2021/03/11 - 2021/03/11
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mistralさん
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今回の旅行記は、放置したままになっていた前回の旅行記に続くものです。
「椿の海を巡って。」のシリーズとは離れた地になりますが、関連があるので同じグループに入れました。
大友皇子の妃の耳面刀自媛(みみもとじひめ)のものとされる陵墓を九十九里浜近くの旭市で見てきているので、皇子の陵墓である可能性もあるとされている地のことが、そのままで気になっていたのです。
その地とは、房総半島内部、君津市俵田に鎮座している白山神社です。
社伝によればこの地は、壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)、滋賀県大津付近の「山前」というところで自害したことになっていますが、実は皇子は重臣の蘇我赤兄らとともに小櫃地区に逃れてきた後、家来たちと共にしばらくの間新たに造営した「小川宮」で暮らしていたとされ、その宮の跡であるとの伝説もある地なのです。やがてはこの地まで追ってきた大海人軍によって追い詰められ、ついには自害したとされているのです。
その後天武天皇13年(684年)に勅使が下向し社殿を造営、皇子を祀り田原神と称したと伝えられているのです。「田原」が現在の地名「俵田」の由来になったともされています。
(因みにこの旅行記は3月10日、17日と二回にわたっての訪問記となりますが、便宜上10日の旅としてあります。)
表紙写真は白山神社の拝殿。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
3月10日、
館山自動車道を南下、途中から圏央道に入り、木更津東インターで降りる。
君津市末吉にある小櫃駅に寄ってみた。
久留里線の小さな駅。単式ホームの無人駅。
「小櫃」という地名自体が、大友皇子の亡骸を納めた棺からついた、とも言われているのです。 -
更に久留里街道を南下していくと
間もなく鳥居と、そばに白山神社古墳と書かれた
立て看板が見える。 -
立て看板によれば:
千葉県指定史跡の「白山神社古墳」は、小櫃川中流域に臨む台地上にあり、全長88メートル、後円部の高さ約10メートルの前方後円墳である。
(中略)
本古墳の周辺には、陪冢(ばいちょう)があり、明治31年にそのうちの数基が発掘され、古鏡(獣形鏡)、直刀、鉄鏇(てつぞく)等が出土したと伝えられています。この付近には、古代 馬来田国造(うまくたのくにのみやつこ)が置かれたと言われていることから、主墳であるこの古墳はその関係の有力者の墳墓ではないかと見られています。
と書かれていた。 -
古墳の方向の斜面を上がっていってみると
日当たりの良い斜面には、タチツボスミレの群生が。 -
ウラシマソウも所々に不思議な形の花を咲かせている。
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古墳前方部
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回り込んでいくと
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後円部になるようだが
形ははっきりとはわからない。
丁度神社に寄り添うようにして、古墳には木々が生い茂っている。
背後には壬申山という地名があるそうだが、確認できていない。
大友皇子の墓は後円部の更に奥にあるとされる。 -
古墳部分からおりて
改めて鳥居から白山神社内部へ入っていく。
ご祭神は「大友皇子」と「菊理媛命」
以下に、地元で起こった弘文天皇陵治定運動について、
をwikiよりのせます。
発端は明治4年2月14日付の太政官からの通達に始まった。
府・藩・県に対して、管内にある后妃・皇子・皇女などの陵墓の捜索・報告の指示があったそうだ。これを受けて、俵田村の農民・古老に聞き取り調査が行われ、「白山神社縁起考」という報告書が藩知事・神祇官に提出された。
旧久留里藩士、森勝蔵は、この折から中心となって動き、所有していた「久留里記」「上総古図」などを提供した。 -
明治8年頃、教部省の官吏らが白山神社古墳の実地調査に訪れた。弘文天皇陵が治定される前のことであり、関係者には期待を抱かせたが、「住民の伝える大友皇子の年代より更に古い古墳のように思われる」という見解が示されたのち、音沙汰がなくなってしまった。
