2023/07/07 - 2023/07/09
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mistralさん
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このコロナ禍がなかったなら、身近な地の古代史に興味を抱くことはなかったように思います。生まれ育った千葉県の田舎に、古き時代、壬申の乱から逃げ延びてきた妃のお墓がある、ということを知り、カメラを持って出かけたことがそもそものきっかけでした。
最初は判官びいき?から始まったようにも思える、敗者の側から捉えた歴史の時を遡っていきました。日本書紀、万葉集、懐風藻?なる書物も恐る恐るネットで検索してみたりしました。
同じ頃、しにあの旅人さんは、勝者となった大海人皇子側に焦点をあてられ、登場人物の足跡を丹念にたどられて旅行記にしておられました。
両面から壬申の乱をとらえることができたのは、しにあの旅人さんの旅行記によっています。
そしてついに、大来皇女の足跡の残るという最期の地、名張訪問の機会が訪れたのです。
旅に出る前に、たまたまYou Tubeで出会った動画にて改めて壬申の乱の顛末を復習。
2022年は壬申の乱、1350年に当たるため、記念の講演会などのイベントが開催されていたようでした。
壬申の乱1350年 ロマンに満ちた日本の原点を知る 講演会から
基調講演「壬申の乱と七世紀の日本」
講師:水谷千秋氏(堺女子短期大学複学長)
(2022年10月16日)
更に↓の講演会はまさに夏見廃寺の塼仏に関わる講演会だったのです。
夏見廃寺出土塼仏の制作とその背景-持統朝の仏事
帝塚山大学考古学研究所長 清水昭博氏
(2022年3月19日)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
7月7日、東京発9時30分の新幹線に乗った。
京都から近鉄特急に乗り、大和八木で下車(12時57分着)。
チェックインには早かったけれど、お部屋に入ることができた。
ホテルは「カンデオホテル奈良橿原」
わずか一泊の滞在で、翌日は大阪へ。
それぞれの所用があった為の合間をぬっての奈良だった。
(以下の写真は立ち寄り順ではなくなります。)
<ホテルから見える二上山。> -
復習をかねて、大伯皇女と大津皇子にまつわる事がらを時系列に
まとめてみました。
当日の立ち寄り先の順番は
最初に大和八木から名張で下車、夏見廃寺跡へ
夕刻桜井へ戻り、タクシーで訳語田から吉備池を回ってもらい
大福へ、との順番。
翌7月8日には、夫は一人で二上山登山に。
夫は高校生の頃、万葉集に載っている大津皇子の歌に出会い、
以来ずっと二上山に登りたいと思っていたようだった。
百名山にはすでに登ったのに、今回遅ればせながらの
二上山登山となった。
mistralは翌日の予定にそなえて登山はやめて、談山神社へ。
しかし「断所の森」まで上ったため、想定以上の歩きとなった。 -
夕方近くとなり、タクシーも捕まえやすいかと桜井駅で下車。
優しそうな運転手さんで一安心。
<吉備池>
タクシーの運転手さん、この池へは九州から見えたというお客さん
と来られたそう。その折は池の周囲の草が背丈ほどもあり、
とても周囲を歩けなかったとのこと。
今回はまだ刈られて間もなくのようで、良かった、良かった!と安心されていた。
この辺りも磐余の地と言われるようだ。
(磐余の池の推定地は橿原市東池尻町にあるようだ。
12世紀にすでに池は埋め戻され、現在は田んぼが広がる。)
この吉備池、単なる溜池ではなく調査によって廃寺跡ということがわかってきたようだ。
<吉備の池廃寺跡>google mapで調べると廃寺跡との記載がされている。
池は江戸時代に造成された農業用溜池だそうだが東南辺りには飛鳥時代の
ものと思われる瓦片が散乱していることが以前から知られていたようだ。
1997年の発掘調査の結果、飛鳥時代の寺院跡であること、巨大な金堂
基壇、塔基壇跡が発見され、なんらかの公的性格を有した寺院跡と考え
られること、舒明天皇による史上初の勅願寺、百済大寺(639年発願、
673年移築)である可能性があるそうだ。
まだ特定には至らず、<吉備の池廃寺跡>との名称。 -
☆大津皇子が処刑される時に磐余の池の堤で涙を
流してお作りになった歌
百伝ふ(ももつたふ) 磐余(いわよ)の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠れなむ
万葉集 巻3-416 大津皇子
揮毫者 中河幹子
吉備池に南面して建つ。
その後、お屋敷に戻り自害されたと言われているが
作者は後の世の人ではないか?と言われる。
「雲隠れなむ」との表現は貴人に対して使われる言葉であり
自身では使わないものだとの理由から。 -
☆大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬るとき、大来皇女の
悲しみ悼む御作歌
現身(うつそみ)の 人にある我れや
明日よりは 二上山を
弟背(いろせ)と吾が見む
万葉集 巻2-165 大来皇女
揮毫者 小倉遊亀
吉備池の西側の池畔、大津皇子の石碑より少し離れたところ、
碑は東面して建っている。 -
桜井市戒重に移動。
第30代 敏達天皇皇居は
現在の桜井市戒重付近にあったといわれる。
「おさだのさきたまのみや」推定地。
(他に桜井市太田にあったとする説もある。) -
訳語田宮は後、大津皇子の邸宅となっていた。
皇子はこの訳語田舎(おさだのいえ)で死を賜ったとされる。
天武天皇の崩御後、大津皇子の運命は急転することとなる。
一月も経たないうちに大津皇子は草壁皇子へ謀反したとして
捉えられ処刑された。
その時、大津の后だった山辺皇女は、髪を振り乱して素足
のまま駆けつけ、殉死した。見た者はみなすすり泣いた。
何が起こったのか?
