曽根崎川跡碑
名所・史跡
3.31
クチコミ・評判
1~20件(全25件中)
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この辺りの地名の由来か。
- 3.0
- 旅行時期:2023/06(約3年前)
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キタ新地 昔は「川」だったようで
- 2.5
- 旅行時期:2022/06(約4年前)
- 0
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昔北新地を流れる川があった
- 3.0
- 旅行時期:2022/06(約4年前)
- 0
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残念な光景でした
- 2.0
- 旅行時期:2021/11(約4年前)
- 0
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北新地を流れていた川の碑
- 3.5
- 旅行時期:2021/07(約4年前)
- 0
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新しい事実を知りました
- 3.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
- 0
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当時の情景を思い浮かべました
- 3.5
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
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大正時代に消滅
- 3.0
- 旅行時期:2021/03(約5年前)
- 0
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新地にあります
- 4.5
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
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大正時代まで存在した川!!
- 3.0
- 旅行時期:2019/09(約6年前)
- 0
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大阪北の大歓楽街である曾根崎新地(北新地)に曾根崎川が流れていた
- 2.5
- 旅行時期:2019/07(約6年前)
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大阪北の大歓楽街である曾根崎新地(北新地)には曾根崎川が流れていた、へ南北は国道二号線より南へ四筋程が、東西は東は御堂筋、... 続きを読む西は谷町筋で囲まれた長方形の区域が北新地と呼ばれている、東西に四本ある道路両側はびっしりスナック等の店が並ぶ、ほとんど3~5階建てのペンシルタイプのビル、当時堂島川から分岐して東から西に向かって流れており御堂筋付近の蜆橋から桜橋、緑橋、梅田橋などが架かっていた、河村瑞軒により川が改修され新地が開発されたことでお茶屋や商人が住み現在の歓楽街に結び付いている、当時の川を連想するものは存在しない現地に大阪市が建てた説明用石碑のみが当時を忍べる唯一のものです 閉じる
投稿日:2019/07/14
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新地の裏通りにある大きな石碑
- 3.0
- 旅行時期:2019/02(約7年前)
- 0
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昔は川があったそうです
- 2.5
- 旅行時期:2018/10(約7年前)
- 0
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繁華街の中にある「川の跡」
- 2.5
- 旅行時期:2018/02(約8年前)
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北新地に川が流れていた
- 3.0
- 旅行時期:2017/10(約8年前)
- 0
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新地に川が流れていたとは知らなかった。
- 3.0
- 旅行時期:2017/05(約9年前)
- 2
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別名・蜆川
- 4.0
- 旅行時期:2015/11(約10年前)
- 0
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北新地の中にある碑
- 2.0
- 旅行時期:2015/10(約10年前)
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今も昔もこの辺りはにぎやかでした
- 4.0
- 旅行時期:2015/06(約11年前)
- 0
淀川は現在では工事により流れがかなり昔とは違っています。
その昔は、大江橋上流部で北西へ堂島川から分流し、
堂島一丁目... 続きを読むと曽根崎新地一丁目の境界道路北側を
ほぼ西方回へ弧を描きながら流れ、
船津橋付近で再び堂島川に合流する川がありました。
これが曽根崎川で、蜆川、梅田川、下流では福島川ともいいました。
元禄初期は、河村瑞賢(かわむらずいけん)により改修され、
曽根崎新地や堂島新地がひらかれて茶屋がならび賑わいました。
明治42年北の大火後には、焼跡の瓦礫の捨場となって上流部が埋めたてられました。
そして、大正13年にはすべて姿を消しました。
川には上流部から難波小橋、蜆(しじみ)橋、
曽根崎橋、桜橋、緑橋、梅田橋などが架かっていた。
近松の名作「心中天網島(てんのあみじま)」の道行きの
「名残りの橋づくし」によみ込まれ、有名でありました。 閉じる投稿日:2015/06/17
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かつての川跡
- 4.0
- 旅行時期:2015/04(約11年前)
- 0
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