2014/09/06 - 2014/09/06
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たびたびさん
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東京の街歩きを何かテーマで歩くというと、実はなかなか適当な場所は少ないような気がしますが、その少ない場所の一つが本郷の周辺。若き文学者たちが集って新たな境地を求める時代がありました。
日本の文学の歴史はあまりよく分かりませんが、文語から口語への転換や私小説といった日本独自の文学が端々で認識されているくらいでしょう。それに、そもそも、江戸時代や明治の人たちの漢字の素養は見事なもので、中国の文学を娯楽として読んでいたということも聞いたことがあります。
つまり、西洋文学に対抗する日本の文学は、翻訳により西洋文学の紹介と並行するのですが、明治維新後もなかなか自分のスタイルが見つけられない模索の時代が長かったような気がします。正岡子規の俳句は伝統の中から生まれたものでしょうが、古典である源氏物語や太平記などは省みられず、浮世絵がジャポニズムを生んだほど、西洋から注目されなかったことも関係しているかもしれません。
いずれにしても、社会が豊かになるにしたがって、ご飯が食べられるようになると美術や演劇などの文化が盛んになります。そして、私は、文学はその最終形のような気がしているのですが、どうでしょう。
まあ、こんなことは、街歩きとは直接関係はないかもしれませんが、いろいろこじつけながら、散策の開始です。
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さて、本郷界隈へは秋葉原がスタートです。
秋葉原駅から湯島天神へ。その男坂を上ったところに、講談高座発祥の地碑があります。
碑文には、経緯が説明されています。つまり。。
講談は江戸時代半ばころまで、街角の辻講釈など、聴衆と同じ目線の高さで演じられていたもの。これを、当宮の境内で活動していた講談師、伊東燕晋が徳川家康の偉業を語る際に、高さ三尺の高座を設けたことが高座の始まりだそうです。 -
これに対して、男坂の下にあるのは心城院。通りに面するような近さでお堂が建っています。ここは、湯島天神の別当寺、天台宗喜見院の宝珠弁財天堂だったもの。ちなみに、喜見院は、富くじを発行していた寺。谷中感応寺、目黒瀧泉寺とこの喜見院が「江戸の三富」と言われたところです。
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逆回りになってしまいましたが、切通坂に面した石垣の上に建つのが湯島天神。上野から湯島天神に行くのには、この切通坂を上って行きます。さほど急な坂ではないのですが、上りはじめるとけっこうな距離があって、歩きでがあります。
湯島天神には男坂、女坂があって、知っていればこちらを利用する方が楽かもしれません。 -
近くにあるのが有名な麟祥院。こちらは、寛永元年(1624年)、徳川家光の乳母として知られる春日局の隠棲所として創建された寺で、春日局の菩提寺です。麟祥院とは、春日局の法号です。
門から奥につながる参道は広い石畳。ちょっとした広場のような感じですが、凛とした雰囲気が漂っていました。 -
麟祥院内の墓地の一角にあるのが春日局の墓。特に、順路等を示す案内もないので、自分で探すしかないのですが、かなり難しいと思います。墓は石の柵で囲われた墓ですが、意外に質素な印象を受けました。
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この霊雲寺は、大きくて立派ですねえ。
元禄4年(1691年)創建の真言宗霊雲寺派総本山です。 -
高野山で修業した浄厳という人物が柳沢吉保の帰依を受け、将軍徳川綱吉から寺地を得て開創したということで、いわば、官制の寺といったところかと思います。
都会の真ん中に広い境内を持って、鉄筋コンクリートの大きな本堂が豪快な印象です。 -
ここからサッカーミュージアムに回りますが、途中目に止まったのは、オザワ洋菓子店。
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いただいたのは、例によってシュークリーム。カスタードクリームのオーソドックスなタイプですね。店内で腰かけていただきましたが、ショーケースを見ると、どの商品も色鮮やか。ガラスがちょっと曇っているのが惜しいかなあと思いつつ。。
シュークリームの方は、特徴はこれといってないかもしれませんが、手堅い仕上がりだと思います。 -
そして、日本サッカーミュージアムへ。
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こちらは、日本サッカー協会がワールドカップ日韓大会の開催を記念して開設したサッカーの展示施設です。
日本サッカー界に貢献のあった人物を紹介する特別室があったり、Jリーグの各チームのユニフォームが飾られたり。それなりに意図は分からないではないんですが、日本のサッカーはまだまだ歴史を作っている途上でしょう。残念ながら、振り返ることにはまだあまり意味がないような気にもします。 -
近くにある妻恋神社です。小さな神社ですが、傍らに謂れを書いた看板がありまして。