そのような悲劇的な現場となったのに、神社には気配一つない。
写真は<拝殿>
本殿へは塀が立ちはだかり回り込めないようになっている。 -
大津皇子は、父が大海人皇子、母、大田皇女は天智天皇の娘
であり母が健在であったなら父の後継者として血統的には
サラブレッド。おまけに文武両道、イケメン、性格もすぐれて
いて謙虚だったと「懐風藻」では褒めたたえられている。
大田皇女の妹、鵜野讃良皇女も大海人皇子に嫁ぎ、壬申の乱を
皇子と共に乗り切り、天武天皇即位とともに、皇后の地位につく。
そんな母親の願いとして、我が子・草壁皇子を後継者にと
強く想ったのも無理のない話しではある。
大津皇子は草壁皇子より一歳年下。
それでも母親にとって最愛の息子に対してライバルとなる大津
皇子は、目障りとなる存在であり、
やがて大津皇子の悲劇が起こってしまう。
天武天皇崩御後まもなく
大津皇子、謀反、との濡れ衣をきせられ、死を賜ることとなり
この訳語田の屋敷で自害をされたと伝わる。 -
ここからは翌8日、二上山登山 (夫による) までの写真となります。
当麻寺下車、最初に向かったのは
<當麻寺>
写真の説明は<. >にて記載しています。
同時進行で大津皇子、大伯皇女の生い立ち他、を記していきます。
今回You.Tubeの講演を聞いたり、演者の方の著書を読み
「そうだったんだ!」と思ったことなど、長々と記載していますので
飛ばしてお進みください。
*****
斉明7年(661)斉明天皇は唐、新羅に攻め込まれている百済の救援
の為、朝鮮半島への出兵を決意。中大兄皇子、大海人皇子らを伴い
百済救援のため九州へ向かっていた。
その陣中、岡山県邑久郡あたりの大伯海で大田皇女(中大兄の娘、
大海人の妻)は出産し、大伯皇女と名付ける。
中大兄皇子にとっては最初の孫だったようだ。
大津皇子の誕生の記載は日本書紀にはないようだが、
処刑された時の年齢(24歳)から逆算すると、天智2年(663)
生まれとされている。
当時は、大海人皇子たちは筑紫国、那大津(福岡市)の陣に
いたので、その土地の名をつけたのかもしれないとされる。 -
<足日木乃 山之四付ニ 妹待跡 吾立所沾 山之四附ニ>
あしひきの やまのしづくに いもまつと われたちぬれぬ やまのしづくに
万葉集 巻2-107 大津皇子
大津皇子が石川郎女にお贈りになった御歌一首
*****
661年、斉明天皇は九州・朝倉宮にて崩御。
中大兄は皇太子として喪に服したまま、倭の国のトップとして
倭軍を三つの部隊に分けて朝鮮半島へ向かわせた。
兵士の数は2万7千人といわれる。
白村江の河口で待ち構えていた唐の水軍とは4度にわたり交戦し、
400隻の船は炎上、壊滅的な打撃を受け、国家存亡の危機に
立たされることとなった。
更に唐からの侵略から倭国を防衛する必要に迫られていった。
中大兄は対応を迫られる多くの案件を抱えて急遽帰京。
その折にまだ幼かった大伯皇女、大津皇子も連れ帰ったとされる。
飛鳥にあった都を防衛上有利な大津へ移し、668年に即位し
天智天皇となる。
最前線となる太宰府に築いた防衛の為の施設「水城」(みずき)、
「防人」の配備、朝鮮式山城「大野城」の建設など次々に対策を
立てていったが、人民に対しては大きな負担を強いることとなった。
しかし当時の唐は、倭国に対しては侵攻よりは融和政策をとる必要
があった為、捕虜の返還が行われるなど、和解の方向へ進んで
いった。 -
<うつそみの >
石碑は大池近くにあった。
同じ大伯皇女の歌は上記吉備池の石碑の折に記載しています。
*****
天智天皇は大津京で幼い大津皇子をたいそう可愛がったそうだ。
天皇が自身で子供たちを育てることはないと思われるので
おそらくは2人を慈しみ育て上げたのは、子供のいなかった皇后、
倭姫王(古人大兄皇子の娘、舒明天皇の孫にあたる。中大兄に
よって自らの一族を根絶やしにされてしまった。)ではないだろうか。
大海人皇子にとって、大津皇子は高市皇子、草壁皇子についで
3番目の皇子だった。
671年、志半ばだった天智天皇、崩御。
近づく死を前にした天智は、弟、大海人皇子を病床に呼んだ。
兄弟にとって最期となった会談の場で、天智は弟の応えによっては
暗殺を目論んでいたとされる。
しかし死期の迫った人が、しかもかつて謀を企て、人を陥れて
きていた天智天皇といえども、そのような時に及んでも弟を
試すような事をするだろうか、という疑問は抱く。
最期にできることといったら、自身の心のこりである、
亡くなった後の息子大友皇子の政権を支えて欲しいとの願い
を伝える事だったのではないかと思われる。
仮にそのような天皇の願いを聞いたとしても、大海人はそれを
受け入れることはせず、出家して吉野に籠ると言い残して
大津京をあとにした。 -
<當麻山口神社>
*****
近江大津宮から吉野へ下った折の大海人自身の想いを、後になって
ふり返って詠んだとされる長歌がある。
み吉野の 耳我(みみが)の嶺に
時無くそ 雪は落り(ふり)ける
間無くそ 雨は零り(ふり)ける
その雪の 時無きが如(ごとく)
その雨の 間無きが如
隈(くま)も落ちず 念(おも)ひつつぞ来し
その山道を
万葉集 巻1-25 天武天皇
解説によれば、雪が、雨が間断なく降る吉野の山道を、
ずっと「念ひつつ」歩いてきた、その時の苦しかった想いを
思い出している、という。
決して意気揚々と吉野に向かったのではなかった。
そこには「人間的に痛手を負うた者の悲哀と苦悩」がある
(西郷信綱[万葉私記]より)。
その「念ひ」とは、道はひとつしかなく、それを実行するか
否かを自問自答していたように思う、
しかし半年後に吉野を出た時にはもう彼には覚悟ができていたの
ではないか、と水谷千秋氏の著書「女たちの壬申の乱」にある。
人間、大海人皇子の内面にふれるような解説にはなるほどと
想われた。 -
二上山中腹、當麻山口神社の北側、染野大池を見下ろす
丘陵にある<鳥谷口古墳>
*****
壬申の乱ではすべてが事前に綿密な計画を立て実行されたように思われるふしがある。
日本書紀 6月24日の記述によれば、始めから従った人々としての記述があるようだが、草壁皇子、忍壁皇子他舎人20有余人(具体名記載あり)と女孺(めのわらわ)10有余人とされている。
同行した皇子二人以外の皇子・皇女たちはおそらく人質として大津宮にとどめおかれたのかもしれない。
その中で、高市皇子、大津皇子二人は大海人が吉野を出た翌日には高市皇子が合流、大津皇子も高市皇子と同日の夜には鈴鹿の関に待機しているとの知らせが入った。
大津皇子はその時まだ10歳、一人ではとても無理な行程だったと思われる。もちろん皇子に付き従う豪族8名が一緒だった(やはり具体名の記述がある。)
大海人の命のもと、大分君恵尺が大津京の住まいまで出向き、父君が吉野を出たことを知らせ、すぐ合流するように促したとしても、その場での出立、しかも8人の豪族たちまでつき従うことは難しいことと思われるので、事前の打ち合わせがあったものと想像がつく。
最初は「山部王」「石川王」との名前(カモフラージュのためか?)での到着との知らせがあったようだったが、確認したところ大津皇子だったことがわかった。
多くの妃たち、他の皇子、大伯皇女も含めた皇女たちは大津京にとどまっていたと思われる。
