2021/09/30 - 2021/09/30
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mistralさん
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伊勢原にあるという大友皇子のお墓の参拝をするまでには
このコロナ禍でふるさと探訪をしている時に出会った大友皇子の妃とされるお墓 (関連旅行記は↓)
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11671878/
さらには房総半島の内陸部を分け入ったところにある大友皇子をお祀りする神社(関連旅行記は↓)まで訪ね歩き旅行記にしてきました。
https://4travel.jp/travelogue/11681569
そもそも日本史不得手(まして古代史)のmistralがこんなことになるなんて。にわか勉強した、壬申の乱、挙げ句の果てには万葉集、そして今回は漢詩集の「懐風藻」
トラベラーの方々の中には、関連部門のご専門の方もおられるかと思いますので、ヒヤヒヤです。
そんな中、ネットで検索していて自分自身の想像していた部分とフィットするような記事、論文などに出会うと、やはりねえ~など想いつつの旅行記となってしまっています。
その点はご容赦くださいませ。
天智天皇の後継者とされた大友皇子が、当初は次期天皇と目されていた叔父の大海人皇子によって 滅ぼされたという事実、大海人皇子がやがて天武天皇となり、天皇の正妃だった持統天皇へと政権が移っていく中で、歴史に描かれていない(あるいは正史として残されているとしても、どれほどの信憑性があるのかは、今となってはわからない。)隙間の部分を想像しつつ、しばし皇子を通して古代史との出会いを楽しんだmistralでした。
(表紙写真は、大友皇子のものとされるお墓がある伊勢原市にある石雲寺山門)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
2021年9月30日
熱海の起雲閣を堪能したあと、一路伊勢原市を目指した。
当日は台風が接近しているとの予報で、
いつごろから大雨になるかわからない中、早めに目的地に
たどり着きたかった。 -
石雲寺までは
伊勢原市に近づいてから、カーナビに寺名を
入れたところ案内をしてくれた。
山中にある寺院なので小さなお寺を想像していたが
立派な山門が聳えていて驚いた。 -
寺伝によれば、養老2年(718年)諸国を行脚していた華厳妙瑞(けごんみょうずい)という法師が、日向の地にやって来たおり、山中の石の上で瞑想をしていると、渓谷に紫雲がたなびいていて、仏・菩薩の名号を唱えたところ、菩薩のお姿が現れたとのこと。里の人に尋ねると、壬申の乱(672年)で敗れた大友皇子が近江国から逃れ住み、この地で亡くなり、従者も殉死したという。
哀れに思った法師は精舎を建て、皇子の菩提を弔うこととしたそう。 -
車を降りたところに案内板があった。
以下はその文面です。
有形文化財 日向渕ノ上石造五層塔
旧所在地 日向字渕ノ上一八00番地のロ
塔高一四九センチ(相輪除く)
指 定 日 平成十七年四月二十六日
石雲寺境内に石造りの五層塔があります。かつては、石雲寺から東 四〇〇mほど下り、御所の入橋を渡った日向川の右岸にありました。 この石塔は壬申の乱 (六七二年)で敗れた大友皇子の墓との伝承があ り、通称「大友皇子の墓」と呼ばれていますが、石塔そのものは鎌倉時代末から南北朝時代の初め(十四世紀前半)に造られたものと考え られます。
五層塔は基礎・塔身・笠・相輪からなります。 基礎と塔身は方形で 側面に方形の区画を彫り出しています。 笠は初層から第四層までは同型で、上に行くほど少しずつ小さくなっています。 最上層は高さが他の層より高く、上端には露盤を作り出しています。この上には、本来相輪がのりますが、今は失われ、五輪塔の空風輪で補われています。 -
