石山寺周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
コロナ禍で外出自粛要請が出された。公共交通機関の利用も如何なものか?という意見があちらこちらから出たこともあり、ここ数十年通勤には〝車〟を利用しなかった私であったが、年金暮らしのハルと車通勤しかしたことないまーさんに〝うつす〟可能性を指摘され、巷でもあったのかなかったのかわからないGWから車通勤を始めた。最初は買い物のための〝寄り道〟程度しかしなかったが、日も延びてきたことから〝許される範囲〟での寄り道次いでの外出をするようになった。エリアは大津市南部、つまり石山寺界隈でもあるのだが、あまり住んでいても出かけないエリアとなる。南郷・田上・大石というエリアは、中学校の学区では分かれてはいるものの行動エリアがさほど広くないことから一角という表現をされることもある。<br /><br />17:00に仕事を終え回るにしても限りがある。休みを利用して回るにも回り切れなかった場所を再訪する感が強く、同じことを繰り返すだけになるために1本に纏めてみた。写真が明るかったり暗かったりするのはそのせいもある。また休日利用時にはアナログカメラを用いているところもある。纏めてからばらした方が良かったかも…とも思ったりしたが、ここは切り良くひとつの旅行記にする。令和2年5月31日・6月7日・6月15日と3日かけて回りまわった史跡を紹介する。Webや観光案内所を訪ねても詳細がわからない史跡もあるため、今後〝史跡巡り〟をする方に役立てて貰いたいという思いから書いてみた。そんな〝なにげに関西街歩きそのⅣ~大石・田上・南郷エリア編~〟はどのようなものだったのか?<br /><br />それではいざいざ~!<br /><br />先ずは大石中にある佐久奈度神社。天智天皇の勅願によって中臣金が祓戸神を祀ったことを創始とする。平安時代には名神大社延喜の制に定められるなど当地方の名社であり、近代には村社を経て県社となっている。戦後GHQに目をつけられることを拒み、社標にある県社の文字はセメントで詰められている。昭和三十九年に下流域に〝天ヶ瀬ダム〟が建設されるに伴い旧境内地が水没予定地となるため、河畔にあったご社殿をやむなく高台に移し現在に至っている。旧境内地とされる場所には大イチョウが植わっており、往時を忍ばせるものとなっている。<br /><br />忠臣蔵で有名となった大石家はこの地の出と言われており、大石内蔵助良雄の曽祖父である大石良勝が武運長久を祈って奉納した絵馬が残っており現在も見ることができる。<br /><br />旧境内地は駐車場となっておりそばを流れる瀬田川は、宇治川・淀川と名を変え大阪湾に注いでいる琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。鹿跳橋付近の鹿跳渓谷は洗堰までの穏やかな流れとは一変して渓谷を流れており、雨上がりの時などは、その力を増した流れを間近に見ることができる場所としても知られている。<br /><br />住宅街の裏手の山中に史跡大石邸跡がある。大石良信の3人の息子の中で次男良勝、三男信云は浅野家の筆頭家老、家老として名を馳せるが、歴史に埋もれている長男大石茂衛門良照は本貫地のここ大石荘にあった大石家本家を守り抜いた武士と言われており、この界隈も城郭化していたと伝えられている。<br /><br />大石橋手間にある場所は、千代警部補殉職の地碑が建立されていた場所である。戦後の混乱期に闇米の取り締まり中に見つけた輸送トラックに飛びつくも、運転手が逃亡を謀りこの場所で振り落とされた挙句後輪で轢かれて殉職。二階級特進となり警部補となった。当時付近住民から通報が入り新聞沙汰にもなったニュースではあるが、今日訪れた際には碑は見当たらなかった。それらしき場所には砂利が敷かれており、わからなくはないが撤去の理由は不明である。石碑部門の史跡として名前が残っている以上この扱いは寂しい限りである。<br /><br />八幡神社は地元集落の氏神様の様子を呈し、山神社は資料は勿論当地にも謂れらしきものがなかった場所であった。<br /><br />浄土寺は浄土宗の寺院。