2016/06/24 - 2016/06/24
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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
平成28(2016)年6月23日木曜日。沖縄では日本軍司令官の自決により組織的抵抗が終わったとされる実質的な終戦から71年目を迎えます。現在では〝沖縄慰霊の日〟とされている〝沖縄県の祝日〟ではあるものの、終戦直後に制定されたものではなく、1961年6月22日に当時の琉球政府が制定され、その後1965年6月23日に変更された経緯があり、その後昭和47(1972)年5月15日に沖縄県の日本復帰とともに祝日とはならなくなったものの、昭和49(1974)年に改めて〝沖縄県慰霊の日を定める条例〟が制定され現在に至っています。
昨年平成27(2015)年は太平洋戦争終結後70年の節目の年であり、戦没者遺族のひとりとして〝戦後70年沖縄戦全戦没者追悼式〟に参列したく沖縄へとやって来ました。しかし1年でたった1日の慰霊の日が、心ないプロバガンダをふりかざす輩により台なしにされている〝現実〟を目の当たりし、沖縄に於ける慰霊の念の乏しさに正直失望したのが本音です。
昨年も記載しましたが、平和祈念公園へと向かう送迎バスに乗っておられた多分内地から来られたご年配のご婦人が、公園入口での抗議活動を見て凄く寂しそうな表情をされていたことが頭から離れません。こういった場違いな活動が続けられるようでは、正直追悼式典に来る〝価値〟を見いだせないと感じました。それを私の〝小さなまなこ〟で確認すべく今回の沖縄訪問を企画しました。そういうところから計画立案した今回の≪2016.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その壱が始まります。
平成28(2016)年6月24日金曜日
ゲストハウスりゅうかく 09:57(0.0km:0.0km:172.9km:0.0km/h)
奥武島 10:00 (0.4km:0.4km:173.3km:2.0km/h)
トイレ 10:12
具志頭 10:23 (5.6km:6.0km:178.9km:0.0km/h)
慰霊碑 10:52
クラシンウジョー 10:50 (1.1km:7.1km:180.0km:6.2km/h)
11:13
ヌヌマ 11:18(2.1km:9.2km:182.1km:26.3km/h)
チガマ 11:45
富盛の 11:51(3.2km:32.0km:185.3km:32.0km/h)
大獅子 11:57
第89連隊 12:32(10.1km:22.5km:195.4km:17.5km/h)
慰 霊 碑 12:47
かねひで 13:03(8.9km:31.4km:204.3km:34.3km/h)
13:17
イオン 13:27(6.0km:37.4km:210.3km:37.5km/h)
南風原 13:57
西原の塔 14:15(5.0km:42.4km:215.3km:16.7km/h)
14:50
ローソン 15:05(5.0km:47.4km:220.3km:20.0km/h)
15:18
西原郵便局 15:22(0.7km:48.1km:221.0km:11.7km/h)
15:47
サンエー 15:50(0.5km:48.6km:221.5km:10.0km/h)
西原シティ 16:52【お土産:4,361円】
西原郵便局 16:55(0.3km:48.9km:221.8km:6.0km/h)
17:15【ゆうパック:1,510円】
キタムラ 17:57(14.9km:63.8km:236.7km:21.3km/h)
那覇小禄 18:10 【写真代:1,080円(割引後:1,000円)】
奥武山公園 18:20(2.2km:66.0km:238.9km:13.8km/h)
18:47
魂魄 19:23(18.2km:84.2km:257.1km:30.1km/h)
之塔 19:28
みん宿ヤポネシア 19:47(3.4km:87.6km:260.5km:11.0km/h)
【1泊2食付シングル:6,000円(割引後:5,850円)】
小計:12,951円(割引後:12,721円)
累計:52,693円(割引後:51,413円)
旅4日目の朝を迎えました。今日もいい天気です。同宿者がおられたようですが、夜に一回顔を会わしただけでそれっきりです。まぁ一人旅には関係ないのでマイペースに進んで行きます。まずは朝の一服タ~イムをとるため外に出ます。ゲストハウスの看板犬銀ちゃんに挨拶をします。元々内地生まれのワンコですが、ご夫婦の沖縄移住に伴って奥武島へとやってきました。今ではしっかり板についた沖縄犬です。吠える人には吠えるそうですが、私は吠えられたことはありません。なので銀ちゃんは大好きです(照)。ゲストハウスりゅうかくに来る目的のひとつには、この柴犬銀ちゃんに会うことが間違いなくありますから。
そして朝食を頂きます。ベジタリアンではありませんが、フルーツを主体としたお料理は万人受けするものに違いありません。ゆっくりと頂きながら新聞を読み、昨日慰霊の日の模様を目に焼き付けます。
楽しい時間はすぐに過ぎてゆきそろそろ出発の時間になります。入口の看板には〝本日満員〟の襷が掛っていました。ブログに載っていたので…と泊まりに来る方もパラパラと来られていることを聞き、お客さんが増えることは勿論嬉しいものの、行くときは必ず泊めてよね…とちょっとセンチになってしまいました。
そしておじぃとおばぁ、銀ちゃんに挨拶をして、10:00前に出発します。前回同様島の周回道路を走り、奥武島の最突端へとやって来ます。ここから眺める海は大変綺麗で、モバイルカメラの写真ですら素晴らしいものが撮影できます。そしてそのまま奥武島を一周します。一周といっても僅か1.7kmの海岸周径ゆえすぐに終わります。奥武島橋を渡って国道331号線へと入るといよいよ本日の行程ドライビングが始まります。
具志頭で国道331号線から狭い道へと入り、10分程で具志頭城跡に到着します。ここには都道府県慰霊碑の山梨県と高知県が設けられており、これですべての都道府県慰霊碑を回りました。その他忠魂碑や魄粋之碑等旧具志頭村が建立した慰霊碑もあり、全てに参拝を済ませて出発します。せっかくここまで来たので、突端部まで行って戻って来るとふと見覚えのある階段を見つけ登って行くと・・・、銃眼が残る壕と言えばクラシンウジョウガマ。沖縄での地上戦が始まる前に第9師団工兵隊によって構築されたとされていますが、詳細は不明だそうです。しかしクラシンウジョウガマというと昨年平成27(2015)年8月に入壕と管理についてだいぶ揉めた経緯がありました。確か北海道のNPO団体が請け負ったことが新聞にも書かれていましたが、個人客を締め出したことで大ブーイングが出ていました。しかし管理団体が変わることにより、以前独占的に入壕を扱っていた平和ガイド団体が、壕内に扉や出土品を陳列する棚などを設けていたことが発覚したりと、まあお粗末な争いが繰り広げられました。
