2021/01/09 - 2021/01/09
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mistralさん
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椿海(つばきのうみ)について、あちこちのサイトを覗いている時に、気になる名前に出会った。「内裏神社」という神社が千葉県旭市にあるという。しかも、読み進めていくと、壬申の乱で敗れた大友皇子の妃を祀った神社らしい。
明日香に関心を抱いてない以前だったら、そのままスルーしていたのかもしれない。それにしてもどのようにして妃は、都落ちして九十九里浜まで辿りついてきたのか?
その前に壬申の乱についての振り返りを:
645年、中大兄皇子は中臣鎌足とともに、蘇我入鹿を暗殺、当時権勢を誇っていた蘇我氏はやがて衰退していった。大化の改新である。
同時代、唐の大軍によって日本の友好国家、百済が攻撃され、日本からは大軍を出兵したが惨敗した(白村江の戦い、663年)
唐・新羅連合軍に敗れた日本は、続いて起こるかもしれない侵略戦争を恐れて、様々な防衛対策を行っていった。防備を固める為、博多湾近辺には防人を配置、日本初の戸籍(庚午年籍)を作成し、兵力や租税を把握した。
防衛上の地の利を考え、飛鳥から近江大津へ遷都した。
「これらの対策は、いずれも人民へ負担を強いるものばかりであり、天智天皇の政治に不満を持つ者も多くなっていった。→壬申の乱の遠因の一つ」
668年、中大兄皇子は天智天皇として即位。弟の大海人皇子を皇太子に任じていた(日本書紀では「皇太弟」とある)ので、弟皇子が次期天皇候補となることは既定の路線だった(大海人皇子の立太子そのものを、日本書紀の創作とする説もあるようだ)。
<天智天皇は自分の娘を4人も大海人皇子に嫁がせている。それほども皇子を脅威に感じてのことだったのか?> 以下<>はmistralのつぶやき。
一方天智天皇の第一皇子、大友皇子は二十歳を過ぎ、人望、教養など申し分ない皇子となっていた。
671年、天智天皇の突然の心変わりから、大海人皇子を要職からはずし、かわりに大友皇子が抜擢され、朝廷の最高官職である太政大臣を任命された。
<次期天皇と思っていた大海人皇子にとっては,寝耳に水のやり方だったのではないでしょうか?>
「面白くない大海人皇子→壬申の乱の直接の原因」
672年1月7日、天智天皇 崩御(46歳)。
まだまだ、これだけでは大友皇子の妃が登場するまでにはいきません。もうしばらくのお付き合いを。
(表紙写真は旭市にある大友皇子の妃を祀る陵墓と、妃像と伝わる神像)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
-
壬申の乱,とりわけこの旅行記に登場する人物を黄色の枠で囲いました。
<これはmistral自身の為であります。このあたり,特に家系図は入り組んでいて,すぐに関係性が分からなくなってしまいます。>
壬申の乱は,天智天皇の死後,息子・大友皇子(弘文天皇)と弟・大海人皇子(天武天皇)との間に起こった叔父と甥との皇位継承をめぐる古代では最大とも言われる争いだった。 -
天武天皇
(?各種説があり不明 - 686年10月1日)
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子。天智天皇(中大兄皇子)とは、両親を同じくし、弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は後の持統天皇。
天智天皇は死の間際、大海人皇子を枕元に呼び「お前に譲位したい」と話した。
しかし、その言葉を怪しみ警戒した大海人皇子は、「自分は天皇になれる器ではない、大友皇子を皇后・倭姫王の皇太子にして次期天皇の候補にされるように、自分は出家して吉野へ籠ろうと思う。」と辞退したそうだ。
天智天皇は、過去にも似たようなやり方で有馬皇子を処刑していたため、大海人皇子が警戒したのは当然のことだった。
