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生和神社を後にして野洲市街地へと車を走らした。中山道の街道沿いの街の名残なのかはよくわからないが、新たに作られた街ゆえに道が凄く分かりづらい。国道8号線に出ようとするもJRに遮られ回り道をせざるを得なかったりする。それでもナビの案内に従ってなんとかなった。そのまま国道を通り過ぎて希望ヶ丘へと向かう。目的地は滋賀県立近江富士花緑公園だ。ここは昨年も訪れているが、滋賀県内でも有数の花の名所でもある。しかし公的機関の悪いところ、閉園時間は17:00。16:32の到着ならば30分しか猶予はない。ただ植物園の形式ではあるため、歩けば色々な花にたどり着く。到着後まもなく閉園のアナウンスが流れる状況でゆっくりすることはできなかったが、それなりの花を鑑賞できたような気はした。<br /><br />そして閉園と同時に出発する。この時間から訪れることができる花の名所はないため、少しだけ歴史散策をしようと考える。国道8号線を東進し、大篠原北交差点を過ぎた場所にある場所へと向かう。平家終焉の地、壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の総大将であった平宗盛が鎌倉に送られた後に都に連行される道中この地で源義経配下の武将に、嫡子清宗共々斬首された伝承の地である。武将としての評価は抜きにして、家族思いだった宗盛の最後の言葉は清宗の安否だったと言われている。兄頼朝の命である以上従わざるを得なかった義経だが、せめてもの温情が2人の胴体部を並べて埋めたと言われている〝胴塚〟に込められている。しかし斬首した橘公長はその様子を鎌倉の頼朝に報告。その中に〝胴塚〟に対する讒言めいたものもあり、後に頼朝と義経兄弟の間の確執に繋がったとさえ言われている。<br /><br />ちなみにこの〝胴塚〟から義経元服の池までは1kmも離れてはいない。またこの界隈の国道は旧東山道(後の中山道)にそのまま沿って走っているために距離は往時とそう変わらない。敢えて元服の池を通り越した場所で斬首したという説が多いのは確かであるが、仮設の域は越えるものではないが、この二点間にはなだらかな坂を越えるような道になっている上に、元服の池をはじめとする源義経伝説地は〝竜王町〟、平家終焉の地は〝野洲市(旧野洲町)〟となっており、これは〝(旧)鏡村〟と〝(旧)篠原村〟という行政区分が昭和30(1955)年まで残っていた史実がある。山の〝上・下〟と書く峠程ではないが、当時は全く別の場所であったのかも知れない。<br /><br />義経は勿論自分に縁のある場所であることはわかっていただろう。敢えてというよりもは宿場町とされた〝鏡の宿〟を血で穢したくはないと考えたのではなかろうか。世話になった駅長の〝沢弥傳〟、〝烏帽子屋五郎大夫〟や妻の〝あこやの前〟等が住む場所で咎人と言えど殺めたくはない。また源氏の再興を願って元服した地。例え兄頼朝義経自身が受け入れずとも、その思いに変わりはなく元服をした地は今となっては〝東国〟という思いもあったのではなかろうか?そんな考えが頭を過ぎります。ただ自分の〝祈念の地〟だけであれば、兄に認めて貰うべく斬首を急いだようにも思えてならない。しかし実際には手柄を急いではいなかった。その気持ちの切り替えをこの小さな峠を越して考えたように思えてならない。結果としては義経の〝やさしさ〟が後に平泉での自刃に繋がっていると考えれば、判官贔屓かも知れないがそう思いたくなるのであった。<br /><br />話を戻して平家終焉の地には、平宗盛卿終焉之地と書かれた碑が置かれている。往時は碑の向かいに宗盛の首を洗ったとされる〝首洗い池〟が存在していたと言われている。埋め立てによりその池は無くなり、繋がっていた蛙不鳴池が残っているに過ぎない。宗盛斬首の折余りにも哀れに思った蛙たちがその後鳴かなくなったという伝承が残っている。池の方は何も感ずるものはなかったが、今まで何度となく入口を通過している〝平家終焉の地〟を初めて訪れることができ、改めて歴史の趣を感じたのであった。<br /><br />日が暮れるのと勝負になって来たので先へと急ぐ。僅か700mの距離にある道の駅かがみの里である。ここは夜に何度も訪れている場所ではあるが一息ついては帰路につくだけの場所であった。何か見られるかと考えてはいたが、本日4月7日は火曜日であり〝閉駅日〟であった。それはそれで仕方がないので付近の史跡を見学に行くとする。<br /><br />道の駅の向かいには〝源義経元服の池〟がある。その隣には大きな〝源義経元服の地〟と書かれている看板があることは知っていた。