2006/09/21 - 2006/09/27
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旅人のくまさんさん
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<2006年9月26日(火)>
今回の旅行も、今日と明日の2日を残すだけとなりました。明日は上海を経由して、日本へ戻るだけですから、実質、今日が最後の日です。しかし、今日は大きなイベントが控えていました。S.P.先生のご生家訪問です。太原の晩餐会でご一緒した、ご親戚の80歳になられる女性のご長老が、自ら水先案内を買って出られていました。
この日のメモです。5時30分目覚し、8時30分、平遥のホテル出発でした。黄河壷口瀑布の見学を交通事情で諦めた関係で、ゆっくりとしたスケジュールとなりました。(ウィキペディア)
<S.P.先生のご生家訪問>
水先案内のご長老とは、泊まった平遥のホテルでの待ち合わせとなりました。合流したところで、平遥古城郊外のご生家へ揃って出かける手筈です。郊外といっても、ほんの僅かな距離でした。近郊と言った方が当たっているようです。城壁から2キロ程の位置だったようです。
大原を出発された黒のベンツが先導車でした。当然ながら、ご長老の娘さんか、お嫁さんも同行されました。そのご生家近くになった時、S.P.先生も場所を思い出されたようでした。確か、1989年頃に一度訪問されたことがあったとも、お聞きしていました。しかし、その時から17、8年の年月が経っていました。
車が石塀に囲まれた一角へ入ると、スピードを落とし、慎重な運転となりました。路地で車が立ち往生しないように、道幅や、轍あとを確認しながらの運転でした。
車が止まった場所が、ご生家の入口の前でした。最初に出迎えられたのが、その昔、S.P.先生の家で執事を勤められていた方の身内と言われる女性の方でした。太原から水先案内をされたご長老とは、顔見知りのように見受けました。
事前に電話連絡が取ってあったらしく、現在の居住者の方も顔を出されました。それで、住居の中まで見学させて頂きました。当時の頃と、変わっていないとの、S.P.先生のお話でした。
先生は70年前のセピアの写真を手にしながら、その写真が撮影された母屋の前を指し示されていました。その時、母屋の左手からご長老が1人で顔を出されました。お聞きしたところでは、唯一、S.P.先生のご親戚の方でした。
そのご長老は、86歳になられていました。S.P.先生のお名前も覚えていられて、先生が小さい頃のお話もされたようです。おそらく、長い間、ご親戚の方との連絡も無かったのでしょう。遠来の訪問に涙を拭きながらのご対面でした。周りの方も、思わず貰い泣きされていました。
先生が小さい頃に遊ばれていたと言う、母屋の屋上テラスから付近の景色を眺めたり、セピア色の写真が撮られた場所での記念撮影等をしていましたら、あっという間に訪問の時間が過ぎていきました。
訪問を終えて、86歳のご長老とお別れする時、何時までも見送られていたお姿が1人寂しそうで、たまらない気持ちにさせられました。日中戦争、文化大革命など、幾多の困難な歴史を、その丸まった背中に背負われているように思われました。
今回の旅行で、S.P.先生方は、第二次大戦前から続いた旧日本軍がもたらした多くの災難に対し、一言も語られませんでした。しかし、1937年に始まり、長く続いた日中戦争、日本の関東軍による満州への侵略による傀儡政府の樹立など、多くの困難をもたらした事実は、歴史上消え去ることはありません。
中国と日本とでは、現在の政治体制は異なりますが、同じ漢字圏として、多くの文化を共有しています。今後、友好関係を修復し、更に深め、アジアの安定、世界の平和に貢献できる協力関係が構築されればと願っています。その前提として、日本は過去に犯した過ちを苦い薬として、再認識する必要があるでしょう。非核三原則の堅持、平和憲法の維持が、その何よりの証であると考えます。
<黒酢工場見学>
平遥のお土産は、黒酢と決めていました。ところが、そのお土産を買うまでも無く、手土産に頂いてしまいました。その黒酢工場見学の紹介です。黒酢の材料は、高粱です。
日本へ輸入されている中国の黒酢は、もち米などの米を原材料にしているものが多いようですが、この工場で見学したのは、高粱から作られる黒酢でした。高粱は、中国で一番生産されている白酒(パイチュウ)の原料にもなります。日中国交回復のセレモニーで、田中角栄首相が周恩来首相と酌み交わした茅台酒も、白酒の1種です。
つい、お酒の話になりましたが、黒酢の工程も、お酒の醸造と良く似ていました。部屋の中に居るだけで酔ってしまいそうでした。
<山西省の古刹、晋祠見学>