五層塔は五重の塔などと同様に、本来は釈迦の舎利を納める仏塔ですが、中世には墓石や供養塔として祀られました。 神奈川県下では、全体像が知られるものは六基を数えるのみで相輪以外が全て揃うという意味でも、この五層塔は大変貴重な作例といえます。
この石層塔は、伝承の大友皇子とは時代的に隔たりがあり直接的な関係を論じることはできませんが、当地域の中世にこうした貴重な層塔を建立できた有力な人物や集団の存在を示す証しとして重要な資料です。
また、石雲寺には伊勢宗瑞(北条早雲)の四男で北条氏の長老的存在 であった北条幻庵が天文十二(一五四三)年に私印である「静意」印 を押して発給した印判状が残されており、伊勢原市指定文化財に指定 されています。 -
車道との矢印があったので、
車は置いて、坂道を上がっていった。 -
鮮やかなピンク色のシュウメイギクが
そこかしこに咲いていた。 -
堂々とした本堂が見えてきた。
このような建築物が山中にあることにまず驚いた。
平成28年に約1年をかけて、築240年を超える本堂の耐震
改修工事を実施。開創1300年記念事業の一環だったそうだ。
本堂全体を2メートル30センチジャッキアップして地盤に
全面基礎を造り、その基礎に柱を固定、壁には筋交いを
×点に施し耐震性を強化したそうだ。 -
大きな魚の干物のようなものが
吊るされていた。 -
そばにあった説明板によると
「梆」(ほう)というようだ。
木魚の原型ともいわれ、
修行道場では、座禅や寝食の根本道場である「僧堂」の堂内に
吊るされ、食事の時間になると打ち鳴らされる、とのこと。 -
内部を覗いてみると掛けられていた扁額。
曹洞宗 雨降山 石雲寺
(そうとうしゅう うこうざん せきうんじ)が正式名称。
本尊は釈迦如来 -
移設された石塔は本堂の近く、日当たりの良い場所にあった。
以前は、通称「大友皇子の墓」と呼ばれていて、同寺から少し歩いた、
川を挟んだ向かいの地に建てられていた。
しかし2015年に台風の被害から周辺の木々が倒れたり
更には翌年には石塔の石が移動させられるなどのいたずらに会うなど
ご住職は離れた場所では管理がむずかしいと考えられ、
市にご相談され、
2017年に同寺の墓地に応急措置として石塔を移設されていた。
その後、檀信徒さん方のご寄付で石塔を新たに境内に設置するため、
境内を整備し、2020年5月に移設されたそう。 -
同様の内容が書かれた立て看板。
もともとの地にはレプリカの塔を設置したとある。 -
背後には卒塔婆がたてられていて
このお寺にあるという大友皇子のお位牌にある
戒名や命日などが書かれていたかもしれない。 -
石段を上がった所に置かれた
小さな石像たち。 -
-
石雲寺から車でもと来た道を
日向川に沿って戻ってみた。
日向渓谷沿いは伊勢原市の散策ルートともなっていて
つい一週間前ごろまでは、あちこちで彼岸花が満開だったようだ。 -
伊勢原市 観光協会ホームページより。
畦道を彩る彼岸花。
訪問当日には咲き終わりの跡形もなくなっていた。 -
来るときには見落としてしまっていた
立て看板を見つけた。 -
川を渡る。
-
橋には
「ごしょのいりはし」とプレートが。 -
まもなく右手にある道、
夏草の生い茂ったままの細い山道をしばらく登って行った。
一人では流石に心細くなりそうな道。
途中栗のイガがたくさん落ちていたので
誰か、この栗のことを知っている人が拾っていったのかも。
私も3個だけ見つけて持ち帰った。 -
石雲寺にあったものと同じような
案内板がここにもあった。
多くはないとしても時折訪ねる人がきっとあるのだろう。 -
やっと
(伝)大友皇子の陵と書かれた
碑のところまでやって来た。 -
何段か上がったところに皇子の稜があったようだ。
-
手前には石碑があり、苔むしかかって
文字が読みにくくなっているが、拡大してみると
なんとか解読できたので、そのまま載せます。
(伝)大友皇子
この塔は後の弘文天皇である大友皇子の
稜と伝えられる
皇国地誌日向村には「相伝往古兵乱ノ際
親王此地ニ行幸シ行宮ヲ建築シテ御座シマ