忍壁皇子の同行については水谷千秋氏の著書の中では、納得できる記述がある。
(興味深いのでちょっと寄り道です)
当時8,9歳の皇子。皇子の母親は妃の中では最も身分が低い中央の中小豪族、宍人臣大麻呂(ししひとのおみおおまろ)の娘(名前は漢字に変換できず)。この妃との間には4人の子供が生まれていて、筆者によれば当時大海人から最も寵愛を受けてていた妃のようだ。忍壁皇子が同行していたということは、同行していた女官たちの中に、この妃がいたとしても不思議はないとの推理。
忍壁皇子は、草壁ー文武という持統天皇が構想していた皇統の流れを実行する際には、警戒すべき存在であり(年齢は大津皇子に次ぐ故)、父天武には可愛がられていた子だったようだが、持統に移ってからは冷遇されていたようだ。 -
<古墳遠景>
昭和58年、土取り作業の途中偶然発見されたようだ。
*****
壬申の乱の戦場は、現在の奈良県、三重県、滋賀県、岐阜県、
大阪府と広範囲にわたって転戦をしている。
大海人皇子は、まず朝廷と東国を分断するために美濃国(現在
の岐阜県)に向かった。
挙兵したときにはわずか数10人の従者だけであったのに、
やがては朝廷に不満を抱いていただろう豪族たちの参加により
どんどん膨れ上がり、
最大の決戦といわれる「瀬田唐橋の決戦」によって勝敗が決まる。
その折の旅行記は、しにあの旅人さんの旅行記↓にて語られています。
(他、多数の旅行記があり、引用urlは書ききれないほどの数を残しておられます。)
https://4travel.jp/travelogue/11705308 -
<古墳について>
週末期古墳 (大津皇子とは時代が合致)
南に開口部あり、噴形は方噴、墳丘規模は一辺7.6m
横口式石槨というタイプ(石室と石棺を合体させたような形)
四角の穴から被葬者を運び入れる。
(火葬の遺骨か、改葬された遺骨を運び入れることは可能なようだ。)
当時の墓の規模としては最低規模。
組合せ式家形石棺状で、天井部と北側面には蓋石が流用されている。
以上のような状況から、急ぎ造りあげたような印象を受ける古墳。
「もう今はいない弟をこれからは二上山と思ってすごそう」という意味の
大伯皇女の歌の前文に、弟の屍を二上山に移し葬る時に嘆き悲しんで
作った歌とあり、そこから二上山周辺に大津皇子の墳墓がありしかも
改葬墓の可能性を示唆している。
二上山の頂上に陵墓として宮内庁では祀っているが、この時代は丘陵の
南斜面に作られることが多く山の頂上に造る事はありえないし他にも
例がない。
現墓は幕末の頃に比定されたもので、もともとあった古墳かどうかも
疑問である。
又このあたりは染野(しめの)と呼ばれる、元々は皇室の管理下だった
可能性の高い土地だったそうだ。
この古墳が大津皇子の墳墓である可能性は高いように思われるが、
それにしても急ごしらえで粗末なお墓に祀られてしまった皇子、
後になっていくら供養しても足りないくらいだったのではないかと
思われた。 -
<本格的な登りとなって>
*****
瀬田の唐橋での戦いの翌日、大津宮に帰ることもないまま
敗走していた大友皇子は自害。
終焉の地ははっきりしていない。
神奈川県、千葉県まで落ち延びてきたという伝承も残っている。
mistralが過去に伝承の地を訪れた旅行記が↓あります。
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11681569/
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11717468/
大海人皇子が吉野で挙兵をしてからおよそ80日経過、2カ月以上
も続いた古代史上最大と言われる長い戦いだった。
天智天皇の崩御から壬申の乱での決着がつくまでには約7ヶ月。
正史として残る日本書紀には、息子の大友皇子が即位したとの
記載はされていない。
しかし、7ヶ月のあいだ天皇が空位になるということは考え
にくいことのようで、実際には即位していたのではないかと
される。 -
<史跡 岩屋>
石窟寺院跡。西暦700年頃のものだそう。
*****
日本書紀編纂のメンバーの中に「舎人親王」がおられ、その方は
大海人皇子の第三皇子だった方。
「大友皇子の即位」についての記載をすれば、大海人皇子は天皇を
滅ぼした「朝敵」となり、さらには現天皇を死においやった
重罪人となってしまう。
そのために都合の悪い記録は残したくなかったのではないだろうか。
明治維新後、大友皇子は即位していたとして、「弘文天皇」と
諡号され、歴代天皇に加えられ御陵もあらたに決められた。
(即位の事実認定をめぐっては、いまだに議論があるようだ。) -
(相変わらず写真とは関係ない記述が続きます。ご容赦を。)
天智天皇が築いた近江大津京、5年余りで廃都となった。
陥落後、女人たちの行方はどうなっていったのか、ずっと気になっていた。
水谷氏による著書「女人たちの壬申の乱」に飛び付いたことは言うまでもありません。
以下に、水谷氏の語る壬申の乱後の女人たちの行方を記します。
耳面刀自媛(みみもとじひめ)(但しこの方の行方については著書には出てこない)
大友皇子の妃、鎌足の娘といわれる。
妃の墓が千葉県旭市にあるというのでmistralが訪ねた旅行記があります。
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11671878/
2021年1月、当時この旅行記を書いた頃は全体像をとらえきれずにいたのですが、
今では良く理解できるようになりました。
乱によって死罪となったのは、重臣だった「中臣連金」
その子にあたる中臣英勝(おかつ)の墓石とおもわれる石が旭市で発見されている。そこには「連金子英勝之墓」と記されていたようだ。
伝承では当時20歳の媛は、都が陥落する前に、従者18人とともに都を脱出、
中臣氏の出身地と言われる常陸の国を目指したのかもしれない。
その後体調を悪くした媛とともに九十九里沿岸にたどり着き、村人の協力を得て、媛を助けながらその地で暮らすようになったが、媛は亡くなってしまわれた。
そのお墓は、後々移しかえられ、おそらく英勝の埋葬地に合葬されて今に至る、といった経過をたどってきたと想像している。 -
額田王の行方は
山科御陵より退り(まかり)散くる(あらくる)時、
額田王の作れる歌一首。
やすみしし 我ご大王の 恐(かしこ)きや
御陵(みはか)奉仕(つか)ふる 山科の 鏡の山に
夜はも 夜の尽(ことごと)昼はも 日の尽
哭(ね)のみを 泣きつつ在りてや 百磯城(ももしき)の
大宮人は 去り別れなむ
万葉集 巻2-155 額田王
水谷氏の説では、天智没後、壬申の乱勃発直前の混乱した
状況をこの歌は表しているのではないか、と述べている。
天皇を埋葬した後、近江宮に帰るもの、そのまま大和、飛鳥
へ帰る者と様々だった。
この歌の作者自身も、近江朝廷とは運命を共にしていない。
天智の御陵が造営され、埋葬されたのを見届けて、去ったのだ。
この歌は天智との惜別の歌であり、大津宮との別れの歌でも
あった。そのそばには娘の十市皇女、そしておそらく大友皇子
との間に生まれた葛野王も伴われていた、と語る。
十市皇女の名前は、天武紀の中で2度現れている。
伊勢神宮参詣の記述と更には