以前連絡先としていた看板を取り外さない団体、かたや連絡がつかない団体と、こんなレベルの団体がまともに管理業務ができていたのか?これからできるのか?正直理解に苦しみます。公的機関が入壕管理まで行うということがどれだけ手間が掛るのかはわかっているつもりです。しかし入壕管理をしている管理壕でも申込みが多い〝謂れ〟のはっきりしているものとそうでないものの違いによって管理に差が出るということも本末転倒なようにも思います。戦争の是非論を言うまでもありませんが、このクラシンウジョウ壕は保存状況が極めて良く、壕内から港川方面へと向かう銃眼も残っています。謂れがはっきりせず知名度は低いのかも知れませんが、〝負の遺産〟を後世に残す大切な〝戦跡〟のひとつとしての扱いを求めたいものです。
一応拝所への参拝者は自由との旨は記載してありました。不法侵入をするつもりはないので〝壕の内部〟には足を踏み入れていませんので悪しからず…。
そしてクラシンウジョウへと立ち寄って思い出したヌヌマチガマへと向かいます。白梅学徒が従軍した第24師団野戦病院新城分院壕として利用された場所として、平和学習をはじめとした戦争の追体験をするために多くの方が体験をされた場所ですが、こちらもクラシンウジョウ同様管理問題で揉めました。結果も同じようでしたが、抗議の意味を込めてか以前管理をしていたなど団体がガマの手術壕への立入りに対しての連絡先を書いた看板を放置しています。ものは試しに矢印を追ってみると、なんと見るも悲惨な状態になっている壕の入口を見つけます。現在管理をしている団体の窓口もつながらない等言われていることもあり、せっかく整備された八重瀬町戦争遺跡公園が、ただの〝ハコモノ化〟しているように思えてなりません。なおかつ単純比較してもネームバリューのあるヌヌマチガマは、完全に柵で囲まれて不特定の入場者を避けるようになっています。慰霊の日翌日ということもあり、滞在していた30分程度では来訪者もおられません。入壕出来ないのは非常に残念でしたが、そう決まった以上仕方がありません。柵越しにヌヌマチガマへと至る通路をカメラに収め、出発することにします。
そして5分程で富盛の石彫大獅子へとやってきました。前回4月に立ち寄ろうとしたときには工事中で訪れることができませんでした。案内板も設けられているのでそれを頼りに走って行くと…ありました。丘の頂上に駐車場・展望台完備の〝富盛の石彫大獅子〟が。沖縄県で最も歴史があるとされるこの〝富盛の石彫大獅子〟ですが、この辺り一帯も沖縄戦の戦場となった場所でもあります。数百メートルの距離にある八重瀬公園に置かれていた第24師団第一野戦病院、その本部壕がこの辺りまで伸びていたという記録も残っています。野戦病院がある=戦場と言っても過言ではないため、激戦が繰り広げられていたその〝痕跡〟は実はこの〝富盛の石彫大獅子〟にありました。大獅子の胴体にいくつも残る凹み、これが弾痕です。首里の第32軍司令部が南部に撤退をし始めた昭和20(1945)5月下旬、戦闘の最前線は圧倒的多数の米軍に攻め込まれたため徐々に南下を余儀なくされ、中部戦線から南部戦線へと移る過渡期にこの八重瀬近郊が戦場と化しました。
弾痕の残る大獅子があり、その敷地内の展望台から見える風景からは一見すると〝平和〟としか取れない景色が広がっています。しかしやはりこの地でも熾烈な戦いがあったことを〝自然体〟で物語っている石獅子の存在を忘れてはならないと思います。天気も良く青空が広がる夏の沖縄の風景に、少しセンチな気持ちにもなったりしましたがそろそろ次の目的地へと向かうことにします。
八重瀬町富盛から糸満市新垣へと走った跡、ピンポイントデーターがわからないため、地形図とナビの現在地を頼りに進んで行きます。歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地、沖縄戦末期の昭和20(1945)年6月、第24師団隷下の歩兵第89連隊が戦況の悪化とともに南下し、新垣集落の壕に本部壕を構えました。しかし勝負がついている戦況で、補充すらままならない状況ではなにもすることができません。そのうち米軍の一方的な攻撃に見舞われる中で金山均連隊長以下将兵が、この壕にて自決あるいは戦死し、連隊旗も奉焼されて玉砕します。本来ならここで終わりになるのでしょうが、この壕は玉砕後10日間もの間燃えていたとの記録が残っています。それに加え壕の入口はブルドーザーで埋められたりと徹底的な掃討作戦が行われました。一説によると米軍司令官のバクナー中将を殺害したのは、付近に布陣していた第22連隊もしくは第89連隊の兵士だとされ、その報復だったと記述しているものもあるようです。正直規律のある軍人が感情的なもので戦い方を変えるかどうかは疑問に思うところはあるものの、逆にそこまで叩きのめされた壕が今なお残っているということは、負の遺産ではあるものの、やはり史実を伝える生き証人になってくれていると思います。
公的な記録の中でもこの〝歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地〟が西原町や糸満市潮平の浄土寺境内にあると誤記されているものが少なくありません。確かにそれらの場所には第89連隊関係の碑はあるものの、玉砕終焉之地ではないことが事実です。慰霊の日の翌日ということで壕には花束が捧げられていました。しかし人が訪れることは本当に少ない場所だということは一目瞭然です。他とは違う扱いを受けた壕のことをどのように見て感じるかは人それぞれだとは思いますが、ぜひ一度立ち寄って頂きたい場所のように思います。ただ場所は本当にわかり辛いです。
そしてタウンプラザかねひで南風原店とイオンモール南風原店に立ち寄ったあと、西原町へと向かいます。もう2年になりますが石垣へと向かう途中にトランジットで本島宿泊をするために選んだ施設がこの西原町にありました。その翌日に訪れた黎明之塔に始まって戦跡を回るようになったため、当時はただ泊まることだけしかしていませんでした。西原町(当時は村)も日米両軍が熾烈な戦いを繰り広げた戦場であったがため多くの戦跡が残っています。その中で今回は軍民とも慰霊碑が多く建立されている〝西原の塔〟を訪ねることにします。
糸満から20kmほどの距離にある西原の塔ではありますが、やはりここもナビには表示されません。なので住所地まで走ったあと道路の両端をきょろきょろと見渡すと…ありました。大きく〝西原の塔〟と書かれている看板が。ここ西原は第32軍司令部が置かれた首里の北側に位置し、沖縄戦に於いては首里防衛の第二防衛ラインが敷かれることとなり、熾烈な戦いが繰り広げられた場所のひとつでもあります。西原村(当時)住民の47%にあたる5,016名47%が犠牲となり、一家全滅世帯数476という多大な住民被害を出したことは広く知られていることですが、当然戦いに挑んだ将兵の犠牲も甚大なものがあり第62師団歩兵63旅団第11大隊慰霊碑〝観世音の像〟、独立二十八大隊海上挺身隊慰霊碑〝魂魄〟、歩兵89連隊慰霊碑、歩兵89連隊丸地(第一)大隊戦没者慰霊碑等日本軍兵士の慰霊塔や西原村所縁の外地戦没者慰霊碑や西原町地元住民戦没者刻銘碑等、所狭しと並んでいます。