ス。終ニ行宮ニ崩ジ給フ、ヨッテ此地ニ埋
葬ヲ奉ル。」とある。 -
大友皇子は天智天皇を父とし、歳若くし
て太政大臣となるが、天智帝崩御の天智十
一年(西暦六七二年)後の皇位継承を巡っ
て叔父大海人皇子と争い敗れ自害したとい
う。これが壬申の乱である。
しかし当地の伝説によると百済の若者を
身代わりに自害したと偽り、僅かの従者を
率いて近江の国山崎を逃れ、この地に隠れ住
み淋しい生涯を閉じたとされている。当
所、墓所には遺言にしたがって皇子が生前
に愛された松が植えられたのみであったと
いう。
後に諸国行脚の僧、華厳法師が紫雲に導
かれるまま日向の地に分け入り、皇子を開
基として養老二年(西暦七一八年)一寺を
建立した。この寺が医王山雨降院石雲寺で
ある。その後、鎌倉時代に里人が五層の石
塔を皇子の墓として、その他の五輪塔を従
者の墓として建立したと伝えられる。
現在雨降山石雲寺の尊い寺領として
人の参詣が絶えない。
平成八年十月吉日
石雲寺二十八世 清水○○○
贈 (有) ○○○ -
現在ではレプリカが設置されている。
-
周囲には従者と思われる人々の五輪の塔が数基。
-
苔むした塔の様子。
-
ちょっと寄り道して「高麗王若光」について書きます。
その人物にまつわる地は、伊勢原市近くの大磯町。
668年高句麗が滅亡、その数年前高麗王若光と思われる?人物一行が来日している事が日本書紀に書かれている。
来日後に遠江(とおとみ)灘から伊豆の海を過ぎ、相模湾から大磯(おおいそ。現・神奈川県中郡大磯町)に上陸した。化粧(けわい)坂から花水(はなみず)橋に至る大磯村高麗(こま)の地に住居を営んだ。
高麗王若光「らしき」人物についての公式記録は、『日本書紀』内の、天智天皇5(666)年10月に、高句麗(BC37~668)国王が飛鳥に送った使者のひとりに「玄武若光」がいたこと。そして『続日本紀』(797年)の、大宝3(703)年4月に、朝廷から従五位下(じゅごいげ)の高麗若光に王(こしき)の姓(かばね)が与えられたということだけである。ここで言う姓「王」は外国の王族の血を引いた高位の者に与えられるものであったため、若光は高句麗王族の血縁者または高位の者であったことが窺い知れる。しかし「玄武若光」と「高麗若光」が同一人物であるか否かに絡んだ記述は存在しない。また、694(持統8)~710(和銅3)年まで日本の首都であった藤原宮(奈良県橿原市)跡東面大垣地区から出土した「□□(判読不能)若光」の文字がある木管が、高麗王若光と関連があると見られている。
若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として赴任していった。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともにその地の開拓に当たったそうだ。
移り住んで行った後も、大磯の人々は若光の徳を称え、高麗山(こまやま)の中峯に高来(たかく)神社上の宮を、そして麓には下の宮を建ててその霊を祀ったとされている。
壬申の乱が起こったのは672年なので、近江朝廷では若光の存在は知られていたと思われる。もしかしたら大友皇子一行が伊勢原にたどり着いたのは、若光を頼ってのことだったのかもとも思われるくらいに、時代が重なりあっている事に驚いた。 -
このようにして、大友皇子とご縁のありそうな近場の地を巡り
追いかけていたのですが、実際はどのような方だったのか。
天智天皇の第一皇子で悲劇の死を遂げられた、としか知らずにいました。
「しにあの旅人さん」が良く引用されている「懐風藻」をパラパラと
めくってみました。
wikiによれば、懐風藻は「現存する最古の日本漢詩集。選者不明の序文
によれば天平勝宝3年11月(751年)の序文を持つ。編者は大友皇子の
曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力である、又ほかに石上宅嗣、
藤原刷雄、等が擬されているが確証はない。」
