2016/05/26 - 2016/05/26
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ken-kenさん
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今回のベルリン旅行の目的はなんと言っても近郊のポツダムにあるサンスーシ宮殿です。
高校時代に世界史の授業でバロック建築の代表がベルサイユ宮殿でロココ建築の代表はサンスーシ宮殿と教わりました。
その時からサンスーシ宮殿に行ってみたいと思い続けていました。
今回念願かなって初めてこの宮殿を訪れることができました。
ところが行ってみるとこの場所は宮殿がいくつも立ち並び、さながら宮殿コンプレックスとでもいう様相を呈していました。
新宮殿、オランジュリー、新迎賓館、中国茶館などが広大な敷地に点在しています。
おかげで思ったより時間がとられてしまいましたが・・・・
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-
朝、6時過ぎのSバーンに乗り、ポツダムに向かいます。
7時前にはポツダム駅に着きました。
ポツダムもなかなかステキな街です。
写真はまるで宮殿のようですが、ポツダム映画博物館です。 -
ポツダムの町中にあったオブジェ。
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ポツダムにも凱旋門があります。
ベルリンと凱旋門と同じ名前でブランデンブルク門といいます。 -
その前の通りはベルリンのウンター・デン・リンデンというより、パリのシャンゼリゼ通りとでも言いたいようなこじゃれた雰囲気があります。
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カフェのオープンテラスに座ればベルリンにいながらちょっとしたパリ気分を味わえるのでしょうか?
ただ人がいないこともあって、なんだか映画のオープンセットにも見えます(笑)。 -
凱旋門を過ぎると広大な庭園が広がります。
もともとは宮殿の敷地だったものです。
ちょっと歩くと最初に見える宮殿がサンスーシ宮殿です。 -
この宮殿はプロイセン王国の国王フリードリヒ2世が1745年から1747年の2年間で建築した宮殿だそうです。
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朝は時々ジョギングする人がいるくらいで、非常に静かでいいのですが、噴水が上がっていないのが寂しいです。
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これが噴水が上がった時の景色です。
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ヴェルサイユに比べると噴水の数ははるかに少ないです。
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フリードリヒ2世はフリードリヒ大王と呼ばれ、二流国だったプロシアをヨーロッパの強国にした人です。
またオーストリアの女帝マリア・テレジアの永遠の宿敵だった人です。 -
こうして見ると宮殿はやたら大きく見えますが、実際は一番上の部分だけで、あとは単なる階段で脇には葡萄棚とイチジクの木が植えられています。
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アップにして見るとよく判ります。
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フリードリヒ大王はマリア・テレジア即位の時に神聖ローマ皇帝の地位をマリア・テレジアの夫が継ぐことに因縁をつけオーストリア継承戦争を起こします。
この時にオーストリアのシュレジェン地方を獲得します。 -
階段上から見た庭園。
マリア・テレジアもおとなしくしていません。
外交手段に訴え天敵だったフランスと手を組みます。(このときフランスとの和平の証にフランスの王太子(のちのルイ十六世)と結婚させられたのが娘のマリー・アントワネットです) -
この温室のような場所にイチジクが植えられています。
フランスとオーストリアが手を組む背景にはルイ十五世の愛妾ポンパドゥール夫人の存在がありました。
フリードリヒ大王が陰で自分の悪口を言っってるということを知ったポンパドゥール夫人が怒ってオーストリアと手を組んだというのですから、口は禍の元ですね。
また公の場でしばしば女性を蔑視する発言をしており、ロシアの女帝エリザヴェータもフリードリヒを嫌っていたそうです。
後年マリー・アントワネットがフランス王妃になった時ののフリードリヒの台詞。
「これでヨーロッパは三匹のめんどり(オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエカテリーナ二世、フランスのマリー・アントワネット)に支配されてしまう」 -
フランスのポンパドゥール夫人、オーストリアのマリア・テレジア、そしてロシアのエリザヴェータ女帝が同盟を促進し反プロイセン包囲網を結成しました。
三人の女性にちなみ「三枚のペチコート作戦」と言われているそうです。
そして再び戦争がはじまります。
七年間に渡って戦われたので七年戦争と言われています -
上部から撮った宮殿。
これでわかる通り、宮殿というほどの大きさはありません。
実際はヴェルサイユでいうトリアノンのようなもので宮殿というよりは離宮に近いものだったようです。