平和の礎をモチーフとした〝西原町地元住民戦没者刻銘碑〟、戦後沖縄の初期時代建立の慰霊碑にちなんだ独立二十八大隊海上挺身隊慰霊碑〝魂魄〟等知識があれば大凡のことがわかるものもあります。また戦中戦後の南米移民にちなんだ〝西原村人会〟の建立されたものもあり、往時に沖縄が置かれていた環境などもわかるように思えます。そして中心となる〝西原の塔〟。犠牲者も多く出した西原村ではあったものの、その後生還した住民の手によって野山で風雨にさらされていた村民や将兵の遺骨をこの地に埋葬し、昭和30(1955)年に〝西原村慰霊塔〟を建立、そして昭和43(1968)年には改修を加え〝西原の塔〟が建立されました。その後西原村に於ける戦没者の遺族台帳作成が進むにあたり、現在では7,068名の遺骨が納められているそうです。そして平成4(1992)年本土復帰20周年を迎え、その記念事業として沖縄戦の教訓を後世に伝えるとともに、反戦平和・恒久平和を全世界に訴えつづけるために〝モニュメント〟を建立し現在に至ります。
南部戦跡の慰霊塔が集まっている場所では、なんとなく〝軍〟なのか〝民〟なのかで慰霊塔の建立が分かれているところが多く見られます。しかしこの西原の塔ではそれらが仲良く収まっている…そんな感じがします。恒久平和を謳うがために軍関係のものと敢えて分けることは、やはり〝仲良くはなれない〟ように見えてしまうところはあるのかも知れません。その点ではすべてブレイクダウンされているこの場所ならではの〝後世へのメッセージ〟が伝わりやすいのかも知れません。
そしてすべての慰霊碑に手を合わせた後、50mほど離れた〝旧西原村役場壕〟へと向かいます。沖縄戦時に行政組織は、戦災を防ぐため多くの市町村で役場壕が掘られたそうです。この西原村でも昭和19(1944)年6月頃に地元から人夫を雇って壕を構築しました。そして戸籍簿、土地台帳などの重要書類や、公金、公印、出納簿、戦時債券などを重さ1トンほどもある壕内の金庫に収納していました。役場の事務仕事は米軍が沖縄に上陸する寸前まで行われており、毎朝出勤すると役場壕から書類を持ち出して事務を行い、夕方再び書類を壕内に運んで保管していました。避難壕ではあったものの、戦後そのまま放置されていたところ、前面の道路工事の際に誤って主壕を壊してしまったことで注目を浴びることになります。実際のところ入口は〝旧西原村役場壕〟の標識があるところではなく、向かって右側のふたつだったこともわかっています。
現在道路に向かって開口しているのは主壕部分であり、落盤の危険性があるとのことで町役場に許可を取らないと中には入れません。しかしその開口部から中を覗いた限りではかなりしっかりしたもののように見えるため、南部に多く残る突貫工事で作られた壕に比べるとまだ時期的にも余裕があったかもとも思います。今回は時間の関係で中には入りませんでしたが、機会があれば是非とも入壕体験をしてみたいと思います。
そんな感じで西原町を回り、ローソンで一服した後お土産購入のため〝サンエー西崎シティ店〟へと向かいます。沖縄のお土産はどこでも購入ができますが、これだけ回数を行ってしまうと〝沖縄銘菓〟を買い切ってしまったところもあります。それゆえ今回は〝沖縄バージョン〟でということを考え、プリッツやぷっちょ・ハイチューなどの種類を探します。そうなるとスーパーがうってつけなのですが、小さなスーパーにはさすがに種類はありません。しかし大手スーパーなら揃うかも…と思って立ち寄ったところがサンエー西崎シティ店になります。期待を裏切られることはありませんでした。ただ調子に乗っていろいろ買い込んでいたら結構な金額となり〝反省(泣)〟。でもさっさと箱詰めして近くの西原郵便局からゆうパックで発送。夕方に差し出しても翌々日午前中には到着するのですごく便利です♪
ゆうパックを差し出したら後〝やらなければならないこと〟は終了~!ってことで宿へ向かおうとすると、まさかの〝写真を受取りに行っていない(汗)〟ことが判明。なので慌てて那覇方面へと車を走らせます。
30分程で到着したのは〝写ルンです〟の現像とCD化をお願いしたカメラのキタムラ那覇小禄店。南風原イオン店ではスピード仕上げできないとのことでこちらに持ち込んだのですがひとつ不安なことが…。感度1600を利用するため購入したのですが、行きのセキュリティーでかばんに入れたまま通してしまいました。昔は400の感度でもX線被りがあったのでもしかすると〝真っ白〟って思っていましたが、全然大丈夫でした。デジタル写真に比べると高感度フィルムの特徴の堅い色調にはなってしまいますが、デジカメの露出アンダー写真とは比較になりません。今後は現地購入現地現像で心配を減らそうっと考えて出発します。
本日の宿は2日目と同じく糸満市大度のみん宿ヤポネシア。小禄からの道のりはやはり沖縄県道7号線かなと勝手に思い込んで、途中奥武山公園の島田叡氏顕彰碑へと立ち寄ります。夕方にしか来ないこの場所ですが、付近のテニスコートや野球場で行われている練習風景は4月と変わりません。明日の状況によっては最終立ち寄り地になるかも知れない場所に相応しいところであったことを改めて心に刻み、ラストランへと挑みます。
奥武山公園から糸満市米須までは一本道のはずですが、横着こいてナビを設定していなかったためどうやら道を間違ってしまいました。まあそんなことはいつものことなので設定をし直して道も選択したはずですが…いつの間にか旧国道331号線を走ることに…。おまけに瀬長島の交差点の曲がるところを間違ってしまい、どこまで行ってUターンしたらいいのか…と不安に思っていたところでやっと気付きました、飛行機の聖地に♪
本当は駐停車禁止なんでしょうが車を停めると轟音が頭の上を通り過ぎます。折しも那覇空港が込んでいる時間帯なのですぐに来るだろうと眺めていると…やってきました。ANA系機材なのはわかりましたが型式までは不明…。でも私の行程ではなかなか組み込まれない場所ゆえ、道を間違ったことが幸いしました。なんとなく満足感がUPした気がして気を取り戻し、また走り出します。
ただ性格的に寄り道しないと済まない性格なので、ふと米須霊域を訪ねようと道を右折します。魂魄之塔は昨日の慰霊の日のものなのか、千羽鶴がたくさん取り付けられていました。花がすぐ撤去になるのはわかっていたのでカメラに収め走り出します。
アクセルを踏もうとしたときにふと見つけたものがありました。沖縄菩提樹苑。先入観で判断することは決して良くないと思いながら〝宗教関係施設〟という思いから立ち寄らなかった場所のひとつになっていました。沖縄の長い一日もさすがに19:30ともなれば薄暗くはなってきます。人通りもないことをいいことに路駐をし、入ってみることにします。
ブッダ(仏陀)所縁の〝聖なる菩提樹〟の分け木が植わっているこのハウス、インド国外へと出されたのは実に2,300年振りだという例外中の例外措置によって沖縄へとやってきたそうです。前回は紀元前3世紀にアショカ王の皇女であったサンガミッタによってブッダガヤからセイロン(スリランカ)に持ち出された記録以外になく、沖縄戦に於ける戦没者の慰霊のためと史上稀に見る熾烈な戦いが行われたこの沖縄という場所の特徴と利用意図を理解されたインドの高僧〝カワハッテェ・シリ・スメダ尊師〟およびインド大菩提協会サラナトセンターの許可を受け、平成17(2005)年に3本の分け木が沖縄へとやってきました。それに加えてブッダの誕生に纏わる〝無憂樹〟と涅槃に纏わる〝沙羅双樹〟をブッダ涅槃の地クシナガラで取得し、更に平成19(2007)年5月には同じ沖縄の海洋博記念公園管理財団から別に無憂樹の分け木の寄贈を受けました。
