柳川城跡 柳川
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- 旅行時期:2013/10(約12年前)
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by ぐでたまさんさん(男性)
柳川・大川 クチコミ:8件
今は、石垣の後と石垣のない天守閣の跡が小山のような台としてのこっているだけですが、戦国を生き抜いた城の一つです。
柳川城は永禄年中(1558~1569)、蒲池鑑盛(あきもり)によって本格的な城として作られたもので天然の要害である水の利を充分に生かした平城で堀をめぐらし、扉の開閉によって城内の水が増減出来るようになっていた。蒲池氏は、竜造寺氏により滅ぼされた。天正15年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際して、その功により筑前立花より19歳で当地にうつされたが、慶長5年(1600)関ヶ原役において、西軍にくみしたため改易された。この後に岡崎城主田中吉政が筑後一円32万石余の領主として入国し柳川を居城とするに及び、石垣を高くし天守を築き、従来にも増して防備を厳重にした。
元和6年(1620)田中吉政の子忠政に後継なく断絶したため、奥州棚倉より12万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国した。以来明治維新を迎えるまで250年間立花藩の居城であった。
明治5年(1872)正月18日夕刻、火を発し慶長以来威容を誇った天守閣も一夜にして焼失した。石垣については、明治7年(1874)の大風により海岸堤防が決壊したためその補強に転用された。
- 施設の満足度
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3.0
クチコミ投稿日:2013/10/24
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