北田辺さんのクチコミ(24ページ)全2,368件
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元曽根崎川(別名を蜆川)に架かっていた橋の跡を示す碑
投稿日 2015年06月24日
総合評価:2.5
大阪の北新地にはかって曽根崎川(別名を蜆川)が流れていた、現在の堂島川が北へ迂回してこの付近で西へ向きを変えて、桜橋、福島へと流れていたが明治末期から大正初期に欠けて埋め立てられた、この一帯は北新地と呼ばれるスナックなどが林立する夜の街になっている、曽根崎川に架かっていた蜆橋の場所は滋賀銀行大阪支店のビルが建っておりそのビルの南端一階の壁に銅板がはめ込まれていた
- 旅行時期
- 2015年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 1.5
- ビルの壁面に表示があるだけ
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投稿日 2019年07月15日
総合評価:2.5
大阪天満宮の蛭子門に向かって左側にこの碑と説明板があります。説明板によると、江戸中期の宝暦年間に大阪天満宮の前でガラスの製造をが始まったとされているのでここが大阪ガラス工業の元祖とされた由縁です、石碑にはガラス発祥の地と刻ざまれているが上に小さく大阪の文字がある。大阪の発祥地であって他に発祥の地はある様だし蛭子門の横に設置してあるが天神さんとは関係なさそうです、紛らわしいです
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 友人
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投稿日 2019年07月15日
総合評価:3.0
淀川から京橋付近で合流している寝屋川,ナマズ鯰川への逆流対策として築いた隔流堤が明治9年オランダ人技師を招聘して構築したとされている、明治9年にオランダ人がこの堤構築の知識を持っているのをどうして知ったのかどんな連絡方法だったのかすごく興味がある、工法はあまり高度ではなく木の枝を束ねて輪にしてこの中に石を投入これを川の中央に設置して水勢を弱めようとするだけ、効果の程は解りませんが当時の大阪の役人には考えが浮ば無かった??、
この碑は天満橋北詰の下流に向かった階段を下った10m先にあります- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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道真公が亡くなって50年後村上天皇勅命で創建された古社、天神祭りは大阪天満宮の御祭礼
投稿日 2019年07月15日
総合評価:4.0
管原道真公が大宰府で亡くなって50年後に村上天皇勅命で創建された古社、御祭神は、菅原道真公、学問の神様として慕われていることもあって境内に吊るされていた絵馬.お札は半端なものではなかった、天満の天神さんと呼ばれ毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭りとして有名、天神祭りはこの神社の御祭礼なので祭りが近づくと境内はもちろん商店街が大混雑する為早めに参拝しました、静寂の中でお参りさせて頂きました、
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 見ごたえ:
- 4.0
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大阪北の大歓楽街である曾根崎新地(北新地)に曾根崎川が流れていた
投稿日 2019年07月14日
総合評価:2.5
大阪北の大歓楽街である曾根崎新地(北新地)には曾根崎川が流れていた、へ南北は国道二号線より南へ四筋程が、東西は東は御堂筋、西は谷町筋で囲まれた長方形の区域が北新地と呼ばれている、東西に四本ある道路両側はびっしりスナック等の店が並ぶ、ほとんど3~5階建てのペンシルタイプのビル、当時堂島川から分岐して東から西に向かって流れており御堂筋付近の蜆橋から桜橋、緑橋、梅田橋などが架かっていた、河村瑞軒により川が改修され新地が開発されたことでお茶屋や商人が住み現在の歓楽街に結び付いている、当時の川を連想するものは存在しない現地に大阪市が建てた説明用石碑のみが当時を忍べる唯一のものです
- 旅行時期
- 2019年07月
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淀川の毛馬閘門から分岐して天神橋付近までの流れを指している、両岸は公園や緑道で整備されている
投稿日 2019年07月14日
総合評価:3.5
淀川の毛馬閘門から分岐して途中桜の宮、天満橋を通過して天神橋付近までの流れを指している、両岸は公園や緑道で整備されている延長15KM程の河川、天神橋を過ぎると中之島
(中州)があり島の両側に分岐して土佐堀川と堂島川となり最後に宇治川となり大阪湾へ注ぐ川の両側は都市公園や緑道が整備されて水の都だった大阪の名残を伝えている、この川を見るのは京阪天満橋駅から天満橋、JR桜ノ宮駅から銀橋が交通の便から好適地です、水は水路一杯に満たされ威風堂々とした様相を呈している、- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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投稿日 2019年07月14日