チベットのダライ・ラマ14世が来沖したときに立ち寄られたこともあり、別名〝ダライ・ラマ14世来沖縄記念館〟とも言われているこの沖縄菩提樹苑ですが、沙羅双樹の木は本土の露地栽培では育たないとも言われており、ある程度成長してから植樹され、慰霊の日限定で開館されているようなことを知りました。あいにく訪れた日は6月24日、それも19:30では見学することは勿論できませんでしたが、炎天下の糸満を歩く〝平和行進〟の休憩所としても解放されておられることがわかりました。ということでは今年はなにをやっても見学をすることはできません。でも来年上手い具合に〝慰霊の日〟をはさむ日取りで来沖することができればそれが見られるという事実…。単純明快なたかティムには時間は掛かりません。一年後にはどのようなパターンで沖縄行きを決行するか…それだけでした♪
その前に今回の旅はもう一泊残っている現実に戻って、糸満で必ず立ち寄るファミリーマート糸満米須店に立ち寄って飲み物を購入し、2泊目と同様大度のみん宿ヤポネシアに到着します。適度に行程を切り上げてゆっくり休もう…と思っていたものの結局19:47の到着…。相変わらずの遅い到着でした(笑)。
実は出発時に今晩4泊目は決まっていませんでした。立ち寄り地点を決めるときにいつものごとく回り切れない数の候補地を打ち出しているため、どこの泊まるのが良いかを考えているうちに余裕がなくなり、結果として泊まったことのある〝馴染み〟の宿泊先は埋まってしまいました。勿論他を探せばあるのですが、できるなら糸満界隈で泊まって、翌朝立ち寄りを入れて返車というルートを崩したくはなかったので、2泊目にこちらにお世話になった際にダメ元で聞いてみたところ「実は部屋は空いているんだけど…」という回答を貰いました。この…が気になるところですが、要はその日に〝民泊〟が入っているとのこと。普段宿泊施設をされておられるところなら、ほぼ間違いなく宿泊受付を断って受け入れるところですが、〝まぁ~知らない人でもないんで…〟ということでOKを貰いました。ただふたつ注意事項があって〝うるさいかも…〟と〝対応がおろそかになるかも…〟ということでしたが、民泊とバッティングすること等まずないので興味本位で、〝じゃあお願いしま~す〟と即決し今日になりました。
はじめての宿だと車を停める場所すらわからず、建物の前から電話を入れ出て来て貰うことがほとんどなのですが、4回6泊目の宿泊客にそのようなことは必要ありません。レンタカーが他に泊まっていることを不思議に思いながら、当たり前のように挨拶をして入って行きます。民泊体験は我が近江国のお隣越前国の高校2年生6名。ちょうど食後のご挨拶タイムに到着してしまったこともあり、食事を頂きながらいつの間にか強制参加の〝お客A〟がかその輪に加わっているようで。ノリで喋ってしまうたかティムさんは、こういう場では自分でも驚く位話を進めてしまいます。学校は福井市のようですが、なぜか出てきた鯖江の話に、「うちの系列のお店があるよ」と言えば驚きを隠せない様子。とは言ってもこっちだってまさか同一商圏の学校と同宿するとは思ってもいなかったし…(笑)。でも修学旅行の行程は結構ハードなようで、明日の7:00にはもう出発するとのこと。朝にはめっぽう弱いたかティムさんは、10:00出発を決めてゆっくりすることにします。その後お姉さま方は〝なんとか体験〟ということで〝ちんすこう作り〟に挑戦。ワイワイガヤガヤ言っているところを断って一枚ブログ用に撮らせてもらいました。顔出しNGということなので後は雰囲気でお楽しみ下さいまし~♪
もう一組子供連れの若いご夫婦の宿泊があったのですが、民泊の受け入れを決める以前の予約だったとのこと。通常ならば私みたいな〝はまり役〟が来ることは絶対にないため、オーナーのこーすけさんも気にはしておられたみたいですが、当日会うこともなくそのまま休まれたみたいです。明日の出発のこともありお姉さま方は23:00に就寝。いつもならそれから行動に入るたかティムさんも、旅行前からのハードスケジュールをこなし続けていたためあえなく撃沈。今回は入口横のシングルルームを使わせて頂いたので外出は部屋からできる手軽さもあったものの、荷物も送ったし残った荷物は片付けるまでもない量に減っていたため、出発時間に合わせて立ち寄り地点を決めようと思ったとたん瞼が急に重くなってきました。天候に恵まれ〝過ぎた〟今回の累積第15回沖縄の旅の最終泊はそんな感じで更けていきましたzzz。そしていよいよ帰る日を迎えます。
【次編に続く】
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝を迎えたゲストハウスりゅうかく。
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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ゲストハウスりゅうかく、外観。
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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自慢のお食事♪
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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本日は満員御礼♪といっても二組ですが(笑)。
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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看板犬の?銀ちゃん?は大のお気に入りです♪
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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おや、あっち向かれちゃいました…。
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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銀ちゃんおいで〜♪
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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こっちこっち〜♪
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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次いつ来るかわからないけど〜!