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日本武尊が東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき大暴風雨に会い、妃の弟橘媛が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。その後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したので、郷民は尊の妃を慕われる心をあわれんで尊と妃を祭ったというのです。
夫日本武尊のために命を投げ出した妃の話ですから、妻恋というのは、本当にその通りだと思います。 -
妻恋坂は、その妻恋神社から下って行く坂。坂には、案内板が立っていて、けっこう詳しい説明がありまして。大超坂、大潮坂、大長坂、大帳坂など別名がたくさんあることや明暦の大火で妻恋神社がここに移ってきたことなどが書かれています。
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もう一度、神田明神から男坂を下りまして。下ったところが明神下中通りです。
一見なんにもないような通りなのですが、取りあえず、看板が目に入った三井製パン舗に寄ってみます。 -
店内に入ると何か高級感がありますね。
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ショーケースに、ゆったり余裕をもって、パンが並べられて、値段の方もなかなかにいいような。ヨモギのアンパンをいただいて、品定めしましたが、ヨモギの香りがしっかりしているんですが皮は薄い。そして餡子がぎりぎりいっぱいまで入ってるんですね。ああ、そういうことなのかと思ったら、最後に求肥のお餅も入っていて、もっちりした食感で最後が終わりました。アンパンでもいろんなところに工夫がある。イートインもできるので、じっくり味わってみるべきパン屋さんだと思いました。
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ちなみに、店内にあった街歩き地図を眺めると、このエリアには気になる老舗がいくつもあるんですね。
うなぎの神田川本店、天ぷらのみやび。とても、気になります。 -
再び、神田明神の境内です。
本殿の脇に獅子山というのがありまして。神社にはこうした造形物が何かとあるものなんですが、これは、親獅子が子を谷底に突き落とし、はいあがってきた子をはじめて我が子とするというもの。
しかし、この獅子は名工石切藤兵衛の作。生涯で3つしか造らなかったものの中の1つで、千代田区指定有形民俗文化財となっています。 -
えびす様尊像は、本殿の左手、鳳凰殿の脇にあります。
大きくうねった波の中に、イルカやタイやトビウオ。それらの仲間と一緒に大海原を渡るえびす様の姿ですが、えびす様は小さな像で、その景色の中に溶け込んでいます。波の青も鮮やかで、全体としてめでたい世界観を表している、面白い像だと思います。 -
銭形平次の碑は、本殿の側面です。銭形平次は神田明神下に住むという設定なので、神田明神にあるのは自然なことでしょう。自然石の碑に目が行きますが、台座が寛永通宝になっていて、これを見落とさないようにしてくださいね。
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国学発祥の地は、その隣り。江戸時代の前期、荷田春満という人物が初めて国学を教える場所をここに開いたという碑です。
ちなみに、荷田春満の父は伏見稲荷神社の社家。国学は、「万葉集」や「古事記」「日本書紀」を学んで、古来からある日本を考えるということなのですが、海外からもたらされた思想である仏教や儒教、当然、キリスト教なども否定する過激な思想が、幕末の尊王攘夷や明治の廃仏毀釈のバックボーンになりました。歴史的には不安な時代の不満分子に利用された側面もあって、純粋な学問としてはどうだったのか。ちょっと複雑な気分になる碑ではあります。 -
神田の家は、神田明神の境内から駐車場を抜けた先。公園の中に移築された建物で、千代田区指定有形文化財というのですが、規模はそんなでもないような。
江戸時代から神田鎌倉町で材木商を営んできた遠藤家が建てた店舗併用住宅。関東大震災後の昭和2年の築。職人の技が極められているようですが、内部の見学はできないのではないかと思います。 -
神田の家がある宮本公園の一角にひっそりと、三谷長三郎の胸像はあります。像は、長崎の平和祈念像も手掛けた北村西望の作。
ところで、三谷長三郎とは聞いたことのない名前ですが、明治2年生まれの神田の実業家。銅や真鍮を商って、財をなし、神田区の学校教育のために多大な貢献をしたということです。 -
さて、ここからは、そろそろ本郷を目指します。
途中にあるおりがみ会館は、二階に無料の展示室があって、色とりどりの作品がありました。 -
折り紙なんですが、どう見てもはさみを入れたような作品もあって、聞くとやっぱりそう。はさみを入れるのもありなんだそうです。
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ただ、造形の発想力とか色彩の組み合わせとかは、作者の独創。素直に鑑賞すればいいのだと思います。
