2025/06/10 - 2025/07/07
39位(同エリア198件中)
マリアンヌさん
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ずっと以前からプロヴァンスの三姉妹といわれる修道院のひとつル・トルネ修道院に行ってみたかったのです。しかし、交通の便が悪くエクサン・プロバンスから日帰りだと往復タクシーになり費用がかかりすぎるので今回は断念しました。セナンク修道院には行ったことがあるので、今回はシルヴァカンヌ修道院に出かけることにしました。
6/10 羽田発イスタンブール経由
6/11 トゥールーズ着
6/12 モワサック修道院、モンパズィエ
6/13 ミランド城、マルケイサック、べナック=エ=カズナック、
サルラ=ラ=カネダ、
6/14 ヴィトラック、スイヤック、ロカマドゥール、ドンム、
ラ・ロック=ガジャック
6/15 コロンジュ=ラ=ルージュ、カルンナック、コンク
6/16 コルド=シュル=シェル
6/17 アルビ、トゥールーズ
6/18 カルカッソンヌ
6/19 コリウール、ペルピニャン
6/20 サン=マルタン・デュ・カニグー修道院、カブスタニー
6/21 サン=ギレム=ル=デゼール、モンペリエ
6/22 モンペリエ
6/23 ニーム
6/24 アルル
6/25 サント=マリー=ド=ラ=メール、カマルグ
6/26 アヴィニョン
6/27 ユゼス、アヴィニョン
6/28,29リル=シュル=ラ=ソルギュ
6/30 ルシヨン
7/1 エクサン・プロヴァンス
7/2 ヴァロンソル、ムスティエ=サント=マリー、サン=クロワ湖
7/3 ルールマラン、ゴルド、ルシヨン、フォンテーヌ=ド=ボークリューズ
7/4 シルヴァカンヌ、エクサン・プロバンス
7/5 マルセイユ
7/6,7マルセイユ発イスタンブール経由羽田着
*参考図書「フランス・ロマネスクへの旅」
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エクサン・プロバンス4日目、まずはバスターミナルへ。
前日にチェックしていたので
バスターミナル(Gare Routière)発8:50
シルヴァカンヌ(Silvacane)着9:35
料金はバスのドライバーから現金でチケットを買うことが出来た。 -
Googleマップを見ながらバスの停留所の位置を確認していたが、降車ボタンが見当たらない。キョロキョロしていたら親切な方がドライバーに伝えればとのことで、シルヴァカンヌと言って無事降車。
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のどかな緑が溢れるところで、花も咲いていた。
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修道院は10時から開くということで、一番乗りでしばし待機。
というか他に誰もいなかった。シルヴァカーヌ修道院 寺院・教会
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こちらはかつての施設の遺跡かな。
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蓮などのお花が咲いていた。
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「プロヴァンスの三姉妹」のひとつシルヴァカンヌ修道院。
姉妹といっても人ではなく、南仏プロヴァンスに12世紀から13世紀頃に建築されたシトー会修道院のこと。
ヴォークリューズ県のセナンク、ヴァール県のトロネと並んで、シルヴァカンヌはプロヴァンスにある3つのシトー会修道院をいう。 -
シトー会は、1098年にフランスのシトーで創設された、ベネディクト会から派生したカトリックの修道会。
クリュニー修道院の華美な生活とは対照的に、質素な生活、労働、清貧を重視し、白い修道服を着用したことから「白い修道士」とも呼ばれた。 -
歴史。HPより。
「選ばれた場所は、デュランス湿地帯を見下ろす岩だらけのエリアで、11世紀に橋を架ける修道士たちが川を渡る浅瀬、ゴンタール浅瀬に建てた最初のホステルからそう遠くありません。
新しい土地の開発に伴い、地元の貴族からの寄付も増加しました。ベルトラン・デ・ボーは1175年に教会の建設を開始しました。」 -
「12世紀と13世紀は、シルヴァカンヌの精神的・経済的発展の時代でした。彼はヴァルサント修道院を設立しました。
修道院には5つの納屋があり、修道士によって管理されていました。
衰退は13世紀末に始まった。モンマジュール修道院の修道士による修道院侵攻、ペスト大流行、内乱、百年戦争、修道会の弱体化などがシルヴァカンヌを揺るがした。」 -
「16世紀末から、プロテスタントとカトリックが交互に修道院を占拠しました。
宗教的機能を奪われた修道院は、やがて石切り場としての役割に成り下がりました。
1742年、この教会はラ・ロック・ダンテロン教会に取って代わられ、聖別解除されました。革命中に国有財産と宣言された修道院は農場へと転用されました。
歴史建造物に指定されている建物群全体は、1945年に国に取得されました。
2008年1月以降、修道院はラ・ロック・ダンテロンの所有となっています。」 -
側廊。
建築。HPより。
「修道院教会は 、東向きの伝統的なラテン十字型平面を有しています。中央の身廊、両側の側廊、そして翼廊で構成され、翼廊の両脇には平らな後陣を備えた礼拝堂が設けられています。」 -
ガイドより。
修道院後陣の修復工事に続き、バラ窓の保存状態を評価するため、調査が行われました。調査報告書は、現存するバラ窓が中世に遡るものであることを示しています。