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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そのときもまた〜♪
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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イチオシ
忘れないで寄ってきてね〜〜♪
ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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お世話になりました。
次いつ来るとは言えないけれどさよならも言わないよ!ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル
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奥武島最先端から見た海。
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奥武島最先端から見た海。
平和祈念堂が見えています。 -
甲斐之塔入口。
具志頭城跡 名所・史跡
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甲斐之塔。
具志頭城跡 名所・史跡
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甲斐之塔、碑文。
具志頭城跡 名所・史跡
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魄粋(はくすい)之塔と慰霊碑。
昭和28(1953)年6月に旧具志頭村によって建立された納骨堂と慰霊碑です。具志頭城跡 名所・史跡
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魄粋(はくすい)之塔では、年配のご夫婦がお参りに来ておられました。
具志頭城跡 名所・史跡
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慰霊塔。
具志頭城跡 名所・史跡
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慰霊塔。
具志頭城跡 名所・史跡
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忠魂碑と慰霊顕彰碑。
具志頭城跡 名所・史跡
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慰霊顕彰碑。
具志頭城跡 名所・史跡
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慰霊顕彰碑、碑文。
碑文
この慰霊塔は過ぐる大戦に於いて、本土防衛の第一線として百万県民が肉親を失うという多大な犠牲を強いられ無念の最後を遂げられた戦没者の鎮魂と恒久平和の願いを込めて、7千余村民の総意で建立されたものである。
その霊域に具志頭村遺族会、創立40周年記念事業として新たに慰霊顕彰碑と戦役者御芳名を建立し平和の礎となられた犠牲者の遺徳を忍び感謝の誠を捧げ末永く後世に語りつげられること祈念申し上げます。
平成5年6月吉日建立 具志頭村遺族会具志頭城跡 名所・史跡
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具志頭戦没者刻銘板。
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具志頭戦没者刻銘板。
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具志頭戦没者刻銘板。
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土佐之塔入口。
具志頭城跡 名所・史跡
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土佐之塔。
具志頭城跡 名所・史跡
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土佐之塔から見た海。
具志頭城跡 名所・史跡
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具志頭城跡にて。
沖縄本島南部の八重瀬町にある具志頭城(ぐしちゃんじょう)は、14世紀の中期頃に英組王統第二代大成王の第三子具志頭按司が築城したものと伝えられ、以来、代々の具志頭按司の居城であった。その規模は、およそ二万五千七百平方メートルもあり、沖縄の古城跡の中でも大きい方で、自然の断崖上に構えられた山城形式にして、連郭式の城である。
この具志川城(ぐしかわじょう)の北方すぐ近くにはこの城の出城としてミドリ城がある。ミドリ城は、玉城城(たまぐすくじょう)などの城主からの攻撃に対しての見張所であったと伝えられる。南側には、高ヤックヮと呼ばれる見張ヤグラの石垣遺構がある。高ヤックヮは、南山城や多々名城などに対する備えとしての見張台であったと言われている。
代々の具志頭按司は、盛んに海外貿易を行った。その貿易港は、城下を流れている白水川の下流に広がる内海であったと伝えられている。
具志頭村教育委員会具志頭城跡 名所・史跡
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具志頭城跡にて。
具志頭城跡 名所・史跡
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具志頭城跡にて。
具志頭城跡 名所・史跡
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具志頭城跡にて。わずかに残る石垣。
具志頭城跡 名所・史跡
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具志頭城跡展望台にて、自撮り中のたかティムさん。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕入口に書かれている管理者表示。連絡がつかないなどの問題も取り沙汰されており、明確な見学手順が不明だと言われていることも多くあるようです。
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クラシンウジョウ壕、通路から見た様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕、通路から見た様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕、通路から見た壕内の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕、通路から見た壕内の様子。
銃眼が見えています。具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕、通路から見た壕内の様子。
銃眼が見えています。具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、通路から見た壕内部の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、拝所のようです。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、通路から見た壕内部の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、通路から見た壕内部の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、通路から見た壕内部の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、通路から見た壕内部の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、壕入口の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、通路かから見た壕内部の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、通路から見た壕内部の様子。
相当な期間活用されていないように思えます。具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、通路かから見た銃眼と壕内部の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、拝所と壕入口の様子。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウ壕にて、拝所。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウにて。拝所のようです。しかし人が訪れた形跡はなく、見学手順の不明瞭さが感じられます。
具志頭城跡 名所・史跡
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クラシンウジョウにつながる階段。
具志頭城跡 名所・史跡
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ヌヌマチガマへとやって来ました。
ヌヌマチガマ 名所・史跡
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白梅学徒看護隊の足跡が書かれています。
ヌヌマチガマ 名所・史跡
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白梅学徒看護隊の足跡めぐり
?ヌヌマチガマ?
県立第二高等女学校 学徒看護隊 軍属従軍の地
第24師団(山部隊)第一野戦病院新城分院の跡
白梅同窓会ヌヌマチガマ 名所・史跡
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?八重瀬町戦争遺跡公園
ヌヌマチガマ・ガラピガマ
世界恒久平和を祈念する?の碑。
しかし目先の争いが起こっていることには、なぜ触れないのでしょうか?