以降、近江宮の大友皇子と、吉野の大海人皇子とは一触即発状態となっていった。
672年7月24日、吉野を出立、壬申の乱の勃発となった。
不破(関ケ原の合戦の戦場と同じあたり、東国と都を結ぶ重要ルート)を抑えた大海人皇子には、不破に至るまでに多くの兵が合流していた。同時に東国にも挙兵を呼びかけ、防人の任務などに不満を持つ多くの兵が集結してきた。
「→当時、天智天皇による政策に対して多くの民は批判的だった。
又、母方の血筋が重視される世にあって、大海人皇子の方が、母型の血筋がすぐれていた、などの理由があった。」
大友皇子側では,不破を押さえられてしまい,兵は畿内だけからしか集められず劣勢となり、最後には数名の側近のみとなってしまう。
673年、2月、大海人皇子は飛鳥で天武天皇として即位した。
(画像はwikiより、出典は「集古十種」より、矢田山金剛寺蔵)
その後の天武天皇の崩御、后、持統天皇による執政、皇子の継承問題は
しにあの旅人さんの旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11670966
関連旅行記が前後にもあります、
に詳しく載っておりますので、是非ともご訪問ください。 -
vs.大友皇子(648-672年8月21日、
この日付は天武天皇元年7月23日に当たる)
天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)
明治3年(1870年)になって弘文天皇という名とともに,第39代天皇(在位:672年1月9日-672年8月21日)として列せられたが,実際に大王(天皇)に即位していたかは定かではない。
壬申の乱の基本史料となるのは「日本書紀」であり,天武天皇の子,舎人親王が編纂の中心となっているため天武よりの史書となるのはやむを得ないことだろう。
書紀の編纂者は,仮に即位の事実を知っていたとしてもあえて記さなかったとも考えられる。
<仮に天皇として即位していたとしても、その大友皇子を滅ぼして皇位を奪った、などとは書けるはずもないでしょう。>
また壬申の乱で死んだ皇族は大友皇子と山部王の二人だけであり,他の天智系皇族は大友の子,葛野王を含めて全員が生き残って朝廷を構成したそうだ。そんな状況下では,事実を否定するような操作も難しかったのではないだろうか,との説がある。なので,皇子が皇太子になったとも,即位したとも記されていない。
平安時代の文献には,皇子即位の記述が多くみられるそうだ。
「懐風藻」は皇太子と記し,「扶桑略記」「年中行事秘抄」「水鏡」等では大友皇子が皇太子から帝位についた,と記されているそうだ。
その後,現代にいたるまで,皇子の即位をめぐっては論争が繰り広げられているそうだ。
672年7月23日、壬申の乱で敗れた大友皇子は、山前(やまさき)で自害したとされる。やがて皇子の首は将軍、村国連男依らによって大海人皇子のもとへ運ばれ、首実検されたそうだ。
しかし史実とは別に、皇子は自害しておらず、首実検されたものは身代わりとなった者の首で、蘇我赤兄や蘇我大飯らとともに、三河(愛知県)あるいは上総(千葉県)まで逃げ延びて行ったと伝わるそうだ。
(画像はwikiより、法傳寺所蔵) -
父、天武天皇と母、額田王の第一皇女の
十市皇女(とおちのひめみこ)は
大友皇子の正妃にあたる。
壬申の乱では、父と夫が戦うという事態となってしまう。
大友皇子の敗北によって、父(天武天皇)のもとに身を寄せたとされるが、天皇の皇女として、更には敗北した近江側の后(皇后か?)として、複雑な辛い立場であったことが想像される。
天武7年(678年)天皇が倉橋河の河上にたてた斎宮に向かおうとした当日、4月7日朝に急死。その為、天皇の行幸は中止、斎宮での祭りもなくなり、天皇は声を出して泣いたとされる。この急死に対しては、自殺説・暗殺説もあるようだ。
4月14日、大和の赤穂の地に埋葬された。
(新薬師寺の隣にある鏡神社の比売塚に埋葬されている可能性が高いそうだ。)
(他にも、千葉県大多喜町にある筒森神社との説:敗れた大友皇子に従って東国へ落ち延びてきたが、難産の末にこの地で亡くなり埋葬された、との説。