その起源は、修道院教会の建設期に遡ります。
様式的な観点から見ると、内部のキーストーンのモールディングは、1200年頃のロマネスク様式に典型的に見られます。
これらのオリジナルの要素は、19世紀と20世紀に頻繁に改修されたため、このタイプと時代の湾において現存することは比較的稀です。
したがって、シルヴァカンヌのバラ窓は、高い遺産価値と科学的価値を有する、特筆すべき要素です。 -
両翼廊には東側に祭室が2つずつある。
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質素でありながら静謐さがただよう。
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差し込む光が美しい。
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これのことを指すのか?だけど。
中央身廊の右側には、修道院の創設者とされるベルトラン・ド・ボーの墓所があります。南側には、13世紀に遡る、ボー家の一員に捧げられたゴシック様式の墓碑の遺構を見ることができます。 -
こちら側にも祭室。
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階段を上がって。
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修道士達の寝室。ガイドより。
東翼の上階全体は、他のシトー会修道院と同様に、広くて長い宿舎で占められています。階段が翼廊の北側の腕に直接つながっており、修道士たちは夜間の礼拝のために教会へ素早く行くことができます。
この広大な宿舎は、1995年に歴史的建造物の主任建築家であるディディエ・ルペラン氏の指揮の下、修復工事が行われました。ルペラン氏は、特に北側の窓の修復など、元のレイアウトを復元するためにあらゆる努力を払いました。
この美しい建物は、その美しさを取り戻しましたが、全体的な建築は洗練され荘厳である一方で、初期の修道院生活の厳しい生活環境を思い起こさなければなりません。
修道士たちは、床に敷いた簡素な藁のマットレスで寝ていました。
戒律では、修道士同士を隔ててはならないと定められていたからです。しかし、この戒律はすぐに破られました。
修道士たちはこの部屋ではなく、食堂の西側にあったと思われる別の建物で寝ていました。東と北には便所に通じる扉があり、西側には回廊のテラスにつながる扉がありました。 -
回廊へ。
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ガイドより。
どの修道院においても、回廊は修道院の心臓部であり、俗世からの隠れ家であると同時に、他のすべての建物が周囲に配置される空間でもあります。
シルヴァカンヌでは、土地の傾斜により、回廊は教会より1.6メートル低い位置にあります。 -
回廊は循環と瞑想の場であると同時に、中央の噴水によって外界との象徴的な繋がりも果たしていました。
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4つの回廊は樽型ヴォールト天井で、北、南、西の3つの角はリブ付きヴォールトで覆われているという顕著な例外があります。堅牢で簡素な回廊は、力強い半円形のベイが連なることによって中央庭園へと開かれています。
かつては2つのベイが点在していましたが、現在ではそのうちの1つだけが復元されています。シルヴァカーヌの回廊は教会と修道士棟に倣って、より正確には11世紀後半に建てられました。石積みは教会のものよりも粗末で、継ぎ目は厚くなっています。 -
教会に隣接するコラティオと呼ばれる回廊には、修道士たちが夕方に聖典を読むために座る石のベンチがありました。
断食期間中は、その前に一日で唯一の質素な食事が摂られました。回廊と食事の両方にコラティオという名前が付けられました。 -
これは、5世紀に修道士ヨハネス・カッシアヌスが著した『コラティオネス』に由来しており、この書は戒律でこれらの機会に読むよう定められていました。西洋における最初のスピリチュアル・マニュアルとされるこの書は、西洋の修道生活に大きな影響を与えました。
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イチオシ
1つだけル・トルネに似た回廊形態。美しい。
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回廊は共同体と精神生活の融合を象徴し、修道院組織の中心であり続けました。
植物や幾何学模様の彫刻装飾が特に豊富です。 -
柱頭に残る彫刻。
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ここから中庭に出てみます。
修道士たちは食事の前にここで手を洗い、毎週の足洗いの儀式であるマンダトゥム(洗足、頭髪の剃髪、洗礼のための水汲み)のために水を汲みに来ました。
丸い洗面台は覆われていたと考えられています。修道院の上流にある井戸から水が供給されていました。 -
中庭には、自給自足のための野菜、果樹、薬草、精神的な慰めとなる花や緑などが植えられ、修行の一環としての労働や学究が行われていたという。
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少し残る意匠。
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この回廊の厚みが南仏らしい。
