碑 名所・史跡
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大切にされていることが良くわかる。
大石義民の碑 名所・史跡
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大石村民建之と刻まれていた。
大石義民の碑 名所・史跡
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富川磨崖仏も再訪だ。
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岩屋耳不動尊石碑は確認済み、
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この碑は昭和51(1976)年11月の建立とある。意外と新しいもののようだ。
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冬の時期にはイワナ等〝渓流釣り〟が楽しめる場所となる。勿論今年は早々と閉鎖されていた。
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地蔵さまか?
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享和二(1802)年と銘が打たれているようだがなんだろう?
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富川磨崖仏参道入口には杖が置いてあった。
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意外とキツい…。
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参道途中には地蔵さまらしきものもある。
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ローソクの火の始末は当たり前だと思うのは私だけか?
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二体の地蔵さまと阿弥陀如来坐像。
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なんの祠だろうか?
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富川磨崖仏の御前に到着。
富川磨崖仏 名所・史跡
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数十年ぶりにお不動様にお会いできた。
富川磨崖仏 名所・史跡
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元々この地は奈良時代の僧である義淵(ぎえん)僧正によって開山された〝岩屋不動院明王寺〟跡と言われており、当時の御本尊は石仏の釈迦如来像であったと言われている。その名残からか崩れた宝筐院塔らしきものが至る所に残っている。これがそのひとつでもある。
富川磨崖仏 名所・史跡
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阿弥陀如来様。
富川磨崖仏 名所・史跡
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阿弥陀様の右耳から流れ出る鉱水。これが耳の病に効能があるとされている。
富川磨崖仏 名所・史跡
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下方から見るとよくわかる。
富川磨崖仏 名所・史跡
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右側には観音菩薩立像。
富川磨崖仏 名所・史跡
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勢至如来様。
富川磨崖仏 名所・史跡
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大変見辛いが不動明王さま。
富川磨崖仏 名所・史跡
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阿弥陀三尊像。
富川磨崖仏 名所・史跡
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鎌倉時代の作だとは初めて知った。
富川磨崖仏 名所・史跡
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阿弥陀三尊磨崖仏の前にある小屋。
富川磨崖仏 名所・史跡
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キリは納められてはいたが、子供心にはもっと沢山あった気がする。
富川磨崖仏 名所・史跡
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石碑も磨耗して読めなくなっている。
富川磨崖仏 名所・史跡
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お参りを済ませて下りて行くがやはり急な坂であることには変わりない。
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階段がどれだけ貴重なのかを体感する。
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緩い坂とは書いてあるが期待しないほうが良い。主観的だが通常の参道の方が歩きやすい気がする。
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杖には世話にならず戻って来た。
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春日神社を訪れる。
春日神社 寺・神社・教会
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春日神社、社号標。
春日神社 寺・神社・教会
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春日神社、由緒書き。
春日神社の創建は平安時代末期の久寿元(1154)年、二条蔵人助藤原重友が春日大社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て明治9年(1876)に村社に列しています。
現在の春日神社本殿は文保3年(1319)に建てられたもので、二間社入母屋造・桧皮葺・平入・桁行2間(3.65m)・奥行き2間(2.73m)・正面1向拝付、外壁は真壁造板張りであり随所に施された彫刻も繊細で精巧な蟇股などに特徴が見られます。春日神社本殿は鎌倉時代末期に建てられた全国的にも数少ない二間社入母屋造の遺構で、二間社入母屋造としては日本最古としても大変貴重である事から明治35年(1902)に国指定重要文化財に指定されています。
春日神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、妻入り、桁行2間、張間2間、外壁は柱のみの吹き放し。神門(中門)は切妻、銅板葺き、一間一戸。手水舎は切妻、桟瓦葺き、桁行1間、梁間1間、外壁は柱のみの吹き放し。祭神:建御雷之男神(たけみかづちのみこと)・経津主神(ふつぬしのみこと)・天兒屋根命(あめのこやねのみこと)・天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)。春日神社 寺・神社・教会
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春日神社、拝殿。
春日神社 寺・神社・教会
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春日神社、神楽殿。
春日神社 寺・神社・教会
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春日神社、手水舎。
春日神社 寺・神社・教会
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春日神社境内にて、何か刻まれていたので撮ってみたが読めなかった…。
春日神社 寺・神社・教会
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春日神社、神輿蔵。
春日神社 寺・神社・教会
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春日神社、鳥居は大正9(1920)年10月建立だった。
春日神社 寺・神社・教会
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春日神社前の狭窄路は、今では大石バイパスと集落を結んでいるに過ぎないが、バイパス開通前はこれが酷(国)道422号線であった。
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三尾山大日堂に立ち寄る。入口は地元の駐車場か?。