いすみ市岬町の法興寺伽藍後近くにある「殿塚姫塚」の姫塚に祀られているとの説もあるようだ。)
(写真は、植村松圓による母の額田王の絵 ) -
そしてもう一人の妃が
今回の旅行記で追いかけた「耳面刀自媛」(みみもとじひめ)。
塚にある立て看板には「かんなみ」とふりがなが付けられている。
中臣鎌足の娘と言われている。
鎌足の出生地といわれる鹿島、あるいは房総半島の地へ
つてを頼って逃げ延びたと伝わる。
(写真は匝瑳市野手にある内裏神社・上社) -
代々の言い伝えとして
「北総匝瑳郡川口村明内豊章旧図書」にのみ載っている為
確実な事実とは言い難いようだ。
埋葬された内裏塚(後ほど行く下社)から、後に遷されて神社が建てられた。
簡素な神社。 -
右手にある細い川沿いにしばらく歩いたところに
妃が葬られたという塚が残されている。 -
内裏塚のある、内裏神社・下社へやってきた。
672年7月23日、壬申の乱で大海人皇子側の軍勢が瀬田橋を突破、朝廷軍は劣勢となり大津京が陥落、山前(やまさき)へ敗走、そこで皇子は自害したとされる。
(一説によれば房総半島に逃げのびてきたともされる。 -
その前後に耳面刀自媛は大津京から逃げ出したとされる。
当時20歳と伝わる媛は18人の従者とともに房総半島、九十九里浜の野出浜に漂着。
長旅の疲れから体調を崩し、里人の重郎兵衛、忠兵衛たちが看病したが、672年9月23日に亡くなられ、この塚に埋葬された。 -
「神山」「神林」と崇敬されていた従者の頭、中臣英勝(あかつ :大友皇子の重臣、中臣連金の子にあたる)がその後も、墓を守って生活していたとされる。
従者たちは、椿海周辺にひろがる肥沃な土地で農耕生活をして暮らしたそうだ。
(明治15年に建てられたという石碑。
いまでは文字は読めないほどに摩耗してしまっている。) -
周辺の農地や用水路の整備が進んだ
昭和41年には石碑が建てられた。 -
鳥居の左手にあった立て看板。
(大体上記のような説明が書かれていた。)
明治15年、八日市場警察署長氏が塚が荒廃した状況を嘆き、私財を投じて由来の碑を建立
昭和41年、県営圃場整備事業により、塚の一部が排水路用地となったため移設し、記念碑が建立された、
などとあった。 -
妃が逃げ延びてきた海路。
大海人皇子の軍勢の攻撃を受ける前に
瀬田側を下り、淀川に出て大阪湾から潮流にのって
(看板の地図とは異なるが、包囲される中逃げ道としては
淀川に出た可能性が高いそう。)
辿り着いたと考えられているようだ。 -
内裏神社上社へ戻ってきた。
これから旭市泉川にあるという内裏神社へ向かう。
この辺りは、カーナビでは検索できなくなってしまっている。
持参したiPadでgoogle mapを併用しながら進行。 -
現在地(赤色マーク)から地図斜め右手までの神社までは
6.6キロ、約12分の距離。
農道のような、それでも綺麗に整備されている道を走った。 -
旭市泉川にある内裏神社へ到着。
940年(天慶3年)英勝から数えて8代目の中臣美敷の時、
現在の川口・泉側境の地に、内裏塚の墳土の一部を移して
妃の霊を祀って内裏神社としたそうだ。
その後、大塚原に改葬したのは14代中臣正勝の時代となる。
旭市から八日市場市(現在の匝瑳市)へ向かうバス路線であり
かつてこの神社の前を通っていたのかもしれない。
境内は広々としていて、思ったより綺麗に整備されていた。 -
入り口鳥居左手にある立看板。
内裏神社の御神像:
御神像は高さ28センチで台座上に立つ。作風は素朴で、小袖、袴、靴を着用し、頭部には鉢巻状の飾り痕跡が。頭髪、両手は修復の痕跡が認められる。室町時代の作と推定される。 -
御神像の画像
「干潟八万石物語: 都落した天皇の后」より借用しました。
ホームページの管理人さん、流れ星さんより許可をいただき掲載。 -
境内内に小さな鳥居があった。
末社。 -
由来はわからなかった。
-
御神幸祭の折の記念碑があった。
寄付者のお名前を見ていくと
知っている方々の名前が見受けられた。 -