いくつかのインターネット情報を参照しながら、山西省の古刹、晋祠について説明します。
晋祠が建造された時期は、いまだに確定されていないようです。一説には、祠堂は春秋時代の晋の始祖、周の武王の次子叔虞を記念して北魏代に創建されたものとされます。叔虞は唐に封ぜられましたが、領内を流れる「晋水」と呼ばれる川の名に因んで、国名を唐から晋に代えました。それが祠の名称の起源ともなっています。
晋祠に関する最初の記録は、西暦466年から572年の北魏の時代の「水経注」にあるとされます。北魏の時代から計算しても、少なくとも千年以上の歴史をもつことになります。長い歳月の間に、晋祠は数回にわたって修復、拡大され、その面貌を変えてきました。
西暦646年、唐の二代目の皇帝である李世民は晋祠に来て、著名な碑文である「晋祠之銘并序」を残しました。更に、晋祠の大規模な拡大工事を命じました。
その後11世紀には、宋の皇帝が叔虞の母親である邑姜のために聖母殿を建てました。のち、この聖母殿を中心として建築物が次々と完成されて行き、水鏡台、会仙橋、金人台、難老泉などが異なる時代に建造され、これら建築物が巧みに融和しています。
ここは寺院のようでもあるし、皇室の庭園でもあるような総合的建築群となっています。晋祠には異なる時代の美しい建築だけでなく、有名な「周柏隋槐」もあります。柏(かしわ)と槐(エンジュ)の古木です。
言い伝えによりますと、「周柏」は西周(紀元前11世紀から8世紀)時代に植えられとされます。聖母殿の左側にあり、全体は南に傾いて地面との角度は約40度です。木の葉は上から殿堂を覆っています。周柏は2000年近くの歴史を持ちます。
「隋槐」も千年以上の歴史があり、この古木たちは豊かな伏流水の恵みを受けて、生気に溢れています。晋祠内の泉と、静かに流れる清水と濃い木影が悠久の時を刻んでいました。
歴代に亘り改築、拡張が行われた中で、最古ものが聖母殿です。内部には表情豊かな北宋時代の彩色塑像43体が現存します。現地ガイドさんの説明に従って、その塑像の1つの表情を凝視しました。見る角度によって微笑みと、憂いに替わって見えるようです。正面からは、その一つの表情か見ることが出来ませんでした。
「水母楼」には、伝説に登場する「水母娘娘」が祀られ、「難老亭」は、北斉の天保年間(550年?559年)の創建とされます。明代に改修され八角宝形造りの造型美を誇ります。ここで、「水母娘娘」の物語のあらすじを紹介しておきます。現地ガイドの王さんからもお聞きしました。
「その昔、晋祠村に春英という娘が住んでいました。彼女は童養『女息』(息子の嫁にするために、小さい時から貰って育てる女の子)彼女は朝早くから夜おそくまで、一時も休まず働き続けました。それでも姑は気に入りません。手をあげる、殴る、罵りました。春英にとって一番辛いのが水運びでした。この村には水が少なく、飲み水は何里も離れたところから運ばなければなりません。ある日、まだ暗い時、村の入り口で一休みしようとした時、一人の老人が一匹の馬を引いて近づいてきました。老人は水を所望し、馬にも水を飲ませました」
ここから物語はハッピーエンドへ向かいますが、紹介は、ここまでとします。廟内に神仏が祭られている中に、若いお嫁さんがゴザの座布団に座して櫛で髪をといている像があります。それが春英です。
晋祠で伏流水から湧き水となって流れる清水は、年間を通じて17℃の水温を保っているようです。これもガイドの王さんの説明にありました。そのまま飲めるともお聞きしました。
ところで、2002年5月付の「人民網(ネットワーク)」では、「国家文物局、建設部、中国工程院、清華大学、北京林業大学、山西省文物局の専門家らは、晋祠の建造物、彫塑、園林、石碑などは、歴史、科学、芸術の観点で、世界文化遺産の基準に相当し、世界文化遺産を申請する資格があると判断した」事を伝えていました。
周樹と隋槐は、難老泉、宋代の侍女塑像と共に「晋祠三絶」と称されています。世界文化遺産に登録される日が一日も早い事を願って、この節の説明を締めくくります。
<平遥市街の散策>
昼食の場所は、昨日の晩餐会が開かれたレストランの2階でした。その内庭に車を停めて、1時間程の自由時間となりました。昼食の時間には、早過ぎたためです。
早速、カメラを手に平遥の町に向かいました。レストランが市街の中心地にありますから、回りは商店街が並んでいました。片道20分以内と見当を付けて、平遥古城の城壁が見える場所や、露天が並ぶ場所、デパートの中も覗いてみました。買い物ではなく、写真撮影のためです。
買い物は、レストランの入口のスーパーで済ませました。平遥の香肉等です。そのお店の前に居たEnちゃんの値段交渉で、切り身の肉も真空パックして貰いました。
<平遥での昼食>
