2014/08/31 - 2014/08/31
34位(同エリア216件中)
ベームさん
8/31(日)、12日目。
今日はベルリンの近郊ポツダムへ行きます。
ポツダム。ブランデンブルク州の州都、人口16万人。言わずと知れたポツダム会議/会談が開かれた町です。
ベルリンよりずっと古い町で993年文献に現れ1345年都市権を取得しています。プロイセン王国が成立するとホーエンツォレルン家の宮殿、離宮が置かれるなど王国の主要都市として発展しました。
ブランデンブルク大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの時、ルイ14世によりフランスを追われたユグノーを数多く受け入れ、ユグノーが持つ手工業の高い技術がさらに町の発展に寄与しました。
先の大戦では大きな被害をこうむっています。
写真はツェツィーリエンホーフ宮殿、ポツダム会議が行われた部屋の円卓。
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ツォーロギッシャー・ガルテン駅。
9:17発のREでポツダムへ。 -
ポツダムHbf。
ツォー駅から18分です。 -
ポツダム駅前。
バスでサンスーシ宮殿へ。ポツダムの見どころは駅から離れておりバスで移動しないといけません。 -
バス停シュロス・サンスーシ。
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バス停のそばにある風車。
「歴史の風車」といわれ、持ち主に対し撤去を求めたフリードリヒ大王が訴訟に敗れるといったことがあったらしい。啓蒙君主らしいはなしです。 -
サンスーシ宮殿。
フランス語で憂い(スーシ)の無い(サン)宮殿、無憂宮。
プロイセン王国国王フリードリヒ2世により建設、1747年完成。
夏の離宮として建てられたが実質王は殆どここを居城とし執務を取ったそうです。 -
フリードリヒ2世:通常フリードリヒ大王と言われます。1712~1786年。
第3代プロイセン国王、在位1740~1786年。
在位中の前半はオーストリア継承戦争(神聖ローマ帝国皇帝位とハプスブルク家の相続を巡ってのマリア・テレジアとの戦い)、7年戦争など戦争に明け暮れる。
卓越した軍事的、政治的才能と啓蒙主義による国民の生活安定、産業、学問・芸術の興隆により小国プロイセンを大国に引き上げた。それで大王といわれました。
まあ見方はいろいろあります。その領土欲により多くの国民/兵士が戦いで亡くなっているのですから。
自らフルートをよくし、バッハとの出会い、ヴォルテールとの親交は良く知られています。 -
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長さ100m、部屋数12、平屋建てと小規模な宮殿です。
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ギリシャ神殿風の円柱。
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頭上からバロックの音楽が流れてきてなんとなく優雅な気分になります。
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ヴェルサイユ宮殿のような過度のけばけばしさはありません。
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王自身建築にかかわったそうですが、随所にそのセンスの良さが窺えます。
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天井。
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床にも繊細で華麗な装飾。
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ヴォルテールの部屋とされています。
啓蒙主義者のヴォルテールから大王は大いに得るところが有ったのでしょう、大王はフランス文化に心酔していたといわれます。大王がドイツ語で話しかけるのは馭者だけだったとか。 -
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ここを潜って庭園側にでます。
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サンスーシ宮殿。
庭園側。 -
フランス語でSANS SOUCI/サン スーシの文字があります。
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庭園。
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階段の両側はブドウ畑です。
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ブドウ畑。
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葡萄の実がついています。。
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庭園の隅にある大王と愛犬の墓。
大王は自分が死んだら愛犬のそばに葬ってほしいといい残したそうです。えっこれが!と思うほど小さな墓でした。
ジャガイモが供えられています。大王は寒冷地でも育つジャガイモの栽培を奨励し、それが今のドイツのジャガイモ王国に繋がっています。 -
ツェツィーリエンホーフ宮殿に行くにはサンスーシ宮殿からバスに乗り、ライターヴェーグ・イェーガーアレーでまた別のバスに乗り換えです。