天武七年四月条、卒然として病発し、宮中に薧ず、とある。
十市皇女を赤穂に葬る、と触れられている。 -
<雌岳>山頂
写真は日時計。
*****
倭姫皇后が天智の死の後に作った歌
青旗の 木幡(こはた)の上を 通ふとは
目には見れども 直(ただ)に会はぬかも
万葉集 巻2-148 倭皇后
木幡のあたり、近江の都から山背国へと、肉体から離れた
天皇の御魂が天翔けていったのを皇后はこの目で見たというのだ。
人はよし 思ひやむとも 玉かづら 影に見えつつ
忘らえぬかも
万葉集 巻2-149 倭皇后
倭姫皇后の消息は、天智が亡くなった折には挽歌を四首残して
いるがその後の消息が途絶えてしまっている。
天智と天武との最期になった会談のおり、天武は倭姫皇后に
よる称制を勧めている。つまり政治的にも重要な位置にいて
称制もとりうる、ということだろう。
皇后であれば、どこかに死亡記事はのっていても不思議でない
のに、日本書紀にも続日本紀にも見つけることが出来ないそうだ。
勿論陵墓の記事もない。
(歴代皇后の死亡記事、歴代天皇の生母の死亡記事が日本書紀
にどれほど載っているかの表が、本の中で示されている。) -
<雌岳>山頂の立て看板
この後、雄岳へ向かう。
*****
他にも天智の后で、乱後の消息のつかめない人がいる。
蘇我遠智娘(おちのいらつめ)で、大田皇女、持統天皇、
建皇子の生母である方、
その妹でやはり天智の后となった姪娘(めいのいらつめ)で
御名部皇女(高市皇子の后)と元明天皇の生母である方。
天智には全部で九人の后妃がいたが、そのうち死亡記事が
あるのは橘娘ひとりだけ。あとの八人には記事が残っていない。
上記三人、倭姫皇后、遠智娘、姪姫、后妃の墓の記載が
「延喜式」に無い理由は、彼女たちが壬申の乱で最期まで近江朝廷
方に留まったからではないか、兵火の中、非業の死をとげた
のではないかと筆者は考えている。 -
山頂から少し離れたところにある
宮内庁治定の<大津皇子墓>
*****
それでは万葉集に、天智天皇の崩御を悲しむ挽歌が九首も
残されている理由は?
兵火をのがれ後世にまで伝えられたのには、どのような経緯
をたどったのだろうか。
筆者によれば(身崎寿氏の説による)そこには額田王の
はたらきがあったのではないかと推測している。
天智の挽歌が作られ、読み上げられた殯の場には、皇后を
初めとして后妃、女官たち、額田王もいた。
その時、額田王は読み上げられた歌を書きとめ、乱勃発前
に宮を脱出、後になって天武の宮廷に伝えたのではない
だろうか、と記している。 -
ところで
大海人皇子は壬申の乱の際、伊勢神宮へ戦勝祈願の遥拝
(遠くから拝むこと)をしている。当時の伊勢神宮は、伊勢
地方にある神社の一つに過ぎなかった。
壬申の乱で勝利できたのは伊勢神宮のご加護があったからだと
大海人は考えており、他の神社と比べて特別視するようになる。
こうして天武天皇即位後、伊勢神宮は天皇家専用の神宮へと
生まれ変わっていった。
更に、八百万の神を、伊勢神宮に祀られる太陽神「天照大神」
を頂点として序列付けを行っていった。
その際、昔へ遡り神々を整理していく必要があり作られたのが
「古事記」だそう。その中では、天照大神は神々の中の最高神
として君臨し、更に、その子孫が天皇であるとされている。
ここまで書いてくると、天武が大伯皇女を伊勢神宮の斎王として
最初に遣わせた理由の一端もわかってくる気がする。
もちろん、有力な皇族と大伯皇女の縁組が成立し、やがて草壁
の強力な対抗馬となることを恐れた持統天皇からの後押しも
あって、斎王として追いやられてしまったのかもしれない。 -
そして最後にやって来たのは名張駅。
大伯皇女が斎宮から退下した後に関わっていた可能性がある
という夏見廃寺跡に向かう為に降り立った駅。 -
夏見廃寺跡へはバスがあるということだが
タクシーが駅前に待っていたために乗り込んだ。
入口にあった立て看板による説明:
醍醐寺本薬師寺縁起には 「大来皇女 最初斎王 以神亀二年
奉為浄原天皇 建立昌福寺 宇夏身 本在伊賀国 名張郡」
(大来皇女、最初の斎王なり、 神亀二年(725) を以て 浄御原天皇
(父天武天皇)のおんために昌福寺を建立したまふ、夏身と字す。
もと伊賀国名張郡に在り)とあり、夏見廃寺はこの昌福寺跡と
されています。 近年では大来皇女の 腹違いの弟、新田部親王の
邸宅 (現唐招提寺) の発掘調査から夏見廃寺と同じ型で造られた仏
が出土しています。 -
(説明板より続き)
大来皇女は、天皇の名代として伊勢神宮で皇祖神天照大神に
仕える斎王の制度が確立され、伊勢の斎宮 (明和町)に赴いた
最初の実在の人物です。
名張は、畿内の東限とされ、当時の都、飛鳥浄御原宮から
古代東海道(現初瀬街道)を通り、名張川で禊をおこなったと
されています。
大伯皇女は泊瀬斎宮に篭り潔斎を行ったのちに伊勢へ向かわれた。
タクシーから降りた先に、こじんまりとした展示館が見えていた。 -
二人分の入場料400円をお支払いすると
館長さんと思われる方が「ご説明しましょうか?」
と聞いてくださり、喜んでお願いをした。
館内は残念なことに撮影禁止となっていた。
以下は頂いたパンフレットからコピーしたものを載せています。
第一室にあった展示品
<古代寺院の軒瓦>
金堂と、三重の塔・講堂に使われている瓦の文様が違っている
ことから、それぞれの建立年代が推定される。
金堂は7世紀終わりごろ、講堂、塔は8世紀の建立とされる。
<丸い形の硯>など
<薬師寺縁記>コピーより
神亀二年(725年)父・天武天皇の為に大伯皇女が昌福寺
を建立したということは、薨去が701年とされているので
不可能と思われること、皇女が主体となって建立したのではない
と思われるが、伊賀臣、夏見忌寸(いみき)など、地方豪族との
縁によって建立に関わったのではないか、などなど
丁寧に一つ一つ説明をして下さった。 -
<復元金堂> (実物大に復元したもの)
内部まで立ち入ることはできない。
復元は、夏見廃寺の金堂と同じころ建立された法隆寺の
金堂や飛鳥山田寺の発掘調査の成果を参考にし、朱塗りで、
エンタシスの柱や緑青色で塗った連子窓がある。
金堂内部には塼仏壁が復元されている。
まばゆいばかりの黄金に輝く壁。
その塼仏壁が倒れこみ崩れた状態で発掘されたそうだ。
その前には仏像が置かれていたようだが、その仏像はあとかた
もなかったそうだ。
館長さんの子供のころ、この廃寺跡から土器、瓦?などの破片
が出るという話しは聞いていたとのこと。 -
<塼仏壁>
(以下、塼仏にまつわる説明は、清水昭博氏の講演内容を引用させていただいてます。)
塼仏:粘土を金属の型につめて仏像を浮き彫りにし、焼き
固めたもの。仏堂の内部に沢山貼りつけて荘厳さを演出した。
出土地点は金堂付近が一番多かったので、金堂で使用された
ことがわかる。
500点ほど出土しており、この数はかなり多いもの。
普通は出土したとしても数点だそう。
川原寺は1000点出土しており、それに匹敵するような数だそう。 -
中央にはひときわ大きな塼仏、大型多尊塼仏が。
(55.6x50.4センチ)日本では最大の塼仏。
阿弥陀如来の両側に観音と勢至菩薩、他に天部や僧など多数。
二光寺廃寺から出土した大型多尊塼仏の復元品の展示があり