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えっと、自然と御茶ノ水の方に出てしまいました。
東京医科歯科大学は、大学であり、病院なのですが、建物全体が御茶ノ水駅から神田川を越えたところによく見えていて、御茶ノ水の風景として馴染んでいる存在だと思います。なお、大学は昭和21年に創立。日本で最初に設置された国立の歯学教育機関になります。 -
東京医科歯科大学の敷地内にひっそりあるのがお茶の水貝塚。正門右手のフェンスのすぐ内側なので、通りからじゃないと碑は見えないと思います。
地下鉄丸ノ内線御茶ノ水駅の工事の際に発見された貝塚。貝類のほかに石器や縄文式土器が出ているそうです。 -
ついでに、東京都水道歴史館へ。こちらは、江戸時代からの水道の歴史を紹介する施設です。
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係りの人が展示物を使って詳しく説明してくれましたが、
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江戸時代でも水を通す木製の管は密封されたもの。
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いったん低いところを通った水がまた高いところに戻れる仕組みで、なかなか高い技術があったようでした。
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東京都水道歴史館の裏手に回ると本郷給水所公苑です。本郷給水所の上にきれいに整備された公園で、花の植えられた洋風庭園が見事。一方で、一角には神田上水幹線水路の石樋が復原されていて、東京都水道歴史館の話を聞いてから見ると、ちょっと感慨深いものがありました。
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だんだん本郷に近づいてきました。
この本郷座跡は、小さなプレートの説明板があるだけなんですが、本郷座というのは新派の創始者川上音二郎一派が活躍したということ。明治6年に、本郷の地主である奥田氏が奥田座を開設したのが始まり。明治35年になって、本郷座に名前を変えました。 -
御霊神社は、身分あって非業な死を遂げた人などの魂を鎮めるための神社で、京都にも有名な神社がいくつかありますが、この湯島御霊社もそれに類するもの。
いわゆる怨霊の活動を鎮めるための神社です。少し金箔を使った社殿などは、やはり、身分のある人の怨霊を対象としていることを示しているのだと思います。こうした考え方は、日本独自の考え方かもしれませんが、空海の密教を求める桓武天皇のニーズはこうしたことが背景にあったという説もあるようです。 -
三組坂の三組とは、徳川家康お附きの中間、小人、駕籠方のこと。徳川家康が死去すると、その三組の者に、この地一帯を拝領、その後、町名も三組町と改められます。
なお、三組町は湯島三丁目となりましたが、坂の名前で残りました。信号機のある交差点にも三組坂の名前が書いてあって、それなりに目立ってはいると思います。 -
まだメインのエリアには達していないのですが、しばらく歩いたので、そろそろ昼飯にしましょう。
陽理珠は、もう本郷三丁目に近い場所にある中華料理屋さん。中国家庭料理と書いてあって、それ以外は地味な外観なんですが、入ってみると大賑わい。日曜のお昼でしたがほとんど満席でした。 -
いただいたのは、焼肉麺。豚肉の焼肉を大盛りにしたラーメンです。これが、さっぱりしていて意外にうまい。中国系の人がやっているお店のようでしたが、やっぱりプロの味かなあと納得の味わいです。
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同じ通りのあるあられ屋さんは竹仙。
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ぎっしりと量り売りのあられが入ったショーケースが道からでも全部見えて、ちょっと目が釘付けになってしまいました。
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いただいたのは、歌舞伎好みという甘いタイプ。しかし、基本的なあられの味わいを大事にしているんでしょう。甘さよりも米本来のの香ばしさがおいしくて、大人の味わいだと思いました。いいお店です。
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本郷中央教会も春日通り沿い。
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オープンな教会で、内部に入って礼拝堂も見せてもらえます。石造りの重厚な建物なので、ステンドグラスとかも期待したのですが、そうした装飾系はほとんどなし。むしろ、にこやかな信者さんたちの笑顔が印象に残りました。
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さて、引き続き本郷三丁目辺りの春日通り沿いをうろうろ。
喜之床跡は、小さな金属プレートが残るだけですが、石川啄木の間借りした住居。喜之床は理髪店で、明治42からこの二階六畳二間を借り、妻、子、母と暮らします。明治42年には、自身の病気もありさらに引っ越し。明治45年に、26歳の若さで生涯を閉じますが、この喜之床時代に多くの秀作が生まれたと言われています。 -