妃の逝去から650年後の1330年、中臣英勝の子孫にあたるという明内常義が、妃の霊を慰める為に御神幸祭を始めたそうだ。
(記録は1897年から残っている)
33年に一度、妃の命日の9月23日、神輿を中心にして、妃の上陸地野出内裏塚浜まで神幸していく。最近は平成15年に行われたそうだ。 -
その折りの貴重な写真を
「干潟八万石物語」より画像をお借りしました。
↓
http://nagarebosi39.maiougi.com/
写真は「流れ星」さんによるものと思われます。 -
同上。
-
-
本殿
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菊の御紋
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「匝瑳郡誌」には内裏神社について書かれているそうだが、
その中には「中臣英勝」という名がみられ、耳面刀自媛とともにこの地にやってきたことが伝えられているそうだ。
後世になってそのことを示す証拠が、この後で行く陵墓から発見されたそうだ。 -
御神木
楓の巨木。 -
境内にあった大友皇子の霊を祀る石碑。
-
このような巨木のふもとに石碑がたてられていた。
-
-
その後,駒込 日月神社へ到着。
-
-
創建は古く、弘文天皇の妃を祀ったことにはじまる、との記述が。
「古来、祭神として弘文天皇を日神に、皇妃を月神とし御魂を祀り、帝の御旗を永くご神体として祀ってきた」とあった。 -
日月の紋
-
-
-
更に陵墓へ。
最初に埋葬された内裏塚から耳面刀自媛の遺骨を掘り出して遷しかえられた埋葬地、
14代、中臣正勝が改葬した陵墓(旭市大塚原1177)は
現在は民家が立ち並ぶ奥まった日当たりの良い地にあった。 -
孔文帝妃耳面刀自陵墓とある。
-
石碑の右手にある石柱と後ろにある古びた石。
なにやら文字が彫られていたようだが、今では解読不能となっている。
「連金子英勝之墓」と書かれていたそうだ。
「連金」とは中臣連金(なかとみのむらじかね)、大友皇子の重臣であり、その「子の英勝」(あかつ)と読むことができたそうだ。
明治24年(1891年)、塚の一部が壊れていることがわかり、中から墓石(石棺の墓石)と思われる石が見つかった。その墓石に「連金子英勝」と刻まれていたそうだ。今となっては耳面刀自媛の陵墓とされているが、同じ地に英勝の墓を作っていたのではないだろうか。
昭和46年、神社氏子と該当各区によって、千葉県と旭市の教育委員会の指導のもと、発掘調査をしたそうだ。出土した人骨は新潟大学にて鑑定を受け、3体分が確認され、中に女性らしい骨もあったそうだ。貴人を葬る際に使われた朱がさしてあったそうだ。 -
旭市の泉川にある「内裏神社」から「日月神社へ」
そこから「孔文帝妃耳面刀自陵墓」へと廻ってきた。
車で走ればすぐの距離だった。 -
こうして現地を実際に車で走り、歩いてみて
代々この地に住む人々によって神社、陵墓などが大切に守られてきているさまを目の当たりにすると、単なる伝承ではなく、古代史の一場面がリアルなものとして思えてきている。 -
房総南部、君津市俵田1452、にあるという
白山神社。
祭神は菊理媛(白山信仰ではよく登場される神さま)と孔文天皇。
1898年、この裏にある円噴の発掘調査が行われ、7世紀後半のものと思われる太刀、海獣葡萄鏡、勾玉などの三種の神器や陶器類が発見されたそうだ。
白山神社付近に皇子の御所があった、とか白山神社古墳は皇子の陵という言い伝えなどなど。
単なる伝承だけではない事実がこちらにも紛れていそうで、一度訪問してみたいと思っている。
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旅行記グループ
壬申の乱を巡る旅
この旅行記へのコメント (14)
-
- ひらしまさん 2021/02/11 22:03:54
- 白村江は壬申の乱までつながっていたのか
- mistralさん、こんばんは。
> 「これらの対策は、いずれも人民へ負担を強いるものばかりであり、