行政独特の?事なかれ主義?が先走っているようにしか見えないんですが・・・。ヌヌマチガマ 名所・史跡
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イチオシ
沖縄県立第二高等女学校の校章。
ヌヌマチガマ 名所・史跡
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?八重瀬町戦争遺跡公園 ヌヌマチガマ・ガラピガマ?の碑。
但し碑文として刻まれていることと現実にはかなりの開きがあるように思えてなりません。ヌヌマチガマ 名所・史跡
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こんな看板を立ててはいますが…。
ヌヌマチガマ 名所・史跡
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現状はこのようになっています…。
現実問題入れません(怒)。ヌヌマチガマ 名所・史跡
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ヌヌマチガマの入口には、八重瀬公園の第24師団第一野戦病院手術壕と同じ?白梅学徒看護隊之壕?の碑が建立されています。
ヌヌマチガマ 名所・史跡
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ヌヌマチガマへと下りていく通路。
ヌヌマチガマ 名所・史跡
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ヌヌマチガマへと下りていく通路、反対方向から。
ヌヌマチガマ 名所・史跡
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ヌヌマチガマの入口。
ヌヌマチガマ 名所・史跡
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駐車場には足洗い場を設けたトイレが整備されています。
ヌヌマチガマ 名所・史跡
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次にやって来たのは?富盛の石彫大獅子?。前回4月は工事中のため入れませんでした。
?富盛の石彫大獅子?
県指定有形民俗文化財
昭和49年12月2日指定
高さ141.2cm 全長175.8cm
この獅子は火除け(火返し)として、尚貞王21年(1689年)に設置されたもので、フィーザン(火山)といわれる八重瀬嶽に向かって蹲踞している。
この獅子が設置される以前は、富盛村では火災が多く、村人はことごとく困ったということが、『球陽』尚貞21年の頃に詳しく記されている。
今日でも、旧暦10月1日(竃のお願)<防災儀礼>の行事にこの獅子を拝んでいる。
戦前までは、旧暦9月9日(タントゥイ棒)のときに、村の青年達はこのジリグスクに集まり棒踊りを演じた。
沖縄各地にある、村落祭祀上の目的でつくられた獅子の中でも、最大最古のもので、民俗資料として貴重なものである。
昭和62年12月10日
沖縄県教育委員会 東風平町教育委員会富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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沖縄で最も古い石獅子と言われていますが…。
富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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歴史がある分だけ…。
富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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イチオシ
史実を見てきました…。
富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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その大獅子の胴体には無数の弾痕が残っていました。
富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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戦時中の富盛の石彫大獅子。
大獅子を弾除けに利用したのは、日本軍ではなく米軍だった・・・。富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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富盛の石彫大獅子付近から眺めた景色、その①。
富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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イチオシ
富盛の石彫大獅子付近から眺めた景色、その②。
富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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富盛の石彫大獅子付近から眺めた景色、その③。
富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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富盛の石彫大獅子付近から眺めた景色、その④。
富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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勢理城(じりぐすく)の碑。
城跡の痕跡もなく建立時期や建立者も不明だそうです。勢理城 名所・史跡
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逆方向から侵入してきたのでわからずじまいでした。沖縄県道7号線との交差点にはこの看板が立っていたため、今来た道を戻ります。
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ここがまさか入口であるとは思えない?第24師団歩兵第89連隊玉砕終焉之地?。
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歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地と歩兵第八十九連隊軍旗奉焼之地之碑。
第八十九連隊の連隊旗奉焼の地は第二十四師団司令部壕であった宇江城のクラガーという説もありますが、第二十二連隊のように米軍に取り囲まれるまでに伝令を出せた時間すらなく、むしろ奉焼を確認して自決玉砕を遂げた可能性が非常に高いことが挙げられます。ゆえに第八十九連隊旗の奉焼はこの地であるように考えます。歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 名所・史跡
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金山均連隊長以下将兵が自決若しくは戦死し玉砕した壕は、米軍の火炎放射によって10日間燃え続け、すべてを焼き尽くしました。そしてその後壕はブルドーザーで埋められて現状となっています。
金山連隊長の自決には諸説あり、①割腹によるもの、②手榴弾によるもの、③爆雷によるもの等が挙げられています。連隊司令部が玉砕を遂げてしまったがため事実はわからないようです…。歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 名所・史跡
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歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地にて、壕内部の様子を柵の隙間からカメラを入れて撮ってみました。
歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 名所・史跡
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歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地にて、壕内部の様子を柵の隙間からカメラを入れて撮ってみました。
歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 名所・史跡
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歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地にて、壕内部の様子を柵の隙間からカメラを入れて撮ってみました。
歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 名所・史跡
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歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地にて、建立の沿革。
歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 名所・史跡
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歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地にて、建立の沿革。
歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 名所・史跡
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途中から舗装されています。与座航空自衛隊基地のアンテナが目印だとは良く言ったものです。
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西原の塔へとやってきました。
西原の塔 名所・史跡
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西原の塔、沿革。
西原の塔 名所・史跡
