2021/07/06 - 2021/07/07
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しにあの旅人さん
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更新記録:2021/07/09:エイト結果(文末)
戸佐々神社。不破関西城門(にしきもん)あと。
天武元年(672年)6月25日、天武天皇の命を受けた村国男依(むらくにの・おより)は、美濃兵3000を率い東城門より不破関に侵入し、関を占領しました。ただちに西城門を押さえ、短甲、兜、半弓で武装した美濃兵が、20メートルの急な崖の下、東山道の藤古川渡河点を閉鎖したのであります。
日本書紀28巻天武天皇紀上、壬申紀。天武天皇の周囲には舎人クラスの若い男たちが
いっぱいおりました。
天武チルドレンと名付けます。
その一人、村国男依の物語です。
六国史および参考書については、「六国史の旅 天武チルドレン1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
7月7日、不破関資料館に着いたときは開館前。土砂降りの雨で車の外に出られません。フロントガラス越しの雨の資料館です。
関ヶ原といえば1600年の関ヶ原の戦いが有名ですが、壬申の乱でもここが戦略上重要な位置を占めました。男依が不破の関を制圧し、近江朝廷と東国との連絡を遮断した段階で、大海人皇子は大友皇子に対し圧倒的に優位に立ちました。
不破関資料館には、この戦いの重要な資料が展示されています。ネットでは見たことがない資料も多く、壬申の乱に興味のある方は必見です。
〒503-1541 岐阜県不破郡関ヶ原町大字松尾21-1
以下資料の出典は、別記なければ不破関資料館です。
私どもは、というよりBy夫は、旅に出るというと目的地に朝に着くように予定を組みます。
目的地に着いて、子供たちの登校をママたちと、「行ってらっしゃーい!」して、さて始めますか。というのがいつものパターン。
ということで今回も早くに着きました。
不破の関の資料館はまだ開いていません。
あとで思うに、こういう施設は地元の小学校とかの見学が主で、外部からの見学者は少ないかと思うのです。
すると、今日みたいな悪天候なら、今日は閉館!ってこともあったかもしれませんね。
雨です。ものすごい雨で、外に出て、その辺をぶらぶらするには不向きです。土砂降りです。
道が川となっております。
その辺りの散策には不向きですが、「やむを得ない、遊びに来たんじゃない!」と、妙にキッパリBy夫が申します。
そうなんですか?遊びに来たんじゃないんですか?わたしはてっきり遊びに来たのだと。
朝3時出発だったしするので、開館まで車の中で寝てましょうよ。
心の中で毒づきながら、車から出ます。シャワーに入るみたい。
By夫、こういうとき張り切るタイプで、
「行くぞ!」だって、
へいへい。
By妻
日本書紀天武元年(672年)6月22日、天武天皇は、村国男依、和珥部君手(わにべの・きみて)、身毛君広(むげつの・きみひろ)に命令、
★「お前たち3人は、速やかに美濃国に行き、安八磨郡(あはちまの・こおり)の湯沐令(ゆのうながし、大海人皇子の私領の役人)の多臣品治(おおの・おみ・ほんじ)に機密をうちあけ、まずその地の兵を集めよ。なお国司らに触れて軍勢を発し、速やかに不破道(ふわの・みち)をふさげ」★
大海人皇子(天武天皇)の吉野脱出の直前です。
6月26日朝、朝明郡(あさけの・こおり)の迹太川(とおかわ)のほとりで、天武天皇が天照大神を遙拝したとき、
★(前略)男依が駅馬に乗ってかけつけ、「美濃の軍勢三千人を集め、不破の道をふさぐことができました」と報告した。★