しかし詳細は調べてはいなかったので初訪問となる。鞍馬を早朝に出た牛若丸一行は鏡の宿に入り、駅長〝沢弥傳〟の屋敷である〝白木屋〟に入る。しかし間もなく平家の追手が近付いていることを知り、稚児姿のままでいることが危険だと察する。日が暮れてから白木屋近くで烏帽子を織る〝烏帽子屋五郎大夫〟に源氏の〝左折れの烏帽子〟を注文し受け取ります。その代金として与えたものが〝古年刀(こねんとう)〟と呼ばれるものだと言われている。源氏重代の刀剣だったものを受け取り五郎大夫は喜ぶが、その妻は涙したと言われている。平治の乱で敗れた源義朝の家臣であった鎌田兵衛正清は、知多半島の野間内海荘司で娘婿の長田忠致に謀られ、主君源義朝は討たれ、これまでと悟った正清は自害して果てている。実はこの五郎大夫の妻は鎌田兵衛正清の妹であり、母が義朝の乳母だったことから繋がりがあったことから、義経の母常盤御前が三番目に産んだ男子である牛若に、義朝が守り刀として授ける際の〝使い〟をしていたのが本人だったことから判明したことのようだ。五郎大夫は妻に刀を持たせて白木屋へと向かわせ、主従の名乗りを上げたと言われている。そして古年刀を受け取った牛若は、奇遇な縁を不思議に思うも喜び、すぐさま鏡池で前髪を落とし烏帽子親なしに元服し、数え16歳の牛若は源九郎義経と烏帽子名をつけて鏡神社に参り、源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられている。<br /><br />出来過ぎた話のようにも聞こえるが、義経の元服の池は国道8号線に面してながら、直接日光に当たる様子もなく鬱蒼としている。また史跡という割には非常に小さなものであり、全景をカメラに収めるならば、対向の歩道から撮らなければならないものであった。こんなことからもその謂れが本当のように思えてしまう。ただ訪れる際の注意だが、ほんの一角の場所ゆえに景色をカメラに収めるならば注意が必要だ。すぐそこには大型トラックも飛ばして走る国道がある訳だから。<br /><br />しばらく歩くと鏡神社があった。入口には義経が元服の折烏帽子を掛けたと言われる〝烏帽子掛松〟が残っている。代替わりはしているがやはり歴史漂わせるものである。石段を上がって行くと鳥居があり、すぐ右手には八幡神社が鎮座している。大正時代には陸軍の演習が行われ、大正天皇が行幸された場所っもあるそうだ。境内には拝殿左に祓戸神が祀られている。禊と祓は違うそうだが私には良くはわからない。本殿は歴史があり平安時代には創建されたものであると書かれていたが、現在のものは室町期に再建されたものであるそう。陽が陰ってきたのでお参りを済ませて先へと進む。義経ゆかりのものもあれば後世のものもある。加賀屋跡や本陣跡というのは義経時代ではなけれど江戸期中山道の間宿時代のものゆえまあわかるが、駐在所跡というのは〝江戸時代に駐在所があったのか?〟とマジで考えてしまった。由来をよく読めば明治期に置かれた近代のもの。ただそれならば表示形式を変えて欲しいと思う。そして牛若から義経へと変貌する際に滞在した白木屋跡は歴史はわかるが今では広場の中に石碑が残るのみとなっている。昭和初期までは風情のある茅葺き屋根の建物が残っていたものの昭和30(1955)年の台風で倒壊したとある。勿論800年もの間建物が残る訳はないが、風情のある茅葺き屋根の建物とは何を意味するのであろうか?碑文を読みながら歩いているだけで頭がこんがらがって来たので、脇本陣や他の中山道鏡宿の旅籠跡はまた別の機会に訪れることにし、道の駅に戻ることにした。烏帽子屋五郎大夫の家はその後断絶し民家裏の竹藪となっているそうだが、これもどうやら〝由来書〟が残っているだけのようだ。駆け足ではあったが約800年前の激動の舞台はさらっとではあるが見学できたので満足した。<br /><br />本日休業の道の駅なので用事もない。一服を済ませると帰ることにする。ひたすら国道8号線を走り、野洲川を渡ったところで左折して栗東の市街地へと向かう。立ち寄ったところはヤマト運輸栗東安養寺宅急便センター。いつもと同じく本日撮影したネガフィルムの現像依頼をするために発送する。ヤマト運輸滋賀主管支店は別にあり、4tクラスのトラックで運ぶものと考えていたらまさかの大型トラックが入って来た。センターが面している道路はさほど広くはないが、通行車両を止めてバックで入って来たのにはちょっとびっくりした。<br /><br />荷物も出して帰路に着くがなぜかドラッグストアに立ち寄ってアイスを買う。車だと気の向くまま走れるのである意味便利ではある。そしてやっと自宅に到着。小一日を利用しての令和2年の花見と歴史散策の旅は終わった。<br /><br />   《終わり》