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西原の塔は、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変等の戦場で亡くなられた英霊を祀るために、昭和16年頃、当初、「忠魂碑」と称して建立されている。その忠魂碑は、去る沖縄戦で破壊された。
沖縄戦で最も激戦地の一つとなった本町では、住民の約47%が戦禍で散ったが、生き残った村民が協力して村内各地の野や山で風雨にさらされていた兵士や村民の遺骨を収集し、現在地に納骨した。
1955(昭和30)年、沖縄協会の援助と村民の奉仕作業及び寄付金運動によって忠魂碑の全面改修を行い、「西原村慰霊塔」と称した。その時、収骨、合祀した英霊は1,700余柱であった。
さらに、1968(昭和43)年5月、再び改修を加えて「西原の塔」と改称した。合祀柱数は2,000余柱となった。
その後、沖縄戦において西原村内で戦没した県外出身者、村外本県出身者の確認もでき、英霊の柱数も増えた。併せて村内出身者の軍人、軍属、一般戦闘協力者、村出身外地戦没者も含む英霊の遺族台帳の整備を進めるとともに、1976(昭和54)年以降現在まで7,068柱である。
1985(昭和60)年には、「西原町非核反戦平和都市」を内外に高らかに宣言し、より積極的な各種平和事業を推進している。
1992(平成4)年、本土復帰20周年を迎え、その記念事業として、沖縄戦の教訓を後世に伝えるとともに、反戦平和、恒久平和、を全世界に訴えつづけるために、「モニュメント」を建立した。
なお、毎年10月、この西原の塔において、恒久平和の祈りと諸英霊の冥福を祈り、戦没者追悼式が行われている。 -
西原町(当時、村)は第32軍司令部のあった首里城の東方に位置し、海岸線は東方に中城村の和宇慶、津波、南は与那原に通じ、東北から北部は上原及呉屋北方高地、そして更に坂田、棚原、西方に幸地から運玉森、首里の弁ヶ岳へと、正面は中城湾三方は高地で首里攻防の激戦地となる。当時の村長小波津正光は村民の北部への疎開を実行に移し、第一陣を3月24日頃、北部へ誘導、。更に村にとってかえし、第二陣を纏めたところで、米軍の4月1日上陸、僅か2日で島を中断される状況下、北部移動は不可能となり、ある家族隣人等は自家壕に潜み、戦線の近迫と共に多数の村民は砲空爆の中、本島南部へ移動、遂に多数の犠牲者を出す。
昭和20年5月4日の軍の総攻撃は右翼隊として第24師団(山3430)、第89連隊 山3476部隊(金山均大佐指揮、後糸満市新垣後原にて爆雷による自刃、司令部ごと玉砕)の第三大隊(和田博大尉)は小那覇、嘉手苅、内間での激戦で多数の戦没者が出る。又、第一大隊(丸地軍治大尉)は呉屋北方高地(現琉球大学)に奇襲攻撃をかけ占領すると米軍の猛反撃で大隊長以下殆ど全滅。第24師団(山3430)第22連隊(吉田勝中佐、山3474部隊)の第11隊は、夜半、幸地まで前進するも、白曉には米軍戦車隊の猛攻で破滅される。総攻撃前には上原から幸地に到る攻防戦は熾烈を極め、特に幸地附近は一週間にわたり、取ったり 取られたりの激戦が続き、当時他府県でも毎日戦闘状況が報道された所である。
西原村の住民をまきこんだこれ等の戦闘は、一家全滅世帯数476家族に及び、激戦地の小那覇で65家族、我謝で68家族、翁長で71家族におよんでいる。西原村における戦没者は実に5,016柱に達し、村民の46.9パーセントの命が失われた。 -
観世音の像(石独立歩兵第11大隊慰霊碑)。
観世音の像 名所・史跡
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観世音の像(石独立歩兵第11大隊慰霊碑)、後面。
観世音の像 名所・史跡
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観世音の像(石独立歩兵第11大隊慰霊碑)、沿革。
観世音の像 名所・史跡
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独立二十八大隊慰霊碑(魂魄(こんぱく))。
魂魄 (独立二十八大隊) 名所・史跡
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歩兵第89連隊は昭和14年満州に創設され爾来兵員補充地を北海道とし 第5隷下第24師団に所属 軍旗の下に団結東部ソ満国境守備の重責を全うす とき移り日本が国運を賭して戦った大東亜戦争末期 戦局の逼迫に伴ひ 精鋭第3大隊の中部太平洋派遣をはじめ、多くの戦友を各地戦域に送る しかれども戦局の推移好転せず
昭和19年7月連隊主力も沖縄防衛の重任を担うかくして日本が総力をあげた戦は 善戦苦闘の甲斐むなしく連隊将兵の多くはふる里を遠く離れた異境の地に屍を埋め 悠久大義の下祖国に殉ず沖縄守備に任じた連隊主力は昭和20年3月より連合軍侵攻を遊撃 80余白の永きに亘り凄絶な死闘を重ね連隊長金山大佐以下2千6百余名が玉砕終焉を迎へた 特に此の西原一帯は沖縄戦最大の激戦となった5月4日の第32軍総攻撃に連隊は総力をあげて勇戦敢闘数昼夜に亘りたるも 遂に矢弾つき将兵の多くはこの戦闘に斃るまた此の戦闘に協力せる多くの現地村民も祖国の為に運命を共にせり
これら国難に殉じた尊い犠牲が 日本の平和と子孫の安寧を築く礎石となった崇高な歴史を永く後世に伝へ顕彰する為 西原町の協力を得て戦友と遺族の集いである八九会が此の稗を建てる歩兵第八十九連隊顯彰碑 名所・史跡
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第八十九連隊顕彰碑、沿革。
歩兵第八十九連隊顯彰碑 名所・史跡
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歩兵第八十九連隊丸地大隊(第一大隊)戦没者慰霊碑。
歩兵第89連隊丸地大隊戦没者慰霊碑 名所・史跡
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個人の慰霊碑の中には在ブラジル西原村村人会によるものもありました。
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在ペルーやアルゼンチンの西原村人会が建立した慰霊碑。
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外地戦没者之碑。
西原村出身で外地で戦没された将兵を祀っています。外地戦没者之碑 名所・史跡
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1992(平成4)年、本土復帰20周年を迎え、その記念事業として、沖縄戦の教訓を後世に伝えるとともに、反戦平和、恒久平和、を全世界に訴えつづけるために、「モニュメント」を建立した。
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西原の塔。
西原町(当時、村)は第32軍司令部のあった首里城の東方に位置し、海岸線は東方に中城村の和宇慶、津波、南は与那原に通じ、東北から北部は上原及呉屋北方高地、そして更に坂田、棚原、西方に幸地から運玉森、首里の弁ヶ岳へと、正面は中城湾三方は高地で首里攻防の激戦地となる。当時の村長小波津正光は村民の北部への疎開を実行に移し、第一陣を3月24日頃、北部へ誘導、。更に村にとってかえし、第二陣を纏めたところで、米軍の4月1日上陸、僅か2日で島を中断される状況下、北部移動は不可能となり、ある家族隣人等は自家壕に潜み、戦線の近迫と共に多数の村民は砲空爆の中、本島南部へ移動、遂に多数の犠牲者を出す。
昭和20年5月4日の軍の総攻撃は右翼隊として第24師団(山3430)、第89連隊 山3476部隊(金山均大佐指揮、後糸満市新垣後原にて爆雷による自刃、司令部ごと玉砕)の第三大隊(和田博大尉)は小那覇、嘉手苅、内間での激戦で多数の戦没者が出る。又、第一大隊(丸地軍治大尉)は呉屋北方高地(現琉球大学)に奇襲攻撃をかけ占領すると米軍の猛反撃で大隊長以下殆ど全滅。第24師団(山3430)第22連隊(吉田勝中佐、山3474部隊)の第11隊は、夜半、幸地まで前進するも、白曉には米軍戦車隊の猛攻で破滅される。総攻撃前には上原から幸地に到る攻防戦は熾烈を極め、特に幸地附近は一週間にわたり、取ったり 取られたりの激戦が続き、当時他府県でも毎日戦闘状況が報道された所である。
西原村の住民をまきこんだこれ等の戦闘は、一家全滅世帯数476家族に及び、激戦地の小那覇で65家族、我謝で68家族、翁長で71家族におよんでいる。西原村における戦没者は実に5,016柱に達し、村民の46.9パーセントの命が失われた。西原の塔 名所・史跡
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西原町戦没者刻銘平和祈願碑。
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こちらには西原町の字別戦没者が刻まれています。
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西原の塔から歩いてすぐの場所にある?西原村役場壕跡地?にやってきました。
旧西原村役場壕跡 名所・史跡
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旧西原村役場壕沿革。
旧西原村役場壕跡 名所・史跡
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西原村役場壕、内部の模様。
旧西原村役場壕跡 名所・史跡
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西原村役場壕、主壕開口部。
旧西原村役場壕跡 名所・史跡
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西原村役場壕、主壕内部の様子。
旧西原村役場壕跡 名所・史跡
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西原村役場壕、主壕内部の様子。
結構しっかりとしたつくりです。旧西原村役場壕跡 名所・史跡
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西原村役場壕、入口。
旧西原村役場壕跡 名所・史跡
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西原村役場壕、入口。
旧西原村役場壕跡 名所・史跡
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沖縄を拠点とする大手スーパー?サンエー西原シティ店?へとやってきました。
サンエー (西原シティ店) スーパー・コンビニ・量販店
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スーパーですが写真のように…。
サンエー (西原シティ店) スーパー・コンビニ・量販店