不破関西城門と天武天皇迹太川遙拝所は現代の徒歩コースで49.1kmあります。駅馬を乗り継いだとしても片道3時間です。不破関閉塞部隊の司令官男依が、この大事なときに最短でも6時間も現場を離れるはずがないので、男依の伝令が報告したということでしょう。
このあとに、
★天皇は男依の手柄をほめて、郡家につくとまず高市皇子を不破に遣わし、軍事の監督をすることを決められた。★
とあるので、男依の功績を際立たせるための書紀の作者の演出です。
高市皇子が近江戦線の総司令官として不破に陣取り、男依は部隊を率いて近江に向かって進軍する体制ができました。 -
不破関復元模型です。ただしこれは壬申の乱後、重要性が認識され整備された不破関です。男依が占拠した不破関は、このように立派なものではありませんでした。
-
このようなものだった。3000の美濃兵はどこに寝たんだろうと、心配になります。柵の辺りに現在の不破関資料館があります。
-
不破関資料館パンフより。赤文字は私が追記。
西城門から藤古川に下る坂道は大木戸坂と現代でもいわれ、かなりの急坂です。この日は大雨でしたので、滝のようでした。 -
大木戸坂に面する石碑です。
-
小路を入ると戸佐々神社。西城門のあとです。
-
土塁のあとらしきものがありました。
川を下り滝を登り戸佐々神社を目指します。
って、ただ道が坂で下ったってだけですが。
戸佐々神社は、どんな大きな神社かと思っておりましたら、川縁の、じゃない。もうやめましょうね。道の脇の藪の切れ目の奥に、小さなお社がありました。
砂が敷きつめられ清らかにしつらえてありました。
想像以上に小さなお社で、農家などによくある屋敷神様くらいでした。
けれど、いかに小さくとも周囲を濃い緑の木々が取り囲み、それはそれは荘厳なものでした。
お参りするために、細道を入り境内?に入ると、水に浸った砂は、歩く足跡に水溜まりを作ります。
入りきってしまうと、大きな木々に護られて、雨は吹き付けては来ませんでした。
文字通り洗い立ての神社で、空気も俗世の汚れを落として清らかでした。
By妻 -
ここを押さえた美濃兵もこのようないでたちだったでしょう。髭面が怖そう。
-
By妻。握手だそうです。狛犬にお手をさせたり、この人の得意技です。ほめてやってください。
-
藤古川にかかる橋。
藤古川を挟んで大海人皇子軍と大友皇子軍が対峙し、激戦が繰り広げられたとありますが、書紀にはその記述はありません。
壬申の乱の激戦地だったところです、と看板に書いてあります。
普通の小ぶりの川でした。
けれど、川の周囲を、あっち行ったり、こっち来たりしていると、この川の狭さが、妙にリアルに、ここで繰り広げられた死闘を浮かび上がらせてきました。
オリンピックの柔道とかレスリングとかの選手みたいな男どもが、刀を振りかざして走り寄ってきたら。川辺には、アーチェリーの選手みたいな男達が列を作り、なんて想像すると、ビュウビッシッと、今にも矢が飛んできそうです。
そんな想像をめぐらすのも、思いがけないくらいの、川の小ささ、そして悪天候のせいだったかもしれません。
書紀には書いてないそうですが、いいんじゃないの。パパはいつだって子供にとってヒーローなのよ。
By妻
近江の大友皇子の反応は鈍く、大海人皇子の吉野脱出の情報を得たのは6月25日午前中らしく、25日は朝廷は大混乱。不破関は25日に男依に押さえられたことを知りません。
6月日付不明、たぶん26日、
★葦那公磐鍬(いなのきみ・いわすき)・書直薬(ふみの・あたい・くすり)・忍坂直大麻侶(おしさかの・あたい・おおまろ)を東国に遣わした。★
東国諸豪族の出兵を命じるためです。
6月日付不明、
★東国への急使磐鍬らが不破に入ろうとするとき、磐鍬は山中に伏兵があるかもしれないと疑って、おくれて入った。ときに伏兵が山から現れ、薬らの背後を絶った。磐鍬はこれを見、薬らが捕らえられることを知り、引き返し。かろうじてつかまるのを免れた。★
