吉田松陰幽囚ノ旧宅
名所・史跡
3.43
吉田松陰幽囚ノ旧宅 クチコミ・アクセス・周辺情報
萩 観光 満足度ランキング 8位
松陰は、実家杉家の4畳半の一室で前後2回幽囚生活を送り、読書のかたわら家族や弟子に書を講じ続けていたといわれています。隣接して、松下村塾、松陰神社があります。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
吉田松陰の実家。広く立派な建物です。
4.5
- 旅行時期 2023/10
- by みーみさん
松陰神社の境内にありますが、この家が元々この地にあって、明治時代になって、神社のほうが建立されたといのが正しいのでしょう。... 続きを読む松陰自身は3畳半の部屋で幽囚の身だったそうですが、家自体は部屋数も多く広くてりっぱな建物です。江戸時代そのままに残っている建物としても貴重なものではないかと思います。 閉じる
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満足度の低いクチコミ
吉田松陰幽囚ノ旧宅(山口県萩):安政の大獄で幽囚された吉田松陰、萩の「明治日本の産業革命遺産」世界遺産の一つ
1.0
- 旅行時期 2023/08
- by TTukomiさん
松陰神社境内の村下村塾に隣接してある。 松陰の実家、杉家旧宅。 1858年(安政5年)~1859年(安政6年)にかけて... 続きを読む江戸幕府が行った弾圧「安政の大獄」で斬新された吉田松陰が幽囚された部屋。 木造瓦葺き平屋建て214㎡の建物。8畳3室・6畳3室・4畳・3畳7分・3畳半・3畳および2畳各1室ほか、板間・物置・土間を有する大きい建物。幽囚室は東側にある3畳半の一室。 狭苦しい部屋である。 松下村塾に付随して世界遺産である。 閉じる
クチコミ・評判
3.43
(67件のクチコミ)- アクセス:
- 3.46
- 市内循環バス松陰神社前から徒歩ですぐです。 by きみちゃんです。さん
- 人混みの少なさ:
- 3.52
- 松陰神社を参拝した人がたくさん訪れるようです。 by きみちゃんです。さん
- バリアフリー:
- 3.29
- ほぼバリアフリーです。 by きみちゃんです。さん
- 見ごたえ:
- 3.78
- この小さな部屋で情熱を絶やさなかった松陰の熱意が維新の原動力になったと改めて感じました。 by きみちゃんです。さん
1~20件(全67件中)
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松陰の熱意が伝わってきます
- 3.5
- 旅行時期:2024/10(約1年前)
- 0
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世界遺産吉田松陰幽囚ノ旧宅 は『松陰の実家 杉家旧宅』。
- 4.0
- 旅行時期:2023/07(約2年前)
- 0
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松下村塾に発展
- 4.0
- 旅行時期:2023/05(約3年前)
- 0
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「吉田松陰幽囚ノ旧宅」は国の史跡に指定されています
- 3.0
- 旅行時期:2023/04(約3年前)
- 0
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大きな家の片隅の狭すぎる小部屋に無念さを感じました
- 4.0
- 旅行時期:2023/03(約3年前)
- 0
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吉田松陰が謹慎していた部屋
- 4.0
- 旅行時期:2023/03(約3年前)
- 0
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吉田松陰の情熱が伝わってくるようでした。
- 4.0
- 旅行時期:2022/11(約3年前)
- 0
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神聖な旧跡ということでしょうか、しめ縄が張られていました
- 3.5
- 旅行時期:2022/10(約3年前)
- 0
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吉田松陰幽州の旧宅
- 3.0
- 旅行時期:2022/09(約3年前)
- 0
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松陰神社本殿と正対するようにして幽囚室はあります。
- 3.5
- 旅行時期:2022/09(約3年前)
- 0
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松陰神社の敷地の一角に
- 4.0
- 旅行時期:2022/07(約3年前)
- 0
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松陰神社の境内に有鬚された家があります。広い家です。
- 3.0
- 旅行時期:2021/10(約4年前)
- 0
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吉田松陰幽囚旧宅
- 4.0
- 旅行時期:2021/09(約4年前)
- 0
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吉田松陰が最後を過ごした場所!
