ねこにゃんさんのクチコミ(92ページ)全2,914件
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投稿日 2013年07月24日
総合評価:4.5
1700年ほど前、この大隅島に離宮を営んでおられた応神天皇が崩御の後、里人が帝の御徳を慕い宮址に神祠を建立したのが起源とされています。
ある年に淀川が氾濫し賀茂(かもの)明神の御神体が漂着して霊光を放ち、里人はこれを迎えて産土神に合祀し、社名を賀茂神祠と改め社殿を2つに分けました。3,000坪以上の境内には杉や松が繁り、社殿も壮麗でしたが、明治初年に周囲を民有地に払い下げました。そして、応神天皇を主祭神とし、名も大隅神社と改められました。境内に狛犬や灯籠が多いのは、稲生神社などを合祀したからです。- 旅行時期
- 2013年07月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2013年07月24日
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投稿日 2013年07月23日
総合評価:4.5
かつて、幾度も淀川の洪水に見舞われたこの地を、後白河法皇が行幸されたおりに その惨状を哀れみ、当地の守護神として神社を建てるように命じられました。そこで、毛馬・滓上江・友渕など8か村の人々が協力して、永暦元(1160)年に建てたのがこの神社です。旧本殿その他は戦災で焼失しましたが、昭和24(1949)年に再建されました。天照大神をはじめとして15神を合祀したので、当初は十五社神社と名づけられましたが、昭和18(1943)年に都島神社と改められたそうです。
- 旅行時期
- 2013年07月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2013年07月23日
総合評価:3.5
源平の戦いで知られる1185年(元暦2年・寿栄4年)の2月、九郎判官源義経が平家追討のため四国に渡ろうとして、大物(元尼崎の地名)の浦から軍船を出したことがありました。ところが折からの突風にほんろうされ、船は大和田の浦にうち寄せられたので、ここで再度軍容をたてなおしました。のときの由縁の松が義経の腰掛松とも手植の松とも呼ばれて伝えられていますが、当時の状況からして、前者が正しいのではないかと思われます。また、土地の庄屋が義経に鮒の昆布巻きを献上したところ、たいへん喜ばれたことから、フジタ(鮒子多)の姓を名乗るようになったとも言われているそうです。
- 旅行時期
- 2013年07月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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いつも駐車場に停まっている車が少ない
投稿日 2013年07月23日
総合評価:3.5
店名前がから何が食べるのかが判りにくい性もあるのか、いつも店の前を通っても駐車場に停まっている車がすくなく、土日の繁忙時間帯でも待ちが出来ていないのがこの店の特徴です。食べて特したって思える値段では無くこれでは、サイゼリヤの方がマシに思える
- 旅行時期
- 2013年07月
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- サービス:
- 3.0
- 雰囲気:
- 3.0
- 料理・味:
- 3.0
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投稿日 2013年07月23日
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1945年(昭和20年)6月7日大阪を襲った大空襲で身元不明の人、千数百人の遺体を城北公園裏の淀川堤に集められ荼された・・・
投稿日 2013年07月23日
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投稿日 2013年07月23日
総合評価:4.0
古代から淀川は流域住民に恩恵をもたらすと同時に、洪水という恐怖をも与えた。延暦7年(788年)に摂津職の大夫であった和気清麻呂が「河内・摂津両国の堺に川を掘り、堤を築き、荒陵の南より、河内川(淀川)を導きて西の方、海に通ぜん」(続日本紀)と淀川の改修工事を天皇に言上し、三国川(神崎川)に通じる水路を掘りひらき、淀川の水を分流させた。その後、明治11年につけかえ工事(直川化工事)が行われ、その後数回の淀川築堤工事が進められ、神崎川の水量調節と舟運のためのこう門が明治38年に完成した。 その結果一部の蛇行した神崎川が消えて今の形に成りました。
- 旅行時期
- 2013年07月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年07月23日
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神社の祭礼において神(一般には神体を乗せた神輿が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所
投稿日 2013年07月23日
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淀川の水が特に清澄であることから、小湾を設け「青湾」と名づけたそうです。
投稿日 2013年07月23日
総合評価:3.5
豊臣秀吉は、このあたりの淀川の水が特に清澄であることから、小湾を設け「青湾」と名づけ、好んで茶の湯に用いたといわれているそうです。桜宮付近の川水は味がよく、明治に至るまで、飲料水として市中に販売され、網島には水問屋が軒を並べていたんだそうです。青湾の碑は、文久2年(1862年)、煎茶を普及させた売茶翁、柴山元昭の百年忌にあたって開催された青湾茶会に際し、当時、湾の近くに寓居していた南画界の高峰、田能村直入(たのむらちょくにゅう)らが建立したもので、裏面に「「コノ湾ノ水甘香ニシテ茶ニ適ス汲ミテ尽キズ青霞ヲ吸ウニマサル」と刻されています。
- 旅行時期
- 2013年06月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2013年07月23日
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この辺は水流の激しいところで船が転覆して多くの犠牲者が出たのでその冥福を祈って建立されたそうです
投稿日 2013年07月22日
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「都島」の地名は、難波宮(なにわのみや)の近くであったことから
投稿日 2013年07月22日
総合評価:4.0
「都島」の地名の由来は、その昔に難波宮の近くで、難波宮の向こうの地であったことから、「宮向島(みやこじま)」が転化して都島となったともいわれているそうです。明治22(1889)年「市制町村制」の施行、さらに、市域拡張や行政区の再編成を経て、昭和18(1943)年4月1日、大阪市の22区制実施により、現在の区域による都島区が誕生しました。
- 旅行時期
- 2013年07月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年07月22日
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投稿日 2013年07月22日
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投稿日 2013年07月22日
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百済王氏が一族の氏寺として建てた寺の跡地を史跡公園として整備
投稿日 2013年07月22日
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投稿日 2013年07月22日
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投稿日 2013年07月22日