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中庭を眺めて。
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少しの時間、物思いにふけってみた。
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教会との通路の階段。
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チャプターハウス。
修道院に付属する集会用の空間で、主に修道士が集まり、修道院長の話を聞いたり、読書をしたりする場所。
また、修道院長が修道士たちにアドバイスを求め、重要な決定を下す場でもあり、修道生活の始まりと終わりの場所として、特別な意味を持っている。 -
ガイドより。
聖ベネディクト1世の戒律73章のうちの1章を読み、また公衆の前で告解するためにも集まった場所である。
修道士たちは石段に座っていたが、その石段は現在は残っていない。 -
写字室は、水葉で飾られた柱の上に設置された6つのリブ付きヴォールトで覆われています。唯一の暖房室であったこの部屋は、規定通り、肉体労働が行われていた場所でした。
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多くの修道僧が生活していたのね。
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美しい窓辺。
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修道院唯一の暖房室だったという暖炉。
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Armarium(アルマリウム)
ラテン語で「書庫」「図書館」を意味する言葉だそう。 -
この空間ではと思いますが。
アルマリウムは、医学、音楽、神学、科学に関する著作が保管されていた小さなアーチ型の部屋です。アルマリアはフランス語で「ormoire」(ワードローブ)の語源です。
ゴシック様式で、13世紀に建てられたものです。 -
窓と柱の意匠。
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美しいアーチ。
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シンプルでどっしりとした回廊。
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観光客は私の他4名ほど、ゆっくり静かに見学出来た。
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おそらくこの部分だと思うのですが。
パーラー(通路)は修道士たちが庭に出入りするための場所でした。
修道院長はここでその日の仕事を分担し、修道士たちに道具を与えました。その名が示すように(フランス語でパーラー)、ここでは会話が許可されていました。
修道士たちの庭には水を供給する池がありました。東側の大きな壁は、丘の下にある風車へ水を運ぶ導水路として機能していました。 -
ファサードと反対側に出てみた。
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畑だったのかな。
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廃れた通路脇の木陰で休んだ。
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表に出て、かなり広い敷地だなと。
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訪れることが出来て良かったなと別れを告げ、ショップで、初期キリスト教のリンダウ福音書の表紙をデザインしたノート購入。
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シルヴァカンヌ(Silvacane)発10:47
バスターミナル(Gare Routière)着11:40
10分以上バスが遅れ、ちょっと心配したけど無事乗れて良かった。 -
車窓から見えた貯水池のような池。
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光の噴水とサン・トノレ広場の噴水。
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既にレストランはランチ営業時間終了、ということでカフェ・ランチ。
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サラダだったかな。忘れちゃいました。
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リシュルム広場にイノシシがいた。
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昨日も下見した市庁舎とKing Ben。
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マルティル・ド・ラ・レジスタンス広場。
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プラタナスの日影が気持ち良さそう