「近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の誌をおさめる。」
「作者は、天皇をはじめ、大友・川島・大津などの皇子・親王・諸臣・
僧侶など。作風は中国大陸、ことに浮華な六朝詩の影響が大きいが、
初唐の影響も見え始めている。」
写真は、講談社学術文庫、江口孝夫氏による解説、全文訳注がある
「懐風藻」で、このような漢詩集は初体験のmistralにとっては
解説を読んでいくだけだが、それでも充分面白い。
結構辛口な解説が多いようだが、冒頭に登場する大友皇子、3番目の
大津皇子に対してはある種の配慮(若くして命を奪われることになった
方への)が感じられた。 -
編者とされる淡海三船の系図を載せました。
大友皇子の遺児、葛野王(かどののおう)の孫にあたる方。
葛野王は、壬申の乱時、大海人皇子の娘であり大友皇子の妃、そして
母である十市皇女と共に助け出され、以後、高位には付けなかった
かもしれないが天武の朝廷で働いた。
(因みにこの方は天智、天武両天皇の孫に当たる。)
持統天皇が万難を廃して実子の草壁皇子を立太子とし、次期天皇に
するべく期待していたが、その皇子が持統天皇3年(689年)病死される。
持統天皇にとって大きな誤算だった。
既にその折には、第一位の皇位継承権のあった大津皇子は謀反の
疑いをかけられて刑死。
持統天皇10年(696年)には皇族の筆頭であった太政大臣・高市皇子も薨去した。後、持統天皇が皇族・公卿・官人を宮中に召して皇太子の擁立について議論させた。しかし、群臣はそれぞれ自分に都合の良い意見を言い合い、議論は紛糾した。この時、葛野王は前に進み出て直系による皇位継承を主張した。
懐風藻 五 葛野王より
”わが国の決まりでは神代より今日まで、子孫が相続して皇位を継ぐことになっています。もし兄弟の順を追って相続されるなら擾乱はここから起こるでしょう。
仰ぎ見ましても天の心を論じ、だれが測ることができましょうか。ですから人間社会の秩序を考えますと、天皇の後継は自然定まっております。この方以外に後継になる方はなく、それに対してたれがとやかく申せましょう。”
-懐風藻 江口孝夫氏 解説による-
ただし、実際には古来から兄弟間での皇位継承の実例は多く、それについて天武天皇の皇子である弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝したため弓削皇子は何も言えなくなり、草壁皇子の遺児であった軽皇子(後の文武天皇)が皇太子に決まった。
持統天皇にとっては望ましい展開となった。
更に興味深い論文も見つけました。
「懐風藻」所載の「伝」とその虚構性
矢作 武
早稲田大学国文会 国文学研究 vol54, 1974 より
「大友皇子の長男である葛野王が、大友を倒した天武帝の后であった持統帝の目の前で、「若し兄弟相及ぼさば、即ち乱これより興る」などと言えるであろうか。この語は古代史上最大の乱、壬申の乱の原因を衝き、天武帝を鋭く非難しているのだ。時移り世変わり、持統帝はそんな昔のことは忘れたとでもいうのであろうか。そんなことはあるまい、それは忘れようとしても忘れられないはずだ。今その発言が持統帝に有利なものであったとしても、許される筈がない。伝の作者が懐風藻中、最も言いたかったのはこの一句かもしれない。」
との一文もあった。
実際には葛野王が、そのような思い切った発言をしなかったかもしれないが、伝の作者にとっては壬申の乱のきっかけともなった大海人皇子による開戦への行動がなかったのなら、壬申の乱は起こらず、近江朝が亡ぶことはなかったかもしれない、との無念さが込められているのかもしれない。 -
歌川広重の「近江八景」より有名な『勢多夕照』の浮世絵です。
瀬田の唐橋は、「唐橋を制するものは天下を制す」とまで言われるほど、京都へ通じる軍事・交通の要衝であり、戦乱の舞台になったのは幾度もあった。
壬申の乱でもここで最後の決戦が繰り広げられ、大友皇子は破れることとなった。