大石家の菩提寺でもあったお寺の裏山には大石良信邸跡が残されている。しかしピンポイントデータがなく足場は悪い。城郭がわかるものならば曲輪の位置などから推測できるようだが、私にはその手の知識はない。足場の悪さに滑ってしまいカメラを破損した。素直に住職さんに場所を尋ねて訪れることをお勧めする。また境内には大石良信・良勝の家族の墓がある。良信供養塔はあるが墓はない。なぜかもわからなかった。<br /><br />浄土寺から旧道を少し上り、関津峠頂上付近に整地された広場がある。大石義民之碑、江戸時代膳所藩戸田氏のかした通行税が集落民の生活を圧迫していた。住民の苦労を見兼ねた富川村庄屋兄弟が参勤交代の幕府大名行列に直訴。訴えは認められて通行税はなくなったが直訴は死罪の時代。二人はここ関津峠で磔となった。二人を義民として静かに祀り続けた大石村民であったが、大正時代になりその史実を知った滋賀県知事の働きかけにより大石義民の碑が建立された。しかし関津峠は離合も難しい狭い道であり、路肩にひっそりと建つ義民の碑はなかなか知られることはなかったようだ。しかし峠越えの道が整備された際に頂上付近に広場を作り新しい大石義民の碑も建立された。国道422号線バイパスを通るとトンネルで通過してしまう場所であるが、古いナビを使用しているとこの道を指し示すことがあるので是非立ち寄って頂けたらと思う場所である。<br /><br />大石バイパスを信楽方面にしばらく走ると、信楽川を挟んで富川磨崖仏がある。耳だれ不動さんこと岩谷耳不動尊、正式には阿弥陀三尊不動明王磨崖仏と言うそうだ。阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩の阿弥陀三尊像に加えて不動明王立像が刻まれている。耳だれ不動の名の由来は、阿弥陀如来像の耳付近から流れ出る鉱水が淡紅色をしており、耳だれのように見えることからそう呼ばれるようになったと聞く。幼少の頃耳が悪かった私は若かりし両親に連れられよく訪れた場所であった。ご利益があって耳も治るといつしか立ち寄ることもなく年月が過ぎていた。数十年の年月が過ぎて自らが車を運転して訪れ、山道を歩いて阿弥陀様に会いに来た。参道は雨上がりだと足元に注意が必要だが、今回はその必要はなかった。<br /><br />20分と言われる道のりを5分で踏破し、阿弥陀如来様と再会する。鎌倉時代に彫られたものだとの認識は当時はなかった。キリを持参し供えてあるものと交換し、家でお守りとする習慣は変わってはいないようだが、供えられているキリの数が減っていたように感じた。やはり年を取るとこの山道もそれなりにキツいものになるのかと思いつつ、幼少期のご利益に感謝してお参りを済ませて下山する。またの機会に再会することを願いながら・・・。<br /><br />そのまま信楽方面へと進み、集落への連絡道路と化した旧422号線を見ながらバイパスを快走する。矢筈石倉(やはずいしくら)バス停を過ぎてから旧道を進むと春日神社がある。村社であった春日神社の創建は平安時代後期に栗太荘の領主だった二条蔵人助藤原重友が、前領主だった大和春日大社の分霊を勧請したことに始まるようだ。村の鎮守の神様そのものの神社のようだが、鎌倉時代末期に建てられた本殿は全国的にも数少ない二間社入母屋造の遺構であり、二間社入母屋造としては日本最古としても大変貴重なものとして明治35年(1902)に国指定重要文化財に指定されている。知識がないのが残念だが仕方がない。そんな由緒ある神社近くから中学時代の同級生が通学していたことをふと思い出す。<br /><br />これより進むと信楽に入ってしまうためまた別の機会にすることにし、石山に向かって走ることにする。国道422号線大石東バイパス・関津トンネルを通る道は、昔とは異次元のようにも感じられる程の違いがある。瀬田川令和大橋手前で瀬田川沿いを走るようにすると黒津の街にたどり着く。元々は山岡資広の居城黒津城の城下町であるために、道が入り組んでいるに加えて狭い。そんな道をしばらく走ると住宅地の中に目指す三尾山大日堂がある。<br /><br />瀬田川に迫り出すような位置にある三尾山は、瀬田川の流れを狭めていたために水害の元凶だと言われていた。