《2020.April》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXII守山・野洲・竜王後編~近江富士花緑公園の桜・平家終焉の地・源義経伝説~

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2020/04/07 - 2020/04/07

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

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生和神社を後にして野洲市街地へと車を走らした。中山道の街道沿いの街の名残なのかはよくわからないが、新たに作られた街ゆえに道が凄く分かりづらい。国道8号線に出ようとするもJRに遮られ回り道をせざるを得なかったりする。それでもナビの案内に従ってなんとかなった。そのまま国道を通り過ぎて希望ヶ丘へと向かう。目的地は滋賀県立近江富士花緑公園だ。ここは昨年も訪れているが、滋賀県内でも有数の花の名所でもある。しかし公的機関の悪いところ、閉園時間は17:00。16:32の到着ならば30分しか猶予はない。ただ植物園の形式ではあるため、歩けば色々な花にたどり着く。到着後まもなく閉園のアナウンスが流れる状況でゆっくりすることはできなかったが、それなりの花を鑑賞できたような気はした。

そして閉園と同時に出発する。この時間から訪れることができる花の名所はないため、少しだけ歴史散策をしようと考える。国道8号線を東進し、大篠原北交差点を過ぎた場所にある場所へと向かう。平家終焉の地、壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の総大将であった平宗盛が鎌倉に送られた後に都に連行される道中この地で源義経配下の武将に、嫡子清宗共々斬首された伝承の地である。武将としての評価は抜きにして、家族思いだった宗盛の最後の言葉は清宗の安否だったと言われている。兄頼朝の命である以上従わざるを得なかった義経だが、せめてもの温情が2人の胴体部を並べて埋めたと言われている〝胴塚〟に込められている。しかし斬首した橘公長はその様子を鎌倉の頼朝に報告。その中に〝胴塚〟に対する讒言めいたものもあり、後に頼朝と義経兄弟の間の確執に繋がったとさえ言われている。

ちなみにこの〝胴塚〟から義経元服の池までは1kmも離れてはいない。またこの界隈の国道は旧東山道(後の中山道)にそのまま沿って走っているために距離は往時とそう変わらない。敢えて元服の池を通り越した場所で斬首したという説が多いのは確かであるが、仮設の域は越えるものではないが、この二点間にはなだらかな坂を越えるような道になっている上に、元服の池をはじめとする源義経伝説地は〝竜王町〟、平家終焉の地は〝野洲市(旧野洲町)〟となっており、これは〝(旧)鏡村〟と〝(旧)篠原村〟という行政区分が昭和30(1955)年まで残っていた史実がある。山の〝上・下〟と書く峠程ではないが、当時は全く別の場所であったのかも知れない。

義経は勿論自分に縁のある場所であることはわかっていただろう。敢えてというよりもは宿場町とされた〝鏡の宿〟を血で穢したくはないと考えたのではなかろうか。世話になった駅長の〝沢弥傳〟、〝烏帽子屋五郎大夫〟や妻の〝あこやの前〟等が住む場所で咎人と言えど殺めたくはない。また源氏の再興を願って元服した地。例え兄頼朝義経自身が受け入れずとも、その思いに変わりはなく元服をした地は今となっては〝東国〟という思いもあったのではなかろうか?そんな考えが頭を過ぎります。ただ自分の〝祈念の地〟だけであれば、兄に認めて貰うべく斬首を急いだようにも思えてならない。しかし実際には手柄を急いではいなかった。その気持ちの切り替えをこの小さな峠を越して考えたように思えてならない。結果としては義経の〝やさしさ〟が後に平泉での自刃に繋がっていると考えれば、判官贔屓かも知れないがそう思いたくなるのであった。

話を戻して平家終焉の地には、平宗盛卿終焉之地と書かれた碑が置かれている。往時は碑の向かいに宗盛の首を洗ったとされる〝首洗い池〟が存在していたと言われている。埋め立てによりその池は無くなり、繋がっていた蛙不鳴池が残っているに過ぎない。宗盛斬首の折余りにも哀れに思った蛙たちがその後鳴かなくなったという伝承が残っている。池の方は何も感ずるものはなかったが、今まで何度となく入口を通過している〝平家終焉の地〟を初めて訪れることができ、改めて歴史の趣を感じたのであった。

日が暮れるのと勝負になって来たので先へと急ぐ。僅か700mの距離にある道の駅かがみの里である。ここは夜に何度も訪れている場所ではあるが一息ついては帰路につくだけの場所であった。何か見られるかと考えてはいたが、本日4月7日は火曜日であり〝閉駅日〟であった。それはそれで仕方がないので付近の史跡を見学に行くとする。