この一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地で、路は東山道1本。藤古川を渡ったあと背後を絶たれたら、逃げ道はありません。
書紀によれば、不破関での両軍の接触はこれだけです。 -
秋7月2日、
★(天武天皇は)村国連男依・書首根摩呂(ふみの・おびと・ねまろ)・和珥部臣君手(わにべの・おみ・きみて)・胆香瓦臣安倍(いかごの・おみ・あべ)を遣わし、数万の兵を率い不破から出てまっすぐに近江に入らせた。★
男依と君手は先発3人組、根摩呂は吉野イレヴンの1人、安倍は高市セブン、いずれも天武チルドレンです。
詳しくは「天武チルドレン1 文祢麻呂(ふみの・ねまろ)」をご覧下さい。
このあと近江戦線ではすべて「男依ら」となっています。男依が軍団の総指揮官でありました。
秋7月2日続き、
★近江方では山部王(やまべの・おおきみ)・蘇我臣果安(そがの・おみ・はたやす)・巨勢臣比等(こせの・おみ・ひと)に命じて数万の兵を率い、不破を襲おうとして、犬上川のほとりに軍を集めた。★
近江軍も数万の大軍だったのです。
犬上川は彦根城の南にある川で、後述の野洲川の戦場から北東約28kmです。近江軍は当初ここから男依軍を迎撃する予定でした。しかし、
★山部王は蘇我臣果安(そがの・おみ・はたやす)・巨勢臣比等のために殺され、混乱のために軍は進まなかった。蘇我臣果安は犬上から引き返し、頸を刺して自殺した。★
将軍の間で仲間割れがあり、統制が失われておりました。近江軍は結局野洲川まで後退しました。
7月2日以降7日までの間、
★近江軍の将軍羽田公矢国(はたの・きみ・やくに)はその子の大人(うし)らと、一族を率いて下ってきた。それで印綬を与えて将軍に任じ、北のかた越の地方に入らせた。★
沈む船からネズミが逃げ出す現象がはじまりました。
7月2日以前と思われる、
★これよりさき、近江方は精兵を放って、玉倉部村(滋賀県醒ヶ井)を急襲したが、これに対し出雲臣狛(いずもの・おみ・こま)を遣わして撃退させた。★
このあと羽田公矢国と出雲臣狛は琵琶湖北戦線を進撃したようです。羽田公矢国は投降したとは言え信用できないので、出雲臣狛が監視役か。 -
古代兜。
-
鳥の羽を飾ったなかなかダンディーなものです。
大阪府立近つ博物館で、同様の兜に一面に鳥の羽を貼った豪華なものが展示されていました。
4人の将軍の兜はこのような立派なものだったでしょう。 -
By妻が握手した美濃兵の兜はジンギスカン鍋みたいです。
7月7日、
★男依らは近江軍と息長(おきなが)の横河(米原町の辺りか-訳注)に戦って勝った。その将境部連薬(さかいべの・むらじ・くすり)を斬った。★
「日本古代の道と駅」によれば、近江では近代の中山道は古代東山道とほぼ同じ道筋だそうです。東山道の駅は戦術上の要衝ですから、争奪の対象になります。
横河が地名であるとすると、不破関を出て、近江の平野に出る地峡の中間辺りに、東山道の駅・横川(よかは)がありました。後年ですが、馬15疋を常備する中くらいの駅でした。場所は特定されておりません。
米原市東町梓河内の小字馬屋谷を関係地名とする研究があるそうです。 -
梓河内という交差点があり、
-
バス停もあります。この辺りが梓河内。
-
横川が川の名だと、横川駅の近くに梓川が流れています。
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旧中山道つまり東山道と梓川の交点です。写真奥が不破方面、橋から約200mで梓河内のバス停、おそらく横川駅。男依の軍はこの道を押し寄せたことになります。
-
鞍掛山とふもとの芹川(または大堀川)
鞍掛山または正法寺山の古名は鳥籠山(とこやま)です。