奈良時代の僧行基が琵琶湖瀬田川流域の治水には三尾山の開削しかないとするも、開削すれば今度は下流域での氾濫が起こることを危惧し、三尾山にお堂を設けて大日如来を祀ったことに歴史が始まった。その際に今後三尾山を開削すれば祟りがあると伝え、明治期に至るまで三尾山を開削することはなかったらしい。そんな場所であるから居城を設けるには好都合だったために黒津城建設が決まったと言われている。<br /><br />その後明治時代を迎えて祟りを越えた工事が進められ、ついに近代治水工事の原点となった南郷洗堰が完成する。そして行基が残した大日如来を携えた三尾山は、いつの頃からか常駐者もいなくなり荒廃して行った。現在では近くの住民たちが集まって清掃などを行い、ハイキングロードとして三尾山登山道を紹介している。しかし訪れた時は残念ながらコロナ騒動の影響からか手が入っておらず、目の前に大日如来さまがおられながらも蜘蛛の巣に邪魔されて大日堂訪問とはいかなかった。私の勝手な想像だが雪のない冬場に訪れるのが良いのではと思う。とにかく虫が多いので人の手が入っていようとも虫はいる。ならば虫が活動しない冬場がいいと単純に考えた。考えた者の責任として冬場の再訪を心に秘めて下山し、登山道入口から瀬田川令和大橋を見ながら、この辺りも変わったものだとため息をついたのは私本人だった。<br /><br />車に戻り狭い急坂を下りて行く。閉館中の南郷水産センター前を通り過ぎ瀬田川洗堰を渡る。右折後すぐの南郷公園駐車場に車を停めて歩いて行く。地元では新旧の区別なく(南郷)洗堰と言うが、新堰は瀬田川洗堰と言うのが正しいようだ。洗堰の放流量も昨今の雨の影響からかかなり多いように感じる。新堰は昭和36(1961)年の完成なので勿論知る訳がないが、完成時には大きな歓声が上がったと推測する。バイパス水路は平成4(1992)年だが、こちらは実家を離れていたため知らないことだ。うちは山手の方なので水害とは縁がない。しかし湖の国の民としてはまわりに理解しては貰えない。旧堰ができた明治38(1905)年には、祟りがあるとされた大日山もダイナマイトによって崩され54mが河川敷に組み込まれた。粗方の瀬田川の流れはこの時に完成しているが、その昔石山寺門前を走る県道大津上野線(現国道422号線)は山門のすぐ前を通り過ぎ、結構カーブしていた記憶がある。護岸工事だったかも知れないが、道路が引き直され現在のような真っ直ぐな道に生まれ変わった。それ以外は昔のままなので治水ではなかったのであろう。特に石山小学校前付近から南郷に至る区間は全く変わってはいない。そうは言っても水害と無縁になったのは、先人達の苦労があってこその結果。改めて思いながら下流へと放流する瀬田川洗堰を眺めていた。<br /><br />僅かではあるが、現堰の少し上流に旧堰が残っている。人力で放流量を変えていた旧堰の放流量調整には24時間以上費やしたと言うからびっくりである。遺構は立入禁止となっているが毎月第四土曜日には〝洗堰レトロカフェ〟が開催され、立ち入ることができるようになっている。競争率は高いようだが、地元の地の利を生かせて是非一度訪ねてみたいと思う。<br /><br />洗堰下流には南郷温泉がある。泊まることもないが一応紹介だけしておき車に戻る。都市公園の南郷公園にはプールもある。今年はオープンするかもわからないが、古き良き時代の大津市ならではの施設だと思える。<br /><br />そんな南郷公園を後にして帰路に着く。ファミリーマート+エフ・マーケット大津南郷店は地元スーパーとファミリーマートがコラボしてできたお店である。次いでセルフ&amp;車検センター南郷SSに立ち寄って洗車をする。水洗い洗車200円は安いが、拭き上げ用のタオルがないのが欠点だ。タバコを買うためにファミリーマートそがわ千町店に立ち寄った。数年ぶりに入店したが、まさかのマイシガレットが置かれていない。仕方がないので他を探すが、こちらのファミマとはどうも相性が昔から悪い。帰り道から少し外れてローソン大津大平一丁目店に立ち寄って無事お目当てのタバコを購入して帰宅する。<br /><br />距離的にはたかがしれているが、中身の濃い旅のなった大津南部エリアの旅路であった。<br /><br />《次編に続く》

