2025/06/10 - 2025/07/07
16位(同エリア216件中)
マリアンヌさん
- マリアンヌさんTOP
- 旅行記372冊
- クチコミ25件
- Q&A回答1件
- 345,732アクセス
- フォロワー141人
アンティーク陶器好きな私、ユゼスのピション窯にも惹かれています。
それでユゼスの街に行ってみたかったのです。
アヴィニヨンからバスで訪れましたが雰囲気が良くてゆっくり宿泊して再訪してみたいと思いました。
アヴィニヨンに戻ってアングラドン美術館を訪れ、ゆったりとした時間が過ごせました。
6/10 羽田発イスタンブール経由
6/11 トゥールーズ着
6/12 モワサック修道院、モンパズィエ
6/13 ミランド城、マルケイサック、べナック=エ=カズナック、
サルラ=ラ=カネダ、
6/14 ヴィトラック、スイヤック、ロカマドゥール、ドンム、
ラ・ロック=ガジャック
6/15 コロンジュ=ラ=ルージュ、カルンナック、コンク
6/16 コルド=シュル=シェル
6/17 アルビ、トゥールーズ
6/18 カルカッソンヌ
6/19 コリウール、ペルピニャン
6/20 サン=マルタン・デュ・カニグー修道院、カブスタニー
6/21 サン=ギレム=ル=デゼール、モンペリエ
6/22 モンペリエ
6/23 ニーム
6/24 アルル
6/25 サント=マリー=ド=ラ=メール、カマルグ
6/26 アヴィニョン
6/27 ユゼス、アヴィニョン
6/28,29リル=シュル=ラ=ソルギュ
6/30 ルシヨン
7/1 エクサン・プロヴァンス
7/2 ヴァロンソル、ムスティエ=サント=マリー、サン=クロワ湖
7/3 ルールマラン、ゴルド、ルシヨン、フォンテーヌ=ド=ボークリューズ
7/4 シルヴァカンヌ、エクサン・プロバンス
7/5 マルセイユ
7/6,7マルセイユ発イスタンブール経由羽田着
*参考図書「フランス・ロマネスクへの旅」
-
アヴィニヨンの朝。
オブジェのビンテージミシンが素敵。 -
飼い猫の黒猫ちゃん、可愛かった♪
-
明るいダイニングで朝食をいただいた。
-
ユゼスに出かけましょ。
-
小路に傘が飾られていた。
-
レパブリック通りを駅方向へ。
-
Republic Gate。
城塞が結構残っている。 -
そしてバスターミナルへ。
前日に運賃は現金でバスの運転手に支払うと確認していた。
電光掲示板で乗り場を確認。 -
アヴィニヨン発8:45
ユゼス着9:33 -
広場からアリエ通りへ。
-
ラングドック・ルション銀行。
-
赤が基調のレストラン。
-
バールの席は満席、朝食時なのかな。
-
サンテティエンヌ教会。
-
バロック様式のよう。
-
オルガンの下の柱がイオニア式っぽい。
-
小路を通って街の中心へ。
-
今日もGoogleマップのお世話になります。
-
ウィンドウショッピング。
-
ポルティコの下がカフェになっている。
-
広場に出た。
-
魚屋さんの移動販売。
-
ユゼスの歴史は、古代ローマ時代、ポン・デュ・ガールの建設と同時期に、ニームへの水の供給源として重要視され、発展した。
ニームは数日前に滞在したね。
ポン・デュ・ガールはツアーで訪れたことがあるので、今回はパスした。 -
中世には、司教座が置かれ、交通・流通の拠点として栄えた。
ユゼス城は、この時代の象徴的な建築物。
16世紀、フランス初の公爵領となり、ユゼス公爵が誕生した。ユゼス城は公爵邸として使用され、現在もその姿を留めている。 -
また、ユゼスは、ユグノー戦争やカミザール(フランス南部で起こったプロテスタント弾圧に対する反乱)の舞台となり、歴史的な出来事に巻き込まれた。
-
ちょっと界隈をそぞろ歩き。
-
お洒落な雑貨やさん。
-