そうこうしているうちに明治10年6月、弘文天皇陵は長等山前陵に治定されてしまった。 -
その後、この一帯の住民は、これ迄の主張を放棄するどころか、むしろ本格的に治定運動に乗り出していった。宮内省からは、「未確定な陵墓、古墳を発見した場合は絵図面を提出するように」「子孫がいない諸王の墳墓がある場合、在地伝説などを添えて報告するように」などの指示が出たためである。
これに応じる形で、「弘文天皇御陵之儀ニ付建言」を宮内省に提出。
却下されることとなるが、その後も治定運動は明治30年代まで続いた。 -
明治31年、東京帝大、人類学教室によって白山神社古墳の実地調査が行われた。
初めての考古学調査であり、陪塚からは鏡と剣が発見された。調査結果ではこの古墳は推古朝以降平安期以前のものであるとされ、弘文天皇陵である可能性は否定されなかった。
(写真は神社には不釣り合い?な随神門) -
山門の両側内部には写真のような皇子?が座しておられる。
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石段の上に拝殿が見えてきた。
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文化2年(1805年)生まれという狛犬がにらみをきかせている。
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2頭ともに歯をむき出しにしていて迫力あり。
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本殿。
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本殿はかなり凝った造りのようだ。
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本殿の縁の下あたりを走り回る狛犬たち。
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正面扉にも細かな彫刻。
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反対側。
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やはり狛犬たちが駆け回っている。
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境内にある、三猿がほられた庚申塔。
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境内で草取りをされていたお爺さんによれば
このお神輿は、記憶にある限りでは担ぎだされた事はないとのこと。 -
境内から随神門を見下ろす。
明治初年まで神仏習合の考えから、境内には神宮寺が置かれ、「白山大権現」と呼ばれていたそうだ。
そのせいで神社には見当たらない山門があったと納得。
その後、神仏分離によって「白山大権現」から「白山神社」となった際に、白山神社なのだから菊理媛命をご祭神として祀らなくてはならないと、大友皇子のご祭神に加えられたそうだ。 -
石段を下りて行かれる方の後ろ姿は、
神社入り口あたりで草取りをされていたお爺さんだが
わざわざ説明をする為に上がってきて下さった。
一仕事も終わり引き上げられるとのこと。
こうして地元の方々によってずっと守られてきた神社。 -
石段を降りていくと
左手にある泉と手水舎 -
湧き水が豊富なようだ。
-
-
大戦時の記念碑のようだ。
ここが広場のようになっていて
車はここに停められた。 -
久留里街道は、小櫃川支流の御腹川を渡る。
川の名前は、追い詰められた皇子が腹を切って自害したところから
名付けられた。
深夜になると川の水が血の色に変わったり、逆流したりする事が
あると言われている。 -
橋の名前も
御腹川橋。 -
久留里街道を走る際、
何度か交差している久留里線の線路を横切っていった。
折から一両のみで走る電車が。 -
この後の3社の訪問は17日になります。
圏央道、東インターを降りて、白山神社とは反対方向
iPad の案内を頼りに走り
守公神社へ辿りついた。 -
由来が書かれていた。
壬申の乱の翌年、673年、天武天皇の討伐軍が小櫃の俵田に築いた御所へと迫ってきた。西御門から妃と12人の女官を逃すため、「喜三太」という武士を筆頭として数人が警護しながら、下郡の市場台まで避難させていった。