櫻木神社は、太田道灌が江戸城内に創建し、その後、湯島に移され、元禄年間に現在地に移転したということですが、特に、特徴はない神社だと思います。ただ、この日も、ちらほらと参詣者の影があって、本郷という土地柄かもしれません。
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桜木神社の裏手の住宅地にあるのが、十一面観世音菩薩。
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周囲には何もなくて、この像がポツンとあるだけなのですが、案内板によると、かつてこの場所には天台宗寺院、真光寺があり、本郷薬師堂と十一面観世音菩薩は真光寺の境内にあったのですが、真光寺は戦争で焼失してしまったのだそうです。
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そして、本日の最大の目的がこの文京ふるさと歴史館です。
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こちらでは、縄文時代からの歴史を展示しているのですが、やはり、ハイライトは文人たちでしょう。きら星のごとくの文人の中でも、樋口一葉と石川啄木を大きく取り上げていましたが、若くして亡くなったということで、イメージが強烈なのかもしれません。
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文人たちゆかりのスポットがこの辺りには数多く合って、歴史館のパンフレットには詳しい地図が付いています。実はこれがなかなかいい。本郷周辺の街歩きにはとても重宝しました。
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さて、ここからが文人たちを巡る本番です。
とにかく本郷の住宅地には文人たちゆかりのスポットが多く点在していて、この坪内逍遥旧居跡もその一つ。炭団坂という坂の上にプレートが立っていました。明治17年から3年間住み、代表作「小説神髄」はここで書き、写実主義を唱えたということです。
絵画の世界では、中国だと南画と北画の伝統があるし、日本でも江戸時代の町人文化では写実が主流になって行くのですが、実は写実を訴えた円山応挙も西洋の写真技術には触れていたんですよね。西洋文学を知った明治以降の文学者たちも同じことだったかもしれません。 -
この炭団坂は、本郷の住宅地にあって、石段を上り下りする比較的大きな坂。下っていくと菊坂に出ます。
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案内板があって、「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということから名前が付いたことを説明しています。
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宮沢賢治旧居跡は、炭団坂を下って菊坂に抜ける小さな石段を上りかけた場所。目立たない感じですが、にプレートがありました。
ちなみに、宮沢賢治が東京に出てきたのは、大正10年、25歳の時でした。父と揉めた末の着の身着のまま。なんとか、ここで下宿し、近くの印刷所、文信社でガリ版の筆耕や校正などの仕事をして働くことになったということです。 -
これは菊坂の案内板です。
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菊坂を越えて、進みまして。菊富士ホテル跡の石碑は、住宅地の中。どん詰まりの場所に立っています。
明治29年より下宿・菊富士楼を経営していた羽根田幸之助・菊江夫妻が、大正3年、隣地に開業したホテル。ここに、宇野千代、尾崎士郎、竹久夢二、谷崎潤一郎、宮本百合子、坂口安吾など錚々たる文士が集まり、ドラマが生まれたということです。 -
これが長泉寺で、
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赤心館跡は、長泉寺の山門そば。小さなプレートがありました。
ここも啄木ゆかりの場所の一つ。22歳の啄木は、3度目の上京で、この金田一京助の下宿、赤心館に移ります。4か月の間でしたが、執筆に励み、小説5編を書き上げたということです。 -
徳田秋声旧宅は、この辺りにある、他の文人ゆかりの地とは違って、 一応、家屋が残っていました。
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徳田秋声は、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに紅門の四天王と称され、自然主義文学の大家となった人物。金沢では、徳田秋声記念館という立派な施設もあっるのですが、それを思うと、亡くなる昭和18年までの38年間をここに住んだということに少しギャップを感じざるを得ませんでした。