総合評価:2.5
大坂梅田から東へ1KM行った神山町交差点付近に公道の中程やや歩道よりの真ん中に祠がありました、ここだけ一車線が急に祠の横を迂回する不自然な道路になっています、小さな中之島で大きな銀杏の木がうわっているかなり昔からこの木を切ると祟りがあるとして誰も恐れて触らなくなり道路拡張時も残されたとされています、銀杏の木の下に龍王大神と言われる神様が祀られておりこんな道路の中なのに綺麗な花が生けられ付近の雑草も取り除かれていました、理屈では言えない神秘性があるのでしょうか通行中の私も拝ませて頂きました
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 友人
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本陣とは、戦の前線基地とか参勤交代の大名宿舎を連想するが大坂城内にこのような施設などあり得ない、お土産屋さんの名称です
投稿日 2019年07月13日
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投稿日 2019年07月13日
総合評価:4.0
高野山真言宗の寺院、JR大阪駅、阪急梅田駅から曾根崎警察署北側の道を徒歩10分で行けますお参りには至極便利な場所にある、本堂の御本尊は千手観世音菩薩、このお寺には霊場巡りの札所が沢山あります、本堂は新西国三十三ヶ所 一願堂は近畿三十六不動尊、などの多数の霊場札所があり多機能なお寺さんと言えます、早朝の参拝であったが通勤者と思える人が多数お参りされ正門ではお礼して出入りされていた、寺へのご尊敬の表現だと思う
- 旅行時期
- 2019年07月
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付近で在職していた時昼の休憩をさせてもらった、懐かしい境内ちっとも変わっていない
投稿日 2019年07月13日
総合評価:3.5
付近で在職していた時昼の休憩をさせてもらった、北側の門から入り本殿に参拝後摂社の榎木神社横が木陰で休憩に最適場所、毎年1月9日~11日の3日間が十日戎でこの時は境内が溢れる程の参拝者がいたが平時は閑散としていた、御神徳はいつでも同じように頂けると勝手に決めて参拝していた、昼間だったので神前で一人大きな音を出して柏手を打っていたのが懐かしい思いでです。今日も以前のような大きな音で柏手を打つことができ参拝を終えた、
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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大阪夏の陣で大坂城が落城、秀頼と淀殿は自刃、淀殿の墓は太融寺にある
投稿日 2019年07月13日
総合評価:3.0
大阪夏の陣で大坂城が落城、豊臣秀頼と淀殿は大坂城天守閣の北側で自刃、淀殿の墓は太融寺にあり、太融寺との関係や淀殿だけなのかなど複雑な歴史は判らないが当時としては超大物であった方がひっそりと祀られていた。いつ来てもきれいなお花がお供えされているのはお寺の方以外にお参りされているのかもしれない、大阪と秀吉、秀頼はいつまでも
心に残したい人物と言える- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 友人
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投稿日 2019年07月13日
総合評価:3.5
回転すしの席と離れと呼んでいる椅子席がある、回転台に乗っている寿司はまず食べないで椅子席に行く、注文はタッチパネルで出来上がると店員が持ってきてくれる、ここの店は初めてだがチェーン店なので注文品にあたりあぐれがないのが良い、昼なので定食の松竹、梅の中から竹にした、みそ汁をうどんに変更してもらう、ここのうどんは関西風なので汁まで飲み干した、薄味で好みの味です、どの店へ行っても同じパターンで満足しています
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 1,500円未満
- 利用形態
- ランチ
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投稿日 2019年07月13日
総合評価:3.0
明治初期に鉄道が京阪間に開通するまでは大阪の京橋と京都の伏見間は淀川の船運が盛んであった、三十石とは米俵を三十俵のことで人力で川を上り下りする最大級の船とされていた、沿岸の情景を歌いながらの長閑な船旅が連想されますが京阪間は8時間かかったと言われており船頭さんはさぞ疲れたことと思われます
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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投稿日 2019年07月13日
総合評価:3.5