そこに夏見廃寺からの出土品の一部分と比べている展示が
されていたが、その部分を見る限り、同じ型を使って製作された
もののように見えた。 -
上:大型多尊塼仏下部の精巧な須弥壇部分。
下:特筆すべきものとして、展示されていた部分、
そこには拡大鏡で、描かれている文字が見えるようになっていた。
須弥壇下、左右にあるようだ。
右 「甲午年五月中」→ 持統8年(694年)(展示品は右側部分)
左 「百済■明智作」→ 百済(王?)明智によって制作
二光寺廃寺(7世紀後半の寺院跡)出土品と同じ型の塼仏が
夏見廃寺にも使用されていた、ということが前提になるが、
持統8年に同じ型を使用した塼仏が沢山作られ、特に天智・天武・
持統朝での外戚・血縁関係のある寺院に送られたのではないか
との指摘があるようだ。
つまり、塼仏の型の保管先は、天皇家あるいは国家だったのでは
ないかと考えられているようだ。 -
<方形三尊>
大きさはA4ほどの大きさ。縦21.3センチ
中央の如来と脇侍。
他に
<小型独尊> 名刺サイズ <連座塼仏>などから構成される。
夏見廃寺の大型多尊塼仏と同型の塼仏が見られる寺院として
石光寺(葛城市)天智発願の寺
当麻寺(葛城市)壬申の乱の功臣、当麻真人国見創建
二光寺廃寺 天武行幸の記録あり
唐招提寺 鑑真建立、下層は天武の皇子、新田部親王の邸宅跡
興福寺 もともとは鎌足の死去に際して建立された山階寺に
はじまり、不比等によって移された。
これらの寺院は、天皇家の人々との関わりが深いことは確かと思われる。大型多尊が藤原京で多く出土していることから持統天皇の宮殿で作ら、その後ゆかりの寺院へ送られたのではないかということが想像される。 -
日本書紀によれば、持統天皇によって執り行われた仏事が続いたようだ。
持統6年(692年)天武7回忌として、繍仏(タペストリーのような
もの)を薬師寺に寄進
持統7年(693年)天武のために無遮大会(むしゃたいえ)開催。
「限りなきおがみ」とも言われている。
持統8年(694年)持統が藤原京へ都を移した年であり、その遷都
を契機に大型多尊塼仏が作られたのではないか。
持統天皇にとって、最愛だった息子、草壁皇子を失い、夫の天武天皇
を亡くし、父・天智天皇崩御の折には駆けつけることもせず、
勝者側となった壬申の乱では実母の蘇我遠智娘を失ってきていた
ことを想い、これら一連の仏事を執り行う中、しずかに祈っていたのではないかと想像してしまう。 -
廃寺跡へと向かう途中
展示館を背後から見た姿。
丸みを帯びた形が古代の雰囲気を漂わせている。 -
パンフレットより夏見廃寺、配置図を載せます。
上記写真、展示館の脇をぬけていくと
思いがけないほどの清々とした空間が目の前に広がる。 -
最上段中央に金堂、 東に塔、 西南下方に講堂を配置しており、地形
に従った伽藍配置に なっています。
(説明文は入口 立て看板より)
通常の配置だと、金堂と塔の後方に講堂が配置されることが多いが
ここでは丘陵地に建設されているため、講堂は金堂前方に位置している。 -
廃寺跡で気持ちの良い風に吹かれたあと
展示館に向かって戻っていく途中
木立の中にベンチと、石碑があったことに、後で気が付いた。
しばらくそこに座ってひと息いれれば良かったと後悔している。 -
磯之於尓 生洗馬醉木乎 手析目杼
令視倍吉君之 在常不言尓
(磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど
見すべき君が在りと言はなくに)
万葉集 巻2-166 大伯皇女 -
石碑を正面から撮影したので、良くみえないが
後ろ側にはひとまわり小さい石が寄り添っている。
(磯のほとりに生えている馬酔木を手折ったので
あなたに見せたいのだが
見せたいと思っているあなたがいるとは
誰も言っていれない)
大津皇子が刑死した後、斎王の任を解かれて
帰京したおりに大伯皇女が読んだ歌か?とも言われているそう。 -
-
<講堂跡>
さて、肝心の大伯皇女。
伊勢から帰京し、この緑豊かな斜面に立って
吹きわたってくる風の中で、何を思ったことだろう。
(大伯皇女の時代、まだ金堂のみしか建立されていない。) -
<金堂跡の説明版>
先ほど見てきた塼仏壁が設置されていた場所と思うと感慨深いものがある。
寺院そのものを傾斜地に建設しているため、斜面上部は削り取られ
その土は積み上げられて壇を築き上げ、周囲には名張川の河原石によって
化粧されているそうだ。
基壇上の礎石の配置から、古い金堂の建築様式と考えられるそうで
現存する建物の例はないが、遺構としては飛鳥山田寺の金堂跡など
が知られているようだ。 -
大伯皇女が初代斎王として名前が残されているそうだが、
斎王とは
天皇の名代として国の平安と繁栄の為に天照大神に仕えた特別な
皇族女性のことを指している。
住まいとなる斎宮は伊勢神宮からおよそ15キロ離れた神宮領の
入口あたりに造られた。
斎宮から伊勢神宮に赴くのは、9月の新嘗祭、6月、12月の
月次祭の年3回のみ。それ以外の日々は祈りの日々を過ごしながら
神と人との架け橋となるような生活だったそう。
生活は、大勢の女官にかしずかれ都と変わらない生活を送り
残りの時間は乗馬を楽しんだりする余裕もあったようだ。 -
塔について
塔は仏舎利を納める重要な建物となる。
基壇は金堂と同様、土壇を河原石で積み上げられている。
大きさは一辺11.25mの正方形で、正面で高さは1.3mある。
塔そのものの高さは21m前後の三重塔が建てられたいたと
推定されるそうだ。 -
掘立柱建物群
地面に一辺1m前後の穴を掘り、柱を直接入れて立てた建物。
床面を平らにするため、斜面下方に厚く土盛りをしている。
主要建物ではなく付属的な建物として使われたようだ。
講堂正面に位置していることから、僧たちが住む僧房であった
可能性が考えられるようだ。 -
斎王として天皇の名代として勤めあげた11年間の終盤
ここからはmistral の想像です。
恐らく突然であろう弟、大津皇子が姉を訪ねてきて
姉はさぞかし驚いたことだろうし、
その訪問には切羽つまったものを感じただろうが
仮にもしその理由を姉が知りえたとしても
斎王である大伯皇女には弟を守る術は何もなかったことだろう。
あるいはその折の久しぶりの語らいの中で、皇子は自身に迫り
来る危機を語らなかったのかもしれない。
都へ戻る弟の後ろ姿を、どんなに不安な想いで見送ったことか、
そのことを想うとせつなくなる。 -
さて、大津皇子と山辺皇女の間には粟津王という方の名前が
2番目の子として残されている。
音羽地域(京都市?)に移り住み土地の発展に尽くされたとか
父に連座して備前豊原郷に流されたとか伝わっているそう。
大伯皇女が都へ戻りまず行動を起こしたことと言ったら
弟の遺児の消息を尋ねたことではないかと思われる。
せめてその子との対面を果たし、少なくてもその子の成長を
見守って過ごすことが出来たのなら、、、
それは皇女のその後の人生の支えになったのではないだろうか。
弟の無念の死を想う時、遺児を見守っていきたいと想うことは
なおさらのことではないか、と想像している。
ここ廃寺跡に立ち、吹き抜けてくる風を受けていると
さまざまな想いが浮かび上がってきて
やはりmistralも動画を残したくなってくるのです。