ところで、自然主義はフランスで起こったもの。写実主義の流れでしょうが、日本では私小説の流れを決定付けたのかも。ただ、自然主義と言えば、島崎藤村。大きく言えば私小説のジャンルかもしれませんが、夜明け前に描かれた、庶民の明治維新を迎える心象風景を捉えた普遍性はすばらしい。ちょっとひいき目かもしれませんが、私としては、文学の世界では特筆すべきことだと思っています。
ただ、自然主義文学の反動として、森鷗外や夏目漱石、芥川龍之介辺りが活躍し始め、むしろこれらが主流派となったことは面白いところです。 -
こちらの旧伊勢屋質店は、樋口一葉が明治29年に24歳で亡くなる間際まで通ったいう質屋。菊坂の途中にあり、白い土蔵の壁がまだ美しいです。
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井戸の残る樋口一葉の旧居跡付近は、菊坂に沿ってもう一段低い通りがあって、そこから路地をさらに入ったところ。さほどの距離はありませんが、そこを通ったということかと思うと少し感慨深いものがありました。
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ところで、菊坂はこんな具合なんですが、
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その中ほどにあるのがまるや肉店。
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菊坂コロッケというのが名物です。辺りには、樋口一葉や石川啄木、宮沢賢治などのゆかりのスポットがたくさんあるので、散策の途中に寄るにはちょうど良い場所でしょう。ちなみに、菊坂コロッケはジャガイモがホクホクしたコロッケです。
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樋口一葉旧居跡の井戸は、看板も何も出ていなくて、多分自力で探すのは無理だと思います。近所の人、何人かに聞いてやっと見つけました。
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イチオシ
家が建てこんだ小さな路地にある井戸の近くに、樋口一葉が住んでいた住居があるはずなんですが、今では特定はできていないよう。質屋通いをしていた暮らしだったわけで、小さな一間を借りていたのかもしれません。創造力をたくましくして、味わう場所だと思います。
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一方で、では、この井戸を使っていた当時、樋口一葉がどこに住んでいたのか。はっきりここというのは分からないようです。一葉が使ったという井戸は、ちゃんと残っていて、この近くのどこかに住んでいたのでしょうが、特定はできないんですね。しかし、今でも、ごちゃごちゃと家が立ち並んだ風情は残っていて、少しは当時の様子も想像できるように思いました。
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で、本郷通りに出ようと、裏道に入ったら、こんな都会のど真ん中にというような、本郷の住宅地の一角に、忽然と現れる金魚屋さんがありました。
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金魚や錦鯉の水槽がいくつかあって、子供連れの親子がじっと魚を見ていました。いや、子供じゃなくても、これは楽しい。食堂もやっているようですが、これは本当に都会のオアシス。是非守り続けていただきたいと願うばかりです。
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本郷通りに出て、扇屋は、東大赤門前の和菓子屋さん。街歩きで疲れたので、一服しようと立ち寄りました。
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イチオシ
いただいたのは、くずだんご。ぷりんとした葛の食感に、滑らかな餡子の甘さが光ります。最近は、お菓子屋さんの跡継ぎは、お菓子の学校に行って、その後、ほかの店で修業をする。そんなのが多くなりましたとか、ちょっとお菓子談義。こちらも息子さんが三代目で跡を継ぐ予定ということです。そうですか。それは安泰。おめでとうございます。
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法真寺は、東大の向かい。本郷通りから少し入ったところ。
こちらは、たけくらべで有名な樋口一葉ゆかりの寺。樋口家は、明治9年、法真寺の隣に居を移し、一葉は9歳までの5年間をここで暮らします。 -
法真寺の本堂は今は工事中でしたが、境内はそれなりに広いし、ここで遊んだこともあったのではないかと思います。
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求道会館は、住宅地の中。
石造りのがっちりした建物で、何かいわれのある建物であることはすぐに分かります。というのも、この建物は、浄土真宗の僧侶、近角常観という人物が説法の場として建てたもの。武田五一の作品。敷地内には入れましたが、内部の見学はできるかどうかよく分かりません。 -
ここからは、東大の構内に入ります。
三四郎池は、かつては日本庭園だったという池。夏目漱石の長編小説「三四郎」ゆかりの池だと思いますが、具体的な関連はよく分かりません。 -