東山道鳥籠(とこ)駅はこの付近にあったそうです。不破の地峡を出て近江平野の東山道を南下すればこの駅にいたります。男依軍の進路です。
7月9日、
★男依らはさらに、近江の将秦友足(はた・ともたり)を鳥籠山(とこのやま)に斬った。★ -
鳥籠山、ガードレールの向こうが芹川。
-
旧中山道(東山道)不破方面。
-
瀬田方面。
地形からいって、会戦が行われるほど開けておりません。「さらに」とあるので横川の戦いの続き。横川から敗走する近江軍が、川を渡れなくて手こずる間に、男依軍が追いついたのではないか。敗将友足哀れです。 -
野洲川と旧中山道(現県道504)の交点。
7月13日、
★男依らは安河の辺の戦いで大勝した。社戸臣大口(こそへの・おみ・おおくち)・土師連千島(はじの・むらじ・ちしま)を捕虜とした。★
安河は現在の野洲川です。男依が東山道を進んだのは間違いなく、はじめてピンポイントで戦場が特定できました。 -
南にはJR琵琶湖線が走ります。
-
当時は、堤防はありません。
-
茫漠と川原が広がっていたはずで、大軍同士の決戦にふさわしい地形です。
前述のように当初数万の大軍だった近江軍は将軍たちの仲間割れで統制を失い、守勢にたちました。防衛線を犬上川から野洲川のラインに後退させました。
男依は天武から与えられた数万の全軍をこの会戦に投入しました。一方近江軍は、このあとの瀬田の戦いで、大軍を唐橋西岸に温存していました。不破に向かわせた2部隊、安川で待ち受けた部隊、唐橋西岸の本隊と、少なくとも4分していたことになります。兵力の分散、逐次投入という、戦場でやってはいけないことの見本です。男依は分散された近江軍に全力で戦いを挑み、各個撃破したことになります。名将というべきでしょう。
おそらく近江軍は壊滅、主将が捕虜になるほどの敗北でした。 -
古代栗太(くりた)郡郡衙(ぐんが)跡、岡遺跡。
奈良時代から平安時代にかけての郡衙跡です。南北300m東西200m以上だったそうです。飛鳥時代ではより小規模でしょうが、似たような郡の役所があったはずです。
郡衙があったので、周囲は開けていた。水には困らない地形ですから、現在と同じ田んぼでしょうね。 -
復元イラスト。
-
栗太平野を一望できる丘陵上に位置していました。古くより近江國栗太郡の中心でありました。
7月17日、
★栗本(くるもと、滋賀県栗太郡)の軍を追撃した。★
「追撃した」とあるので、野洲川の戦場からかろうじて脱出した近江軍の一部をここで捕捉したということです。
瀬田川東岸の近江軍は全滅したことになります。 -
開けた地形です。追いつかれた近江の敗残兵は逃げようがなかったでしょう。
-
瀬田の唐橋。東岸、下流より。橋の向こうが琵琶湖です。
-
7月22日、
★男依らは瀬田についた。大友皇子と群臣らは瀬田橋の西に大きな陣営を構えていた。その後方が何処まであるか分からない程であった。★
壬申の乱最後の決戦です。 -
出展:万葉文化会館展示。
唐橋の戦い。右が男依の軍です。
ここでは大分君稚臣(おおいたの・きみ・わかみ)の活躍により、男依軍が勝利しました。このお話は、天武チルドレンの一人として大分君稚臣を取り上げる予定ですので、そのときに詳しく。
唐橋を突破されたことにより近江軍は総崩れとなり、
7月22日続き、
★大友皇子、左右の大臣たちは、その身だけ辛うじて逃れた。男依らは粟津岡のふもとに、軍を集結した。この日、羽田公矢国・出雲臣狛は連合して三尾城(みおき)を攻めて落とした。★
三尾城は現在の滋賀県高島郡、大友皇子の本拠地近江京の北です。琵琶湖北戦線を回ってきた別働隊も到着したのです。大友皇子は北への逃げ口を塞がれました。羽田公矢国は前述のようにかつての近江方の将軍でした。
7月23日、