https://youtube.com/shorts/HfGQepKva9U?feature=share
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壬申の乱を巡る旅
この旅行記へのコメント (12)
-
- ryujiさん 2023/08/09 10:35:30
- 素敵な旅行記です!、楽しく拝見で~す♡
- こんにちは、mistralさん。 ご無沙汰しております。
この一週間、パソコンのデータ移行(写真&音楽曲)に専念しておりました。 本日、皆様方の旅行記に目を通すと・・・・・・・・。
タイトルの旅行記を見せて頂きました。 待っていました!、大伯皇女と大津皇子の投稿。 いいですねぇ~、何んてたって私の大好きな事項、云わば興味大は当然のことです。
mistralさんが作成された大伯皇女&大津皇子の年表。 私は姉弟の没年は知ってましたよ、他を心に留め置きました。(私は馬鹿ですね、こんなの覚えて何になるんでしょう)
遡ること、1300年以上前の日本の歴史。 大伯皇女・大津皇子の姉弟の悲哀は心打つものがあります。 我々が、こうしてこの姉弟を語り合うことがせめて・・・・・。(心が詰まりました)
素敵な旅行記をありがとうございます。
ryuji
- mistralさん からの返信 2023/08/09 16:24:39
- RE: 素敵な旅行記です!、楽しく拝見で?す?
- ryujiさん
旅行記にお目をとめていただきまして、有難うございました。
> この一週間、パソコンのデータ移行(写真&音楽曲)に専念しておりました。 本日、皆様方の旅行記に目を通すと・・・・・・・・。
パソコンの買い替えをされたのでしょうか。
丁度私も、古くなりましたパソコンを買い替えまして、それに伴っての
引っ越し作業をずっと続けております。
なかなかすっきりと片付かずにおります。
> タイトルの旅行記を見せて頂きました。 待っていました!、大伯皇女と大津皇子の投稿。 いいですねぇ?、何んてたって私の大好きな事項、云わば興味大は当然のことです。
>
ryujiさんにおかれましては、この時代はご専門でいらっしゃいますものね。
つい最近になって興味をもった私は、まさに新参者でして、こんな旅行記を作るのは
本当におこがましいことです。
> mistralさんが作成された大伯皇女&大津皇子の年表。 私は姉弟の没年は知ってましたよ、他を心に留め置きました。(私は馬鹿ですね、こんなの覚えて何になるんでしょう)
年表を作ってみましたら、入り組んでいた事柄も、自分にとってすっきりとおさまった
ように思いました。
> 遡ること、1300年以上前の日本の歴史。 大伯皇女・大津皇子の姉弟の悲哀は心打つものがあります。 我々が、こうしてこの姉弟を語り合うことがせめて・・・・・。(心が詰まりました)
本当にそうですね。
こうして現地に赴き、亡き人々を偲び、想いを馳せることで
無念のうちにいのちを落とした方々、戦禍の中、人知れず亡くなられた大勢の方々の
たましいがやすらぐのなら、と想います。
> 素敵な旅行記をありがとうございます。
ご訪問いただき、コメントまで、有難うございました。
mistral
-
- マリアンヌさん 2023/07/31 23:28:07
- 万葉浪漫
- mistral さん こんばんは。
ヴェローナにコメントいただき、ありがとうございました。
大津皇子・大伯皇女は、高校時代とても印象に残っているくだりです。
本当によく探求されて、興味深い読み物として楽しませていただきました。
大津皇子、みまからしめらゆる時、磐余の池の堤にして涙を流して作りましし御歌一首
百伝ふ 磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ。
注釈:大津皇子は伊勢の大伯皇女のもとから帰京すると、大和の磐余の池のほとりで殺されたが、その時の辞世の歌である。
と学びましたが、時代がすすみ色々研究されているのですね。作者が後世の人とは・・・
若い頃の私は、辞世の句として悲しみに共感し、万葉浪漫を感じたのですが。
その流れで大伯皇女の一番好きな歌は、これです。
大津皇子、竊に伊勢の神宮に下りて、上がり来ましし時の大伯皇女の御歌
わが背子を大和へ遣ると、さ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし。
余談ですが、万葉集を現代語訳した本で話題になっている若者言葉で大胆に意訳した「愛するよりも愛されたい」
- マリアンヌさん からの返信 2023/07/31 23:30:37
- Re: 万葉浪漫
- ごめんなさい。途中で送信になっちゃいました。
その万葉集現代語本、興味をもってますが、まだ購入していません(^_-)-☆
マリアンヌ
- mistralさん からの返信 2023/08/01 13:51:01
- RE: Re: 万葉浪漫
- マリアンヌさん
こんにちは。
コメントをありがとうございました。
いつぞやお会いしたおりに、高校生時代、悲劇の皇子たちに興味を抱き
関連書物や万葉集の歌を読んでいた、とおっしゃっていました。
高貴な身分に生まれた為に、政争に巻き込まれることを避けて、偽って正常な精神でないようにふるまったり、ひたすらお酒など飲み無能ぶりをよそおったりしてなんとか生きのびようとしたり
それでも死を賜わることになったり、皇子たちには生きにくい人生だったっんですね。
今だからこそ良くわかります。
マリアンヌさんに比べたら、高校生の頃は日本文学よりは西洋文学ばかりを読んでいた私としましたら、そんな早い時からとびっくりしました。
私が大津、大来姉弟のことを知ったのもつい最近のことでしたから。
陥落した大津宮、最後まで留まっていた皇妃、皇女たちはその後どうなったのか、気になっていました。今回、講演時などで知った情報なども盛り込んで一編の旅行記にしてみました。
多分このコロナ禍がなかったら、興味は相変わらずヨーロッパに向かい、地元の遺跡には関心を持たなかったように思います。コロナの効用でした。
マリアンヌさん、その折の歌が今でもそらんじていて、スラスラとでてくるのも凄いこと!と思います。
mistral
- マリアンヌさん からの返信 2023/08/01 23:33:06
- RE: RE: Re: 万葉浪漫
- mistralさん
いえいえ諳んじるのではなく、教科書ガイド本をいまだに持っているから、写しただけなんです。乙女には、悲劇の皇子がロマンチックに思えたのでしょう。
それでも令和の命名時もその箇所が載ってましたから、ささやかながら楽しめます。
私のミーハー度に比べ、mistralさんの探究力、調査力にはいつも感銘しています。
とても出来ないので、ただただ読み物として楽しませていただいています。
お忙しいとは思いますが、お時間あれば遊びにいらして下さいね。
マリアンヌ
-
- しにあの旅人さん 2023/07/31 12:43:45
- 読みました
- 猛烈な暑さです。
ななんとか生き延びようと、ほとんど家に閉じこもっております。
夏見廃寺のブログ読みました。
変わっていませんね。
館長さんが案内してくださったのですね、ラッキー!