当時から、その戦が壬申の「乱」と呼ばれたのか、については興味深い記述があります。
古代抒情詩「万葉集」と令制下の歌人たち 第1章
壬申の「乱」と万葉集
金井清一 笠間書院
大海人皇子側は
「前代からの権力の継承の正当は、大海人側にあって現実の近江朝廷の大友皇子にはない、としたのである。 、、、
壬申の年、672年におきた戦乱を当代の人々が何と言っていたのかは不明である。
しかし、国家が、勝利した大海人皇子側の朝廷がこの戦乱を何と称していたかは日本書紀によって知ることができると思われる。 、、、(例示がある。)
壬申の年の戦いを「乱」と称している例は日本書紀には存在しないことが判明する。
壬申の乱の勝利に貢献した功臣の死に際して生前の功を賞する際、壬申年(之)功という表現で、「乱」の語は避けられている。
その中で、わずかに「壬申年之役」との言葉が幾つか見受けられる。
8世紀後半の初期に初めて「壬申兵乱」と表現された例が懐風藻に現れた。
その序文で、
近江大津京が戦火に焼かれ、その文化の象徴である漢詩文作品が灰塵に帰したことを嘆き
大友皇子伝の末尾では、「壬申の乱」によって皇子が天命を遂げ得なかった、と記されている。
「天命不遂」の原因が「壬申年之乱」にあるのであれば、その乱は反乱である、
など書かれている。」
これらは懐風藻撰者の考え方であり、ひいては壬申の乱に対する考え方そのものである。
乱の後、7,80年経過したこの頃には「役」から「乱」などの言葉を使われることもはばかられなくなったようだ。 -
さて、肝心の大友皇子が懐風藻ではどのように語られていたか。
最後になりますが記載致します。
懐風藻の第一番が大友皇子の伝から始まります。
一 淡海朝大友皇子
大友皇子は天智天皇の第一皇子である。逞しく立派な身体つきで、風格といい器量といい、ともに広く大きく、眼はあざやかに輝いて、振り返る目元は美しかった。唐からの使者、劉徳高は一目見て、並外れた偉い人物と見てこういった。
「この皇子の風采・骨柄をみると世間並みの人ではない。日本の国などに生きる人ではない」と。
皇子はある夜、夢をみた。天の中心ががらりと抜けて穴があき、朱い衣を着た老人が太陽を捧げもって、皇子に奉った。するとふとだれかが脇の下の方に現れて、すぐに太陽を横取りして行ってしまった。驚いて目をさまし、怪しさのあまりに内大臣の藤原鎌足公に事こまかに、この旨をお話になった。内大臣は嘆きながら、
「恐らく天智天皇崩御ののちに、悪賢い者が皇位の隙をねらうでしょう。、、、、
わたしはこう聞いております。天の道は人に対して公平であり、善を行う者だけを助けるのです。どうか大王さま、徳を積まれますようお努めください。、、、、
皇子がようやく二十歳になられたとき、太政大臣の要職を拝命し、もろもろの政治を取りはかられた。皇子は博学で、各種の方面に通じ、文芸武芸の才能に恵まれていた。はじめて政治を自分で執り行うようになったとき、多くの臣下たちは恐れ服し、慎み畏まらない者はいなかった。
年二十三のときに皇太子になられた。、、、、、
皇子は生まれつき悟りが早く、元来ひろく古事に興味を持たれていた。筆を執れば文章となり、ことばを出すとすぐれた論となった。当時の議論の相手となった者は皇子の博学に感嘆していた。学問をはじめられてからまだ日が浅いのに、詩文の才能は日に日に新たにみがかれていった。
壬申の乱にあい、天から与えられた運命を全うすることができないで、二十五歳の年齢でこの世を去られた。
伝にはこのように記載されているようだ。
そのあと、皇子の漢詩
1 宴に侍す
2 懐ひを述ぶ
が2首載せられている。
(画像は大津市にある法傳寺所蔵の皇子のもの) -
日向薬師のバス停そば、左側にある
日向神社(白髭神社)は
先の高麗王若光が祀られている神社であり、
左手に進んでいくと皇子の陵のある石雲寺はすぐ近くの距離。 -
バス停そばの道から奥にある日向薬師へと
雨が降り出すまでの一時、急いだ。
(石雲寺に向かう途中、右手に曲がっていくとその薬師への道だった
ようだ。) -
横手にある駐車場に車を止めて、
-