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アーチを通り抜けて。
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サン・ソーヴール大聖堂。
5世紀から18世紀にかけて徐々に建設された大聖堂。
上には、1323年から1425年にかけて建てられた鐘楼がそびえている。サン ソーヴール大聖堂 寺院・教会
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ファサードには、様々な時代の建築様式が読み取れる。ロマネスク様式の扉とローマ時代の壁が隣あわせとなり、豊かに彫刻を施したゴシック様式のヴシュール。
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サイドのローマ時代の城壁に隣接する12世紀のロマネスク様式の入口から入る。
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この建物は、古代のフォーラムの跡地に建てられ、伝説によればアポロ神に捧げられた古代神殿の基礎の上に建てられており、何世紀にもわたる多くの改築により、さまざまな建築様式が取り入れられているそう。
伝説によると、大聖堂は5世紀から18世紀の間に、アポロンの神殿があった場所に建てられたとのこと。 -
ゴシック様式の身廊。
<大聖堂の歴史>
最初のキリスト教徒の正体とエクスアンプロヴァンスの教会の起源は明らかにされていないが、いくつかの興味深い仮説が存在するとのこと。
1.マグダラのマリア、マルタ、ラザロの仲間であった聖マクシミヌスは、エクスアンプロヴァンス の教会の創始者と言われている。
2.マクシミヌスの後継者は、福音書に登場する盲目の聖シドニウスである。
3.最初の礼拝堂は聖なる救世主(イエス・キリスト)に捧げられたものであったと考えられます。 -
4.事実、ガリラヤ人を温かく迎えたことで有名なベタニアの家族は、キリストの生涯 において重要な役割を果たしました。
5.この家族の性質、そのギリシャ文化の可能性、聖地での生活中のプロヴァンスとのつながりの可能性、そしてその後プロヴァンスでそれぞれが果たした役割は、興味深い研究の対象とのこと。 -
・3世紀。ディオクレティアヌス帝の治世下で迫害された殉教者聖ミトレの存在。エクスのノートルダム・ド・ラ・セッド聖堂跡に、彼の石棺と礼拝堂が安置されていたとされ、現在はこの聖堂の祭室へ。
・大聖堂は古代アウレリア街道沿いにある。
・4世紀。エクスはローマ帝国の新たな属州の首都となり、その司教区はアルルの司教区と競合した。
・5世紀から6世紀(あるいは4世紀初頭)にかけて建立された洗礼堂。コンスタンティヌス帝の治世後、この時代に遡ると考えられている。 -
・8世紀と9世紀。大聖堂はサラセン人の攻撃で破壊されました。
・11世紀。プロヴァンスはイスラム教徒の占領から解放され、大聖堂のロマネスク様式の部分が建設された。
・16世紀、大規模な建設と開発。
・1840年、歴史的記念物に指定される。
・1875年、回廊が歴史的記念物に指定される。 -
サント=マリー=ド=ラ=メールの教会の由来に繋がっているのね。
<聖マクシミヌスとマグダラのマリアの航海>
キリスト教の伝承によると、聖マクシミヌスはエルサレム近郊の村ベタニアから、マグダラのマリアを伴い、彼女の兄弟ラザロの舵のない船に乗ってプロヴァンスに到着しました。
彼らは海上で命を落とすと思われていましたが、航海はフランス南岸に辿り着き、マルセイユに上陸しました。そこで彼らはフランス国民をキリスト教に改宗させることに成功しました。
実際、マクシミヌスはエクスの初代大司教となり、ここに質素な礼拝堂を建て、救世主キリストである聖ソヴールに捧げました。 -
ひとつの伝承に、マグダラのマリアが旅の途中で妊娠していたという説がある。
その子の父親はなんとキリスト自身だったと。その子の子孫は後にフランス王家に嫁ぎ、メロヴィング朝を築いたという。 -
ロマネスク様式の身廊。
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洗礼堂。
サン・ソヴールで最も古い部分は洗礼堂で、5世紀初頭に建てられ、現在の大聖堂より約700年も古いもの。
イタリアでもも見られる初期キリスト教の浸礼(全身を水に沈める方法)による八角形の洗礼槽があった。 -
洗礼堂の西、南側廊の1番目のベイの南に位置するシャペル・サン・コム・エ・ダミアンは16世紀末に造られた祭室で、今日は展示室になっている。
奥にピレネー産の大理石で4世紀後半に制作されたサン・ミトルの石棺がおさめられている。
このアルル風とされる初期キリスト教時代の石棺には、エクスの守護聖人の一人で、466年に斬首刑で殉教したサン・ミトルの亡骸がおさめられていたとされる。
5世紀、石棺はエクスの最初の大聖堂であるノートル・ダム・ド・ラ・セドにあったが、14世紀後半にサン・ソヴールに移された。
中央に祝福のポーズをしたキリスト、左にペトロ、右にパウロ、まわりに十二使徒。
実はこの右の受付で回廊のガイドツアーを申し込まなければいけなかったようなのだが・・・ -
ガイドツアー(無料)でしか入れない回廊に、何故か入口が開いて入っていった観光客につられて入ってしまった。
初めは全然気づかず、柱頭を眺めていたのだけど、しばらくすると扉が閉められてしまった。追い出されたりはしなかったので、拝見してしまった。 -
大聖堂の南側に位置する回廊は、1190年頃に造られた。
