2006/09/21 - 2006/09/27
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旅人のくまさんさん
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<2006年9月2日(土)>
この日のメモからです。「5時30分目覚し、散歩、7時に朝食、8時にホテル出発」でした。今日のメインは、大同市郊外の雲岡石窟の見学です。地図で調べますと、内蒙古自治区に隣接し、万里の長城へも近いようです。中国3大石窟の1つ、世界文化遺産に指定された雲岡石窟見学に心躍る、朝の出発の時間でした。(ウィキペディア)
<早朝の散歩>
5時半の目覚ましは、いつも通りです。これより早く起きる必要がある時は、それに合わせ、それ以外は決まった時間です。その方が、リズムが崩れず、余裕を持って旅行が楽しめます。目覚しで不思議なことは、鳴る直前に目が覚めると言うことです。1、2分前は良くあり、今回は、起きようとAU携帯を手にとって、1、2秒前ということもありました。
7時に朝食を摂るには、まだ時間がたっぷりありましたから、ホテル付近を散歩しました。部屋を出る前にカーテンを開けて、今日の天気を確認しましたが、上々でした。しかし、大同の町は雨が少なく、乾燥しきっていますから、遠くは霞んで見えました。多分、黄砂の影響でしょう。
街路樹の周りは深く掘ってありました。場所によっては、30センチはありました。貴重な雨水をためるためではないかと推測されました。青々と茂った街路樹の周りは柵で囲われ、大切にされているようでした。
<雲岡石窟見学へ>
予定通り、8時に車でホテルを出発しました。この旅行中、ずっとお世話になるマイクロバスと運転手さんです。昨日合流した、現地ガイドの王さんも、最終日までずっと案内してくれる手筈になっていました。その王さんが、昨日に続いて車の中で説明してくれた大同市のことです。
「人口の99%は、漢民族です。後は、僅かにタタール人等が住んでいます。冬は寒いので、石炭を焚きます。その費用は、1日当たり1元程です。大阪から来た植樹ツアーのお世話もしました。特産品の石炭は、天津まで運び、そこからは船で日本へ輸出されています」
などと言ったことでした。植樹はCO2排出量削減のための事業の一環でしょう。日本からは、オーストラリア等でも植樹事業に参加しています。道路の脇には、塀に囲まれた炭住街が続いていました。その炭住街が途切れたところで雲岡石窟に到着しました。
<雲岡石窟を造った北魏について>
雲岡石窟の説明の前に、それを造った北魏について説明しておきます。主にフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」を参照しました。
北魏(ほくぎ 386年?534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑拓跋部によって華北に成立した王朝です。国号は魏ですが、戦国時代の魏や三国時代の曹魏と区別して、北魏と称されています。後魏・元魏・代魏といった呼称もあります。
大雑把に言えば、北の蒙古高原から万里の長城を越えて進入してきた遊牧騎馬民族が、今の大同を都に建てた王朝です。
拓跋部は、261年に拓跋力微が曹魏に朝貢を行いました。このことが、のちに魏を国号に定めたいわれと言います。五胡十六国時代に代を建国しました。拓跋什翼■の時、前秦に滅ぼされました。
什翼■の孫の拓跋珪(道武帝)は、前秦が■水で敗戦して弱体化したことを機に、代王を称して386年に自立しました。国号を魏と改め、398年に平城に遷都して、帝を称しました。
その後、南下して後燕を滅ぼすと、それまでの部族制を解体し、貴族制にもとづく中国的王朝に改編していきました。
北魏は華北の諸国を滅ぼし、三代太武帝の439年、華北を統一しました。これより中国は南北朝時代に入りました。このころ道士寇謙之が道教教団を確立し、漢人官僚の崔浩と結んで太武帝に進言し、廃仏が断行されました。これを三武一宗の廃仏と呼びます。
六代孝文帝の時、馮太后の摂政のもと、儒教的礼制を採用し、均田制を施行し、三長制を確立しました。馮太后の死後、親政を開始した孝文帝は、さらに急激な漢化政策を進めました。493年、都を平城から洛陽に遷しました。漢化政策は鮮卑人の国粋的反発を呼び起こし、のちの六鎮の乱の伏線となりました。
その後の北魏は、六鎮の乱を経て軍人の力が強くなり、高歓と宇文泰により別の皇帝が擁立され、東魏と西魏に分かれることとなります。これをもって150年ほど続いた北魏は滅びました。
<雲岡石窟について>
本題です。次は雲岡石窟が造られた背景と、その特徴、推移などの説明です。
雲岡石窟は、敦煌、龍門と並んで中国三大石窟に数えられ、2001年、世界文化遺産に登録されました。雲岡石窟は、五胡十六国時代の一部族北魏鮮卑族が中国北部を制圧したことにより、和平元年(460年)に開削が始まった石窟です。最も初期に造られたのは「曇曜五窟」です。鮮卑族の五代目までの皇帝の姿を模して造られたといいます。元は霊巌寺といい、現在では石仏寺などとも呼ばれます。