フランス、オーストリア、ロシアの強国三国が同盟してはたまりません。
途端にプロイセンは窮地に陥ります。
一時はベルリンがロシア軍に包囲され、フリードリヒは自殺すら考える事態になってしまいます。 -
内部は十時にならないと入れません。(実際には十時には団体客が入るので一番でチケットをとっても十時十五分の回でした)
ところがフリードリヒも悪運が強いというか、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死し、後を継いだピョートル三世(女帝エカテリーナと呼ばれたエカテリーナ二世の夫)がフリードリヒを心酔していたため、兵を即引き上げプロイセンと和平を結びました。 -
ロココ様式だけあって豪華でありながら重苦しくなくセンスの良さを感じます。
後にロシア女帝エカテリーナ二世の野心に応じ、オーストリア、ロシア、プロイセンの第一次ポーランド分割に参加して西プロイセンを獲得しましたが、このことで後世に悪名を残してしまいました。 -
戦争に明け暮れたり、ポーランド分割に加わったり、非道な専制君主のイメージの強いフリードリヒですが、実際は音楽と芸術を愛し、ヴォルテールとの交友も知られるインテリでした。
また軍隊では階級の上下関係なく接し、ベルリン市民の人気は大変なものだったそうです。 -
これがフリードリヒの肖像画です。
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庭園でフルートを吹くフリードリヒ大王のそっくりさん。
フリードリヒはフルートが大好きで、演奏の腕も相当なものだったとか。 -
このように部屋のつくりはそれほど豪華というわけではありません。
接待や謁見の場所ではなく、くつろぎの場所だったのであまりゴテゴテした装飾は避けたのでしょう。 -
その中で比較的豪華なのがこのコンサート室。
この部屋で気の合った仲間と音楽を楽しんだのでしょう。 -
豪華ではありますが、それほど広くはありません。
こういう離宮を見ると、本当に親しい仲間とだけで過ごしたいと言う幻想を抱いている王や王妃の孤独が身に染みます。(マリー・アントワネットが好んだプティ・トリアノンとかルードウィッヒ二世が建てたリンダーホフ宮殿とか・・・) -
フリードリヒも若い時期に専横的な父に逆らい、王になりたくなくて、親しい仲間(というか家来)と一緒に逃亡を企てたことがありました。
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フリードリヒ大王の父親フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は兵隊王とあだ名されるほど武骨で軍人気質な人間でした。
そのため母親に似て芸術を好むフリードリヒに不満を抱き、幼いころから杖で叩く、食事を与えない、本を取り上げるなど虐待に近い教育でフリードリヒを育てました。 -
こんな虐待に耐えていたフリードリヒでしたがイギリスの王女との縁談をきっかけに近衛騎兵ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ少尉とカイト少尉に手引きを頼み、脱走を図ります。
が、この計画は事前に漏れていて、フリードリヒは簡単につかまってしまいます。
手引きをしたカイト少尉はイギリスに逃亡しますがハンス・ヘルマン・フォン・カッテは捕らえられ見せしめにフリードリヒの目の前で斬首されてしまいます。
フリードリヒはこの処刑を正視出来ず失神してしまいます。
自分のために愛する友人を殺してしまった・・・・
この事件がフリードリヒの心にどんな闇を与えたのか・・・・ -
一見、豪華に見える装飾ですが、天井を見上げると金色のスタッコ装飾で作られた蜘蛛の巣がめぐらされています。
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アップにすると黄金の蜘蛛が・・・
フリードリヒの遊び心というより、心の闇の一端が見えたような気がします。 -
音楽室のチェンバロ
ハンス・ヘルマン・フォン・カッテがフリードリヒにあてた遺言状。
「私は国王陛下をお恨み申し上げません。殿下は今まで通り陛下を敬い、一刻も早く和解されますように」
この脱走劇の後、フリードリヒは全てを諦めたかのように父王の意向に従い、オーストリア元帥の娘エリザベート・クリスティーネと結婚し、軍国専制君主の道を進みます。 -
大理石の間の天井
藤本ひとみさんの小説「ハプスブルクの宝剣」ではプロイセンとオーストリアの戦争の真っ最中主人公のオーストリア武官のもとにプロイセン人がスパイをしたいとやって来ます。
このプロイセン人、フリードリヒに何か恨みを抱いている様子。
名前をカイトと言います。
その時は何気なく読み飛ばしていたのですが、フリードリヒのことを知って、「ああ、あのカイトか!」と合点が行きました。 -
大理石の間の彫像
エリザベート・クリスティーネとの結婚は夫婦としての生活もなく、当然子供も出来ませんでした。
七年戦争の後、数年ぶりに会った妻に言ったフリードリヒの言葉は「マダムは少しお太りになったようだ」の一言だけ・・・・ -
ヴォルテールの間
哲学者のヴォルテールがここに滞在するときはこの部屋に泊まったみたいです。 -
ヴォルテールの間のベッド
ヴォルテールもこのベッドで休んだのかもしれません。 -
戦争に明け暮れ領土を広げプロイセンを一流国にしたてあげたフリードリヒでしたが、晩年は親しい人々に次々と先立たれ、人嫌いになり、孤独を好むようになりました。
ただ愛犬たちだけが心の安らぎだったようです。
