2026/06/08 - 2026/06/08
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gianiさん
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萩の日本橋である唐樋札場からは、東に石州街道/南に萩往還が分かれます。中世から椿郷と呼ばれたエリアには、吉田松陰を中心とした幕末ゆかりのスポットや17世紀の藩主菩提寺等歴史と文化が溢れています。
世界遺産や国の重要文化財の宝庫を旅します。
唐樋札場(萩バスセンター)から4km以内を目安にしています。萩なーるバスを利用すると、かなりの範囲をバス移動できます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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玉江橋を渡り、平安古の対岸を歩きます。藩政時は、朝晩1往復の渡し舟が運行していました。対岸は山田と呼ばれ、1923年に萩町編入されるまでは山田村のエリアでした。
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橋本川の川筋が大きく曲がるところがあります。
城下町(平安古)は遠く、月指山も見えます。
此処からは、1923年に萩町へ編入された椿地区(旧椿村)です。橋本川 名所・史跡
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平安古から眺めると、面影山が見えます。その麓に大照院があります。
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毛利家の菩提寺の一つ大照院
鐘楼門は1750年再建で、国の重文指定です。大照院 寺・神社・教会
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裏側の眺め
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本堂
こちらも国の重文指定。1656年に初代藩主毛利秀就の菩提を弔うために建てられました。1750年再建。 -
書院
国の重文指定です。大照院庭園 寺・神社・教会
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ガラス内側の左には木造赤童子立像が安置され、国の重文指定を受けています。赤童子は春日大明神の姿であるといわれ、鎌倉時代末の作です。
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経蔵
1755年に再建、国の重文指定。大般若経と大蔵経が納められていました。 -
境内の奥部は、毛利家の墓所となっています。
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家臣を表す灯篭が並びます。
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右奥には、初代藩主及び正室の墓標が並びます。写真右側が秀就の墓標です。寺院名は、初代藩主の戒名大照公に因みます。
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左側には、第十代/二代/六代/四代/八代/十二代夫婦と、偶数藩主が並びます。いずれも五輪塔です。奇数藩主は、東光寺に眠ります。
萩藩主毛利家墓所 (大照院墓所) 寺・神社・教会
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郊外で不便ですが、訪れる価値はあるスポットです。
※萩ま~るバスでアプローチできます。 -
更に橋本川を遡ると、萩駅があります。1925年築の駅舎は、国の有形文化財に登録されています。大きな駅舎を活用して、鉄道と所縁の人物の展示スペースとなっています。
萩駅舎 名所・史跡
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駅前には、日本の鉄道の父である井上勝の像が立ちます。藩主の命を受けて、幕末に英国へ留学した長州ファイブの一員です。
萩駅 駅
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長州ファイブ
1863年に英国へ留学した長州藩の5名を指します。藩命ではなく、志願/奏上でした。最初は井上馨/井上勝/山尾庸三で、伊藤博文/遠藤謹助は追認する形でした。密渡航の走りで、1865年には薩摩藩が19名の留学者を密航させて薩摩スチューデントと呼ばれます。 -
幕末の海外留学
1862年に幕府は、榎本武揚ら16名をオランダへ留学のために派遣します。長州藩士は1854年の山県半蔵を筆頭に、遣米使節に同行した杉孫七郎等がロシアや米国へ渡航しましたが、あくまで幕府隊の随行で、行動の自由はなく見聞程度の内容でした。西洋技術や社会システムを勉強するには、榎本のような旗本を除けば密航しかありませんでした。 -
支援者
吉田松陰(左)は密渡航を実行した最初の人物で、失敗して投獄されたのを機に松下村塾を開講します。
毛利敬親(中)は、藩主として身分を問わず意見をよく聞き、良い案なら「そうせい」と許可したために、そうせい公と呼ばれます。
周布政之助(右)は家老として藩政改革を推進し、費用の捻出等密留学の実現へ向けて舵を取ります。
下関で攘夷(異国船撃ち払い)を実行した二日後に留学が決まったのは、朝廷に従いつつも西洋の科学技術を高く評価していたことを表しています。 -
横浜で英国公使に斡旋を依頼し、マセソン商会の仲介で渡航します。手持ちの千両では、一人分の費用にしかなりませんでした。