曇曜(どんよう)は、雲岡石窟を造営するに当たって中心的な役割を果たした僧侶の名前です。途中、中国古来の道教を心棒する勢力が強くなったために仏教は廃仏の憂き目にあいました。その一時期、曇曜は都を追われていました。
その後、仏教の勢力が持ち直すと、曇曜は都に帰って、雲岡石窟の造営に力を尽くしたとされます。最初、桑乾河の支流の武周川の断崖に開いた「曇曜五窟」(第16窟韓第20窟まで)は、三武一宗の廃仏の、太武帝の廃仏の後を受けた、仏教復興事業のシンボル的存在が、この五窟の巨大な石仏です。
北魏の文成帝が先亡皇帝の追善のために、この五窟を開いたとされます。北魏の国力を傾倒したこの事業は、文成帝、献文帝、孝文帝の三代にわたって継続され、北魏の洛陽遷都(493年)までの間に、ほぼ完成しました。
北魏は、文化の進んだ漢民族を支配するために、仏教を国の中心に据え、現在の敦煌の辺りから僧侶を招いて、雲岡石窟を造営しました。252の石窟に5万体以上の彫像が残り、インドからシルクロードを経て伝えられた仏教文化が、中国独自の様式へと発展していった過程がよく分かります。実に国費の8割を当てたとの記述も見掛けました。
最初の五窟の後も、第1・2窟、第3窟、第5・6窟、第7・8窟、第9・10窟、第11・12・13窟と大規模な石窟の造営が続けられ、雲岡期(460年?494年)と呼ばれる中国仏教彫刻史上の一時代を形成しました。
様式上は、最初期の「曇曜五窟」には、ガンダーラやグプタ朝の様式の影響が色濃いとされます。その後の石窟では、ギリシャ様式の唐草文様に代表される西方起源の意匠も凝らされていて、当時の建築様式を模した装飾も豊富に見られます。
ガンダーラ仏の特徴は、くぼんでくっきりとした眼窩と、鼻筋の通った多少面長な顔です。ギリシャの影響が濃いものです。5世紀のグプタ朝様式は、最もインド的で、最も美しいと形容されます。伏目勝ちの顔に、深い瞑想的な雰囲気を保ち、柔軟でスマートな体躯に、流れるような衣文(えもん)が特徴とされます。
しかし、洛陽へ遷都する494年以降の末期になりますと、初期の雄大な質感は姿を消し、華奢で、力強さの感じられない造形が増加する傾向が顕著となります。
そして、この傾向の延長線上に、続く龍門期が待ち受けます。南下した北魏が、河南省洛陽を都として、龍門石窟を築きました。
また、その影響関係で言えば、雲岡の様式は涼州(甘粛省)の石窟にその淵源を持つとも考えられます。雲岡の影響は、龍門・天龍山・南北の響堂山などの広範囲な石窟寺院に及んでいます。
<雲岡石窟見学>
前置きは以上にして、雲岡石窟見学の印象を記しておきます。旅行の前にガイドブックを紐解き、この小冊子を纏める際に「仏像の知識百科(主婦と生活社)」なども参照しました。
「仏像の知識百科」によりますと、雲岡の仏像は、北京、朝鮮半島の楽浪に至り、そこから慶州を経由するルートと、扶余を経由して海のルートで九州北部に伝わったと想定されていました。扶余のルートが陸路を通らなかったのは、他の勢力圏を避けたためでしょう。改めて慶州の石窟庵にある石像を思い起こしました。世界文化遺産に指定された素晴らしい釈迦如来坐像です。
中国大陸から朝鮮半島を経由しない日本へのルートは、揚州辺りから九州北部へ伝わったと想定されています。中国本土でも、他国の勢力圏を避けるために、このルートが選ばれたようです。
見学は後代に作られた木造建築がある一角から始まりました。現地ガイドの王さんは仏教知識に詳しく、丁寧に説明をされていましたが、先にカメラに収めたい仏像が多くありましたので、グループから離れて先を急ぎました。殊に「曇曜五窟」と呼ばれる、最初に作られた巨大仏像群です。一通り、撮り終えたところで、皆さんと合流しました。暫く離れていましたので、エンちゃんから所在確認の電話が入った時でした。
グループに戻った後も、ガイドの王さんは、仏陀の縁起を記したレリーフなど、一つ一つ丁寧に解説をしていました。まだ入口からほとんど移動していませんでした。
世界文化遺産に登録された雲岡石窟は、二つの試練を与えられたようです。一つは石窟の背後や天井から染み出してくる湧水です。岩盤に直接刻まれた仏像の保存状態は問題ありませんでしたが、粘土を貼り付けて、その上に刻まれた仏像は、大きな被害を受けていました。
顔が殆んどなくなった仏様や、膝から下が崩れ落ちた坐像がかなり多くありました。至る所に小穴が開いていたのは、粘土を支えた杭が流された跡でした。
もう一つの試練は、文化大革命の時の棄損です。この詳しい実態は知る由もありませんでしたが、国家プロジェクトとして、修復作業が継続されていました。その様は、パネルに展示されていました。その一角では、修復作業を見つめる故周恩来首相の写真なども眼にしました。