面倒ですね。日本なら循環バスくらいのアイデアはすぐ浮かぶでしょうに。 -
ツェツィーリエンホーフ宮殿に到着。
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宮殿正面。
イギリスの田舎紳士の邸といった感じ。 -
1917年、ヴィルヘルム2世が皇太子夫妻の為に建てた比較的新しい宮殿です。
ツェツィーリエンホーフ宮殿の名は皇太子妃ツェツィーリアからとったそうです。
第1次世界大戦末期、敗色濃いさなか、国家存亡の危機の時によくもまあこんなことをしたものです。 -
1918年ドイツは第1次世界大戦に敗れてヴィルヘルム2世は亡命していますから皇太子夫妻はあまりここに住まなかったのでは。
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門を潜ると円形の花壇があり、真ん中にあかい星の形をした植え込みがあります。
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花壇の赤い星にはいわれがあります。
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花壇の植え込みの説明書き。
「青いハイドランジアに縁取りされた赤いゼラニウムの星は、1945年7月、会議の為やって来るビッグスリーのために植えられた」。
当時ポツダムはソビエトの管理下にあったので、赤い星は勿論共産主義国家ソビエトのシンボルを表しているのでしょう。
ビッグスリー:イギリス・チャーチル、アメリカ・トルーマン、ソビエト・スターリン。 -
ポツダム会議が行われた部屋です。
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ポツダム会議。
1945年7月17日~8月2日のあいだベルリン郊外ポツダムで開かれた、米、英、ソによる第2次世界大戦の戦後処理を決めた会議。
米:トルーマン。英:チャーチル、7/27よりアトリー。ソ:スターリン。
フランスは蚊帳の外だったのですね。ド・ゴールさん悔しかっただろうな。
27日には日本にたいし無条件降伏を勧告したポツダム宣言が出されました。 -
円卓会議。
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米、英、ソの国旗。
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その室内。
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宮殿内。
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各国代表の控室とか調度品。
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パネル写真が沢山あります。
イギリス首相チャーチル。 -
1941年8月、大西洋上プリンス・オブ・ウエールズ号でのチャーチルとルーズヴェルトの最初の会談。
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1942年8月、モスクワでのチャーチルとスターリンの最初の会談。
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1943年1月、チャーチルとルーズヴェルト、カサブランカでの会談。ドイツの無条件降伏を求める。右から二人目はド・ゴールのようです。
フランスに親独ヴィシー政権が成立するとド・ゴールはイギリスに亡命し亡命政権「自由フランス」を結成しました。当時はアルジェリアなど北フランスで自由フランス軍の対独抵抗戦を指揮していました。 -
1943年11~12月、ビッグスリー(チャーチル、ルーズヴェルト、スターリン)の最初の会談。3者はドイツを幾つかの国に分割することに合意。
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中央ルーズヴェルトとチャーチル。
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1944年9月、ケベックでの2回目の会談。チャーチル、ルーズヴェルト、カナダ首相マッケンジー・キング。
ドイツを四つの地域に分割し農業国に転換させることを論議。 -
1945年2月4~11日、ヤルタ会談。2回目のビッグスリーの会談。
太平洋戦争の軍事的問題と、大戦後のヨーロッパについて討議。3国はソビエトがヨーロッパ戦争終結後3か月以内に対日戦争に介入を密約。
ドイツ降伏:5月8日。
ソ連の対日参戦:8月9日。ドイツ降伏後丁度3か月。 -
ヤルタ会談でのチャーチル、ルーズヴェルト、スターリン。
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ポツダム会議でのビッグスリー。1945/7/17~8/2。
スターリン、トルーマン、チャーチル。
ルーズヴェルトが1945年4月に死去したためトルーマンが副大統領より昇格。
写真を見ていてふと気づいたのはイギリス、ソビエト首脳が軍服なのにアメリカ首脳はいつも平服姿です。アメリカは戦場ではないので余裕でしょうか。 -
中段の写真。
左から:
チャーチル、トルーマン、スターリン。
スターリン。
トルーマン。
チャーチル。 -
ポツダム会議の様子。
正面チャーチル、左にトルーマン、右にスターリン。 -
左スターリン、右トルーマン、手前禿げ頭チャーチル。