回廊の地下に、紀元前122年にガイウス・セクスティウス・カルウィヌスによって造られた古代ローマのフォルムの遺構が見つかっているそう。 -
北西のコーナーにあるピラーには、右手に大きな鍵を持ち、左手で聖書を持ペトロが彫刻されている。上に鷲のシンボル。
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上は、キリスト降誕。ベッドに横たわるマリア、息を吹きかけてイエスを温めるロバと牛。
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四隅のひとつのピラー(柱)には、ひねりの小円柱。
上には、四福音記者マルコのシンボルであるライオンのレリーフがある。 -
上はは、イエスの洗足。
下は、十字架磔刑。 -
小さめの回廊だけど美しい。
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南西のコーナーにあるピラーは、4つの小円柱で装飾されているが、植物モティーフの柱頭の上には、福音記者マタイのシンボルである天使。
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上はイエスの洗足。
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柱にも彫刻があるものがあったり、柱の下にも彫刻があった。
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上はコンスタンティヌス。
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今回のフランス旅、ずいぶんたくさんの回廊を巡ったなぁ。
みんな違ってみんないい☆ -
上は遊牧民とヘブライ人。
ダビデ対ゴリアテ。 -
美しいアーチ。
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東洋的な彫像。
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南東のコーナーにあるピラーには、様式化された植物モティーフが彫刻されている。
上には、福音記者ルカのシンボルである牛。 -
緑の中庭を囲み、静謐な空間。
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鳥の彫刻や植物モチーフ。
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ガイドツアーはイタリア人観光客で時々イタリア語が聞こえていた。(内容がわかるほど堪能ではないけど)
ツアー終了で回廊の出入り口の扉が開いた。ガイドの方に「すみません。間違って回廊に入れてしまったようなのです」と謝ると微笑んでうなずいてくださった。
無事退出することが出来た(汗) -
それでは、もう少し時間があるのでグラネ美術館へ。
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ちょうど10月中旬まで世界中から作品を集めたセザンヌ展が開催中だったので。
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昔、エクサン・プロバンスに来た折はセザンヌのアトリエを見学した。
絵画そのままに様子に感心した覚えがある。 -
スリーエルムズ噴水。
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プレシュール広場を通って。
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素晴らしい扉口の意匠の数々。
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イチオシ
お洒落な街角。
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サン・ジャン・ド・マルト教会が見えてきて美術館到着。
すると大勢の人が並んでいて、予約しないと入れないのかと係員に聞いたら、当日券購入もネットから予約するようにと。
日影でネットでチケットを購入するもチケットがメールに届かず、予約場面を見せるとOKと無事入場出来た。 -
セザンヌ展(Cezanne at Jas de Bouffan) キャプションより。
1857年から1862年にかけて、セザンヌは旧マルト宮殿にある無料のデッサン学校に通いました。この学校には、エクス美術館(1949年にグラネ美術館と改称)のコレクションが展示されていました。
セザンヌが初めて絵画とデッサンを学んだのは、この1階の教室でした。
学校での彼の修行には、実物の模型やアンティークの鋳型からの模写やデッサンが含まれていました。当時の記録によると、セザンヌはエクス美術館を頻繁に訪れ、そこでいくつかの作品を複製していたようです。グラネ美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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グラン・サロンはポール・セザンヌの最初のアトリエでした。1870年、セザンヌ一家は1859年に売却されたバスティード邸に永住しました。
1860年、21歳になったセザンヌはグラン・サロンで制作活動を始め、漆喰の壁に直接油絵の具で描き始めました。多様な作風と題材は、若き芸術家が芸術的発展の初期段階にあったことを物語っています。