最後の願いは「自分の遺体は愛犬のそばに埋葬してほしい」・・・
サンスーシ宮殿は豪華でも広大でもないちっぽけで質素と言っていい離宮です。
でもフリードリヒにとってどんな豪華な宮殿より心安らげる場所だったのでしょう。
サンスーシはフランス語で「憂いがない」という意味です。 -
ただこんな小さな離宮では貴族への謁見も各国の大使への接待も出来ません。
サンスーシ宮が私的な安らぎの場所なら、公的な施設を作らねばなりません。
そのために作られたのが新宮殿です。
1769年に完成しました。
サンスーシと新宮殿はおよそ1.5kmの道で結ばれています。 -
えっちらおっちら歩きやっと新宮殿の姿が見えてきました。
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新宮殿の全貌。
ヴェルサイユ宮殿やシェーンブルン宮殿よりは小さめですが、ヴュルツブルクのレジデンツやミュンヘンのニンフェンブルク宮殿よりは大きいという印象です。 -
本来新宮殿のほうがメインのはずなのに、それに付帯している離宮のサンスーシのほうが有名になってしまったという稀有な例ですね。
あちこち工事していたのが残念です。 -
裏に回って(というかこっちが表かもしれませんが)びっくり!
ああ!この場所ってスタンリー・キュープリックの映画「バリー・リンドン」の18世紀半ばのベルリンのロケ地として使われた場所じゃないですか!
こんな場所どこにあるんだろうと思っていたので、突然目の前に現れた景色に感動しました。
右が新宮殿、左はポツダム大学のようです。 -
ポツダム大学
双子の建物が並んで配置され非常に美しいものだと思います。 -
これもポツダム大学です。
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こちら側が新宮殿への入り口です。
かなり派手に工事をしています。 -
入るとすぐにこの部屋が迎えてくれます。
装飾部屋と呼ばれています。
なぜかドイツのバロック期の建物ってこういう洞窟を模したような部屋がありますね。 -
フィレンツェのピッティ宮殿のグロッタを真似ているのでしょうか?
グロテスクすぎてあまり好みではありません。 -
一階にある大理石画廊。
バロック様式と言っても比較的軽やかな感じがします。 -
規模はヴェルサイユの鏡の間ほどではありません。
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この部屋が一番バロックの趣がします。
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ですが天井には画ではなく金のスタッコ装飾が施されているだけなので重苦しい感じはしません。
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その隣の部屋。
これなんかバロックというよりロココじゃないだろうかと思ってしまいます。 -
バロック様式と言ってもヴェルサイユに比べれば比較的質素です。
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絵画の飾られた部屋。
いわゆる宮殿というものを見たかったら、サンスーシを見学するよりもこちらのほうがいいかもしれません。 -
この部屋もバロックというよりロココの趣です。
ヴェルサイユのように全部がキンキラキンという感じではなく、装飾いっぱいで派手だけど重苦しい部屋とやや装飾を控えた簡素な部屋を並べています。
そういうところ、とにかくフリードリヒは趣味がいいと思います。 -
こちらもどちらかというと簡素な部屋。
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そして二階にある大広間です。
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こちらも豪華でありながらあまりゴテゴテしていません。
この新宮殿、サンスーシ宮からだと1.5km、ポツダム駅からだと3km近く離れているのでなかなか訪れる人はいませんが、一見の価値があると思います。(ただSバーンのポツダム・サンスーシ・パーク駅からだと十分もかかりません) -
広大な庭にはいろいろな離宮が点在しています。
離宮というよりは東屋という趣の中国茶館。 -
この建物もフリードリヒ大王が建てました。
1757年に建立。 -
中国風の人物が支えている金の柱。
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中国の男性のほうは当時のプロイセンにも来たかもしれないのでイメージできたのでしょうが、女性のほうはイメージできなかったらしく普通のドレス姿に中国風の笠をかぶっているだけです。
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中に入ると壁は普通にロココ様式ですが、天井画が少し中国風です。
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このように中国の方が描かれています。
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でも女性は西洋人。
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バロック時代だと中国の陶器を部屋中に飾りゴテゴテさせて中国の趣を出すのですが、これはほんとすっきりして素晴らしいと思います。
このセンスの良さ!