留学者5名は、無断で藩の蔵にある鉄砲を担保にお金を借りて費用の足しにします。井上馨は、勝手に公金を抵当に入れたことを周布へ謝罪する手紙を書き、罰は帰国後に甘んじるので、「生きた器械(鉄砲の対句 五名の事)」を買ったと思って許してほしいと書きました。 -
横浜租界の右半分を描いた図
岸壁沿いに大きく描かれた建物が、マディソン商会の入る英一番館です。5カ月かけてロンドンへ到着します。 -
五人はロンドン大学で法学を聴講します。
翌年4月に、攘夷の報復として連合艦隊が下関を襲撃したニュースが入ります。藩の一大事を知ると、伊藤/井上馨は学業を断念して帰国します。学んだのは5カ月だけでした。伊藤は、通訳として講和に参加します。
遠藤は1866年、山尾/井上勝は1868年に帰国します。 -
山尾は、グラスゴーで昼間は造船所勤務/夜間は大学で工学を学び、帰国後は工部省で工部寮(後の東大工学部)を開設し、工業と教育の土台を築きます。卒業生は、お雇い外国人に取って代わります。盲学校/聾学校も開設します。
井上はロンドン大で鉱山/鉄道技術を学び、帰国後は鉄道敷設計画と現場で実務を兼任し、日本初の鉄道を開通させます。全国に鉄道網を整備して退官、1894年には汽車製造を設立し、鉄道車両の国産化に貢献します。 -
伊藤博文は、工部省の初代トップとして鉄道敷設を強力に後押しします。岩倉使節団に同行し、鉄道開業には立ち会えませんでした。西郷らが政府を去ると、参議として政策決定に大きくかかわります。憲法制定前には、勅令で独墺へ派遣されます。井上馨も政策決定に関わり、殖産興業(鉄道も含む)を強力に後押しします。
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量時度力
藩主敬親は留学に際し、井上馨にこの言葉を贈ります。時を量り、力(つと)めたし。
しっかり時勢を見極めて、力を尽くすように。という言葉を胸に、井上と伊藤は勉強よりも藩の危機を優先して帰国して倒幕に邁進、新政府では政治家として活躍します。 -
思弁
嗣子の元徳からは「よく考えて、物事の道理をわきまえよ」という言葉を贈りました。残りの3名は英国に戻って勉強に励み、新政府で技術屋として近代化を推し進めました。
※遠藤は造幣局で活躍します。 -
萩へ鉄道が伸張したのは、1925年(T.14)です。山陰本線の一部というよりかは、美祢線の延長として開通しました。日本最初の鉄道開通から53年も過ぎていますが、これでも政治の力が働いての開通です。当時の改札口が遺っています。こちらは出札専用レーンだそうです。
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駅舎の横に、2等(グリーン車に相当)待合室が併設されました。二等乗車券所持者だけが利用できるラウンジです。当初からローカル線でしたが、かつての藩庁の表玄関ということで、実勢以上のインフラが整います。
※現在は東萩駅が玄関口で、萩駅は無人駅になっています。 -
萩駅を後にします。
改めて井上勝像を見ると、現場でスコップという姿に納得させられます。 -
今更ですが、開通が遅かったことや建設費の問題もあり、鉄道は三角州を避けて橋本川左岸/松本川右岸を通ります。
写真の赤丸が萩駅で、地形的には大屋川の扇状地に位置していることが分かります。 -
萩駅前は三方に道路が延びます。
実は、藩政時代は交通の要衝で、左が大照院、正面と右が萩往還です。 -
左側は、大照院へ通じる線路沿いの道です。
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萩往還/御成道
中関(三田尻港)から萩唐樋札場へ至る参勤交代路で、全長53km。御成道は、狭義では萩城より唐樋札場、広義には領内の参勤交代路全体を指します。
唐樋札場は、萩から延びる諸街道の基点となります。唐樋札場跡(萩往還) 名所・史跡
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萩往還は、唐樋札場から南進して、橋本川を渡ります。沿道は、唐樋町/御許町/橋本町と町奉行所管轄の町人町でした。橋の手前(写真)には、当島勘場(椿周辺の代官所)が置かれていました。
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1616年に架けられた橋本橋を渡ると、椿町。藩政時代から萩奉行管轄の町人町(城下町)の一部でした。
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間口が狭くて奥が深い家屋が残ります。
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左側に金谷神社が現れます。
横の解説板を見ると、ここに大木戸が設置され、手前は城下町、この先は当島宰判管轄の農村でした。金谷神社 寺・神社・教会
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後ろを振り返ると、こんな感じ。歩道が無くなる辺りに大木戸が設けられ、夜間の半日間は戸が締められ、城下へ入れませんでした。
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幕末の絵図を見ると、橋本川に橋が架かり、通り沿いだけ椿町(町人地)となっています。金谷神社の手前に大木戸が描かれています。
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萩往還沿いの椿町の外側は、武家町として発展します。下級武士だったので、雑式町と呼ばれます。人口も多く重臣屋敷も多い右岸に対して、椿町/雑色町のある左岸は堤防を一段低くして、大水時には遊水地として機能するようにされました。
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金谷神社
1186年に長門国守護佐々木高綱が大宰府天満宮より勧請、毛利輝元が長州第三宮に厚遇し、社殿造営と社領寄進を行います。1720年に近所から現在地に遷宮します。 -