これは、断片的に切り分けられて売却されていたものを今回は初めて復元された大広間に再展示されたそう。
プロヴァンスのバスティードに典型的な2つの装飾テーマがここにあります。アルコーブの「四季」と、東西の壁にある一連の記念碑的な風景画です。そして1865年、セザンヌは大きな転換期を迎えます。これらの初期作品の上に新たなテーマを描くことで、より実験的な時代へと歩みを進めたのです。
ジャ・ド・ブッファンの売却後、これらの作品は波乱に満ちた歴史を辿ります。ルイ・グラネルはグラン・サロンの壁の大部分を壁紙で覆い、一部の作品のみを露出させました。
1907年、現存する芸術家のためのリュクサンブール美術館の学芸員、レオンス・ベネディットはジャス・ド・ブッファンを訪れ、これらの初期作品を批評しました。パネルEは取り外され、断片に切り分けられた後、キャンバスに移され、ルイ・グラネルとその後継者たちによって1912年から1960年にかけて売却されました。
これらの作品の多くは、ここで初めて再会し、復??元された大広間に元の配置のまま展示されています。これは、残された断片を再び発見するための新たな試みを促すことを期待しています。 -
ルイ=オーギュスト・セザンヌ、画家の父、『出来事』を読む 1866年
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.、ナショナル・ギャラリー
セザンヌは、ブッファンの庭を父の家と考えていました。
メインサロンの中央に置いた後、彼はなかなか彼を芸術家として認めてくれなかった父の大きな肖像画を描きました。『出来事』を読む父の姿が描かれたのは偶然ではありませんでした。
1866年、ゾラはそこで公式サロンに関する一連の記事を発表し、落選した芸術家を擁護していました。セザンヌは静物画の一つを背景に配置することで、父と友人への二重の敬意を表すと同時に、自身の画家としての地位を確固たるものにしました。 -
エミール・ゾラの肖像 1862-1864年
フランス、エクス=アン=プロヴァンス、グラネ美術館
< 先日、夢を見ました。私は美しい本を書き上げました。それは崇高な本で、あなたは美しく崇高な版画で挿絵を描いてくださいました。私たち二人の名前は金文字で輝き、最初のページで一つになり、この天才兄弟の絆の中で、後世へと分かちがたく受け継がれました。残念ながら、それはまだ夢のままです。>
エミール・ゾラからポール・セザンヌへの手紙、1860年3月25日 -
画家の母の肖像 画家の母 1866-1867年
アメリカ合衆国、セセントルイス美術館 -
画家の妹マリー・セザンヌの肖像 1866-1867年
アメリカ合衆国、セントルイス美術館 -
アントニー・ヴァラブレーグの肖像 アントニー・ヴァラブレーグの肖像
1870年 米国、ロサンゼルス(CA) -
ピンクの背景を持つ画家の肖像 1875年頃
フランス、オルセー美術館 -
プロヴァンスの道の曲がり角 1866年頃またはそれ以降
カナダ、モントリオール美術館 -
冬のジャ・ド・ブッファンの栗の木々 1885-1886年
アメリカ合衆国、ミルネアプール芸術協会、ウィリアム・フッド・ダンウッディ基金 -
セザンヌは初期の風景画をグラン・サロンで描き、その後の円熟期の作品でも繰り返しこのジャンルに立ち戻りました。
1870年代までは、ギュスターヴ・クールベやオノレ・ドーミエの作品に影響を受け、クーヤールド(大胆な表現)と呼ばれる作風で風景画を描き続けました。
普仏戦争中、セザンヌはプロヴァンスに隠遁し、自然の中で過ごす時間を増やしました。
1870年から1880年にかけて、カミーユ・ピサロと共にパリ地方に何度も滞在した際に、印象派的な手法で屋外の光を描写する方法を学びました。
しかしながら、プロヴァンスとその風景画は、セザンヌにとって依然として重要なインスピレーションの源でした。
そこで彼はより独自の作風を築き、より暖かく、より鮮やかな色彩で構図を構築しました。彼の整然とした、しっかりとした筆致は、流動的で濃密です。時を経て、鉛筆、油彩、水彩で描かれたこれらの風景画は、彼の作品における主要なテーマとなっていきます。 -
ブーファンの木々の茂み 1875-1876年
アメリカ合衆国、ポートランド美術館
セザンヌの作風の進化は、この2つの作品に見ることができます。
彼は同じ風景を、大きく異なる手法で描いています。
1871年の作品は依然として暗く濃厚な印象派で、構図は簡素化されています。
後期の同じ作品は、明るく濃厚な色彩で、光に特に注意を払っています。
より軽やかでニュアンス豊かな筆致は、カミーユ・ピサロ(1830-1903)の影響と、1874年の展覧会で明らかになった印象派の教訓を物語っています。 -
ル・ジャ・ド・ブファン ジャス・ド・ブファン 周辺 1878年
マリーナ ピカソ コレクション -
ジャ・ド・ブファンからの眺め 1875-1876
フランス、パリ、オルセー美術館
2000 年エクス・アン・プロヴァンスのグラネ美術館に寄託 -
ジャ・ド・ブッファンの牧草地と農場 1885-1887年頃
カナダ、カナダ国立美術館 -
ジャス・ド・ブッファンのベア・ツリーズ 1885~1886年
日本、国立西洋美術館 -
ジャ・ド・ブッファンの家 1876年頃~1878年頃
個人蔵 -
ジャ・ド・ブッファンの家と農場 1885-1887
チェコ共和国、プラハ国立美術館
この作品は、ジャ・ド・ブッファンの別荘の最も雄大な景観を描いています。
セザンヌの作品には、より頻繁に描かれた農家とは異なり、この家はほとんど登場しません。力強く精緻な筆致で、2つの建物が厳密な幾何学的構造で描かれています。