雲岡石窟を見学して、世界文化遺産に登録されただけの価値を実感することが出来ました。北魏の時代の仏像は、朝鮮半島に素晴らしい仏像芸術を生み、その続きとして日本へも大きな影響を与えたことは疑いありません。シルクロードの証とその恵みを、ここでも垣間見た思いがしました。
<懸空寺>
恒山18景の第一景に数えられる懸空寺は、恒山の入口の険しい金龍峡に位置しています。大同市内からは、東南へ70km程に位置しています。絶壁の中腹に、寺がへばりついている様は、まさに圧巻です。ただし、高所恐怖症、閉所恐怖症の方には、決してお勧めできません。
この懸空寺は、今から約1400年前の北魏の時代に造られました。修行僧のために作られたお寺だと、現地ガイドさんにお聞きしました。明・清の時代からは、仏教・道教・儒教の始祖が、同じ一つの堂に仲良く祀られています。
切り立った岩肌の中腹に、細く長い木で支えられた様を見ますと、果たして登っても大丈夫かと、思わず躊躇をします。しかし、この細い支柱は飾りのために後代に設置されたものだと、ガイドさんからお聞きして、まずは、ほっとしました。建物の強度は、岸壁に穴をあけて、横木を差し込んだ梁で保っているとの事でした。その上に寺社が建てられています。
楼閣を結ぶ狭い通路を移動しますので、既に述べたように、高所恐怖症だけでなく、閉所恐怖症の人にはちょっとつらい場所となります。インターネットの情報の中に、タクシーの運転手さんが「在大同、最好玩的還是懸空寺(大同で一番面白いのはやっぱり懸空寺だよな)」と話されていたことが紹介されていましたが、このスリルを暗に教えていたのかも知れません。
懸空寺の右下に、赤い文字で「壮観」の文字が見えます。その文字には「、」が余分に付いています。この後見学した華厳寺でもこの文字を見ましたが、李白が間違って揮毫した文字がそのまま記されたようです。
彼は豪放磊落で非常な酒好きでした。本人曰く、常に酔っ払っているということで、玄宗の前に召された時も酔っ払っていて楊貴妃に対して暴言を吐いたため、官職をクビになったとも言われています。「、」が一つくらい多くても、彼にとっては、たいしたことではなかったかも知れません。
ところで、懸空寺では、年代を経たのに、建物や装飾に使われた原色が良く保存されていました。この理由は、「日照時間が短いのと、崖が屋根代わりになって雨が当たり難い」のがその理由のようです。
下から見上げますと断崖に虹がかかったように見え、谷を隔てて遠くから眺めると鳳凰のヒナに見えると言われています。
<応県木塔>
懸空寺の見学はスリリングで、しかも見所十分でした。五台山へ向かう途中、もう1箇所の名刹見学に立ち寄りました。それが応県木塔です。
応県木塔は、「世界で最も高くて、中国で最も古い木造の仏塔」として、今年の9月5日に落成950周年を迎えました。現地で間近に見て、「世界文化遺産クラス」と直感しました。
現地ガイドの王さんに、北京の「天壇」との比較で、その事を訪ねましたら、「北京と違って、ここは田舎ですから、後回しになったかも知れません」との答えが戻ってきました。日本へ戻って調べた結果でも、世界遺産の候補として有力なことが記されていました。
1056年に建てられた応県木塔は、高さ67.31メートルで、世界中の木造の塔の中で、最も高いと言う説があります。実際に目にしますと、2階部分までは、石造りですから、この部分は、純粋な木造建築との比較で、評価が分かれてしまうかも知れません。中国最古の木造建築である事は、疑いがありません。2階部分が裳階に見えますから、現地では五重の塔かと思いましたが、八角九層が正しいようです。
各階に仏像を安置し、1階には釈迦像を祀り、壁面に如来が描かれています。2階には釈迦、文殊、普賢の三尊仏を祀り、3階には四方仏塑像、5階には釈迦坐像と八方にそれぞれ八大菩薩を安置しています。2階以上(実質3階)、立ち入り禁止にされています。
現地ガイドの王さんが日本の建築学会のメンバーを案内された時に、この建物の損壊部分を指摘されたようです。残念ながら、それを修復する技術が、中国には伝承されていないようです。
現存する世界最高レベルの木造建築物、応県木塔が自身の重さに耐えかね、木組の損傷により、倒壊の危機に曝されていることが、2002年時点のインターネット情報にも書き込まれていました。
現地調査を行った中国の専門家は、緊急保護措置をとるよう呼びかけていますが、未だその有効策が見出されていないとされます。塔の重さが約5300トンの東洋の斜塔は、その倒壊の危機を迎えつつあるようです。
写真撮影は、一応禁止されているようでした。しかし、フラッシュを焚かない場合、注意されませんでした。椅子に腰掛けた監視の若い係員の方と目を合わせましたが、何も表情が変わりませんでした。
登った2階に安置してあったのは、解説どおり、釈迦坐像を中心に、左右に文殊菩薩と普賢菩薩が配されていました。彩色も鮮やかに残っていて、これらの収蔵品も、応県木塔が世界文化遺産の候補になっている、大切な要素と見受けました。
<山道を五台山へ>