池は、ちょっと荒れ放題のような感がしなくもない。陰気だし、気持ちの良い場所というより、蚊がたくさんいそうな場所です。
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で、これが東大のシンボル、安田講堂です。今は、工事中で、青いシートで覆われていました。しかし、久しぶりに見たら、こんなに小さかったかなあという感じ。高層ビルが増えて、東京では巨大な建物が珍しくなくなりました。大きさで威容を示すというのは、昔の建物ではもうありえないことなのでしょう。
70年安保も絡んで、東大紛争の現場となったことももう遠い過去のよう。集団的自衛権の閣議決定で学生が騒ぐこともない。時代は、とんでもなく変わったということでしょう。 -
ところで、当たり前のことですが、東京大学本郷キャンパスにはいくつかの銅像がありまして、ここからは少し銅像巡りです。
ダイヴァース博士胸像は、理学部7号館の前。比較的小さな像です。
明治6年、英国から来日。東京大学理学部の教授に就任し、13年間に渡って、無機化学の教育と研究に多大な貢献をし、化学教室の基礎を築いたという人物。英国に帰国した後も、英国化学会副会長、工業会会長などを歴任したということですが、どうして弱小国の日本に興味を持ったのか。高給だけではないと思いますが、不思議なことです。 -
御殿下記念館は、東京大学本郷キャンパス内にあるプール、体育館、グラウンドも備えた総合体育施設。昭和52年の東京大学創立百年記念事業として、造られたもの。半地下の体育館では運動に興じる学生たちの姿も見えて、十分に活用されてる様子。学生もやっぱり体が基本ですよね。
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チャールズウエスト像は、工学部の中庭に立っています。
チャールズウエストは、アイルランド人。明治15年に来日し、機械工学と造船学を教え、日本の機械工学の発展に尽力しました。日本で没しています。 -
ジョサイアコンドル像は、東京大学本郷キャンパス内では唯一の立像。工学部の中庭です。
コンドルは、ロンドン生まれ。明治10年に来日。建築学の教授として、辰野金吾らを育てるとともに、上野博物館、鹿鳴館などの政府関連の建物や旧古河邸、六華苑の設計を手掛けたことでも有名。今でも私たちを楽しませてくれていることに感謝したいと思います。 -
古市公威像は、工学部11号館の脇ですが、奥まった場所なので、ちょっと見つけにくいかもしれません。
ステッキを持って、石のベンチに腰かけています。
古市公威は、土木工学科の教授。帝国大学創立と同時に工科大学土木工学科教授兼工科大学長になった人物。工学部の草創期に力を尽くしました。 -
三好晋六郎像は、工学部5号館の奥で、本郷通りを背にした場所です。
三好晋六郎は、造船学科の教授。英国に留学した後帰国し、造船学科で教鞭をとりました。英国ではグラスゴーの造船所で世界最先端の造船技術を学び、その経験と知識を持ち帰ったということです。 -
山川健次郎像は、安田講堂の後ろ側。工事中で安田講堂はフェンスで囲まれていましたが、この像だけはうまくフェンスの外になるようにしてありました。
ちなみに、山川健次郎は、日本人初の物理学教授で、東京帝国大学総長を二度務めた人物。会津の出身で、少年時代、白虎隊にも属していたというすごい経歴もあるようです。 -
これで、東大はおしまい。今度は本郷通りをさらに北に向かって歩きます。
メリージェンヌは、本郷通り沿いにある小さなパン屋さん。 -
ちぎりレーズンパンが一番人気というのでこれを買いました。小さめのぶどう食パンといった感じですが、山単位で、確かにすっと手できれいにちぎれます。おやつのように、お菓子っぽくも食べれるし、自然な味わいもよろしいかと思います。
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本郷通りの西善寺の中にあるのは近藤重蔵の墓。墓石がさらに木の枠で囲んであるという変わったお墓ですね。
ちなみに、近藤重蔵は、江戸後期、千島列島、択捉島を探検したり、江戸幕府に札幌地域の重要性を説いて、その後の札幌発展の先鞭を開いたという傑物です。 -
夏目漱石旧居跡は、本郷通りから脇道を入って行くのですが、地図を持っていてもなかなか分かりづら居場所。
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しかし、辿り着いてみると、それなりに開けた感じの場所。漱石は、ここの家で吾輩は猫であるを執筆したというのですから、考えるとそれなりに大変な場所ですね。近くの塀の上に猫の像があって、思いを馳せました。
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この辺りは、お寺だらけ。ここからはしばらくお寺巡りとなります。
身禄行者というのは、本郷通りから少し入った海蔵寺の境内。墓というよりも、鳥居があって、お宮さんのような感じです。 -
ちなみに、身禄行者は江戸時代元禄の頃の人。救世主、教祖的な存在として、新たな富士講を誕生させたということです。
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長元寺は、本郷通り沿いにあっては、中くらいの規模でしょうか。門の奥にクリーム色の建物がひっそりと建っています。