文化財などの載ったパネルを見ながら
-
本堂までやって来た。
716年行基菩薩により創建と伝わり、霊山寺と呼ばれていたが
後に宝城坊と呼ばれるようになった。
今では日向薬師と呼ばれ親しまれている。
本尊は行基菩薩が42歳の時に掘り、安置された薬師如来。
隣の宝物殿も開けていただき拝顔したが見応えのある仏像が多く
納められていた。
この頃にはとうとう雨が降り出して来てしまい、大急ぎで車まで
走った。こうして一泊での熱海旅は終わったのです。
一泊の旅だったが熱海から伊勢原経由で、大雨になる前に帰宅した。
大友皇子のお墓にもお詣りできたことで、気がかりだったことも
無事済ますことができて一安心。
皇子終焉の地は各地にあるようだが、どこでも地元の方々によって
大切に守られていることが良くわかったことだった。
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旅行記グループ
壬申の乱を巡る旅
この旅行記へのコメント (4)
-
- マリアンヌさん 2021/11/17 11:43:43
- 歴史ロマン
- mistralさん こんにちは。
とても興味深い旅行記、楽しく読ませていただきました。
いつもながらmistralさんの探求心に感心しています。
前回の旅行記も含め、大友皇子が関東に逃げてきていたこと自体驚きでしたが、伊勢原に墓と思しき五層塔が存在するなんて驚きです。
高校時代、万葉集の天智・天武・額田王・大津皇子などの悲劇の皇子あたりの歌&歴史が好きでした。当時はインターネットも無いし知識は全然なかったんですけど。
石雲寺の「梆」というんですか、を見て宇治の萬福寺を思い出しました。
そして石塔というと鎌倉で見られ、悲劇の皇子といわれる後醍醐天皇の皇子、護良親王の墓(といっても建武の新政後ですから)ぐらいしかイメージがありませんでした。
ずっと古い時代に関東(武蔵)に落ち延びて来たなんて思いもよりませんでした。
優秀で若い後継者の謀殺は、歴史の必定的で古今東西、歴史ロマンですね♪
また、高麗王若光のお話も興味深かったです。実家の近く飯能市に高麗王若光を主祭神として祀る社、高麗神社があます。子供の頃から出世の神様と聞かされてきました。
天皇陛下他皇室の方々も参拝されている神社です。
余談ですが、先日ブラタモリで、現在の埼玉県和光市・朝霞市・志木市・新座市の四
市は、おおよそ1300年近く前には武蔵国の新羅郡だったことを知り、ググってみますと
続・日本書紀には、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7国の高麗人1799人を以て、武蔵国に遷して始めて高麗郡を置くとあること。
高麗郡は、武蔵国の入間郡の一角を割いて、今の日高市・飯能市・鶴ヶ島市あたりに建郡され、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野とほぼ関東一帯の高句麗の渡来人が武蔵国の高麗郡に集まってきたそう。
私の身近な地域に帰化人が多く住んでいたとは、意外でした。
歴史好きなので(mistralさんと違い読むだけですが)とても楽しかったです。
マリアンヌ
- mistralさん からの返信 2021/11/18 08:50:12
- Re: 歴史ロマン
- マリアンヌさん
おはようございます。
とかく、人間関係が入り組んでいてわかりにくいと敬遠される(私がそうでした)古代史
私よりもずっと早くから関心を持っておられたマリアンヌさんにお読みいただき
ありがとうございました。
今回、私が興味を抱いたのは、やはり高麗王若光さんでした。
恐らく都から関東に向かい、まず大磯に上陸したとのことで
大磯町にもお祀りする神社があるそうです。
当日台風の心配がなければ行ってみたかったのですが
段々空模様も怪しくなってきて、大磯は飛ばしてしまいました。
その後、関東近辺に住む高句麗の人々を率いて武蔵国に移っていったとのこと
その地がマリアンヌさんのご実家近くだったとは!