★男依らは近江軍の将、犬養連五十君(いぬかいの・むらじ・いきみ)と谷直塩手(たにの・あたい・しおて)を粟津市(あわづのいち)で斬った。こうして大友皇子は逃げ入る所もなくなった。そこで引き返して山前(やまさき)に身をかくし、自ら首をくくって死んだ。左右の大臣や群臣は皆散り逃げた。ただ物部連麻呂(もののべの・むらじ・まろ)と一、二の舎人だけが皇子に従っていた。★
粟津岡や山崎も探して行くべきと思うのですが、これはあまりに哀しい物語で、私は好きではありません。
男依の近江での旅は、ここで終わりにいたします。
この時大友皇子は死なずに、私たちの地元、東国上総に落ち延びたという伝説が残っております。
Mistralさんがすばらしい旅行記を2遍書いておられます。
是非じっくりとご覧になってください。
「壬申の乱で敗れた皇子は、房総の地まで落ち延びてきたのか?」
https://4travel.jp/travelogue/11681569
「椿海、周辺探訪記 その2.: 壬申の乱の後、皇子の妃は何処へ?」
https://4travel.jp/travelogue/11671878 -
唐橋東岸の下流橋のたもとに、こんな案内板がありました。拡大すると、
-
男依が渡った唐橋は今の唐橋とは位置が違っていたんだ!
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唐橋から下流80mというと大体この位置。壬申の乱の時の唐橋はこのように瀬田川にかかっていたことになります。
-
この位置には、勢多橋龍宮秀社という神社があります。
-
この神社の鳥居のあたりが古代の唐橋の東詰ではなかったかと思います。
-
唐橋中央から。
写真中央の木立の中です。 -
西詰めはどこだったのだろう。
-
黄色いビルの左端あたりのはずだが、などとぼーっとしておりました。
すると、いきなりスピーカーの大音声、しかも英語。 -
やってきたのはボート、エイトというやつかな。
By妻が手を振って、大声で「ファ~~~イト!!!」
「手をふってくれないかな~」
ふれるわけないでしょ。でも左から3番目のこぎ手のおにいさん、こっち見てる。 -
スピーカーはこのボートらしい。コーチの伴走船。
この日は7月12日、そうだ、オリンピックの事前合宿にちがいない。
男子エイトがくるなら、ひょっとして女子も。 -
ひょっとしちゃいました!
-
しばらくしたら、ぐるっと回って帰ってきた。
みなさん逞しい腕の筋肉でした。きっとみんな美人にちがいない。
あとで調べたら、ニュージーランドのチームでした。
サテ、壬申の乱とボートと、どうやってこじつけようかな。やっぱり無理なので、このままお終い。
この日は、ただただ蒸し暑い日でした。
広々と暑いです。
壬申の乱の古戦場めぐり。
ここ瀬田の唐橋は、戦いが決した場所です。
こここそが、飛鳥時代の天下分け目の天王山。川なのに。
なのに、なぜか壬申の乱についてはあまり説明がなく、俵藤太秀郷のムカデ退治が、全面に出ておりました。観光のスターです。藤太は群馬の人ですよ。
オオムカデって、なんですか?へびではないのね。
この話は、スサノオの八岐大蛇退治と、オオクニヌシの地の國巡りの話のバリエーションですね。
暑くてイライラ、つい決めつけてしまった。それにしてもなぜ、関東侍が、瀬田でスターなんでしょうか?
川縁には、藤太を祀る神社もございました。
というのを、By夫は全て無視。ただただ、壬申の乱当時の橋の場所を求めて歩き回ります。
へいへい。ついてめーりやすよ。ここで置いてかれちゃ、困ります。
暑い!蒸します!川に飛び込んで涼みたい。
と、突然静寂を破る、拡声器の声。
でも、ブアンブアンこもって、何言ってるか分かりません。
と、川面をすーっとボートが過ぎて行くではありませんか。
お、おおー、さすが琵琶湖。琵琶湖周航の歌!
