ぐでたまさんさんのクチコミ(79ページ)全2,003件
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投稿日 2013年10月29日
総合評価:1.0
久住高原の一般道よりは少し高い所を走る観光用の有料道路です。
夏に絶景を期待して走りましたが、草が繁って全く景色は見えず、最悪でした。どうも後で調べたところ紅葉シーズン以外は通ってはいけない道路のようです。リサーチ不足でした。- 旅行時期
- 2012年08月
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投稿日 2013年10月29日
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投稿日 2013年10月29日
総合評価:5.0
阿蘇の外輪山の外にある久住高原は、本当に美しい景色の高原です。山梨や長野も悪くないですが、高い山が無く、阿蘇まで続く人工的な物がない丘陵と青い空、浮かぶ白い雲が視界を遮ることなく連なり感動的ですらあります。始めてこの景色を見た時は、驚きました。何度でも行きたい場所です。
- 旅行時期
- 2013年10月
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投稿日 2013年10月29日
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投稿日 2013年10月29日
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投稿日 2013年10月29日
総合評価:3.0
武家屋敷通り入口にあり、武家屋敷跡を法務局が使用していましたが、移転後の平成2年に竹田市が、整備した建物です。建物は本館と蔵があります。本館は、畳の座敷で、各種講座・研修会・展示場として利用され、毎年2月中旬~3月にかけてはお雛様の展示、11月中旬には「たけた竹灯籠 竹楽(ちくらく)」の会場としても利用されているそうです。訪問した10月末は、イベントはなく、蔵には、観光案内パンフレット・各種研究資料等が置かれていました。
- 旅行時期
- 2013年10月
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投稿日 2013年10月28日
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投稿日 2013年10月28日
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投稿日 2013年10月28日
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投稿日 2013年10月28日
総合評価:3.0
岡藩時代の面影を残す武家屋敷通り。江戸時代の古地図には百石から二百石取りの武士の武家屋敷13軒が120mに渡って連なっていたそうです。
白壁もありますが、壁から白い漆喰の落ちた武家屋敷の塀や立派な門が残っています。門の中は、駐車場になっていたりで、屋敷の維持の難しさを感じさせます。
萩、杵築と比べると保存状態はよくないですが、観光客も少なく、静かで、雰囲気は充分楽しめます- 旅行時期
- 2013年10月
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投稿日 2013年10月28日
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投稿日 2013年10月28日
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投稿日 2013年10月28日
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投稿日 2013年10月28日
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投稿日 2013年10月27日
総合評価:3.5
黒川温泉から車で7から8分の瀬の本高原にあるホテル。
黒川からは離れていますが、入湯手形は利用できます。
築年は結構経っていますが、部屋や設備は随時更新されていてそれほど古さを感じさせません。部屋も和洋室で、広くて、設備がよく、清潔感があります。
食事は、品数が多く量は充分にあります。全体が和食系のなかで、イタリアンな感じの生ハムサラダはなくてもいいかなと思いました。味は、悪くないです。刺身、鴨肉、天ぷらが良かったです。
お風呂は、内湯は他のお客さんがおらず、貸し切りではいれました。広くて快適です。露天風呂も久住高原が綺麗に見えます。- 旅行時期
- 2013年10月
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投稿日 2013年10月27日
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投稿日 2013年10月27日
総合評価:4.0
花みず木は、黒川温泉峡からは離れた所にポツンと一軒立つ温泉旅館です。
今回は湯巡りで利用しました。清流が湯船の真下を流れる露天風呂は、広くて、ややぬるめで気持ち良かったです。湯船の浅瀬に寝転ぶと星空が見え、贅沢な時間を過ごせました。
洗い場、脱衣所とも寒くなると冷えるので、露天風呂はちょっと辛いかもしません。- 旅行時期
- 2013年10月
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投稿日 2013年10月25日
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投稿日 2013年10月25日
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投稿日 2013年10月24日
総合評価:3.0
今は、石垣の後と石垣のない天守閣の跡が小山のような台としてのこっているだけですが、戦国を生き抜いた城の一つです。
柳川城は永禄年中(1558~1569)、蒲池鑑盛(あきもり)によって本格的な城として作られたもので天然の要害である水の利を充分に生かした平城で堀をめぐらし、扉の開閉によって城内の水が増減出来るようになっていた。蒲池氏は、竜造寺氏により滅ぼされた。天正15年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際して、その功により筑前立花より19歳で当地にうつされたが、慶長5年(1600)関ヶ原役において、西軍にくみしたため改易された。この後に岡崎城主田中吉政が筑後一円32万石余の領主として入国し柳川を居城とするに及び、石垣を高くし天守を築き、従来にも増して防備を厳重にした。
元和6年(1620)田中吉政の子忠政に後継なく断絶したため、奥州棚倉より12万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国した。以来明治維新を迎えるまで250年間立花藩の居城であった。
明治5年(1872)正月18日夕刻、火を発し慶長以来威容を誇った天守閣も一夜にして焼失した。石垣については、明治7年(1874)の大風により海岸堤防が決壊したためその補強に転用された。- 旅行時期
- 2013年10月





























