加賀藩の第5代藩主、前田吉徳の母が開基となり、寛永4年(1627年)に創建されたということです。 -
浄心寺は、江戸時代の初めに創建された浄土宗の寺。湯島妻恋坂辺りにあったようですが、江戸の大火で焼失、現在の本郷通り沿いに移りました。
本堂は鉄筋コンクリートの建物だと思いますが、山門奥の正面にそびえるように建っていて、壮大な印象を持たせます。 -
大円寺は、本郷通りから少し入りますが、石塀に赤い山門のがっちりした構えの目立つ大寺です。隣りに墓地があって、高島秋帆の墓があるというので回ってみました。墓地は、西洋の墓のように、花がいっぱい咲き乱れて公園のよう。不思議な墓地ですね。
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ちなみに、秋帆は、幕末の砲術家。アヘン戦争で清国が敗れ、日本も植民地になるのではないかと恐れた人は多かったのですが、その中で、ただ一人、洋式砲術の重要性を悟り、独自の解釈も含めて、実戦的な知識を習得した稀有な人物。こうした先進性が明治維新を成功させた原動力であり、その走りとして高く評価すべき人物だと思います。
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本郷通りをさらに進んで。
オリムピックパンは、もう白山神社の近くです。 -
ラスクの安売りをしていて、それを買いました。しかし、このラスクはけっこう大量に入っていて、正札で買っていてもお得だったくらい。甘さが程よくて、ドンドン食べてしまいました。なお、商品には、シベリアとかなんだかんだの珍しい名前のパンがたくさんあって、ちょっと面白いパン屋さんです。
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栄松院は、本郷通りを駒込高校の方に曲がってすぐ。この辺りもお寺が並んでいるエリアです。
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この寺には、初代松本幸四郎の墓があるはずなのですが、なかなか分からない。お寺の人に聞いてやっと分かりました。松本幸四郎と言えば、松たか子のお父さんですが、初代がいるような名前だったんですね。しかし、「誰もお参りになんかきませんけど」とのことでした。
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清林寺もその並び。入口には、江戸三十三観音霊場8番という意味の江戸札所第8番と書いた白地に墨で書いたような立て看板が無造作に置かれています。本堂の周囲はお墓で、都会の寺ですが、山の中の小さなお寺といった雰囲気でした。
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光源寺にあった駒込大観音は、夏目漱石も小説三四郎で触れている観音だったのですが、その後の東京大空襲で焼失。
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現在の観音は、平成5年に再建されたたもの。身の丈6m。全身が黄金に輝く大観音で、専用のガラス張り建物に安置されていました。
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ほとんど隣りの蓮光寺は、赤い立派な山門が目立っていますが、それもそのはず、ここは大垣藩主戸田家の墓所だったという由緒ある寺。
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ほか、江戸時代後期の北方探検家、最上徳内に江戸時代中期の儒学者、平野金華の墓があって、いずれも東京都の旧跡指定。山門脇にこれが紹介されていて、これも格式を高めているような気がします。
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そして、最後が高林寺。こちらは、5代将軍徳川綱吉の命によって、将軍家の武運長久の祈願寺として創建された寺。通りから奥まった場所にあって、入口が分かりにくいかもしれません。
庫裏の感じは京都の天龍寺のような反った屋根。 -
そして、境内にあるのが緒方洪庵の墓。江戸末期の蘭学者・医者と書かれた案内板があって、自然石の曲線を活かした比較的小さな墓です。お参りの人が絶えないのでしょうか。お供えの花がまだ活き活きしていて印象に残りました。
吉田松陰と同じく、幕末の動乱期、大阪の適塾では人材育成に大いに貢献した人物です。天然痘の功績もありますが、橋本左内、大村益次郎に福澤諭吉などを育てたことは計り知れない貢献だったと思います。 -
イチオシ
さて、今日はもうヘトヘト。最後は秋葉原に帰って、トンカツ。
訪ねたのは、丸五。分厚いトンカツは、肉の繊維をサクッと噛み切る心地よさがあって、これはさすがでしょう。
それにキャベツやごはんはお代わり自由。とくればがっつり系のお店のようですが、中居さんがなにかとお代わりを勧めたり細かな気遣いもうれしいです。
これで、本郷の街歩きは終了。一日たっぷりかかりました。お疲れ様でした。
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