《2020.May・June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXIV石山編~大石・田上・南郷エリア~

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2020/05/31 - 2020/06/15

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

この旅行記のスケジュール

2020/05/31

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コロナ禍で外出自粛要請が出された。公共交通機関の利用も如何なものか?という意見があちらこちらから出たこともあり、ここ数十年通勤には〝車〟を利用しなかった私であったが、年金暮らしのハルと車通勤しかしたことないまーさんに〝うつす〟可能性を指摘され、巷でもあったのかなかったのかわからないGWから車通勤を始めた。最初は買い物のための〝寄り道〟程度しかしなかったが、日も延びてきたことから〝許される範囲〟での寄り道次いでの外出をするようになった。エリアは大津市南部、つまり石山寺界隈でもあるのだが、あまり住んでいても出かけないエリアとなる。南郷・田上・大石というエリアは、中学校の学区では分かれてはいるものの行動エリアがさほど広くないことから一角という表現をされることもある。

17:00に仕事を終え回るにしても限りがある。休みを利用して回るにも回り切れなかった場所を再訪する感が強く、同じことを繰り返すだけになるために1本に纏めてみた。写真が明るかったり暗かったりするのはそのせいもある。また休日利用時にはアナログカメラを用いているところもある。纏めてからばらした方が良かったかも…とも思ったりしたが、ここは切り良くひとつの旅行記にする。令和2年5月31日・6月7日・6月15日と3日かけて回りまわった史跡を紹介する。Webや観光案内所を訪ねても詳細がわからない史跡もあるため、今後〝史跡巡り〟をする方に役立てて貰いたいという思いから書いてみた。そんな〝なにげに関西街歩きそのⅣ~大石・田上・南郷エリア編~〟はどのようなものだったのか?

それではいざいざ~!

先ずは大石中にある佐久奈度神社。天智天皇の勅願によって中臣金が祓戸神を祀ったことを創始とする。平安時代には名神大社延喜の制に定められるなど当地方の名社であり、近代には村社を経て県社となっている。戦後GHQに目をつけられることを拒み、社標にある県社の文字はセメントで詰められている。昭和三十九年に下流域に〝天ヶ瀬ダム〟が建設されるに伴い旧境内地が水没予定地となるため、河畔にあったご社殿をやむなく高台に移し現在に至っている。旧境内地とされる場所には大イチョウが植わっており、往時を忍ばせるものとなっている。

忠臣蔵で有名となった大石家はこの地の出と言われており、大石内蔵助良雄の曽祖父である大石良勝が武運長久を祈って奉納した絵馬が残っており現在も見ることができる。

旧境内地は駐車場となっておりそばを流れる瀬田川は、宇治川・淀川と名を変え大阪湾に注いでいる琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。鹿跳橋付近の鹿跳渓谷は洗堰までの穏やかな流れとは一変して渓谷を流れており、雨上がりの時などは、その力を増した流れを間近に見ることができる場所としても知られている。

住宅街の裏手の山中に史跡大石邸跡がある。大石良信の3人の息子の中で次男良勝、三男信云は浅野家の筆頭家老、家老として名を馳せるが、歴史に埋もれている長男大石茂衛門良照は本貫地のここ大石荘にあった大石家本家を守り抜いた武士と言われており、この界隈も城郭化していたと伝えられている。

大石橋手間にある場所は、千代警部補殉職の地碑が建立されていた場所である。戦後の混乱期に闇米の取り締まり中に見つけた輸送トラックに飛びつくも、運転手が逃亡を謀りこの場所で振り落とされた挙句後輪で轢かれて殉職。二階級特進となり警部補となった。当時付近住民から通報が入り新聞沙汰にもなったニュースではあるが、今日訪れた際には碑は見当たらなかった。それらしき場所には砂利が敷かれており、わからなくはないが撤去の理由は不明である。石碑部門の史跡として名前が残っている以上この扱いは寂しい限りである。