何となくスタイリッシュな街並み。
-
覗いてみたくなるショップが多い。
-
南仏らしい景色。
-
ユゼス城。公爵領(デュシェ)。
入場料を支払い、ガイドツアーに参加。英語のパンフレットを貸して下さった。
パンフレットより。
「ユゼ公爵の歴史は、女系を通じてカール大帝(シャルルマーニュ 742-814)
と聖ルイ(ルイ9世 1214-1270)に遡る。
ユゼ公爵家は、カッセルの戦いでフランドル軍に勝利し1328年に子爵に叙せられた。そして1565年に公爵、1572年には貴族に昇格した。今日、ユゼはフランスに現存する最古の公爵位であり、「フランス第一公国」として知られている。」ユゼス家の公爵邸 城・宮殿
-
「1793年の革命後、城は国家の所有物とみなされ、商人に売却された。
商人は城の解体作業を開始した。最終的に商人は城の残骸をユゼの4つの家族に転売した。そのうちの一つは作家アンドレ・ジッドの家族で、ジッドは城をユゼの学院に貸し出した。
1824年、王政復古後、当時のユゼ公爵がこれを買い戻し、10年後、ユゼ学院が新しい校舎を建てた後にここに移った。」 -
「1900年代初頭には、町としてのユゼは社会的にも経済的にも衰退しつつあった。
困窮したクルソル・デュゼ家は、再び公爵領を文部省に貸し出した。
1951年、クルソル侯爵夫人は彼らを連れ出し、修復に着手した。
彼女は文化大臣アンドレ・マルローから、ユゼの町がフランス最大の保護地域の一つとなることを承認を得た。1987年、彼女の孫である当時29歳のクルソル伯爵が修復を引き継いた。彼は現在、第17代ユゼ公爵です。」 -
まずは、こちらを見て来てと中庭に案内された。
ベルモンド塔は公国最古の部分で、初代ユゼス領主(1144~1181年)のために建てられ、現在では彼の名が付けられている。 -
地下室と地下牢。
「ここは最も古い部分の一つで、元々は包囲攻撃に備えて食料を貯蔵するために使われていた。後に、年間を通して湿度90%、気温が12~14℃と一定に保たれた理想的なワインセラーとして利用された。」 -
お高そうなワイン樽が並んでいた。
-
「中央にある美しいルネサンス様式のファサードは、1565年に初代ユゼ公爵アントワーヌのために、フォンテーヌブロー宮殿やパリのチュイルリー宮殿も手掛けたフィリベール・デロームによって建てられた。ドーリア式、イオニア式、コリント式の柱が見事に融合した好例とのこと。
ファサードの右端には、15世紀のゴシック様式の礼拝堂がある。」 -
階段を上がってすぐの部屋。
「部屋の中央にはジャンヌ・ダルクの時代の戦闘用ヘルメットが飾られています。重さは7.35kg(16ポンド)です。 騎兵の鎧の重さは約45kg(約100ポンド)でした。」 -
「兜の間に入ると左手にある最初の肖像画は、シャルル9世の家庭教師で、シャルル9世は彼女を「私のかつての導きの光」と呼んでいました。ユゼ公爵夫人(1565年)。
彼女はカトリーヌ・ド・メディシスの腹心であり、宮廷で最も聡明な若い女性たちを情報収集の任務に就かせました。
その任務には、詩人の王子ロンサールと、実は王子であり彼女の最初の夫であったデュ・ベレーが、彼女に頌歌を捧げました。」 -
解説がどの絵を指すのかよくわからないのですが、パンフレットには以下の記載もありました。
「砲兵総監の娘、ジャンヌ・ド・ジュヌイヤックの肖像画があります。ガリオット・ド・ジュヌイヤックは、フランソワ1世の砲兵隊をより機動的で精密なものに再編成しました…彼はイタリアのマリニャンの戦いで勝利し、フランソワ1世があまりにも性急で騎兵を率いて突撃を早め、ランスケネット軍の捕虜にしなければ、パヴィアでも勝利していたでしょう。」 -
これでしょうか?