参勤交代で江戸へ赴く際は、藩主が立ち寄って安全祈願を行うのが慣例でした。本殿には、毛利家の家紋が付いています。
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絵図を見ると、阿武川が蛇行して金谷神社の前で折れ曲がっています。さらに悪いことに、蛇行部分に大屋川が合流しています。蛇行部分を無くし、大屋川を大照院の方向へ流路変更しています。萩入府時は橋本川の流路が定まっていませんでしたが、1616年までには捷水路工事が行われ、萩往還を安全に通行することが叶いました。
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大屋川は金谷神社の先で萩往還を横断し、西へ向かっています。
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大屋川は、大照院先の萩市民病院の横で橋本川へ合流します。
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藩政時代の萩往還は萩駅構内を斜め左に横断していました。なので、忠実にトレースすることは不可能となっています。
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駅の裏側
踏切がないので、真裏なのにかなりの遠回りとなります。 -
旧萩往還は微妙な場所を通ります。
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大屋川に沿って谷を上ります。扇状地なので、枯れ川として伏流し、扇端で湧水という形です。
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ゴミ捨て場の先に見える石碑は、萩の乱の供養塔と伝わります。当時、ここでは激戦が繰り広げられました。
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観音橋で大屋川を渡ると番屋が置かれ、役人が通行をチェックしていました。大屋地区には、茶屋/商店が並んで賑わいました。
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涙松
大屋地区の端には、涙松と呼ばれる松並木がありました。山道に差し掛かり、萩城下を見納める場所として人々はここで萩の町を見返り、別れを惜しんで涙したり、戻ってきた喜びで嬉し涙を流しました。安政の大獄で江戸送りになった松陰も、ここで歌を詠みました。涙松跡(萩往還) 名所・史跡
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涙松の先には、梅林が整備されます。春先の週末はマイカーで渋滞する人気スポットです。梅の品種が豊富で、1月から花見を楽しめます。
萩往還梅林園 公園・植物園
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県道を横断すると、アスファルト舗装されていない往時の姿です。
国の史跡/歴史の道100選等に指定されています。 -
悴坂(かせがさか)一里塚
萩往還の起点である唐樋札場から最初の一里塚です。往時の状態を保っています。悴坂一里塚 名所・史跡
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大屋刑場跡
不浄の典型で、刑場は町の外に置かれました。1759年に藩医の栗山孝庵が日本初の女体解剖を行いました。ちなみに男性の解剖は5年前で、死体を扱うのは賤民ということもあり、解剖学は遅れをとっていました。大屋刑場跡 名所・史跡
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再び県道を跨ぎます。
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そこは道の駅でした。
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松陰記念館があり、松下村塾について簡単に学べます。
道の駅 萩往還 道の駅
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さらっと見学できます。
ガッツリ感を期待すると、失望させられます。松陰記念館 美術館・博物館
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道の駅の横の斜面を萩往還は通ります。御駕籠建場/茶屋がありました。
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直線的な明治の新道を進むと、
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鹿背(かせ)隧道
1882年開通、幅4.2m/延長180m/高さ3.8m。今も現役です。山口県初の洋風石造トンネルです。鹿背隧道 名所・史跡
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現在は、1992年開通の萩道路のトンネルで越えます。
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道の駅は、萩有料道路の料金所跡に開設されました。2010年に建設費未償還のまま無料開放されました。
再び唐樋札場へ戻ります。 -
東方向へ石州街道が延びます。松本小橋で中洲へ渡ります。松本川には、藩主の東光寺参詣のために1698年に橋が架けられました。幕府へは、冬の間だけの仮橋に見せかけるようにして許可を得ました。小橋の西側に番所を設けました。