道の駅の向かいには〝源義経元服の池〟がある。その隣には大きな〝源義経元服の地〟と書かれている看板があることは知っていた。しかし詳細は調べてはいなかったので初訪問となる。鞍馬を早朝に出た牛若丸一行は鏡の宿に入り、駅長〝沢弥傳〟の屋敷である〝白木屋〟に入る。しかし間もなく平家の追手が近付いていることを知り、稚児姿のままでいることが危険だと察する。日が暮れてから白木屋近くで烏帽子を織る〝烏帽子屋五郎大夫〟に源氏の〝左折れの烏帽子〟を注文し受け取ります。その代金として与えたものが〝古年刀(こねんとう)〟と呼ばれるものだと言われている。源氏重代の刀剣だったものを受け取り五郎大夫は喜ぶが、その妻は涙したと言われている。平治の乱で敗れた源義朝の家臣であった鎌田兵衛正清は、知多半島の野間内海荘司で娘婿の長田忠致に謀られ、主君源義朝は討たれ、これまでと悟った正清は自害して果てている。実はこの五郎大夫の妻は鎌田兵衛正清の妹であり、母が義朝の乳母だったことから繋がりがあったことから、義経の母常盤御前が三番目に産んだ男子である牛若に、義朝が守り刀として授ける際の〝使い〟をしていたのが本人だったことから判明したことのようだ。五郎大夫は妻に刀を持たせて白木屋へと向かわせ、主従の名乗りを上げたと言われている。そして古年刀を受け取った牛若は、奇遇な縁を不思議に思うも喜び、すぐさま鏡池で前髪を落とし烏帽子親なしに元服し、数え16歳の牛若は源九郎義経と烏帽子名をつけて鏡神社に参り、源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられている。

出来過ぎた話のようにも聞こえるが、義経の元服の池は国道8号線に面してながら、直接日光に当たる様子もなく鬱蒼としている。また史跡という割には非常に小さなものであり、全景をカメラに収めるならば、対向の歩道から撮らなければならないものであった。こんなことからもその謂れが本当のように思えてしまう。ただ訪れる際の注意だが、ほんの一角の場所ゆえに景色をカメラに収めるならば注意が必要だ。すぐそこには大型トラックも飛ばして走る国道がある訳だから。

しばらく歩くと鏡神社があった。入口には義経が元服の折烏帽子を掛けたと言われる〝烏帽子掛松〟が残っている。代替わりはしているがやはり歴史漂わせるものである。石段を上がって行くと鳥居があり、すぐ右手には八幡神社が鎮座している。大正時代には陸軍の演習が行われ、大正天皇が行幸された場所っもあるそうだ。境内には拝殿左に祓戸神が祀られている。禊と祓は違うそうだが私には良くはわからない。本殿は歴史があり平安時代には創建されたものであると書かれていたが、現在のものは室町期に再建されたものであるそう。陽が陰ってきたのでお参りを済ませて先へと進む。義経ゆかりのものもあれば後世のものもある。加賀屋跡や本陣跡というのは義経時代ではなけれど江戸期中山道の間宿時代のものゆえまあわかるが、駐在所跡というのは〝江戸時代に駐在所があったのか?〟とマジで考えてしまった。由来をよく読めば明治期に置かれた近代のもの。ただそれならば表示形式を変えて欲しいと思う。そして牛若から義経へと変貌する際に滞在した白木屋跡は歴史はわかるが今では広場の中に石碑が残るのみとなっている。昭和初期までは風情のある茅葺き屋根の建物が残っていたものの昭和30(1955)年の台風で倒壊したとある。勿論800年もの間建物が残る訳はないが、風情のある茅葺き屋根の建物とは何を意味するのであろうか?碑文を読みながら歩いているだけで頭がこんがらがって来たので、脇本陣や他の中山道鏡宿の旅籠跡はまた別の機会に訪れることにし、道の駅に戻ることにした。烏帽子屋五郎大夫の家はその後断絶し民家裏の竹藪となっているそうだが、これもどうやら〝由来書〟が残っているだけのようだ。駆け足ではあったが約800年前の激動の舞台はさらっとではあるが見学できたので満足した。

本日休業の道の駅なので用事もない。一服を済ませると帰ることにする。ひたすら国道8号線を走り、野洲川を渡ったところで左折して栗東の市街地へと向かう。立ち寄ったところはヤマト運輸栗東安養寺宅急便センター。いつもと同じく本日撮影したネガフィルムの現像依頼をするために発送する。ヤマト運輸滋賀主管支店は別にあり、4tクラスのトラックで運ぶものと考えていたらまさかの大型トラックが入って来た。センターが面している道路はさほど広くはないが、通行車両を止めてバックで入って来たのにはちょっとびっくりした。

荷物も出して帰路に着くがなぜかドラッグストアに立ち寄ってアイスを買う。車だと気の向くまま走れるのである意味便利ではある。そしてやっと自宅に到着。小一日を利用しての令和2年の花見と歴史散策の旅は終わった。

   《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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