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チャーチルとトルーマンのサインがあります。
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軍服姿なので軍事面での会合でしょう。首脳は居ません。
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くつろぐチャーチル、トルーマン、スターリン。
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1945/7/5の総選挙でチャーチル率いる保守党がアトリー率いる労働党に敗北。
右上:チャーチル。
左:アトリー新首相と国王ジョージ6世。
右円グラフ:議席数。労働党393、保守党211。
しかしチャーチルは1951年の総選挙で首相に返り咲いています。 -
左イギリス首相アトリー、右国王ジョージ6世。バキンガム宮殿の前にて。
1945.7.26。 -
保守党敗北によりイギリス代表団交替。
首相:チャーチルからアトリー。
外相:イーデンからベヴァン。 -
チャーチル抜きでトルーマンがヨーロッパの平和と太平洋戦争についてスターリンと会談。
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スターリンとトルーマン。
トルーマンの右後ろはグロムイコ、右端はモロトフと思われます。共にスターリンの片腕。 -
アトリー、トルーマン、スターリン。
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右上スターリン。
左下ベリヤ:ソビエト秘密警察長官。スターリン死後第1副首相になるが、国家反逆罪で死刑。1930年代のスターリンの大粛清の遂行者の一人とされる。 -
1945年8月1日、ベルリン。
ベルリン会議の議定書。
サインは下のアトリーは判る、イギリス首相。中はハリー・トルーマンに見える。すると上は全く読めないがスターリンということになるのですか。
イギリスは1945年7月、総選挙で保守党が敗れチャーチルは退任、勝利した労働党のアトリーが首相になっています。アメリカとイギリスで大戦終結前後の重大な時に首脳が変わっていますね。
対独戦争で最初から最後までイギリスを率いてきたチャーチルが最後のポツダム会議の議定書にサインできないとは、さぞかし残念だったでしょう。 -
太平洋戦争終結に向けて、最後の行動。
7月26日日本に対しポツダム宣言発表。
日本政府は不可侵条約を結んでいたソビエトの仲介を期待してポツダム宣言を無視した。アメリカはこれに対し広島と長崎に原子爆弾を投下することで応えた。
ベームの思い:時の総理大臣鈴木貫太郎および軍首脳はは大局を見ることのできない無能というより大悪人。この時ポツダム宣言を受諾していれば原爆投下もなくそれ以降終戦までに何十万人の日本人の命が失われなくて済んだものを。
思うに時の政府、軍首脳は戦争に勝てないことは分かっていたのでしょう。それでも天皇制、国体の維持のためには降伏するよりは国民を地獄に道連れにしようとしていたのです。なんと愚かな! -
1945年9月2日、東京湾戦艦ミズーリ号での降伏調印式。
前列左外相重光葵(シルクハット)、右参謀総長梅津美治郎。 -
日本の指導者たち。
豊田、南、岡田、米内、小磯。 -
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ツェツィーリエンホーフ宮殿。
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ツェツィーリエンホーフ宮殿、私らの年代にとってサンスーシ宮殿よりもずっと感慨深いものでした。
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ベルリンに戻ってきました。
Uバーンフリードリヒ・シュトラーセ駅。
「生への列車、死への列車。1938~1945年」。 -
昼はウンター・デン・リンデンにあるカフェ・アインシュタインで。
人気のある店のようで賑わっています。ここのビール美味しかった。 -
食後ウンター・デン・リンデンをぶらぶら東へ。
工事中のベルリン国立歌劇場。 -
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ベルリンは大型クレーンが林立していました。
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ベルリン大聖堂の横を通り、
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シュプレー川を渡り、
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ベルリナー・シュロス・インフォセンターという変わった建物の前を過ぎ
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アレキサンダー広場に来ました。
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アレキサンダー広場駅。
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テレビ塔。
365m。 -
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Sバーンでツォー駅まで。ホテルに戻りました。
駅の近くにあるカイザー・ヴィルヘルム教会。明日行きます。
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