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中洲から松本大橋で対岸へ渡ります。旧椿東村で1923年に萩町に編入されます。
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山陰本線の踏切を越えて、
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松陰神社前交差点からゆっくり左カーブして、境内を横切ります。
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東光寺
松本橋架設の経緯で触れたので寄り道します。大照院と並ぶ藩主の菩提寺で、1691年に三代藩主吉就が開基。総門は1693年築で国の重文指定。福建省から招聘された隠元が伝えた黄檗宗で、鎖国下にも拘らず将軍/天皇家の信を得て、文化面でも日本に大きく貢献します。東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会
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三門
1821年築で、国の重文指定。二階には、十八羅漢が安置されています。 -
ケヤキ造りで、解脱門の額が入っています。
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本堂
鐘楼/天王殿/浴堂等と回廊で繋がり、手前の月台の奥に位置します。黄檗宗では本堂を大雄宝殿と呼び、お釈迦様のおわす所という意味です。1698年築の国重文指定。読経は立ったまま行う、堂内は土間叩仕上げ、障子の桟が外側にある等、明の様式が建物や儀式に反映されます。
月台は本堂に入りきらない人たちのためのスペースです。中央の梵壇石は、戒律を破った僧が懺悔のため座らされました。 -
奥は、廟所です。三代より奇数代藩主が眠ります。
石橋を渡って門を潜ると、 -
石の世界。
黄金分割や遠近法が巧みに用いられます。灯篭は、家臣をあらわします。 -
鳥居の先は、更に神聖な領域。
独特の墓制は、中国古代の昭穆(しょうぼく)制に拠ります。初代(別格)は天樹院、偶数代(昭)を大照院、奇数代(穆)を東光寺に弔います。 -
中央は、三代藩主吉就夫妻、右隣は十一代/七代、左側は九代/五代と並びます。
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家臣が奉納した500体以上の灯篭も壮観です。
公共の足がないですが、ぜひ寄り道してもらいたい文化財パラダイスです。 -
松陰神社を素通りして、この人をスルーするのは如何かと思い寄り道。
東光寺のある松本村には、吉田松陰(1830-59)の生誕地があります。 -
生家の間取りが分かるようになっています。
26石取の藩士杉百合之助の次男として誕生、18年間をこの家で過ごします。吉田松陰誕生地 名所・史跡
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近所には、伊藤博文の住んでいた旧家もあります。現在の光市出身ですが、父親が伊藤家の養子となったことで、12歳の時に萩へ移転しました。13,4歳の時に偶然、松下村塾が目の前にあった。そんな地の利も味方しました。
藁葺きの粗末な家の隣に、国老として住んでいた豪華な邸宅が移設されており、不思議な雰囲気です。伊藤博文旧宅 名所・史跡
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松陰神社には、彼の足跡を辿れる歴史館があります。
伊藤博文旧宅・別邸 名所・史跡
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4歳の時に、叔父の吉田大助の養子になります。吉田家は代々続く山鹿流兵学師範。翌年に養父が死去したために家督を継ぎます。教育は、実兄と共に、叔父の玉木文之進から受けました。
吉田松陰歴史館 美術館・博物館
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麓の松下村には、松陰の叔父である玉木文之進の旧宅が遺ります。松陰の叔父で、40石取の玉木家へ養子入りして、私塾「松下村塾」を開いていました。1857年には松陰が塾を継承します。
玉木文之進旧宅 名所・史跡
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アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知り、国防と洋学の重要性に目覚めた松陰は15歳から遊学、江戸では1850年に洋式砲術の権威佐久間象山に師事します。
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1853年の黒船来航に伴い、佐久間は松陰に欧米行を指示します。ロシアのプチャーチンが通商を迫るために長崎に来航すると、密航すべく足を急ぐも、クリミア戦争が勃発しプチャーチンは既に上海へ出港していました。ペリー再来の際には乗船までこぎつけるも強制送還、渡航(密航)の試みはことごとく失敗します。
※敵を倒すには、まず敵を知ることが重要と考え、欧米密航を指示しました。 -
密航の罪で江戸と長州で入牢した後、1855年には減刑されて実の父親である杉百合之助宅の三畳間で幽閉されます。その際に、親戚や近所の子に孟子等を教えました。幽閉された実家は、松陰神社境内に取り込まれました。
吉田松陰幽囚ノ旧宅 名所・史跡
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1857年に赦免されると、実家敷地の8畳宅を弟子たちが増築して10畳間もできます。叔父からは松下村塾の名前を譲られます。
あえて突っ込むと、松下村の塾という現代にも通じる極めてオーソドックスなネーミングです。松下村塾 名所・史跡
