明智光秀の塚
名所・史跡
3.37
クチコミ・評判
1~20件(全44件中)
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白川の綺麗な流れのすぐ近くです。
- 3.5
- 旅行時期:2023/05(約3年前)
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首塚を守る和菓子屋さんで光秀饅頭をいただきました
- 3.5
- 旅行時期:2023/04(約3年前)
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風情ある白川沿いを知恩院古門から三条通り方面へ歩いていると店舗街餅寅の角に「東梅宮明智光秀墳」の石碑がありそこを右へ行くと... 続きを読む直ぐそこに「明智光秀の塚」はありました。本能寺にいた織田信長を急襲した明智光秀は天王山の戦いで羽柴秀吉に敗れ近江坂本城へ逃れる途中に小栗栖で襲われて自刃し、家来が光秀の首を知恩院の近くまできたが夜が明けた為この地に首を埋めたと伝えられています。その首塚とのことです。歴史のひとページですね。この和菓子屋さん「餅寅」では「光秀饅頭」を販売していました黒糖饅頭を購入控え目の甘さでとても美味しかったですよ。光秀の家紋桔梗の焼印が入った光秀饅頭は印象的でした。 閉じる
投稿日:2023/05/07
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簡素な祠が建っています
- 4.0
- 旅行時期:2022/11(約3年前)
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歴史を感じれる。
- 5.0
- 旅行時期:2022/05(約4年前)
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路地裏にひっそりと
- 3.5
- 旅行時期:2022/04(約4年前)
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行き止まりの道の入り口に…
- 4.0
- 旅行時期:2022/02(約4年前)
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通りを少し入ったところにありました。
- 3.0
- 旅行時期:2021/12(約4年前)
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どうなのかなぁ…
- 3.5
- 旅行時期:2021/12(約4年前)
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ひっそりとしています
- 4.0
- 旅行時期:2021/10(約4年前)
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白川沿いに有る塚です
- 4.0
- 旅行時期:2021/09(約4年前)
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白川散策中に発見
- 4.0
- 旅行時期:2021/03(約5年前)
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本能寺の変の舞台にもなった京都には、明智光秀ゆかりの場所が多く残っています。東山区の白川のほとりにある「明智光秀の塚(首塚... 続きを読む)」もその一つです。本能寺の変後に敗北した光秀は、坂本城に向かう途中、小栗栖の竹やぶで、農民による落ち武者狩りに遭い、重症を負う。その後、光秀は自害し、家臣に首を打たせました。家臣による介錯の後、光秀の首は家臣によって知恩院近くの山麓に埋められた。その後首はすぐに発見され、粟田口に数日間晒された後、近くに埋めて塚が築かれました。昔、塚は蹴上周辺にありましたが、江戸中期頃、明智光秀の子孫によって現在地に移されたそうです。 閉じる
投稿日:2021/10/04
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白川橋近く
- 3.5
- 旅行時期:2021/03(約5年前)
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白川の東側
- 3.0
- 旅行時期:2021/03(約5年前)
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非業の死と評価
- 3.0
- 旅行時期:2021/01(約5年前)
- 0
全国には武将の首塚が無数にある。非業の死を遂げた人物が多いせいか、歴史に残した足跡と比較すれば小ぶりなことが多い。八坂の... 続きを読む塔近くにある木曽義仲の首塚、秀吉の水攻めで落城した高松城の清水宗治の首塚、お家再興を目指した山中鹿助など目立たない場所にあるケースのほか、明日香村の蘇我入鹿首塚のように御霊の要素を感じるものも。嵯峨釈迦堂の豊臣秀頼首塚は後年の発掘でそれらしき骨が見つかったという珍しいケースだ。明智光秀の首塚は、観光地として知られる白川沿いにひっそりとある。近所の人々の信仰を集めているらしく、手入れがされていた。秀吉は光秀の首実検をしなかったと伝えられ、それが光秀生存説につながっている。首塚を見て生存説を連想するのもおかしいが、不思議な雰囲気をまとっている場所だ。 閉じる