> 天智天皇の政治に不満を持つ者も多くなっていった。→壬申の乱の遠因の一つ」
なるほど、そうなんですね。
防人にせよ、各地の城にせよ、動員される方には大変な苦痛でしかないですものね。
なぜ近江朝廷は簡単に負けてしまったのかという疑問が解けた気がしました。
白村江は壬申の乱までつながっていたのか。
防御を固めたためもあり唐・新羅軍の襲来は受けずにすんだけれど、その代償として我が子大友は非業の死を遂げることになる…。
安易な戦争はみんなを不幸にするのだなと改めて思いました。
mistralさんの旅行記でとても勉強になりました。
ひらしま
- mistralさん からの返信 2021/02/12 10:48:43
- RE: 白村江は壬申の乱までつながっていたのか
- ひらしまさん
おはようございます。
コメントをお寄せいただきまして、有難うございました。
もう一度ひらしまさんの太宰府の旅行記を拝見してきました。
吉野ヶ里遺跡のことも詳細に書かれていて、訪問の折には貴重な情報が満載。
キャリーの預け先とか、JRの事とか、、、
人は(私のことです)どうやら自分の興味ある事にばかり目がいくようです。
テーマパークのようではないけれど、ひらしまさんのコメントにあるような
何もないけれどかえって伝わってくる太宰府の潔さが
私の心にも伝わってきました。
その折は、今も引きずっていますが、飛鳥時代の事に関心がいっぱいで
今まで知らなかった事ばかりで、今更ながらのお勉強の気分です。
中学、高校時代にこんな態度でお勉強をしていれば、歴史のテストの点数も
もっと良かった事でしょう。
> > 「これらの対策は、いずれも人民へ負担を強いるものばかりであり、
> > 天智天皇の政治に不満を持つ者も多くなっていった。→壬申の乱の遠因の一つ」
そうだったんだ、とこれは自分への言葉ですね。
> なるほど、そうなんですね。
> 防人にせよ、各地の城にせよ、動員される方には大変な苦痛でしかないですものね。
> なぜ近江朝廷は簡単に負けてしまったのかという疑問が解けた気がしました。
> 白村江は壬申の乱までつながっていたのか。
> 防御を固めたためもあり唐・新羅軍の襲来は受けずにすんだけれど、その代償として我が子大友は非業の死を遂げることになる…。
ひらしまさんにも共感いただけて、私の学びを代弁していただき嬉しいです。
> 安易な戦争はみんなを不幸にするのだなと改めて思いました。
天智天皇の政策は、あらゆる危険性を考えて対処しようと頑張られた上での事でしょうが
それを充分に見ながら、じっくりと策を練って、ときの訪れるのを待った
大海人皇子には、年若い息子さんでは対抗できなかったのでしょうね。
時の大きな流れ、うねりには
人の力では抗えないようにも想います。
だからこそ、日々を私たちは大切にしなければいけないんだと、これは
ひらしまさんの最後のコメントに繋がります。
mistral
-
- マリアンヌさん 2021/01/29 13:31:21
- 万葉ロマン
- mistralさん こんにちは。
高校時代、遊んでいた百人一首にかぶる万葉集が古典の授業に出てきて、とても興味をもちました。壬申の乱で有名な天智天皇と天武天皇に額田王の三角関係、そして下記の有名な相聞歌のようなやり取りは面白いなと思いました。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る (額田王)
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも (天武天皇)
それからいつの時代も同じく政争の中、殺された有間皇子や大津皇子なども悲劇とか皇子のイメージから乙女心をくすぐりました。
その後、真実が不明な時代だからこそ、ミステリー本を楽しんだりはしていました。
でも飛鳥時代の舞台は奈良もしくは関西と思い込んでいただけに、大友皇子の妃、耳面刀自媛が房総に逃げられていらしたとは(皇子本人まで説も)全く知りませんでした。
とても楽しく読ませて頂きました。