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奈良時代の僧行基が開山したと言われている。
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地元ではハイキングコースとして紹介されているが、蜘蛛の巣が張ってあったりと好んで行きたいとは思わない。
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三尾山大日堂にて、参道階段。ケッコウキツイ・・・
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三尾山大日堂。宝篋印塔が見えている。
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三尾山大日堂にて、鳥居があった。
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三尾山大日堂にて、祠のようだ。
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三尾山大日堂、登山口の灯籠と地蔵尊。
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三尾山大日堂、登山口入口から見た瀬田川令和大橋。
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そして南郷洗堰を再訪する。
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『逢(あ)のみち湖(こ)のみち山歩(さんぽ)みち』という大津の散策路。瀬田・石山の道(5-7洗堰ルート)では、岩間寺より5.1km、佐久奈度公園まで3.65kmの地点である…ということ。あくまでも歩かなくてはいけない…。
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超広角レンズで撮影した洗堰下流域。良くわからないものになってしまったが…。
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イチオシ
中心は勿論瀬田川令和大橋だ。
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これが有名な(?)南郷温泉街。♪
南郷温泉 二葉屋 宿・ホテル
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イチオシ
開放中の瀬田川洗堰。
瀬田川洗堰 名所・史跡
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瀬田川洗堰は放流中であった。
瀬田川洗堰 名所・史跡
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旧南郷洗堰が残っている。
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中は立入禁止となっていた、当たり前だが。
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言わずと知れた甲賀コミュニティバス朝宮線。朝夕2往復信楽駅から石山寺駅まで走っている。受託は滋賀バスだが、このエリアを走っていることは初めて知った。ちなみに信楽駅から石山寺駅まで300円で乗れちゃいます。
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南郷洗堰・瀬田川洗堰の重要性が書かれていた。
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南郷学区わがまち再発見マップ。こういうものが作られると身近な場所の歴史を知ることが出来て有用だと思う。
南郷公園 公園・植物園
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ファミリーマート+エフ・マーケット大津南郷店。
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セルフ&車検センター南郷SSに立ち寄って、洗車おば。
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久しぶりに訪れたファミリーマートそがわ千町店。しかし私の愛用タバコは置いていなかった。
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仕方がないのでローソン大津大平一丁目店に立ち寄ってタバコを購入する。
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旅行記グループ
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2020/05/21~
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2020/06/15~
信楽
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2020/03/19~
大阪城・京橋
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《2020.April》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXII守山・野洲・竜王前編~笠原の桜~
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《2020.April》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXII守山・野洲・竜王後編~近江富士花緑公園の桜・平...
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野洲・竜王
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《2020.May》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXIII石山編~歴史があり変わり行く街石山~
2020/05/21~
石山寺周辺
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《2020.May・June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXIV石山編~大石・田上・南郷エリア~
2020/05/31~
石山寺周辺
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《2020.June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXV信楽編~タヌキと列車とスカーレット~
2020/06/15~
信楽
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《2020.September》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXVI大津編~大津市街と堅田~
2020/09/08~
大津
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《2020.December》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅡ~北政所ねねの晩年・圓徳院編~
2020/12/08~
東山・祇園・北白川
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《2020.December》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅣ~武家の時代・そして近代へ編~
2020/12/08~
東山・祇園・北白川
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《2020.December》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅢ~時期遅れの紅葉を見に行く高台寺編~
2020/12/08~
東山・祇園・北白川
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Thanks of all kindness 2020,and a Happy New Year 2021,...
2020/12/28~
草津(滋賀)
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旅行記グループ あみんちゅなにげに関西街歩きの旅~令和2(2020)年~
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