応県木塔の見学を終った後は、ひたすら五大山への山道を走りました。私の印象は、一言で「石炭街道」でした。行き交う車は、全て石炭を運ぶトレーラーでした。往きは坂道を喘ぎながら登り、軽くなった帰りは、軽快に坂道を下っているようでした。
バスの運転手さんは、見通しが利く場所へ来ると、警笛を鳴らしては、上りのトレーラーを追い越していきました。ガイドさんの話ですと、少しでも利益を上げようと、過載のトレーラーが多いようです。中には、それが原因でシャフトが折れて、動かなくなったりするようです。途中、崖に落ちたまま、放置されたトレーラーも見かけました。
やや日が傾いてきた山道で目にする光景は、原野と言った印象がありました。雨が少なく、耕作には適していないことが読み取れました。耕作されている畑は、ほんの僅かでした。
途中、1箇所で休憩を取りました。インフラ整備が遅れた、ガソリンスタンド兼備の休憩所でした。五台山が近づく頃には、辺りは夕闇に包まれました。検問所で入山料を払いましたが、全員バスを降りて人数確認がありました。外は、かなりの冷え込みになっていました。
雲岡石窟で
石仏を見上げて暫し佇めば木霊聴こゆる小さき鑿の音
合掌の御仏の前吾も亦合掌してはシャッター押せり
懸空寺で
断崖を恐る恐ると足運び往くも戻るも狭き桟道
千年を険しき寺に過ごせしも笑みの絶えなん仏像のあり
応県木塔で
木塔は少し傾き青空に水煙伸ばし今日も立ち居り
ユネスコの登録近し木の斜塔永らえ給へ次の千年
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- 中国国際航空
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大同では1泊だけでした。集合時間には余裕を持って起床しましたから、翌朝の散歩です。ホテル界隈をぐるりと回りました。
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珍しく街路樹が繁っていましたから、画面の半分はその街路樹を入れての撮影です。多分、自然の雨だけでは生育しない環境でしょう。
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東側を向いての撮影です。既に日は登っていますが、霞んで見えます。これも黄砂の影響でしょうか。建物が全部シルエットになりました。
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大切に育てられている街路樹のようでしたから、もう一枚写真紹介します。街路樹の周りには柵が設けられ、手厚く保護されていました。
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今回旅行のハイライトの1つ、雲岡石窟見学への出発です。この日、石窟見学の後は、このホテルには戻らず、五台山方面への移動予定です。
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雲岡石窟へ向かう車中からの撮影です。岩のように見えるのは、現地ガイドさんの話ですと、かつての狼煙台です。狼の糞を燃やしたようです。
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ベンガラ色の長い塀に囲まれた一角は、炭鉱の住宅街とお聞きしました。乾燥に強いポプラの樹が所々に聳えていました。
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S.P.先生の左側の方は、ニューヨーク在住の妹さんです。中国女流作家の世界会議が中国で開かれましたので、そのついでに、この旅行に参加されました。
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駐車場から歩いて雲岡石窟へ向かう途中です。前方に石窟と、その手前に建物が見えてきました。岡の上は城壁都市の名残のようです。
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今回の旅行に参加されたS.P.先生のご一家と、先生の妹さん達です。右側からお二人の方は上海にお住まいです。以前にもお目にかかりました。
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文字がはみ出しましたが、「云」は「雲」の簡略体です。雲岡石窟の石碑の前でのYkさんご夫婦の記念撮影です。世界遺産に登録されたのは、2001年のことです。
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同じ場所で、今度はYmさんご夫妻の記念撮影です。6月のシャングリラ旅行の時は、高度が高く、体調不良でご苦労されましたが、今回は心配ありません。