皇妃と女官たちは、小川御所の方向を心配して祈っていたが、やがて大友皇子の軍は敗れ、御所に火の手が上がった。
その折りの警護してきた武士たちはこの神社に祀られている。 -
この神社に祀られている武士たち
最後まで大友皇子への忠誠をつくした武士たちが祀られていることから、第二次世界大戦時にはこの守公神社から多くの方々が出兵していったそうだ。
神社に掲げられている竜の絵は、小川御所炎上の際、立ち昇る煙が竜の姿に見えたことにちなみ、掲げられているそうだ。 -
十二所神社(木更津市下郡408)へとやってきた。
やはりiPadに案内してもらってのこと。
ここには皇妃(耳面刀自命)と12人の女官が祀られている。 -
彼女たちは小川御所に火の手が上がるのをみて
この地で自害したそうだ。
その後、地元住民によって神社は創建された。 -
かなり急な石段を上がったところに
-
拝殿がある。
-
神社の紋章(神紋)は
いつか?どこかで見た?神社のものと同じようだ。 -
人気のないせいもあって、下りはさらに怖かった。
数日前の大雨のせいか、土砂とともに
枯葉が沢山流れ落ちたようだ。 -
次に向かったのは
小湊鉄道の飯給(いたぶ)駅。 -
無人駅。
-
ここは世界一広いトイレがあるとして有名でもある。
その広い女子トイレの入り口。
使用後はドアは開け放しておくよう張り紙がある。 -
黒い塀で囲まれた200㎡あるという敷地の中央に
透明な電話ボックスのようなトイレがポツンとある。 -
使用する際にはカーテンをぐるりと回して
視線を遮ることができるが
なんとも落ち着かなそう。
桜の大きな木もあって、満開の桜をみながら座る、、、
という気分はどんなものかしら? -
白山(しらやま)神社は駅のホームに立ってみると
正面(西方面50メートル位?間には田んぼがある)に位置している。
駅前といっても一日の平均乗車数は7人という無人駅らしい。 -
ここまでやってきたのは、やはり弘文天皇にまつわる
伝説がある神社だから。
祭神は弘文天皇。
「飯給」という地名も、この地の人々が天皇一行に食事を捧げたことから、
天皇の3人の皇子が「飯給」の名前を与えたのだそうだ。
杉が密生している先、石段と社殿が見える。 -
もう一つの言い伝えでは、皇子は3人の子供を村人に預けて、現在の市原市万田野地区を越えて落ち延びたという。村人は3人の子供たちの顔にススを塗るなどして変装させたが、追手に捕らえられ、現在の白山神社のある地で打ち首になったが、その翌日から付近には白い3羽の鳩が舞うようになったため、村人たちがその場所にお宮を建てて祀ったところ、その日から白鳩の姿は見られなくなったと言われている。別称として白鳩の宮というのはこの伝承に由来している。
-
狛犬が石段上から
上ってくる人を見下ろしている。
ここの石段も結構な斜度があった。 -
駅周辺は今は菜の花の黄色でいっぱい。
間もなく、ホーム際に植えられた桜が満開になる事だろう。
大友皇子の足跡を辿る中で、一つの論文を見つけました。
「房総・弘文天皇伝説の研究」
千葉大学 教育学部 井上孝夫
千葉大学教育学部研究紀要 第52巻、2004年
というものです。
その抄録によれば:
「壬申の乱に敗れたのち、大友皇子は房総の地に逃げ延びた」という房総・弘文天皇伝説は、房総の伝説のなかでも傑出したものの一つである。このような伝説が成立した背景には、この地域が古代の製鉄民族、多(オオ)氏の支配地域だったことと関連していて、大友皇子のゆかりの人々がオオ氏を頼りに房総に移住したと考えるのが最も理にかなっている。それはまた、「田原」地名の分布にはっきりと刻印されている。田原とはタタラであり、製鉄が行われていたことを示しているのである。だが古代の末期から中世にかけて熊野修験道が流入し、その結果、オオ氏の祀っていた田原神は白山神へと姿を変えた。これが、現在の白山神社(君津市俵田)菊理姫と弘文天皇が祀られている理由である。
(論文の詳細については省きます。)
伝説の真偽については、今となっては証明することは難しいことでしょうが、
若くして滅ぼされざるを得なかった大友皇子の無念(いつの時代も、権力を得ようとする側の理由のもとに、いのちを奪われていった側の無念がたくさんある。)が、このような形で伝説となって伝わってきているのでしょう。 -
「大友の皇子 東下り」という本のご紹介を。
この本は、近江朝が陥落する折り、大友皇子がお供を引き連れて脱出、
やがて房総の地に至るまでが書かれています。
大友皇子が東海道を辿り房総の地に向かう途上での出来事、
そのことから、伊勢原市になぜ大友皇子のお墓があるのかの記述、
更に大海人皇子の出自にも触れていて