昼食は、昨日の晩餐会と同じレストランでした。理由は簡単です。他に相応しいレストランが存在しないためです。Enちゃんもお二人の伯母さんも、少し食事に飽きた顔をされています。実は、昨日のメニューと殆んど一緒だったからです。
料理は皿を重ねて、どっさりと出されましたが、その品々は、どこか見覚えがありました。まだ昨日のことですから、当然のことでした。私も沢山ではありませんが、麺類は美味しいので、黒酢をたっぷり使って頂きました。平遥の黒酢は熟成されて、香り十分、味も最高です。
今改めて写真でその料理の数々を見ますと、残してしまったのがもったいない思いがします。お店としては、一番の料理を全て1回で出してくれたのでしょうが、2回に分けて出すとか、工夫をすればよかったことでした。
平遥のS.P.先生のご生家で
一叢の秋桜咲きしその奥の母屋は在りしセピアの写真
長老は涙拭つつ遠来の身内に語る背は曲りおり
晋祠で
千年を超ゆる鎮守の杜在て古き社は此処に鎮まる
罅割れて鉄の帯締め支木に凭れて猶も力士像立つ
伏流は社の杜に現れて村を潤す旅は始まる
仄暗き社殿に立ちて泣く如く微笑む如く侍女の像在り
黒酢工場で
咽返る香は部屋に満ち満ちて出荷の時待つ甕並びおり
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- 中国国際航空
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太原市から道先案内に駆けつけられた80歳のご長老が左側の方です。真ん中の方が、S.P.先生の旧家の執事の身内の方だとお聞きしました。
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S.P.先生の旧宅は、塀で囲まれた広い敷地に、いくつもの建物が並んでいました。当時の様子をお聞きしながら、母屋方面に向かいました。
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一番左の方は、S.P.先生のご親戚の方ではないようです。現在、居住されている方の1人でしょう。訪問は、事前に連絡してあったそうです。
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現在住まわれている人の住居内も見学させて頂きました。S.P.先生のお話ですと、竈やベッドなど、当時の面影通りのようでした。
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同じ部屋の向かい側です。こちらにもベッドがあり、テレビも置いてありました。この部屋が今も使われていることが実感できる見学でした。
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S.P.先生が手にされているのは70年前の写真です。その撮影場所が目の前です。先生のお母さん達が写っていた、ご親族の記念写真です。
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S.P.先生が長く手を伸ばして、母屋の方を指し示されています。手にされた70年前の写真は、先生が生まれたばかりの頃の撮影です。事前に拝見させて頂きました。
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先生がこの地を去られたのは、関東軍の侵攻が激しくなったためとも、娘のEnちゃんからお聞きした事があります。その後、文化革命の影響もあったようです。母屋の正面の飾り彫刻です。
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先生の旧家でお目にかかった唯一のご親族の方です。今年、86歳になられました。S.P.先生の子供の頃と、お名前を記憶されていました。
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70年前の写真の場所です。今回の旅行に参加されたご親族が揃っての記念撮影です。先生は、奥の母屋の、左手の部屋で誕生されたようです。
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先生が子供の頃に遊ばれたと言われる屋上にも登らせて頂きました。辺りに高い建物は無く、見晴らしが利きました。
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屋上からの眺めです。遠くには新しいアパート郡も見えます。すぐ近くには屋根が壊れ、廃屋になった家屋もあります。
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屋上へ登る石段の壁にあった飾りです。五穀豊穣を祈念するものでしょうか。5、60センチの長さがありました。