にしては、漕いでる人が逞しい。
このクソ暑いのに、がんばってます。
思わず手を振っちゃいました!
振り返してよ~と言ったら、By夫が、バカだな、漕げないだろ。だって。
後で、調べたら、ニュージーランドの選手達だったらしい。
アメリカだったら、手振ってくれたのにぃ。
結果どうだったかしら?
大友皇子は、ここで敗れて、最期の場を求めて逃れて行くわけです。
弱冠24才でした。
今日の瀬田川は大きくゆったりと流れ、健康な希望に満ちた異国の青年達の舟が日の光にきらめいておりました
By妻
オリンピックのボートエイト結果。
ニュージーランド男子 金
同女子 銀
やったね、おめでとう!
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この旅行記へのコメント (8)
-
- 前日光さん 2021/08/18 00:02:32
- 古代の激戦地に響くクルーの声(^-^)
- こんばんは、しにあさん&by妻さん
豪雨の中の「不破関資料館」訪問、お疲れ様でした<(_ _)>
こういう悪条件だと、さらに燃えるらしいしにあさん!
「やむを得ない、遊びに来たんじゃない!」は、あんまりですよ。
いつもの猪突猛進(^^;)! by妻さん、大変ですね。
でも、そういうところがby夫さんのユニークかつおもしろい一面ですよね!
どうやったら、そんなエネルギーが出てくるんでしょうね(*_*)
「野洲川と旧中山道(現県道504)の交点。
はじめてピンポイントで戦場が特定できました。」
↑
恐るべき探究心&好奇心!
でも古代の戦場跡を特定し、そこに自分が立っている!と言う事実には興奮しますよね!(^^)! しかも7世紀の話ですし。
不破関西城門跡を示す「戸佐々神社」、村国男依は資料館の美濃兵のような出で立ちで、この場所に立ったのでしょうか?
by妻さん、男依と握手している気分ですね?
1300年余の時を経て、男依も感激したことでしょう!
壬申の乱の激戦地瀬田の唐橋。
今ではオリンピック選手のボートクルーが練習に励んでいる。
しかもニュージーランド人のグループとは!
しかも金メダル獲得とは!
これは近江側と大海人側との両方の力を味方にしたのかも?
このボート練習は、私も数年前ここで日本の大学生が練習に励んでいるのを目撃しました!
夫婦で写真を撮っていたのですが、相棒殿はシャッターを押すのに夢中で持っていた財布をくさはらに置き、そのまま途中のお土産店に行くまで気づかなかったのでした。
慌てて元いた辺りに戻ってみると、なんと近江の人々は財布をそのまま残しておいてくれたのです。
思わず「ゆく春を 近江の人と 惜しみける」なんていう風流な句を思い出してしまいました。
以来、琵琶湖周航の歌と共に、近江に対する良きイメージが形成されたのは言うまでもありません。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/08/18 09:40:38
- Re: 古代の激戦地に響くクルーの声(^-^)
- 「遊びに来たんじゃない」が反響をよんでおります。余裕があることいを遊びがあるといいますが、いつも遊びなく遊ぶので、こういうことになります。
By妻は、観光旅行兼フィールドワークだということで、納得してもらっています。なんのことか、自分でもよくわかりません。
最近は博物館、資料館は必ず行くようにしています。飛鳥奈良の博物館は当然、今回の不破関資料館のように、ほぼ100%期待を裏切りません。
歴史の古跡巡りは一種のタイムトリップです。そこに古代人が立っていた、となると、ワクワクします。時間を透視できるものなら、そこに男依が立っているわけですから。残念ながら透視できないので、あとは想像力。
でも透視できるとなると、触れないまでも、向こうからもこっちが見えるわけで、おせんべい食べながら大来皇女と目が合う、などというのは避けたい。
前日光さんも、たとえば草壁皇子と会うなら、服装を整えて、お化粧をして、と面倒くさくなりますよ。
瀬田の唐橋にいらしたことがあるそうで、財布を忘れた話など前日光さんのブログがないかと探しちゃいました。滋賀では「坂本でお蕎麦」がありました。これから読みます。
「五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋」という芭蕉の句碑が橋の東岸琵琶湖寄りにありました。
「行く春を・・・」はどこかに句碑があったような。
瀬田のボートはよかった。あれで1300年前と現代がつながって、一気に話がおもしろくなりました。
こういう偶然がふわっと重なるのが、旅行の醍醐味です。遊びに来たんだと思う、数少ない一瞬です。
- 前日光さん からの返信 2021/08/18 23:15:40
- RE: Re: 古代の激戦地に響くクルーの声(^-^)
- しにあさん、こんばんは。
私の瀬田の唐橋旅行記をお知らせしますね!