やはりフリードリヒ大王は並みじゃない! -
自分はかなり好きな装飾です。
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そしてサンスーシ宮の隣に建つ新迎賓館。
バックには取り壊されずに残った風車が見えます。 -
こちらは当時オランジュリーだった建物を1775年に改装して新迎賓館として使っています。
多分新宮殿だけでは手狭になってしまったのでしょう。
新迎賓館の装飾部屋。
やはりフリードリヒ大王らしく天井画は最低限しか描かれていません。 -
鏡の間とでも呼びたい部屋。
天井は金のスタッコ装飾しか施されていません。 -
この部屋もいいですね。
多分あまり気の置けない要人たちの接待に使われたのではないかと思われます。 -
そして時代が下がってフリードリヒ・ヴィルヘルム四世によって1860年に建てられたオランジュリー。
まるでフィレンツェのピッティ宮殿のような建物です。
ただ工事中なのが残念です。 -
したがって庭園は段差のあるイタリア式庭園です。
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上から見下ろすとこんな感じです。
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内部を覆うのはピッティ宮またはウフィツィ宮を思い出させる赤い壁紙。
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そうでない部屋もイタリア趣味を感じます。
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ピッティ宮殿を思い出させたのは、ペルジーノの「ピエタ」の模写があったからかもしれません。
ピッティ宮に本物が飾られています。 -
そしてこの宮殿の目玉「ラファエロの間」
ラファエロの名作の模写が所狭しと飾られています。
ヴァチカンの「キリストの変容」「アテネの学堂」「聖体の論議」
ピッティ宮の「小椅子の聖母」に「大公の聖母」
ルーブルの「美しき庭師の聖母」
ドレスデンの「システィーナの聖母」etc.
模写ばかりで貧乏くさいとおっしゃる人もいるでしょうが、ラファエロファンとしては気持ちはよく判ります。
ラファエロって結構玉石混合なところがありますから、つまんないものを一枚手に入れるより、そのお金で腕のいい画家に沢山名作の模写を描いてもらってその中に埋もれたい・・・・
模写とはいえ、これだけの名作群に囲まれるとかなりの高揚感がありました。
この後新宮殿を見学し(実は新宮殿は最後に行きました)、その後最寄りのポツダム・サンスーシ・パーク駅まで歩き、Sバーンでベルリンに戻りました。
予定では午前中に切り上げるつもりでしたが、広大過ぎて新宮殿を出たのは2時過ぎになってしまいました。
思った以上に時間がかかり、広大な敷地をかなり歩き回ったので疲れてしまいました。(サンスーシ宮と新宮殿の間を二往復しました)
この後、ベルリンの絵画館に行きたかったので、ツェーツィリエンホフ宮殿はパスしました。
(現代史にあまり興味がないので最初から行く気はありませんでしたが・・・・)
さらにはベルリン市内にあるシャルロッテンブルク宮殿のほうは絶対に行くつもりでいたのですが、不便で地下鉄駅からかなり歩くということが災いして断念せざるを得ませんでした。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- jijidarumaさん 2017/05/28 02:14:25
- ポツダムの旅行記も良かったです。
- ken-kenさん、
こんばんは。
ポツダムはベルリンよりも好きな町です。
2011年05月かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅で、ポツダムに3泊し、ポツダムやベルリンを観光しました。
ポツダムだけでも見ることが多くありますね。私の時は新宮殿が改装中で、写真のようには見られなかったですので、大変興味深く拝見できました。
思い起こしてみると、泊まったホテルで2つの話を得て、そちらが嬉しかったような(笑)。
≪ヴィルヘルム4世の一目ぼれ (Die Liebe auf den ersten Blick)≫
旅行時期 2011/05/13 - 2011/05/27 (2014/02/20投稿)
≪バウムクーヘン発祥の地とプロイセン王ヴィルヘルム4世≫
旅行時期 2011/05/13 - 2011/05/27 (2014/02/25投稿)
そして、文中の王太子フリードリヒ逃亡未遂事件から、古城街道から南に25kmと近いSinsheimジンスハイムに残る話を思い出しました。
・・・