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母屋に向かって歩く途中の建物です。左手にありました。孫濱先生とは、縁籍では無い方達が住まわれているようです。
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採り入れが済んだ玉蜀黍が山盛りに積んでありました。実が一杯に詰まったものや、疎らのものなど、様々です。
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軒から吊り下げられた唐辛子の束です。辛香料として欠かせない食材です。これから深まる秋の風物詩といったところです。
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ご親戚の86歳の長老もご一緒に記念撮影です。そのポーズが決まる前に失敬しました。Yn先生が腕をとって、ご長老を支えられています。
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遠巻きに様子を窺っていた方の1人が近くにやって来ました。現在この住居に住んでいるかたでしょう。その様子から、ご長老の身内の方では、無いようでした。
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名残惜しいですが、これでS.P.先生のご生家訪問は終わりです。皆が立ち去る時、86歳のご長老の寂しそうな姿が印象に残りました。
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当時の事を思い出されて、最初は涙を拭いながらのご対面でした。短い時間の訪問でした。本当は、もう少しゆっくりお話されたかったのでしょう。
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壊れてしまった住居部分です。かつて、この建物の2階には、S.P.先生のご親族のお1人が住まわれていたようです。
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屋敷を取り囲んでいた、石積みの塀は修復されないまま、大部分が壊れてしまったようです。僅かに残った一角です。
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S.P.先生の故居訪問の最後の写真は、朝顔です。真夏の盛りは過ぎましたが、綺麗なピンクの花を咲かせていました。
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大人しいワンちゃんがやって来て、一行を見送りしてくれました。ただし、中国では狂犬病予防の注射はされていませんので、触らない方が良いと教えて貰いました。
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昨日の宴会に参加されていた方の黒酢工場の見学です。この日もカメラを持った女性記者の取材がありました。
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出荷前に出来上がった黒酢は寝かされます。長い時間寝かされると、味がまろやかになり、風味も増すようです。出荷の時を待つ、甕に入った黒酢です。
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黒酢の材料は高粱です。蒸した高粱を醗酵させる前段階の作業です。白っぽい手前の山が発酵前で、奥の茶色の山が醗酵が始まっています。
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甕に入れられて醗酵を待つ黒酢です。製造工程が似たお酒と一緒で、温度管理が難しいようです。厚い座布団のような織物の蓋が使われていました。
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醗酵過程を終了して、1回目の蒸留です。この会社の社長さんが自らホースを手にとって、流れ出す黒酢を見せてくれました。
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黒い服の方は、宴会の席でお会いしたお酒工場の責任者の方です。太原の特産品、45度の竹葉青酒のラベルのボトルをお土産に戴きました。
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