皇子が壬申の乱に至るまでの背景も描かれている。
日本書紀には書かれていないこと、矛盾点などの史実を
調べあげた上での小説なので
すべてを事実とは思えないとしてもとても楽しめるものでした。 -
辿った地を地図に示しました。
木更津には「鎌足」と名前がついた地名もあるようです。
鎌足との因縁があるのだろうか。
(木更津市、高蔵寺の縁起によると、矢那の猪野長者の娘の子が藤原鎌足とされている。)
「副王神社」は当日は未訪問。大友皇子の子の副王を祀っているそうだ。奈良輪神社と呼ばれているそう。副王丸と称する円墳があるそうだ。
「神明神社」は、途中まで車で行ってみたが、段々狭い悪路に入り込み、途中から引き返してきてしまった。鳥居のみが残っていて、市川公会堂があるようだ。
「末吉神社」(現在の名前は飯縄神社となっている)は蘇我赤兄 (近江朝では左大臣だったとされる。壬申の乱の後にどこか地方に流罪されたとある) を祀るとされているが、やはり車一台が通れるか不安になるような狭い道だったため断念した。(蘇我赤兄といえば、若き有間皇子をそそのかし、それを天智天皇に密告し謀反人にしたあげくに死に追い込んだという悪名高い人物。)
他にも
「王守川」 追われた天皇が川を渡る際に、喜三太なる者が菰をまとって天皇を背負ったという川。
「手桶の禁忌」 自害した天皇の首は手桶に入れられ葬られたという。それゆえ、俵田村など12村では手桶を使わず、手のない桶を使っている。(手桶は天皇の木像とともに、白山神社に納められている。)
などなど他にも伝説は多数見受けられるようだ。 -
ここから先は3月10日のおまけの訪問記です。
久留里街道を更に南下して久留里城へやってきました。
同じ千葉県でもこのあたりはなかなか訪問の機会がない地です。
立て看板にはお城の歴史が
「三日に一度づつ21回雨が降ったことから別名を「雨城」と言われる。
天文年間後半、安房の里見義尭は上総に進出し、久留里城に
本拠地を移した。
1564年、下総、国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、
久留里城も一時、北条方の手に落ちている。
しかし2年後に里見氏は久留里城を奪還。
1590年、豊臣秀吉により里見氏は上総の所領を没収される。
その後、徳川氏の支配に変わった関東で、久留里城は
大須賀氏から土屋氏へ。
更に1742年黒田直純の藩主の折りに城の再興をはかり
以後130年間黒田氏による治世がつづき
やがて明治維新とともに久留里城は解体される運命をたどった。」
などとあった。 -
駐車場から登り坂に至る道端には
杖が沢山置かれていた。
この時にはこの程度の坂道は、杖なんていらない、
と思っていたのに、後になって
上りはどんどんきつくなり、後悔することになった。 -
「堀切跡」とあった。
平時には木橋がかけてあったそうだが
敵に責められたりした際には
その橋は切り落とされたようだ。 -
「曲輪・郭(くるわ)」についての説明板
防御、攻撃のため、造成し設けた平場の区画。
近世の本丸など主要な曲輪の外側にあるものを「腰曲輪」という。 -
曲輪
所々、山ヒルに注意との立て看板が。
今の季節はどうなのかしら? -
「綱より」(香木原)というらしい。
ここから更に進むと天守閣に至る。 -
これは、疫病や災いをよけるおまじないとのこと。
集落入口の道に渡しかけるそうだ。
藁草履・わらじ、桟俵の3つは完成させず
綺麗に作ってはいけないらしい。
「こんなものを作る村にはろくなものがない」ことを示し、
悪いものが村へ入るのを諦めさせる役割があるとのこと。 -
「人形だんご」(鹿島人形)
やはり疫病や災いをよけるおまじない。
手を大きく広げ、刀や槍をたずさえた鹿島神(武神)の姿で
災いを退散させる役目をしている。 -
「水道木管」
明治時代中頃に、久留里の市場(現在の久留里の商店街)
に埋設された水道木管。 -
「上総掘り」方式 井戸掘り櫓
明治の中頃、君津地方で考案され、飲料水、かんがい用水
はもとより、石油や温泉の発掘にも使用された櫓。
現在も東南アジアやアフリカ諸国で使用されているもの。
この上総掘りで掘り当てた井戸の水で、久留里は名水の里
として知られている。平成20年には「平成の名水百選」に
選ばれ、街のいたるところに湧き水があるそうです。 -
「男井戸・女井戸」(おいど・めいど)
伝説によると、この二つの溜め井戸は、奈良時代の僧
良弁によって掘られ、「金剛水」「胎蔵水」と呼ばれたそう。
戦国期、この場所に里見義尭が城を築くと、敵対する北条氏が
幾度が来襲するが、この井戸により籠城にも耐えることが出来た。 -