> 瀬田の唐橋にいらしたことがあるそうで、財布を忘れた話など前日光さんのブログがないかと探しちゃいました。滋賀では「坂本でお蕎麦」がありました。これから読みます。
→ちょっとわかりにくい所に、そのエピソードは書かれていました。
これです(^_^)v
↓
https://4travel.jp/travelogue/10908843
→写真は例によって下手ですが、よろしかったらご覧になってみてください。
> 瀬田のボートはよかった。あれで1300年前と現代がつながって、一気に話がおもしろくなりました。
> こういう偶然がふわっと重なるのが、旅行の醍醐味です。遊びに来たんだと思う、数少ない一瞬です。
→本当にその通りですよね!
机上で考えていただけではありえないことに、旅先で遭遇する、だから旅は止められないのです(^-^)
前日光
-
- kummingさん 2021/08/08 15:32:49
- 遊びではない!?!
- しにあさん、奈良旅の後の精力的ブログアップ、すごいっ(°_°)
旅先には早朝に着いて、そのまま遊びではない、実地踏査、検証なのですね。夜中の3時に出発、大雨の中、「仕方ない、遊びではない!」の潔さ、あっぱれでございます。いやはや、by妻さんにおかれましては、その心中お察し申し上げますm(_ _)m私だったら、車中で仮眠を決め込み、「お一人でど~ぞご自由に」となりにけり(笑)
一般的に殿方は血湧き肉躍る戦闘シーンがお好きの様で、せっかく微に入り細に入り調査して再現、激写して頂いた今回のブログ、映像化して頂かないと、いまいちピンと来ない、うすらぼんやりな私(;o;)コメントも控えようか、と思いつつのカキコですが…。随所に記念碑的なものが有る、という事は、壬申の乱の局所的闘いの場、を巡るマニアが、日本国内に結構いらっしゃるのでしょうね。
古代の有名な会戦、アレクサンダー大王vsダレイオス3世、ハンニバルvsスキピオアフリカヌス、カエサルの『ガリア戦記』も含めて、どこどこが戦略的要衝だとか、会戦の陣形だとか、戦略、戦術、一つ一つの闘いについての描写にあまりついて行けず、いつも想像力の翼が広げられない私です。
FDII が何処かの陣地で、恒例の早朝鷹狩りに出かけた隙に、敵(ミラノ側)に拠点を襲われ、そこから坂道を転げる様に、連戦、苦戦、その辺りからページから血生臭い匂いがして来て、ページを繰る手が鈍くなりがちに…。応援してる方が勝ち進んでる間はイケイケなので、戦闘シーンそのものが嫌いな訳ではないのですが。
by妻さんのお写真、ジャンケンぽん、ではなくて、握手だったのね~♪
お薦めのmistral さんのブログ、再訪してみます^ ^
こんな的外れなカキコはしない方が良かった?ですねm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2021/08/09 17:59:31
- Re: 遊びではない!?!