八幡神社は地元集落の氏神様の様子を呈し、山神社は資料は勿論当地にも謂れらしきものがなかった場所であった。

浄土寺は浄土宗の寺院。大石家の菩提寺でもあったお寺の裏山には大石良信邸跡が残されている。しかしピンポイントデータがなく足場は悪い。城郭がわかるものならば曲輪の位置などから推測できるようだが、私にはその手の知識はない。足場の悪さに滑ってしまいカメラを破損した。素直に住職さんに場所を尋ねて訪れることをお勧めする。また境内には大石良信・良勝の家族の墓がある。良信供養塔はあるが墓はない。なぜかもわからなかった。

浄土寺から旧道を少し上り、関津峠頂上付近に整地された広場がある。大石義民之碑、江戸時代膳所藩戸田氏のかした通行税が集落民の生活を圧迫していた。住民の苦労を見兼ねた富川村庄屋兄弟が参勤交代の幕府大名行列に直訴。訴えは認められて通行税はなくなったが直訴は死罪の時代。二人はここ関津峠で磔となった。二人を義民として静かに祀り続けた大石村民であったが、大正時代になりその史実を知った滋賀県知事の働きかけにより大石義民の碑が建立された。しかし関津峠は離合も難しい狭い道であり、路肩にひっそりと建つ義民の碑はなかなか知られることはなかったようだ。しかし峠越えの道が整備された際に頂上付近に広場を作り新しい大石義民の碑も建立された。国道422号線バイパスを通るとトンネルで通過してしまう場所であるが、古いナビを使用しているとこの道を指し示すことがあるので是非立ち寄って頂けたらと思う場所である。

大石バイパスを信楽方面にしばらく走ると、信楽川を挟んで富川磨崖仏がある。耳だれ不動さんこと岩谷耳不動尊、正式には阿弥陀三尊不動明王磨崖仏と言うそうだ。阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩の阿弥陀三尊像に加えて不動明王立像が刻まれている。耳だれ不動の名の由来は、阿弥陀如来像の耳付近から流れ出る鉱水が淡紅色をしており、耳だれのように見えることからそう呼ばれるようになったと聞く。幼少の頃耳が悪かった私は若かりし両親に連れられよく訪れた場所であった。ご利益があって耳も治るといつしか立ち寄ることもなく年月が過ぎていた。数十年の年月が過ぎて自らが車を運転して訪れ、山道を歩いて阿弥陀様に会いに来た。参道は雨上がりだと足元に注意が必要だが、今回はその必要はなかった。

20分と言われる道のりを5分で踏破し、阿弥陀如来様と再会する。鎌倉時代に彫られたものだとの認識は当時はなかった。キリを持参し供えてあるものと交換し、家でお守りとする習慣は変わってはいないようだが、供えられているキリの数が減っていたように感じた。やはり年を取るとこの山道もそれなりにキツいものになるのかと思いつつ、幼少期のご利益に感謝してお参りを済ませて下山する。またの機会に再会することを願いながら・・・。

そのまま信楽方面へと進み、集落への連絡道路と化した旧422号線を見ながらバイパスを快走する。矢筈石倉(やはずいしくら)バス停を過ぎてから旧道を進むと春日神社がある。村社であった春日神社の創建は平安時代後期に栗太荘の領主だった二条蔵人助藤原重友が、前領主だった大和春日大社の分霊を勧請したことに始まるようだ。村の鎮守の神様そのものの神社のようだが、鎌倉時代末期に建てられた本殿は全国的にも数少ない二間社入母屋造の遺構であり、二間社入母屋造としては日本最古としても大変貴重なものとして明治35年(1902)に国指定重要文化財に指定されている。知識がないのが残念だが仕方がない。そんな由緒ある神社近くから中学時代の同級生が通学していたことをふと思い出す。

これより進むと信楽に入ってしまうためまた別の機会にすることにし、石山に向かって走ることにする。国道422号線大石東バイパス・関津トンネルを通る道は、昔とは異次元のようにも感じられる程の違いがある。瀬田川令和大橋手前で瀬田川沿いを走るようにすると黒津の街にたどり着く。元々は山岡資広の居城黒津城の城下町であるために、道が入り組んでいるに加えて狭い。そんな道をしばらく走ると住宅地の中に目指す三尾山大日堂がある。