天守閣に至る最後の上り
-
右手にあるのは波多野曲輪
-
「本丸・天主台跡」
江戸時代中期、1743年から46年にかけて、黒田直純が
城を再整備した際に築いたとされる天守の跡。
その跡地に復元されたお城。
コロナ禍の折りで、内部は入場不可だった。 -
昭和52年に実施した発掘調査によって、礎石群が検出され
きわめて貴重な遺構であることが確認された。 -
黒田家の家紋
「白餅」は城持ちに繋がるということで
好まれた家紋のようだ。 -
房総半島の中央部に位置する久留里城のある君津地方は
周囲の山並みは国有林だそうです。
管理しているのは千葉の森林管理事務所であり
シイやカシなどの広葉樹、
アカマツやモミの針葉樹が混生している見事な天然林が
広がっている。 -
「君津市の次世代に伝授したい20世紀遺産」に指定され、
千葉の眺望百景にもなっている、
そんな景観がぐるりと広がっていた。
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この旅行記へのコメント (8)
-
- へびおさん 2021/08/22 21:45:42
- 古代に想いを馳せて・・・
- mistralさん
大友皇子に関する旅行記、大変興味深く拝見させていただきました。
私も以前養老鉄道の旅をした時に飯給駅から見えた神社が気になって調べたことがあります。
その時は「まさか大友皇子が大和からこんな場所まで逃げてくるわけない」と思っていたのですが、調べてい行くうちにmistralさんの考えと同じく、皇子の妃であった藤原耳面刀自の実家を頼って鹿島まで逃げるつもりだったのだと思います。
でなければこんなに皇子にまつわる地名や神社は残っていないと思うんですよね。
地元の伝承って大事。
大友皇子が落ち延びた説は三重や愛知にもあるのですが、皇子の母・伊賀采女宅子娘の名前から察するに伊賀の地に縁があった人なんじゃないかと推測。
最初は母の故郷を目指し、近江→伊賀→房総と逃げて行った可能性もあるのかなぁなんて考えてしまいました。
田原→タタラは面白い考えですね。
因みに古事記編纂に関わった太安万侶は豪族・多一族の長であったそうです。
安麻呂は奈良の磯城郡田原本と言う場所に居住していて、お墓が奈良市の田原と言う場所で昭和54年頃見つかっています。
奈良の田原本と田原、そして千葉の田原(俵田)。すべて多氏に関係しているって凄いと思いました!
安麻呂のお墓は茶畑の中にあって、なんだか感動するので、コロナが収まったら是非行ってみてください~。
奈良市中心部からは本数の少ないバスで行くことになるのですが、そばには天皇陵が2つあり良いハイキングになるのでお薦めです☆
- mistralさん からの返信 2021/08/23 09:18:55
- RE: 古代に想いを馳せて・・・
- へびおさん
こちらの旅行記にも引き続きコメントをありがとうございます。
> 大友皇子に関する旅行記、大変興味深く拝見させていただきました。
> 私も以前養老鉄道の旅をした時に飯給駅から見えた神社が気になって調べたことがあります。
小湊鐵道で養老渓谷へいらっしゃったんですね。
飯給駅から見える神社の佇まいには、何か凄い気配を感じられますよね。
> その時は「まさか大友皇子が大和からこんな場所まで逃げてくるわけない」と思っていたのですが、調べてい行くうちにmistralさんの考えと同じく、皇子の妃であった藤原耳面刀自の実家を頼って鹿島まで逃げるつもりだったのだと思います。
> でなければこんなに皇子にまつわる地名や神社は残っていないと思うんですよね。
> 地元の伝承って大事。
痕跡がこれだけあるのですから、大友皇子でないとしても
皇子にまつわる人々が落ち延びてきた可能性はありそう、、、と思ってしまいます。
> 大友皇子が落ち延びた説は三重や愛知にもあるのですが、皇子の母・伊賀采女宅子娘の名前から察するに伊賀の地に縁があった人なんじゃないかと推測。
> 最初は母の故郷を目指し、近江→伊賀→房総と逃げて行った可能性もあるのかなぁなんて考えてしまいました。
途中の神奈川県の伊勢原市にも皇子のお墓があるようです。
機会があったら行ってみたい、と想っています。
>
> 田原→タタラは面白い考えですね。
> 因みに古事記編纂に関わった太安万侶は豪族・多一族の長であったそうです。
> 安麻呂は奈良の磯城郡田原本と言う場所に居住していて、お墓が奈良市の田原と言う場所で昭和54年頃見つかっています。
> 奈良の田原本と田原、そして千葉の田原(俵田)。すべて多氏に関係しているって凄いと思いました!