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1858年、日米修好通商条約締結に激怒した松陰は、老中間部詮勝暗殺計画を立て、藩主や藩士に執拗に迫り幽閉されます。翌年に梅田雲浜が幕府に捕まると連座し、江戸へ送られて処刑、29歳になったばかりでした。
門下生は明治維新後、ゆかりの地を神社として祀り、保存します。松陰神社 寺・神社・教会
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松陰は生家の隣の墓地に埋葬されます。
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隣には、塾生かつ義弟でもある久坂玄瑞の墓碑もあります。
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右端の境内から左方向へ石州街道が続きます。手洗川を渡ります。
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石州街道を逸れて上の写真を手前に進むと、交差点に郡司鋳造所遺構広場があります。ここで大砲を鋳造していました(後述)。
郡司鋳造所遺構広場 名所・史跡
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川沿いの道を逆に進むと明安寺。西の松下村塾/東の清狂草堂と並び称された月性が萩を訪れた際に、本堂で海防について論じました。松陰も門下生を連れて聴講しました。
明安寺 名所・史跡
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左と右に寄り道しましたが、石州街道を北進します。西側に県道67号が並行します。
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山陰本線を踏切で渡るとT字路に突き当り、右へ曲がってR191を進みます。
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街道沿いには、萩焼最大の登り窯もあります。
吉賀大眉記念館 美術館・博物館
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街道と線路の間には、萩反射炉があります。
1856年に建設、西洋式の高炉です。現存するのは、ここと韮山/薩摩の3か所だけです。黒船来航後に国防が緊急を増し、大砲を製造するための鉄を生産するために建設されました。萩反射炉 名所・史跡
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目の前がJRが通り、車窓からも反射炉を眺められます。
実は萩反射炉は失敗作で、数年後に自力高炉建設をあきらめ、従来のたたら製鉄で調達します。大板山に大砲用のたたら製鉄所を建設していました。大板山たたら製鉄遺跡 名所・史跡
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先ほどの郡司鋳造所遺構広場では、階段の上の3つの甑炉から液状の銅と鉄を下の鋳型に流して砲身を鋳造しました。国産鉄大砲は難しく、青銅製です。ここで生産されたカノン砲は軍艦/台場に配置され、下関で攘夷に使用されます。翌年の報復で、連合艦隊が戦利品として母国へ持って帰ります。
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当時の様子
郡司家は藩の鋳物師として三田尻で操業していましたが、18世紀に萩に招聘され、農具/鍋等を製造していましたが、幕末に大砲の鋳造を任されました。 -
世界遺産の恵美須ヶ鼻造船所跡
当時の石造堤防です。浜の部分には、様々な造船用工房が建っていました。
黒船が来航すると幕府は大船建造を解禁し、浦賀警備に当たっていた萩藩に大船建造を要請します。桂小五郎は西伊豆の戸田から建造経験者を招聘します。萩藩は、従来の技術で対応可能な洋式帆船を製造します。恵美須ヶ鼻造船所跡 名所・史跡
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丙辰丸(1856)
その年の干支にちなんだ名前で、ロシアの技術によるスクーナー(スクー子(ね)ル)船。全長24.5m二本マストの帆船で、海軍の練習艦/大坂・長崎・江戸間の貿易に使用されます。
日本へ再来したプチャーチンは、津波で船を失い、下田に逗留していました。近郊の戸田浦から船大工が呼ばれて洋船を製造し、1855年に帰国を果たしました。 -
庚申丸(1860)
長崎の海軍伝習所で習得したオランダのコットル船建造技術に基づき、設計図はオランダ士官も驚嘆するクオリティでした。1860年の干支にちなんだ名称で、全長43.6m、マスト3本の帆船です。下関戦争で撃沈。 -
江戸時代の築堤とテトラポットの防波堤が共存します。
蒸気機関の製造が難しく、船は購入路線に走ったために破棄されました。
湾の向こうには、しーまーとが見えます。 -
造船所/反射炉/鋳造所といった近代化への試みと、それを後押しした松下村塾。椿東地区には、歴史が詰まっています。
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おまけ
道の駅しーまーと内の漁協レストランへ。
煮付けなのに、新鮮さが全開です。レストラン 来萩 グルメ・レストラン
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テナントの水産店も魅力的です。
萩まーるバスが乗り入れていて、ここから反射炉は数百メートル、恵比須ヶ鼻造船所跡も1km以内です。
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