屋根の赤と芝生の緑が、別荘の壁の輝く黄土色を引き立てています。
鎧戸の青は空の青を彷彿とさせ、セザンヌ特有の色彩のハーモニーを生み出しています。 -
サント・ヴィクトワール山 1897年
スイス、ベルン美術館
サント・ヴィクトワール山はエクス・アン・プロヴァンスの象徴です。
フランソワ・マリウス・グラネ(1775-1849)やジャン=アントワーヌ・コンスタンタン(1756-1844)に倣い、セザンヌはこの山を繰り返しのモチーフとして用い、19世紀プロヴァンス風景画派の伝統を超越しました。
彼はベルビュー、画家庭園、そしてベルン美術館所蔵の作品に見られる黄??土色のビベミュス台地など、様々な視点からこの山を描きました。
セザンヌは、その想像力と絵画を通して、サント・ヴィクトワール山を普遍的な山へと昇華させました。 -
ジャス・ド・ブーファンの池 1878年頃~1879年
アメリカ合衆国、ニューヨーク州バッファロー、AKG美術館
セザンヌにとって、ジャ・ド・ブッファンは野外アトリエでした。
当時、この屋敷は都市に吸収されていましたが、周囲は田園地帯に囲まれていました。長年、庭園内で絵画制作の実験を重ねた後、セザンヌは庭園を探求し、それ自体が一つの主題として捉えるようになりました。60点以上の作品に庭園が描かれています。
この部屋に展示されている絵画は、ジャ・ド・ブッファンの配置を理解するのに役立ちます。
- 南側の長い栗並木は、プロヴァンス特有の明るい黄土色で塗られた大きな庭園へと続いています。
- 西側の池は、イルカとライオンの彫像に囲まれており、セザンヌは水面に映る光の表現を探求することができました。
- 東側の農場は、彼がモデルとして選んだ農民たちを描いた場所と思われます。
さらに東へ進むと、サント・ヴィクトワール山が見えましたが、現在は近代的な建物に隠れてしまっています。公園の中心で、セザンヌは外の世界の雑念を離れ、芸術に没頭しました。 -
裸木のあるジャ・ド・ブッファンの水盤 冬のジャ・ド・ブッファン 1881-1883
スイス、ヴィンタートゥール、連邦内務省、連邦文化局(FOC)、
ジャ・ド・ブッファンの水盤から、水盤の前面に描かれた水盤から眺めた畑と壁。
水盤の前面に描かれ、白地の紙に隠れるようにして描かれている。
この「隠れた」、つまり未完成の表現方法は、セザンヌの油彩画にも見られる。
セザンヌが独自のスタイルと表現方法を確立した水彩画は、彼の作品において非常に重要な意味を持っている。
1890年まで、彼は形の表現に重点を置き、その後、色彩をより抽象的な方法で対象物に規定するようになりました。
ジャ・ド・ブッファンの農場と壁は、紙の白い背景に陰影として描かれた池から、この絵の中で見ることができます。セザンヌは油彩画においても、陰影、つまり「未完成」の空間を用いていました。
カザンヌ独特の水彩画のスタイルと言語は、彼の作品において重要な位置を占めています。1890年までは、彼の作品は形態の研究を優先していましたが、それ以降は、色彩がより抽象的な方法で対象物を規定するようになりました。 -
麦わら帽子の自画像 1878-1879年
アメリカ合衆国、ニューヨーク近代美術館
油彩、水彩、あるいは素描など、セザンヌの自画像の多くは現在も知られている。
この技法において、セザンヌは自身をモデルに用いている。
自らに向けられる視線は常に中立的でありながらも冷酷であり、いかなる感情も表に出ていないように見える。
セザンヌはここで、戸外制作に欠かせない帽子をかぶった自身の姿を描いている。帽子は、おそらく田舎の家の壁紙に着想を得た、逆説的に装飾的な背景を背負っている。 -
リオネロ・ヴェントゥーリ (1885-1961)
1 ブッファンのバスティード、北側ファサード 原画:ゼラチン・シルバー・プリント、1934年 現代版画、2025年 -
2 ブッファンのバスティード、水盤の眺め ブッファンのバスティード、プールから見た様子
3 ルーファンの温室とプール ルーファンの温室とプール -
4 ルーファンの温室とプール ルーファンの温室とプール
5 農場方面のマロニエ通り 農家方面の栗並木道 ルーファンの温室、南側ファサード ルーファンの温室、南側ファサード -
オリーブの壺に花を挿した静物画 1880年頃
アメリカ合衆国、フィラデルフィア美術館
ルイ=オーギュスト・セザンヌは1880年代初頭、ジャ・ド・ブッファンの屋根裏部屋に息子のための最初のアトリエを構えました。
ここで彼は静物画の実験を始め、伝統的なジャンルに新たな息吹を吹き込みました。
1880年代後半には、テーブルクロス、陶器、水差し、果物、砂糖入れなどを、一見不安定な均衡の中で配置しました。
彼は次元を歪め、古典的な遠近法の法則を無視し、光が物体に当たる仕組みを再構築しました。彼の作品には、物質と形態に対する綿密な考察と、彼特有の構成の調和が表れています。後にキュビスムはこれらの原則を大いに参考にしました。
セザンヌの静物画にしばしば登場するオブジェの一部は、エクス=アン=プロヴァンスのローヴにある彼のアトリエで今でも見ることができます。 -
さくらんぼと桃のある静物画1 さくらんぼと桃のある静物画
1885-1887
油彩・キャンバス
アメリカ合衆国、ロサンゼルス(カリフォルニア州)、ロサンゼルス郡立美術館 -
ザクロと洋ナシのジンジャーポット 1890-1893
アメリカ合衆国ワシントンD.C.、フィリップス・コレクション所蔵 -
キッチン・テーブル 1888-1890年
フランス、パリ、オルセー美術館
セザンヌはこの作品をジャ・ド・ブッファンのアトリエで制作した可能性が高い。
キャンバスの左上隅に見えるスクリーンの縁がその証拠である。