「モンテスパン侯爵夫人とルイ14世(太陽王)の息子である若きトゥールーズ伯爵がいます。その隣には、1693年にユゼ公ジャン=シャルル・ド・クリュソルと結婚したモナコ公女グリマルディがいます。その隣には、ノアイユ元帥と、その妻でユゼ公爵(旧姓「ペギー」ベッドフォード)がいます。彼女は1977年に交通事故で亡くなりました。窓の右側、コルネイユの胸像の上には、左から順に、ルイ16世治下のユゼ公爵がいます。」 -
下の右端は、「パリで開催した文学・芸術サロンで有名なランブイエ侯爵夫人の現存する唯一の肖像画。モリエールは彼女をモデルに『サヴァントの女たち』を執筆した。」
「全身像は現在の公爵。」 -
その他、こんな記載あり。
「1774年まで王妃であったルイ15世の妻マリー・レザンスカが描かれ、その左には、近衛竜騎兵連隊の大佐に扮した彼女の幼い息子が描かれている。彼はルイ16世、ルイ16世、そしてシャルル10世という3人のフランス国王の父である。」
うーん。どなたがどなたか判明しないけど、華麗なる一族ってことよね。 -
イチオシ
大広間。
「この部屋は、ユゼス公爵シャルル・エマニュエル・ド・クルソルによって装飾されました。彼は1727年と1740年に宮廷から追放されました。これは、王妃の縁戚であるランツァウ伯爵に悪ふざけをしたためでした。ある晩、オペラ座で彼は伯爵に非常に苦いお菓子を差し出しましたが、伯爵はそれを吐き返しました。これが決闘に発展し、ユゼス公爵はランツァウ伯爵を殺害しました。」 -
「しかし、公爵は追放生活を楽しむようになり、城の改修に励み、多くの巡回使節を迎え入れ、ヴォルテール(1694-1778)と長く文通を続けました。
この大広間は、四隅に暖炉があるという点で珍しいものですが、煙突があるのはそのうち2つだけです。 これらはすべて改修され、「ジプシリーズ」と呼ばれる漆喰細工による華麗な装飾もすべて修復されました。」 -
「絨毯はヴェルサイユのものから現在の公爵のために複製されました。
マリー・アントワネット王妃(1755-1793)は、金箔を施したトリアノン・コンソールをユゼス公爵夫人に贈りました。その上には、トゥールーズ公爵の右半身が海軍総司令官の制服を着て肖像画を飾っています。中国製の磁器は5つ一組で、蓋付きの花瓶が3つ、蓋なしの花瓶が2つあります。
ラヴァリエール公爵夫人(旧姓ユゼス)の娘。彼女は当時の最も美しい女性の一人とされていました。左の壁の中央には18世紀後半の櫃があり、その上には絵画が飾られています。サロンの向こうの赤い部屋には、「ユリウス王政」(1830~1848年)の貴族、クルソル公爵の姿が見えます。」 -
ご一家の写真。
貴族の序列において、国王の血縁である王子に次ぐ高い地位にある公爵というだけあって、解説に出てくる王室関係者の多いこと。 -
廊下のシャンデリアはムラーノ島産のヴェネツィアガラスとのこと。
-
黄色い寝室。
「入口右側にあるワードローブは、伝統的に新婚夫婦に提供されたもので、ベッドリネンも完備されていました。
「イタリア風」のベッドは18世紀後半のものです。当時の人々はリクライニングして寝ていたため、ベッドは短めです。横になることは死と結び付けられていたからです。イーゼルには、ユゼ公爵夫人アンヌ・ド・モルテマール(1847年 - 1933年)の肖像画が飾られています。彼女は31歳で未亡人となったため、黒い服を着ています。彼女は曽祖母であるヴーヴ・クリコ(シャンパーニュ)から財産を相続し、共和国転覆を企てたブーランジェ将軍の資金として利用しました。
彼女はフランスで初めて運転免許を取得した女性であり、1898年6月にはシャンゼリゼ通りからブローニュの森に向かって「超過速度」(時速12kmの制限速度を超える)で走行したとして5フランの罰金を科されました。 」 -
「彼女は第二次世界大戦後のフランスにおける女性参政権の熱烈な支持者でした。
また、マヌエラという名で彫刻家兼作家として活動し、アナキストのルイーズ・ミシェルの友人でもありました。彼女は猟犬を狩り、ランブイエ近郊の「ラリー・ボンネル」狩猟団のリーダーを務め、85歳で亡くなるまで騎乗を続け、生涯で2000頭以上の雄鹿を仕留めました。」 -
ダイニングルーム。
「17世紀のルブラン様式のオービュッソン織りのタペストリーには、アレクサンダー大王がグラニーク川を渡ってアジアへ向かう様子が描かれています。
壁には15世紀の三連画が飾られています。これは、絵画が通常木板に描かれていた時代に、キャンバスに描かれた初期の作品です。部屋の反対側にある2枚の全身肖像画は、ジェロー・ド・クルソル(1808-1872)とユゼ公爵夫人フランソワーズ・ド・タルウエのものです。」 -
礼拝堂
「15世紀の礼拝堂は19世紀に大幅に修復され、奥行きを表現するために壁がトロンプ・ルイユで描かれました。しかし、花や果物が描かれた上部の小さなステンドグラスの窓は、オリジナルのものと考えられています。
丸天井は華やかなゴシック様式です。 通常、この15世紀の聖母像は、背後の窓に写っているように左腕ではなく、右腕に子供を抱いています。聖母像は銀で作られ、金箔を施したブロンズでコーティングされています。」 -
「19世紀の家具には最近、いくつかの追加が加えられました。扉は漆喰で豪華に彫刻されています。入口を入ると、左側に信仰と希望、右側に慈愛と宗教が描かれています。特別な機会には、今でもここでミサが執り行われます。」