多から太へ変わっていったんですよね。
多氏は製鉄に携わる仕事をしていたとか。
房総に移り住んだ多氏、浜辺でとれる砂鉄を元にした製鉄業を営んでいたのではないか、とは
論文の著者の方の論旨です。
その多氏一族を頼って、いどころを失った天智朝の人々が落ち延びていった。
> 安麻呂のお墓は茶畑の中にあって、なんだか感動するので、コロナが収まったら是非行ってみてください?。
> 奈良市中心部からは本数の少ないバスで行くことになるのですが、そばには天皇陵が2つあり良いハイキングになるのでお薦めです☆
奈良、明日香の地には、不思議ですが古代と直結しているような気配?があって、
そこに立つだけで感動する、という表現、良くわかる気がします。
ありがとうございました。
mistral
-
- マリアンヌさん 2021/04/21 11:24:43
- 大友皇子いいですねぇ
- mistralさん
身近な場所にも歴史ロマンはあるものですね。前回同様、この時代に千葉が関西とつながっていたことに衝撃をうけました。国分寺はもとより実家の狭山市にも木曽(源)義仲の嫡子清水冠者源義高終焉の地などはあるのですが・・・
激動の飛鳥時代とは、心そそられます。
白山神社、興味深いですね。弘文天皇陵は長等山前陵の他にも複数伝わっているのですね。まあ1000年以上昔のことですからね、まさにロマンです。
関連史跡をみても、房総に壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた感がすごくします。
また、古代の製鉄民族、田原とはタタラであり、製鉄が行われていたことを示しているとは思いもよらない説ですね。
そして論文の詳細まで読んでしまうmistralさん、さすがです。
「大友の皇子 東下り」知りませんでした。読んでみたいです。
良く調べられたものをぽちっとつまんで楽しませていただきました。
マリアンヌ
- mistralさん からの返信 2021/04/21 19:05:51
- RE: 大友皇子いいですねぇ
- マリアンヌさん
沢山のご投票、コメントも!ありがとうございました。
今日は実家の父の三回忌でした。
一緒に母の十三回忌もおこないました。
今年は夫の方の母の七回忌もありますので、法事が続きます。
あっという間に年月が過ぎ去ります。
あたふたと過ごした日々がウソのようです。
> 身近な場所にも歴史ロマンはあるものですね。前回同様、この時代に千葉が関西とつながっていたことに衝撃をうけました。国分寺はもとより実家の狭山市にも木曽(源)義仲の嫡子清水冠者源義高終焉の地などはあるのですが・・・
> 激動の飛鳥時代とは、心そそられます。
身近な地が、激動の飛鳥時代と繋がりがあるかも?と知って、さすがの私もこころが動きました。
昔から日本史は不得意科目、万葉集、日本書紀、、、興味がありませんでした。
壬申の乱って?から始まり、天智、天武天皇の家系図などなど、調べたり楽しいひと時でした。
多分、このコロナ禍の時でなかったら、こんな興味を持つことはなかったかもしれません。
> 白山神社、興味深いですね。弘文天皇陵は長等山前陵の他にも複数伝わっているのですね。まあ1000年以上昔のことですからね、まさにロマンです。
> 関連史跡をみても、房総に壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた感がすごくします。
すっかりその世界にはまり込み、あまりに関連の遺跡があると、単なる伝説ではないのかも、と妄想してしまいます(笑)
> また、古代の製鉄民族、田原とはタタラであり、製鉄が行われていたことを示しているとは思いもよらない説ですね。
> そして論文の詳細まで読んでしまうmistralさん、さすがです。
ついに製鉄にまつわる論文まで。
まあ、すっかりハマったわけです。
> 「大友の皇子 東下り」知りませんでした。読んでみたいです。
ご興味がおありでしたら、お会いできそうな折に持参します。
Amazonの中古本を入手したものですけど。
> 良く調べられたものをぽちっとつまんで楽しませていただきました。
一緒に妄想にお付き合いいただき、ありがとうございました。
mistral
-
- 川岸 町子さん 2021/03/28 08:50:58
- いつの時代にも
- mistralさん、おはようございます(^-^)
素敵な時間の使い方をなさっていますね!
本を読まれ、ネット検索、そして実際にその地を歩かれ、色々なことが繋がっていくのでしょうね。
楽しみながら何かを学ぶ、ワクワクが尽きませんね。
私は子どもの頃は歴史が好きだったのに、受験後は忘れる一方です(*_*)
心に伝わったのが、草取りの男性です。
いつの時代にも、このように心配りをなさる人々が、日本各地におられるのだろうなと思います。
私が子どもの頃、遊んでいた神社も、そうだったのかな。
当たり前のことに気づかずに、歳をとってしまったようです(笑)
世界一広いトイレ、これも奇抜な発想から生まれ、毎日使える状態を保っているのですね。
無人駅や一日の乗客7人の駅、利用者にとって、必要な存在。
いつまでも電車がやって来ますようにと思いました。
君津や旭市は知らないエリアで、千葉県は本当に広いですね。
これからも私の知らない千葉県を教えて下さいね~(^_-)
町子
- mistralさん からの返信 2021/03/28 16:26:39
- RE: いつの時代にも
- 町子さん
こんにちは。
いつも有難うございます。
緊急事態宣言が解除されたとはいえ、相変わらずの患者さん数の増加には
ハラハラする日々が続いていますね。
通勤時間帯は電車の中はいかがでしょうか?