房総一体が飛鳥時代も頻繁に行き来ができるような場所だったんですね。
またキリスト教セミナーでお会いできるのを楽しみにしています。
マリアンヌ
- mistralさん からの返信 2021/01/30 08:32:48
- RE: 万葉ロマン
- マリアンヌさん
おはようございます。
> 高校時代、遊んでいた百人一首にかぶる万葉集が古典の授業に出てきて、とても興味をもちました。壬申の乱で有名な天智天皇と天武天皇に額田王の三角関係、そして下記の有名な相聞歌のようなやり取りは面白いなと思いました。
> あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る (額田王)
> 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも (天武天皇)
最近になって、今頃!、少しずつ万葉集にも興味を持って関連本を読み始めています。
「本当は恐ろしい万葉集」などを読むと、背後には別の意味が隠されていて
正史では語れない事実を歌で伝えているなど、
今の年齢になると、私は恋愛関係よりも興味津々、、、
> それからいつの時代も同じく政争の中、殺された有間皇子や大津皇子なども悲劇とか皇子のイメージから乙女心をくすぐりました。
> その後、真実が不明な時代だからこそ、ミステリー本を楽しんだりはしていました。
まさしくそうですね。
結果のみが残っているからこそ、そこに至るまでの過程には想像が許される。
> でも飛鳥時代の舞台は奈良もしくは関西と思い込んでいただけに、大友皇子の妃、耳面刀自媛が房総に逃げられていらしたとは(皇子本人まで説も)全く知りませんでした。
> とても楽しく読ませて頂きました。
ありがとうございました。
天武天皇と額田王との間に生まれた娘さんが大友皇子の正妃ですが、
十市さんも房州に一緒に落ち延びてきたとの伝説も残っているようですが
これはどうかな?という感じです。
攻める前に、天武天皇は自分の娘を保護していた、ように思いました。
> 房総一体が飛鳥時代も頻繁に行き来ができるような場所だったんですね。
色々読んでみると、当時は私が思っていたよりも、大陸、朝鮮半島、さらにはペルシャなどの国々と
積極的に行き来をしていたようでびっくりです。
> またキリスト教セミナーでお会いできるのを楽しみにしています。
12月分講座の映像配信が始まったとのご案内がありましたよ。
1月の講座はまだのようですね。
一体いつになったらコロナウィルスの勢いが衰えるのやら、、、
お互い、気をつけて過ごしましょう。
mistral
-
- 川岸 町子さん 2021/01/22 08:30:12
- 西から東へ
- mistralさん、おはようございます(^-^)
どこの土地にも何かしらの伝説や、その土地の所以があるのでしょうが、なかなか読み込めるものではありません。
mistralさんが実際に足を運ばれ、お伝え下さり、ありがとうございます!
九十九里と言えば、明るい海岸が続き開放的なイメージなので、全く知らないことばかり。
大津から九十九里への長旅。今でも結構な距離なので、当時はどんなだったのか、そんな想像を掻き立てられました。
また御神幸祭も初めて知りました。平成15年が最終とのことで、次はいつでしょうね?
海で行われる神事、白装束と海の青の対比が美しいです!
まち
- mistralさん からの返信 2021/01/22 12:42:06
- Re: 西から東へ
- 町子さん
こんにちは。
ローカルな旅行記にコメントまで、ありがとうございました。
明日香まで旅をしてきて、どうやら明日香の風にやられたみたいでした。
それまでは、壬申の乱、と聞いても反応しなかったのに、と思いますが、何故か、えっ?!と気持が動きました。
いろいろ調べてみると、当時の人たちは想像をはるかにこえて、大陸、朝鮮半島と行き来が盛んだったことを知って驚きました。
海路、房総半島までもそれほど苦ではなかったのかもしれません。
神幸祭は33年ごとのこと。
生きている間にみることが叶うのか?