- 我が家の場合、日程は事前に2人で詰めまして、B5の小さなノートに切り貼りするのはBy妻の分担でして、一応本人も覚悟はできているようです。あんまり文句は言いません。私としても柳眉は見ておりますので、逆立ちそうになると懐柔にかかります。付き合いが長いので、ほぼ限界は見当付きます。
戦場の特定は難しい。本当のところ、よくわかっていないようです。男依さん達だって、できるだけ楽な道を行きたいはずで、整備された東山道を行ったのではないか。駅は台所とか、食料の備蓄とか、多少は設備もあったので、奪い合いになっただろう。で、東山道沿いに該当しそうな地名を探すと、こうなります。実は、こういうの、大好きなんです。
壬申の乱では、陣形もへったくれもありません。とにかく書紀に書かれている以外資料はないので、専門家も私みたいなシロートも同じ条件。
FD2のあの場面、私も覚えています。あのナントカという町、もう忘れていますが、ほぼ特定できて、行くつもりだったのです。あ、また塩だ!
By妻のは握手です。ジャンケンではない。本人が言っています。大好きなんです、ああいうギャグ。一服の清涼剤と思ってください。
さっきアップした男依の下で、いよいよ「ようつべ」デビューです。ドローンもご披露。みてください。
教えていただいたように、やりました。うまくいったみたい。
- kummingさん からの返信 2021/08/09 19:25:20
- いよいよ^o^
- ようつべでびゅ~♪
楽しみにしております^ ^
-
- mistralさん 2021/08/08 14:19:34
- 因縁の不破の関?
- しにあの旅人さん
by妻さん
こんにちは。
「by妻さん」のお名前がすっかり定着してしまった感がありますが
素敵なお名前をつけられたら良いのに、と常々思っております。
今回はmistralの旅行記へのリンクをはっていただきありがとうございました。
期せずして、しにあさんの向こうを張ったように、壬申の乱での反天武天皇側、
滅ぼされる側の大友の皇子を、当時、旅行記にて取り上げることとなり
しにあさんとの因縁?を感じました。
といっても私のは単発もので、とてもシリーズ化はできませんし、徹底抗戦には
至るまでもありませんでした。
不破の関、瀬田の唐橋の現地取材、大変な雨の中で決行されたんですね。
「遊びに来ているのではない!」とのしにあさんのお言葉、まさに名言。
ならば、使命感?!ゆえ。
きっと天武さん、天武チルドレンに呼ばれたのでしょう。
チルドレンシリーズは今後も続く気配です。
楽しみです。
遺跡、古戦場跡地など旅していると、突然のようにバイクの音だったり
現代の騒音を耳にして、それまで浸ってた時空間から無理やり引き戻されるような
体験をしますね。
今回はオリンピックチームのボートの事前練習に遭遇。
瀬田の唐橋で、落とした沢山の命も、この様にはびっくりだったことでしょう。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2021/08/09 16:48:52
- Re: 因縁の不破の関?
- 旅行に来ているのに「遊びに来ているのではない」はいささか過激ですな。
若い頃のイベリア半島1周テントの旅など以来、全力ギリギリで旅行するクセがつきました。遊びに来ているのに遊べないという矛盾に陥ります。この緊張感がいい。
旅は要するに非日常を楽しむものですから、こういうのもいいかと。
ついてきてくれるBy妻に感謝です。
なんとなくBy妻になりました。本人も文句を言いませんので、このまま行きます。
mistralさんのブログがあるので、私の方も奥行きが出ます。また何かありましたらリンクを貼らしていただきます。
飛鳥奈良旅が重なりまして、まだまだストックがあります。早く書かないと賞味期限がきますので、頑張っております。おりますが、ドローンやyoutubeなどという邪道にも手をつけはじめ、なかなか先に進みません。
チルドレンシリーズは、次回(さっきアップしました)で一休み、秋に九州に墓参りに行く時、ネタを仕入れてきます。
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