> 素敵な時間の使い方をなさっていますね!
> 本を読まれ、ネット検索、そして実際にその地を歩かれ、色々なことが繋がっていくのでしょうね。
> 楽しみながら何かを学ぶ、ワクワクが尽きませんね。
> 私は子どもの頃は歴史が好きだったのに、受験後は忘れる一方です(*_*)
このようなコロナ禍の日々がなかったら、今までと同じような過ごし方をしていたのかもしれません。
まさかの展開です!
日本史、不得意だった私が、壬申の乱に興味を持ち、日本書紀を読んでみたり
万葉集の解説本をのぞいたり、など考えてもみませんでした。
> 心に伝わったのが、草取りの男性です。
> いつの時代にも、このように心配りをなさる人々が、日本各地におられるのだろうなと思います。
> 私が子どもの頃、遊んでいた神社も、そうだったのかな。
> 当たり前のことに気づかずに、歳をとってしまったようです(笑)
この頃、そういった方々の存在に目が向くようになりました。
神社仏閣を、近隣の、多分現役を退いたような年齢の方々が、今までのお返し?の意味合いから奉仕活動されていることの意味、がわかるように思えます。
順繰りに地域の大切なものを守る、新たな役割をそのことで得る、そこからお年寄りの存在価値が生まれるように思えます。
いつでも人は、そうすることで大切な存在だと、自他共に思えるように想います。
> 世界一広いトイレ、これも奇抜な発想から生まれ、毎日使える状態を保っているのですね。
>
> 無人駅や一日の乗客7人の駅、利用者にとって、必要な存在。
> いつまでも電車がやって来ますようにと思いました。
この辺り、いまや、桜の時期など、カメラマンで賑わうようです。
駅ごとにさまざまな工夫を凝らして、観光客を呼ぶ努力をされているようです。
私は、大友皇子を追いかけてそこまで行きました。
大方の人は、神社を背にして立ち、目の前に広がる田んぼ、その水面に映る桜、菜の花、
そして電車とのコラボを写真におさめるようです。
> 君津や旭市は知らないエリアで、千葉県は本当に広いですね。
> これからも私の知らない千葉県を教えて下さいね?(^_-)
マイナーな地の旅行記ばかりで、すみません。
よろしかったら、又お立ち寄り下さいね。
mistral
-
- しにあの旅人さん 2021/03/26 13:46:12
- こんにちは
- 弘文天皇、ずいぶん深く突っ込まれましたね。
史実としては、井上孝夫さんの論文が妥当であると思います。
製鉄というのが気に入りました。ただ、上総下総で古代、砂鉄が取れたという話は聞きません。
古代の製鉄には、砂鉄を原料とするタタラ以外に、高師小僧を原料とする方法もあるそうです。高師小僧というのは葦などの植物の根に褐色鉄がくっつくもので、これを原料に鉄が作れないことはないそうです。私の地元茂原に高師という地名があります。茂原というのは藻原で、古代は藻が繁茂する湿原でした。このあたりで古代の製鉄が行われていた可能性があるのではないか、これはBy妻のお勉強の結果です。
君津、木更津に同じような湿原が古代にあったかどうかはわかりません。匝瑳あたりは古代は海が下総丘陵の麓まで迫っていた浅瀬、つまり湿原ですから、可能性大です。高師という古地名、ありませんか。
製鉄つながりで、弘文天皇の伝説が伝わったというのは面白い。
あと、侍女伝説が東京湾沿岸にあるみたいです。
横須賀近くの走水神社に、弟橘姫と一緒に入水した侍女が祀られています。人数不明。木更津の十二社神社も12人の侍女、千葉市(かな)の蘇我姫神社にも、弟橘姫とともに入水した5人の侍女のお話があります。
根っこは同じような感じです。
ロマンいっぱいの古代の伝説ですね。
- mistralさん からの返信 2021/03/26 19:52:57
- RE: こんにちは
- しにあの旅人さん
こんばんは。
コメント、有難うございました。
> 弘文天皇、ずいぶん深く突っ込まれましたね。
このコロナ禍の折、どこにも出かけられず、引きこもっている間の時間つぶしにはおあつらえ向きの題材でした。