私たちの時はなにもなし。
館内撮影禁止でしたか。かつてはOKでした。
私たちの頃と比べて、廃寺跡は雑草などもなく、整備されています。ベンチなどなかったなあ。
金堂は大来さん生前にできていたので、確実に時空を越えて彼女とすれちがったはずです。なにか人の気配とか、衣ずれの音を感じませんでしたか。
こちらの気の持ち方で、そういう思いにひたれるのは、縦の旅の醍醐味です。
金堂内部の塼仏壁、豪華でしょう。
私はここから大来さんの性格、好みを、豪快、派手好きと思いました。いつまでもうじうじと引きこもっているような人物ではなかった。
実物は、大柄で、からっと、さっぱりした女ではなかったか。
なお11才の大来、9才の大津が馬に乗れたかどうか。これは現代の乗馬クラブなら身長125あればOKです。古代の馬ははるかに小さくて、ポニーー程度ですから、2人の体格からいうと問題ありません。むしろ子供、とくに女の子が馬と一体になって大人より上達が早いそうです。
それに2人が馬で移動できないと、書紀が書いている時間内に移動は不可能です。
飛鳥人は現代人より高身長でした。かつ2人はとくに大柄であったと推測できます。
ハイティーンの大来ちゃんは身長174cm、体重65kg、気が強い美人で、和田アキ子の若い頃という説を唱えましたが、袋だたきにあいまして、今は撤回しております。
『六国史の旅 飛鳥の姉弟9 大来皇女泊瀬斎宮』室生・宇陀(奈良県)の旅行記・ブログ by しにあの旅人さん【フォートラベル】 (4travel.jp)
https://4travel.jp/travelogue/11681174#bbs
二上山上の大二上山城があり、その後数代にわたって城主がかわりそのたびに改造されています。墳墓とされる墳丘は物見台の基礎とされています。
鳥谷口古墳が真墓と言われていますが、これも怪しい。ここでお会いした人品卑しからぬご老人が、二上山山頂など、飛鳥宮を見ろせるところに、持統天皇が墓を作らせるはずがないと、おっしゃいました。一理ある。
そうすると鳥谷口古墳からも一部飛鳥が見えるのです。
私のブログでは「直接見えないのだからいいか」と持統さんは思ったと書きましたが、どうかなあ。
くわしくは
https://4travel.jp/travelogue/11671641
このご老人は、鳥谷口古墳が大津墓とされるのは、ほかに二上山中にこの時代の古墳がない。もうひとつ、この説を唱えた学者がなんとかという非常にきびしい女性で、反論を恐れてだれも批判しないからだ。
名前、残念ながら覚えていません。
彼自身がジモティで、かつ学者さんみたいでした。
いろいろおもしろい思い出がある鳥谷口古墳です。
その後加守廃寺に行ってきて、もしかすると、と真面目に思っております。
どなたか本物の学者が研究してくれないかな。
『六国史の旅 大津皇子フィールドノート1 加守廃寺』御所・葛城(奈良県)の旅行記・ブログ by しにあの旅人さん【フォートラベル】 (4travel.jp)
https://4travel.jp/travelogue/11712098#bbs
- mistralさん からの返信 2023/08/01 11:08:11
- RE: 読みました
- しにあの旅人さん
おはようございます。
新居では畑仕事はなさらないのでしょうか?
多分、以前はたくさんの農作物も育てておられたことでしょうね。
夏見廃寺の旅行記をお読みいただき有難うございました。
しにあさんの旅行記を拝見してからずっと、いつかは行ってみたいと思い
やっと実現しました。
館長さんからは丁寧にご説明をいただきました。
ただ写真撮影は禁止されていましたから、せめて古代瓦ぐらいは撮影しても
良さそうなのに、撮りたいなあ、など思いました。
kummingさんご訪問の折も同じようでしたね。
この後、廃寺跡に行ってみますと話しましたら、草刈りが十分でないからと
足元のご心配をしてくださいました。
講堂跡あたりまでは綺麗に刈られていましたが、その先は結構草も伸びていました。
遺跡は夏場は草との競争で、管理は大変なご様子。
> 金堂は大来さん生前にできていたので、確実に時空を越えて彼女とすれちがったはずです。なにか人の気配とか、衣ずれの音を感じませんでしたか。
> こちらの気の持ち方で、そういう思いにひたれるのは、縦の旅の醍醐味です。
しにあさんの旅行記を拝見したおりには、大来皇女はまるでそこにおられるかのように
感じられたことでした。
その後、あちらこちらで色々読んだり、今年になって諸先生方による講演会をYou Tubeで
聞いたりしているうちに、段々別の想いを抱くようになっていきました。
大来さんのたましいは、今や自由な身となり、その後もじっと廃寺跡あたりに留まってはおられず、大空の彼方にかつてなくおおらかなご様子でおられるのではないか?と。
> 金堂内部の塼仏壁、豪華でしょう。
> 私はここから大来さんの性格、好みを、豪快、派手好きと思いました。いつまでもうじうじと引きこもっているような人物ではなかった。
> 実物は、大柄で、からっと、さっぱりした女ではなかったか。
皇女の性格など、私も同じような印象を持っています。
斎王の任を解かれ都に戻ったのち、名張のお寺にこもって生涯を終えられたとは
なんとなく思えなくなっています。
せん仏壁については、特に中心に設置されています大型多尊せん仏の制作は
持統天皇によって国家事業として制作され、その後天皇家ゆかりの寺院に設置されたのではないか、ということを伺いますと、大来皇女の好みそのものよりは、持統天皇の好みだったのでは?なども思います。
持統さんは亡き夫だけでなく、草壁皇子、亡き父、亡き実母、更には自らが死においやった大津など、多くの人の供養のために、天皇家にまつわる寺院へこのせん仏壁を寄進したのかもしれません。もちろんここには不比等さんの関わりもあったのかもしれません。
大海人皇子が、後に言う壬申の乱を引き起こし
高市皇子、大津皇子を大津京から計画的に脱出させたのは、後の政権にとって必要と
なりそうな重要人物として。
妃や皇女たち,幼い皇子たちはそのまま大津京に残したほうが安全だったとの判断、と思いました。
なので大来皇女もその間は弟とは別々の行動となった。ある意味、姉にとっては弟の
ことをかなり心配した時だったのではないかと思われます。
まだ幼い男の子、豪族たちが付き従っていたとはいえ、過酷な体験だったことでしょう。
> このご老人は、鳥谷口古墳が大津墓とされるのは、ほかに二上山中にこの時代の古墳がない。
この説、大来皇女の歌に、二上山に皇子のお墓を移したおりの歌、が残っていて
どうしても二上山にまつわる地に探さないといけない、という事情もあって
見るからに急ごしらえのお墓が見つかったことから、ここだ!と飛びついたのでしょうね。
そのあたり、いろいろな事情があるのやもしれません。
縦に時空をさかのぼってたどる旅、歴史上結果として残っている事実がありますが
その間、そこにまつわる多くの人の想いなどは想像するのみで、想像力を刺激される
楽しい旅となりました。
しにあさんご夫妻の丹念に調べ上げられたフィールドワークには全く及びませんが
机上で想いをはせる旅、この暑い夏には楽しめるものですね。
mistral
-
- willyさん 2023/07/31 11:31:17
- いつもながら
- mistralさん
今回の巨編もまた大変興味深く拝見しましたが、なにしろ知識不足で、なめるように読んでも100分の1も咀嚼できないため、勉強してから再度拝見しにまいります!