- 4.0
- 旅行時期:2021/08(約4年前)
- 0
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大きな家ですね。
- 4.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
- 0
この家は移築したものではなく、もともとここに建っていたものとのことです。三畳半プラス1畳分の神棚の幽囚室を見ることが出来ま... 続きを読むした。大きな家だけにその狭さが一層印象的です。この家は、実父・杉常道(通称百合之助)(知行26石)が、友人の瀬能吉次郎(知行49石)から借りていた家です。知行49石でも、広い敷地にこんな大きな家を持て、しかも、住まいとは別ですから、かなりの驚きです。(なお、明治になってから、杉家が購入しています)ちなみに、養子に入った吉田家は知行57石です。余談的ですが、1石は概ね10万円との換算指数があります。長州藩の場合、実収入は4ツ成といいますから、実質はその40%です。
瀬能吉次郎は明倫館の教授も務めた人物で、松陰が江戸遊学の時は、ちょうど江戸在勤だったので松陰はいろいろと世話になった様です。ペリーが浦賀に来たことを知った日(1853年(嘉永6年)6月4日)の夜、「居ても立っても居られないからこれから見に行ってくる」との手紙を送り、「もう1通書いている時間がないので、これをそのまま、国元への飛脚に託して欲しい。そうすれば元気でやっている様子が伝わるから・・・」と甘えきった様子で依頼しています。
閉じる投稿日:2021/08/02
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今時、こんな父親はいないのでは・・・と思います。
- 4.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
- 0
1855年(安政2年)に松陰が幽囚された大きな家ですが、実際に生活出来たのは東側にある3.5畳の部屋です。でも、松下村塾を... 続きを読む設けて、教育の場を与えるなど、藩の意向とは異なり、人との接触を制限しなかった父親の度量も大したものだと思います。この建物は実父の杉百合之助が1853年(嘉永6年)に友人の瀬能吉次郎から借りた家です。百合之助の藩職は百人中間頭兼盗賊改方です。警察署長の様な役目でしょうか。
そもそも、松陰は1852年(嘉永5年)に、藩の許可が下りる前に東北視察に出掛けてしまい、脱藩の罪で家禄没収と藩士の身分をはく奪されて、百合之助の「育み」とする裁定が出ています。浪人にはしないで保護観察処分みたいなものでしょう。また、藩主・毛利敬親の温情で10年間の遊学が認められます。これ幸いと早速視察の旅に出て、1854年(嘉永7年)には黒船での密航を企てます。杉百合之助は責任を取って、切腹を申し出ますが不問とされています。国元蟄居となり幕府より萩藩に引き渡されて野山獄に収監されます。藩の罰則には、士分は個人刑がなく家単位です。野山獄は家族からの申し出による借牢です。松陰も形式的に百合之助の申し出となりました。14ヶ月ほど収監され、藩の怒り?も収まり、幕府裁定の蟄居として、百合之助の家に幽囚されたのです。1859年(安政6年)に老中暗殺謀議を問われて江戸護送になると、百合之助はやっとというか初めて責任を問われて藩職を罷免され、家督も長男に譲っています。それでも、1863年(文久3年)になると、原職に復帰となります。1865年(慶応元年)に辞職しますが、程なく亡くなっています.享年62歳でした。
閉じる投稿日:2021/06/22
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松陰神社
- 3.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
- 0
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一室に
- 4.0
- 旅行時期:2021/03(約5年前)
- 0
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松陰神社の境内
- 3.5
- 旅行時期:2021/01(約5年前)
- 0
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3畳の部屋が寂しげ
- 3.5
- 旅行時期:2020/12(約5年前)
- 1
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