不思議な感じがしました。
以前から若光さんのことはご存知だったんですね。
そうなんですよね、皇室の方々も参詣されています。
古には何らかのつながりがあったんでしょう。
皇子の石塔は鎌倉から南北朝あたりのもの、とされていますので
ちょうど護良親王の時代と被りますね。
それまでは伝承だけが残り、簡素な碑ぐらいしかなかったのでしょう。
古代史、命を落とすことになった若き皇子たち
ついつい判官贔屓となってしまいます。
朝晩冷え込むようになってきました。
お気をつけてお越しくださいね。
mistral
-
- しにあの旅人さん 2021/11/12 20:31:33
- 古代の知識人
- 伊勢原の大友皇子のお墓については、mistralさんがご指摘なさるまで全く知りませんでした。
懐風藻は私の持っている文庫本と同じです。ずっとお世話になっています。
大友皇子が懐風藻の冒頭に来るのは、淡海三船と大友皇子との関係からいって、当然。やはり懐風藻は三船の編という根拠の一つでしょうね。
日本書紀は大友皇子の最期は淡々と記述するだけですが、懐風藻がこのように情熱を込めて書き上げるのは、やはり大友皇子への深い思い入れがあるからですね。
最近淡海三船に別な所で注目しています。三船は「鑑真和上東征伝」というのを書いています。この本がなければ鑑真来日の詳細が現代まで伝わらなかった。奈良時代きっての知識人でした。入唐の経験はないらしいですが、鑑真と直接話せるくらい中国語はできたみたい。
三船や大友皇子、古代の知識人のお話、とても興味深く読みました。
大友皇子は、大津皇子と同じで、本当は学問、詩賦に専念したかったのかもしれません。なまじ不得手な政治に首を突っ込んで、不幸な生涯を送ったのかもしれません。
- mistralさん からの返信 2021/11/12 23:28:14
- Re: 古代の知識人
- しにあの旅人さん
こんばんは。
いつもコメントをありがとうございます。
しにあさんの旅行記へのコメントは改めまして、そちらへ。
しにあさんが時空を縦に遡る旅をされておらず、私がその旅行記に出会ってなかったら、私が古代史に興味を抱くことも無かったように思います。
また、同時期、実家の比較的近くに、大友皇子の妃にまつわるお墓のことも素通りしてしまっていたでしょう。
コロナ禍の折、ロマネスク美術探訪の旅もできなくなってしまったこともあり、ちょうど良い折でもありました。
天智天皇が亡くなる折に大海人皇子を呼び寄せたのは、
息子に力を貸してもらい補佐を頼みたかった、とか
娘を4人嫁がせたのは、生まれてきた皇子が将来天皇になった折には補佐をしてもらうことを望んだ故とか、
色々な事が書かれていましたが
鸕野讚良皇女が正妃となったために、天武さんの人生もある意味変わっていったのでしょう。
他の妃が正妃だったのなら、また時のうねりはどうなったのか、歴史のもしも、、、を想像するのは楽しいことです。
しにあさんのフィールドワークとは真逆をいってますね。
どだい百戦錬磨(かどうかもよくわからない大海人皇子)の叔父に対抗するには、大友皇子は世間を知らなすぎ、
開戦準備を始めた叔父に対しても、当初は気を許していたのかもしれません。
若くして亡くなった大友皇子のお墓はあちこちにあるようですね。近江近辺も歩いてみたいなあ、など想っています。
mistral
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