瀬田川に迫り出すような位置にある三尾山は、瀬田川の流れを狭めていたために水害の元凶だと言われていた。奈良時代の僧行基が琵琶湖瀬田川流域の治水には三尾山の開削しかないとするも、開削すれば今度は下流域での氾濫が起こることを危惧し、三尾山にお堂を設けて大日如来を祀ったことに歴史が始まった。その際に今後三尾山を開削すれば祟りがあると伝え、明治期に至るまで三尾山を開削することはなかったらしい。そんな場所であるから居城を設けるには好都合だったために黒津城建設が決まったと言われている。

その後明治時代を迎えて祟りを越えた工事が進められ、ついに近代治水工事の原点となった南郷洗堰が完成する。そして行基が残した大日如来を携えた三尾山は、いつの頃からか常駐者もいなくなり荒廃して行った。現在では近くの住民たちが集まって清掃などを行い、ハイキングロードとして三尾山登山道を紹介している。しかし訪れた時は残念ながらコロナ騒動の影響からか手が入っておらず、目の前に大日如来さまがおられながらも蜘蛛の巣に邪魔されて大日堂訪問とはいかなかった。私の勝手な想像だが雪のない冬場に訪れるのが良いのではと思う。とにかく虫が多いので人の手が入っていようとも虫はいる。ならば虫が活動しない冬場がいいと単純に考えた。考えた者の責任として冬場の再訪を心に秘めて下山し、登山道入口から瀬田川令和大橋を見ながら、この辺りも変わったものだとため息をついたのは私本人だった。

車に戻り狭い急坂を下りて行く。閉館中の南郷水産センター前を通り過ぎ瀬田川洗堰を渡る。右折後すぐの南郷公園駐車場に車を停めて歩いて行く。地元では新旧の区別なく(南郷)洗堰と言うが、新堰は瀬田川洗堰と言うのが正しいようだ。洗堰の放流量も昨今の雨の影響からかかなり多いように感じる。新堰は昭和36(1961)年の完成なので勿論知る訳がないが、完成時には大きな歓声が上がったと推測する。バイパス水路は平成4(1992)年だが、こちらは実家を離れていたため知らないことだ。うちは山手の方なので水害とは縁がない。しかし湖の国の民としてはまわりに理解しては貰えない。旧堰ができた明治38(1905)年には、祟りがあるとされた大日山もダイナマイトによって崩され54mが河川敷に組み込まれた。粗方の瀬田川の流れはこの時に完成しているが、その昔石山寺門前を走る県道大津上野線(現国道422号線)は山門のすぐ前を通り過ぎ、結構カーブしていた記憶がある。護岸工事だったかも知れないが、道路が引き直され現在のような真っ直ぐな道に生まれ変わった。それ以外は昔のままなので治水ではなかったのであろう。特に石山小学校前付近から南郷に至る区間は全く変わってはいない。そうは言っても水害と無縁になったのは、先人達の苦労があってこその結果。改めて思いながら下流へと放流する瀬田川洗堰を眺めていた。

僅かではあるが、現堰の少し上流に旧堰が残っている。人力で放流量を変えていた旧堰の放流量調整には24時間以上費やしたと言うからびっくりである。遺構は立入禁止となっているが毎月第四土曜日には〝洗堰レトロカフェ〟が開催され、立ち入ることができるようになっている。競争率は高いようだが、地元の地の利を生かせて是非一度訪ねてみたいと思う。

洗堰下流には南郷温泉がある。泊まることもないが一応紹介だけしておき車に戻る。都市公園の南郷公園にはプールもある。今年はオープンするかもわからないが、古き良き時代の大津市ならではの施設だと思える。

そんな南郷公園を後にして帰路に着く。ファミリーマート+エフ・マーケット大津南郷店は地元スーパーとファミリーマートがコラボしてできたお店である。次いでセルフ&車検センター南郷SSに立ち寄って洗車をする。水洗い洗車200円は安いが、拭き上げ用のタオルがないのが欠点だ。タバコを買うためにファミリーマートそがわ千町店に立ち寄った。数年ぶりに入店したが、まさかのマイシガレットが置かれていない。仕方がないので他を探すが、こちらのファミマとはどうも相性が昔から悪い。帰り道から少し外れてローソン大津大平一丁目店に立ち寄って無事お目当てのタバコを購入して帰宅する。

距離的にはたかがしれているが、中身の濃い旅のなった大津南部エリアの旅路であった。

《次編に続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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