それとは別に、人類史における国家の成り立ちと成長には興味をもって本も読んでおりますが、このあたり自国の歴史として知るべきだと改めて思いました。野山で遊ぶばかりでなかなか落ち着いた時間もとれませんが、mistralさんのご探求が十分理解できると嬉しいと思います。機会を与えていただいて感謝です。
willy
- mistralさん からの返信 2023/07/31 18:24:44
- RE: いつもながら
- willy さん
こちらにもコメント頂きまして有難うございます。
> 今回の巨編もまた大変興味深く拝見しましたが、なにしろ知識不足で、なめるように読んでも100分の1も咀嚼できないため、勉強してから再度拝見しにまいります!
なにぶんにも、古代史、不得意、、、とずっと知らずに済ましてきていた、mistral的には暗闇の時代でした。出生地近くにその時代にまつわる方のお墓があると知ったときからにわか勉強を始めました。
多分、このコロナ禍がなかったら、それほど勉強出来なかったと思います。
なので訳が分からずとも、気になさらないで下さい。
> それとは別に、人類史における国家の成り立ちと成長には興味をもって本も読んでおりますが、このあたり自国の歴史として知るべきだと改めて思いました。野山で遊ぶばかりでなかなか落ち着いた時間もとれませんが、mistralさんのご探求が十分理解できると嬉しいと思います。機会を与えていただいて感謝です。
野山で遊ぶばかりで、、、と書かれるwillyさんですが、その野山が壮大です。。
それぞれには相応しい?探求の場があるように思います。
自分では出来ないけれど、誰かが熱中しておられることには、凄いことだなあと関心を持つこころは持ち続けたいと思っています。
ありがとうございます。
mistral
-
- 多良さん 2023/07/28 09:39:40
- 遺跡に興味あります!
- mistralさん、こんにちは~♪
東京から、関西まで新幹線を使えばそう遠くない時代・・・昔なら・・・っと思うと。。。
(良い時代に生まれて来れて感謝です^^)
奈良・・・我が生息地三重県の隣県ですが、いつも通り越して「大阪」「京都」に遊びに行ってしまい、申し訳なく思っています^^。
ま、正直、鹿も見飽きましたし、神社仏閣も小学校の遠足や地元の有志で何度も行ってしまっていて、まあ、何というか、新鮮味が~~~←コラッ!
でも、実際は平安京より時代が古いのですから、京都などはもう「後輩扱い」で自慢しまくっても良いのですが、いつも京都にマウントを取られてばかりいる奈良です。
県民性なのか、県知事が無能なのか(シツレイ)・・・ P R が下手な奈良です(ホントはスゴイ歴史の数々・・・)
しか~し!奈良の地に降り立てば、歴史に疎いワタシでさえ、「古代の香り」に胸躍るのも事実です。
なんたって、少し歩けば古代に出会えるのですから。
で、ワタシが奈良を旅行記にしたのは、調べたら、10年前でした←コラッ!
(参) https://4travel.jp/travelogue/10766533
旅行記を読み進めば、三重の名張まで「大来皇女様」を探し求めて来てくださっていたのですね。
齋王宮の初代皇女様とは知りませんでした。
(齋王宮、近くにあり、十二単衣が人気の斎王まつりは何度も見ているのですが(汗)
ちなみに、ワタシのご本家筋は歴代伊勢神宮の神官をしていて、小さい頃は雅楽が見放題でした(実はそれが幼心にとてもイヤでしたけど・・・)。
すみません、これからも勉強に来たいと思いますので(汗)、勝手にフォローさせていただきますね。
多良
- mistralさん からの返信 2023/07/28 10:52:36
- Re: 遺跡に興味あります!
- 多良さん
フォロー、そして書き込みをいただきまして有難うございました。
勝手にフォローなんて勿体ない。
かねてよりの知り合いの方?からのフォロー、とっても嬉しいです。
私も多良さんの旅行記を拝見致しますと、大いに癒されていますので、
この後、フォローをさせていただきます。
お話をうかがいますと、ご本家筋は伊勢神宮の神官をされているお家柄。
すごい家系にお生まれになっていらっしゃるんですね~。
お生まれも三重県!
今回の名張訪問まで(伊勢神宮へは参拝させていただきましたが)
三重県のテリトリーがどれほどか?あまりわかっていませんでした。
奈良県と接していたことを初めて知った次第です。
私がこれほど古代史に興味を抱くことになるなんて思ってもみませんでした。
良くいわれるそうですが、
京都に飽きてきた人は、やがて奈良に興味を抱き
やがて飛鳥へと移っていくそうです。
確かに古都、京都と思っていたのに、気がついたら、あれ?奈良は
もっと古かったじゃん!となってきて
それよりも古い飛鳥へとやがて移っていくことは必然のような気がします。
おっしゃるように「古代の香り」は奈良に降り立つとわき立ってくるようです。
こちらこそ、今後ともどうぞよろしくお願い致します。
mistral
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旅行記グループ 壬申の乱を巡る旅
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