阪神百貨店梅田本店地下スナックパークにあるいか焼店 、551の蓬莱、御座候、焼きそばなどこの一角はお祭りの屋台店を思わせていろんな匂が充満して食欲がわいてきます、デパートではよく各県の物産店などで見かける風景ですがここは常設、旧阪神百貨店時代からこのコーナーが一番賑っており改築後も店舗を一新して 盛業していました、大阪人はきどらないのがいいところです
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 500円未満
- 利用形態
- その他
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投稿日 2019年07月13日
総合評価:3.0
大阪天満宮の正門少し右側に川端康成生誕之地を示す石碑と銘板があった、明治32年に料亭相生楼の敷地南端に生家があったと記されている、4~5年前確か相生楼があり門前右手にあったはずと思い探したが見当たらない、碑は見つかったが相生楼は移転?したのか跡地はマンションなっていてその玄関先に元の碑がありました、マンションの人でしょうか碑付近は綺麗に掃除されて清々しく感じました
- 旅行時期
- 2019年07月
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投稿日 2019年07月13日
総合評価:3.0
地元の天満周辺で歌われていた天満の子守歌の歌碑が南天満公園にあった、多忙な母親の
代わりにお姉ちゃんが子守りをさせられている、赤ちゃんを"おんぶ"して"ねんねこ"を着せている姿はとっくの昔なくなった、懐かしい姿です、この碑の付近には天満青物市場があった場所で歌詞の一部ですが、< 天満の市で 大根そろえて 舟に積む 舟に積んだら どこまでゆきゃる>… 赤ちゃんには難しい歌詞かな、しかし地元の情景が目に浮かびます- 旅行時期
- 2019年07月
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大川に架かる天満橋と天神橋の間にある公園、堤防より低い位置にあり川面が近くに眺められます
投稿日 2019年07月13日
総合評価:3.0
大阪市内を東西に流れる大川に架かる天満橋と天神橋の間に跨る細長い公園、堤防より低い位置にあり川面が目前に眺められます、一つ下流の天神橋からは中州になり川は両方に分かれるがこの付近は本流のみで流量も多いので公園からの眺めは雄大さを感じさせます公園内には、天満の子守歌の碑、天満青物市場跡の碑などの碑を見ることができます、公園周辺は住宅街なので散歩の人を多く見かけます
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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大阪市内には米市場。,魚市場。青物市場が単独であったが昭和初期に中央市場として纏められた
投稿日 2019年07月12日
総合評価:3.0
江戸時代にはすでに堂島。雑喉場、靭。木津などに市場が設けられていた。この地は水路と陸路の交差する運送拠点であった、天満は淀川(大川)、寝屋川の合流地点であり流域の農村地帯は青物の供給地であった、大阪城の入城口の一つ京橋口はこの付近にあり城への物資搬入元として重要な市場であった、必然的にこの地が青物の集積地として栄えたことと思える
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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淀川の船運で大坂の起点となった場所に架かる橋、江戸時代は公儀橋
投稿日 2019年07月12日
総合評価:3.5
明治初期に大阪と京都間に鉄道が開通するまで京阪館の交通、輸送手段として淀川の船運がありそので大坂の起点となった場所に架かる橋、江戸時代は公儀橋、この橋は寝屋川に架かっており上流の野崎観音参りでも利用されていた、大阪城築城の資材主として石材は京橋付近に運び込まれ城の京橋口から搬入されていたと云われている、古い歴史の中に存在しているが現在他にも橋があることから通行量は少なく目立たない状態、交通の拠点も3KM程程離れた場所に移ったが京橋駅として使用されている、
- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 3.0
- 京阪電車又はおおさかメトロ天満橋駅から徒歩15分
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投稿日 2019年07月11日
総合評価:3.5
天満橋と天神橋よく似た橋ですがどちらも大阪天満宮に因んだ名前です、天満橋は南詰が京阪電車天満橋駅、天満橋の上から見ると大川の流れの先に天神橋が見られます、橋を渡り(下流に向かって右)大川に沿ってと南天満公園の一つ下流の天神橋まで続いています、公園の西端が天神橋の北詰、天神とは北にある大阪天満宮のことです、7月中旬には天神祭りの御渡船がこの橋の袂から出発しますがしますが今は静か、公園の木々の間から姿を見せる天神橋はどっしりとした優雅な姿を垣間見ることが出来ます、橋上は交通量が多大で大川の南北を結ぶ重要な連絡橋として存在しています
- 旅行時期
- 2019年07月






