そんな訳で、流れ星さんとおっしゃるホームページの管理人さんにお断りして掲載させていただきましが、ナント、その方ご自身がすでに95歳を超えておられて、さらに驚きました。
小さな発見をしつつ、このコロナ禍で固くなりがちな頭に刺激を与えています。
mistral
-
- しにあの旅人さん 2021/01/21 06:52:13
- 知りませんでした
- おはようございます。
こんなところまで大友皇子伝説があるとは。
十市皇女の筒森神社は行ったことがあります。ディープ房総というか、ド山の中です。伝説の筋書きはほぼ同じです。
どういう経路でこの伝説が上総、下総に根付いたか、とても興味深いところです。前にも言いましたが、上総、下総といのは、古代は想像以上に開けていて、ヤマトとの行き来があった、からかもしれません。そういう記憶があったので、後年こういう伝説が根付きやすかったのではないかと思います。
日本書紀にいすみの国造のドジな話がありますが、7世紀くらいにはヤマトの支配はこのあたりに及んでいたみたいです。面白い話がいっぱいあります。
灯台下暗しですかね。
- mistralさん からの返信 2021/01/21 13:03:31
- RE: 知りませんでした
- しにあの旅人さん
こんにちは。
コメントをお寄せいただき、ありがとうございました。
又、旅行記の中で勝手に、しにあの旅人さんの大津皇子についての旅行記のリンクを貼らせていただきました。
私のは単発ですが、しにあさんの旅行記はシリーズもので大変な力作ですから。
> こんなところまで大友皇子伝説があるとは。
> 十市皇女の筒森神社は行ったことがあります。ディープ房総というか、ド山の中です。伝説の筋書きはほぼ同じです。
大多喜町にあるという神社ですね。
十市皇女は、いち早くご実家に保護されたのではないかしら?と私は思いました。
一方、耳面刀自媛は鎌足さんの娘ということですので、出身地と言われる東方に向かって落ち延びてきた?という言い伝えは、なんとなくうなずけました (地元ひいき?)
> どういう経路でこの伝説が上総、下総に根付いたか、とても興味深いところです。前にも言いましたが、上総、下総といのは、古代は想像以上に開けていて、ヤマトとの行き来があった、からかもしれません。そういう記憶があったので、後年こういう伝説が根付きやすかったのではないかと思います。
今回初めて知ったのですが、古代の人々は私の想像を超えて、大陸や朝鮮半島とも行き来をしていたことが分かりました。それを考えたら、大和から房総半島までもたやすかったんですね。
> 日本書紀にいすみの国造のドジな話がありますが、7世紀くらいにはヤマトの支配はこのあたりに及んでいたみたいです。面白い話がいっぱいあります。
> 灯台下暗しですかね。
まさにそうでした。
それというのは、今まで閉じていた私の目が、開いたせいかもしれません。
明日香から一緒に連れ帰った精霊?怨霊?のせいかもしれませんし、
いえいえ、シニアの旅人さんご夫婦の影響が大きいかと思います。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/11 19:02:57
- Re: 知りませんでした
- 「飛鳥の姉弟6」最後の十市皇女のお話読んでいただけたようで。
高市皇子との恋物語は万葉集でも有名な話で、おそらく史実だと思います。
高市さんは、日本書紀によれば、相当過激な人物のようです。十市さんは同い年か、少し年上だったらしい。こういう年下の、怖いもの知らずの、しかし魅力的な不良青年に迫られた十市さんは、さぞ困っただろうと思います。
「ブルースカイブルー」そのままではなかったか。
「約束」という映画をご存知ですか。萩原健一扮する不良青年に迫られた岸恵子のお話、あんな感じかな。
書紀と万葉集を読んだ昔の人々が、十市皇女に感じた同情が、これらの伝説の源なんでしょうね。
- mistralさん からの返信 2021/02/11 22:36:55
- RE: Re: 知りませんでした
- しにあの旅人さん
こんばんは。
コメントを有難うございます。
> 「飛鳥の姉弟6」最後の十市皇女のお話読んでいただけたようで。
はい、投票だけさせていただき、失礼しておりました。
綿密に組み立てられた、数字から実証されていく旅行記
一度拝見しただけでは飲み込めず、ひとまず下がってきておりました(笑)
> 高市皇子との恋物語は万葉集でも有名な話で、おそらく史実だと思います。
> 高市さんは、日本書紀によれば、相当過激な人物のようです。十市さんは同い年か、少し年上だったらしい。こういう年下の、怖いもの知らずの、しかし魅力的な不良青年に迫られた十市さんは、さぞ困っただろうと思います。
そうなんですね。
私は十市皇女の心情を、むしろ想像してしまいます。
皇后であったかもしれない姉上に対して、夫を滅ぼした敵方の将でもあった弟から、
仮に想いを寄せられたとしても、ありがた迷惑な、と思うのではないかと想像します。
万葉集の種々の解説によると、高市皇子の十市さんへの挽歌に使われている言葉は
神事に関する表現などから、皇女に対する厳粛な哀悼の意が感じられるもの、という解釈もあり
私は年上の姉に対する弟としての想いの歌、ととりたいですね。
> 「ブルースカイブルー」そのままではなかったか。
> 「約束」という映画をご存知ですか。萩原健一扮する不良青年に迫られた岸恵子のお話、あんな感じかな。
「約束」は知りませんでした。
> 書紀と万葉集を読んだ昔の人々が、十市皇女に感じた同情が、これらの伝説の源なんでしょうね。
実家に引き取られた後、父である天武天皇のために祈りを捧げる役割を与えられた不運。
天皇の出御直前の十市さんの死(自殺?)は、予定されていた天皇の神事を中止されるまでに至り、
ここに至って、父は娘の深い悲しみを知る事となった、と思われました。
十市さんのことはあまり語られていないそうで、一層想像が膨らみますね。
mistral
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- mistralさん 2021/01/18 22:38:26
- 天皇陵って?