投稿日:2021/02/25
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住宅街の中にある首塚
- 3.0
- 旅行時期:2021/01(約5年前)
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お堂と立て札があります。
- 3.5
- 旅行時期:2021/01(約5年前)
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何故ここにあるのか
- 3.0
- 旅行時期:2020/12(約5年前)
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明智光秀の首塚伝承地とされている。
- 5.0
- 旅行時期:2020/12(約5年前)
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天正10(1582)年6月2日本能寺にて主君織田信長を討った明智光秀は、信長の居城安土城に入り城内の金品を奪った後に自らの... 続きを読む居城である坂本城に入り、信長亡き後の後継者としての立場を確立しようと親族や信長の家臣達に対し、自分の配下になるように書状を認めます。しかしその一通が毛利輝元への書状であり、折しも信長の命を受けた羽柴秀吉が毛利方の備中高松城主清水宗治と戦っている最中であったが、光秀からの書状を持った使者が秀吉方に捕まってしまい、信長の死を知ることとなる。清水方は毛利の援軍も来ないこともあり士気は下がっていた。しかし水攻めをした秀吉方も勝つ〝決め手〟を欠いており、双方が膠着状態にあったとされている。そこに舞い込んだ〝信長の死〟の報を清水・毛利方に知られず講和条件を出し、2日間で講和を結びその翌日には兵を畿内へと引き返している。秀吉方の撤退を唖然と見ていた毛利方ではあったが、秀吉撤退の翌日に紀伊の雑賀衆からの情報で本能寺の変を知り地団太を踏むもすでに遅し、秀吉の叔父にあたる杉原家次が上代として残っているだけであった。
俗に言う〝中国大返し〟で機内へと向かう秀吉は、道中旧織田家臣達に対し味方に付くよう書状を出している。秀吉が帰って来ることを光秀が知ったのは、6月9日以降のことであろうとされている。光秀は天下人の如く京で善政を布くよう振舞っていたとされている。信長を倒した勢いと、畿内の武将の多くは〝日和見〟的な傍観者となっており、声を掛ければ味方になるという驕りがあったように感じる。しかし娘婿の細川忠興は、光秀の娘で制裁のガラシャを幽閉し、光秀方につかないことを表明する。それ以外にも高山右近・木村重茲・中川清秀・池田恒興、四国攻めに向かう途中だった丹羽長秀・神戸信孝が加わり総勢3~4万と言われる秀吉軍に対し、光秀軍は直属の家臣の他近江衆と丹波衆そして京都近郊を本拠地とする旧室町幕府衆の13,000の兵より構成されていた。
天正10(1582)年6月13日16:00頃に始まったとされる山崎の戦であったが、大勢はその日中に決し、光秀は勝竜寺城へと後退する。秀吉本隊が長距離移動後と言うこともあり、深追いはさせず、勝竜寺城包囲網を現地合流の武将に任せ自身は淀城に入っている。そんな中軍勢を立て直すため、勝竜寺城を出て挙上坂本を目指した光秀ではあったが、翌14日早朝山科小栗栖(おぐりす・おぐるす)の竹林内を数名の近臣と共に歩いていたところを、落ち武者狩りと言われる土民の〝錆びた槍〟によって深手を負い、最期を悟った光秀はそこで自害したとされている。現在〝明智の藪〟という名称が残る場所が自害した場所と伝わっている。
光秀は介錯の折自身の首を知恩院に納めよと言ったとされている。介錯をした家臣溝尾茂朝は、付近の草むらに一旦首を隠し後に遺言に従おうと考えていたようだ。しかし坂本城に立て籠もった明智秀満と共に城と共に運命を共にしている。その後里人によって見つけられた布に包まれた光秀の首は、神戸信孝の下を経て三井寺滞陣中の秀吉によって首実検をされている。光秀に味方した斎藤利三・阿閉貞大は六条河原で磔に処せられ、光秀の首と共に晒された後粟田口でも見せしめにされたと言われている。その場所こそが現在の光秀の塚内の〝五輪の石塔〟の下だと伝承されている。
胴塚同様伝承地が多いのも確かではあるが、場所的なことや日数のことを考えると最もそれらしく思えるのは不思議である。逆賊だったのか否かは個人の判断に任せるが、没後440年を迎える首塚が近隣住民の方々の手入れを受けて奇麗にされていることは嬉しく思う。光秀を身近に感じる気配が漂っているように感じた光秀の塚であった。 閉じる投稿日:2021/01/06
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場所がちょっと分かり難いですが、明智光秀の首も埋められているとのことです
- 4.0
- 旅行時期:2020/11(約5年前)
- 2
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明智光秀公を弔う塚!!
- 3.0
- 旅行時期:2020/03(約6年前)
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投稿写真
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