19世紀にステンドグラスを中心にゴシックのフランボワイヤン様式に全面的に改築され、装飾しなおされた空間。 -
ブルーの明るい空間で装飾が美しかった。
-
それでは、街歩き再開しましょう。
タイムスリップしたような小路。 -
煤けたクリーム色がいい雰囲気を醸し出す。
-
魅力的な路地。
-
実はユゼスに来て見たかった理由のひとつに陶器がある。
アンティーク陶器のコレクターで英国のワイルマンに魅入られて以来、元来の陶器好きが高じて気に入ったものに手を出している。
その中に南仏ユゼスのヴィンテージのピション窯の陶器があり、現地に来て見たかった。 -
ヴィンテージ陶器を扱う店は、ないかな。
-
美しい路地。
-
アイアンフェンスがいいな。
多肉植物を置いてるのね。 -
お洒落なインテリアショップ。
-
公爵領由来の地、豊かな雰囲気が漂う。
-
お菓子屋さん、ビスケット、チョコレートって書いてる。
-
可愛い雑貨。
カリソン(伝統菓子)を売ってる店も。
シンプルな昔ながらのアーモンド風味の菓子で、昔、役員が出張土産で買ってきてくれたら秘書室で人気なかったな(笑)
当時では贅沢なものだったでしょう。 -
小さい街だけどお洒落なショップが並ぶ。
-
色とりどりの石鹸。買いたいな、でもまだ旅の途中だから荷物が重くなるし。
-
アロマキャンドルを扱うお洒落なお店でプチトレーを思い出に購入。ユゼスのピショプ窯について聞いてみたけど、扱う店はないわと。
カゴバッグも南仏にいると欲しくなるけど我慢。 -
クリーム色の石の館がいい感じ。
-
旧市街を環状に取り囲む通りはプラタナス並木になっている。
-
木漏れ日がきれい。
-
旧市街の中心広場プラス・オ・エルブへ。
-
噴水が心地良い。
-
やっぱりこの広場でお茶にしよう。
-
広場のプラタナスの緑を眺めながらひと休み。
-
帰りのバスの時刻表がちょっと見にくくて、確実なところでアヴィニヨンに帰ることにした。
ビンテージのピション窯の陶器には出会えなくて残念だったけど、美しい南仏の街を楽しんだ。 -
想像していたとおり、雰囲気の良い小さめの街だった。
次回があれば泊まってゆっくりしてみたい。 -
少し外れの通りも行ってみた。
-
ノウゼンカズラが暑さにめげず、元気に咲いていた。
-
セラミックのお店。作家もののガラス器などが見えた。
-
鎧戸が素敵だ。
-
イチオシ
好きな雰囲気の窓辺。
-
こちらも素敵。うーん、また来たい。
-
大事をとって(そもそもバスの本数が少ない)13時過ぎにユゼスを出発して、アヴィニヨンに14時過ぎに帰って来た。
-
アングラドン美術館へ。
1694年建造という貴族の館を改造した3階建ての建物が美術館となっている。
服職業で財をなしたパリ在住の美術コレクター、ジャック・ドゥーセ(1929年死亡)のコレクションを引き継いで拡大した、彼の甥でアヴィニョン在住の画家、ジャン・アングラドン=デュブリュジョーが、設立した財団に、自宅を含む全てを遺贈してできたもので、1996年開館。プチ パレ美術館 (アヴィニヨン) 博物館・美術館・ギャラリー
-
ポール・セザンヌ
エクス・アン・プロヴァンス1839年 -1906年
砂岩の壺のある静物画 1874年 -
フィンセント・ファン・ゴッホ
ズンデルト 1853年 - オーヴェール・シュル・オワーズ-1890年
アルルの鉄道貨車 1888年
プロヴァンスにある唯一のゴッホの絵とのこと。 -
エドガー・ドガ
パリ 1834年 - 1917年
二人の踊り子 [1880-1885] -
アルフレッド・シスレー
パリ 1839年 - モレ・シュル・ロワン 1899年
ルーブシエンヌの雪景色 1874 年 -
ウォルター・ゲイ
ボストン 1856年 - パリ 1937年
ジャック・ドゥーセの大サロン
ラ・ヴィル・レヴェック通り [1900 年頃] -
アンリ・タンレ
パリ 1864年-1926年
ジャック・ドゥーセのグランドサロン
スポンティーニ通り [1911年] -
アメデオ・モディリアーニ
リヴォーム 1884年 - 1920年 パリ)
ピンクのブラウス 1919年 -
パブロ・ピカソ
マラガ 1881年 - ムージャン 1973年
座る道化師 1915年 -
ツグハル レナード・フジタ
東京 1886年 - チューリッヒ 1968年
藤田夫人の肖像 1917年 -
エドゥアール・マネ
パリ 1832年 - パリ1883年
ウサギ 1866年 -
マグダラのマリア伝説の巨匠
活動期間:1483年から1527年
聖バルバラとアレクサンドリアの聖カタリナ -
書斎でしょうか。
-
調度品も揃っている。
-
豪華な部屋。
-
展示室の様子。
-
装飾が美しい家具。
-
ジャック=エミール・ブランシュ<失われた時間を描く>という企画展開催。
60点ほど展示されていた中で気になった作品を少し紹介。
画家の母 マダム・エミール・ブランシュ 1890年
ジャック=エミール・ブランシュ (1861-1942)
キャプションより。
「フェリシテ・バロン=シャティヨン(1820-1895)は、1854年7月に遠縁の医師エミール・ブランシュと結婚しました。
二人の間には4人の子供が生まれましたが、末っ子のジャック=エミール(通称「ジャック」)だけが生涯を終えました。