- ももであさん
早速のコメント、ありがとうございました。
権力 vs 旅、
4トラの方々は当然旅を取りますよね。
さすが大津市役所!
裏手には天皇陵ですか。
大友皇子、明治になって弘文天皇と追称されたんですよね。
それで陵墓と指定されたのは、適当な場所にあった古そうな古墳?
天皇陵って、そんなふうに決められる?
それとも、、、
などなど思いがぐるぐると渦巻きます。
もしかしたら、千葉県にあると言う古墳も弘文天皇陵として名乗りをあげても
良いのかも。
これは身びいきな考えかもしれませんが。
もともと、この辺りに登場する方々、
興味を持って、ちょっとその辺の本を読んでみますと
〇〇天皇は百済の亡命皇子だとか、〇〇媛はペルシャ系の方とか
どんどん深みにはまっていきそうです。
天皇殺害のテロリスト!
今の時代だったら大変なことです。
天武天皇のイメージがどんどん変わっていきます。
いえいえ、カモフラージュされた歴史をただ鵜呑みにしていただけ、
と言う事に今頃になって気付きました。
mistral
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- ももであさん 2021/01/18 15:32:35
- 権力 vs 旅
- 壬申の乱
「大海人皇子はろくな人間(672)じゃない」って覚えました。
12月に大津市役所へ行く用事があったので、ついでに
すぐ裏手の弘文天皇陵へもご挨拶に伺いました。
天智天皇亡き後、天皇不在では具合が悪いから、やはり
息子さんは弘文天皇として即位したのでしょうね。
となると大海人皇子は、天皇を殺害したテロリスト
「大海人皇子は、ろくな人間じゃない」がしっくり来ます。
それにしても人間はどうしてこうも権力を欲しがるのでしょう?
退屈な天皇のお仕事よりも、黄門様のように旅したい♪
猫ならそう思うのですが。
- mistralさん からの返信 2021/01/18 22:40:31
- Re: 権力 vs 旅
- ももであさん
返信のつもりが
独立したコメントとしてお送りしてしまいました。
mistral
- mistralさん からの返信 2021/01/18 23:10:14
- 再送信します。
- ももであさん
早速のコメント、ありがとうございました。
権力 vs 旅、
4トラの方々は当然旅を取りますよね。
さすが大津市役所!
裏手には天皇陵ですか。
大友皇子、明治になって弘文天皇と追称されたんですよね。
それで陵墓と指定されたのは、適当な場所にあった古そうな古墳?
天皇陵って、そんなふうに決められる?
それとも、、、
などなど思いがぐるぐると渦巻きます。
もしかしたら、千葉県にあると言う古墳も弘文天皇陵として名乗りをあげても
良いのかも。
これは身びいきな考えかもしれませんが。
もともと、この辺りに登場する方々、
興味を持って、ちょっとその辺の本を読んでみますと
〇〇天皇は百済の亡命皇子だとか、〇〇媛はペルシャ系の方とか
どんどん深みにはまっていきそうです。
天皇殺害のテロリスト!
今の時代だったら大変なことです。
天武天皇のイメージがどんどん変わっていきます。
いえいえ、カモフラージュされた歴史をただ鵜呑みにしていただけ、
と言う事に今頃になって気付きました。
mistral
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