画家は様々な視点から観察した対象物の配置を綿密に研究し、コインを使って特定の要素を傾け、遠近感を変化させることさえした。
籠はかろうじて形を保っており、果物は転がり落ちそうに見え、球形のジンジャージャーは宙に浮いているように見える。
しかし、その構成の魔法は、明白な均衡を保っている印象を与えている。 -
リンゴとメロンのある静物画 1895年頃
エスター・グレザー家コレクション -
ストーンウェア ピッチャー 1893-1894
スイス、リーエン/バーゼル、バイエラー財団 -
果物と生姜のポット 果物と生姜のポット 1890-1893
個人所蔵 -
リンゴのある静物画 1895-1898
アメリカ合衆国、ニューヨーク近代美術館 -
拡大して。
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拡大して。
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石膏の愛ー石膏キューピッドの静物画 1894-1895 初期
スウェーデン、ストックホルム、国立博物館
このキューピッド像、通称「プット」は、セザンヌの作品にしばしば登場します。
これは石膏像で、当初はピエール・ピュジェ(1620-1694)の作とされていましたが、現在ではブリュッセルで最も有名な彫像の一つである小便小僧を制作したベルギーの彫刻家で心臓主義の息子、フランソワ・デュケノワ(1597-1643)の作品であると考えられています。
現在ローヴのアトリエに所蔵されているこの小さな石膏像は、特大のスケールで表現されており、セザンヌの遠近法の扱い方が、人物像に対する彼のより詳細な考察を予見させています。 -
四人の水浴女 1877-1878年
日本、ポーラ美術館
水浴女は、時に神話や聖書の主題を彷彿とさせる、ルノワールの官能的な人物像やゴーギャンの奔放な人物像とは全く異なる存在です。
セザンヌは、自身の絵画において、裸婦に対する彼独自の超然としたビジョンを体現しています。
それは、支配的な青、冷たい色彩、そして古典美の規範からかけ離れた、特異な身体表現によって、距離感を巧みに操るものです。彼は絵画における身体表現の新たな結節点を定義し、20世紀の芸術家たちにインスピレーションを与えました。
ポール・セザンヌの友人で詩人で美術評論家のジョアシャン・ガスケは、セザンヌの作品、特にジャ・ド・ブッファンで描き始めた『大水浴女』との出会いをこう回想している。
かつてジャ・ド・ブッファンの階段の上で、ほぼ完成していた壮大な『大水浴女』を見たことがある。3ヶ月間そこに置かれていたが、セザンヌはそれを壁に押し付け、そして姿を消した。
太陽の光を浴びて輝き、屋根裏のアトリエに入るにはその前を通らなければならなかった時でさえ、彼はそのことについて語りたがらなかった。
一体どうなったのだろうか? 彼があれほど夢中になったのは、牧草地の木の下で水浴びをする女性たちの姿だった。
彼はその絵を題材に、少なくとも30点の小さなスケッチを描いた。その中には、精巧で手の込んだカンバス画が2、3点、そして寝室の箪笥の引き出しやアトリエのテーブルにしまい込まれたままの、数多くのデッサンや水彩画のスケッチブックも含まれていた。 -
水浴者たち 1899-1904
アメリカ合衆国、シカゴ美術館 -
水浴をする女性たち 1895年頃
デンマーク、コペンハーゲン -
女性入浴者 1895 年頃
フランス、パリ、オルセー美術館、グラネ美術館に寄贈 -
セザンヌ夫人の肖像 1885-1886
フランス、パリ、オルセー美術館、グラネ美術館に寄贈 -
セザンヌ夫人の肖像 1883-1885
アメリカ合衆国、フィラデルフィア美術館 -
カード遊びをする人々 1893-1896
フランス、オルセー美術館 -
コーヒーポットを持つ女性 1895 年頃 オルセー美術館
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髑髏とシャンデリアのある静物画 1900年頃
ドイツ、シュトゥットガルト州立美術館 -
ベルビューハウス
スイス、ジュネーブ市、MAH芸術歴史博物館 -
レスタックの海 1878-1879年
フランス、パリ、国立ピカソ美術館
ジャ・ド・ブッファンの向こう側、セザンヌはレスタックから見た地中海の深い青色を描いています。
27点の絵画を通して、セザンヌはこの小さな漁村が工業地帯へと変貌していく様子を描き出しています。ジョルジュ・ブラック(1882-1963)とアンドレ・ドラン(1880-1954)は、後にセザンヌの足跡を辿り、レスタックを訪れ、この地でこの素早い色彩豊かな筆致を再発見しました。 -
ビベムス近郊のビベムス石切り場 1895年頃
ドイツ、エッセン、フォルクヴァング美術館 -
このブルーのネックレスは、アヴィニヨンの教皇庁の展示で見たジャン=ミシェル・オトニエルの作品かな?
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たまたま旅行に来て、世界中のセザンヌの作品をこの目で見れたなんてラッキーだった。
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4頭のイルカの噴水。
アパートに戻ります。 -
1日中かなり歩き回り少し疲れたので、テイクアウトしてアパートへ。
大きなスマートTVがあってYouTube見ながら夕食、東京で暮らすのと一緒(笑)
翌日は最後の街、マルセイユに向かいます。
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