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お土産にする商品が山積みなので便利です。しかも安いものもあるし♪
サンエー (西原シティ店) スーパー・コンビニ・量販店
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そして荷造りをして西原郵便局から?ゆうパック?で差し出します。
西原郵便局 名所・史跡
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次に奥武山公園へと向かい、島田叡氏顕彰碑を参ります。
《建立の詞》
一九四五年一月、島田叡(あきら)氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第二十七代縣知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
以来、五ヶ月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で 疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(四六九柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年四十三歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながったと思われます。一九四六年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園への夢を育み、大きな励みになりました。
一九七二年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事跡を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
二〇一五年六月吉日 島田叡氏事跡顕彰期成会 会長 嘉数昇明
《碑の構想》
祈り(合掌)、命(命どぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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島田叡氏顕彰碑。
《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまでも全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは生涯、それを実行した」(三高野球部球友の回想)
「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部) 東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大三年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還を目指した。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。
「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に...島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和三九年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。
「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の一年後輩で、野球部で二年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を祈念につけてもらえないだろうか」島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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島田叡氏顕彰碑。
詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
ふるさとの
いや果てみんと
摩文仁岳の
巌に立ちし
島守のかみ
(詠人 仲宗根政善)
南へ(摩文仁・沖縄県)
このグラウンド
このユーカリプタス
みな目の底に
心の中に収めて
島田叡は沖縄に赴いた
一九四五年六月下浣
摩文仁岳近くで
かれもこれも砕け散った
(詠人 竹中郁)島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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島田叡氏顕彰碑。
《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(『史記』李斯列伝より)
"断じて行えば鬼神もこれを避く"
...意を決して敢然と行えば、鬼神でさえもその勢いを避ける...
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」
(沖縄赴任に携行した愛蔵書)
「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや、誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか...という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地になることの必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)
「極限の沖縄戦のなかで『生きろ!』」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ...。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。
「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地。
沖縄 兵庫友愛スポーツセンター跡地 名所・史跡
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道を間違えて瀬長島に来てしまいました。おや?飛行機が那覇空港を離陸しましたね。
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だんだん近づいてきます。
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うぉぉぉぉぉ〜!
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みるみるうちに大きくなり…。
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頭上を通り過ぎて…。
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イチオシ
誰かの沖縄の思い出と一緒に故郷へと向かうんでしょうね…。
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魂魄之塔にやってきました。
魂魄之塔 名所・史跡
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すぐ近くには沖縄菩提樹苑があります。
沖縄菩提樹苑 名所・史跡
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沖縄菩提樹苑、標識。
沖縄菩提樹苑 名所・史跡
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沖縄菩提樹苑、外観。
沖縄菩提樹苑 名所・史跡
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到着すればすぐ夕食です♪
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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イチオシ
民泊中のお姉さま方。ちんすこう製作中♪
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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お姉様方の力作?ちんすこう?♪
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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お姉様方の力作?ちんすこう?♪
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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この旅行記へのコメント (1)
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- 琉球熱さん 2016/07/18 12:30:44
- ガラビ壕とヌヌマチガマ
- たかティムさん、こんにちは
ガラビ壕とヌヌマチガマの変貌ぶりにビックリです。
私が訪問したのは2007年9月。ガラビ壕は入口が封鎖され、ヌヌマチガマは往時のまま(?)縦穴の入口をぽっかりと空けただけの状態でした。「白梅学徒隊」の標柱はありましたが、それ以外の看板・表示物は一切なしで、教育委員会で入手した地図を片手に来るまで2回も前を通り過ぎてしまったほど、「見せる」要素ゼロでした。
階段まで設置されているとは…
そして道路向かいの病院(手術室)壕。当時は草に覆われ、さらにフェンスで厳重に囲いが作られて、「一切の立ち入りを遠慮してほしい」「中にはまだ遺骨や遺品が残っている」旨の文言が書かれていたものです。
ガラビ壕含め、多くの戦跡が徐々に「見せる」要素を持ち始めているようですね。ただ、こうやって実態をレポートしていただけると、それが良いことなのか否か、即座に判断がつきかねます。
個人的には、「良いこと」と捉えたいのですが、たかティムさんのレポートを見る限り、どうも中途半端な印象を免れない。
本当に難しい問題です。
ただ、間違いなく言えるのは、「再訪すべし」と言うことです。
私がある種の執念でむきになって戦跡を周ったのは2006〜2008年。
そろそろ10年が経とうとしています。各地の変容をこの目で確かめるのも意味がありそうです。
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