ジンスハイムのある木組みの家がプロイセンの王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世で、哲人王とも呼ばれ、功績を称えてFriedrich der Grosseフリードリヒ大王とドイツ人には尊称されている)が旅行先で宿泊した家だったと云う話がある。
この家を舞台にした以下のエピソードが残っている。
<王太子フリードリヒの逃亡未遂事件>Wiki
1730年8月5日の朝、シュタインスフルトの小さな農家「レルヒェンネスト」から抜け出し、当時18歳であった、生来芸術家気質であり、音楽を好んだプロイセンの王太子フリードリヒは、“兵隊王”とあだ名される無骨者で芸術を解さなかった父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世に反抗し、堅苦しいプロイセン宮廷からの逃亡を企てたと云われている。
きっかけはイギリス王女との結婚話と云うのだが、ともあれ、この逃亡は直ちに露見し、王太子はKuestrinキュストリン要塞(現在のポーランド領)に拘留されてしまったと云う。
≪黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅?ブドウ畑に囲まれた丘の上に立つBurg Steinsbergシュタインスベルク城≫
旅行時期 2015/07/14 - 2015/07/28 (2015/09/21投稿)
以上、歴史にご興味あれば、ご参考までに。
jijidaruma
- ken-kenさん からの返信 2017/05/28 08:55:27
- RE: ポツダムの旅行記も良かったです。
- jijidarumaさん、おはようございます。
投票とコメントをありがとうございます。
> ポツダムはベルリンよりも好きな町です。
> 2011年05月かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅で、ポツダムに3泊し、ポツダムやベルリンを観光しました。
今回初めてポツダムに行きましたが、自分も大好きな街になりました。
> ポツダムだけでも見ることが多くありますね。私の時は新宮殿が改装中で、写真のようには見られなかったですので、大変興味深く拝見できました。
新宮殿までは結構距離があっていい運動になりました。
> 思い起こしてみると、泊まったホテルで2つの話を得て、そちらが嬉しかったような(笑)。
>
> ≪ヴィルヘルム4世の一目ぼれ (Die Liebe auf den ersten Blick)≫
> 旅行時期 2011/05/13 - 2011/05/27 (2014/02/20投稿)
>
> ≪バウムクーヘン発祥の地とプロイセン王ヴィルヘルム4世≫
> 旅行時期 2011/05/13 - 2011/05/27 (2014/02/25投稿)
>
> そして、文中の王太子フリードリヒ逃亡未遂事件から、古城街道から南に25kmと近いSinsheimジンスハイムに残る話を思い出しました。
>
> ・・・
>
> ジンスハイムのある木組みの家がプロイセンの王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世で、哲人王とも呼ばれ、功績を称えてFriedrich der Grosseフリードリヒ大王とドイツ人には尊称されている)が旅行先で宿泊した家だったと云う話がある。
> この家を舞台にした以下のエピソードが残っている。
>
> <王太子フリードリヒの逃亡未遂事件>Wiki
>
> 1730年8月5日の朝、シュタインスフルトの小さな農家「レルヒェンネスト」から抜け出し、当時18歳であった、生来芸術家気質であり、音楽を好んだプロイセンの王太子フリードリヒは、“兵隊王”とあだ名される無骨者で芸術を解さなかった父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世に反抗し、堅苦しいプロイセン宮廷からの逃亡を企てたと云われている。
> きっかけはイギリス王女との結婚話と云うのだが、ともあれ、この逃亡は直ちに露見し、王太子はKuestrinキュストリン要塞(現在のポーランド領)に拘留されてしまったと云う。
>
> ≪黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅?ブドウ畑に囲まれた丘の上に立つBurg Steinsbergシュタインスベルク城≫
> 旅行時期 2015/07/14 - 2015/07/28 (2015/09/21投稿)
>
> 以上、歴史にご興味あれば、ご参考までに。
ありがとうございます。
拝見させていただきます。
またよろしくお願いいたします。
ken-ken
> jijidaruma
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