ブランシュ夫人は、この個人的な悲劇を亡くなるまで嘆き続け、生き残った息子を深く愛しました。後年、画家ブランシュは、自らを「多くの投影をまとった子供のチュニック」と表現しました。
強い個性に恵まれたブランシュ夫人は、精神科医である夫を補佐し、診療所の運営とケアを行いました。彼女は息子の健康、幸福、そして教育、特に人生の選択を深く気にかけていたので、独自の方法で息子を支えました。
1880年、ジャック=エミール・ブランシュは、家系が医師へと繋がることに少し迷った後、画家になることを決意しましたが、執筆活動は諦めませんでした。
1881年、母親は彼を友人の画家アンリ・ジェルヴェ(1852-1929)のアトリエに導きました。
晩年は病弱だったブランシュ夫人は、息を引き取るまで息子に見守られていました。」 -
オフランヴィルのトット邸の音楽室(1910年頃)
ジャック=エミール・ブランシュ (1861-1942) -
画家ポール=セザール・エルーの息子 ジャン・エルー 4歳の頃、1897年
ジャック=エミール・ブランシュ (1861-1942)
キャプションより。
「ジャン・エルー(1894-1985)は、1900年頃の女性の優雅さを代表する画家、ポール=セザール・エルー(1859-1927)の息子でした。ブランシュはエルーと親しい友情を築き、1882年のロンドン旅行を機にさらに深い友情を育みました。
ジャン・エルーは、父の上流社会の交流の中で育ち、文学サロンやノルマンディーでのヨット遊びなどに親しんでいました。パリの国立高等美術学校とアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールで学びました。
当時まだ無名だったガブリエル・シャネルの肖像画を初めて描いたのは、間違いなく彼です。
ヴェルテメール家に戻り、香水瓶のデザインを手掛けました。例えば、No.5のボトルの開発に携わったとされています。1924年にフランソワーズ・ベニェールと結婚しました。」 -
石器の花瓶に入ったバラの花束、[1900]
ジャック=エミール・ブランシュ (1861-1942)
キャプションより。
「経験から、花を枯らさずに長持ちさせるにはいつ切り花を切るのが適切か、そして花の死に際の苦しみを長引かせる様々な方法を学ぶことができます。
最初の花を描いたら、隙間を空けてそこに他の花を差し込み、花束のように飾ることができます。これはそれ自体が芸術であり、多くの練習、技術、そして注意を必要とします。
芸術愛好家の家庭に育ち、幼い頃から当時の著名な芸術家たちと交流のあったブランシュは、他者、先人たち、そして同時代の画家たちの絵画に多大な関心を払っていました。
彼はアングルやマネといった画家の技巧だけでなく、しばしば彼らと知り合い、彼らの話を聞くという幸運に恵まれたため、彼らの対人関係の巧みさを高く評価していた。彼らの影響はブランシュの絵画、特に1900年以前の作品に強く感じられる。
例えば、花束や集合肖像画を描いた静物画で知られるアンリ・ファンタン=ラトゥール(1836-1904)の場合、ブランシュは14歳の時に音楽家エドモン・メートル(1840-1898)によってラトゥールのアトリエに招かれた。」 -
下調べしていなかったので、ゴッホやモディリアーニなど見れて興味深かった。
-
アヴィニヨン在住の方から教えていただいたお店で遅めのランチ。
-
好きなものを選んで温めていただく、私には丁度良い量で美味しかった。
-
ショーウィンドウの茶器に目が止まり、立ち寄った。
-
たくさんの紅茶が並んでいて、フレーバーティーの香りを嗅がせていただき購入。
-
日本の茶碗と思いきやフランス製とのこと。
-
このお店でマフィンを購入した。
-
絵になる三叉路。
-
この明るさで夕方、旧市街にある宿に向かう。
-
西欧の夏は屋外席を楽しむものだけど、最近は昼も夜も暑くて室内の冷房が恋しい。
-
サン・ピエール教会は7世紀から存在し、ピエール・ド・プレ枢機卿の寄付により1385年に再建された。
華やかなプロヴァンス・ゴシック様式のファサード。
扉が開いているので入りましょう。 -
ファサードの印象より古さを感じる単身廊。
-
ステンドグラスはこんな感じ。
夕陽が入って光が美しい。 -
パイプオルガンが見える。
-
側礼拝堂が美しかった。
-
背後の女性像が美しかった。
-
こちらも。
-
つい沢山撮ってしまって。
-
こちらも側礼拝堂。
-
古色蒼然とした感じがいい。
-
側面の入口から出ると、ちょうど宿近くの広場へ。
-
B&Bに到着。1階の角部屋が私の部屋。
-
少し前にランチを食べたばかりだったので、マフィンの夕食。
翌日は、アンティークの街、リル=シュル=ラ=ソルギュへ向かいます。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
-
前の旅行記
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【16】アヴィニヨン
2025/06/10~
アヴィニヨン
-
次の旅行記
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【18】リル=シュル=ラ=ソルギュ
2025/06/10~
リル=シュル=ラ=ソルギュ