あれこれの解説をのぞき見し、しにあさんお薦めの日本書紀も見てみましたが、日本書紀にはところどころ意味不明の記述があって、これはどういう意味?と思っても、想像すらできない、、、あとで解説に出会うと、なるほどと思ったり。
> 史実としては、井上孝夫さんの論文が妥当であると思います。
そうですね。
井上さんは今は千葉大学の教授になっておられるようです。(もしかしたら退官されているかも?)沢山の論文の中には古代の製鉄にまつわるものもあって
房総の伝説を「鉄」で読む。 とか
房総地域の製鉄文化に関する基礎的考察。 などなど
見られました。
論文全文がネット上からみられるものもありましたが、タイトルのみのものもあって。
引用しました論文は全文をプリントできました。
旅行記中では詳細については省いてしまいました。多分多くの方には興味がないと思われましたのと、まだ私自身がかみ砕けてないものですから。
> 製鉄というのが気に入りました。ただ、上総下総で古代、砂鉄が取れたという話は聞きません。
論文中、九十九里沿岸、特に旭市の足川、中谷里、井戸野(これら地名は良く知っている地名です)は近年まで砂鉄の採取が企業的にも行われてきたそうですし、八街地滝台では古代の製鉄工房跡が発掘されたそうですが、原料は九十九里海岸から運ばれたものだそうです。
昔の九十九里浜の海岸線は今とはずいぶん変わっていますが、遠浅の海が続いていました。波が去った後の砂浜には黒い砂鉄が沢山残っていましたので、砂鉄は集められたのかもしれません。
> 古代の製鉄には、砂鉄を原料とするタタラ以外に、高師小僧を原料とする方法もあるそうです。高師小僧というのは葦などの植物の根に褐色鉄がくっつくもので、これを原料に鉄が作れないことはないそうです。私の地元茂原に高師という地名があります。茂原というのは藻原で、古代は藻が繁茂する湿原でした。このあたりで古代の製鉄が行われていた可能性があるのではないか、これはBy妻のお勉強の結果です。
> 君津、木更津に同じような湿原が古代にあったかどうかはわかりません。匝瑳あたりは古代は海が下総丘陵の麓まで迫っていた浅瀬、つまり湿原ですから、可能性大です。高師という古地名、ありませんか。
茂原の高師にはかつて友人が住んでいましたので、良く知っています。
高師小僧、聞いたことがなかったものですから調べてみました。
高師という地名も、製鉄にまつわるものなのでしょうか。
他の地にはあまりその地名の記憶がありませんが。
> 製鉄つながりで、弘文天皇の伝説が伝わったというのは面白い。
論文の主旨はそういうことでした。詳細については載せませんでしたが(大多数の方には興味がなさそうに思ったものですから)もししにあさんがご興味がおありでしたら、論文のURLをお送りいたします(もし転送後、同様にURLが開ければですが、ちょっと自信がありません。)
近江の田原にゆかりの藤原氏系の人々が、上総の地に白山信仰を携えてやってきて、白山神社を建立、自身にゆかりの田原神を祭神としたのではないか?そして、田原の地名をタタラと関連づけて述べています。
> あと、侍女伝説が東京湾沿岸にあるみたいです。
> 横須賀近くの走水神社に、弟橘姫と一緒に入水した侍女が祀られています。人数不明。木更津の十二社神社も12人の侍女、千葉市(かな)の蘇我姫神社にも、弟橘姫とともに入水した5人の侍女のお話があります。
> 根っこは同じような感じです。
>
> ロマンいっぱいの古代の伝説ですね。
史実としての結果はわかっていますが、その過程にはたくさんの想像が入り込む余地が残されていますね。そこにロマンが掻き立てられます。
あれこれ読んでいくうちに、私個人の感想としては天武天皇は胡散臭くて、、、どうも。
大津皇子がやがては死を賜る運命となったのは、因果応報、親の因果が子に、、、と考えたら悲しいものがあります。
それを言ったら、大友皇子が滅ぼされたのも、天智天皇の因果がやはり子にいったのかもしれません。
mistral
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