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次第に石窟が近づいてきました。石窟の入口には後年、清の時代に作られた建物があります。綺麗な瑠璃色の瓦の建物です。
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建物は収蔵庫や、石窟の像や、明の時代に描かれた画などを風雨から守ったりする役割があるようです。石窟に相応しい品格のある造りです。
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暫くは雲岡石窟の仏像をご覧ください。石窟は今から1500年以上も前に造られ始めました。これは、赤い彩色が残った北魏の時代の仏像のようです。
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目の部分にだけ自然光が差し込んでいましたから、うまく写真には写りませんでした。北魏の時代は、日本の飛鳥・白鳳文化にも影響を与えたとされます。素晴らしい仏像の数々が残されています。
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仏像に詳しい現地ガイドの王さんに「北魏の仏像の赤色の染料は何を使っていますか?」と質問しましたが、答えは戻ってきませんでした。
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暗い中で、フラッシュを焚かずに撮影しましたから、ほとんどモノクロの写真となってしまいました。北魏の仏像は、微笑と赤の染料が印象的です。
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衣を纏い、堂々としたお姿の仏像です。吉祥印のお釈迦如来様でしょうか?それとも薬師如来様でしょうか?
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アーチ部分に掘られた仏像のレリーフです。インドのガンダーラ仏の影響を受けた仏像でしょうか?かなり自由な肢体の仏像様達です。
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岩と岩との間をふさぐように立てられた建築物です。石窟の仏像は、外からの風雨だけではなく、背後からの湧水が、それ以上に大敵なようです。
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仏像は岩に直接彫られたものだけでなく、粘土を岩に貼り付けて作られたものも、多くあります。背面からの湧水が、この粘土を溶かしてしまうようです。
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余り大きくない仏像群です。全面に施された彩色も良く残っています。保存状態が極めていいケースでしょう。
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余り大きくない仏像を、ズームでアップした上で、横からの撮影です。端正な顔立ちの仏様です。
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柱の部分は、ガウディの建築物のように不規則な形をしていました。岩盤の風化より、表面の粘土がはがれたためでしょう。
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今度は石窟を横からの撮影です。岡のような場所の端を使って、石窟が彫り進められていました。風化が進み、立ち入り禁止箇所もありました。
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年代によって、石窟に掘られた仏像の大きさ、様式も異なっているようです。この箇所では、天井付きで、2段、3段にそれぞれ仏像が彫られていました。
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一番下の段は風化が進んでいました。裏側からの湧水でしょう。いくつもの穴が見えるのは、粘土を岩盤に固定するために杭が使ってあった箇所です。
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仏像のお顔の部分は損壊を免れていましたが、腕から下の部分は残念ながら、造られた当時の形が消えかかっていました。
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こちらの仏像は、幸い、損壊が進んでいませんでした。組まれた足も、はっきりと形が残っていました。金色に彩色か、金箔を貼ってあったようです。
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