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【1】トゥールーズ
2025/06/10~
トゥールーズ
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【2】モワサック、モンパズィエ
2025/06/10~
モアサック
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【3】ミランド城、マルケイサック、べナック...
2025/06/10~
ラ・ロック=ガジャック
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【4】ヴィトラック、スイヤック、ロカマドゥ...
2025/06/10~
ロカマドゥール
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【5】コロンジュ=ラ=ルージュ、カルンナッ...
2025/06/10~
コンク
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【6】コルド=シュル=シェル
2025/06/10~
コルド=シュル=シエル
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【7】アルビ、トゥールーズ
2025/06/10~
アルビ
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【8】カルカッソンヌ
2025/06/10~
カルカソンヌ
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【9】コリウール
2025/06/10~
コリウール
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【10】カニグー、カベスタニー
2025/06/10~
ペルピニャン
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【11】サン・ギレム・ル・デゼール
2025/06/10~
サン=ギレム=ル=デゼール
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【12】モンペリエ
2025/06/10~
モンペリエ
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【13】ニーム
2025/06/10~
ニーム
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【14】アルル
2025/06/10~
アルル
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【15】サント=マリー=ド=ラ=メール
2025/06/10~
サント=マリー=ド=ラ=メール
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【16】アヴィニヨン
2025/06/10~
アヴィニヨン
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【17】ユゼス、アヴィニヨン
2025/06/10~
その他の都市
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【18】リル=シュル=ラ=ソルギュ
2025/06/10~
リル=シュル=ラ=ソルギュ
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【19】ルション
2025/06/10~
ルシヨン(ヴォクリューズ)
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【20】ヴァロンソル、ムスティエ=サント=...
2025/06/10~
ムスティエ=サント=マリー
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【21】ルールマラン、ゴルド、ルシヨン、フ...
2025/06/10~
ルールマラン
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【22】シルヴァカンヌ、エクサン・プロバン...
2025/06/10~
エクス=アン=プロヴァンス
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【23】マルセイユ①
2025/06/10~
マルセイユ
-
ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間【24】マルセイユ➁旅の終わり
2025/06/10~
マルセイユ
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
その他の都市(フランス) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ ペリゴール・リムーザン・ラングドック・プロヴァンスをめぐる28日間
0
128